複雑・ファジー小説

Re: 世界は君に期待しすぎてる ( No.21 )
日時: 2019/05/16 21:13
名前: 浅葱 游 ◆jRIrZoOLik (ID: dD1ACbVH)

幕間 朝、溶けだす淡い期待

 さようなら。言葉にはできなかったけれど、たしかにそう伝えたかった。正午にかけて強まる日差し。流れる汗、辛そうな君。そうか、そんなに君の負担になっていたのか。知らなかったな。上手く笑えないままだった。それでも君は、互いに流しあった涙を拭ってくれる。わずかな温もりだけで、愛されていたんだろうなと思えてしまったのだ。


「行ってきます」
 直ぐに重たいドアの閉まる音がした。普段よりも早い弟の登校時間。少しずつ清明になった意識の中で、今日から林間学校だったことを思い出す。自分には縁もゆかりも無いイベントが、弟の学校では行事に組み込まれていた。修学旅行はあるとはいえ、その同年に林間学校を行うなんて聞いたことがない。
 学年が上がってから、通う学校は受験ムード一色に変化した。狙っていた学校よりも偏差値は劣るが、学生の質は幾分か高い。文化系の部活動は全国大会常連になるほどだ。そうした付加価値を考慮して入学した私立荘王大附属第一高等学院に、不満はあった。リビングで乾いた喉を潤しながら、携帯で今日の時間割を確認する。文系であるけれど、連日の七時間授業のおかげで、カリキュラムはほぼ終了していた。そのため今日は体育が二時間連続である以外は、問題演習が主になっている。
「母さんおはよう」
「おはよう伊織。……幸太くんは、もう行ったのかしら」
「みたいだね」
 シンクに置かれた二つのコーヒーカップ。母さんら同じ物を持ちたいと考えていたらしいけれど、父さんに宥められているのを見た。当たり前だと思う。真っ白で飾り気のないカップには、二人で生きていた時代が残っているのだから、いい歳をした大人なら考えたら分かるはずだ。母さんは冷蔵庫から食材を出し、手際よく料理を作り始める。油のはじける音を聞き、着替えのために部屋へ戻った。アイデンティティで満たした部屋には、まだ誰もいれたことがない。
 壁一面に貼られた風景画のポスター、飾られないまま額に入れられたジグソーパズル、机の上と本棚に置かれた参考書と問題集。鍵のかかった引き出しには、碌でもない現実を詰めこんである。皺のない制服に袖を通して、一息つく。次の模試は土曜か。ここ最近は模試の間隔も狭まってきており、復習はできても予習ができない状況になってきていた。何かに追われた方が地に足ついている自覚はある。けれど、志望校も決まっていない今、追われている事実がただの重りになっている。
 ベージュのカーディガンを手に持ち、背中からベッドに沈みこむ。スプリングの軋みと羽毛布団が、やわらかく包んでくれた。昨夜ふきかけた衣類用芳香剤の香りがする。石鹸の香りは強過ぎず、心を落ち着かせてくれた。家を出るまで、あと数十分。たまに見かける不良高校生のように授業をサボりたい。学校に行きたくないと思えば思うほど、どう演じたら良いかが浮かぶ。夏風邪を引いたと母さんに伝えてみようか。起こそうとした上体は、ベッドにくくり付けられたかのように微動だにしなかった。
 ブブッと机に置いていた携帯が震える。考える前に体が動いた。送り主の欄には"景"と書かれている。一瞬の戸惑いの後、アプリを起動した。一昨日で切れていたやり取りは、互いに送りあった罵詈雑言。景から最後にきていた「さようなら」のメッセージが、今も存在感を放つ。
『この間はごめん。言いすぎたと思ってる』
 簡素な文。後が面倒だから謝ってきたようにも思えたが、こじらせる必要もないと思い、同じように簡単な返信で済ませる。べつに。変換をする気力はまだ出ていなくて、素っ気ない返事になったかもしれない。景も同じように感じたのか、直ぐに電話がかかってきた。普段ならワンコールで出るそれを、今日は少しだけ焦らす。
「もしもし」
『おはよ、伊織』
「……おはよう」
 じわりと、ディスプレイに近づけた耳に熱が集まった。
『こないだ怒りすぎた、ごめん』
「いいよ。俺もだからさ」
『伊織って怒ると静かになるよね』
「……そうでもなくない?」
『そうでもないかもしれない』
 景の控えめな笑い声につられ、口角が上がったのが分かる。静かな部屋で、時計の秒針だけが規則正しく音を立てていた。
『そういえばさ、弟くんとどうなの』
「特に何も無いけど……あ、今日から林間学校かなにかだった気がする」
 床に散乱した教科書、蒸し暑さ。それらが過ぎ去った後、父さんが署名した林間学校行きのプリントを見た。汚い字で書かれた幸太の名前も。
『珍しいね? 修学旅行の代わりとか?』
「いや、修学旅行もあるらしいよ」
『盛りだくさんだねー! 勉強ばっかのこっちとは違うなぁ』
「たしかに」
 嫌味なく言う景はすごいと思う。ほとんどの荘王生は馬鹿にするだろうことを、景はしない。落ち着く声を聞いて、布団に寝そべっているせいで、少しずつ瞼が重たくなってきていた。
