複雑・ファジー小説

「知恵と知識の鍵の騎士団」プロローグ1 ( No.4 )
日時: 2017/06/17 00:29
名前: いずいず ◆91vP.mNE7s (ID: bs11P6Cd)

 隣国オルグレンまでの、国境を越えての長旅に備え、ハーゲル国内最後の駅での停車中、同じコンパートメントにいけ好かない男が乗り合わせた。
 帽子を目深にかぶり顔は見えないが、ベージュのコートからのぞくグレイの三つ揃いの襟元に、開いた本の上に鍵が載った金色の襟章を留めた洒落者気取り。おまけに無駄に足が長く、組んだ脚が俺のテリトリを侵略していてもお構いなしだ。

 ——こんなことだったら、三号車に席を取ればよかったぜ。

 島内を南北に走る鉄道の、三泊四日の長旅のために、俺は渡された手切れ金を全額突っ込んでここに席を取ったのに。よりによって相席の客が男! なんてツイてない。

 ハーゲルの貴族の未亡人に愛人として雇われ、はるばる母国、南国グリーンランドから北国ハーゲルまでの、文字通りめくるめく官能の旅を終えたとき、惚れっぽい未亡人は自身の故郷で売り出し中の若い俳優に恋をして、俺に別れを告げたのだ。
(あなたのことは愛していたと思ったけれど、それは愛じゃなかったのよ)
 なんていって。マジかよ。俺は一生彼女の愛人として雇われるつもりで、グリーンランドにあったわずかな財産も職もすべて売っぱらってきたというのに。

 劇団の仲間はきっと笑って俺を迎え入れてくれるだろう。あいつらはいいやつらだった。だが、俺が未亡人の愛人になると知って嗤ったやつらはもっと嗤うことだろう。
「……畜生、いいことねェや」
 そう同室の客に聞こえないように俺が呟いたときだった。

「お願いします、かくまっていただけませんか」

 コンパートメントの扉が急に開かれ、見たこともないほど美しい、どこか浮世離れした女が飛び込んできたのだ。わーお! なんだこの展開。
「あんたみたいな別嬪なら、頼まれなくてもかくまってやるぜ」
 思わず腰を浮かせた俺に、美女は首を振る。
「わたくしではございません——この方を」

 彼女は自分の背後に手をやり、扉のむこうからちいさな人物らしきものを引き入れた。らしきもの、というのは、それがまるでカーテンのように厚くて広いベールで体ごとすっぽりと包まれていたからだ。

 ——おいおい、やっかいごとか?
 助けを求める絶世の美女を救う役なら、舞台の上で何度も演じてきた。主役よろしくスマートに助けてやっただろうと思う。だが、このよくわからないものをかくまえって? 思わず身を引いた俺に、美女は満面の笑みをむけた。
「——ありがとうございます!」

 違う。美女は俺を見ていない。背後をうかがえば、いけすかないコートの男が、黙って自身の足と窓の間を指さしている。そこに隠せということか? 同席の俺に断りもなく!?

「モルシアン」

 女は布の塊を押し、俺の前を通り抜け、コートの男の長い脚のむこうにそれを押し込めた。そのまま身を翻し、
「あとで必ずお迎えにあがります」
 そういって扉を閉めて駆け去った。名前を聞きだす余地もなかった。取り残され、ぼんやりとそれを見送っていた俺の背に、

「さっさと座れ」

 低い声がかかる。コートの男のものだろう。振り返れば帽子の下で、薄い水色の瞳が俺を感情もなく見上げている。悔しいが、いい声で、なかなかのハンサムだと見て取れた。——じゃなくて!
「おい、なんで勝手に」
「座れ」
「俺に命令するな! 先に答えろ、なんで……」

「——座れ」

 命令し慣れた声と、全身から発される威圧感に押され、俺はしぶしぶ座席に腰をおろす。不本意ながら上体を前かがみにし、男の方をむく——つまり、コンパートメントの扉に背をむけ、布の塊の前に体の壁を作ってやったのだ。

「不自然な真似をするな」
 即座に男から注意が飛ぶ。俺は男を睨みあげた。
「理由を聞かせてくれるんだろうな」
 目顔でうなずく。俺はおとなしく従った。