複雑・ファジー小説
- Re: 世界は君に期待しすぎてる ( No.10 )
- 日時: 2018/05/01 20:21
- 名前: 浅葱 游 ◆jRIrZoOLik (ID: sPkhB5U0)
『爽天シャイン』
夏が近付いて来ていることを最近よく実感する。朝は風が冷たいと思うが、昼間から夕方にかけてじっとりと全身が汗ばむから。ここ最近はついていないことが多かった。そんな気がする。また今日も冷房が強く効く電車に揺られながら、大畠のあの言葉達が思い起こされた。復讐。子どもっぽくも、たしかな意思があるのだろう。きっとそれなりの覚悟も。イヤホンを忘れて来たせいでお気に入りのアーティストの曲は聞けないし、嫌な事ばかり反芻してしまう。
停車し扉が開いたのを確認し、一番に降りる。課題も終わらせた今日、朝早くから学校に行く用事は特にない。ただきっと、じっとしていられなかった。自転車に乗り学校を目指す道中も、誰もいない教室の自分の席に座っている時も、なんだか落ち着かない。そういえばと時間割を確認する。ついこの間父さんに参加していいと言われた林間学校まではあと数日。午前授業などの楽な日を含めて、二週間程で林間学校が始まる事実に、ため息がでそうになる。
大畠に、朝比奈か。復讐を持ち掛けられた日からメッセージは止まらず、大畠がどれだけ真弘を嫌っているか、あーちんが朝比奈であり、その朝比奈も真弘を憎んでいると言っていたのだ。そして二人とも口を揃えて、「幸太だって我慢してるんじゃないのか」と訊いてくる。今朝起きて見た通知にも、同じような言葉が延々と綴られていて、はっきり言って読むのも面倒くさい。早く学校を出たのも、何かしら動いていれば大畠達のことを、忘れられると思ったからというのもあった。無意味だったけれど。
「うおーっす、はよー」
「おーす」
朝だというのにTシャツが汗で色濃くなっている。奈良間は疲れた無理寝たいと念仏のように呟きながら、自分の席へと向かった。クラスメイトの机に手をついて、重たそうな荷物を机や椅子にぶつけながら。
「朝練?」
満身創痍という表現が合っているような、疲労で身体が休みを求めているようにも見えた。奈良間は自分の席に乱暴に座ると、大きなため息を吐く。何なんだこいつ。僕の言葉が聞こえていないのか、返事をする気力もないのか、カバンを置いた机に突っ伏したまま動かない。
「奈良間ーなしたんー」
そう呼びかけながら教室の窓を開ける。梅雨とはまた違うが、雨の続く時期が終わり、湿度による肌のベタつきを感じなくなった分、日中の過ごしやすさは格段に上がった。その代わりに晴れの日が続いているけれど、窓を開けて換気さえしてしまえば苦ではない。三つ前の席で死ぬ奈良間の右隣に座る。この席の女子はいつも来るのが遅いから、八時にもならない時間帯は座っていたって問題ない。
「聞いてくれよ幸太……」
「あ、待って朝飯持ってくる」
胃が萎むような感覚に、朝ご飯を食べていないことを思い出す。少し荷物は重かったけれど、奈良間くらいしかいない教室で何を食べたって自由だ。これを持ってくる時にはそんな事を考えてすらなかったけれど、いざ使うとなるとそれなりの理由を求めてしまう。静まった廊下を進み、十分な水道水を入れて戻る。奈良間はまだ机に突っ伏したままで、息が苦しくないのだろうかと思った。
「っし。したら準備できたし、何の話?」
「俺の姉貴がやりやがったんだよ……あいつ……許せねぇ……」
「あの綺麗なねーちゃん?」
一年生の頃、奈良間が姉に忘れ物を届けると言っていたのを、面白半分でついて行った事がある。その時のぼやけつつある記憶の中でも、奈良間の姉は当時高校二年生だったにもかかわらず、美人という言葉が合う人だったと思い出された。身長もたしか奈良間と大して変わらないんじゃなかったっけ。
「たしかに俺の姉貴は綺麗だけど! そうじゃないんだよ! あいつ俺の天使達の円盤にひび入れやがったんだよ! 許されないと思わねぇ? つーかお前何食ってんのもっと俺に親身になって!」
「はは、うるせー」
奈良間が項垂れている間に作り終えたカップ麺をすする。電気ケトルを持ってきたかいがあった。奈良間には信じられないという目で見られたが、こんな早い時間に教室を巡回する先生がいないのだったら、手軽に暖かい食事を摂ることができるカップ麺を選ぶに決まっている。
「天使達ってあのアイドル?」
カップの中に箸をさし、ちょうど良い麺の量を調節する。奈良間はか細い声で「そう……」と呟いた。バイト代のほぼ全部を注ぎ込んで、初回生存盤を買っていると言ってた気がした。奈良間は突っ伏したまま荷物を抱え、そのまま額を押し付ける。全身で姉へのやるせなさをぶつけているらしい。
「奈良間のねーちゃんはなんて言ったの、ヒビに関して」
「あいつありえねーんだよ!」
勢い良く起き上がった奈良間に、思わず肩が跳ねる。情緒不安定にも程があるだろと言いたくなってしまう。
「うわっ……あんたこんなんに興味あるの? 弟がドルオタとかマジキモいだけど、誠也がそこ置いといたのが悪いんだからね。——って言いやがったあいつ! これは戦争! 第二次奈良間家大戦!」
「あー……」
立ち上がり、そう宣言する奈良間に同情してしまった。弟へのドルオタ発言もそうだが、奈良間の姉は綺麗で口が達者らしい。姉の真似をして、表情を作りながら話していた奈良間が面白かったのは秘密にした。第二次奈良間家大戦というのは何度も聞いており、今回の姉弟喧嘩で、高校で出会ってから第五次は超えたのではないだろうか。
「ありえねぇ……ありえねぇよお……」
「話聞いててやりたいけど、ちょっとお湯と汁捨ててくるわ」
食べ終えたカップ麺を持って教室を出る前、「汁は飲めよ!」と声が聞こえてきたが無視だ無視。ちらほらと遠くから話し声が聞こえたりもするが、二年教室に来ている学生は少ないみたいだ。じゃあなバリカタとんこつ、そこそこの味だったぞ。白濁とした汁を流し、口をゆすぐ。家で歯を磨いたから、とりあえずブレスケアくらいでいいだろう。
「あ」
「お」
「ん?」
二度目のうがいをし終え、ゆすいだ水を吐き出したところで頭上に声が降った。何かと思いそのまま見上げると、仲良く登校してきた春輝と真弘が不思議そうに僕を見ているところだった。ハンドペーパーを二枚出して、手と口を拭きゴミ箱へなげる。ついでにカップ麺のゴミも、手洗い場になげた。
「朝から何やってんのかと思った」
「学校でカップ麺食べるのさ、結構さーあれ、背徳感あって楽しい」
呆れ混じりに笑う春輝にそう言うと、苦笑いされたけれど、事実楽しかったから今後も活用しようと思う。真弘は笑いながら携帯をいじっていた。きっと彼女だろう。僕達との集まりや、クラス行事よりも真弘は彼女を優先しているから、真弘が携帯をいじっている時は決まって彼女に連絡していると、噂されていることもあった。概ねその通りではあるけれど、最近は頻度が高くなっているなと思うこともある。
一言目にはだるい、二言目にそれなと中身のない会話をして教室に戻ると、まだ奈良間は机に突っ伏したままいた。開けっ放しにしていた扉からは、外からの新鮮な空気が流れている。そのおかげか奈良間の背中にあった大きなシミは、少しずつ消えているようだった。怪訝そうに二人が奈良間を見ていたから、簡単に経緯を説明する。引いたような表情を浮かべた春輝に、僕は笑った。真弘は苦笑いを浮かべて、携帯をしまった。
「可哀想だな」
愛らしい目下の人を見るように、柔らかい表情で真弘が言う。バカにしているわけでも、同情しているわけでもない様子だった。ほかの人だったなら、そう感じることもないんだろうな。
「奈良間ー、今日部活終わり飯行くかー?」
かばんを置いた真弘が、突っ伏したままの奈良間に声をかける。
「行かない! 俺の心の傷は飯で癒えない!」
少し間を置いた返事に、僕らは目を見合わせてニヤリと笑う。
「したら春輝飯行く?」
「行く行くー、今日急ぎの用事なんもないし」
「幸太も来るよな」
「うん。今日も父さんの帰り遅いし」
「したっけ三人で飯。決まりな」
ぱらぱらとクラスメイトがやってくるのに挨拶をしたり、ただ目で追ってみたりしながら、奈良間を放っておいたまま今晩何を食べるか話す。ファミレスは行き飽きたのは三人の中で共通していた。焼肉は制服ににおいがつくからだめ、ラーメンだったら何味が食べたいか、市内で食べるか市外で食べるか。食べ物の話をしている時が、一番楽しく話をしている気がした。
「誠也、お前も行くんでしょ?」
頃合いを見て、春輝が奈良間を呼ぶ。男女関係なく苗字で呼ばれる奈良間を、春輝はいつも名前で呼んでいた。たまにつられて苗字で呼ぶこともあるが、それ以外は常に名前で奈良間を呼ぶ。そんな春輝に対しては奈良間も素直で、今も名前を呼ばれて立ち上がり、面倒くさそうにたらたら歩いて来た。いつも通り、相変わらずだ。
「なんで俺の事ほっぽって決めるの」
「誠也行く? どうする?」
笑う僕達の代わりに、優しく春輝が言う。年の離れた弟みたいなんだよね、と昔奈良間のことを話していた春輝は、奈良間の扱いに長けている。
「俺の心の傷は飯で埋めるからラーメン食いに行きたい!」
「お前さっき飯で癒えないって言ってたべや」
「いい! 俺はやけ食いする!」
真弘にそう言われても、奈良間はもう行かないなんて言わないと、どこかで聞いたことあるようなフレーズを言い、席に戻った。まだ時間に余裕はあったけれど、クラスメイトも随分集まってきており、僕と春輝もそれぞれの席に戻る。真弘は廊下側の真ん中の席で携帯をいじり、僕は中央の列の一番後ろへ。春輝は窓際の一番前の席。
後ろの席のメリットは何をしていても、大抵バレないという事に限る。挨拶をしていなかったクラスメイトと挨拶を交わし、席に座る。週の半ば、いつも通りの午後三時半までの授業が苦痛で仕方ない。隣の席に座る女子が、ワイシャツを谷間が見えるほど開けていて、急いで目線を違う所へやった。女子なら恥じらえよ、僕が非難されんのに。
だるそうにやってきた教師の話を、ペンを弄りながら聞き流す。七月も近付いきているかは、女子の露出度合いで判断できる気がした。先週まで長袖の白セーラーを着ていた女子が、今週は半袖になっている。これからブラジャーが透けても気にしない女子が増えるのは喜ばしい。女子にとっては不本意だろうけど。そんな不謹慎なことを考えてた過ごしていると、始業の鐘が鳴った。
「今ならラーメン替玉三回はいける」
「ほんとそれ」
それぞれ参考書を開いたり、携帯を弄りながら同じような事を何度も言う。極わずかな人数しか残っていない教室は、普段よりも静かでいることを押し付けてくるような空気感があった。だから僕達は話さなくていいように、わずかに会話はするけれどその内容を発展させていくことまではしていない。春輝はひたすら参考書とにらめっこして、問題と向き合っている。携帯画面の上に光る時刻は、五時を回ろうとしている頃だ。
「春輝勉強終わった?」
「今解いてるので課題終わるけど」
奈良間を待つのにも飽きてしまった。それは僕だけじゃなかったようで、春輝と目が合う。二人で真弘を見れば、すぐに真弘とも目が合った。そうして三人でニヤリと笑う。そこからは早い。春輝は広げていた教科書達をしまい、僕と真弘はかばんを背負った。春輝がかばんを背負ったのを見て、教室を出る。
「携帯連絡入れときゃ見るべな」
欠伸混じりにそう言った真弘と、僕達は笑う。
