複雑・ファジー小説

「知恵と知識の鍵の騎士団」プロローグ2 ( No.5 )
日時: 2017/06/17 00:30
名前: いずいず ◆91vP.mNE7s (ID: bs11P6Cd)

「——で?」
「シューテのモルシアンだろう」
「へえ、シューテのモルシアン……ってなんだそれ! それだけで説明になるか!!」
「足音が聞こえる、声を落とせ」
「……っ!」
 ——ああ、もう、いちいちいちいちっ!

 俺は、女に対してはいくらでも寛容で忍耐強くなれるつもりだが、男相手にそうするつもりはない。声に、態度に、苛立ちを隠さず、男の言葉を待った。

「ハーゲルのむこうに、エストリュースという島国があるのは知っているか?」
「名前だけは」
「では、汽車を降りたあとにでも自分で調べろ」
「なんの説明にもなっていないじゃねェか!!」

 そのときだ。二つ向こうのコンパートメントから怒鳴り声が聞こえた。酒焼けした声が大声で主張するのは、子どもを攫った誘拐犯を探しているとのことだった。おそらく絶世の美女とこの布の塊のことだろう。
 ——誘拐犯ね。
 思ったより大事だった。そんなことなら俺としてはノータッチでいたい。奴らがここへ来たとき、コートの男がどうかくまってみせるのか。気分を害された俺は、お手並み拝見とばかりに腕を組み、そしらぬふりをする。
 酒焼けした声は隣に移った。

「……おい」
 コートの男が呼びかけてくる。目をむけると小声でなにか話している。
「なんだ?」
 隣でがなり立てる大声に邪魔されて聞こえない。首を傾げて見せると、まるでこっちにこいといわんばかりに顎で示してくる。しかたないので、腰を浮かせたときだった。突然するりと伸びてきた男の手が俺の襟元を掴み、強く引き寄せる。思わぬことに体勢を崩し、
 ——やばっ……!
 と思ったときは、もう遅かった。

「おい! 席をあらためさせてもらうぞ……」
 勢いよく扉を開けた酒焼け声が、みるみるうちにちいさくなる。背中越しにそれを感じながら、だろうなぁと俺も心の中でためいきをついた。

 悲しくなるほど近くにコートの男の顔がある。ご丁寧に薄い水色の瞳は閉じられていて、その唇はしっかりと俺の唇に押し当てられていた。
 ——マジかよ。
 男とキスなんて、生まれてから一度もしたことない。俺の唇は女専門だ。気持ち悪さに鳥肌が立つ。だが、ここで男を突き放しては布の塊がばれかねない。泣きたい気持ちをこらえ、俺はわざとゆっくり男から離れた。肩越しに振り返りながら、声を失う酒焼け声を含む数人に笑ってみせた。頑張れ俺!

「いきなりだなぁ。せっかくこちらの紳士に買ってもらったとこなんだ。邪魔しないでくれよ」
 ストリッパーよろしくコートを見せつけるように、両腕を広げながら脱いでいく。足元はしっかりコートの男が自身の長すぎる脚や荷物で隠している。俺がこのコートを最後まで脱ぎさえしなければ、とりあえずあの美女の願いは叶えられる。

 酒焼け声の男は舌打ちした。
「男娼か、汚らわしい! 行くぞ!!」
 乱暴に扉が閉じられ、足音が次のコンパートメントへ移っていく。しばらくそのまま外を窺った後、俺の唇を奪った男がいけしゃあしゃあといった。
「本職だったのか」
「ちげーよ!! ああ、気色悪!!」

 乱暴に服の袖で口を何度もぬぐう。見ればやった本人も、実に気持ち悪そうな顔をして、ハンカチで口を何度もぬぐっていた。バカめ。
「もっと他の方法はなかったのかよ、ミスタ」
「これがいちばん手っ取り早かった。現に荷物も検められなかった」
「くわー! なんだそれ! それだけのために……、」
 男とキスできるのか。本職はどっちだ、ハスラーめ。俺は、そう続けようとした言葉をすべて飲み込んだ。コートの男の足と荷物のむこうのそれとばっちり目があったからだ。コートの男も、ベールが、といったきり、次の言葉を忘れている。

 きっちりと編みこまれた髪は夜空のように黒々として、大きな瞳は満月を写し取ったような琥珀色。ほっそりとしてちいさな形の良い鼻の下、薄く色づく唇はまっすぐに引き結ばれていて。

 あと十年もすれば誰もが振り向く絶世の美女になるだろう少女が、表情もなく、まっすぐに俺を見つめていた。