複雑・ファジー小説

Re: 世界は君に期待しすぎてる ( No.12 )
日時: 2019/03/27 21:34
名前: 浅葱 游 ◆jRIrZoOLik (ID: /AtcWqBj)

 目覚めは最悪だった。アラームを何度消したか分からず携帯を見ると、もう既に授業が始まる時間。リビングに行けば驚いた顔でほのかさんが僕を見た。何か言っている。聞く気にならなかった。父さんはもう仕事に行ったのかな。少しだけ、一緒に過ごしたかったのにな。母さんに会いた——
「幸太くん!」
「っはい」
 目の前にはほのかさんの顔。いわゆる綺麗系の顔をしているけど、皺結構あるな。
「学校、どうするの?」
 問いかける優しい声色に、忘れていたことを思い出す。今日は大した授業も無いし、サボっても問題はない気がした。
「サボる」
 そう告げ、キッチンのコーヒーサーバーを使いカフェオレを淹れる。注ぎ口からは湯気がたつ。サーバーが動かなくなったのを確認し、マグカップを持って食卓テーブルに置く。真白なテーブルであるのに汚れひとつないのは、ほのかさんの頑張りなのだろうか。椅子に座ると何だかもう立ち上がれない気になってしまった。
「駄目よ、学校はちゃんと行かなきゃ」
 母親らしく、眉尻を少しつり上げてほのかさんが言う。耳障りな声。どうして僕はこの人が母親になる事を許したんだろう。
「関係ないだろ」
 味のしないカフェオレを啜る。舌先を内側に巻いても、その温度で火傷をした。ほのかさんはどうして他人の僕を気にかけようとするんだ。僕は親だと認めてなんかいないのに。父さんの一番を簡単に奪っていったくせに、どうしてお前が一番幸せそうなんだ。ダメだと自制しようにも、湧き上がる怒りは歯止めが効きそうにない。
「関係あるわよ! だって、幸太くんは私達の子どもだもの……」


 そこから先はよく覚えていない。父さんに殴られた頬が痛い。伊織も午後の授業を受けずに早退した。伊織は何も言わなかったし、何もしてこなかった。警察に通報されんのかな。ベッドに座って何度もそう考えたが、今までに聞こえたサイレンは救急車のものだけだった。
 大畠の思う復讐も、今の僕のように誰かを不幸にするものなんだろうな。きっと真弘が不幸になる。中学の時、真弘のこと止めてやればよかった。窓も開けず黙って座っているだけであるのに、じわりと背中や太腿に汗をかいているのを感じる。気持ち悪さが強まる。ただ心はどこか軽い気がした。今なら何でもできる気がする。
 喉が渇いた。あのカフェオレを飲んで以降、何も口に入れていない。何となくリビングに行くのが億劫だった。また父親に怒られる気がする。そう考えれば考えるほど、このベッドの上から動くことはできない。シワの寄ったシーツに載るこの足先から、少しずつ溶けだしていきたい。
 自分を保つものが失われている今、思い浮かぶのは自分がいなくなれるような想像だけ。動脈だかを切れば死ねるのかも。父さんが悲しまないようにするには、いっそこの家から出て行くか。ベッドから降り、学校に行く時に使っているカバンの中身を床に出す。重たい教科書が全部出てから、いい加減な折り目だらけのプリントが数枚落ちてきた。一番最後に落ちてきたプリントを開く。それは林間学校で必要な物が書かれた、簡易的なしおりらしかった。
 拾い、上下を持って紙を広げる。長々と隙間なく詰められた文字は読む気が起こらず、中段に設けられた『用意するもの』と書かれた部分を見た。林間学校に必要なものが細かく書かれた最後に、不要なものが数個載っている。教師の話を思い出そうにも、一切浮かんでこない。寝ていたつもりはないけれど、覚えていないならそういうことか。今は林間学校に行きたいという気持ちすらなく、手の中でそれを握る。乾いた音を立てたプリントは、拾う前よりぐしゃぐしゃになった。