奈良間に連絡を入れ、生徒玄関に向かう廊下を進む。奈良間遅いよなー。まあ自業自得だべやあれ。そんな風に、踵を鳴らしながらのんびりと歩く。先輩達からしたらイキった後輩に見えて、後輩から見たら怖い先輩あたるのだろう、僕らは。
会話が途切れたタイミングで携帯を見る。通知を切っていない例のグループからは、しつこく、メッセージが送られてきていた。内容は変わらない。真弘への暴言や、どうして僕が共感してくれないのかを、延々と。
『ねえ幸太くん、真弘に依存するのやめなよ』
新しく来たメッセージに、胸が、心臓が掴まれたような感覚を味わった。
- Re: 世界は君に期待しすぎてる ( No.11 )
- 日時: 2018/11/26 18:07
- 名前: 浅葱 游 ◆jRIrZoOLik (ID: v8Cr5l.H)
依存なんてしてない、とだけ返事を打つ。衝動的に打ち込み、送信ボタンを押した。いつどこで僕が真弘に依存したというんだ。携帯をポケットにしまい、楽しそうに笑う二人の後ろについて歩く。相変わらず失礼な奴だ。ここ最近、ふとした時に心を抉るようなメッセージがくる。見透かされているようで気持ちが悪い。
靴を履き、そのままその場に座り込んだ。僕らは揃って携帯をいじり始める。
「あ、奈良間今から来るって」
「したっけあいつ来るまで待つか」
真弘はあくび混じりにそう言い、僕と春輝はいい加減に返事をする。携帯をいじって数分が経った頃、ばたばたと玄関に駆けてくる足音がした。
「おっまーたせー! 置いてかれたかと思って焦ったマジで」
快活に笑いながら言う奈良間に、僕らは呆れるしかできない。そもそも奈良間が呼び出されたのは自業自得で、呼び出されないようにすることなんて簡単だったはずだ。
「真弘が替玉三ついけるってさ」
「まじ? したら俺五回するわ!」
駐輪場から自転車を出す春輝と奈良間が楽しそうに話す。たしかこの二人は小学生の頃からの付き合いだったはずだ。よく二人で買い物に行ってきたと話をしてくれるあたり、女子の言葉を借りるとズッ友というやつなのだろう。
「奈良間ー荷物入れてく?」
チリンとベルを鳴らす真弘に、奈良間は表情を明るくして「さっすが真弘わかってるー!」と笑う。
「真弘んとこさカバン入れるんだったらさ、部活の道具こっちいれる?」
「もー幸太大好き」
語尾にハートが見えそうなほど甘ったるく言う奈良間に、笑いが起きる。
「きっめぇ」
「可愛かったべや!」
ツボに入ったらしい真弘の横で、奈良間は可愛子ぶりながら歩く。朝とは打って変わって元気になった様子の奈良間は、真弘の顔を覗き込んで話しかけたりしているようだった。真弘の笑いがおさまった頃に、自転車で足を轢かれるんじゃないかと内心ひやひやする。
「春輝ー、どこのラーメン屋行くか決めてんのー?」
「らいく行くよー」
前を進む奈良間が大声で言う。春輝も両手を口元にもっていき、同様に大きな声で返した。ふざけて歩いているのに、真弘と奈良間は進むのが早い。
「奈良間のテンションの上がり方ちびっ子すぎない?」
「ほんとよ」
そこが弟っぽくて好きなんだけどね。そう言って笑った春輝はどこか照れくさそうに見えた。
ラーメン屋らいく。その店構えは一軒家の玄関に暖簾がかけられているだけと、店というよりただの家だ。学校帰りの学生が多く来ているらしく、玄関の横に用意された砂利の駐輪場には数台の自転車が停められている。安価で美味しいラーメン屋として学生に重宝されていた。
先に着いていた真弘達に追いつき、僕達も自転車を停める。
「行くか」
真弘の言葉に、僕らはあの日見た映画の主人公よろしく、覚悟を決めたように暖簾をくぐる。軽い音を立てて開いた戸から、味噌の香りがもれ出した。空いていた中央の四人がけテーブルに座る。
「うわー腹減ったー俺味噌ー」
「え、誠也味噌にすんの? 俺もなんだけど」
「僕も味噌かな」
「俺も味噌」
水を置きに来た店員がメモを用意するより早く、僕らは心に決めたメニューを口々に言う。味噌が四つですね、と言い厨房へ戻った。ピッチャーに水が入っていることを確認して、僕はグラスの水を一気に飲み干した。
「つか真弘は醤油じゃねーの? いっつも醤油だべお前」
シャツの袖を捲りながら言う奈良間に、真弘は笑う。
「お前だって普段塩だろ」
「いやそうだけど! そうじゃないじゃん!」
「ちょっと奈良間についてけねーわ」
「うっわうぜー」
「おめーの味噌に南蛮入れまくるからな」
「ごめんお前は良い奴!」
そんなやり取りを笑って見ながら、メニューを広げる。店に入るまではそれぞれ塩と醤油のどちらかしか選んでいなかったのに、一気に味噌に気持ちをもっていかれた。
「まあまあ、そんだけいいにおいしたからさ、いっしょや」
春輝にそう言われ、不服そうに二人は黙る。
「さすが」
「いえいえ」
アプリを開いていた携帯から、春輝に視線を移して一言。柔らかく笑った春輝は頭を少し下げて笑った。ほかの客のラーメンをすする音や、厨房の雑音と、ラジオが流れる店内。うるさく感じるどころか、このまとまってなさが心地よい。
「お待たせしましたー、味噌になりまーす」
体格のいい男の店員が、お盆に四つラーメンを載せ運んでくる。どれも湯気がのぼり、濃い味噌の香りが僕らのいるテーブルを支配した。無料トッピングで用意されたバターとコーンをそれぞれどんぶりの中に落とし、箸で麺をほぐす。じんわりと溶けだしていくバターが、スープの表面に広がっていく。
奈良間達はもう食べているが、らいくの麺はかためのため、僕はバターが全部溶けるのをぼんやり見つめる。楽しく食べたいという気持ちと、隣でラーメンをすする真弘を思う気持ちとで、内側が壊れそうだ。鳩尾のあたりがザワつくような、赤点回避出来ていなさそうなテストが返却される時のような不安。溶けきったバターを全体に馴染ませ麺をすすったが、味はしなかった。それでもひり出した「美味い」の言葉には、心がこもっていなかったような気がする。
駅でみんなと別れ、ぱたりと通知が来なくなったメッセージアプリを開いたまま、窓の外を見上げた。六時になる前の空はまだ明るく、木々の隙間に見える空が橙に変化し始めている。一人になり考えるのは、真弘と大畠のことだ。大畠の言うように僕は真弘に依存しているのだろうか。自分ではそう感じていないだけで、真弘を失う可能性があることに怯えているのか。
一度前後に揺れた電車が、進み始める。忘れかけていた中学時代を必死に思い起こす。真弘は大畠を心底嫌っていた。僕も、真弘と同じように大畠を嫌った。そこに違いはないはずなのに、夕暮れの廊下で見た、懇願する大畠の顔が僕を責めているように感じられる。真弘に蹴られていた、確か肩口を思い切り。やり過ぎだと思ったんだ、僕は。大畠が涙目で、真弘の奥にいた僕を見ていた。真弘じゃなく、あの時大畠は僕を見ていた。胸の奥がざわつく。膨らませた疑念が、僕の中で暴れ回る。
無意識にシャツの胸あたりを掴んでいた。窓越しに映る自分の顔はひどく険しい。指先が震えるような違和感。停車のアナウンスが鳴る。身支度を済ませた乗客が扉の前に集まり始めた。その中に、気持ち悪さに支配された僕が混じっていた。
「あ、幸太くん」
「……大畠?」
吸い込んだ息が、逃げ場をなくす。心臓が脈打つのが分かる。発車を告げた電車が、ガタンガタンと音を立て徐々にスピードを上げていく。その間隔が狭くなるのと同じように、僕の鼓動も速く脈打っていた。じっとりと汗ばむ陽気。大畠の脇はワイシャツの色が変わっていた。いつから大畠はここにいた——? ぞわりと背筋が冷える。
「あれ? あいつは一緒じゃないんだね」
大畠の言うあいつが誰を指しているのか、聞かなくても分かってしまう。
「……真弘は、彼女のところに行ったけど」
「へえ! やっぱあいつって幸太くんのこと案外どーでも良いんだろうね!」
食い気味の大畠は、口角を上げて嬉しそうに言った。不快。しばらく電車が来ないホームに残って、大畠と話したいわけじゃない。書かないといけない手紙があった。何年も出していなかった、あの日の返事。
「彼女優先だろ、普通」
そうだ、彼女を優先するに決まっている。きっと僕も真弘達といるよりも、彼女と過ごすようになるはずだ。ポケットに入っていたイヤホンをつける。大畠の声が聞こえないように、音量を上げ、改札へ向かった。改札を抜け待合室を出た僕は、何となく心がむしゃくしゃしていた。不快感、嫌悪感、吐き気。走るのには向いていないハイカットのスニーカーに、学ラン姿。それでも駆け出した。階段を途中飛び下り、走った。扉を乱暴に開ける。カバンが耐えられないと言いたそうに、僕の背中を叩く。足は止まらない。止められなかった。
痛みも孤独も全て、お前になんかやるもんか。歯を強く噛んだ。歩くと遠く感じる自宅も、走ればあっという間だった。リビングと伊織の部屋が明るい。誰でもいいからそばに居てほしい気分だ。喉も心もカラカラに乾いている。
「おかえり」
「ただいま」
出迎えてくれたのは伊織だった。眼鏡をかけて、リラコを着た姿でも、ああ頭が良さそうだと感じる。伊織は驚いた顔をしていた。
「……うん、おかえり」
すぐ微笑んでくる伊織に、一つだけため息を吐き、母さんを無視して二階に上がる。机は昨日のまま。何度も書き直した手紙は、紙がよれている。宛名は封筒に書けないままでいるのを見て、ため息が漏れた。汗をかいていたけれど、下に降りるのも面倒くさい。カバンを乱雑に置き、ベッドに寝転がる。最近買った週刊雑誌が枕元に置いてあるままで、角が耳を掠めて「いって」と心のこもらない言葉がもれた。アプリを開いて、みんなの呟きを眺める。
珍しく、自撮りをすると意気込んでいた奈良間は、画像付きで投稿していた。なにかの加工か、肌が白くなり、唇はピンク色になっている。同じ学校の先輩後輩関係なく反応されているのは、誰に対しても分け隔てないからだろうなと思う。前に春輝が言っていた、屈託のないバカは愛される、という言葉が思い起こされた。スクロールしながら普段の奈良間を思い出すが、姉以外に悪口を言うこともないし、誰かに悪口を言われていたこともない気がする。
まあ確かに、あの笑顔はずるいよな。考えてること目に見えて分かるんだから、そりゃ皆警戒しないべな。そんな恨み言を思うけれど、事実は事実として受け止めないといけないことは分かっていた。充電器を挿し、着替えて一階に降りる。
「今日冷やし中華だよ」
先に食べ終えていたらしい伊織は、リビングのテーブルに参考書を広げていた。家でも学校でも電車でも勉強をしているのかこいつ。完全に別次元の生き物だなと思いながら、キッチンへと向かう。ダイニングテーブルにはラップがかけられた冷やし中華が置いてあり、母さんからの書き置きもあった。
「今日、母さん達は」
ラップを剥がし、つゆをかける。
「父さんは残業で、母さんは女子会」
後ろでページをめくる音が聞こえる、二人だけの空間。いつも食事を摂る席は決まっていて、僕は父が再婚してからリビングに背を向けるようになった。元々は父が座っていた席。伊織がリビングで勉強している姿を見たくなかったのだろうと、最近になって自覚した。一人遅く食べる晩御飯の時間に、家族三人が笑い合っている姿も。
冷やし中華は市販のものと変わらない味だった。ぬるくなった麺が少し気になった。嫌なことが続くな、きっと大畠と一緒になるまで。
半分以上残した晩御飯と蛇口の水が排水溝に流れていくのを見ながら、そう感じた。何となく手を伸ばすことを躊躇ってしまう。
「水」
伊織の声に肩がはねた。蛇口から水は流れていない。
「……あ」
「今日変だね、幸太。俺洗い物済ませるから、休んでていいよ」
