複雑・ファジー小説
- Re: 世界は君に期待しすぎてる ( No.1 )
- 日時: 2018/03/24 02:40
- 名前: 浅葱 游 ◆jRIrZoOLik (ID: J/gUjzFh)
『土砂降りレイニー』
「伊織って奴を犯したい」
「——はあ?」
目の前の友人が目を丸くして、僕を見る。その視線に気付いてはいるが、素っ気なく、手元の携帯に目線を移した。何も今すぐにという訳では無いのに、驚きすぎだろう。
「てか伊織って誰?」
熱々の鉄板に載るハンバーグを切りながら尋ねる友人に、「再婚相手の子ども」とだけ説明する。父さんが幸せならいいよとは言ったものの、まさか連れ子がいるとは思っていなかった。
少し困ったように唸る友人に、携帯に保存されていた伊織の写真を見せる。どうしたらこんなに差ができるのか。精巧な人形のように整った男が、無愛想に写っている。
「幸太よりかっけー」
「当たり前。外人の血入ってるらしいよ」
「ハーフかっけー」
クォーターだけどね、なんて言葉は伝えるのをやめて、携帯に視線を戻した。わざわざ伊織の事を伝えてやる必要も無いし、伊織のことを誰かに話したいとも思えない。
リスみたいにハンバーグを頬張る友人は、既に伊織の話に興味はないらしかった。食欲の湧かない僕のハンバーグも食べる友人を見て、グラスに入ったコーラを飲み干す。
「俺さ、お前のこと幸太って呼ぶのやめようか?」
唐突なその申し出に、ピタリと動きを止めてしまう。
「お前さ、幸太って呼ばれんの嫌だべ?」
「あー……」
僕の曖昧な返事に、友人はやっぱりなと笑った。まさかバレているとは思わなかった分、相手から言われた事に動揺してしまっている。バレた原因は分からない。
「真弘に呼ばれるのは、まあ、別に何ともない」
口をついて出たのは、嘘だった。出来ることなら名前を呼ばれたくない。僕自身は相沢幸太であるのに、相沢幸太であることが間違いのように感じられてしまう。そんな深いきっかけをきっと真弘は知らない。
真弘は軽く返事をした程度で、深く聞いてくることはしなかった。昔から変わらない、いい奴だと思う。真弘以上に僕を理解する人は誰もいない。
「犯したいって、どういう意味合い?」
数口で大きなハンバーグを平らげた真弘が、じっと僕を見た。
「野郎のケツを掘る趣味はないよ」
「だよな」
僕はそもそもゲイじゃなければ、そういう性癖があるわけではない。安心したような真弘は水を一口飲む。同じように、僕も口に水を含んだ。思っていたより、口の中は乾いていたらしい。
ぼんやりと雨が止みつつありそうな窓の外を見つめる。少しずつ傘を差さないで歩く人が増えてきているようで、もうファミレスで時間を潰す必要は無いように感じた。
「行くべ」
「ん? おー」
大して中身の入ってないカバンを背負い、レジへ向かう。伊織からきていた連絡は、無視することにした。あいつは、僕が嫌ってることをしらないのか。
それぞれで支払いを済ませて店から出て、そのまま別れる。真弘は年上の彼女と会うらしい。僕はすることも無いから、まっすぐ帰路へつく。そういえば明日提出の課題があったなと、水溜りに足を突っ込んで気が付いた。
止んでいたはずの雨は家に近づくほど勢いを強め、靴だけ濡れていたはずの僕は、全身水浸しになってしまった。素肌にワイシャツが張り付く何とも言えない気持ち悪さに、舌打ちがこぼれる。
照れ隠しなのか、太陽が厚い雲に隠れるせいで、水に打たれた体はすぐに冷えていく。身震いと同時に出たくしゃみ。あと少しの道のりが、いつもより遠く感じた。
「……ただいま」
周りの家より、少しだけ綺麗な我が家の扉を開ける。母さんが買ってきた芳香剤は、いつもと変わらない香りで僕を迎えた。父さんに僕の好きな香りをリサーチしたらしいが、柑橘系であれば何でもいい。
びしょ濡れになった靴と靴下を脱ぎ、ぺたぺたと床を鳴らしながら洗面所に向かう。制服をすべて脱ぎ、干してあった部屋着を着る。
「おかえり」
「……ん」
移動したリビングで、勉強していた伊織と目が合った。分厚い参考書と、もう残り少なくなっているノートは、常に努力を惜しまない姿が投影されているようで、気持ちが悪い。
「風呂沸かせたから、濡れてんだし入れば」
メガネを指で押し上げながら、ぶっきらぼうに伊織は言う。うっすらと感じた汗のにおいと、ベタつく肌に、大人しく再び洗面所に向かった。
着ていた服は洗濯機に投げ入れ、風呂場に入る。少し居心地の悪さを感じる湿気に、息を吐き出した。伊織は僕の悪意に気が付いていない。僕しか知らない悪意は、ひっそりとその姿を大きくしていく。
伊織はしこりみたいな奴だ。知らないままでいられたら、何も感じない。けれどひとたび存在に気が付いてしまえば、鬱陶しさすら感じる。伊織並に嫌った人間は、今のところいない。
湯船の湯をかぶってから、湯の中に体を沈める。少しぬるめで、父さんが好きな温度だ。きっと今日も仕事に追われてるだろう父さんを思えば、今の暮らしに我慢もできる。
「幸太、母さんが今日ご飯食べに行かないかって」
曇ガラス越しに話しかけてくる伊織のぼやけた姿を捉え、気付かれないようにため息を飲み下した。
「父さんどうすんの」
「義父さんも仕事終わったらしいよ。今二人でいるってさ」
父さんとご飯が食べられること自体は嬉しいが、そこに他所の人間がいるという事実に、ため息が漏れそうになる。父さんにとっては僕も伊織も大切な子どもなのだろうけど、僕からしたらただの余所者でしかない。
急にやってきて、僕の母と兄という役割を持っていった。僕の母さんは、たった一人しかいないのに。
「……分かった。すぐ出るから」
「分かったよ」
伊織の姿が見えなくなったのを確認して、浴槽からあがる。いい加減に髪と体を洗い、風呂場から出た。ご丁寧に用意されていたバスタオルに嫌な気持ちになるが、新しいものを出すのも面倒なのでそれを使う。
鏡越しに見る自分の姿は、想像よりも色が白く、いつ消えてもおかしくないような漠然とした不安に包まれていた。生気が宿っているとは言いきれない顔をして、辛そうに日々を消化しているんだろう。
それもこれも家族が増えたせいだ。そう思い込んで生活しているからだろうか、こんなに日々がつまらないのは。お互いを親子だと、兄弟だと思うことができれば、こんな悩みも生まれないのだろうか。
火照った体に水を浴びせる。この燃え上がるような気持ちも全部、熱を帯びていた体と同じように冷えてしまえばいい。そして今よりもずっと、居心地よく過ごすことができたら、父さんも余計な心配をしなくて済む。リビングの方から聞こえた自分の名を呼ぶ声に返事をしながら、浴室から出た。
- Re: 世界は君に期待しすぎてる ( No.2 )
- 日時: 2018/02/21 22:40
- 名前: 浅葱 游 ◆jRIrZoOLik (ID: T6wpv4l5)
雨が上がったみたいだったけれど、まだ分厚い雲が残った空のせいで、いつもより街は薄暗い。湿度も高く、先ほど風呂に入ったばかりだというのに汗が背中をつたう。隣を歩く伊織は一人だけ涼しげで、腹が立った。自分よりも高い身長も、頭が良い事実も、全部が嫌いだ。
「幸太は晩御飯何食べたい? 俺はあそこのイタリアンにまた行きたいんだけど」
安価だけど味は一級品だよねと笑いかけられる。携帯にしか逃げ場がない僕は、無視を続けて真弘と連絡を取り合っていた。
「幸太は学校で仲良い子いるの?」
「……それ知って何になんの」
