複雑・ファジー小説
- Re: 世界は君に期待しすぎてる ( No.17 )
- 日時: 2019/03/21 18:24
- 名前: 浅葱 游 ◆jRIrZoOLik (ID: /AtcWqBj)
「大畠と何話してた?」
「……なんで?」
突然変わった話題——それも大畠とのことに、水を飲もうとしていた手が止まった。僕は真弘をじっと見る。真弘は退屈そうにスナック菓子に手を伸ばすだけで、僕のことはまったく見ていない。右手で携帯をいじりながら、口にスナック菓子を運んでいく。
「そんなに大した事は話してない」
「俺は、何を話してたのかをきいてる」
「真弘に話すことはない」
「じゃあお前、その手何」
ペットボトルを握った僕の手を、真弘が指さす。忘れていた痛みがぶり返した。
「大畠んとこ行ってからだろ、それ。隠せてると思ってたんならバカ丸出しだな」
呆れたように言う真弘の目は、今度こそ僕のことをしっかりと見据えていた。切れ長の瞳を細められる。真弘が苛立ってることはすぐに分かった。分かったけれど、僕は大畠の復讐を伝える気にはなれなかった。伝えても伝えなくても、きっと真弘は怒るという確信があった。
「別に隠してたつもりはない」
「じゃあ、お前が人殴るような理由ってなんだよ」
「腹が立ったからしかないだろ」
「は? お前大畠に腹立てることあんの?」
「真弘には関係ないんだって、何回も言ってんだろ」
そうだ、真弘に関係なんてない。これは僕が、真弘のために勝手にすることだ。真弘が彼女と幸せに過ごせるように、その時に近くに僕がいなくたっていいんだから。
そう言い切った手前、真弘がどんな顔で僕を見ているのか伺うことができない。何十分にも感じられるほど長く窮屈な沈黙。ペットボトルキャップの蛇腹を数えたり、無意味にペットボトルを傾け、動く水面を眺める。そろそろ教師の巡回がある時間かもしれないけれど、この場から今すぐにでも走って逃げ出してしまいたい気持ちだ。そんな度胸は、欠片もないけれど。
ペットボトルを弄ぶには長い時間。忘れていた痛みが、大畠を殴った手にやってきた。無意識にその手を撫でる。人を殴ることは簡単だった。ただ相手の頬を目掛けて、自分の拳を当てるだけ。簡単だった。
「……人、殴ったことある?」
耐えきれない沈黙を壊すために、そう、話題を変える。
「お前よりは」
ぶっきらぼうに答えた真弘は、自分の手を見つめていた。
「彼女のため? 殴ったのは」
「別に。俺のためでしかねーよ」
「自分のため」
乱暴にスナック菓子を噛む音が聞こえた。
「俺の喧嘩であいつになにか思ってほしいとか、そんなんじゃねーから」
煩わしそうに、そう真弘は言った。ガツンと一発、頭を殴られたような衝撃。自分とは違う人間なんだということを、今、強く感じた。
「あのさ——」
「あぶねー! もうちょっとで先生来るとこだったー!」
息を切らして、それでも笑顔のまま入ってきた奈良間に、僕の言葉は掻き消された。
「え、今何時よ」
「八時!」
「中学生だべやそれ」
さっきまでの空気は、もう無くなっている。奈良間に続いて戻ってきた春輝からは、お土産と言われてどこからか貰ってきた蔵生を渡された。
「幸太はずっと真弘と?」
「おー。一緒に動画見てた」
ここまで来て動画かよ、と春輝は苦笑いする。伊織やほのかさんに対してするように、息を吐くように嘘をついた。奈良間も春輝も、この嘘を気にしている様子はない。ただ僕は、真弘のことは見れないでいた。
「さっき見てた動画の女の人エロかったから、皆で見ない?」
「エロい女の人見たい!」
聡い真弘は、きっと気が付いていると思った。僕の携帯を覗き込む奈良間に笑いかけながら、慣れないことはするもんじゃないと、ひっそりとため息を吐く。小さな覚悟の芽が、小さく伸びていった。
ひんやりとした空気で、まだ薄ぼんやりとしていた意識が覚醒していく。手に握られた携帯を付けようとして、それの電源が切れていることに気が付いた。そうだ、昨日動画見ながら寝落ちたんじゃん。縮こまった身体を伸ばすと、低い唸りの後で大きなあくびが出た。慣れないことはするもんじゃない。普段見ない動画を見たせいで、いつもより目が乾いている感覚がする。心なしか頭も痛い。
まだ重たい体をゆっくりと起こす。隣で動画を見ていたはずの奈良間は、逆さになって少し離れた真弘の横腹を枕にしていた。行儀よく寝ている真弘からしたら、ずいぶん迷惑な寝方だろうな。頭をかいて、カバンに入れていたモバイルバッテリーと携帯を接続する。短く震えたことを確認して、携帯を置いておく。今が何時かも分からないけれど、おおよそいつも通りの時間だろう。
コーヒーを買っておけば良かった。父さんと飲むより劣る味でも、あの空気を思い出せるから。何をするでもなく、天井を見る。思い返すのは昨日の真弘の言葉だった。