僕を押し退けるように洗い物を始めた伊織を見て、自然と足が後ろに動いた。変だね。その言葉が頭の中をぐるぐると回る。僕は、変。伊織に返事をする事も、洗い物をすることも、変。
「……寝る」
掠れた声だった。自分の声だと思えなかった。伊織が僕を呼ぶ声が聞こえたけれど、顔を向けることはできなかった。勉強の出来る、頭のいい伊織が僕を変だと言うのなら、それは事実なのかもしれない。何度も送られてくる大畠からのメッセージから、ただ逃げてるだけだ。毎回拒絶すればいいのに、それができない。
ベッドに寝転がり、充電中の携帯をいじる。時計の秒針か規則的に鳴る。何度も見返した大畠や朝比奈からのメッセージをもう一度見返す。二人の考えを認めたくはなかった。けれど、拒絶もできない。大畠に言われた言葉とはまだ向き合うことが出来ないまま、携帯をいじるのをやめる。今頃テレビを見ていたらアポなし旅とかやってんだろうな。
寝るにはまだ早い時間だけれど、柔らかなベッドに沈んた体を、もう動かそうとは思わなかった。このまま寝て、また先送りにする。考えないようにしていた今までと同じだった。きっとどうするつもりなのかは分かっている。ただ勇気が足りていないだけということだって、理解している。それでもまだ、あと少しだけでいいから夢を見たい気分だった。
- Re: 世界は君に期待しすぎてる ( No.12 )
- 日時: 2019/03/27 21:34
- 名前: 浅葱 游 ◆jRIrZoOLik (ID: /AtcWqBj)
目覚めは最悪だった。アラームを何度消したか分からず携帯を見ると、もう既に授業が始まる時間。リビングに行けば驚いた顔でほのかさんが僕を見た。何か言っている。聞く気にならなかった。父さんはもう仕事に行ったのかな。少しだけ、一緒に過ごしたかったのにな。母さんに会いた——
「幸太くん!」
「っはい」
目の前にはほのかさんの顔。いわゆる綺麗系の顔をしているけど、皺結構あるな。
「学校、どうするの?」
問いかける優しい声色に、忘れていたことを思い出す。今日は大した授業も無いし、サボっても問題はない気がした。
「サボる」
そう告げ、キッチンのコーヒーサーバーを使いカフェオレを淹れる。注ぎ口からは湯気がたつ。サーバーが動かなくなったのを確認し、マグカップを持って食卓テーブルに置く。真白なテーブルであるのに汚れひとつないのは、ほのかさんの頑張りなのだろうか。椅子に座ると何だかもう立ち上がれない気になってしまった。
「駄目よ、学校はちゃんと行かなきゃ」
母親らしく、眉尻を少しつり上げてほのかさんが言う。耳障りな声。どうして僕はこの人が母親になる事を許したんだろう。
「関係ないだろ」
味のしないカフェオレを啜る。舌先を内側に巻いても、その温度で火傷をした。ほのかさんはどうして他人の僕を気にかけようとするんだ。僕は親だと認めてなんかいないのに。父さんの一番を簡単に奪っていったくせに、どうしてお前が一番幸せそうなんだ。ダメだと自制しようにも、湧き上がる怒りは歯止めが効きそうにない。
「関係あるわよ! だって、幸太くんは私達の子どもだもの……」
そこから先はよく覚えていない。父さんに殴られた頬が痛い。伊織も午後の授業を受けずに早退した。伊織は何も言わなかったし、何もしてこなかった。警察に通報されんのかな。ベッドに座って何度もそう考えたが、今までに聞こえたサイレンは救急車のものだけだった。
大畠の思う復讐も、今の僕のように誰かを不幸にするものなんだろうな。きっと真弘が不幸になる。中学の時、真弘のこと止めてやればよかった。窓も開けず黙って座っているだけであるのに、じわりと背中や太腿に汗をかいているのを感じる。気持ち悪さが強まる。ただ心はどこか軽い気がした。今なら何でもできる気がする。
喉が渇いた。あのカフェオレを飲んで以降、何も口に入れていない。何となくリビングに行くのが億劫だった。また父親に怒られる気がする。そう考えれば考えるほど、このベッドの上から動くことはできない。シワの寄ったシーツに載るこの足先から、少しずつ溶けだしていきたい。
自分を保つものが失われている今、思い浮かぶのは自分がいなくなれるような想像だけ。動脈だかを切れば死ねるのかも。父さんが悲しまないようにするには、いっそこの家から出て行くか。ベッドから降り、学校に行く時に使っているカバンの中身を床に出す。重たい教科書が全部出てから、いい加減な折り目だらけのプリントが数枚落ちてきた。一番最後に落ちてきたプリントを開く。それは林間学校で必要な物が書かれた、簡易的なしおりらしかった。
拾い、上下を持って紙を広げる。長々と隙間なく詰められた文字は読む気が起こらず、中段に設けられた『用意するもの』と書かれた部分を見た。林間学校に必要なものが細かく書かれた最後に、不要なものが数個載っている。教師の話を思い出そうにも、一切浮かんでこない。寝ていたつもりはないけれど、覚えていないならそういうことか。今は林間学校に行きたいという気持ちすらなく、手の中でそれを握る。乾いた音を立てたプリントは、拾う前よりぐしゃぐしゃになった。
「入るよ」
僕の返事を待たずに扉が開く。まだ制服を着たままの伊織が、部屋の真ん中で立ち尽くす僕と、足元に散らばる教科書を見て、目を見開いた。
「何してんの、幸太」
空のカバンを手に持って呆けた様に立っていたから、自分が何を聞かれたのか理解するまでには時間がかかった。
「家出の準備」
「家出? 何のために?」
「なんとなく」
伊織を無視し、机の丁度背中側に設置されたクローゼットを開く。脱ぎっぱなしの服が数枚地べたに散らばっている以外は、全てハンガーにかけて管理しており、男子にしては綺麗に保たれているはずだ。中から数枚気に入っている服を取り、たたみもせずにカバンに詰める。そういえば金欠じゃん。学校にケトル忘れたしな。そんなことを思いながら。
「父さんに林間学校の話してなかったっけ?」
「……関係ねーだろ」
「何お前、俺の母さんのこと病院送りにして、んな態度すんだ」
反射的に伊織を睨みつけた。傍らにあったやるせなさの正体が、罪悪感だと気付いてしまった。気付かされた、伊織に。僕とは対照的に薄く笑う伊織は、今までの優等生ヅラとは違い、不気味だった。
「まあ怒る気は無くて。あの人教育ババアだから疲れてたし」
頭の後ろを雑に掻き、吐き出された言葉に、眉間に込めていた力が抜ける。僕の知っている伊織はこんなやつじゃなかった。制服を着崩すこともなく、頭の回転が早い奴で、外国の血が少し混ざった端正な顔で優等生らしく笑う男だった。伊織の人間らしさを知るなんて、思っていなかった。
「確かに再婚してすぐあんないちゃつかれたらさ、うざいとは思うよな」
それを皮切りに、伊織は今まで感じていたらしい鬱憤を晴らすように、僕に吐露する。伊織の言葉には嘘がないように感じられた。伊織の話を黙って聴けば、伊織もほのかさんと父さんの関係にうんざりしていたと分かった。熱気が増した部屋が、僕と伊織の境界を揺らがす。互いの首筋を、額を、汗が滑り落ちた。
伊織は僕と一歳しか変わらない、普通の高校生だった。
「でさ、俺お前に言いたいことがあって」
「何」
伊織の口調はどことなく強い。
「俺のこと兄ちゃんって思わなくていいから」
じゃ。そう言って伊織は部屋から出て行った。揺らいだ境界は元に戻ろうとしない。それどころか壁を作り直すことが出来ないくらい、僕の気持ちは参っていた。伊織のことを兄だと思おうとしていた無意識さを、伊織に指摘された。あんなに嫌がってたはずだろ。そう自分に言っても答えは出てこなかった。
首を伝う汗を手の甲で拭い、寝巻きで手を拭く。伊織にどう返事をすべきかも分からない。けれど、伊織は兄じゃないと自信を持っていえるようになったことに、安心している。その事実が、悔しかった。
網戸もせずに窓を開け、書きかけの手紙はそのままゴミ箱へ捨てた。教科書を踏んだが、そんなことどうでもいい。紙を出し、置いていたボールペンで乱雑に書きなぐる。伊織への苛立ちと、大畠と朝日奈への怒りが止まらなかった。
きっかけは十分すぎるほどあった。僕が怖がっていただけ。可能性を書き起こせば、思っていたほどの障害はないように感じられた。どうせ大畠にできることなんてたかがしれてる。朝日奈はそばにいるわけじゃない。怖さなんてない。
何重にも重なった黒インクの紙を、ぐしゃぐしゃに潰してゴミ箱に投げ捨てる。今の自分は多分無敵だ。怪人が僕の目の前に来てもマッハを超える速度で逃げたり、漫画みたいな一発KOも夢じゃない。
「待ってろよ」
- Re: 世界は君に期待しすぎてる ( No.13 )
- 日時: 2018/08/03 19:56
- 名前: 浅葱 游 ◆jRIrZoOLik (ID: rtfmBKef)
あの日からほのかさんとは一切会話しないまま、念願の林間学校の日になった。少しでも家にいる時間を減らしたいと思っていた僕にとっては、家にいなくていいことは救われた気になる。父さんの運転する車に乗り込む前、伊織とは会わなかった。今まで通り、特に話すこともなく、日々が過ぎている。
「忘れ物ないか?」
「たぶん」
そうか、と父さんが言って、話は終わった。エアコンの冷たい風が僕の首筋めがけて吹く。父さんは器用に左右の線からはみ出ずに、車を運転する。いつもより遅い時間に家を出るまで、あまり父さんとは話せなかった。あの日から、僕ともほのかさんとも距離をとっているんじゃないか。窓越しでは伺えない父さんの表情を想像する。
「母さんは嫌いか?」
答えられない。驚いて見開いた瞳と同時に、心臓が掴まれるような感覚。血の気が引いていく。
「母さんの火傷と青あざさ、少し良くなってきたぞ」
それでも父さんは話し続ける。
「幸太」
いつもの優しい声。
「今の母さんより、前の母さんの方が好きかい?」
ゆっくりと、言葉は出せなかったけれど、頷くことは出来た。わがままだとは思う。結婚するのも離婚するのも、僕が思ってるより大変なはずだ。
「頑張ってくれてたんだな」
そう言って、僕の頭を撫でる父さんの手に、今までしまい込んでいたものが湧き出る。撫でられたのはいつぶりだろう。中学の入学式とかだったっけ。鼻をすすりながら、腕で目元を拭う。僕の嗚咽がおさまるまで、父さんは何も言わなかった。
「……怒られると思ってた」
目頭がまた、じわりと熱くなるのが分かる。
「幸太がやった事はちゃんと謝りに行かないとダメだぞ? ただ父さんも勝手に決めた部分もあるから、受け入れられなくて当たり前だよ」
右に曲がる。
「あの人は、怒ってないの」
「悪い事をしたって落ち込んでる。本当の母親じゃないのに出しゃばったって」
「……あ、そ」
謝りないといけない、かもしれない。国道12号を右折して、緩やかな坂道を進む。
「楓が幸太って名前つけたって、知ってたっけ?」
「楓?」
聞いたことのない名前だった。知らないよ、と続けると父さんは今まで見たことがないくらい、優しく微笑む。
「幸太の母さん、相沢楓」
「え、お母さんが名前付けたの?」
父さんは、ああ、と笑った。信じられない心地だ。記憶の中だけの、大切なお母さんに名前をつけてもらっているなんて。
「楓がね、幸太にとって、幸太の人生が素敵な巡り合わせで満ちるように、望んだように人生を送ることができるように豊かでありますように、って。……ほらついたよ」
父さんは幸せそうだった。生徒玄関前に設けられた簡易ロータリーには、大型バスが停る。四台伸ばすが並んでいると、教科書で見たベルリンの壁のような感じがした。父さんと一緒に車から下りる。他にも続々とやってくる生徒に、チラチラと見られている気がした。
