複雑・ファジー小説

Re: まなつのいきもの ( No.2 )
日時: 2017/07/04 13:24
名前: 星野 ◆a7opkU66I6 (ID: aruie.9C)

【クリア】

 天文学研究会の部室は、部室棟2階の隅にある。前は文芸部が使っていて、その前は漫画研究会。大きな長机と、パイプ椅子が数脚と、小さなプラネタリウムしかないけれども、中々居心地がいい。オレはいつも窓側の椅子に座る。斜め向かいは部長の沢城の席だ。週に3度の活動は、特に何かをするわけでもない。ただ、ひっそり閑としたこの空気は、勉強するのに向いていた。図書室に行けば3年の目立つグループが笑い声を立ててるし、家では誘惑が多すぎる。

「五十嵐くん、大変、大変!」

 沢城が部室へ駆け込んでくる。日焼けのしてない、真白の肌は若干紅潮していた。沢城は、変わっている。変人、というわけではない。むしろいいやつだ。頼みごとは快く引き受けてくれるし、教師からの信頼も厚い。けれども同い年の女子と比べて、達観したところがあった。透明感、ともいうのだろうか。痩せた体躯だからか、余計に壊れてしまいそうな印象を抱かせる。
 沢城は乱れたセミロングの髪を整えると、手に持っていた紙を机に置いた。

「……入部届け?」
「そう、新しく入ったの」
「まだ5月だから、珍しくはないが」
「五十嵐くん、よく見て」

 眼鏡をかけ直して、よく目を凝らす。

「は、久住って、あの久住か」
「そう、あの久住くん」
「はは、嘘だろ」

 無意識に、乾いた笑いを立てた。正直、オレは混乱していた。久住の名前を知らない奴は、恐らく俺の学年には少数だろう。いい意味で、久住は有名人だった。

「大体あいつ、3年生だ。入る意味なんてないだろ」
「それが、五十嵐くんと仲良くしたいみたい」

 沢城が曖昧な笑みを浮かべて、ゆっくりと椅子に腰を下ろした。
 なんだ、そりゃ。

「沢城、冗談は良くないぞ」
「本気だよ」
「そもそも、オレ、あいつに嫌われてるかと思ってた」
「へ、何かあったの」

 去年のことを思い出して、オレは頭を掻いた。何かあったも何も、大きな事が起こったわけじゃあない。ただふとした瞬間、例えば歯を磨いてる時、脳の隅っこから顔を覗かせるのだ。

「いや、まあ、去年美化委員で一緒だったんだ。その時、何故かわからないけれど、嫌に突っかかってきてな。オレ、ちょうど色々あった時期だったから、八つ当たりみたいに言ってしまったんだ」

 沢城は意外そうに目を瞬かせた。すうっと通ったまつ毛が、スローモーションのように動く。

「何を言ったの」
「……お前、空虚だなって」
「わ、わあ」

 今でも、あの時の久住の顔は忘れられない。

「言ったあと、すぐにしまったって思った。だから謝ろうと久住の顔を見たら、真顔だった。初めて見たよ、人気者の久住の顔に何も映ってないなんて」

 今日の俺は、嫌に饒舌だ。きっと、暑さのせいだろう。まだ5月だというのに、ほんのりと8月の気配を感じさせる。ああ、夏が近いな。

「五十嵐くん、只者じゃないよ。久住くんにそんなこと言えるの、五十嵐くんだけじゃないかな」
「しかし、沢城。お前もそう思わないか」

 そう問いかけられて、沢城は意表を突かれたように「へ」と漏らした。こういう時の沢城は、常にあやふやだ。こちらに一見同意しつつも、ある確信的な部分では否定をする。恐らく、これは沢城なりの処世術なのだろう。

「……私、久住くんのこと、少しだけ怖いな」

 だから、沢城の答えは予想外だった。沢城は理由なく陰口を叩くような奴じゃない。つまるところ、沢城は本心から言っているのだ。

「なんだろう、出来すぎているからかな。まるで、ロボットみたい」

 雨音みたいな声は、地面に浸透して消えた。沢城の瞳は、入部届けに注がれていた。これ以上見つめたら、穴が開いてしまうくらいに。

「あ、でも私がそう思っているだけだから。本当に素敵な人だと思うよ。変なこと言って、ごめんね」

 心底申し訳なさそうに、眉毛を下げた。沢城郁子は、脆い。だからオレは、彼女のことが心配なのだ。