「なにか思ってほしいわけじゃない」
なぞるように口の中でころがした言葉は、どうもむず痒くて、それでいて憧れを孕んでいる。真弘は本当にそう思っていたはず。じゃあ、自分は。
テントの入口を見るように、寝返りをうつ。無性に走りたい気分だ。外に行ったら冷たい空気を吸い込んで、何も考えられなくなるくらい走りたい。箔星の、あのうるさい先輩を思い出す。後ろ手で見つけた携帯の電源を入れる。デジタル表記で示された時間は、今日の集合時間よりも一時間近く早かった。
いつもと違うことをしよう。昨日のままの服で、テントから出る。山の麓は冷たい空気が流れていて、それを直に感じると、悩んでいた頭の中がすっきりしていく錯覚がした。朝露に濡れた地面に座ることはできず、立ったままでストレッチを行う。ふくらはぎが伸びる心地良さと、少しずつ体全体に血が巡っていく心地良さから、気分も上がってきた。最後に大きく上体を反らして、息を吐く。ゆったりとしたペースで走り出す。目指すのは、昨日大畠を殴ったあの場所。
犯人は現場に戻るという表現が正しいかは分からないけれど、またあの場所に僕は立っていた。山に溶け込むような声が、ずっと先から聞こえた。同じように早起きした生徒が山道を登っているのだろう。簡易的に舗装された階段を数段登ったところで、歩みを止める。昨日、大畠と会った場所。真弘への復讐に手助けすると宣言した場所。複雑な気持ちが、思考を支配する。
真弘が最近の僕を変だと思っている気はしていた。ただ何も言ってこないだけで、深いところではなにか感じていたはずだ。僕は真弘を助けたいと思っているはずなのに、大畠を助けるとも伝えていた。この大きな矛盾が、もう自分一人だけでは抱えきれないほど成長している。ひたすらに、苦しい。この苦しさは自覚したらいけないものだった。誰のために、僕は何をしようとしているんだろう。答えは手を伸ばせば届くのに、その答えを知ることが怖くて仕方ない。
肺に溜まった古い空気を、ゆっくりと吐き出す。もう白くならない息をぼうっと見上げた。何となく惨めだ。真弘を助けよう。真弘が彼女と幸せに過ごせるように、大畠の復讐にあわないように。ジャージ越しに地面に接した尻が、湿ったように感じられる。遠くに聞こえていた声は、もう何も聞こえなくなっていた。戻らないと。来た当初より軽くなった気持ちと、決意を胸にしまい込んで、腰を上げた。
テントに戻ると眠たそうな奈良間と真弘、すっきりした表情を浮かべる春輝とが、それぞれ起きていた。戻ると直ぐに、顔を洗いに行こうと誘われた。
「朝起きたっけいなくてさ、びっくりしたよ」
後ろに眠たそうな二人が続く。僕は春輝から小さなカバンを受け取って、並んで手洗い場へと向かっていた。
「みんな寝てたからさ、起こすのもなーと思ってさ」
「寝てたら声掛けにくいよな」
しゃーないわ、と春輝は快活に笑う。普段から聞き役に徹する春輝の物腰は、他の誰よりも柔らかいと思う。大人数の会話では目立たないけれど、二人で話す時には間のいい相づちが返ってくる。なんでも話してしまえるような雰囲気が、春輝にはあった。
「林間学校がさぁ、終わったっけさ」
「おー」
「映画見に行くの付き合ってくんね?」
だから何かある度に、こうして春輝を頼ってしまう。
「いいよ。振替休日とか使うべ」
映画の誘いはこれで四回目くらいだろうか。初めは驚いた顔をしていたけれど、二回目は今みたいに笑って二つ返事で了承してくれていた。ぬるま湯のような優しさに、今回も甘えるつもりだった。
「したら帰った次の日な」
「おーけー」
約束を取り付けた頃についた手洗い場は、マスクで顔を隠した女子や男子で列ができていた。僕達が並んだ列よりも奥にいた大畠に、自然と視線が向かう。頬が片方だけ赤い。あの光景がフラッシュバックする。僕自身がどうあるべきか答えを見つけたまま宙ぶらりんだからか、まだ中学時代の大畠に対して抱いていた同情がふつふつと大きくなっていた。
「幸太」
「っ、あ……なした?」
「なんも。細かいことは映画の日に聞くし」
「……おう」
列が進み、僕達の番になる。蛇口から出るのはキンキンに冷えた水道水で、顔が洗い終わればすっきりとした気分になった。眠たそうだった奈良間も顔を交換したヒーローなみに元気になっている。
「お前らー、この後朝ごはんになるがその前にテントしまってくるようにー。移動はジャージでいいから、テントしまったら夕べご飯食べたところにクラスごとに集合ー」
数学の三浦がメガホンを使って言う。返事はまばらだったけれど、たむろっていた生徒達はぞろぞろとテントへ戻っていく。
「早くテント片すべー!」
僕達も、元気になった奈良間を追うようにテントへ向かった。