「はい荷物」
差し出した手に、父さんから荷物を受け取る。たった二泊分の荷物は軽い。
「行ってらっしゃい」
「……うん、行ってきます」
車が校門を抜けていく。左折する父さんが見えなくなるまで、僕はその場から動かなかった。母さんが付けてくれた名前を、大事にしよう。新たな決意が芽生えていた。僕は父さんと母さんのたった一人の息子なんだ。確かな安心が、僕を包んでいるみたいだった。
バス内でのホームルームも終わり、今は前後左右関係なく様々な話題が飛び交っている。通路を跨いで横一列に、いつもの四人で座った。窓際にそれぞれ真弘と奈良間が座り、僕と春輝の間に通路がある。
「そーいや朝さ、幸太のとーちゃん見たぞ」
身を乗り出して、奈良間が言う。真弘にも数えられだけしか見られていない父さんは、僕達の中ではちょっとしたレアキャラ扱いをされていた。仕事も任せられ、プロジェクトリーダーとしてチームを持っている分、家にいる時間が短いからかもしれない。
「どうだった?」
「すっげー若い……」
春輝に、あの若さは四十くらいだべ、と真剣な顔で奈良間が話す。奈良間の中で、僕の父親像はどうなっているのか気にもなったが、奈良間の予想はいい線だ。ちらりと僕の左手に座る真弘を見る。周りが大声で話しているのが嫌なのか、高そうなヘッドフォンを付けて、窓に頭を預けていた。大畠から連絡がきてから、僕は真弘と連絡をとらなくなっている。その事を気にする素振りを見せない真弘は、もしかしたら、僕がいてもいなくても変わらないのかもしれない。
「父さん、まだ三十四だよ。今年で五になる」
笑っていれば、奈良間達と話していれば気にしないはずだ。大きな声で驚いた二人を笑いながら、僕は背中に真弘を隠した。
- Re: 世界は君に期待しすぎてる ( No.14 )
- 日時: 2018/08/25 19:44
- 名前: 浅葱 游 ◆jRIrZoOLik (ID: L5UrJWz7)
林間学校の間使われる、道立みどりの村。だだっ広い草原は行事がない限り、一般市民にキャンプ場として解放しているらしい。バスを降りてそれぞれ荷物を持ち、管理者がいるらしい場所まで向かう途中、日差しと暑さにやられてしまいそうになる。奈良間は他クラスの生徒と楽しそうに話しているが、真弘も春輝も汗をかいて辛そうだ。
「春輝、何か持つか?」
春輝の腕にはレジ袋に入った料理用品をたくさんかけられ、五キログラムと表記された炭の箱を二つ持っている。男子といえど文化部だ。運動部の僕や奈良間と比べ、力は無いだろう。
「まじ助かる……」
立ち止まった春輝から炭の入った箱を二つ受け取る。やっぱ文化部だな。
「楽?」
「かなり」
ありがとう。そう言って笑う春輝に、頷く。頭も良くて人当たりも良いのに、不思議と春輝は彼女がいない。中学時代から仲のいい女子がいてもおかしくないような気がする。
「それにしてもあっついし遠いなー。まだあと何百メートルとかある気ぃするんだけど」
「え、あー、たしかに。僕らより、女子の方が大変そうだけど」
そう言い近くを歩いている女子を見る。露出している腕や脚に日焼け止めを塗りながら歩き、中には腕を守るために取り外しできる袖のようなものを付けている生徒もいた。手で日除けをしているけれど、化粧は汗で崩れているから、ほとんど意味はないんだろう。
「あっちにはしんどそうな真弘がいる」
苦笑いする春輝の方を見ると、眉間にしわを寄せ、息を荒らげて歩く真弘がいた。持参してくれたらしいテントの部品を、重たそうに持っている。
「手伝ってくる」
「うん、俺は誠也回収してロッジ向かうな」
春輝と別れ、真弘の元へ向かう。途中から僕に気付いていたらしく、僕が笑うと真弘も困った様子で笑った。
「テントありがと。炭と交換する?」
「しねーよ、そっちのが重てーべぜってー」
「多分」
首元の汗を拭い、「っし」と気合いを入れ直し、真弘が歩き始める。いつもより前傾で必死に歩く真弘にペースを合わせ、僕ものんびりと歩く。春輝ほどではないが、だんだんと腕が疲れて、息が荒くなりそうだ。
「あと少しだから、ダッシュして勝った方がジュース奢るってどう?」
「あー……? 幸太勝つだろ」
僕の提案は、じっとりとした目付きの真弘に、暗に否定される。
「ハンデ付けるよ」
「ちょーしのんじゃねーよ」
「僕、十数えたら行くから。はい、よーいスタート」
「覚えとけよ、てめー」
そう悪態をつきながらも走っていく真弘の背中を見る。奥に、ああ、大畠か。自分用の泊まる荷物しか持っていない様子だった。恨めしそうな顔。僕に対してかもしれない。真弘への恨みが、今この時も積もってるのだろうか。ドラマで見るようなあからさまの悪意に、真弘はきっと気付いていない。
「世界が違うんだよ」
お前と真弘の住む世界が、同じなわけがないんだ。先に走っていく真弘を追いかけながら、僕は大畠と目が合った。視線を外す瞬間に、大畠が悪く笑った気がする。ああ、気持ち悪い。もう真弘に追い付くことはできないだろうけど、大畠を忘れるには、走ることは最適だった。
「いけいけ奈良間ーおせおせ奈良間ー」
木槌を持って杭を打つ奈良間に、ジュース片手に座る真弘が応援する。教師や施設からの長い話が終わってからは、教師に言われた通り、だだっ広い野原の好きなところに、それぞれ、テントを設置し始めていた。僕と春輝は力仕事を二人に任せっきりにし、自動送風機を使ってエアマットレスを作る。
「っらおらあ! でーきた!」
「いいぞー奈良間ー」
Tシャツの袖をまくり上げ、汗をいっぱいにかいた奈良間が空に向かって拳を突き上げる。最低限の作業しかしていない真弘は、楽しそうに笑っていた。周りの生徒達も、少しずつテントの設立を終わらせられているようで、野原がカラフルになっていく。僕らのテントは、真弘の家から持ってきてもらったかまぼこ型のテント。男四人で寝ても十分な大きさのテントと、必要な金具を持っていたのだから、真弘があんな死にそうな顔で歩いていたのも納得する。
「こっちも終わったよ」
充分に空気を入れたエアマットを、真弘の指示でテントの奥に入れる。寝るためのスペースに荷物を置き、テントの設立が終わった。今の時間は正午を少し過ぎたくらいだ。鞄から取り出した要項を見ると、この後は自由時間として、一時間半が昼食として用意されているらしい。
「アスレチックで遊びついでに飯食わね? 今日くらいしかぜってーアスレチックできねーから!」
「賛成。真弘と幸太は? どうする?」
太陽くらい眩しい笑顔を引っ提げて僕らに提案してくる二人。たった二年、されど二年という、密度濃く日々を過ごしたのだ、ほとんどの時間をこの四人で。だから二人が笑顔で提案してくるときには、否定しても連れて行かれることも、断固として拒否したら後々面倒くさい事も分かっている。真弘が黙って立ち上がったのを見て、「行くよ」と返事をする。それぞれコンビニの袋を持って、数十メートルほど離れたところにある、アスレチックの入り口を目指して歩く。
アスレチックがある場所なら、初めからジャージで登校させてくれればいいのに気の利かない教師たちだ。暑ければ暑いほどテンションが上がるのか、奈良間は普段よりも元気がいい。
「何がしんどいって風が無い事と、奈良間のうるささ」
「夏の誠也はセミだと思った方がいいんじゃない?」
うんざりした表情で後ろを歩いている真弘に、その隣にいる春輝が笑いながら言う。
「俺がセミとかふざけんなよなー! 肉食えねーじゃん!」
「着眼点がバカ。そこじゃねーだろ普通」
「はあ? そこだろ!」
真弘に何かを言われると、決まって噛みつきたがる奈良間に、真弘はうんざりしながらも楽しそうに笑う。きっと奈良間がいなかったら僕らはこんなに仲良くなることは無かったし、そもそも話すことすら無かったはずだ。きっと、奈良間だけでも、春輝だけでも駄目だ。二人がいないと、僕と真弘は、またあの頃みたいに二人きりで過ごすことになった。もしもの話だけれど、確証があった。
腐敗が進んでいそうな、木で作られたゲートをくぐり、木端が敷かれた階段を上る。高い木々の隙間からこぼれる、少し緑がかったような雰囲気の光。セミの鳴き声に重なりながら、嘆息が漏れた。テントを設置した野原よりも涼しく感じるのは、育った木の葉で、直射日光が遮られているからだろう。わずかではあるが、抜ける風に汗が冷やされ、体感温度も下がっている。
「アスレチックっていうか、山道に遊歩道があるってだけだね」
春輝がそう言った通り、二人が並んで歩くことができる程度の幅に作られた木端の遊歩道。細い丸太を利用された木の階段を、ゆるやかな傾斜に沿って歩いていく中に、今のところアスレチックはない。セミの鳴き声と、小さな羽虫が飛んでいる程度の、ただの山。
「えも、いひぐひろおうの……看板に書いてたべ? だから、上の方までとりあえず行ってみよーぜ」
「奈良間のおにぎり美味そうだけど、食べる時は食べるで分けような」
「おー」
ん、と中身を見せてくれる奈良間に、僕は「ありがとう」と伝える。大きめで、米の密度が高いおにぎりの真ん中に、梅が二つ入った、ボリューム満点のおにぎりだった。運動部だから食べる量が多いのも納得だ。きっと家族が食中毒予防のために梅を多めに入れたのだろう。奈良間の隣でウイダーを取り出すと、怪訝な顔をされたが、僕は気にしない。どうしても食べたいという食事はほとんどなく、三食同じものが食卓に出されたとしても、ほとんど何も思わない自信がある。
「美味いよ」
「米食えよな陸部ー」
うん、と従うつもりもない返事をする。サンドイッチを食べる春輝の一段後ろで、大豆バーを食べる真弘を見て、安心してしまう。まあ、そんなもんだよな。真弘とファミレスに行って、メニューを決めることができない理由が、胃に入れば変わらないから。どうしても食べたいと思うのは、互いにラーメンくらいだろう。
道の先か、後ろかに生徒がいるらしく、ほぼだんまりな僕らとは違う話声が徐々に大きくなってきていた。休み時間を持て余した男子と女子のグループらしく、高い声と低い声が混ざり合った笑い声が聞こえている。聞きなれた声が混じっていることに気づき、足が、重くなった。セミの声がやけにうるさい。熱中症か、思い違いだろうか。このままよく分からない奴らと鉢合わせるくらいなら、少し待ってから上がったほうが良いんじゃないか。盛り上がっているのなら、奈良間が遊びたがっていたアスレチックがあるのかもしれない。
「あれ、幸太君?」
口を開いて、三人に伝えようとしたところだった。
「久しぶりだね。……真弘君も」
「——は?」
「……久しぶり」
薄ら寒い笑みを浮かべた大畠が、僕らを見下ろしていた。
- Re: 世界は君に期待しすぎてる ( No.15 )
- 日時: 2018/11/18 21:28
- 名前: 浅葱 游 ◆jRIrZoOLik (ID: /AtcWqBj)
先行ってて。そう、大畠が言うのを、僕は黙って見ていた。
「奈良間くん久しぶりー。おかげで幸太くんとまた話すようになったよ」
「あ、おー! 大畠よーっす」
二人の間は、僕と真弘みたいに、ただの友達としての空気が流れている。こんなに柔らかく笑う奴だったのか。僕は大畠のことを何もわかっていないらしい。むしろ今なら、奈良間の方が大畠について細かに話せるような気さえした。
「奈良間くんと、そのお友達だよね。……よくこんな二人と付き合えるね」
奈良間と春輝を蔑むような、下卑た笑み。大畠は僕と真弘に一切視線を寄越さず、二人を見る。不快そうに眉間にシワを寄せたのは、春輝だった。