思ったよりも強い口調になってしまった。伊織の気持ちなんて考える必要は無いのに、横目で見た伊織が寂しそうに笑うからむしゃくしゃした気持ちになる。真弘といる方がもっと気持ちは穏やかだ。伊織は僕のことを理解していない。理解しようともしていないのだろう。
小さな声で聞こえた謝罪が、いっそう行き場のない怒りを膨らませた。持っていた携帯が手の中で震える。いまどき珍しいメールを開いた。差出人は父。伊織と僕の現在地を知りたいとのことだった。その場で写真を撮り、父に送り返す。あいにく普段通らない道を通っているから、住所が分からなかった。父ならきっと分かるだろう。
伊織は携帯を操作しながら、辺りを見回していた。傍から見れば変人だなとぼんやり思い、その姿を写真に収め真弘に送る。真弘の返信を待たずに送ったため、既読がつくのは速かった。「すご」とだけ来た返信に、脈絡のないスタンプを送り携帯をしまう。気付けば隣にいなかった伊織が、先の方で僕を呼んでいた。伊織のさらに先に、父と母親を見つけた。
長年の夫婦のように、母親は父の腕に手を絡ませている。嬉しそうに笑う父が良いのなら、仕方ないけれど耐えることしかできない。父の幸せを僕が邪魔するわけにはいかなかった。
「急でごめんね、二人とも。幸太も帰ってたみたいで良かった」
「平気」
母親には軽く会釈をする。何故だかこの母親は好きになれない。伊織以上に掴めない性格が、漠然とした嫌悪感を生んでいる。けれど父にはその嫌悪感がないようで、今も嬉しそうに母親と笑いあっていた。きっと父は母さんを母親の中に探してる。そう思うだけで気持ちが楽になる。
父を挟んで母親と伊織が並ぶ。僕はその後に続いた。家族団らんを楽しめる気分はなく、ひたすら真弘とやりとりをする。気が楽だ。冗談を言い合える。互いに必要以上に干渉しないから、この関係は続いている気さえしてくる。ああでも、あいつ今彼女といるんだったな。
「幸太!」
「えっはいっ」
「あらあら。きっとぼーっとしてたのよ、紀貴さん」
ぼんやり真弘のことを考えていたせいか、父が僕を読んでいることに気が付かなかったらしい。父に笑いかける母親が、僕を嘲笑しているように感じてしまう。
「幸太は何食べたい? 伊織はイタリアンが食べたいらしいぞ」
「あー……」
きっと父も母親もイタリアンが食べたいのだろう。父は昔からパスタとピザが好きだった。最近は仕事が忙しそうで外食なんてできていなかったから、伊織の提案が嬉しいはず。
「任せる」
特に食べたいものがない僕は、面倒な選択を家族に託した。胃に入れば何を食べても変わらない。誰と食べたかによってしか、味は変わらない。相沢家として外食や食事をする限り、出されるものは味のない固形物でしかないのだ。
楽しそうに笑う三人を見つめながら、母さんがいたら僕もあそこにいたのだろうかなんて空想が浮かぶ。父さんの幸せを最優先したあの日、違う選択をしたなら今は来なかったのだろうか。
退屈な夕食の時間が終わり、夜の街を歩いていく。星の見えない空から、また雨が降り、僕の髪を濡らしていた。寄るところがあると嘘をついて、アテもなく夜道を歩いてる自分は何がしたいのか分からない。仕方なく同じ道を反対側から歩いてみたり、野良猫しか居ないだろう路地を歩いてみたり。唯一アーケードの下を歩いていた時だけ、雨は僕を濡らせなかった。
六月は嫌い。数年前いなくなった友人がそう言っていたのを思い出す。
「雨は汚いよね」
「雨は汚いもんだべ。なに言ってんの」
「うーん、君とは汚いの定義が違うみたい」
「は?」
「いやあだってさ、汚れるって意味じゃないし。雨はやり方が汚いの」
男か女かよく分からない友人だった。肩までの髪に、整えられた眉。可愛い男のようで、格好良い女のようでもあった。真弘はそいつを嫌って、影では雑種と呼んでいた。雑種はいつも笑顔を貼り付けていた分、気持ち悪がられていたんだろう。初めての友人は、知己のおかげで疎遠になった。
雑種なんて惨めなあだ名だよな。
今こうして現実と向き合えない僕自身も惨めだけどね。
当時の真弘の陰口に答えるには、今の僕が出向く必要があるかもしれない。笑って同調しているだけで、仲良くしてくれる友人なら楽だ。何も考えずに、その行いに付いていけばいい。
『っわりーわりー! 今時間あったか?』
真弘からの着信に出ると、焦ったような声が聞こえた。
「あー……うん。今家帰ってるところだから、うるさいけど」
画面の時刻は既に22時を回ろうとしており、帰らなくては補導されてしまうなとぼんやり感じた。それでも薄暗い路地は僕を離そうしなくて、壁に寄り掛かったまま通話を続ける。
『問題ねーよ。幸太さー、あのー、中学ん時のよー、あいつなんだっけ。えーっと……ちょい待って』
「もしかして雑種?」
中学時代の嫌な思い出。真弘との繋がりさえ脅かすような、誰も知らない存在。名前を出したのは、雨の降る様にそいつを思い出したからだった。通話越しの真弘が急にいつもの勢いを取り戻す。
『そう! そいつさ、帰ってきたの知ってっか!? 中学ん時にあのブスいたべ、あいつが飯行ったってインスタ載っけてたぞ!』
「真弘お前、彼女以外ブスって言うから誰か分かんねぇわ」
『あーっと、朝日奈圭織!』
朝日奈という名前に、用意していた言葉が出なかった。
『ちょい後からかけ直すわ! 彼女待たせてんだ』
したらな、と一方的に通話が切られる。トーク画面にメッセージは無く、虚しさを感じながら画面を消した。聞くはずもないと思っていた名前を聞いた衝撃は、僕を家に戻すには十分すぎるものだった。
「ただいま」
あかりの灯るリビングを無視して、真っ直ぐに自室へと戻る。棚の引き出し、上から三つ目。誰にも開けられないようにと鍵をかけていた。財布の中から小さな鍵を取り出し、棚を開ける。A3用紙が入り切らない程度の大きさをした棚の中いっぱいに、可愛らしい手紙が入っていた。その封筒のどれもに、「相沢幸太くんへ」と書かれている。
それらを全てだし、床に散らばす。懐かしさと、思い出したくもない気持ち悪さが喉元まで迫った。その中から一通、クローバーが用いられたシンプルな封筒から手紙を取り出す。間違っていなければ、小学校高学年の時に朝日奈から貰ったものだ。
- Re: 世界は君に期待しすぎてる ( No.3 )
- 日時: 2018/03/24 02:40
- 名前: 浅葱 游 ◆jRIrZoOLik (ID: J/gUjzFh)
丸い文字で書かれた、ひらがなばかりの手紙。その一文に、目が止まる。
「……大畠、暦」
そうだ、あいつは雑種なんかじゃない。下校時も放課後も、僕は一度だってあいつに向かって雑種と呼びかけたことはなかった。こよみ。全てを俯瞰していたような男だった。自分のことに興味はない、家族もだよ、ねえどうしてか分かる……。切なげに笑う暦を見たのは、何年も昔のことだ。それなのに、鮮明に思い出されるその表情。思わず口元を手で覆った。気味が悪い。大畠暦はそういう奴だ。
大畠と朝日奈は昔付き合っていると噂されていた。僕がそれを知ったのは、クラスの女子達に糾弾された真弘を見た時だった。泣く朝日奈に「もうしねぇから」とぶっきらぼうに言っていた気がする。思い返せば、井口くんって私のこと好きだったのかな、なんて感じちゃうんだ。そんな一文が、この手紙の山に紛れていたかもしれない。探してみるか、と数個中を開いただけで読み返すのをやめてしまった。
