複雑・ファジー小説

「知恵と知識の鍵の騎士団」2章2 ( No.14 )
日時: 2017/06/25 21:23
名前: いずいず ◆91vP.mNE7s (ID: bs11P6Cd)

     *

 ミスタ・ブラウンが、ライトホールド・ロイヤルホテルに、休暇の延長願いとスイートルームを押さえておくよう指示を送るためにむかった電話室からの帰ってきたとき、彼の眉間のしわはますます深くなっていた。
「どうかなさいましたか?」
 ヴァリタもそれに気づいたのだろう。編みこんでいたシアーシャの黒髪をほどき、梳っていた手を止めて、彼に尋ねた。

 車掌が乗車券をあらために来るときだけ車窓から外に出ることを約束したヴァリタは、本来は俺の席だった座席に座って甲斐甲斐しくシアーシャの世話を焼いている。ひとつの動作をするたびに、これはなんという動作、これはどうという動きなどと必ず言葉と動作を結びつけるように話しかけていると思えば、歌ったり、ささやかな昔話を話して聞かせている。そんなに言葉を覚えさせては、母親に会った後、モルシアンに戻れなくなるのではないかと思わず心配する俺に、「そのときは、わたくしが養って差し上げます」と即答したのだから、そんな覚悟はとうに決まっていたのだろう。

 ただ、それもあくまで母親に会えてからのこと。問題はそれまでの旅程だ。不機嫌そうなミスタ・ブラウンの顔がより不機嫌になっていると、なにかあったのかと不安になる。
 案の定、彼はろくでもない情報を得てきた。いわく、
「モルシアンが神殿島を抜け出していることがオルグレンでも噂になっているそうだ」
「なんてこと」
 ハーゲル国内最終駅での車内点検が長く、時間を取ってまで行われたのは、エストリュースとハーゲルが事実上同盟国である背景がある。
 エストリュースは年中冬のような気候のため、作物がほとんど育たない。そのため、食糧の支援を隣国であるハーゲルに頼っているのだそうだ。ハーゲルはハーゲルで、エストリュースへの巡礼客の落とす金によって国内が潤っている部分もあり、エストリュースへの協力はやぶさかではないらしい。
 そういうこともあり、ヴァリタとシアーシャをオルグレンに逃がしてしまう前に、徒歩や馬車、車での国境越え、および南北鉄道の検問を夜が明けてなお厳しく行っているようだとは、ミスタ・ブラウンが得てきた情報だ。

 ちなみに、最果ての島であるシューテからよくここまで無事に逃げてこれたなと聞いたとき、ヴァリタはにっこり笑っていった。
「わたくし、自分の顔が殿方に与える影響をよくわきまえているのです」
 それで、あの背負い袋の中のお金なのですわ、とコロコロ笑われては、口説き文句も喉に引っ込む。正直、この女は俺の手に余る。

 閑話休題。

 まあ、そんなことから、ヴァリタとしては、オルグレンに入ってしまえば以降のライトホールド、バンクロフト、東グリーンランドまでの道のりは比較的穏やかにすむと考えていたらしい。なにせ、オルグレンとハーゲルは非常に仲が悪い。モルシアンが逃げたので手を貸してくれとはハーゲルは絶対にいわないだろうし、いわれたところでオルグレンは絶対に応じなかっただろうから。
 ただそれも、直接依頼があった場合、だ。そして、オルグレンがいままさに死を目前にした国王と、王太子派、反王太子派でもめにもめている議会を持っていなかった場合、だ。

 敵対国ハーゲルを抜けてではないと会いに行けない、王権を授ける神の依り坐し・エストリュースのモルシアンが国内にいるとわかれば、誰もが競ってその身を奪いにかかるだろう。モルシアンが神の言葉を授けさえすれば、自分が推す王子が、あるいは自分自身が王になれるかもしれないのだから。
 ——こんなちいさな子がひと目親に会いに行く間ぐらい、どうしてそっとしておけないのかね。
 権力欲に取りつかれた意地汚い大人たちを心の中でバカにしていたときだった。