複雑・ファジー小説

Re: 世界は君に期待しすぎてる ( No.3 )
日時: 2018/03/24 02:40
名前: 浅葱 游 ◆jRIrZoOLik (ID: J/gUjzFh)


 丸い文字で書かれた、ひらがなばかりの手紙。その一文に、目が止まる。
「……大畠、暦」
 そうだ、あいつは雑種なんかじゃない。下校時も放課後も、僕は一度だってあいつに向かって雑種と呼びかけたことはなかった。こよみ。全てを俯瞰していたような男だった。自分のことに興味はない、家族もだよ、ねえどうしてか分かる……。切なげに笑う暦を見たのは、何年も昔のことだ。それなのに、鮮明に思い出されるその表情。思わず口元を手で覆った。気味が悪い。大畠暦はそういう奴だ。
 大畠と朝日奈は昔付き合っていると噂されていた。僕がそれを知ったのは、クラスの女子達に糾弾された真弘を見た時だった。泣く朝日奈に「もうしねぇから」とぶっきらぼうに言っていた気がする。思い返せば、井口くんって私のこと好きだったのかな、なんて感じちゃうんだ。そんな一文が、この手紙の山に紛れていたかもしれない。探してみるか、と数個中を開いただけで読み返すのをやめてしまった。
 手紙を棚にしまい、部屋着に着替える。髪は濡れていたけれど下に行くのも億劫で、そのままにすることにした。明日提出の課題を出し終われば、創立記念日を合わせた三連休が待っている。金曜の授業は午前で終わるから、その後にでも街へ行こう。静かな暗闇に包まれながら、布団に潜り込む。運が良ければあの人に会えるな。淡い期待を胸に残し、眠りについた。


「幸太朝だぞー」
「ん……」
 早く起きろと言わんばかりに「幸太ー」と呼びかけられる。時刻は五時。いつもと変わらない起床時間。僕が早起きをするせいで父さんも早起きの習慣が付いているんだなぁと、何回考えたかも分からないことが浮かんできた。脱ぎっぱなしにしていた服を拾い、リビングへ向かう。父さんと僕しか飲まないコーヒーの良い香りが、階段にもやってきている。
「おはよー……」
 まだ寝ぼけ気味で、父への挨拶には欠伸が混じった。今日は課題の提出と、放課後街に行く予定がある。授業をサボって朝から街に行きたい気持ちもあるけど、他のクラスの輩が補導されて謹慎処分をくらっていたから控えないとな。父からの「おはよう」を聞き流し、真っ直ぐ風呂場へ向かった。昨夜の雨と寝汗でベタつく肌が気持ち悪い。

