複雑・ファジー小説

足りない人間 ( No.3 )
日時: 2017/09/09 12:13
名前: 葉鹿 澪 (ID: k30LHxXc)

 次に君に会った時、うまく笑えるかが心配だった。
 あの日の夜。雨の中縋ってくる腕を拒んでおいて、その頼りなさに怖くなったのは俺の方だった。
「……ごめん」
 何に謝ったのか、今ではもう分からない。思ったよりも強く当たってしまった腕に対してなのか、それとも君が絞り出すように言ったあの言葉への返事のつもりだったのか。
 ただ、君がそれに酷く傷付いた顔をしたのに、すぐに唇の端を上げて「こっちこそ、ごめん」と言ったのが何故だか無性に腹が立って、俺はその場から逃げた。
 そう、逃げたんだ。君の前から。自分で君を傷付けた、その事実から。
 走りながら、傘が邪魔になってどこかへ投げ捨てた。途端に雨粒が顔に当たって、目に沁みた。閉じると、君の下手くそな作り笑いが瞼の裏に貼りついていた。
 そのまま自分の部屋まで帰って、何も考えたくなくて無理矢理寝て、起きるとまた朝が来ていた。
 君も、昨日の朝と何も変わらずに、玄関の前に立っていた。
 俺を見上げて「おはよう」と笑うその顔が、あまりにも完璧で。俺はそれに案の定、笑い返せなかった。一瞬、君の顔にも雨が過った気がした。
 それからの日々は、気味が悪いくらいに普段通りだ。あの雨夜だけ、切り取られてゴミ箱に捨てられたみたいに。
 もしも君が本当に捨てようとしているなら、そうさせたのは俺なんだろう。いつだって、俺の我儘を聞いてくれた君だから。
 でも、それならもう一つくらい我儘を聞いてほしい。
 君が捨てた夜を拾って、二人で話をしよう。今度は逃げないから。