手紙を棚にしまい、部屋着に着替える。髪は濡れていたけれど下に行くのも億劫で、そのままにすることにした。明日提出の課題を出し終われば、創立記念日を合わせた三連休が待っている。金曜の授業は午前で終わるから、その後にでも街へ行こう。静かな暗闇に包まれながら、布団に潜り込む。運が良ければあの人に会えるな。淡い期待を胸に残し、眠りについた。
「幸太朝だぞー」
「ん……」
早く起きろと言わんばかりに「幸太ー」と呼びかけられる。時刻は五時。いつもと変わらない起床時間。僕が早起きをするせいで父さんも早起きの習慣が付いているんだなぁと、何回考えたかも分からないことが浮かんできた。脱ぎっぱなしにしていた服を拾い、リビングへ向かう。父さんと僕しか飲まないコーヒーの良い香りが、階段にもやってきている。
「おはよー……」
まだ寝ぼけ気味で、父への挨拶には欠伸が混じった。今日は課題の提出と、放課後街に行く予定がある。授業をサボって朝から街に行きたい気持ちもあるけど、他のクラスの輩が補導されて謹慎処分をくらっていたから控えないとな。父からの「おはよう」を聞き流し、真っ直ぐ風呂場へ向かった。昨夜の雨と寝汗でベタつく肌が気持ち悪い。
「父さん今日は何時に帰ってくんの?」
「抱えてる仕事が終わりそうだから全部終わらせようと思ってるけど、何かあったか?」
父子水入らず、そんな表現が一番合っているんだろう。朝、風呂から上がった後のコーヒーブレイク。情報番組のアナウンサーが楽しそうに笑う声を流し、僕らはコーヒーとトーストを頬張る。父が不思議そうに見てくるから、口に入れたトーストをさっさと咀嚼し飲み込む。
「特に無いけど、お母さんも遅いの?」
父の前だけで呼ぶ、お母さんという呼称。頭の中では一度も呼んだことがない。どうしたって好きになれないのだ。伊織もお母さんも。
「もしかしたら遅いかもしれないな」
「ん」
どうせ一緒に帰ってくるんだろうな。コーヒーを飲んで熱くなった体は、誰にも見せることがない不安や怒りを温めている。取り扱い注意の札でも貼り付けて生活したいなと考えながら、空になった食器を流しへ運び、水にうるかす。
「うるかすってさー方言なんだって」
表面張力を発揮するコーヒーカップ。多少の揺れなら水は零れない。裏を返せば、想定外の外力で簡単に中の水は零れる。可哀想な程に呆気なく。タオルで手を拭きながら父を横目で見れば、新聞に夢中になっているようで、僕の言葉は独り言になってしまったらしい。僕の言葉はそんなのに負ける程度のもの。だから父はお母さんの言葉しか聞こえていない。僕の伝えたいことを知らない。鼻の頭を掻き、学校の準備をするため部屋に戻った。途中ですれ違ったお母さんには何も言わなかった。
結局手をつけなかった課題と筆入れ、それと念の為スパイクをカバンに入れる。ファイルを持ち歩かないから、カバンの底にはクシャクシャになったプリントたちが溜まっている。端の繊維が柔らかくなる頃、必ずプリントは裂け目が入った。今も、裂け目の入ったプリント達がカバンの底を埋めている。一ヶ月と少し先にある林間学校の同意書だって、カバンの肥やしだ。真弘が「林間学校って響きがエロいよな。リンカンだぜ?」と言っていたせいだ、行く気が起きないのは。
クローゼットにしまっていた学ランを、だらしなく着る。Yシャツはボタンを開けて中のインナーが見える。ズボンに裾を入れるなんて考えはなく、ズボンを留めるベルトが見えないようにシャツを出した。袖をまくり、上着を持って、何も言わずに外へ出た。まだ七時にもならない外を、足先に留まる冷たい空気が支配している。それでも寒いと感じないのは、夏を熱望する太陽のせいだろう。冷たい空気を肺に取り込みながら、背中を太陽に焦がされる。冷たくて、熱い。矛盾する不可思議なこの時期が意外と好きだ。
自転車を漕いでいくと、背中にじっとりと汗をかいた。駅までの十分の道程も、緩い坂道が加わっているから登下校はいい運動になる。体に密着するインナーの背中だけでなく、脇も濡れている感覚がした。朝一番の電車を待つホームはいつも見慣れたお爺さんと、スーツを着た二十代くらいの人がいる。どちらかがいない時や、どちらもいない時があるが、きっと二人とも平日に休みがあるのだろう。学生とは違い、休みらしい休みが取れているのかは知らないし、仕事がどれだけ大変なのかも分からないけれど、スーツを着た人は前より窶れた印象だ。もうすぐ電車が来る。無機質な女性の声で鳴るアナウンスを聞いてから、青色のイヤホンを耳につける。聞くのは最近知名度が上がってきた、あるソロミュージシャンの曲だ。
——有り余ってる時間を悪戯に溶かしていく、どうすればいいのかわからない、それもわからない。
静けさの中に熱い何かがある歌声。この人を僕は何年も前から知っていた。表現が難しい哀愁あるサウンドを聞きながら電車に乗りこみ、一人も座っていないボックス席に腰掛ける。車内は既に冷房が効いており、乗客が手動でつけた扇風機が回っていた。汗ばんでいた体が急激に冷やされ、身震いする。寒いのは嫌だな。——かけがえのないものはなんだろうな、踵鳴らしながら待ちぼうけだ。そんな歌詞に耳を傾け、目を閉じた。学校の最寄まで四十分。カフェインが効かない内に、まだ残っていた眠気に身を委ねる。
いつも通り、降りる駅の手前で目が覚めた。斜め前に座っていたお爺さんに、弛緩した自分の足がぶつかりそうになっていて慌てて足を引く。
「すいません」
取ってつけたような簡単な謝罪。お爺さんはゆるく微笑むだけだったが、その方が楽だった。上着を脱いで持ち、カバンを背負う。汗はすっかり引いていた。先頭車両の、一番奥にある扉。そこに一早く並んでドアが開くのを待っている時が、最近幸せになってきた。耳元ではミュージシャンが変わらず歌っている。一音一音が染み込んでくる感覚がする。容赦ない日差しを浴びながら、欠伸を噛み殺した。いつもと変わらないアナウンスが入ると、後ろに並ぶ人がわずかに増えた。特急に乗り換える人、同じ駅で降りる人、同じ学校に行く人。この分岐点で皆は何を思うのか。そんなどうしようもない、どうでもいい事を考えながら電車を降り改札を抜けた。日差しは家を出た時よりも容赦なく、地面を温めている。跨った自転車で風を斬れば、心地よさだけが生まれた。
- Re: 世界は君に期待しすぎてる ( No.4 )
- 日時: 2019/04/23 21:08
- 名前: 浅葱 游 ◆jRIrZoOLik (ID: dD1ACbVH)
「おーっす」
「はよー! なあ幸太! 聞いたかあの噂!」
噂なんてあんのと聞き返しながら、自分の机にカバンをかける。ついでに邪魔な上着も。
「知らねえのかよ!」
頭を抱えたオーバーなリアクションで、クラス一うるさい男が残念がる。まだ僕とそいつしかいない教室は、雑音がないお陰で声がよく通った。
「そういうのさ、いーからさ、奈良間の言ってるさ、その噂? ってやつ知りてーんだけど」
机三つ分離れたまま、そう伝える。すぐ、奈良間が嬉しそうに口元を釣り上げた。部活になると熱血漢なのに普段はなぁ。ぼんやり思いながら、イヤホンに触れて曲の音量を下げる。ずんずん近付いてくる奈良間は手にメモ帳を持っていた。
「なんとな! この学校に転校生が来るんだってよ!」
「転校生? こんな意味わかんねー時期に?」
「まあ確かに不思議な時期であるけどな、でも転校生だぜ? うわー可愛い子だったらどうしよう! 惚れちまうかもしんないな!」
調子がいいなと笑いつつ、もしかしたら大畠かもな、なんて思う。二年生が始まって二ヶ月。偶然は重なると前読んだマンガで言っていた気がする。気がするだけではあるが、それは事実になり得る可能性だってあるはずだ。もし大畠だったら真弘はどんな反応をするのか。嫌そうな顔をした後で、子どもっぽく、おい雑種、なんて声をかけるのだろうか。
