複雑・ファジー小説
- Re: まなつのいきもの ( No.12 )
- 日時: 2017/07/11 17:23
- 名前: 星野 ◆a7opkU66I6 (ID: aruie.9C)
【熱を孕む】
その後、私は逃げるように部室から飛び出した。無我夢中で帰路を走る。散犬の歩をしていたお爺さんや、買い物帰りの主婦、下校途中の小学生が何事かと私を見る。そんな視線を振り切って、ただ私は駆け続けた。身体はこんなに重かっただろうか。いくら腕を振っても、足を前に漕いでも、進んでいるという実感は乏しかった。汗が首筋を伝う。気持ち悪い。はやく、家に帰らなきゃ。恐ろしいものが私の足を掬おうしてる気がした。
今までそれなりにやってきたつもりだった。でもいつからか、私は自分が歪んでいくのを感じていた。このままじゃいけないのはわかってた。けれども、どうして心地の良いこのぬるま湯から上がれるというのだろう。
「ただいま」
家に着くと、一先ず深呼吸した。母さんが居間の方からおかえりと声をかける。日常に帰ってくることができたのだ。私はそのまま自分の部屋に入る。制服から私服に着替える時、姿見が目に入った。痩せた身体、不健康そうな肌の色、 真顔の私。吐き気がした。急いで着替え終わると、ベッドに倒れこみ、瞼を閉じた。淡いまどろみが身体に覆いかぶさる。唯一の逃避の手段に縋りたかったのだ。
起きると朝だった。身体が、怠い。頭がうまく働かず、ぼうっとしてしまう。今日は何曜日だっけ。昨日が月曜日だから、ええと、確か火曜日だろうか。学校に行かなきゃ。そう思っても立ち上がろうとしても、視界が揺らぐ。もしかして、熱かな。言うことの聞かない身体を叱咤して、私は台所に向かった。
「郁子、おはよう。昨日帰ってきてから、ずっと寝てたけど大丈夫?」
「……今日、学校休む。熱出たかも」
台所では母さんが朝ごはんの支度を整えているところだった。フライパンに落とし込まれた卵やウィンナーがぱちぱちと焼ける音が耳に届く。母さんが心配そうに私の顔を覗き込む。驚きで数回、目が瞬いた。
「顔色が悪いわ。学校に連絡しておくから、部屋で休んでなさい」
母さんに促され、ふらふらの足取りのまま自室に戻る。熱が出ると、大袈裟なくらい思考がネガティヴになる。何だか寂しくなって、このまま一人ぼっちになるのではないかと錯覚してしまうのだ。
そうして1日横になっていると、夕方にはすっかり具合が良くなった。熱は私から尻尾を巻いて逃げ出してしまったらしい。お粥を平らげた私を見て、母さんは「季節の変わり目だからかしらね」と呟いた。
「郁子、お友達が来てるわよ。お見舞いに来てくれたみたい、通しても大丈夫?」
私がベッドから抜け出して歩き回れるようになった頃、母さんが言った。結菜だろうか。私が風邪をひいたときは、いつも結菜がノートやプリントを持って来てくれた。私はぎこちなく了承した。けれど実際に来たのは、清水さんだった。
「郁子、元気そうでよかった」
清水さんは綺麗な笑みを浮かべ、こちらにプリントを手渡した。彼女の容姿は、いつも洗練されている。グロスで飾られた唇や、くるりと上向きに上がったまつ毛は、完成された1人の女の子だった。清水さんのいるグループは皆派手だけれど、彼女だけは一等晴れやかな美しさというものが備わっている。
「お見舞いに来てくれてありがとう。熱なんてもう下がっちゃった」
「よかった、郁子いないとつまんないし」
そんなことないよ、という言葉はそっ飲み込んだ。清水さんは、出席番号が前後だから良く話す。だけど、お互いにいるグループは異なるものだった。だからこうして学校の外で会うことは初めてだ。
「あのさ、あー、一つ聞きたいことがあるんだけど」
歯切れの悪い前置きに、私はじっと続きを待った。
「久住のこと、好きとか、ない?」
「……ないよ」
昨日、北田くんにも同じような質問をされた。天文学研究会に久住くんが入ったことは、じわりと噂になっていることは知っていたけれど。私は思い切りかぶりを振る。
「よかった、あたし久住のこと好きだからさ。あ、でもだからかな」
「どうしたの」
「なんとなく、郁子と久住って雰囲気が似てるんだよね。他の子に言うと、似てないって言われるけど。だから、あたし郁子と仲良くしたいのかも」
私と久住くんが、似てる。4月の頃なら、確信を持って否定していた。だけれど、今は曖昧に笑ってごまかすことしかできない。他人に褒められたい私と、好き嫌いのない久住くん。2人とも、空っぽだ。
「長居してもあれだし、あたしそろそろ行くわ。郁子はもう寝てな」
「お見舞い、ありがとう」
「‥…あのさ」
清水さんは立ち上がり、そしてこちらに背を向けたまま言葉を発した。
「佐倉も、今日休みだった。それだけ、じゃあね」
結菜。その名前を聞くだけで、口の中に苦いものが広がった。何故、清水さんは最後にそのことを言ったのだろうか。