「こんな二人って、幸太と真弘のこと?」
「それ以外にいないじゃんか。俺、奈良間くんとは友達だしさ」
「……そう。大畠くんが用あるのは真弘達でしょ。誠也、先行くよ」
大畠の横を通り、春輝は木の階段を頂上を目指して歩いていく。面食らった表情をしていた奈良間も、「じゃー後でな」と僕達に残し、春輝の後を追った。やわらかかった空気は張り詰め、息苦しさを感じてしまう。
「真弘くん、元気だった?」
「お前に関係ねーだろ」
「……あいっかわらず俺様な暴君やってんだね。ガキのままじゃん」
真弘を見下して、鼻で笑う大畠。あの時の関係とは違うと、暗に伝えているみたいだ。真弘は不機嫌なことを隠しもせず、舌打ちを一度。
「幸太」
行くぞ。言葉にしていなくても、真弘がそう言ったのが分かった。大畠の隣を真弘が進むのを見たまま、僕の足は動こうとしない。
「来ねえんだ」
返事も待たずに、真弘が行く。その背中が小さくなっていくのを見送り、大畠に向き合った。嬉しそうな顔で僕を見て、大畠は僕に近づく。
「ここで井口を見捨てるとは思ってなかったよ。やるね、幸太くん」
目が、口元が、歪められた。
「こんな所で接触してくるとは思わなかった」
楽しみに胸を踊らせた林間学校初日。それも、到着して数時間しか経っていない、自由時間の山の中で。わざわざ僕らが四人でいる所に、来る必要なんてなかったはずだった。大畠が復讐したいのは、真弘だけなんだから。
「たまたまだよ。それに俺達がいた所に、幸太くんたちが来たんだからね?」
だから、タイミング悪いのはそっちのせいだよ。そう、大畠は続ける。黙っていれば肌寒ささえ感じる風が、僕と大畠の間を吹き抜けた。大畠の髪が、風に攫われそうになる。
「林間学校中にさぁ、井口の彼女の話聞いておいてくれない? 名前とか、学校とかさ」
「真弘の彼女?」
嫌な想像が頭に浮かんでいく。大畠は、碌でもないことをした僕らに無関係な、真弘の彼女を標的に選んだ。当時の真弘にはいなかった、真弘自身よりも大切な存在。
「僕も知らないんだけど、真弘の彼女のこと」
真弘は自分のことを話したがらない。夜に見てる番組も、最近好きな歌手も、彼女のことも。何でも話す奈良間とは正反対で、僕らは真弘のことを何も知らなかった。知らないといっても、愛用のシャープペンシルのメーカーや、肉より魚派という程度は知っている。けれど、真弘自身の根幹に近い、パーソナルな部分は知らなかった。
「つーか、真弘の彼女のこと知って何するつもりでいんの」
早く話を終わらせ、三人と合流したい気持ちに駆られる。折角林間学校に来たのに、なんでこいつに構ってやらないといけないのか。大畠が口を開く度、それに素直に返事をする自分に、嫌気がさす。大畠は驚いたように目を見開いて、こみ上げる笑いを体を"く"の字にして耐えた。殺しきれなかった笑いが漏れる。
「そんなの教えるわけないだろ! ほんっと、ほんっとうに幸太くんって幸せな頭してるなあ!」
堪えるのをやめた笑いが、山道に響いた。大畠に呼応するように木々が揺れ、葉が擦れ合う。腰の高さにある雑草も、僕を嘲笑して揺れた。僕の中にカッと焼けるような感情が沸き立つ。
「名前通り幸せ満開な頭で、くくっ、ぬくぬく育てられたんだろうね。……あーかわいそう゛っ」
反射的に、手が出ていた。左頬を庇うように、両手で覆う大畠を見る。驚きと怯えが混ざりあった、可哀想な顔をして、大畠は体を折ったまま僕を見ていた。大畠は期待していたはずだ。あの日よりも、大畠自身が力をつけているという幻想を。何もしてこなかった僕が、当時のように大畠につくことを。その思い違いに、きっと適応できていないのだろう。弱い奴ほど、力を過信して身を滅ぼす。どこかで知ったその言葉が、頭の中に浮かんでいた。
「大畠」
早鐘をうつ心臓を落ち着かせるため、優しく、ゆっくりと話しかける。
「僕はお前が真弘に何かできるなんてこと、期待してないから。あと、朝比奈にも」
大畠が僕を睨みつける。睨みつけるだけで、反論も、反撃もない。口答えをしないように躾られたような姿を、可哀想だと感じた。
「殴ってごめんな」
自分の右手を擦る。初めて人を殴った。大畠の頬に当たった部分だけでなく、手首まで痛む。
「協力はする約束だったから、それは守る」
殴っても気持ちがすっきりした訳ではなかった。むしろ、虚しさがひっそりと顔を覗かせているような気がする。何も言わずにいる大畠を無視し、僕は来た道を戻って行った。靴裏で主張する小石を、強く踏む。鈍く刺さるその痛みに、心地良さを感じた。
テント設営場には、既に登山の準備を始めた生徒達で溢れていた。奈良間達も例外なく、学校指定のジャージを着て、カバンを背負っている。先頭にいる生徒が少しずつ前進しているのを確認し、僕もジャージに着替えるためにテントに入った。
「雑種は」
「……もう戻ってきたと思うけど」
まだジャージに着替えていない真弘が、苛立たしそうに頭をかく。その滲み出る不機嫌さは、あの頃と同じように僕の心臓を雁字搦めにした。息が詰まる。十分にあるはずの酸素が、ここだけ薄くなっているみたいに。
「奈良間達もう着替えてるけど」
「知ってる」
昔ドラマで見た倦怠期のカップルのような、反抗期を迎えた娘と親のような、微妙な空気。漏れだしそうなため息を飲み込み、制服から指定ジャージに着替える。ボストンバッグに入れていた黒いリュックに必要なものを詰める頃、真弘もジャージに着替え始めた。薄く見える体ではあるが、多少鍛えているようで、腹には筋肉が浮き出ている。
「鍛えてんだ」
僕の視線に気付いたのか、Tシャツを着てから、真弘が静かに話す。
「ヒョロガリじゃかっこ悪いしな」
「どうせ僕はヒョロガリ予備軍だよ」
陸上部で鍛えた最低限の筋力があるとはいえ、不要な脂肪が落ちてるだけのもやしに違いはない。悪く口角を上げた真弘に笑いかけながら、内心、安堵していた。まだだ。まだ、真弘は大畠を不快としか思っていない。そのままでいてほしい。僕だけで大畠の復讐を止められれば、それが今生み出せる最高のシナリオのはずだ。
準備が終わった真弘とテントの外に出る。待ちくたびれた様子の奈良間に平謝りし、僕らも他の生徒と同じように山道を目指した。
- Re: 世界は君に期待しすぎてる ( No.16 )
- 日時: 2019/03/28 16:08
- 名前: 浅葱 游 ◆jRIrZoOLik (ID: /AtcWqBj)
海暝生の長い列が山道で連なり、後方は進みが遅くなっていた。山道に入る前に渡された手作り感溢れる台紙には、荻の山スタンプラリーとポップなフォントで書かれている。奈良間に持たせた台紙も、残すところあと一枠残っているだけだ。最前列の生徒達はもう終わっているのかもしれない。勝ち負けはないと分かっていても、なぜか負けたような気分になってしまう。
けれど真弘は順番を気にしていないらしく、自然と僕自身も無駄な焦りを鎮めようとしいた。
「昼の後に登山ってきついね……」
僕らとは違い運動から身を置いている春輝が、少し息を荒らげながら話す。男子だから登山も平気という訳ではなく、足場の悪い上り坂は慣れていない人の体力を奪うには十分なものだ。少ないとはいえ荷物も抱えているのだから、より体力は奪われているんだろう。
「頑張れ帰宅部」
「下の上の運動神経で頑張れ帰宅部」
「うるせー……」
軽口を叩く言葉も、無理やり息を吐き出したようなもので、限界が近いんだろうなと分かった。奈良間は他の男子達と一緒に先に行っている。赤いカバンが、青々とした木々の中で浮いている。
スタンプラリーはこのまま奈良間に任せておけば、時間内に——それも比較的早く終わるだろう。運動が得意なばかはこういう時に頼りになると分かっていた。それは僕と真弘だけじゃなく、付き合いの長い春輝にとってはもちろんのこと。口には出さないけれど、僕達は出さん的な考えが強いんだろうな。都合のいい友人。そんな言葉が、ふっと頭に浮かんで消えた。
「もう少しで一回登り終わるから、そこで休憩するべ」
涼しい顔をして言う真弘に、僕と春輝は頷いた。
「おーす、お疲れー!」
ようやく登りきった山。何分も前から着いていたらしい奈良間が、荷物をまとめて僕達の方へやってくる。
「春輝体力無さすぎだべや」
「……まじでうるさい」
僕が支えていた春輝を、当たり前というように奈良間が支える。身長差の大きくない二人だから、僕に支えられるよりも、春輝は楽だろうと思う。
「あのへん座って、昼飯食うべ」
そう言って奈良間が指をさしたのは、男女の混合グループなど、大人数のグループが陣取るスペースの近くだった。
「あっち行きにくくね?」
「そうでもなくね?」
真弘が少し嫌そうに言う。クラス内外問わず友人がいる奈良間と違い、真弘は万人受けするような中身をしていない。僕もそれを分かっていた。
「お前が気にしすぎてるだけだべや、大丈夫だって」
ただ奈良間は分かっていないのだろうと思う。人懐こい満面の笑みで僕達を見て、春輝を支えながら奈良間は進んでいく。たまに僕と真弘を振り返るけれど、早く来いと言いたい様子だ。
「夜覚えとけよ、あいつ」
「真弘、顔怖いぞ」
眉間にしわを寄せて真弘は呟く。僕達も後を追って、先に荷物を置いていた奈良間と合流する。
この山は標高が特別高いわけではなく、小学校では遠足の目的地となることが多いらしい。奈良間がとったスペースの周りでは、それぞれ持ってきていた昼食を摂っていたり、写真を撮りあっていたりと、自由な雰囲気だ。早いグループは既に下山を始めているらしく、見かけないクラスメイトも数名いる気がする。
ただ、ほとんどの生徒は慣れない登山の疲れを癒すように、地面に座って雑談をしていた。奈良間の正面に僕が座り、僕の隣には真弘が座る。遅く来た僕達に視線を向けた生徒もいるけれど些細なもので、すぐに興味をなくしたらしい。僕達も周りと同じように、雑談する内の一グループになった。
「慣れてないにしても春輝疲れすぎじゃね?」
食べ損ねていた昼食を摂る僕達に、ゼリー飲料を飲み込んだ奈良間が言う。少し呆れ気味だけれど、優しさの隠れた言い方。
「体育の成績3なめないでもらっていいすかね」
不機嫌そうに答える春輝だけれど、少し嬉しそうに聞こえる。
「僕達と違って、春輝はそんな筋肉もないから仕方ないっしょ」
「俺だけじゃなくて、真弘も帰宅部じゃなかった?」
「最近トレセンで鍛えてっから俺は」
「え、まじ? なんで誘ってくんねーの?」
「お前部活あるだろ」
そういう問題じゃねーじゃんか。不貞腐れたように真弘を睨む奈良間を無視して、真弘は正面に座る春輝を見た。
「鍛えんなら連れてっけど、どーする?」
「えー……」
答えに悩みながら、春輝はコンビニのちぎりパンを一つ食べる。僕が二つ目のおにぎりを食べ終え、三つ目のおにぎりを開けたタイミングで、意を決した春輝が「行こうかな」と返事をした。
「トレセン何円かかるんだっけ。高いと行けないんだけど」
「ん」
口にジャムパンを詰めた真弘は、右手で"五"を示したあと、"ぜろ"を表す。
「えっ安い」
パンを飲み込んだ真弘が、口元を指先で拭いながら続けた。
「二階使うだけなら、五十円払えば誰でも使える。回数券とかあるけど、別に買わなくても値段的には変わんねーよ」
へえ、と目を輝かせたのは三人ともだった。特に奈良間は部活動の関係で筋力トレーニングを日課にしているから、専門的な器具を使えるトレセンが格安で使えることは、魅力的らしい。僕も箔星と合同練習ができない時の部活に悩んでいたから、トレセンが格安で使えることは嬉しい。