「とりあえず課題終わらしてからまた話すべ」
「あーおう! したら俺隣行ってくるわ!」
奈良間が出ていくと、耳に入る音はイヤホンからの楽曲だけになる。転校生か。大畠かな。ぼんやりと考えながら、カバンから出した課題を埋めていく。勉強が好きだ。分からないことが一つずつ分かるようになり、その探究心と好奇心が満たされる感覚がするから。アーティストが言葉を紡いでいくのに耳を傾け、ひたすら課題を進めていると、続々とクラスメイトが登校してくる。簡単な挨拶と世間話を交えながらでも、課題はあと一問を残すのみだ。偏差値の低い高校でよかった。きっとこれが進学校であったなら、夜の内に終わらせなくてはいけなかっただろう。
簡単な問題をさっさと終わらせ、教卓にプリントを置く。出席番号は一番目。いつ置いても、僕の上にプリントが積まれることはない。ざわざわと話し声が広がり始める中、欠伸をしながら教室に入る真弘と目が合った。お互い片手を挙げて挨拶をし、いつも通り真弘の机に集合する。首元に見える赤い痕。彼女からのマーキングを甘んじて受けるあたり、今回の子には本気なんだなと思うことが出来る。
「はよ。転校生来るって知ってる?」
椅子に腰掛けた真弘に問いかけながら、空いていた前の席に座る。真弘は眠そうだった目を輝かせ、「それさあ」と嬉しそうに言った。
「雑種じゃね? この時期ならここか、箔星だろ? 少し遠いとこなら荘一もあるけどきっついべ」
「大畠頭良くなかったもんな」
「おー」
海暝は受かったとしても、箔星や荘王大附属第一高校は無理というのが真弘の、大畠への見立てらしい。中学の頃を思い出すが、たしかに大畠の頭がよかったという記憶は残っていない。猛勉強の末に秀才になったのだとしたら凄い事だが、それさえも僕らは否定していた。自分以外は特にどうでもいい、そんなスタンスが僕らの根本にはある。だからこそ付き合いやすい反面、深い話をすることはない。
「首のそれ、隠さねーの?」
自分の首の根元あたりを、つんつんと指差す。
「あっちは色々大変みたいだけどな、俺は別に恥ずかしいもんでもねーからさ」
それに可愛い彼女が付けてくれたし、と満足そうな表情で言う。高校生なのにお盛んだなとは思うけれど、どうせ殆どの男連中は経験済みだろうなと思えば、特に何を思うこともない。それが当たり前であるだけ。有り得ないとうるさくいう人もいなければ、最低だと騒ぎ立てる人もいない。僕らは良くも悪くもクラスメイトという枠からはみ出ることはない。昨日の夜は熱い夜だった。そう続けた幸せそうな真弘の話を聞きながら、SHRまでの時間を過ごす。教師が入ってくる少し前に席に戻り、チャイムと同時に教室に入ってきた教師の話を聞き流す。窓を開けているのにあまり風が抜けない。日差しを避けるために使うカーテンのせいだ。
きっかり八時三十分鳴ったチャイムと同時に、担任が入ってくる。教室全体を見た後、「課題は日直が集めて持ってくるように。一時間目は自習で、二時間目は整列して体育館に来るように」と言って教室を出ていった。四十分に鳴るチャイムまで時間があり、真弘と話しをしようと思い立った所で、机に入れていた携帯に通知が来た。短いバイブレーションが二回。携帯の指紋認証をクリアし、通知バーを指で下ろす。見た事の無いアカウントからのフォロー通知を疑問に思いながら、それをタップする。すぐに開いたアプリが、アイコンとユーザー名とを表示した時、思わず声が漏れた。まさか。画像欄やユーザーページを何度も見返す。
『これから転校の挨拶だー!友達出来ますように!てか知ってる人いそうで緊張すんだけどwwwwとりあえず中学の頃の友達はいるみたいなんで頑張ってくかー!(゜∀゜ )』
最新の投稿がつい数分前にされていた。ローマ字で表記されたユーザー名は、たしかに自分の知っている友人で、下スクロールをすれば海暝高校の正門が映る写真があった。指を二本立てて、嬉しそうに笑う短髪の男子。本当に、大畠か。指先で画像をなぞると下からバナーが飛び出し、保存の有無を訪ねてくる。申し出を消し、携帯をスリープモードにした。急に廊下の奥からわっと湧き上がる声が聞こえた。
クラスメイト達が何事かと廊下を出ていくが、皆心のどこかで転校生を見たい気持ちがあったんだろう。自分もその一人で、嫌がる真弘を隅にある四組に連れていく。一人だと気まずいじゃんと言うと渋々来てくれるのだから、いい友人をもったと思う。真弘が自分に甘いだけだと言うのは、分かっているつもりだ。けれどしばらくは甘えさせてもらう予定でもある。真弘は僕のこの気持ちに気がついているのだろうか。
「大畠くんって出身ここなんだ! おかえりだねー!」
胸が、締め付けられる。大畠だ。あれは本当に大畠だ。面影をなくした背の高い男に成長している。何人もの女子生徒に囲まれて、その真ん中で照れくさそうに笑っていた。その顔に面影はあった。けれど、当時と比べて男らしさがある。性別の分からなかった、雑種みたいによく分からない人間ではなくなっていた。
「どれ、あれ雑種か?」
「うん——」
声を掛けるべきだろうか、いや、あくまでも大畠は僕と真弘の被害者だ。そう考えていくと、同じ学校になってしまったことに焦りを感じる。もし廊下で鉢合わせたら。もしクラスまで忘れ物を借りに来たら。あの時の仕返しをされてしまうのではないだろうか。
「……クラス戻っぞ、あんなんどーでもいいべや。あいつに影響されるって思う方があずましくねぇ」
つまらなそうに言い、先に戻って行く真弘を見つめる。僕は、何もせずに戻っていいのだろうか。今自分がどんな気持ちを持っているのか正解なのか、分からない。
- Re: 世界は君に期待しすぎてる ( No.5 )
- 日時: 2018/02/21 22:53
- 名前: 浅葱 游 ◆jRIrZoOLik (ID: T6wpv4l5)
大畠は見たことがないくらい眩しい笑顔を振り撒いていた。当時からは考えられないと思いながら、真弘を追うように、結局クラスへと向かった。もうすぐ一時間目の授業が始まってしまうため、転校生を見に来ていた他の生徒もそれぞれのクラスへと戻っていく。黄色い声で大畠の話をする女子達が、横を通り過ぎて行った。
クラスに戻り、席につく。真弘は携帯を弄りながらクラスメイトの安渡と話していたが、どこか詰まらなさそうに見えた、きっと大畠のことか、彼女のことを考えているんだろう。僕もそうだ。アプリを開き、大畠のアカウントを見れば、フォロワー数が大きく増えているのが分かった。
「人気者じゃん」
物珍しさもあったんだろう。こんな頭の悪い学校に、しかも今という微妙な時期に転校してくる生徒なんて数年に一度あるかないかだろうから。アプリの下部に、青い通知バナーが表示された。それは今僕が開いているユーザーからのもので、小さく肩が跳ねる。途端に心臓が激しく鳴り始めたせいか、プラスマークを押す指先が震えてしまった。
なんだか今世紀一番の緊張をした気がする。現代文の授業準備をしながら、ふと、どうして真弘は転校生が大畠だと見立てることができたのだろうかと疑問が浮かぶ。何万といる高校生の中で、どうして転校生が大畠だと決めつけたように話していたのだろうか、と。それに朝転校生の話をした時は嬉しそうだったはずだ。大畠を見た途端に、つまらなそうに素っ気ない雰囲気に変わった。