「入るよ」
 僕の返事を待たずに扉が開く。まだ制服を着たままの伊織が、部屋の真ん中で立ち尽くす僕と、足元に散らばる教科書を見て、目を見開いた。
「何してんの、幸太」
 空のカバンを手に持って呆けた様に立っていたから、自分が何を聞かれたのか理解するまでには時間がかかった。
「家出の準備」
「家出? 何のために?」
「なんとなく」
 伊織を無視し、机の丁度背中側に設置されたクローゼットを開く。脱ぎっぱなしの服が数枚地べたに散らばっている以外は、全てハンガーにかけて管理しており、男子にしては綺麗に保たれているはずだ。中から数枚気に入っている服を取り、たたみもせずにカバンに詰める。そういえば金欠じゃん。学校にケトル忘れたしな。そんなことを思いながら。
「父さんに林間学校の話してなかったっけ?」
「……関係ねーだろ」
「何お前、俺の母さんのこと病院送りにして、んな態度すんだ」
 反射的に伊織を睨みつけた。傍らにあったやるせなさの正体が、罪悪感だと気付いてしまった。気付かされた、伊織に。僕とは対照的に薄く笑う伊織は、今までの優等生ヅラとは違い、不気味だった。
「まあ怒る気は無くて。あの人教育ババアだから疲れてたし」
 頭の後ろを雑に掻き、吐き出された言葉に、眉間に込めていた力が抜ける。僕の知っている伊織はこんなやつじゃなかった。制服を着崩すこともなく、頭の回転が早い奴で、外国の血が少し混ざった端正な顔で優等生らしく笑う男だった。伊織の人間らしさを知るなんて、思っていなかった。
「確かに再婚してすぐあんないちゃつかれたらさ、うざいとは思うよな」
 それを皮切りに、伊織は今まで感じていたらしい鬱憤を晴らすように、僕に吐露する。伊織の言葉には嘘がないように感じられた。伊織の話を黙って聴けば、伊織もほのかさんと父さんの関係にうんざりしていたと分かった。熱気が増した部屋が、僕と伊織の境界を揺らがす。互いの首筋を、額を、汗が滑り落ちた。
 伊織は僕と一歳しか変わらない、普通の高校生だった。
「でさ、俺お前に言いたいことがあって」
「何」
 伊織の口調はどことなく強い。
「俺のこと兄ちゃんって思わなくていいから」
 じゃ。そう言って伊織は部屋から出て行った。揺らいだ境界は元に戻ろうとしない。それどころか壁を作り直すことが出来ないくらい、僕の気持ちは参っていた。伊織のことを兄だと思おうとしていた無意識さを、伊織に指摘された。あんなに嫌がってたはずだろ。そう自分に言っても答えは出てこなかった。
 首を伝う汗を手の甲で拭い、寝巻きで手を拭く。伊織にどう返事をすべきかも分からない。けれど、伊織は兄じゃないと自信を持っていえるようになったことに、安心している。その事実が、悔しかった。
 網戸もせずに窓を開け、書きかけの手紙はそのままゴミ箱へ捨てた。教科書を踏んだが、そんなことどうでもいい。紙を出し、置いていたボールペンで乱雑に書きなぐる。伊織への苛立ちと、大畠と朝日奈への怒りが止まらなかった。

 きっかけは十分すぎるほどあった。僕が怖がっていただけ。可能性を書き起こせば、思っていたほどの障害はないように感じられた。どうせ大畠にできることなんてたかがしれてる。朝日奈はそばにいるわけじゃない。怖さなんてない。
 何重にも重なった黒インクの紙を、ぐしゃぐしゃに潰してゴミ箱に投げ捨てる。今の自分は多分無敵だ。怪人が僕の目の前に来てもマッハを超える速度で逃げたり、漫画みたいな一発KOも夢じゃない。
「待ってろよ」