複雑・ファジー小説

case.0 死にたがりの家出少女 ( No.1 )
日時: 2017/02/05 12:35
名前: 水海月 (ID: sWaVmrWQ)

case.0 死にたがりの家出少女



 親より早く死ぬのが最大の親不孝なら、親殺しは一体何なのだろう。

 シャッターだらけの商店街をあてもなくふらふら歩き、彼女は考える。しとしとと少しずつ、しかし確かに降りしきる雨で、だいぶ体の血は流れ落ちていた。重たい足を引きずり、ただ前へと進む背中は、消えてしまいそうなくらい危うげで寂しい。

「…………」

 歯を食い縛り、ずるずると移動を続ける彼女の目は精気が無く、虚ろで何も映していない。底無し沼のように深く、どろどろでぐちゃぐちゃした心を抱え、彼女は歩いた。


 頭の奥でちらつく、赤い記憶の残像。カーテンから漏れ出る光、転がる二つの冷たい体、鼻をつく鉄の匂い。
 記憶は鮮明なのに、まるで夢の中のように、実感はふわふわと宙に浮いている。包丁を突き刺す重い感覚、絶える間際の熱い息は彼女の手と頬にまだ残っていた。でも、それが実際に起こった事とは思えないくらいに、残ったのは薄っぺらい印象。正常で異常な、逃避するための本能が必死に働いている。犯した罪を、きれいさっぱり消してしまうために。

 今も彼女の記憶は、ほんの少しずつ薄れていく。そんなことに気付きもしないで、彼女はひたすら歩いた。あてもなく、ただただ体力と気力だけが無駄に減っていく。冷えきった足が棒のようになり、手のひらも固く握ったまま開くことが出来ない。身体が衰弱していく一方、彼女の胸の奥底では、熱い溶岩のような激しい感情がぶくぶくと膨らんでいった。仮面を被ったように無表情だった顔が、少しずつ歪む。

「……どうして」

 どうして、私が。親なんかを殺らねばならなかったのか。そもそもの原因は親だ。私に非なんてあるわけがない。どうして、人が何億といるこの日本の中で私が。私がこんな思いをしなければならなかったの? 何がいけない? 何が悪かった? わからないわからないわからないわからないわからない。
 単純で陳腐で、散々使い回されただろう台詞が、彼女の口をついて出た。

「……死にたい……」

 口に出してしまうと、溜まった激しい怒りも、自己嫌悪も、ほんの少しの悲哀も、風船のように呆気なくしぼんだ。

 雨がいよいよ勢いを増し始め、視界を塞ぐ。彼女の耳は雨音で満たされた。いよいよ限界なのか、がくがくと笑う膝を無理矢理押さえつけ、重いため息をひとつ吐く。もう歩けない。ここまで何十キロ歩いただろう。諦めに近い感情が彼女を支配する。
 古本屋と雑貨屋だろうか。古びた看板が掲げてある。彼女はそれを一瞥すると、二つの店の間の、細く、更に暗い道へと入っていった。

(……くらい)

 体へと降り注ぐ雨は消え、気のせいか少し暖かい気がした。冷たく固まった手をゆっくりとほどき、息を吹き掛ける。ぐちゃぐちゃになったズボンとパーカーが重い。
 彼女が辺りを見渡すと、大人の男がぎりぎり入れるかどうかの、とても狭い場所だった。頭上には配管が伸び、蜘蛛の巣や苔も酷い。暗く、じめじめした所だが、どこか寂しくなかった。彼女の狂い始めた頭のせいだろうか。ここで死ぬのもそう悪くはないと、ほっとした気分にもなりかけていた。
 最後の足掻きだろうが、なるべく奥の方へと行きたい。一秒でも遅く見つかりたい。そう思い、彼女は壁を伝い、一歩一歩踏みしめるように奥へ進む。何歩分か進んだ時、彼女の肩が急に跳ねた。
 何か、いる。

「……!」

 声が漏れそうになるのを抑え、向こう側を凝視する。彼女が始めに視覚で捉えたのは、ぼうっと僅かに浮かび上がった金色だった。更によくよく目を凝らす。目が暗闇に慣れた頃、やっとくっきりと輪郭が浮かんできた。それが何か分かった瞬間、彼女の表情は凝固した。
 人だ。髪の長い誰かに、金髪の男が馬乗りになっている。その手には、ぎらぎらと銀に輝く刃物。それに、彼女の目は釘付けになった。動悸が少しずつ激しくなり、胸の辺りを押さえる。彼女の心は、不安と恐怖で今にも爆発してしまいそうだった。

「はぁ……はぁ、は……っ」

 二人は彼女に気が付かない。下になっている誰かは、抵抗する様子も無く、力を抜き、リラックスしているようにさえ見える。上の男は、いよいよ刃物を上に振りかざした。




(……やめて)

 破裂しそうに脈打つ心臓。これから起きてはいけないことが起こる。そう分かっていても、彼女は目を一度も逸らさなかった。



(やめて……!)

 降り下ろされる閃光と共に、男の冷酷な瞳が見えた、ような気がした。