「父さん今日は何時に帰ってくんの?」
「抱えてる仕事が終わりそうだから全部終わらせようと思ってるけど、何かあったか?」
 父子水入らず、そんな表現が一番合っているんだろう。朝、風呂から上がった後のコーヒーブレイク。情報番組のアナウンサーが楽しそうに笑う声を流し、僕らはコーヒーとトーストを頬張る。父が不思議そうに見てくるから、口に入れたトーストをさっさと咀嚼し飲み込む。
「特に無いけど、お母さんも遅いの?」
 父の前だけで呼ぶ、お母さんという呼称。頭の中では一度も呼んだことがない。どうしたって好きになれないのだ。伊織もお母さんも。
「もしかしたら遅いかもしれないな」
「ん」
 どうせ一緒に帰ってくるんだろうな。コーヒーを飲んで熱くなった体は、誰にも見せることがない不安や怒りを温めている。取り扱い注意の札でも貼り付けて生活したいなと考えながら、空になった食器を流しへ運び、水にうるかす。
「うるかすってさー方言なんだって」
 表面張力を発揮するコーヒーカップ。多少の揺れなら水は零れない。裏を返せば、想定外の外力で簡単に中の水は零れる。可哀想な程に呆気なく。タオルで手を拭きながら父を横目で見れば、新聞に夢中になっているようで、僕の言葉は独り言になってしまったらしい。僕の言葉はそんなのに負ける程度のもの。だから父はお母さんの言葉しか聞こえていない。僕の伝えたいことを知らない。鼻の頭を掻き、学校の準備をするため部屋に戻った。途中ですれ違ったお母さんには何も言わなかった。
 結局手をつけなかった課題と筆入れ、それと念の為スパイクをカバンに入れる。ファイルを持ち歩かないから、カバンの底にはクシャクシャになったプリントたちが溜まっている。端の繊維が柔らかくなる頃、必ずプリントは裂け目が入った。今も、裂け目の入ったプリント達がカバンの底を埋めている。一ヶ月と少し先にある林間学校の同意書だって、カバンの肥やしだ。真弘が「林間学校って響きがエロいよな。リンカンだぜ?」と言っていたせいだ、行く気が起きないのは。
 クローゼットにしまっていた学ランを、だらしなく着る。Yシャツはボタンを開けて中のインナーが見える。ズボンに裾を入れるなんて考えはなく、ズボンを留めるベルトが見えないようにシャツを出した。袖をまくり、上着を持って、何も言わずに外へ出た。まだ七時にもならない外を、足先に留まる冷たい空気が支配している。それでも寒いと感じないのは、夏を熱望する太陽のせいだろう。冷たい空気を肺に取り込みながら、背中を太陽に焦がされる。冷たくて、熱い。矛盾する不可思議なこの時期が意外と好きだ。
 自転車を漕いでいくと、背中にじっとりと汗をかいた。駅までの十分の道程も、緩い坂道が加わっているから登下校はいい運動になる。体に密着するインナーの背中だけでなく、脇も濡れている感覚がした。朝一番の電車を待つホームはいつも見慣れたお爺さんと、スーツを着た二十代くらいの人がいる。どちらかがいない時や、どちらもいない時があるが、きっと二人とも平日に休みがあるのだろう。学生とは違い、休みらしい休みが取れているのかは知らないし、仕事がどれだけ大変なのかも分からないけれど、スーツを着た人は前より窶れた印象だ。もうすぐ電車が来る。無機質な女性の声で鳴るアナウンスを聞いてから、青色のイヤホンを耳につける。聞くのは最近知名度が上がってきた、あるソロミュージシャンの曲だ。
 ——有り余ってる時間を悪戯に溶かしていく、どうすればいいのかわからない、それもわからない。
 静けさの中に熱い何かがある歌声。この人を僕は何年も前から知っていた。表現が難しい哀愁あるサウンドを聞きながら電車に乗りこみ、一人も座っていないボックス席に腰掛ける。車内は既に冷房が効いており、乗客が手動でつけた扇風機が回っていた。汗ばんでいた体が急激に冷やされ、身震いする。寒いのは嫌だな。——かけがえのないものはなんだろうな、踵鳴らしながら待ちぼうけだ。そんな歌詞に耳を傾け、目を閉じた。学校の最寄まで四十分。カフェインが効かない内に、まだ残っていた眠気に身を委ねる。

 いつも通り、降りる駅の手前で目が覚めた。斜め前に座っていたお爺さんに、弛緩した自分の足がぶつかりそうになっていて慌てて足を引く。
「すいません」
 取ってつけたような簡単な謝罪。お爺さんはゆるく微笑むだけだったが、その方が楽だった。上着を脱いで持ち、カバンを背負う。汗はすっかり引いていた。先頭車両の、一番奥にある扉。そこに一早く並んでドアが開くのを待っている時が、最近幸せになってきた。耳元ではミュージシャンが変わらず歌っている。一音一音が染み込んでくる感覚がする。容赦ない日差しを浴びながら、欠伸を噛み殺した。いつもと変わらないアナウンスが入ると、後ろに並ぶ人がわずかに増えた。特急に乗り換える人、同じ駅で降りる人、同じ学校に行く人。この分岐点で皆は何を思うのか。そんなどうしようもない、どうでもいい事を考えながら電車を降り改札を抜けた。日差しは家を出た時よりも容赦なく、地面を温めている。跨った自転車で風を斬れば、心地よさだけが生まれた。