複雑・ファジー小説

「女王陛下に知らせますか?」第一章③更新 ( No.8 )
日時: 2016/11/07 21:48
名前: いずいず ◆91vP.mNE7s (ID: dPcov1U5)

「……どうかした? トゥルーディ」
「い、いいえ、なんでもないわ。でもアリス、これはちょっとひどいわね」
「ちょっとなんてものじゃないわ! おかげでお客さんがみんなばかにしたような目で劇を見るの。これが三流以下の演技かって。せっかく主役を演じられたのに、理想までが遠いよぅ」
「舞台で泣いたり笑ったりするのと同じように、観客にも泣いたり笑ったりしてほしいものね、アリスは」

 テーブルに突っ伏したアリスの頭を、トゥルーディが優しく撫でてくれる。こくこくと、そのあたたかい重みにだけ伝わるようにうなずくと、
「——でも、逃げるわけじゃないのでしょう?」
 トゥルーディが問うてきた。
 アリスは即答する。
「当然だわ」

 顔をあげると、トゥルーディが満足げにアリスを見ている。
 彼女は娼婦だ。親に捨てられ、たった十三歳で体を売り、いま昼の光の中に座っている。夜の住人が昼日中に出歩くことを、昼の住人は眉を顰める。下世話な視線も、言葉も、無遠慮に投げかけられることは、まれではない。

 それでもアリスとこうやって会うためだけに、彼女は昼にやってくる。それなのに、
(一回酷評されたくらいで、逃げ出せるもんですか!)

「ウィングフィールド伯に、発言を撤回させて見せるわ」
「それでこそ、わたしの親友よ、アリス」
 このときのトゥルーディの言葉と笑顔を、こののち、何度もアリスは思い返すことになる。それほど美しく、力強く——幼いあの日、アリスの心を掴んで離さなかった万雷の拍手の中に立つ女優そのものだったから。

 それにね、と彼女は続ける。
「あなたの演技は、観るものに元気を分けてくれるわ。明るくて、はつらつとして。こんな仕事をしていなかったら、こんなふうに生きられたのかしら、って夢も見せてくれるの」
「トゥルーディ……」

「十七歳の女の子の役しかできないのなら、十七歳の女の子役ならアリスに演じさせれば世界一といわれるようになればいいの。十八歳になったら、十八歳の女の子役で世界一になればいい。二十歳になっても、三十歳になっても、それこそおばあさんになっても、その歳の役をやらせたら世界一と呼ばれるようになれば、それはもう三流以下じゃないわ、専業女優よ」

 親友の激励は規模が大きく、アリスは冗談といっているのだと、思わず彼女を見返した。けれど、世界一を目指せというトゥルーディの目は真剣で、怖気づいてとっさに目をそらしてしまった。

(世界一)

 それは、途方もない夢だった。しかし、心にある湖が、静かに、ちいさくさざ波を立てていることに気づく。

(世界一の専業女優……)

 拳を、いつのまにか強く握りこんでいた。果てしない未来に、頬が紅潮する。
「なるわ、世界一の専業女優!」
「——素晴らしい!」

 トゥルーディのその言い方が、まるでどこかの教師の物言いそのままだったので、ふたりは思わず声をあげて笑った。