 じんわりと頭が重たくなっていくような感覚があるけれど、景に対しての返事はし続けられた。階下から母さんの呼ぶ声がする。
『伊織、起きて学校行こう』
「今日サボろうとしてたんだけどね」
 ベッドの上で体を伸ばし、一息つく。少しだけ清明になった意識が薄れてしまわないように、体を起こした。電話越しの物音で、景も家を出る準備をしていることが分かった。同じように準備をしている。そんな小さなことが——同じ学校に通っているから当たり前のことだが、嬉しく感じてしまう。
 置いていたジャケットを羽織り、携帯式の充電器をそのポケットに入れる。
「電話口で叫ぶなよ」
『突発的な声だからどうしようもなかった』
 思わず携帯を離すほどの大声に、そう注意すれば、軽い口調が返ってきた。謝罪が欲しいわけでもなんでもなかったけれど、謝罪のない返事に少しだけすっきりとしない心地がする。それでも声を聞くだけで満たされていく心に、惚れた弱みというのが思い知らされた。
「もう家出るよ」
 階段を降りながら伝える。ダイニングテーブルには母さんが作った弁当が二つ。朝と昼用の、少しだけ中身の違う弁当が置かれていた。それぞれを丁寧に包んだ弁当を、一つのトートバッグに入れる。いつも使っている水筒は弁当の上に置き、登校のためにカバンを背負う。
『靴履いた?』
「履きに行くとこ」
 玄関に続くドアを開けたタイミングで、母さんに、行ってきますと伝える。返事は特に聞こえなかった。電話越しの景が騒がしく、景の妹達が楽しそうにはしゃぐ声も聞こえた。微笑ましいなあと思うけれど、自分の弟を見ても心温まる機会は訪れないと思う。周囲が思うよりも、血の繋がりがもつ鎖は中々の強度を誇っている。
 まだ幸太を受け入れられない気持ちが強いのは、事実だ。弟とはいえ、母さんが選んだ人の連れ子で、ただの義理の弟で、他人のくせに母さんを殴った相手だ。少しだけ本音を伝えたあの日から、幸太の雰囲気が柔らかくなったような気がしている。野犬を手懐ける感覚に似ているのだろうか。ばかだから何も考えずに信用しているのかもしれない。打算的に生きられないあいつは、嘲りの対象だ。それでも笑って生きられるのだから、高が知れるのだ。幸太は。
『家出たわー。すずらん公園のトイレんとこで待ってる』
「俺も今出た。三分くらい待ってて」
 二重扉の玄関を出る。梅雨が去った外気はつい数日前よりも乾燥し、暑さを伴っていた。カーディガンは無くて良かったかもしれない。目と鼻の先にあるすずらん公園に向け歩く度、体に熱が篭もっていくのが分かった。背中にも汗が流れているような気がした。可燃ごみを持って歩く老婆に会釈し、景が待つ公園へ。
 二つ目の小さな十字路を左へ曲がる。自転車に跨ったままの景が、退屈そうに背中を丸めていた。ロードバイクのサドルは、少し窮屈そうだ。白い車体が日光を反射する。眩しい。景という人間が。幸太を思い返した事実を忘れてしまうほどだ。
「景おはよう」
「あっ、伊織おはよ」
 横髪と区別がつかないほど伸びた前髪から、景の真っ黒な瞳が覗く。素肌が白いせいで、互いの色味が浮いているように感じられる。ロードバイクから降りた景と歩調を合わせ、駅までの道を進む。引越しをしてからはほぼ毎日、こうして景と登校するようになった。ほとんどは勉強のことを話しながら行く。文理の違いがあるからか、勉強の話を苦に感じることはない。
 朝、登校するまでの時間は貴重だ。景と登校するためであれば、いくらでも早く起きられる気さえする。
「話聞いてる?」
「聞いてるよ。俺のクラスの担任が教え方下手って。あいつの授業は自習した方がマシ」
 いつも口をへの字に曲げた川邉という担任は、教える気があるのか分からないほど一方的な授業をする。おまけに字が汚く、声も根暗なのかぼそぼそと話しをするため、学生からの評判は最悪だった。景は心底参っているのか、だらだらと意味の無い文句を垂れる。それに相槌を打つだけでも、二人の時間に満足してしまえた。
「やっぱこうして伊織といれんの好きだわ」
 ぞわりと、背中を冷えた汗が流れる。勘違いしそうな思考に急いでブレーキをかける。違う。間違えるな。そう言い聞かせる。答えの選択を、景が求めてる選択を。
「伊織はどう? 好き?」
 ——好きだ。
「普通かな」
「そこは好きって言うとこじゃん」
 苦笑いした景に、ごめんごめんと気持ちのこもらない謝罪をとばす。同じように笑って見せながら、その実、吐き出したい思いをしまい込むのに精一杯だった。
「景。あっち着いたらコンビニ寄らせて。朝飯買うか。昼はいつも通り」
「おーけー」
 いつも通り、母さんが作った弁当を一緒に食べる。その事実が、また、景からのあの言葉を思い出させた。




■朝、溶けだす淡い期待。

 母さんは知らない。景に弁当を渡していることを。
 誰も知らない。絶たれかけた関係を。景に好意があることを。