林間学校まで来て地元の話題で盛り上がるのは仕方ないなぁと、談笑の最中ふと思う。地上にいる時よりも冷えた風が、髪を揺らす。ひいた汗を容赦なく冷やすせいで、肌寒さが感じられた。僕だけが寒さを感じたわけではなかったらしく、真弘と春輝は食べ終えた昼食のゴミをカバンにしまっている。着いてから二十分ほど経っていることを、携帯で確認できた。
「降りたっけ次何すんだっけ」
下りになり、生き生きし始めた春輝が嬉しそうに笑って、
「休憩のあと、晩飯作りだよ」
夜が過ぎるのは早かった。まだ奈良間と春輝はテントに戻ってきてはいないるしい。晩御飯として、同じ班になった女子達にからかわれながら作ったカレーは、ほのかさんのほどではないにしても美味しかった。久しぶりに笑いながら晩御飯を食べた気がする。
「女子の気遣いすごくなかった?」
人数分置かれたカレーの皿にご飯を盛り、僕と真弘がそれにルーをかけ、女子がテーブルに持っていく。全部終わらせて席に戻れば、先に座っていた女子がコップにお茶を入れてくれていた。
「俺らの分までやってくれてるとは思ってなかったな」
「それな。あれ、あの子……メガネの子名前なんだっけ」
普段話をすることがない女子生徒の名前は、何となく教室を飛び交っているミサキやキョウカしか覚えていなかった。
「やなぎまちありさだろ。文化委員じゃね? たしか」
「やなぎまちさん」
やなぎまち。何度か脳内で呟きながら記憶を辿るが、ついさっき見てたはずの顔も曖昧だ。クラスのことに興味がない訳では無いけれど、特定の女子を覚えられるほど、関わりがないから仕方が無いのかもしれない。
「やなぎまちさん、なんか凄かったな。媚びてるわけじゃないんだろうけど、すげー女って感じした」
「俺は彼女じゃねぇと、あれは無理」
「少しわかるわ」
二人がまだ戻らないテントの中で、僕達は今日一日を思い返した。
- Re: 世界は君に期待しすぎてる ( No.17 )
- 日時: 2019/03/21 18:24
- 名前: 浅葱 游 ◆jRIrZoOLik (ID: /AtcWqBj)
「大畠と何話してた?」
「……なんで?」
突然変わった話題——それも大畠とのことに、水を飲もうとしていた手が止まった。僕は真弘をじっと見る。真弘は退屈そうにスナック菓子に手を伸ばすだけで、僕のことはまったく見ていない。右手で携帯をいじりながら、口にスナック菓子を運んでいく。
「そんなに大した事は話してない」
「俺は、何を話してたのかをきいてる」
「真弘に話すことはない」
「じゃあお前、その手何」
ペットボトルを握った僕の手を、真弘が指さす。忘れていた痛みがぶり返した。
「大畠んとこ行ってからだろ、それ。隠せてると思ってたんならバカ丸出しだな」
呆れたように言う真弘の目は、今度こそ僕のことをしっかりと見据えていた。切れ長の瞳を細められる。真弘が苛立ってることはすぐに分かった。分かったけれど、僕は大畠の復讐を伝える気にはなれなかった。伝えても伝えなくても、きっと真弘は怒るという確信があった。
「別に隠してたつもりはない」
「じゃあ、お前が人殴るような理由ってなんだよ」
「腹が立ったからしかないだろ」
「は? お前大畠に腹立てることあんの?」
「真弘には関係ないんだって、何回も言ってんだろ」
そうだ、真弘に関係なんてない。これは僕が、真弘のために勝手にすることだ。真弘が彼女と幸せに過ごせるように、その時に近くに僕がいなくたっていいんだから。
そう言い切った手前、真弘がどんな顔で僕を見ているのか伺うことができない。何十分にも感じられるほど長く窮屈な沈黙。ペットボトルキャップの蛇腹を数えたり、無意味にペットボトルを傾け、動く水面を眺める。そろそろ教師の巡回がある時間かもしれないけれど、この場から今すぐにでも走って逃げ出してしまいたい気持ちだ。そんな度胸は、欠片もないけれど。
ペットボトルを弄ぶには長い時間。忘れていた痛みが、大畠を殴った手にやってきた。無意識にその手を撫でる。人を殴ることは簡単だった。ただ相手の頬を目掛けて、自分の拳を当てるだけ。簡単だった。
「……人、殴ったことある?」
耐えきれない沈黙を壊すために、そう、話題を変える。
「お前よりは」
ぶっきらぼうに答えた真弘は、自分の手を見つめていた。
「彼女のため? 殴ったのは」
「別に。俺のためでしかねーよ」
「自分のため」
乱暴にスナック菓子を噛む音が聞こえた。
「俺の喧嘩であいつになにか思ってほしいとか、そんなんじゃねーから」
煩わしそうに、そう真弘は言った。ガツンと一発、頭を殴られたような衝撃。自分とは違う人間なんだということを、今、強く感じた。
「あのさ——」
「あぶねー! もうちょっとで先生来るとこだったー!」
息を切らして、それでも笑顔のまま入ってきた奈良間に、僕の言葉は掻き消された。
「え、今何時よ」
「八時!」
「中学生だべやそれ」
さっきまでの空気は、もう無くなっている。奈良間に続いて戻ってきた春輝からは、お土産と言われてどこからか貰ってきた蔵生を渡された。
「幸太はずっと真弘と?」
「おー。一緒に動画見てた」
ここまで来て動画かよ、と春輝は苦笑いする。伊織やほのかさんに対してするように、息を吐くように嘘をついた。奈良間も春輝も、この嘘を気にしている様子はない。ただ僕は、真弘のことは見れないでいた。
「さっき見てた動画の女の人エロかったから、皆で見ない?」
「エロい女の人見たい!」
聡い真弘は、きっと気が付いていると思った。僕の携帯を覗き込む奈良間に笑いかけながら、慣れないことはするもんじゃないと、ひっそりとため息を吐く。小さな覚悟の芽が、小さく伸びていった。
ひんやりとした空気で、まだ薄ぼんやりとしていた意識が覚醒していく。手に握られた携帯を付けようとして、それの電源が切れていることに気が付いた。そうだ、昨日動画見ながら寝落ちたんじゃん。縮こまった身体を伸ばすと、低い唸りの後で大きなあくびが出た。慣れないことはするもんじゃない。普段見ない動画を見たせいで、いつもより目が乾いている感覚がする。心なしか頭も痛い。
まだ重たい体をゆっくりと起こす。隣で動画を見ていたはずの奈良間は、逆さになって少し離れた真弘の横腹を枕にしていた。行儀よく寝ている真弘からしたら、ずいぶん迷惑な寝方だろうな。頭をかいて、カバンに入れていたモバイルバッテリーと携帯を接続する。短く震えたことを確認して、携帯を置いておく。今が何時かも分からないけれど、おおよそいつも通りの時間だろう。
コーヒーを買っておけば良かった。父さんと飲むより劣る味でも、あの空気を思い出せるから。何をするでもなく、天井を見る。思い返すのは昨日の真弘の言葉だった。
「なにか思ってほしいわけじゃない」
なぞるように口の中でころがした言葉は、どうもむず痒くて、それでいて憧れを孕んでいる。真弘は本当にそう思っていたはず。じゃあ、自分は。
テントの入口を見るように、寝返りをうつ。無性に走りたい気分だ。外に行ったら冷たい空気を吸い込んで、何も考えられなくなるくらい走りたい。箔星の、あのうるさい先輩を思い出す。後ろ手で見つけた携帯の電源を入れる。デジタル表記で示された時間は、今日の集合時間よりも一時間近く早かった。
いつもと違うことをしよう。昨日のままの服で、テントから出る。山の麓は冷たい空気が流れていて、それを直に感じると、悩んでいた頭の中がすっきりしていく錯覚がした。朝露に濡れた地面に座ることはできず、立ったままでストレッチを行う。ふくらはぎが伸びる心地良さと、少しずつ体全体に血が巡っていく心地良さから、気分も上がってきた。最後に大きく上体を反らして、息を吐く。ゆったりとしたペースで走り出す。目指すのは、昨日大畠を殴ったあの場所。
犯人は現場に戻るという表現が正しいかは分からないけれど、またあの場所に僕は立っていた。山に溶け込むような声が、ずっと先から聞こえた。同じように早起きした生徒が山道を登っているのだろう。簡易的に舗装された階段を数段登ったところで、歩みを止める。昨日、大畠と会った場所。真弘への復讐に手助けすると宣言した場所。複雑な気持ちが、思考を支配する。
真弘が最近の僕を変だと思っている気はしていた。ただ何も言ってこないだけで、深いところではなにか感じていたはずだ。僕は真弘を助けたいと思っているはずなのに、大畠を助けるとも伝えていた。この大きな矛盾が、もう自分一人だけでは抱えきれないほど成長している。ひたすらに、苦しい。この苦しさは自覚したらいけないものだった。誰のために、僕は何をしようとしているんだろう。答えは手を伸ばせば届くのに、その答えを知ることが怖くて仕方ない。
肺に溜まった古い空気を、ゆっくりと吐き出す。もう白くならない息をぼうっと見上げた。何となく惨めだ。真弘を助けよう。真弘が彼女と幸せに過ごせるように、大畠の復讐にあわないように。ジャージ越しに地面に接した尻が、湿ったように感じられる。遠くに聞こえていた声は、もう何も聞こえなくなっていた。戻らないと。来た当初より軽くなった気持ちと、決意を胸にしまい込んで、腰を上げた。
テントに戻ると眠たそうな奈良間と真弘、すっきりした表情を浮かべる春輝とが、それぞれ起きていた。戻ると直ぐに、顔を洗いに行こうと誘われた。
「朝起きたっけいなくてさ、びっくりしたよ」
後ろに眠たそうな二人が続く。僕は春輝から小さなカバンを受け取って、並んで手洗い場へと向かっていた。
「みんな寝てたからさ、起こすのもなーと思ってさ」
「寝てたら声掛けにくいよな」
しゃーないわ、と春輝は快活に笑う。普段から聞き役に徹する春輝の物腰は、他の誰よりも柔らかいと思う。大人数の会話では目立たないけれど、二人で話す時には間のいい相づちが返ってくる。なんでも話してしまえるような雰囲気が、春輝にはあった。
「林間学校がさぁ、終わったっけさ」
「おー」
「映画見に行くの付き合ってくんね?」
だから何かある度に、こうして春輝を頼ってしまう。
「いいよ。振替休日とか使うべ」
映画の誘いはこれで四回目くらいだろうか。初めは驚いた顔をしていたけれど、二回目は今みたいに笑って二つ返事で了承してくれていた。ぬるま湯のような優しさに、今回も甘えるつもりだった。
「したら帰った次の日な」
「おーけー」
約束を取り付けた頃についた手洗い場は、マスクで顔を隠した女子や男子で列ができていた。僕達が並んだ列よりも奥にいた大畠に、自然と視線が向かう。頬が片方だけ赤い。あの光景がフラッシュバックする。僕自身がどうあるべきか答えを見つけたまま宙ぶらりんだからか、まだ中学時代の大畠に対して抱いていた同情がふつふつと大きくなっていた。
「幸太」
「っ、あ……なした?」
「なんも。細かいことは映画の日に聞くし」
「……おう」
列が進み、僕達の番になる。蛇口から出るのはキンキンに冷えた水道水で、顔が洗い終わればすっきりとした気分になった。眠たそうだった奈良間も顔を交換したヒーローなみに元気になっている。
「お前らー、この後朝ごはんになるがその前にテントしまってくるようにー。移動はジャージでいいから、テントしまったら夕べご飯食べたところにクラスごとに集合ー」
数学の三浦がメガホンを使って言う。返事はまばらだったけれど、たむろっていた生徒達はぞろぞろとテントへ戻っていく。
「早くテント片すべー!」
僕達も、元気になった奈良間を追うようにテントへ向かった。
- Re: 世界は君に期待しすぎてる ( No.18 )
- 日時: 2019/04/22 20:52
