複雑・ファジー小説
- Re: 世界は君に期待しすぎてる ( No.13 )
- 日時: 2018/08/03 19:56
- 名前: 浅葱 游 ◆jRIrZoOLik (ID: rtfmBKef)
あの日からほのかさんとは一切会話しないまま、念願の林間学校の日になった。少しでも家にいる時間を減らしたいと思っていた僕にとっては、家にいなくていいことは救われた気になる。父さんの運転する車に乗り込む前、伊織とは会わなかった。今まで通り、特に話すこともなく、日々が過ぎている。
「忘れ物ないか?」
「たぶん」
そうか、と父さんが言って、話は終わった。エアコンの冷たい風が僕の首筋めがけて吹く。父さんは器用に左右の線からはみ出ずに、車を運転する。いつもより遅い時間に家を出るまで、あまり父さんとは話せなかった。あの日から、僕ともほのかさんとも距離をとっているんじゃないか。窓越しでは伺えない父さんの表情を想像する。
「母さんは嫌いか?」
答えられない。驚いて見開いた瞳と同時に、心臓が掴まれるような感覚。血の気が引いていく。
「母さんの火傷と青あざさ、少し良くなってきたぞ」
それでも父さんは話し続ける。
「幸太」
いつもの優しい声。
「今の母さんより、前の母さんの方が好きかい?」
ゆっくりと、言葉は出せなかったけれど、頷くことは出来た。わがままだとは思う。結婚するのも離婚するのも、僕が思ってるより大変なはずだ。
「頑張ってくれてたんだな」
そう言って、僕の頭を撫でる父さんの手に、今までしまい込んでいたものが湧き出る。撫でられたのはいつぶりだろう。中学の入学式とかだったっけ。鼻をすすりながら、腕で目元を拭う。僕の嗚咽がおさまるまで、父さんは何も言わなかった。
「……怒られると思ってた」
目頭がまた、じわりと熱くなるのが分かる。
「幸太がやった事はちゃんと謝りに行かないとダメだぞ? ただ父さんも勝手に決めた部分もあるから、受け入れられなくて当たり前だよ」
右に曲がる。
「あの人は、怒ってないの」
「悪い事をしたって落ち込んでる。本当の母親じゃないのに出しゃばったって」
「……あ、そ」
謝りないといけない、かもしれない。国道12号を右折して、緩やかな坂道を進む。
「楓が幸太って名前つけたって、知ってたっけ?」
「楓?」
聞いたことのない名前だった。知らないよ、と続けると父さんは今まで見たことがないくらい、優しく微笑む。
「幸太の母さん、相沢楓」
「え、お母さんが名前付けたの?」
父さんは、ああ、と笑った。信じられない心地だ。記憶の中だけの、大切なお母さんに名前をつけてもらっているなんて。
「楓がね、幸太にとって、幸太の人生が素敵な巡り合わせで満ちるように、望んだように人生を送ることができるように豊かでありますように、って。……ほらついたよ」
父さんは幸せそうだった。生徒玄関前に設けられた簡易ロータリーには、大型バスが停る。四台伸ばすが並んでいると、教科書で見たベルリンの壁のような感じがした。父さんと一緒に車から下りる。他にも続々とやってくる生徒に、チラチラと見られている気がした。
「はい荷物」
差し出した手に、父さんから荷物を受け取る。たった二泊分の荷物は軽い。
「行ってらっしゃい」
「……うん、行ってきます」
車が校門を抜けていく。左折する父さんが見えなくなるまで、僕はその場から動かなかった。母さんが付けてくれた名前を、大事にしよう。新たな決意が芽生えていた。僕は父さんと母さんのたった一人の息子なんだ。確かな安心が、僕を包んでいるみたいだった。
バス内でのホームルームも終わり、今は前後左右関係なく様々な話題が飛び交っている。通路を跨いで横一列に、いつもの四人で座った。窓際にそれぞれ真弘と奈良間が座り、僕と春輝の間に通路がある。
「そーいや朝さ、幸太のとーちゃん見たぞ」
身を乗り出して、奈良間が言う。真弘にも数えられだけしか見られていない父さんは、僕達の中ではちょっとしたレアキャラ扱いをされていた。仕事も任せられ、プロジェクトリーダーとしてチームを持っている分、家にいる時間が短いからかもしれない。
「どうだった?」
「すっげー若い……」
春輝に、あの若さは四十くらいだべ、と真剣な顔で奈良間が話す。奈良間の中で、僕の父親像はどうなっているのか気にもなったが、奈良間の予想はいい線だ。ちらりと僕の左手に座る真弘を見る。周りが大声で話しているのが嫌なのか、高そうなヘッドフォンを付けて、窓に頭を預けていた。大畠から連絡がきてから、僕は真弘と連絡をとらなくなっている。その事を気にする素振りを見せない真弘は、もしかしたら、僕がいてもいなくても変わらないのかもしれない。
「父さん、まだ三十四だよ。今年で五になる」
笑っていれば、奈良間達と話していれば気にしないはずだ。大きな声で驚いた二人を笑いながら、僕は背中に真弘を隠した。