複雑・ファジー小説
- 胡蝶の夢 ( No.11 )
- 日時: 2019/06/20 16:24
- 名前: 葉鹿 澪 (ID: 06in9.NX)
起きてから胃が重く不快だったので、舌の上に指を突っ込んで吐き出してみた。
口から出てきたのは昨日食べたラーメンではなく。
死んでもなお鮮やかに青い蝶の群れだった。
「ミヤマカラスアゲハだ」
幼い頃、何度も開いては眺めていた図鑑。記憶の中でそのページがパラパラと捲れていく。
黒の中に、光を反射するささやかな色。ところどころ千切れているけど、後翅の雫が垂れたような形もしっかりと残っている。
幼い頃、家族旅行の最中に見つけて夢中になって追いかけた。
柔らかな日差し。背の高い蕗。溶けていく薄緑の葉。
あの蝶は結局、捕まえられたのだったか。その先を思い出そうとしても、どうも靄がかかっている。
「……いや、そもそも昨日食べてないよな?」
弱いなりに酒を嗜んでしまったせいで記憶に自信が無いが、昨日食べたものは何の変哲もない袋麺だったはずだ。酔った勢いで好奇心に身を任せて蝉や甲虫の幼虫を口にしたことはあるが、その時にはハッキリと記憶に残っていた。
そもそも、冬真っ盛り。この辺でこう何匹も蝶が飛んでいるはずはない。となると、この群れは一体どうやって私の胃に入ってきたのか。
胃液と唾液、寝起きに飲んだ水が混ざった中で浮かぶ、艶やかな翅を眺める。
有り得ないことを全て除外すれば、それがどんなに意外でも真実である。繰り返し読んだ小説に倣って考えてみる。
悩むまでもない。食べていないなら食べていないのだ。つまりこの蝶の出処は冷え切った土の中でも、私の胃でも、袋麺でもない。脳髄だ。
「病院行くかあ」
トイレの床から立ち上がる。ついていた膝はすっかり冷めきって、ギシリと嫌な音を立てた。
ポケットに突っ込んでいたスマホを取り出し、業務連絡に使われているトークアプリを開いた。
当日、それも時間を見ると午前をギリギリ過ぎる時間の欠勤連絡は気が引けたが、胃から蝶を吐き出した人間がそのまま出勤する方が危険だろう。うん、この判断は間違っていない。多分。
そうなると問題は文面だ。流石に「吐いたら蝶が出てきたのでお休みします」とは言えない。確かに今日はしっかりと休みをもらえるかもしれないが、最悪明日から永遠に休みにされてしまう可能性がある。慎重にいかなければ。
『突然の連絡になってしまい申し訳ありません。前日から体調が優れず、嘔吐の症状も出たのでノロウイルスなどの可能性を考え、病院に受診しようと思うため、今日の授業はお休みさせていただきたいと思います。宜しくお願いします。』
浮かんでくる定型文にそれらしいことを当て嵌め、送信ボタンを押す。
緑色の枠に囲まれた文章に、何となく違和感があったような気がした。気がしたけどもう送ってしまったので、見なかったことにして画面を戻す。
未読を示す数字が縦にずらりと並んだ画面も見ないふりをして、ついでにその中の一つを指で触れる。
『蝶吐いたから病院行ってくるわ』
事実だけを簡潔に書いて、これも送信。報連相はすっきりさっぱりと終わった。
スマホの画面を消して、トイレの流水レバーを引く。
季節外れのミヤマカラスアゲハは、羽ばたき一つしないまま渦を作って吸い込まれていった。
トイレのドアを開いて、リビングへ。財布や保険証、おくすり手帳が入ったままの出勤鞄を持つ。
ローテーブルに足をぶつけ、からからと黄色い空箱が落ちて音を立てた。
「それじゃあ、行ってきます」
いってらっしゃい。
鼓膜にこびりついた声と共に、重たいドアが閉じた。
ノロウイルスを疑っているのであれば、診断書は内科から出してもらわなければいけないのではないか。歩きながら思い至った。
道端に落ちていたビールの空き缶を爪先で蹴る。勢い良く飛んで行った銀色の缶は、軽々とした音とは裏腹に鈍く地面に当たって中身を噴き出した。
アスファルトに、赤黒い染みが広がっていく。
「なるほど」
ビール缶にも五分の魂。今度から捨てる時はもう少し大事に潰すべきかもしれない。
さて一体どうしたものか。私が見ているものが幻覚であるとするなら、かかるべきは脳神経外科や精神科だろう。しかし口実で持ち出したノロウイルスを置いておくにしても、嘔気はどう考えても内科だ。近所の総合病院で診てもらうとしても、最初に決めておかなければ受付の人にも迷惑がかかるだろう。平日の昼間というのは人が多い。こんな訳の分からない人間に付き合わせるわけにはいかない。
並んでいる自分の背中に刺さる視線。上手く出てこない言葉。掌とペンの間に滲む手汗。定まらない視界。
胃の底がひっくり返るような吐き気。
「っ、うぇ……」
重く湿った音を立てて、胃液が地面に落ちる。咄嗟に掴んだフェンスが揺れる。
ぼたぼたと重なっていく蝶の翅が、小さく痙攣した。
それが酷く気持ち悪くて。恐ろしくて。
「病院、行かなきゃ」
踏み出した足の後ろで、アスファルトに黒々とした翅が張り付いていた。
フェンスを辿って道を歩き続ける。たまに縺れる足を引きずって。
──春馬。
──おい山形。
後ろからそう呼ばれては足を止めて振り返る。しかし右を向いても左を向いても、平日昼間の住宅街なんてそうそう人がいるものではない。
三度、四度と振り返ったところで、こちらを怪訝そうに見ている中年の女と目が合った。