- 名前: 浅葱 游 ◆jRIrZoOLik (ID: dD1ACbVH)
二日目は時間に追われるがまま過ごし、同様に忙しかった最終日、自宅に戻ったのは夜遅くになってからだった。予想通りほのかさんと伊織は寝ていて、父さんだけがソファに座っていた。おおよその帰宅時間を伝えていたからか、テーブルには淹れたてのコーヒーがある。
「どうだった?」
「初日はケンカしたけど、あとはまあ、別になんも」
取り立てて父さんに話すことは、林間学校中なかった。二日目はテントを片付けた後に朝食を食べ、バス移動。移動先ではつまらない話を聞き、たいした自由時間もない辛い一日だった。慣れない宿泊で疲れたせいで、ベッドに入ってすぐ寝てしまった。最終日もたいしたアクティビティもなく、ほぼ座ったままの一日だった。そのせいかここまで帰ってくる道中も、とりきれない疲れが睡魔を連れてくるほどに体は限界をむかえているらしい。
「けんか?」
「うん、ケンカ」
ソファの近くにカバンを置き、父さんの隣に座る。コーヒーは僕好みのブラックだった。人を殴ったなんて言ったら、父さんはどんな反応をするのか想像すると少し怖くなった。
「仲直りできた?」
父さんがコーヒーを啜る音がする。僕は大畠と仲直りすることなんてない気がした。大畠の復讐も、真弘を守ることも、どちらも中途半端な状態で、仲直りなんて考えは浮かばない。父さんに返事をする事ができないまま、僕はまたコーヒーを飲む。ネスカフェの粉を入れすぎているようで、口に残る風味は酸味が強い。
「明日は休み?」
「明日は友達と映画見てくる」
「したら疲れてるだろうし、コーヒー飲んだら休みなさい」
先にコーヒーを飲み終えた父さんが、キッチンへ向かう。もうぬるくなったコーヒーを、僕は一気に飲み干して、父さんの後ろからシンクへカップを置く。美味しかったよと言うと、嬉しそうに父さんが笑った。
カバンに入っていた洗濯物やクリーニングに出す制服を脱衣所のカゴに投げ入れたところで、ため息が漏れる。
「幸太。おやすみ」
「……すみ」
少しして、階段を上る音が聞こえた。ほのかさんが寝ている部屋に、父さんが向かっているのを、ぼんやりと考える。小さな掛け声と共に、重たい体を立たせる。頭が痒い気もするけれど、風呂に入る余力なんてなかった。ジャージのポケットに入れていた携帯が、二回、短く震える。無視して階段を上っていると、今度は一回、携帯が震えた。
三日ぶりの自室のベッドに寝転がる前、乱雑に床に落とされた教科書に意識が向く。もう何日も経ったのに——まだ何日かくらいしか経ってないのか。無意識のうちにしまい込んでいた現実が、舞い戻ってくる。
嫌でも思い出されるのは、あの日汗をかきながら向かい合っていた伊織のことだ。いい子の皮が剥がれた、きっと素のままの伊織だった。今はきっといい子に戻ってるんだろうなと、伊織の部屋と自分の部屋とを隔てる壁を見て、思う。力なく床に寝そべったカバンと同じように、ベッドに体を預けた。じんわり、背中が熔けていく。重たいまぶたを閉じたほぼ同じ瞬間、連続したバイブレーションに意識が向かった。目を閉じたままでポケットにしまっていた携帯を取り出す。もう少しで日付けが変わりそうだ。
「……なに」
『おーす、起きてっかー?』
「春輝」
端末から楽しそうな春輝の笑い声が聞こえる。思いのほか低いトーンになった僕を気にせず、春輝は話し始めた。
『映画のチケット、午前ので取ったよ』
「あー……何時」
『九時半にシネマフロンティアで。おやすみ』
「……おやすみ」
通話画面を、ホーム画面に戻す。寝て起きるまで、六時間ほどしか睡眠時間は取れない。その他に来ていた通知は確認せず、携帯をスリープさせる。熔けた背中から、足へ、胸へ。どろどろとした何かになりそうなほど、曖昧な境界を意識する頃、僕は夢の中にいた。
私立箔星高等学院の最寄り駅は、様々な施設が複合された駅ビルを有し、近辺では最大だ。ホームから改札を抜ける前まで、何人もの人の隙間を縫って進む。トランクを持ったまま立ち往生する外人や、明らかに内地の方言で話すグループを邪魔くさく思うのもいつもの事だった。横並びで歩く女性達の横をすり抜け、ステラプレイスへと向かう。スターバックスコーヒーに長い列が出来ているのを横目に見ながら、映画館への直通エレベーターの前に並んだ。
係員の指示に沿って、着いたエレベーターに乗り込む。次から次へと人が入り、まだ一階ではあるが既に満員だ。奥の隅に立ち、目を閉じる。今日はイヤホンを忘れたせいで、色々な音が耳に入ってくる。中学生の頃はイヤホンが無くても良かったけれど、密着性イヤホンの虜になってしまったせいでイヤホンがないと落ち着かない。数回、途中で人の出入りがあった。目的の階でエレベーターが開く。春輝の姿はすぐに見つけられた。
「おはよー」
「はよ」
映画館で合流した春輝の手には、電子チケットから引き換えた上映券が握られていた。普段の制服姿と同じような色味をした私服に、春輝らしいなと感じる。チケットを受け取り上映時間を確認する。
「これポップコーン買ったっけすぐじゃね?」
「まあ並んでるからね」
「春輝何食う?」
「うーん……。塩にバタートッピングのMサイズかな。幸太は?」
「ホットドッグとコーラのL」
「アメリカの人?」
「純血の日本人って言ったらどーするよ」
「いや普通だべそれ」
カウンターの上部に設置されたモニターでは、これから見る映画の予告や、上映予定映画の予告なども流れていた。何も考えずに話せる友人は春輝以外に奈良間もいるけれど、話していて疲れないのは春輝しかいない気がする。誰にも応対が変わらない姿は、素直にすごいと思ってしまう。
「先幸太いいよ」
「わかった」
次の方どうぞ、と感じの良い笑顔をした店員に、メニューを注文する。会計を済ませて横に移動すると、春輝も同じ店員に注文を始める。意外と注文したものが揃うのに時間がかかり、あとから注文を済ませた春輝とほぼ同時にレジから離れた。足の長いテーブルに立ち、互いに一言も発しないまま春輝の買ったポップコーンを食べる。
「バターありだな」
「だべー。有り得ねぇくらい手は汚れるけどね」
一緒に貰ってきたらしい紙ナプキンで手を拭いていると、アナウンスが入った。六番シアターへの開場が始まり、家族連れや小学生の集まりが蟻らしく列を作る。その列に僕達も混ざり、チケットの半分を切り取ってもらう。順路に沿って進み、春輝に付いてシアター内の座席に座る。スクリーンが見やすい、やや上段の真ん中の座席だった。
「いい席」
「母さんに取っておいてもらったんだよね」
ちゃんと考えてくれてるだろ、と春輝は嬉しそうに笑う。それに頷いて、目の前のスクリーンに映し出された予告映像に意識を向けた。春輝は家族のことを話す時によく笑う。僕と同じ一人っ子として育ったらしいけれど、良くも悪くも他人の視線を気にしてしまう僕とは全然違う。中学が違うだけでこんな変わるのか。そう感じたことは、二人と出会ってから何度もあった。僕と真弘は、奈良間と春輝とは正反対な人間だと思うことも。
映画泥棒のムービーが流れると、甲高い悲鳴や、うわぁという声があがった。奇怪な動きと顔が見えないあたりが怖いんだろうなと思うけれど、あの有名なパンのアニメだって似たようなものだという気がしてならない。ポップコーンが弾けて、シアターの電気が落とされる。毎年進化しているように感じるロゴと、愛らしいサトシの相棒が鳴く。ナレーターの声を聞きながらホットドッグを頬張る。お腹が空いていたせいで、ホットドッグはすぐになくなった。画面では母親連れの少女が、何かのお祭りに来ているシーンが流れている。満腹になって忍び寄ってきた睡魔に、まだ導入だよなぁと考えながらも、そっと意識を委ねた。
「安眠しすぎ」
「予想以上に疲れてた」
呆れた顔で春輝に言われ、昼食を食べる手が止まった。気がついたら寝ていたし、気がついたらサトシの窮地をモンスターが救っていたし、次に気がついたらエンディングが終わっていた。春輝に揺さぶられて起きた頃には、シアター内にいる人は数えられる程度しかいなかった。小言を聞き流しながら入った洋食屋でも、こうしてまだチクチクと刺される。
「まあいいんだけどね」
笑った春輝がハンバーグプレートに手をつけたのを見て、自分も切り分けたハンバーグを頬張る。
「で、何かあったわけ」
三角食べをする春輝に、意を決して声をかける。
「大畠って奴から真弘を助けたい」
驚いた顔をした春輝が僕を見ていた。
- Re: 世界は君に期待しすぎてる ( No.19 )
- 日時: 2019/04/12 21:07
- 名前: 浅葱 游 ◆jRIrZoOLik (ID: Ft4.l7ID)
そして、なんとも言えない複雑な表情を見せた後、いつもの様に微笑んだ。
「いんじゃね? 助ければ」
「うん」
相談事をした時の春輝はさすがだと思う。あの日の既視感を、水と一緒に飲み込んだ。
「その事相談したかったん?」
「いや、これ見てほしくて」
ポケットから出した携帯の、メッセージアプリを開く。大畠、朝日奈とのグループラインを一番上まで遡り、携帯を春輝に渡す。全部見ていいよと伝え、残ったハンバーグを片付けにかかる。春輝が頼むからと食後にパフェを頼んだけれど、入る気がしない。薄気味悪さが少しずつ腹を膨れさせる。ため息を押し込むように口にハンバーグを詰め、あまり噛まずに水で流しこむ。
春輝はハンバーグを食べていた手を止め、真剣そうな表情で携帯をスクロールさせていた。自分が返信をしたのは最初の数回だけ。スクロールするほど会話量が増えたのは、大畠と朝日奈のせいだった。中学の仕返しをする、気持ちを踏みにじってきたから復讐したい。そんな思いの丈を僕にぶつけてくるだけの場所として、グループは活動していた。
「俺さ、中学ん時の二人さ、なんも知らないんだけど何やったん?」
「今風に言えばイジメってやつ」
ふうん、と気のなさそうな返事をする春輝に、僕は続ける。かたく閉じた錠を開け、記憶の蓋をこじ開ける。
きっかけはよく覚えていない。テストの点が僕達より低かったのかもしれないし、給食を食べるのが遅いからとか、足が遅いからとか、男のくせに女みたいに弱いからだったかもしれない。ただ一つ、思い出すことができない程度の理由で、僕達が大畠をいじめていたのは事実だった。皆は元々何となく好きじゃなかったのかもしれないし、そもそも何も感じていなかった気さえしてしまう。
大畠は小学校からの同級生で、中学三年の夏休み中に市外へ引っ越した。父親の仕事の都合と説明されたが、僕も真弘もそれ以外の友達も、それだけが理由だとは考えられなかった。罪悪感を抱いていたのは少なくないはずだった。自覚できるほどのことをしていたから、僕達は「仲間がいなくなるのは寂しいよな」と笑った担任に、同じように笑うことさえできなかった。
いつも笑っているのが気に食わない。幸せそうに母親の話をする姿が癪に障る。僕はたしかにそう感じていた。帰り道が途中まで一緒だったけれど、初めこそ仲は良かったけれど。静かに背中を向けて扉を閉ざしてから、僕は真弘達に加担した。僕達がしたことは静かに伝播し、気が付けばクラス全体が大畠をよく思っていなかったように思う。僕達は誰も止めないのを喜んでいた。
初めは無視から始まった。理由なく腹を立て、素っ気ない返事をする。話しかけないでくれと言われた大畠が、切なそうな視線を寄越すのがいつまでも気になった。休み時間にわざと机にぶつかったり、教科書が置かれていることを気にせず机に座る奴もいた。決まって大畠が使う机の周囲に集まっていたけれど、そこでの会話に大畠が入ることはなかった。僕達は何も言わず、自然と大畠を空気のように、まるで初めからいなかったように扱っていた。
