複雑・ファジー小説

Re: まなつのいきもの ( No.3 )
日時: 2017/07/04 13:28
名前: 星野 ◆a7opkU66I6 (ID: aruie.9C)

【人魚姫なんかじゃない】

 朝が来るたびに、私は陰鬱な気持ちになる。どちらかといえば、夜の方が好き。誰とも会わないから。学校にいくと、ほんの少し息が詰まってしまう。いじめられているわけじゃないし、クラスの中でもそこそこの人間関係を築けているはずだ。でも、人間関係ってとても移ろいやすい。些細な変化を取りこぼしてしまえば、あっという間に弾かれる。だから、私は五十嵐くんが羨ましい。だって五十嵐くんは、ブレないから。

「おはよう、郁子ちゃん」

 教室に入るとおさげの髪を揺らしながら、結菜が駆け寄ってきた。所在なさげに、指を髪に絡ませている。結菜は、私の幼馴染だ。大人しくて、目立たない女の子。ちょっぴりふくよかで、柔和な顔つきをしている。

「おはよう」
「郁ちゃん、あのね」
「あ、郁子!」

 教卓の近くで輪を作っていた数人の女子たちが、一斉に私の方へ向いた。挨拶の代わりに、胸のところで小さく手を振る。

「結菜、さっき何か言わなかった」
「あ、ううん、大丈夫」

 結菜はわずかに口角を上げて微笑んだ。そうして「またね」と自分の席に戻る。入れ替わりに、教卓の前のグループが手招きをした。仕方なしに、私はそこへ向かった。

「郁子も大変だよね、佐倉さんに付きまとわれて」
「かわいそう、郁子。鬱陶しくない?」
「優しいから調子乗るんだよ」

 密やかな声と、鈴が鳴るような忍笑いを漏らす。みんなの視線はじわりと結菜を突き刺した。結菜は怯えるように肩をすぼめる。

「結菜、私の幼馴染だから」

 そう困ったように笑えば、みんなは目を合わせて、悪口を止める。

「まあ、郁子がいうなら」
「郁子って本当に優しいよね。あ、そういえばさ」

 次々と違う話題に飛び移っていく様子は、蜜蜂に似ている。ちらりと結菜を横目で見ると、安堵で胸をなでおろしていた。昔から、結菜は女子に目をつけられやすい子だった。結菜は言い返せるほど気が強くない。台風が去るまで、じっと身を潜めているのだ。

「見て見て、久住くん来たよ」

 隣に立っていた、ベリーショートの彼女が私をつつく。教室の後ろが華やいだ気配がした。見やれば、久住くんは清々とした表情でクラスメイトと挨拶を交わしているところだった。久住くんは、3年1組の太陽だった。太陽の周りには、人の群れができる。私は、それを少々むず痒い気持ちで眺めた。

「郁子はさ、久住くんは好みじゃないの」
「あんまり面食いじゃなさそうだよね」
「でも久住くん嫌いな人なんて、いないでしょ」

 急に話を振られて、上手く反応できない。その間にも、女子たちは、好き勝手に憶測を飛ばしている。

「そんなことないよ、かっこいいって思う」

 きゃあと姦しい声で、話に花が咲く。彼女達の意見に同調さえすれば、とりあえず輪を乱すことはない。

 あ。

 視界の端、久住くんがこちらに顔を向けているのがわかった。一瞬、世界から音という音が消えてしまったんじゃないかと錯覚する。まるで、水の中にいるみたいだった。どうして、私は久住宗治が怖いのだろう。みんなと同じように、憧れの存在として認識できないのか。ぐらりと世界が揺れる。あれ、もしかして、貧血かな。朝ごはん、今日抜かしてきたからだろうか。

「ごめん、ちょっと保健室に行ってくるね」
「どしたの郁子」
「え、大丈夫?」

 みんな、私の顔色を覗き込む。それをやんわりと振り払って、教室から出ようともがいた。廊下に出ると、まだ騒めきは残っているものの、教室よりは静かだった。あと5分で始業のチャイムが鳴る。

「い、郁ちゃん。私、付き添おうか」

 結菜が後を追ってきた。ああ、この子は、私なんかよりも人間ができている。

「ううん、いつもの低血圧だから平気。ありがとう、結菜」
「でも……」

 なおも諦めない結菜に、私は笑みを形作る。

「2限までに戻るから」
「う、うん」

 まだ不安の色が濃く残る結菜を残し、私は屋上の踊り場に向かった。着くと同時に、始業のチャイムが響いた。当然だけれど、人の気配はない。屋上への扉は鍵がかけられていて、ここに来る人は普段いない。深呼吸して、瞼を閉ざす。こうしていると、雑多な感情がぐるぐると流れ込んでは溶けていく。ここは、私の秘密基地だった。薬品の匂いのする保健室よりも、ここの方が安らげる。

「沢城さん、保健室に行かないんだ。不良だな」

 悪戯めいた、砕けた口調。きっと、これは久住くんの声だ。私はそうっと目を開けた。

「なんで、ここにいるの」
「それはこっちの台詞だって」
「……落ち着くから」

 私の返答には、あまり興味なさそうに「へえ」と相槌を打つ。そしてそのまま、階段に座り込んだ。

「久住くん、もうホームルームはじまったよ」
「教室から出ていくの気付いたから、心配で」
「本当に、良い人だね」

 言ってから、嫌味に聞こえたかもしれないと思った。しかし、後悔しても遅い。

「あはは、沢城さんって俺のこと嫌いだろ」

 押し殺したような笑い声をあげる。それは、仄暗さを孕んでいた。いつも教室で聞くような、純粋なものではなかった。恐ろしくなって、顔を下に向ける。同時に、久住くんが立ち上がる気配がした。

「嫌いじゃないよ」
「俺、クラスメイトが沢城さんを悪くいうのを聞いたことがないよ。みんな、沢城郁子は善人だって評価を下してる。だってさ、佐倉さんにさえ、手を差し伸べてるだろ」
「結菜のことは、言わないで」

 顔を上げる勇気が出ない。私と久住くんの距離が近づくのを感じた。

「1年の頃から、沢城さんのこと知ってた。だって、俺と同じで、空っぽじゃん」

 頭の中で警鐘が鳴り響く。目眩がした。思わず、体のバランスが崩れる。素早く、久住くんの手が伸びて、私の背中を支えた。その手の感触は、どこまでも無機質だった。視界に広がる、久住くんの顔は、夜の海を連想させた。昨日、五十嵐くんが言っていた言葉を思いだす。その表情には、何も映っていない。この人に捉えられてしまえば、あとは水底に沈んでいくのだろうか。