真弘が急に不機嫌になることは少なくないが、それは決まって彼女からの連絡があった時。教員が教室に来ても集中が続かない。真弘のことや、このつまらない評論の読み取りをさせられていても睡魔がやってくるだけだ。朝練を済ませた外部の連中も、頭を下げていたり、横に揺れていたりと、それぞれ睡魔と付き合っている。何も考えたくないなと、その光景を見て思えば、意識が遠のくまでは早かった。
「幸太ー、次体育だけど行かねーのかー」
「……行く」
クラス長の声だと思えば、しっかり頭が理解する前に体は学ランを脱ぎ、ジャージを着る。クラス長と教室を出る頃から、ゆっくりと頭がすっきりしてきた気がした。
「今日何組と合同だっけ」
「四組。はっしーいないんだって」
「ゲロじゃん」
いつもは偶数組と奇数組で別れる体育の授業が、今日に限って隅組と中組で別れるのはタイミングが悪すぎる。それもこれも体育教師であるはっしーの不在のせいだが、呪ってやろうかとすら思ってしまう。海暝の良心と一年の時から言われているクラス長は、まあ仕方ないよね、と楽しそうに笑っていた。
昨日の雨でぬかるんだグラウンドは使い物にならないらしく、まっすぐ体育館へと向かう。天気はまだ不安定で突然雨が降るかもしれないよ。そうクラス長は言うが、肌をじりじりと焼くような陽射しの今日は雨が降らなさそうに見える。実際に近くの山もきれいに見えているのだから、突然天気が変わるようなことはないだろう。
「一緒にサボっちゃったりとかしねえ?」
午前授業だけど。こんないい天気になることは、この時期少ない。それならその大切な一日をつまらない授業で潰すのは惜しいと思うのは、普通の事のように感じた。クラス長はいいねと笑ったけれど、きっと冗談だと取られたのだろう。
「もう整列してるかと思ったけど、まだみたいだね」
「これほぼ一組うるせーじゃん」
開放された重たい金属製の扉から、大声で笑う男子の声に負けないほどの声量で女子が騒ぐのが聞こえた。二学年で一番うるさい一組と、平均を集めたような四組では、男子の過ごし方も違っている。僕とクラス長は四組の集団を横目に見ながら、奈良間や真弘がいる空間へと真っ直ぐに向かった。途中女子の中にいた大畠と、目があった気がしたのを無視しながら。
「連れてきたよ」
「おー幸太に春輝! 来ねーかと思ったべや!」
「幸太まじで寝すぎだから、春輝可哀想だろ。誠也が起こして起きなかったんだぞ」
奈良間と真弘の発言に、クラス長もとい春輝が笑う。
「まさか現文寝ると思わなかったんだよ」
「まあつまんなかったけどな」
真弘の言葉にそれぞれが頷く。誰が書いていてもどうでもいい評論を読まされ、指示語が示す文を探し、内容を咀嚼して理解し、結論を導く。真弘が言う通りつまらない授業で、僕の意識がとんでいった事も必然のはずだ。それにそんなつまらない作業をするよりも、体育で汗をかく方がよっぽど楽しい。二組と三組は二時間とも座学だったはずだから、なんだか可哀想だ。
「つーか大畠くん人気すぎて引くんだけど」
ステージの上で胡座をかく奈良間が、数人の女子に囲まれる男子生徒を指さす。昔は女子と変わらないか少し小さかった背丈も、今や女子より頭一つ分高い。春輝と同じくらいの背丈だろうか。
「あわよくばってビッチもいそうじゃない?」
「いやいるだろ。あれ、三宅じゃん? あわよくばってか絶対ワンナイト狙ってる」
春輝と真弘の会話を聞き流しながら、大畠の周りにいる女子達を見ていく。三宅は一年の時から男関係の話題には必ず登場する。最近だと、野球部の部長と部室でやっていたのを、一年生が目撃したという噂が流れていた。
「化粧落とした顔で抱けるかも問題じゃね?」
そう零すと、三人とも面食らったような顔をする。そして、今日一番と言えるほど大きく笑い出した。近くにいたクラスメイト達に怪訝そうな視線を向けられている気がするが、三人とも笑いをこらえようともしていない。
「いやっ、お前、それはだめだろ!」
奈良間が目尻に涙を浮かべながら言うが、しっかり否定しているわけではなかった。
「ケバいからしかたねーじゃん、俺はナチュラルが好きなんだよ」
そう吐き捨てるように言ったのが面白かったのか、さらに三人が笑い出すから、恥ずかしさがお腹の底から湧き上がってくる感覚がして身体が熱くなる。きっと耳は赤くなっているはずだ。
「ふふっ、チャイム鳴ったから並ぼ」
春輝の言葉に、奈良間と真弘がステージから降りる。僕らは顔を見合わせて、また悪戯っ子のようにニヤリと笑った。はっしーの代わりに来た和田の大声に従って整列し、準備体操を始める。前に出た体育委員の女子がジャンプのたびに胸を揺らすから、僕は視線のやりどころに困った。
熱い体育館の中でドリブル音が響き、網を通る心地よい音が鳴る。網を隔てた奥には、女子が男子同様にバスケをしていた。自由なチームで良いぞと和田が言うから、僕と春輝はステージの隅で座っている。先程まで試合に出ていた奈良間は汗だくのまま、四組の和に入っていっていた。今は、大畠と真弘が試合をしている。
「互角だね」
「お互いバスケ部なしだからなー」
得点は互いに四点。真弘は何度か決めようとしていたが失敗し、今はアシストをメインに立ち回っている様子だ。
「幸太はバスケしなくていいの? 俺は運動嫌いだから隠れてるけど」
「こんな暑いのに無理無理」
カーテンを閉め、体育館中央の扉を閉め切った室内は、バスケの激しさと陽光のせいで暑すぎるくらいだ。
「あ、大畠くん決めた」
「おー」
大畠くんか。知らない人から見た大畠は感じのいい男の子なのだろうか。女子が少し騒がしくなっている様子だったが、男子の声でかき消される。コート中央に戻る途中の大畠をぼんやり見ていると、今度はしっかり大畠と目が合った。背中を一滴、汗が滑る。
- Re: 世界は君に期待しすぎてる ( No.6 )
- 日時: 2018/03/28 07:38
- 名前: 浅葱 游 ◆jRIrZoOLik (ID: J/gUjzFh)
反射だった。目が合ったと理解した瞬間、僕は隣に座る春輝を見た。話の続きだったからだろう、春輝は訝しがることもなく同じ話題で話をする。それどころではない心境だったが、無理をして春輝に話を合わせた。内容は入ってこないけれど、それは仕方がないことだった。成長した被害者に会うと、こうも罪悪感に苛まれるものなのか。何もしていないのに、背中とTシャツが張り付く、そんな不快感を味わう。
「こーたー、チェーンジ!」
「春輝と幸太早く出れー、奈良間と休憩すっから」
春輝との会話をどう切り上げられるか考え始めたところで、額や首筋に汗をかいた奈良間と真弘が戻ってくる。奈良間は脇毛が見える寸前まで袖を捲り上げ、それでも足りないというように、襟元を摘んで服の中に風を送っていた。真弘も普段通りの様子で声をかけてくるが、額も首筋も汗に濡れている。コートを見ればクラスメイトが手招きしていて、行かなくてはいけない空気になっていた。
仕方なく春輝とコートに行く。相手のチームに大畠はいないが、現役のバスケ部が二人いるという、なんとも初心者には優しくない編成だ。負け戦にはさせないと思いながらも、鳴らされたホイッスルと共に飛び出すことは出来なかった。
汗だくのまま教室に戻ってきた男子一同に、女子は冷ややかな視線を送ってくる。体育の授業でのかっこいい姿に夢を見ているのか。真弘は近くの女子に制汗スプレーや清涼剤を借りている様子だった。気付けばいつも真弘の様子を追っていると自覚し、気持ちわりぃと心の中で愚痴る。
