複雑・ファジー小説

Re: 世界は君に期待しすぎてる ( No.2 )
日時: 2018/02/21 22:40
名前: 浅葱 游 ◆jRIrZoOLik (ID: T6wpv4l5)

 雨が上がったみたいだったけれど、まだ分厚い雲が残った空のせいで、いつもより街は薄暗い。湿度も高く、先ほど風呂に入ったばかりだというのに汗が背中をつたう。隣を歩く伊織は一人だけ涼しげで、腹が立った。自分よりも高い身長も、頭が良い事実も、全部が嫌いだ。
「幸太は晩御飯何食べたい? 俺はあそこのイタリアンにまた行きたいんだけど」
 安価だけど味は一級品だよねと笑いかけられる。携帯にしか逃げ場がない僕は、無視を続けて真弘と連絡を取り合っていた。
「幸太は学校で仲良い子いるの?」
「……それ知って何になんの」
 思ったよりも強い口調になってしまった。伊織の気持ちなんて考える必要は無いのに、横目で見た伊織が寂しそうに笑うからむしゃくしゃした気持ちになる。真弘といる方がもっと気持ちは穏やかだ。伊織は僕のことを理解していない。理解しようともしていないのだろう。
 小さな声で聞こえた謝罪が、いっそう行き場のない怒りを膨らませた。持っていた携帯が手の中で震える。いまどき珍しいメールを開いた。差出人は父。伊織と僕の現在地を知りたいとのことだった。その場で写真を撮り、父に送り返す。あいにく普段通らない道を通っているから、住所が分からなかった。父ならきっと分かるだろう。
 伊織は携帯を操作しながら、辺りを見回していた。傍から見れば変人だなとぼんやり思い、その姿を写真に収め真弘に送る。真弘の返信を待たずに送ったため、既読がつくのは速かった。「すご」とだけ来た返信に、脈絡のないスタンプを送り携帯をしまう。気付けば隣にいなかった伊織が、先の方で僕を呼んでいた。伊織のさらに先に、父と母親を見つけた。
 長年の夫婦のように、母親は父の腕に手を絡ませている。嬉しそうに笑う父が良いのなら、仕方ないけれど耐えることしかできない。父の幸せを僕が邪魔するわけにはいかなかった。
「急でごめんね、二人とも。幸太も帰ってたみたいで良かった」
「平気」
 母親には軽く会釈をする。何故だかこの母親は好きになれない。伊織以上に掴めない性格が、漠然とした嫌悪感を生んでいる。けれど父にはその嫌悪感がないようで、今も嬉しそうに母親と笑いあっていた。きっと父は母さんを母親の中に探してる。そう思うだけで気持ちが楽になる。
 父を挟んで母親と伊織が並ぶ。僕はその後に続いた。家族団らんを楽しめる気分はなく、ひたすら真弘とやりとりをする。気が楽だ。冗談を言い合える。互いに必要以上に干渉しないから、この関係は続いている気さえしてくる。ああでも、あいつ今彼女といるんだったな。
「幸太!」
「えっはいっ」
「あらあら。きっとぼーっとしてたのよ、紀貴さん」
 ぼんやり真弘のことを考えていたせいか、父が僕を読んでいることに気が付かなかったらしい。父に笑いかける母親が、僕を嘲笑しているように感じてしまう。
「幸太は何食べたい? 伊織はイタリアンが食べたいらしいぞ」
「あー……」
 きっと父も母親もイタリアンが食べたいのだろう。父は昔からパスタとピザが好きだった。最近は仕事が忙しそうで外食なんてできていなかったから、伊織の提案が嬉しいはず。
「任せる」
 特に食べたいものがない僕は、面倒な選択を家族に託した。胃に入れば何を食べても変わらない。誰と食べたかによってしか、味は変わらない。相沢家として外食や食事をする限り、出されるものは味のない固形物でしかないのだ。
 楽しそうに笑う三人を見つめながら、母さんがいたら僕もあそこにいたのだろうかなんて空想が浮かぶ。父さんの幸せを最優先したあの日、違う選択をしたなら今は来なかったのだろうか。

 退屈な夕食の時間が終わり、夜の街を歩いていく。星の見えない空から、また雨が降り、僕の髪を濡らしていた。寄るところがあると嘘をついて、アテもなく夜道を歩いてる自分は何がしたいのか分からない。仕方なく同じ道を反対側から歩いてみたり、野良猫しか居ないだろう路地を歩いてみたり。唯一アーケードの下を歩いていた時だけ、雨は僕を濡らせなかった。
 六月は嫌い。数年前いなくなった友人がそう言っていたのを思い出す。
「雨は汚いよね」
「雨は汚いもんだべ。なに言ってんの」
「うーん、君とは汚いの定義が違うみたい」
「は?」
「いやあだってさ、汚れるって意味じゃないし。雨はやり方が汚いの」
 男か女かよく分からない友人だった。肩までの髪に、整えられた眉。可愛い男のようで、格好良い女のようでもあった。真弘はそいつを嫌って、影では雑種と呼んでいた。雑種はいつも笑顔を貼り付けていた分、気持ち悪がられていたんだろう。初めての友人は、知己のおかげで疎遠になった。
 雑種なんて惨めなあだ名だよな。
 今こうして現実と向き合えない僕自身も惨めだけどね。
 当時の真弘の陰口に答えるには、今の僕が出向く必要があるかもしれない。笑って同調しているだけで、仲良くしてくれる友人なら楽だ。何も考えずに、その行いに付いていけばいい。
『っわりーわりー! 今時間あったか?』
 真弘からの着信に出ると、焦ったような声が聞こえた。
「あー……うん。今家帰ってるところだから、うるさいけど」
 画面の時刻は既に22時を回ろうとしており、帰らなくては補導されてしまうなとぼんやり感じた。それでも薄暗い路地は僕を離そうしなくて、壁に寄り掛かったまま通話を続ける。
『問題ねーよ。幸太さー、あのー、中学ん時のよー、あいつなんだっけ。えーっと……ちょい待って』
「もしかして雑種?」
 中学時代の嫌な思い出。真弘との繋がりさえ脅かすような、誰も知らない存在。名前を出したのは、雨の降る様にそいつを思い出したからだった。通話越しの真弘が急にいつもの勢いを取り戻す。
『そう! そいつさ、帰ってきたの知ってっか!? 中学ん時にあのブスいたべ、あいつが飯行ったってインスタ載っけてたぞ!』
「真弘お前、彼女以外ブスって言うから誰か分かんねぇわ」
『あーっと、朝日奈圭織!』
 朝日奈という名前に、用意していた言葉が出なかった。
『ちょい後からかけ直すわ! 彼女待たせてんだ』
 したらな、と一方的に通話が切られる。トーク画面にメッセージは無く、虚しさを感じながら画面を消した。聞くはずもないと思っていた名前を聞いた衝撃は、僕を家に戻すには十分すぎるものだった。

「ただいま」
 あかりの灯るリビングを無視して、真っ直ぐに自室へと戻る。棚の引き出し、上から三つ目。誰にも開けられないようにと鍵をかけていた。財布の中から小さな鍵を取り出し、棚を開ける。A3用紙が入り切らない程度の大きさをした棚の中いっぱいに、可愛らしい手紙が入っていた。その封筒のどれもに、「相沢幸太くんへ」と書かれている。
 それらを全てだし、床に散らばす。懐かしさと、思い出したくもない気持ち悪さが喉元まで迫った。その中から一通、クローバーが用いられたシンプルな封筒から手紙を取り出す。間違っていなければ、小学校高学年の時に朝日奈から貰ったものだ。