複雑・ファジー小説

小匙一杯分の悪意 ( No.6 )
日時: 2018/03/18 07:53
名前: 葉鹿 澪 (ID: xplvrg7n)

 ポットに入れる茶葉は小匙一杯分。そこに入れるのは沸騰する直前の熱いお湯。
 その小匙の中に込める思いを、お湯と一緒に煮立たせる気持ちを、多分君はずっと知らないままなんだろう。


 珈琲と紅茶の匂いが染み付いた、焦げ茶のカウンターに缶を置く。
豆を挽くのも、茶葉が開くためにポットを温めるのも、ここに来てから随分と手慣れたものだ。初めの頃はどうにも覚束なくて、お湯が冷めてしまったりフィルターから溢れてしまったり忙しかった。
 アールグレイ、とアルファベットで書いてある缶を、カウンターと掌の間で転がして遊ぶ。窓ガラスの向こうで揺れる薄桃に飾られた枝に、ふと視線を引き寄せられた。
 高校生になって、通学路沿いにこの店を見つけて、もう一年。この一年で変わったことといえば、おやつの時間に強くなったことくらいじゃないだろうか。接客業でこの無愛想な性格をどうにかしようと思ったのに、それはあまり進展が見られない。何人かの常連客が顔を出すだけで、店の中にはいつも緩やかな時間が流れていた。三分を知らせる砂時計と、壁にかかった振り子時計、そしてカレンダーの進みがバラバラだ。
 缶を立たせて、ふとその振り子時計を見上げる。棚に戻そうと持ち上げた缶は、またカウンターの上へと置き直した。どうせそろそろ、また開く時間だ。
 カラン、と乾いた鈴の音が響いて壁にぶつかる。開いたドアとそこから入ってきた茶色い頭に「やっぱり」と声を出した。
「んだよ、やっぱりって」
「そろそろ来る時間だと思った。なに、その頭。染めたの? 剥かれた甘栗みたいな色してる癖にワックスでトゲトゲさせちゃってさあ」
「お前には別に関係ねぇだろ。つーか俺は客だぞ。へったくそな紅茶飲みに来てやったんだから接客しろよ」
「はいはい。ご注文はー?」
 訊きながら、メニューは渡さない。だってその後に続く言葉を私は覚えてる。
「アールグレイ。アイス。ストレート」
 ポットの中にお湯を注ぎながら、ぶっきらぼうな声を聞く。一週間に一度必ず唱えられる、世界で一番簡単な呪文だ。
 一度ポットのお湯を捨て、網を嵌める。その中に、ティースプーン一杯の茶葉を入れて再びお湯を入れる。三分の砂時計をひっくり返し、大きめのグラスを棚の中からカウンターの上へ。
「……本当、飽きずに飲みに来るよね」
「ここの紅茶はそこら辺のクソみたいな味の色水よりはマシだからな」
「そういうところ本当お坊ちゃん。高校も変に近場で探さずに、良いとこ通えば良かったのに。高校デビュー失敗してるし」
「失敗してねぇし! お前こそ、バイトなんざするくらいなら身の丈に合ったところにしとけば良かっただろ」
「社会学習ですー」
 口から言葉を放れば、小気味良く打ち返される。キャッチボールという比喩をよく聞くけど、私とこいつの会話はラリーみたいだ。相手の言葉をちゃんと掴む前に、腕に染み付いたテンポがラケットを振ってる。
 グラスの中に氷を入れると、とうとう茶葉が蒸れるのを待つだけになってしまう。何となく顔が見れなくて、落ちていく砂を眺めていた。
 小さな砂山が完成したら、ポットからグラスの氷に中身を注ぐ。氷に罅が入る音と共に、微かなベルガモットが鼻をくすぐった。
 ストローを差して、コースターの上に置く。
「はい、どうぞ」
「……どうも」
 わざわざ呟かれる礼にそういうところが、と出かけた言葉を飲み込んだ。その代わりに、別の言葉を頭の中から探し出す。
「……やっぱり、その頭似合わないよ。七年前が一番良かった」
「七年前って……子供じゃん……」
 返ってきたボールの勢いが思っていたよりも弱くて、思わず振ったラケットは空振りをした。
 子供だよ。子供だった。だって、その頃が一番真っ直ぐ見れたから。
 コロン、と涼しい音を立てて氷の塔がグラスの中で崩れる。
「……ごちそうさま」
「三百五十円です」
 言い終わる前に、カウンターに小銭が置かれる。几帳面に広げられた、銀色四枚。
 黙って出て行く背中を見送る。並んでいた時よりも、気付けば広く大きくなっていた。さっきと同じはずの鈴の音が、床に落ちていく。
 小匙一杯分に乗せた悪意。お湯で開かせたそれでしか、もうボールは投げられない。
 いつかこの缶の最後の一杯が来たら、その時は悪意じゃなくてもっと別の物を掬ってポットへ入れよう。
 一年前と同じ決意をしながら、私は茶葉を棚へ戻した。