「こんにちはー」
声をかけると眉と眉の距離を狭くして、曲がり角を進んでいく。その背中が見えなくなる直前に、少しだけ早足になった。
なるほど。どうやらあの人は私の知り合いではなかったらしい。となると、私の名前を呼んでくるこの声もどうやら振り返って答えられるものではなさそうだ。
そう分かれば別に、律義に答えてやる必要はない。
更に歩を進めていく。家から病院までは、大体徒歩三十分くらいだっただろうか。それにしては、随分と歩いているような気がしている。
どれくらい歩いたんだっけ。スマホで時間を見ようとしたら、画面は暗いまま一向に液晶が映らない。電源ボタンを長押しすると、赤くなった充電マークが点滅していた。
「まあ、こんなこともあるよね!」
住宅街を抜けると、目の前にはまたフェンスが横切っていた。なんだか見たことあるような景色だが、特に特徴もない街ならそんなものなのだろう。
そうは思っていたけど。
「……ん?」
フェンスを辿って歩いて行った先。
地面に広がって潰れた蝶の群れは、流石に見覚えのあるものだった。
「なるほど、ぐるぐる回っている」
蝶の死体と五回目のこんにちはをした。
私の知らない間に街全体が大規模レジャーランド化してなければ、これは私の歩いている道が同じところを通っているということだろう。
きっと空から見ていれば、その道筋は綺麗に円を描いている。何も正解していないのに。
これは困った。
「帰ろうと思っても戻ってきちゃうし、どうしたもんかなあ」
見上げれば、薄い青色が広がっている。ミヤマカラスアゲハの青よりも薄く淡いそれは、西の裾をもう橙に染め始めていた。
それが無性におかしくて、口角が上がっていく。出処の分からない衝動はそのまま笑い声になって唇から漏れてきた。
「あー、はっはっはっは、どうしよっかなあ。困ったなあ」
楽しい。何がと言われれば何も分からないけれど。
心が躍る。ステップを踏む足は地面についていないけれど。
家にも病院にも行けないのなら、いっそもっと遠いところへ行ってみようか。
「雪の進軍、氷を踏んで」
鼻歌を口ずさんでまた歩き出す。今度は足の向くまま、角を右へ、左へ。右。たまにまっすぐ。
「何處が河だか、道さえ知れず」
名前を呼ぶ声が聞こえる。どうでもいいけど邪魔されるのは気に障る。
こんなに清々しい気分はいつ振りだろうか。
「馬は斃れる、捨ててもおけず」
背中に銃口が向けられているのを感じる。逃げなければ。どこまで?
「此處は何處ぞ、皆敵の國」
息が切れる。走っても走っても銃口は私を追ってくる。踏み出した足が雪に取られた。雪なんていつの間に積もっていたんだろう。
「儘よ大膽、一服やれ、ば」
降りしきる雪が顔に当たる。名前を呼ばれる。ああ五月蠅いな。
「頼み少なや、煙草が──」
「春馬!」
立ち上がろうと前に伸ばした手が、引き上げられた。
晴れた夕焼けを背負ったその顔は忘れもしない。でもどうしてここにいるのだろうか。
「夏、樹?」
「お前、どこまでほっつき歩いて……電話も全然出ないし。つーか電源切りやがってお前」
「本物?」
「はあ?」
「いや、蝶とかビールの血とか、その亜種かなって。大丈夫、俺今電柱と話したりしてない?」
「大丈夫大丈夫。本物だから。ほら触ってみろ。温かいだろ。温かいな? よし帰るぞ」
腕を引いて一歩前を歩く夏樹は私よりも背が高い。見上げた先で色の抜けた髪が、冬の風に吹かれて揺れては日の光を透かしている。
そうか。確かにこれは現実だ。
「先にマンション行けば玄関の鍵はかかってないし、病院にもいないし、マジで、遂に町内放送のお世話になるかと思ったわ」
「迷子になっちゃって。鍵かあ、そう言われれば掛けた記憶無かったなあ。いやあ、面目ない」
「思ってないくせに」
「えへへ」
「お前そうやっていつも誤魔化せると思うなよ」
「夕飯は夏樹の好きなものにしような」
「お前が作んの?」
「好きだろ? 俺の作る飯」
「今さっきまで徘徊してた奴に刃物持たせられるわけないだろ」
「それは確かに仰る通りで」
包丁を使わないで作れる料理は果たしてあっただろうか。ピューラーは刃物に含まれるのか。
ぐるぐると頭を悩ませていれば、「外食もできないだろ。俺が作る」なんて言葉が聞こえてきて目を瞬かせた。珍しい。
「夏樹、ちゃんと作れんの?」
「カレーなら」
「カレーかあ。甘口がいいな」
「お前作ってもらう立場なこと忘れるなよ……?」
人が多くなり始めた夕暮れの道を、弟に腕を引かれて笑いながら歩く。
不意に夏樹の声が途切れる。さっきまで続いていた生意気な言葉の代わりに届いたのは、随分としおらしい。
「兄の葬式の喪主とか、させるなよ」
「変なこと言うね。いつか絶対にお前がすることだよ」
返事の代わりに聞こえた舌打ちに、「ごめんね」と答えれば「思ってないくせに」とまた言われてしまった。
その通りだったから、もう一つごめんねを重ねる。
今度は舌打ちも無かった。
「カレー、楽しみだな。久し振りだ」
「手伝わせるからな」
「勿論。助けてあげるよ」
きっと帰る前に、最寄りのスーパーで材料を買っていくんだろう。それくらいはちゃんと兄らしく、出してあげないといけないな。
どこからかスパイスのいい匂いが鼻先を擽っていく。それにつられて、胃がきゅう、と小さく縮まった。
どうやら蝶は、もうすっかり溶けてしまったようだった。