複雑・ファジー小説

春は憎し 桜は愛おし ( No.10 )
日時: 2019/06/15 22:31
名前: 葉鹿 澪 (ID: 06in9.NX)

 申し上げます。申し上げます先生。あの子は酷い。酷い人だ。そう手紙に書いてやりたいのに、今年出した年賀状は宛先不明の判子と共に返ってきました。裏切りです。
 約束をしたのは忘れもしない、十一歳の六月でした。先生、私の生まれ故郷である北海道は、六月に春が終わるのです。ソメイヨシノの北限である北海道では、五月の山桜が春の風物詩。その春の死骸が爽やかな風となって、澄んだ空と私達の間を吹き抜けていました。一足先に歩道橋の階段を上った十二歳のあの子は、真っ黒できらきらした長い髪を揺らして、引っ越しが決まった私にこう言ったのです。「ゆいちゃんがうちに来て残ってくれたらよかったのに」「待ってるから」。その時の私がどんなに嬉しかったか、先生にはきっと分かりません。私だけのものです。
 一歳の時から、私は同じ保育所にいたあの子に育てられてきたのです。桜庭春樹。四月四日に生まれた、美しい名前の美しい女の子。私に黄緑の葡萄はマスカットというのだと、青空と桜の色はとてもよく合うのだと、そう教えてくれたのはあの子でした。当時、親や保育士に呼ばれるがまま一人称をゆいちゃんと言っていた私に、自分のことは「私」と呼ぶのだと教えてくれたのも。そうです。私が「私」という言葉を使うとき、それは私の言葉ではないのです。私の口を借りた、あの子の言葉なのです。靴箱の名札に貼ってあった、秋桜のシール。笑うと薄い唇から覗く八重歯。桜色よりも空の青色が似合うような子でした。青色が好きだと言っていました。私も青色が好きになりました。あの子が私に、「ゆいちゃんの髪は色が薄くて綺麗だね」と笑いかけてくれたから、それ以来私は髪を短く切れません。服にも化粧にも興味は無いのに、この髪だけは大事にしようと思うのです。そうしていれば、あの子はきっとまた会ったときにこう言ってくれるのです。「ゆいちゃんは変わらないね」と。
 再会を何度夢見たことか数え切れません。駆け寄る私に冷たい目を向けるあの子。抱きとめて、会いたかったと囁いてくれるあの子。そもそも別離なんて無かったように笑い合ったり。それなのに毎年出していた年賀状は、今年返ってきたのです。先生、便利な世の中になりました。住所も連絡先も何一つ分からずとも、顔と名前を憶えていればこの時代、調べることはできるのです。あの子はどうやら北海道を出て、大阪にいるそうです。インスタグラムに同年代の人と写っている笑顔が載っていました。髪は短くなって、仄かな桜色の唇は赤く下品に塗られて。酷いでしょう先生。でも、赤い口紅が世界で一番似合うのはあの子です。
 繰り返し見た再会の夢を、私は正夢にしようとは思ってません。だって心から望んでいる再会は、まだ夜に迎えに来てはくれない。私はあの子に、私の葬式に来てほしいのです。十数年振りに見る幼馴染の顔が、遺影と死に顔であってほしい。そうすれば生きて笑っていた私は、永遠に過去のあの子のものになるでしょう。そして私を置いていったことを後悔してくれたら、先生、こんなに贅沢なことってないと思いませんか。私はずっと、あの子のことが好きなのです。裏切られてもまだ。それならあの子には、私のことを嫌ってほしい。一番を独り占めしてみたい。あの子の十一年、全てを台無しにしたい。その為に先生、お願いがあるのです。私が死んだ時、葬式でこれを読み上げてはくれませんか。こんなこと先生にしかお願いできません。いえ、あの子を傷付けるためなら、親にだって悪魔にだって頭を下げます。ですが今、私の前にいらっしゃるのは先生なのです。先生お願いします。これはささやかな仕返しです。一世一代の復讐劇なのです。私の死体はどうせ、無機質な炎に焼かれて灰になるのでしょう。それなら言葉の死体はどうか、桜の根本に埋めてください。
 嗚呼、先生。四月四日の大阪には、桜が咲いていたのでしょうか。