複雑・ファジー小説

Re: 世界は君に期待しすぎてる ( No.22 )
日時: 2019/08/01 13:18
名前: 浅葱 游 ◆jRIrZoOLik (ID: w4lZuq26)


『夏色セゾン』



 蝦夷梅雨が終わった。

「おはよう奈良間」
「おっす、はよー」
 晴れる日が続いている。そのおかげで、外気温も右肩上がりになってきていた。僕も奈良間も、それ以外の外部も、周りより黒くなっていた。
「林間学校の疲れはとれないよなー」
 朝一番の大きな欠伸をする奈良間に頷く。奈良間の話が右から左へ抜けていく。簡単な相槌をうちながら考えるのは、先日の真弘とのことだった。

 真弘と話した翌日、久しぶりに真弘の家に行った。ヤニで黄ばんだ壁紙、肩の高さで停滞する煙、苛立っていそうな父親の表情は、昔とひとつも変わらない。小さな変化は、たばこのにおいが昔よりも染み付いていることだけだった。階段の隅に溜まった埃が、明るく映えて主張している。汚いものが目立つ様に、昔の大畠が思い起こされた。嫌に目につく埃を気にしないように意識すれば、より視界に入ってくるせいでうんざりとしてしまう。
 案内された真弘の部屋は、昔の面影は一つも残っていない。ずっと当時の真弘を追っていた。頭をガツンと殴られてしまったような衝撃が、衝撃に似た違和感が産まれる。色褪せた戦隊モノのポスターが貼ってあったはずの場所には、濃い青で彩られた海の絵が飾られていた。不釣り合いにも見えるその絵に、僕は惹き込まれた。
「彼女が描いたやつ」
 そう言った真弘の目線の先には、僕が見ていた海の絵と、押入れに片付けられた、沢山の額があった。
「海気に入ってんの?」
「別に。あいつが一番嬉しそうによこしてきたから」
 海が好きらしい。淡く青が反射した真弘は、どの時よりもやわらかく映った。けれどすぐ、真剣そうに僕を見る。雰囲気が変わったことは、きっとこの場に春輝がいたとしたら気が付いただろう。奈良間は無理だろうけれど。座るよう促されたソファに腰掛ける。真弘は小学生が使うような、学習机とセットで売られている青い椅子に座った。
 僕は促されるまま、朝日奈とまた連絡をとる関係になった経緯や、大畠と朝日奈が何をしようと企んでいるのかを、事細かに真弘に伝えた。その上で僕が今考えていること、大畠との付き合い方まで。小学生の頃のように悪巧みをしている楽しさがあったのは否定できない。僕達はきっと、根っこからいじめっ子の性質をもっているんだろう。出てくる案は現実的で、けれど身体的な害のないものばかりだった。たとえやり返されたとしても、僕と真弘なら大丈夫だろうとさえ思えてしまう。
 夏が始まる陽気。買ってきたジュースが汗をかき、当初の冷たさを失った頃、僕らは別れた。僕は大輝さんと会わなくてはならなくなったし、真弘は彼女に会いに行くらしかった。真弘から彼女の話題が出たとしても、もう、前に感じた言語化しにくい奥底で湧くような不快感はなくなっていた。

「幸太話聞いてる?」
「聞いてる聞いてる。奈良間のねーちゃんが好きな俳優と奈良間が似てて嫌だって話だべ?」
「んな話してねーわ!」
 勢いよく叩かれた肩は、薄っぺらい制服には守られず大きく音が鳴る。僕よりも驚いた顔をした奈良間に、ニヤリと笑って仕返しをする。
「ヒョロガリ労れよな」
「いってえ! お前隠れゴリラかよ」
「うるさい。で、何の話?」
「お前の兄貴の話」
 生徒玄関で脱いだ外靴から出した足は、すでに熱気を帯びていた。窮屈な中で蒸れていることを実感し、無意識に足の指を擦り合わせる。奈良間はスラックスの裾を折り、だらしなく、靴のかかとを踏んで歩き始めた。僕もそれに続く。北向きの玄関はひんやりとしていた。
「兄ちゃん? そんなの」
「いるべ、あれ。いおりさん?」
「ああ」
 世間からすれば兄という括りに入った伊織を、まだ心から兄だと思えていなかった事実に、気の抜けた言葉しか発することができなかった。
「こないだ男とホテルから出てきたの見た」
「——は?」
 思わず先を歩く奈良間を見上げた。階段の踊り場に設置されたすりガラスから入る光が、奈良間を照らす。
「誰が?」
「幸太の兄ちゃんが」
「男と?」
「男と」
 伊織が、男と、ホテルから出てきた。朝だから頭が働いていないわけじゃない。けれど奈良間の言葉の意味が分からなくなった。理解ができない。
「伊織が?」
「うん」
「見間違いじゃなくて?」
 階段に腰かけた奈良間が「たぶん違う」、そう答える。それぞれの足を違う段差に載せたまま、まっすぐに奈良間を見ることしかできない。奈良間はいたってまじめな顔で「友達が写真撮ってたのもらったけど見る?」とだけ、僕に訊く。差し出されたスマートフォンを見るだけで、何も答えることができないでいた。
「あ、あれだ! このこと誰にも言ってないからな!」
「え、あ、おう」
 手を出してみようかと思った好奇心が、すぐに萎む。自分の知らない伊織を知ることができる。そんな不純な感情が小さくなっていった。奈良間も差し出していた携帯をポケットにしまい、何事もなかったかのように階段を上っていく。その背中を見上げ、奈良間の姿が見えなくなってきたところで、金縛りが解けたように足が進んだ。伊織の衝撃は収まらないまま、ただ思考がまとまらないまま教室へと向かおうとしていた。
「お前の兄ちゃん、めちゃくちゃかっこよかったぞ」
「ああ……。外国の血入ってるらしい」
 鼻歌混じりに、先に教室へと入っていった奈良間を追うようにして、教室へと入る。二人しかいない教室の空気は、湿度を伴う気持ち悪さが強かった。


 その日一日は何も考えられないまま気が付いた時には下校時間となり、家に帰ってからは部屋から一切出ることなく夜が更けていた。ほのかさんの呼びかけを無視し、扉をノックしてきた伊織のことも、無視をした。お腹は空いていたけれど、それよりも伊織と会う気まずさの方が問題であるような気がしていた。
 大畠の考えと、朝日奈の欲が混ざりあった僕らへの復讐案が、少しずつ形になっていく。計画しているところを僕に見せている状況を、二人は何も感じていないのだろうか。仰向けになっていた体を、ディスプレイを見ながら横に向ける。軽快な通知音が数分も待たずに鳴る。二人には僕の既読も届いているはずだけれど、返事をしない僕に文句は言ってこなかった。
 空腹で腹が鳴る。けれど食欲は湧いてこない。悶々とした気持ち悪さが胸の中から抜け出さない感覚の方が、食欲よりも勝っているようだった。まだ眠たくないけれど、タオルケットを頭まで被る。黙って呼吸をするだけで、寝具の中に熱がこもっていく。夏は父さんとキャンプに行きたい。行けなくても外で焼肉したいなぁ。そんなことを夏が近づく度に思う。きっとつまらない合宿には行かないことになるだろうし、合宿をしたいという部員すらいない気がしていた。

「幸太」

 ひゅっと息が詰まる。