制服を着に行く女子や帰ってきた女子達の流れをぼんやり見て、教科書や他の荷物をまとめる。今日は大事な先輩との予定がある日だった。高体連の前だったが、時間を作ってもらっていることが嬉しくもある。
制服は雑にカバンに放り込み、スパイクを持って急ぎ足で玄関へと向かう。ジャージで帰ることを見越して履いてきた白のハイカットスニーカーに足を滑り込ませ、上履きを下駄箱へとしまう。このまま自転車で駅に向かえば、予定より早く着くはずだ。イヤホンを挿し、アップテンポのナンバーをかける。——教えてよねえ、言えないまま飲み込んだ言葉の行方をさあ。
背中が冷たい。片側に流れる前髪が坂道を下る最中、風に従って後ろへ流れる。広い路側帯の真ん中を突っ切り、点滅する青信号にぎりぎりでエントリーする。バスケ終わりの太腿は疲れがピークに達し、緩いアーチのてっぺんから足を放り出して風を受けた。駅までの直線、ちょうど青信号になった五つの信号機と戦うために、一度大きく深呼吸をしてハンドルを握り直した。
足にうまく力が入らない中で切符を買い、予定より早く着く電車に乗り込んで、大きく息を吐いた。冷房が一気に体の表面の熱を冷やしていく。家の最寄りを越え、街の方へと向かう。キオスクで買った焼きそばパンを麦茶で流し込みながら、流れていく風景をぼんやりと眺める。吹きっさらしを通過し終えると、少しずつ住宅やビルが多くなった。こっちと比べりゃ、海暝は田舎だなぁとぼんやり思う。
去年の秋頃だろうか、ファミレスで奈良間が愚痴っていたことを思い出す。海暝が田舎だの民度が低いだの言うけど星学も荘王も田舎だし馬鹿もいんじゃん、つーか俺らのこと下に見てないでおめーらの学校の中で上見とけよな。前日奈良間は姉に馬鹿にされたらしく、数日ほど機嫌が悪かったなぁ。星学——私立箔星高等学園——へ向かう度、そんな話を思い出した。民度が低いと言われることはあるけれど、それでも社会の常識やモラルを破る奴はいないのに、勝手なことばっかり言われて腹が立つというのが僕と春輝の気持ちだった。真弘は笑っていた、お前が怒れんのは海暝愛が強いって証拠じゃねーの。いいことじゃん、と。その姿がいやに大人びて見えて、その話題は流れた気がする。
気が付けば曲はいくつも進んでいたようで、目的の駅まであと数分。他人の話し声や音漏れを耳に入れないように、二つ、音量を上げた。密閉型イヤホンから流れる曲に集中する。曲を支えるベースとドラムの音を探していたら、嫌な事も忘れられる。
そろそろかと、席を立ち扉の前に並ぶ。相変わらずこの駅で降りる人は多い。学生らしき姿の人は僕くらいしか居らず、少し不安になる。切符をポケットの中で手に握り、流れに乗って電車を降りる。我先に降りようとする人が割り込み、エスカレーターの右側を駆け足で降りていく。その様を少し見つつ、携帯を開くと約束の人から、東改札口とメッセージが届いていた。エスカレーターを降り、掲示板を確認しながら目的の改札を抜ければ、その人はいた。
「大輝さん! ちわす!」
「久しぶりだなー幸太、昼飯食った?」
まだ初夏と言うのには早い時期であるが、大輝さんの肌は浅黒く、駅にいるどの人よりも日焼けしているように見える。自分も平均身長より五センチほど高いが、大輝さんはそれよりも高く、体格もいい。さすが全国常連の砲丸投げ選手だなと、感心してしまう。
「昼飯は食ったんで、今日もよろしくお願いしゃす」
「おう」
背中を強く叩かれ、小さな呻き声がもれた。大輝さんは気付いていないのか、そのまま大きな歩幅で歩いていく。その横に並んで歩き、星学を目指す。陸上用トラックが使われなくなって何年も経った海暝の生徒は、練習で星学へ行くことが多い。最近赴任された元星学教諭の計らいとの事だったが、元がやる気のない集まりだったため、今も星学で練習するのは僕と、この場にいないもう一人くらいだ。
「お前そろそろ肌も焼いてったらどうだ?」
「え、勘弁してくださいよ」
なよっちいと言われたりもするが、夏になれば自然に黒くなる。
「俺はほら、ほどよいってやつで良いんで」
「何がほどよいだよ」
いい加減なやり取りをしていれば、すぐに目的の場所——私立箔星高等学園——が見えてきた。住宅街から少し離れた位置にある、大きな学校。この学校を象徴するものは、大きな時計塔と、その南側に示された大きな銀の文字盤、東側に施された大きな校章。一見主張が激しく感じられるけれど、星学に通う生徒は皆堂々としているように見えるから、生徒のらしさすら演じていると思えば、絶妙に周囲とマッチングしているような気がする。マッチングというかなんというか、ただ海暝には出せない雰囲気があるのはたしかだ。
「大輝さんさ」
「ん?」
「もしかしなくても、俺にこれやらせようとしてたでしょ」
「気のせいだろ」
そういう大輝さんは意地悪い笑みを浮かべ、芝に座り込んでいる。周りの陸上部員から向けられる哀れみにも似た視線。今両手に持っているのは女子用の砲丸で、トラックの端にある砲丸投げの練習場で立たされている。砲丸投げは今ままでほとんど触れてこなかった。たまたま顧問がいないから、たまたま部員の集まりが悪いから、そんな時にたまたま僕が来たから。そんな理由だけで、僕は今砲丸投げをやらされそうになっている。
部長がいないせいで、楽しい事大好き人間佐藤大輝が暴れているのだ。大輝さんが副部長だなんて由々しき事態であると言えるけれど、実績と人となりだけを見れば納得はできないにしろ理解はできる。二年生の時から副部長になるほどすごい人であっても、こうして僕みたいな他校生に無茶振りをする人は適していないだろ。そう思いながら、先程砲丸投げをした生徒の見様見真似で構えをとる。
女子用だとしても特別筋力トレーニングをしているわけでもない僕の腕は、少し悲鳴をあげていた。小さな円形の、今の僕が動ける唯一の範囲。この狭い範囲で自分の最大限の力を出す。トラックのレーンよりも閉鎖的な空間は、普段は感じない緊張感を僕にもたらした。意地悪そうに笑う大輝さんの「いいぞー」との声に、一度深く呼吸をする。仕方ないと覚悟を決めて、空に、重たい砲丸を投げ出した。
- Re: 世界は君に期待しすぎてる ( No.7 )
- 日時: 2018/04/12 22:44
- 名前: 浅葱 游 ◆jRIrZoOLik (ID: sPkhB5U0)
「つっかれた……」
今日の練習を一言で表すなら、過酷、だろう。星学が誇る表彰台ゲッターは体力バカで、それを他人にも強要して、強要した本人もこなして、一緒になって汗を流して楽しむ。どう足掻いてもこの人はバカだ。そんなバカみたいな人に触発される自分も大概だけれど。部員のほぼ全員が芝に寝転がっていて、立ち上がろうとする人は今のところいない。立ったままでいるのは、終了時間ギリギリに来た部長くらいだ。
「楽しかったべ?」
「バカじゃん大輝さん……」
楽しそうに大口開けて笑っているが、この人は今さっき部長に怒られたばかりだ。ざまあない。
「いつまでも座ってないで、みんな帰んなー。大輝は居残りで日誌書きなさいよ」
その部長の言葉に、部員達はだらだらと部室へ向かって歩いていく。
「じゃーね大輝さん、今度はちゃんと砲丸してるとこ見っから。したっけねー」
「おう、またな」
大輝さんにそう言い、部長に会釈をして部室前のベンチへと向かう。肩と背中が少し痛い気がする。慣れない筋肉は使うべきじゃなかったと思いもするが、星学陸部達との距離が少なからず縮まった実感もあるから、大輝さんは全部悪いという訳ではない気がした。副部長のくせにバカすぎるけど。制服に着替えて出てきた部員達に挨拶をしつつ、荷物を持って校門を出た。
