複雑・ファジー小説

「知恵と知識の鍵の騎士団」2章8 ( No.20 )
日時: 2017/07/01 20:41
名前: いずいず ◆91vP.mNE7s (ID: bs11P6Cd)

「……っ」
 我先に後ろの車両へ逃げようとする乗客に押され、ぶつかられながら見たその光景に息を飲む。
 慌てふためき逃げ惑う乗客の影と細い通路をうまく利用して、拳と蹴りで先頭車両から来た私兵を鮮やかに仕留めているのはヴァリタだった。浮世離れした美しい顔はここからは見えないが、緑のドレスをたくし上げ、ひらりひらりとまるで蝶のごとくだ。

 でも、いったい何人乗っていたのか、やつらはあとからあとから湧いて出てくる。他の乗客がまだいるのに、銃を構えているものさえいた。彼女が落ちるのも時間の問題に思われた。
 ——なんで、こんな……。
 逃げてきた乗客たちに、抱き上げていたシアーシャごと壁際に押しつけられた。そのままズルズル座り込みそうになったとき、がっしと腕を掴まれ、引き上げられる。驚いて振り払おうとしたら、俺たちに気づいたミスタ・ブラウンだった。右手には拳銃をかまえていた。

「なにをしている、早く後ろへ」
「で、でもヴァリタが……」
「——彼女はヴァリタだ。モルシアンを守るための訓練を積んでいる、問題ない」
「でも、後ろも無理だ。後ろのやつらも俺たちのこと知ってるようだった! 写真館の親父が吐いたんだ! どうしよう、ミスタ。どうすればいい?」
「……」
 ミスタ・ブラウンは俺の脚が立ったのを確認した後、無言で俺の前をすり抜け、背後のようすをうかがう。最後尾の車両からここまではずいぶんある。けど、迫ってくる足音が、汽車の立てる騒音を越えて、いまにも届きそうだった。

 ミスタ・ブラウンは俺を振り返った。
「先頭車両の私兵は反王太子派だった。やつらと連携が取れていない以上、後方はおそらく王太子派だろう。私が行く」
「私が行くって、そんな拳銃ひとつでなにが……」
 できる、そういいかけた俺の目の前で、ミスタ・ブラウンは拳銃をコートの内側のポケットにしまった。

「あんた、なにを……」
「——万が一のとき、ここを抜け出すかどうかはおまえ自身に任せる」
「抜け出すって…、汽車を飛び下りろっていうのか!?」
「だから、それはおまえが判断しろ」
「簡単にいうなよ!」
「では重々しく伝えようか?」
「そうじゃねぇだろ、違うだろ!?」
 シアーシャを抱えたまま癇癪を起す俺の肩を掴み、ミスタ・ブラム・ブラウンはいった。
「兄として、その子を守るのではなかったのか? 昨日の宣誓はそのためのものではなかったのか?」

 なんとかしてくれ、助けてくれ。そう続きそうになるのをぐっと飲み込ませる強い言葉だった。
 ——俺はしがない役者でしかないのに。
 その俺が捧げた剣を受け取ってくれた男が、ためらうそぶりも見せず、まっすぐに後方へと歩いていった。
 俺が、シアーシャの手首と自分の手首をコートのベルトで結びつけ、鉄橋から飛び降りたのは、それからまもなくのことだった。