そのグループの中心にいたのが、真弘と数人のクラスメイトだった。
「女みてーななりしてっけどお前ガイジかよ」
「障害持ちはここじゃなくて養護学校行くべきじゃねーの?」
「お前に挨拶されたくねーんだわ」
「むしろ話しかけてくんなよ。耳が腐る」
どんなに笑顔で話していても、大畠が戻ってくると冷え切った視線を向ける。クラス対大畠の構図を作ることは、なにも難しくなかった。
「俺んとこも似たようなのあったけど、幸太んとこすごいね」
「荒れてたから」
喉を潤すために、グラスに注がれた水を飲み干す。
「にしてもだよ」
優しく笑う春輝につられ、少しだけ笑みが浮かんだ。
「まあそんな状況だったからさ、すぐ暴力も出たんだよ」
始まりはやはりどうでもいいきっかけだった。大畠が教室を出た所で、真弘と仲が良かった別クラスの男子にぶつかった。言いがかりをつけて、美術室が置かれた人気のない三階トイレに連れて行かれたのを、僕は見ていた。連れて行かれた先で何があったかも、僕は見ていた。見てるだけ。真弘達のように実害は一切加えなかったところが、僕のずるい所だった。
ずるい僕はトイレの入口に凭れて、土下座させられる大畠の後ろ姿を見ていた。いい加減な掃除しかされない、汚く臭いトイレ。その床に額をつけて、震えた声で何度も謝っていた。もし僕がいなくて、大畠に勇気があったとすれば、きっと走って逃げていただろう。野次馬の視線なんて気にせず、走って逃げていたはずだ。
大畠が逃げられなかった理由の中に、僕の存在があったんじゃないかと思う。思うだけで、確証があるわけではなかった。僕は大畠と一時期親しくしていた。親友とまではいかないにしても、互いの家へ遊びに行ったりする仲だった。けれど大畠が標的になった頃から僕は真弘とよく過ごしていたから、大畠との溝ができ始めていたのだと思う。いつの間にか大畠は孤立していたし、僕は大畠に救いの手を伸ばすという選択肢を持たずに過ごしていた。それが普通だった。
トイレでの一件から、大畠は頻繁に呼び出されるようになった。休み時間が終わる間際に戻ってくる度、体の違う部分をさすっていたのをよく覚えている。その大畠を笑う真弘のことも。僕は笑いさえしなくても真弘と一緒に行動しているおかげで、傍観者のような立ち位置になっていたことは、最近になって分かったことだった。
「大畠に言われたんだ」
「なんて?」
店員が持ってきたパフェを食べる。春輝には見せなかった、僕と大畠の個人的なやりとりの中に、その言葉はあった。
「幸太を一番許せないって」
大畠と連絡先を交換してすぐ言われたことだった。
「だから真弘に復讐するらしい」
「なんで幸太にじゃないの?」
「今度は大畠側にいるから」
溶けだしたソフトクリーム部分をすくって口へ運ぶ。冷たいだけで、味はあまり感じない。春輝は納得したようて、何度か頷きながらパフェを食べていく。そこからしばらく話しをせず、ひたすらパフェを片付けた。途中何度もサンデーにすれば良かったと後悔したけれど、食べ終わる頃には達成感が心に満ちた。春輝は少し遅れてパフェを食べきり、自身の携帯をいじっていた。僕もそれにならい、しばらくログインしていなかったゲームを開く。長いローディングが嫌で、普段は開いてもすぐ閉じてしまうが、今日は珍しくロード時間が短かった。
クエストを数個、完全クリア報酬をもらい、ゲームを閉じる。ほぼ満席の店内に長居するのも躊躇われ、どちらからともなく準備を始めた。割り勘で会計を済まし、エスカレーターで地下へと降りる。その間春輝とは林間学校の思い出話をしていた。束の間に満たされた心は、少しずつ漏れ出して、地下のカフェに着く頃には空っぽに戻ってしまった。
「じゃーウィンナーコーヒー二つ。二つともアイスで」
案内された席は、ワインを零したように深い紅色の椅子が特徴的だった。少し背の低い椅子に座るが、場違いな気がして気が気じゃない。
「春輝よく来るの? ここ」
身を乗り出し小声で聞くと、春輝はニヤリと笑った。
「初体験、幸太にあげちゃった」
「きも」
「やめてよ傷付く」
声を押し殺し、春輝が笑う。普段は僕達の手綱を握るような存在だけれど、実際はふざけるのが好きな厄介者だ。ツボが浅いことを気にしていると前に話していたけれど、目の前で笑い続けているあたり、直す気がない気がしてならない。
「あー、ははっ、めっちゃ笑ったわー」
コーヒーを置かれる間も笑い続け、落ち着いたのはグラスが結露する頃だった。
「さっきの続きだけどさ、大畠くん側に幸太がいるから今度は止めたいってことっしょ?」
「止めたいっつーか……」
「真弘が標的にされたくない?」
的を射た春輝の言葉に、頷く。コーヒーが苦い。
「したっけさ、真弘に話そうよ」
「いやそれはだめだべや。真弘が大畠に先に手ぇ出したら——」
「真弘はもう中学生じゃないべ。大丈夫だよ」
春輝と視線がぶつかる。情けない顔が、レンズに薄く反射していた。春輝が大丈夫だと言っても、本当に最善策なのかが分からない。僕が知っている真弘は、あの頃から変わらない。真弘は大畠を心の底から嫌っていた。
「そうしたいと思ってるから俺に相談にきたんでしょ、幸太」
- Re: 世界は君に期待しすぎてる ( No.20 )
- 日時: 2019/04/21 22:14
- 名前: 浅葱 游 ◆jRIrZoOLik (ID: FpNTyiBw)
「違う? 幸太さ、そんな意気地無しじゃないんだから、言っちゃえばいいんだよ」
真弘はもう子どもじゃない。暗に真弘は守られる人じゃないと言われているようで、僕の出る幕なんてないとも言われているようだ。
「真弘が怒ったとしてもさ、俺も一緒に協力したげっから」
笑う春輝に、居心地の悪さと言葉にし難い不快感があった。
「……夜まで考えさして」
「ゆっくりでいいよ。連絡待ってるわ」
残っていたコーヒーを飲み干し、カフェを出る。春輝は服を見るらしく、そのまま解散となった。イヤホンからはアップテンポなイントロが流れる。——散々痛い目に目に遭った毎日を消して、もう二度としょうもない嘘なんてないように、いらんもんから全部捨てていけ。勝手にシンパシーを感じたその歌詞に、先程まで感じていた気味の悪い不快感が何か、わかった気がした。そして、自分の面倒くささも。
まだ太陽が高い。このまま帰るのも良いかもしれないけれど、最近顔を出していない箔星陸上部を見に行こうか。気持ちの悪い不快感を言葉にしたくなった。僕自身が、僕を知ろう。駅の北口を出たところで、今日が平日だということを思い出した。
「行けねーじゃん」
数瞬立ち止まり、踵を返す。素直に家に帰り、真弘に話しをしてみよう。締め切り前の課題に追われている時のように、特に理由もなく行動する気持ちにはなれない。駅に戻り、数分後に発車する電車に乗り込む。空席の多い車内。反対のホームで次の電車を待つサラリーマンや子連れの母親。背の低い自動販売機で飲み物を買っている人もいる。あんなに小さかった頃の思い出は特にないけれど、こんな風にならないでほしいなと、知らない子に思う。車窓は、残像を連れて映像を変えていった。不規則な揺れに、心地良さを感じる。夕方辺り会えるかと、真弘にメッセージを送る。返信が来る可能性があることに、不安があった。しまった携帯の存在さえもなかったことにしよう。腕を組み、外を切り離すために目を閉じた。
「呼んどいて遅れるとかわやだなお前」
「ごめんほんと」
仮眠が仮眠にならなかった。起きて携帯を確認すると真弘からのメッセージが数件あり、大公園で待ってると最後にあった。数時間前に着ていたメッセージに気付いてすぐ、自転車に乗ることも忘れて公園に走った。遊具もなく、地元の小学生や園児さえ遊びに来ない大公園の小さな丘に、真弘は退屈そうに座っていた。僕を見て、呆れたように笑っていた。
「で、なんか用事?」
「あーまあ」
真弘の横に腰掛けたが、話の切り出し方が分からない。直接伝えた方が良いのだろうけれど、言葉が上手く出てこない。所在なくさ迷わせた視線が、足元の一匹の虫にとまる。草っ原でよく見る、光沢のある虫が六つの足で進んでいた。
「前にさ、伊織のことさ、話したじゃん」
考える余裕なく出てくるのは、どうでもいい、回りくどい言葉ばかり。
「でさ、そん時は本気であいつにさ、なんかしてやりたいって思ってたんだけどさ」
「おー」
「今さ、伊織どうこうってよりはさ、大畠のことでさ話したいことあって」
真弘のことを見れないまま、ぽつぽつと続ける。時間をかけてゆっくり話していくのを、真弘は黙って聞いてくれていた。今僕を照らす夕日は、真弘の染まった髪を明るく照らしている気がする。反射して、きらめいて。
不意に、初めて髪を金にした真弘の笑顔を思い出した。中学校を卒業した日、真っ直ぐ遊びに行った僕達は染め粉を買った。たばこのにおいでいっぱいになった真弘の家で、だんだん髪の色が変わっていく様子を、二人で笑って見ていた。大畠と出会って僕達は変わったけれど、当時みたいな関係に戻りたいと思ってしまう。だからこそ伝えなくてはいけない。真弘が笑えるように。大畠なんかに負けないように。
「幸太」
久し振りに呼ばれた名前に、自然と顔が上がる。目じりの上がった、獣のような強い瞳。夕日を集めた真弘の瞳の中に、僕の姿が弱々しく反射した。
「まだなんか隠し事してんの?」
変わらない表情で、真弘は言う。もう隠し事をするつもりなんてない。その言葉が喉元まで浮かんで、けれど図星の指摘に怯えて、いなくなってしまう。まだ。真弘はずっと、僕が何かを隠していることに気が付いていたのだろうか。大畠と会ってからも変えずにいた態度の中で、真弘だけ何かを知ってくれたのだろうか。
「……僕は」
真弘はもう中学生じゃない。子どもじゃない、あの時のような。
「大畠から真弘を助けたい」
僕達の間をぬるい風が抜ける。後味にうっすらとした冷気を帯びて、僕と真弘を撫でていった。
「なんだそれ」
当時のように真弘が破顔する。笑った、そう思った。
「久し振りにガチ笑いしてるの見た」
「俺も人間だからな。大畠から俺の事助けてぇの?」
「うん。できる事は情報流したりするくらいっていう、しょうもない感じだけど」
途端に自信がなくなり、言葉は尻すぼみになっていく。
「そこは自信もっとけ」
「いっ!」
強い平手打ちが、背中にあたる。肋のあたりを叩かれたせいで、思わず咳き込んでしまった。悪ぃ悪ぃと笑う真弘に、精一杯強がる。こんなやり取りも、いつも間にかなくなっていた。真弘に彼女ができて、僕に兄ができて、僕達の関係も少しずつ変わってしまっていた。
「頼りねぇけど、幸太に助けられてやるよ」
期待してるわ。そう言って真弘は、やわらかく笑った。その横顔が夕日に照らされて、明るくあどけない表情が映る。そうだ、真弘は笑うと少し幼くなる。四人で居る時も、学校で居る時も見ることが出来ない素の表情。
「真弘が友達で良かった」
自然に漏れた本音に、真弘はまた嬉しそうに笑う。心は晴れやかだ。二人でくだらないことを話し、また笑う。あの日雨に打たれた時、あの日大畠から連絡が来た時、あの日、真弘から逃げ出した時。覆われた分厚い雲から、光が差し込んでいるような気分だ。
「俺も、幸太で良かったわ」
「な」
どちらからともなく、腰をあげる。別れる時に言葉はなかった。ただ背中に受ける夕日だけが、あたたかくて、暑くて、蝦夷梅雨の終わりを告げていた。
■爽天シャイン