複雑・ファジー小説

Re: まなつのいきもの ( No.8 )
日時: 2017/07/07 10:29
名前: 星野 ◆a7opkU66I6 (ID: aruie.9C)

【サイレントナイト】

 体育祭は、例年より早い梅雨によって、中止になった。しばらくは学校行事もないから、宙ぶらりんの雰囲気のまま、日々を過ごす。塾から出ると、日中降り続いていた雨はすっかり上がっていた。少量の青と紫をグレーで塗りつぶした、夜の空を見上げる。燻んだ星が控えめに瞬いていた。
 塾に通うことになったのは、結菜に誘われたからだ。それから毎週、土曜日は駅近くの塾に足を運んでいる。終わった後の、うっすら浮き足立った心地が好きだった。隣接されたコンビニに入り、紙パックの紅茶とノートを買う。何人かの同級生とすれ違い、会釈、あるいは気づかなかったふりをした。

「郁ちゃん、遅れてごめんね」

 コンビニを出ると、息を切らして結菜が走り寄ってきた。

「ううん、待ってないよ。それじゃあ、行こうか」
「うん」

 半歩遅れて、結菜が着いてくる。特に約束はしたわけではない。けれども、先に終わった方が相手を待つことは、密やかなルールになっていた。6月も半ばに入ったとはいえ、夜の空気はうっすらと肌寒い。半袖で来たことを、少し後悔した。

「郁ちゃん、少し、話したいことがあるの」

 絞り出すような声だった。私は結菜を盗み見る。恐れと、それから微弱な興奮が入り混じった顔だった。私は、結菜の柔らかい手をとる。

「それなら、あそこの公園に行こう」

 帰路には、小さな公園があった。ブランコと、鉄棒、それからベンチしか設置されていない。街灯の明かりが、弱々しく私たちを照らす。無言のまま、ブランコに並んで座った。

「それで、話ってなに」
「あのね、この前、たぶんなんだけど」

 ゆっくりと、慎重に言葉を紡いだ。

「郁ちゃんの部活の人に、助けてもらったの。短髪で、眼鏡をかけてる人」

 私は、話を上手く飲み込むことができなかった。結菜が言っているのは、明らかに五十嵐くんだった。けれども、どうして結菜と関わる機会があったのだろう。私が次の句を継げずにいるのを察したのか、結菜はまた静かに語り出す。

「清水さんたちのグループに、体育祭の予行の時に絡まれてたところを、連れ出してくれたの。でね、その時思ったんだ」
「……何を」
「わたし、いつも誰かに助けられてもらってばかりだなって。だから、わたし、強くなろうと思うの。今まで、迷惑かけてごめんね」

 そう話を切り結ぶ結菜の話を、わたしは呆然と聞くことしかできなかった。ごめんね、という一言が頭の中で反芻される。

「そんなこと、気にしなくていいよ。だって、私たち、幼馴染なんだから」
「高校生になったら離れ離れになっちゃうよ」
「一緒のとこに行くから、気にしないで。私、結菜のこと大好きだよ。ねえ、だから今まで通り」

 舌が縺れる。結菜は、柔らかく微笑んだ。その余裕のある表情に、苛立ちが募る。どうして、結菜は平気なのだろう。私は、こんなにも苦しいのに。

「郁ちゃん、本当は頭良いのに、志望校下げてくれてるの知ってたよ」

 そんな言葉が聞きたいんじゃない。私は強く被りをふった。結菜は小さい子供を諭すみたいにして、私の手を握ろうとする。私は、それを振り払った。結菜の瞳が、困惑に揺れる。いい気味だ、と私は口角を引きつらせた。
 ずっと私の後ろにいてくれれば良かったのだ。私のそばで、日陰になってくれれば、そうしたら、私は、清水さんたちから、悪意から守ってあげられたのに。私の、かわいそうな結菜。迫り上がる感情を喉元で飲み込む。

「わかった。結菜が言うなら、そうしよっか」

 自分でも、びっくりするくらい抑揚のない声だ。こんな時に脳裏に浮かんだのは、久住くんだった。私を頼る人が、結菜がいなければ、空っぽなのだ。