複雑・ファジー小説
- case:0 死にたがりの家出少女 ( No.2 )
- 日時: 2017/03/24 18:25
- 名前: 水海月 (ID: sWaVmrWQ)
「お帰り……ねぇ、何その荷物?」
木のカウンターに腰掛け、雑誌を開いていた茶髪の男が瞬きする。
声をかけられた人物は、何かを背負った青年だった。翡翠色の瞳に鋭い光を宿し、乱暴に入り口の扉を閉める。激しい音と共に、扉に取り付けられた黄金のベルが煩く鳴り響いた。ぐっしょりと濡れた青年の体からぼたぼたと雫が滴り、あっという間に床を濡らす。その様を見て茶髪の男は、「ちょっとちょっと」とため息をつき、首を横に振った。
「まったく、休業日だからって……掃除はさっきしたばっかりなんだけどなぁ……」
男の半ば呆れたような声を気にも留めず、青年はすたすたと歩いて行く。そして、フロアの隅のソファの上に、背負っていたものを投げ飛ばした。投げ飛ばされたものは、ぐったりとソファに横たわり、動く様子も全くない。
「だから、それもお客が座る……って、それ人間だったのかぁ」
今更驚いた風に目を丸くする、男の間延びした声。雑誌を勢いよく閉じて立ち上がる。さっとソファに歩み寄り、まじまじとその人物を眺めた。
その人物は、まだ成人していなさそうな少女だった。顔は青白く、こけてはいるが、なんとなく整っている感じが伝わってくる。長い黒髪はボサボサで、ずぶ濡れの服も所々破けている惨めな姿だった。しかし、男を何より驚愕させたのは、その体の細さ。まるで枯れ枝のように頼りなく、腕や脚などは、少し力を入れたら折れてしまいそうな程に細い。
「……この子、どうしたの?」
少女から視線を外し、男は問う。青年は何も答えず、近くの椅子にどっかと座った。相変わらず眼光は鋭いままで、何もない壁をただ睨んでいる。そんな様子に男は、またため息をついた。踵を返し、用具入れからモップを取り出す。水溜まりが出来た床を拭きながら、男はまた問いかけた。
「……依頼の邪魔でもしたの?」
「いや、客だ」
簡潔に青年が述べる。男は一瞬動きを止めた後、首をかしげ、無言で次を促した。
濡れた金髪をかき上げ、青年は無表情のまま続ける。
「そいつ、言ったんだ。『殺して』って」
気が付くと、彼女は一歩踏み出していた。
狭い空間に、ざりっ、と砂の音が響く。
それに金髪の男が反応し、上体を上げた。怪訝そうな目で彼女を見た後、驚きの表情を浮かべる。男は、誰かに刺さった刃物を引き抜いた。そこから滴る鮮やかな色に、彼女は見覚えがあった。
気が付くと、彼女は走り出していた。
もうそんな余力など、何処にも残っていないはずなのに。
金髪の男が立ち上がり、刃物を持ったまま逃げようとする。しかし、彼女の方が速かった。横たわる誰かを飛び越え、血溜まりを踏みつけ、男の腕を掴んだ。男は強い力で抵抗するが、何故か刃物を使う様子は無い。男の目には焦りと驚き、そして、必死に自分の腕にすがりつく少女が映っていた。涙を流し、歯を食い縛り、そんな細い体の何処から出るのかも分からないような力で、男の腕を引っ張っている。よく見ると、少女は男から刃物を奪い取ろうとしていた。それに気付いた男の耳に、「お願い」と小さな声が届く。直後、少女が震える声で叫び出した。
「お願いお願いお願い……!!! それを、それを貸して下さい……っ!」
男は舌打ちをし、少女を突き飛ばす。不意を突かれた少女は、簡単に床に転がった。男はそのまま足早に去ろうとする。しかし、その足に絡み付く物があった。青白く浮かび上がった少女の手だ。少女は鬼気迫る形相ですがりついて男を足止めするも、首に容赦無い蹴りを何度か入れられ、ついに後方へ飛ばされてしまった。頭から地面へと激突し、鈍い音が鳴る。
少女の視界はぐらりと揺らいだ。男は身構えながら、なおも立ち上がろうと半身を起こす少女を見つめる。
少女が力尽きる寸前のその時、小さな呟きを、男の耳は捉えた。
「その刃物が……駄目、なら……」
「私を、殺してください」
……立ち尽くす男の足元で、血溜まりは少しずつ広がっていく。