複雑・ファジー小説
- Re:開幕 [6] ( No.10 )
- 日時: 2017/01/21 00:31
- 名前: 水海月 (ID: sWaVmrWQ)
- 参照: 参照300ありがとうございます!
「……何ぼんやりしてるのよ! 早く、Follow me!」
滑らかで躊躇ない英語。はっと我に返り有栖川を見ると、彼女は既に歩き始めていた。
「おい、ちょっと待てって」
部屋の一番右の扉。それの向こう側にするりと消えていく有栖川を、小走りで追いかける。閉じかけられた扉の間に手を滑り込ませて開けると、そこには薄暗い空間にコンクリートの階段が浮かび上がっていた。少し肌寒い。もう有栖川は階段を登り始めている。俺は、無言でそれを追った。まだ、頭にはさっきの綺麗な発音が残っていた。
やがて、有栖川は立ち止まる。
ぶつかりそうになって頭を引き、顔を上げると、灰色の扉と相変わらずむっとした顔の彼女がいた。扉の隙間からは、かすかに光が漏れている。この先が屋上というやつだろうか。何故か、しばらく外に出ていないような感覚がする。外の空気を吸いたい。そう思い、ドアノブに手を掛けると、べちっと有栖川の白い手で叩かれた。
「痛って!」
「……気の早い奴」
そして、ホント凪紗に似てる、と呟かれる。それだけは聞き捨てならない。どこが似ているのだろうか。俺の複雑な心中も知ったこっちゃないという顔で、有栖川は俺にまた何か言う。今度はいたって真剣な表情だ。少し戸惑う。
「……覚悟は、いい?」
「え?」
外を見るのに、覚悟?
頭の中に疑問府が浮かぶ。戦場にでもなっているのだろうか。いや、充分有り得る。有栖川が、扉に手を伸ばす。華奢な手がドアノブを力強く掴み、扉を勢いよく開け放った。
……しかし、特に何も無い。ちょっと拍子抜けだ。正面から夕日に照らされ、コンクリートの床が赤く染まったごく普通の屋上。少し眩しく感じる。大体三メートルくらいのフェンスに囲われていて、所々破れていたり、引き裂かれた跡があって、生々しい。見た目だけだと、廃墟のような雰囲気だ。まさしく、『あいつら』に襲われたような。有栖川は、すたすたとそのまま真っ直ぐ歩いていった。俺は緊張感の中、ゆっくりと一歩ずつ踏み出し、広がるスペースの中心に近付く。
だが、おもむろに視線を向けたフェンスの向こう側を見て、俺は言葉を失った。フェンスに駆け寄り、覗く。思わず、掴んだ金網をきつく握り締めた。そこには、戦場に等しい、酷い光景が広がっていた。
「……悲惨そのものだわ」
有栖川が言うまでもなく、俺にもそれは感じられた。心臓が締め付けられるような感覚。
広がっているのは、およそ東京とは思えないほどに荒れ果てた市街。
道路のセメントはあちこち掘り返され、建物はことごとく破壊されている。崩れかけた学校、倒れたビル、地面に沈みかけた病院。根こそぎ引っこ抜かれた電柱と街路樹。もう、街としての原型を一切留めていない。荒野は彼方まで続き、かなり遠くにとても高い壁が見えた。更に極め付きは、その廃墟群の間に、虚ろな紫の目をした怪物が蔓延っている事だった。間違いない、『脅威』だ。この現象の、元凶。
手に金網が食い込み、痛い。
「脅威に完全侵攻された街の末路よ。他の場所からは断絶され、街自体が死んだものとして扱われている……」
有栖川の、微かな歯ぎしりが聞こえた。
「もう、ここは見捨てられたの」
金網からずるりと手を放す。深い、深いため息が自然と口から漏れた。胸の辺りがずっしり重たい。ここは、俺の住んでいた所じゃない。でも、こうなっていたかもしれない。これから、こうなるかもしれない。しかし、そんなのは一切関係なかった。ただただ、無惨だ。目の前の風景に、底の無い絶望を覚える。東京は、これからどうなるのか。
「……もう、行かないと。『あいつら』は鼻がいいから」
「え?」
『脅威』の事だろうか。こんな高い所まで登ってくる奴なんて居ないだろう。
そう、思っていた。
「!」
ガシャン、と大きな音がし、フェンスが揺れた。体がびくりと反応する。有栖川は「あーあ」と呟き、ため息をついた。音のする方へ体を向けると、何かがフェンスに手をかけ、登ってきていた。姿を見せた影は、こちらを睨み、奇声をあげる。光る紫の目。二メートルはありそうな巨大な猿がそこにいた。思わず身構える。猿は、フェンスを軽々と乗り越え、床に着地した。さっきより更に高い、超音波のような咆哮。
悔しいが、自分じゃ何も出来ない。さっと有栖川を一瞥すると、ぞっとするような冷たい目で、『脅威』を見据えていた。あまりの気迫に鳥肌が立つ。何かが動く気配がして、猿の方を向いた。驚き、目を見開く。大きく跳び上がった猿は、有栖川に襲いかかろうと腕と口を大きく開けていた。唾液で糸を引いた牙が光る。
「あり……」
言いかけて、止めた。
有栖川は猿に向け、手をかざしている。その表情は、僅かに歪んでいた。
「【アリス・イン・マーダーランド】」
氷のような水色の目に溢れる、殺意。輝く魔法陣が、彼女の指先に現れた。
「……おいで、チェシャ」