オレンジ色の街灯が、まだ夕方にしては明るい道を照らす。耳にイヤホンをつけ、たまにはとアイドルの楽曲を再生した。奈良間が姉のせいでハマらさったと言っていたアイドルに、僕と春輝はすぐに魅了された。魅力的だった、何もかも。真弘は興味ないと言っていたけれど、今日のこの番組に出るらしいぞと教えてくれるあたり、素直じゃないだけなのだろう。
曲が最後のサビに差し掛かる頃、駅につき、電車の時間を確かめるため改札上の電光掲示板を目指す。途中のドーナツ屋は大半が女性客らしく、楽しそうに笑う人達がいた。特有の甘く、食欲をそそるにおい。部活の後でさえなければ買って帰っていたが、今日は体力バカのせいで疲れすぎた。食べることよりも、早く汗を流して眠りたいという欲ばかり出てくる。時刻は七時をまわる頃。あと5分後に出る電車に乗るため、ホームへ向かう。みどりの窓口で駅員と話す外国人やキャリーケースを持つ人も多く、羨ましさを感じる。いつものメンツで遠出するのもありだな、美味しい海鮮とか。重たい脚を上げ、そこそこの段数をのぼる。段数が特別多い訳では無いけれど、部活後の疲れた体には辛いものがあった。
電車に乗り込むとすぐに扉が閉まる。その扉に寄りかかり、足の間にかばんを下ろした。混む車内で、幸せそうな四人の星学生徒が見えた。アイドル達のデビュー曲を聞きながら、その四人を目で追う。何を話しているのかは分からないけれど、きっとカップルなのだろうな。星学の制服は、少し大人っぽさもある分、自分のとことは違う。制服ではなくて良かった。奈良間の姉も星学だが、星学でも海暝の悪い噂は流れているらしいから、不必要に怖がらせることもないだろう。海暝はただのバカの集まりなのに。ああ、だからか。運良く快速に乗れたおかげで、行きよりも速く様々な駅に電車が停まる。星学生は空いた席に座り、談笑していた。その奥の空は深く色付いて、鏡のようになっている。ちょうど最寄り駅に着くアナウンスが鳴り、カバンを背負い、扉が開くまで待つ。アイドルのアルバムは二周目の再生が始まっていた。元気づけられる歌詞とメロディに耳を傾けながら、電車を降りた。地元の暗がりが、僕を待っている。
「ただいまー……」
今日はたしか、父さんの帰りが遅かったはずだった。朝、父とした会話を思い出し、リビングに向かう。晩御飯はカレーライスだろうか。電気だけがつくキッチンに、カバンも背負ったまま向かう。鍋蓋を外すと、具材が大きく切られたカレーライスが入っていた。色的に辛口だろうか。炊飯器も既に保温状態らしく、どうぞ食べてくれと言ってきているようだ。部活が楽しかったからか、家に帰ってきても心がわくわくしているのは久しぶりかもしれない。階段を上がり、自室に入る。机の横にカバンを置き、クローゼットからパンツとスウェット、オーバーサイズのTシャツを出す。はっきり言って風呂に入るのも面倒くさいほど体が重たい。
けれど晩御飯のためには風呂を済ませる必要がある。いつも通りの行動をしないと、次の日、体調を壊しそうな気がしてしまう。肩をぐるぐると回しながら風呂場へと向かう。着ていたものを脱ぎさって、タオルとバスタオルを用意する。鏡で見た自分の体は貧相で、筋肉のおかげというよりも、脂肪も筋肉も足りないから腹筋が割れて見えているだけのようだ。ようだ、ではなく事実だろうけど。
床も壁も白いタイルで飾られた風呂場は、母さんが選んだと昔父さんが言っていた。僕の知らないところで、母さんは面影を残してくれている。哀しい。母さんのことを想って過ごしている事実が、僕に逃れられない哀しさを与えている。嫌な気持ちが湧き上がってくる、冷水に設定し、シャワーを頭から浴びる。冷たい。けれど、母さんに対する、今まで感じたことのないような汚い気持ちが溢れるのは、とまらない。疲れすぎているのかもしれなかった。シャワーを止め、ため息を漏らす。家にいると、息が詰まる。
湯船に浸かりながら思うのは、父さんが話す母さんのことだった。可愛い女の人だったよと笑って話していた父さんは、本当は泣きたかったんじゃないだろうか。ここ最近母さんの話をしなくなった父さんは、息苦しくないのだろうか。
「ほのかさんって言うんだ。ほら、前に話してた再婚の……」
嬉しそうだったな。父さんは笑顔で、ほのかさんも笑顔だった。伊織はいい子ちゃんにしていて、なんだか人形みたいだと思った気がする。話に聞いていた母さんと、ほのかさんは真逆な人だった。可愛く活発というより、大人らしく物静かで、物腰も柔らかい女性。ピクニックやドライブが好きだった母さんとは違い、家でのんびりと過ごしたり、庭でランチをするのが好きな人。どっちが良いのかは分からないけれど、伊織も、父さんも、ほのかさんと一緒に笑って楽しんでいた。楽しくないわけではなかったのだと思う。けれど素直に楽しむことが出来なかったのは、事実だった。再婚の後押しは僕からだけでなく、母さんからもあったらしいただそれを割り切れないのだ、僕は。
今も変わらず、僕はほのかさんが苦手だ。苦手だと理解すればするほど、ほのかさんが嫌いになっていく感覚がする。あの人の目は僕に向けられていない。母さんの思い出が、父さんの心が、全部さらわれていくような、漠然とした不安。
「……腹減った」
憎いだとか嫌いだとか、そんなチンケな言葉で表せるほど、素直な気持ちじゃない気がする。湯船からあがると、筋肉痛で体が悲鳴をあげた。重たい肩を上げ、頭の先から水分を取っていく。指先はしわくちゃで、真っ赤になっていた。体の熱が落ち着かないまま下着と服を着る。使い終わったバスタオルやタオルを洗濯機に投げ入れ、新しいタオルを首元に巻く。いっそ風呂に入らずに生活することはできないのか。ペタペタ音を立てて歩く。
「あら、お風呂入ってたの?」
「あー、まあ。……飯作ってたんすね」
リビングでくつろぐ母親に、僅かに言葉が詰まった。帰宅して時間が経っているのか、仕事着であるスーツを脱ぎ、シンプルな白のパジャマを着ている。父さんと色違いのパジャマだろう。ほのかさんと結婚してから、父さん達はペアグッズを持つようになった。
「紀貴さんがね、幸太くんはカレーライスが好きって聞いてたから、頑張ってみたの」
そうして、柔らかく笑う。
- Re: 世界は君に期待しすぎてる ( No.8 )
- 日時: 2019/03/27 21:28
- 名前: 浅葱 游 ◆jRIrZoOLik (ID: /AtcWqBj)
「ああ……だから」
「ええ、少し具材も大きく切ってみたのよ。もうすぐ伊織も帰って来るから、幸太くんも一緒に食べない?」
首筋から滑る水滴が、Tシャツに湿る。一瞬何も考えられなくなった。
「……やることあるんで、先食います。洗い物は済ませるんで」
寂しそうに笑ったほのかさんに、胸がちくりと痛んだ。どうしてこの人からの好意を受け取ることができないのか、まだ分からない。戸棚から皿を出し、白米を盛りカレーをかける。いい匂いがした。ほのかさんも言っていた通り、具材は大きく切られている。ほのかさんが来た当初は、一口大に切られた具材がたくさん入っていた。それを美味しそうに伊織は食べていたし、父さんだって笑顔で食べていた。
「うま」
空腹は最高のスパイスと言われる所以が分かる。カレー美味いしか考えられない。大きなじゃがいもをスプーンで切り、食べる。カレー発明した人に将来的になんか貢ぎたいレベルでカレーが美味い。ほのかさんの手前静かに食べるが、気持ちの上ではダンスが止まらない。美味いぞカレーライス。大輝さんのせいで体が痛いのもどうでも良くなるほど、カレーが美味くて仕方ない。あっという間に空になった皿をシンクに持って行き、洗い物を済ませる。
美味しかった。久し振りにほのかさんの作った食事を食べた気がする。リビングで音楽番組を見るほのかさんは、ちょうど奈良間が好きだと言っているアイドルを見ていた。心の中で美味しかったですと伝え、部屋へ向かう。
椅子に座り、引き出しから一つ手紙を取る。今まで返事が出せずにいた、朝比奈への手紙。随分前に貰った手紙も捨てられず、返事も出せずに置いていたものを今になって出した理由は、特になかった。大畠を見たからかもしれない。あの瞬間、確かに目が合った。目が奪われる感覚だった。あの感覚は、人生でたった二回しか味わったことがないくらい、稀有で心に強く残るものだったように思う。
大畠は変わった。身長はもちろんだが、人と屈託なく笑っていた、あいつは。雑種と呼ばれていたあの頃からは、考えられないほど眩しかった。二枚目の便箋に手を伸ばした時、カバンからメッセージの通知音がする。奈良間がテレビを見て騒いでいるのかもしれないと想像するだけで、面倒くさいが、笑みがもれた。
「んーと、あった——?」
大畠暦さんがあなたをグループに招待しました。
「は?」
思わず声がもれた。携帯をいじっていない手は自然と口元を隠す。なぜ、大畠が僕のアカウントを知っている? 誰だ教えたのは。拒否するか悩んでいると、奈良間から通話の呼び出しが鳴った。まずは落ち着くべきだと、すぐさまその通話に出る。
『おーっす! 見たかMysherry! すっげー可愛かったよな! もうまじで乙葉可愛すぎてアップ来るたび死んだわ』
「俺飯食ってたから見てねーけど、可愛かったのは伝わった」
鼻息荒く、いやー可愛かったー! と繰り返す奈良間に、いい加減な相槌を返す。
「それだけのために通話かけてきたのか?」
『ちげーよ、俺そこまで暇じゃねーからな! これからMysherryのライブDVD見んだよ! あ、そうそう伝えたかったのは、大畠がお前のアカ知りたがってたから教えたからな。連絡行ってるかも』
「お前明日覚えてろよ」
何か言いかけていた奈良間を遮り、通話を切る。バカなのかこいつ。けれどこの大畠は、あの大畠だと決まった。どうしろっていうんだ僕に。グループのメンバー欄を見ると、僕と大畠以外に、あーちんという名前があった。大畠の友人だろうか。見覚えのないアイコンで、それも人ではなく風景であるため、見当もつかない。大畠の友人だろうか。拒否する選択もあった。けれど僕の指は、少しの躊躇いの後、参加ボタンをタップする。
緊張しているのか鼓動が早くなった。他にやる事はあったが諦め、ベッドに寝転ぶ。あーちんの一言やホーム画面、タイムラインを確認していると、通知音が鳴った。それは大畠からであり、仰向けでそれを見た僕は、キーボードの打ちやすいうつ伏せになる。
『こんばんは』
『こんばんはー。幸太くんだよね? 中学一緒だった大畠だよー』
『奈良間から聞いてる。急に何? 高校で大畠に関わるつもりないよ』
既読1と表示されるまま、僕は大畠とやり取りを続ける。画面越しの大畠が何を考えているのか、まだ分からない。もし僕が真弘にこの事を話せば、真弘はまた大畠に対して何かするのだろうか。違うなと、そう思った。真弘は自由人だ。自由人が持て余した暇を潰すために、当時の大畠は使われた。そこに大きな理由はない。僕が何かされようと、そもそも僕は人に話さないじゃないか。自分の中で大切に育てた悪意は、誰にも見せないうちにきっと僕は処分している。その処分の仕方は、僕自身知らないけれど。
『突然なんだけどさ』
メッセージ欄に、何、と打ち込んだところで、大畠から次のメッセージが飛んでくる。
『幸太くんさ、俺達の復讐に協力してくれない?』
『俺達は井口真弘に復讐するつもり。達っていうのは俺とあーちんね』
『俺の中学時代を壊した井口真弘と、あーちんの青春を踏みにじった井口真弘に復讐する』
『幸太くんだって思ってたんじゃない? どうして真弘は俺を雑種って呼んでるんだろうって。女を取っかえ引っ変えしてる理由はなんなんだろうって。違う?』
返事をする間もないほど、連続で送られてくる大畠からのメッセージは、そのどれもから真弘に対しての怒りが滲んでいるように見えた。真弘への仕返しを復讐と呼んでいることに、背筋が冷える。大畠からのメッセージは止まらない。当時の真弘が抱いていたであろう悪意、人となり、行い、性格、発言。その全てを否定し、真弘の隣にいた僕を、大畠と同じ被害者だと言うのだ。だって幸太くんは、僕のことを気にかけていたでしょう、と。
その一つ一つにメッセージを送ろうとしたけれど、大畠が吐き捨てるように送ってくるメッセージを見ていると、僕が真弘に対して何を思っていたのか、今真弘に何を思うのかが分からなくなってしまった。友情はいつまでも不滅、なんてくさいことを話した事はないけれど、友情が揺らぐことはないと思っていた。
『幸太くんさ』
それからメッセージを送ってこない大畠に、何、と返事をする。尋ねなくても、何を言われるかなんて本当は分かっていたと思う。
『一緒に復讐しようよ』
心臓が掴まれた感覚がした。僕が思いついていた提案。心臓が早鐘を打つ。携帯を持つ手が、じんわり、熱を帯びた。復讐という言葉が理解できないまま、指先が震える。息が荒くなっているのが自覚出来た。僕が、大畠と、何のために。僕には真弘に復讐する理由がなかった。
『しないよ。真弘は友達だから』
必死に打ち込んだ言葉を送信し、携帯をベッドに置く。大畠はたしかに変わった。あの頃の、真弘に雑種と呼ばれ、下に見られていた頃の大畠はいないんだと思い知らされた気分だ。僕にはそれが裏切りのように思えてしまっている。大畠に嫌がらせをしていたのは真弘だ。そして僕は、助けてと懇願するような目をしていた大畠を、見ない振りしていた。
どうして。自分にそう問いかけるが、答えは出てこない。僕はどうして真弘と一緒になって、大畠を遠ざけたんだろう。あの時の僕が大畠をどう思っていたのか、それすらも思い出せなくなっていた。想像でしか昔の自分を語れない。仰向けに戻り、瞼を閉じる。思い出される断片的な記憶から、少しずつ思い出を探していく。
あの時何があったのだろう。何が始まりだったのかは、やはり思い出せない。容姿が気に食わなかったのだろうと思っていたけれど、本当に僕は大畠の容姿が気に食わなかったのかさえ、曖昧で、事実ではないような気がしてしまう。瞼越しに淡く映る蛍光灯の光に、電気を消さないといけないことを思い出した。朝比奈への手紙は、また今度書こう。起き上がり、携帯に充電器をさす。フォンと小さな音がして、充電が開始されたことが分かった。電気を消し、来た道を戻った。
ベッドに寝転んでからも、考えはおさまらない。今の僕は、当時の僕を見て、きっと大畠のことが嫌いだったんだろうと考える気がした。事実大畠の事は真弘だって良く思っていなかった。僕だけが大畠を嫌いだと思っていたわけでは、ないのだろう。目を閉じて、何度か寝返りを打っている内に、雨音がしていることに気が付いた。時に雷を連れて降る雨は、時間が経つほど雨脚が強くなっている。
明日は道がぬかるんで、学校へ行くまでに制服は濡れてしまうだろう。着替えるためにジャージを持って行かなくてはいけない。悶々とした大畠への気持ちを、雨音に消す。思い出した頃に襲ってきた筋肉痛に眉をひそめつつ、遠くにいる睡魔へ手を伸ばした。
■土砂降りレイニー 終