複雑・ファジー小説

鳥籠 ( No.8 )
日時: 2018/05/13 14:28
名前: 葉鹿 澪 (ID: C3NVtWiG)

──私がこの部屋に閉じ込められてから、二日が経った。 



 群青色の海から浮かび上がるような感覚があった。
 ぼんやりと明かりだけ見える視界に、自分が眠っていたことを知る。閉じた瞼を開けば、真っ白な布団とその向こうに続くフローリングの木目が見えた。
 体を起こそうとして、その重さに枕へ顔を埋める。布団についた腕に力が入らない。肩や膝に何か挟まっているような、嫌な痛みがあった。右足首に布が擦れるたびに、違和感を覚えた。
 寝返りを打つと、肌に張り付いた布地が気持ち悪い。伸ばした腕を覆う星柄が目に入って首を傾げた。私はこんなパジャマを着ていただろうか。
 仰向けになれば見慣れた天井が見えた。真っ白な中に、昨日のことを思い出そうと頭の中で記憶を映し出す。
 二日経った気がする。昨日はひたすら体と喉が痛かったことだけ覚えてるけど、それ以外のことが曖昧だ。一度目が覚めた時は、部屋の中は真っ暗だった。今は雨戸の隙間から光が差し込んで、部屋がぼんやりと群青色になっている。窓から外を見たかったけど、雨戸と窓枠に錠が付けられていて諦めた。朝だろうか。それとも、もう日は高く上っているのだろうか。
 部屋を見渡しても壁には時計が掛かっていない。ただ白い壁紙が、私を取り囲んでいるだけだ。フローリングにも私が寝ている布団が一枚敷かれているだけで、時計どころか家具の一つもない。天井は見慣れているのに見慣れない部屋だ。
 とにかく自由に動ける内に、外の様子が知りたい。
 今度はしっかり腕に力を入れて立ち上がる。布団から出て、部屋に一つしかない焦げ茶色のドアへ。顔のすぐ下にあるドアノブを掴もうと手を伸ばす。手の平から金属の冷たさが伝わってきた。
 握った手に更に力を入れて押し込もうとした時、ドアノブがひとりでに下がって、私の目の前には白いシャツが現れた。
 見上げるとドアから一歩離れた向こう側、薄暗い廊下を後ろに少し驚いた顔が私を見下ろしていた。
「駄目だよ、まだ寝てないと。お腹が空いちゃったのかな。丁度お粥を作ってきたんだ、食べてくれるよね?」
 穏やかな声と一緒に、大きな体が私を部屋の中へ押し返す。背中の向こうで閉じていくドアを、私はただ見上げることしかできなかった。
「ほら、布団に入って。そう、良い子だね。流石は妹ちゃんだ」
 陶器がぶつかって、かちゃりと綺麗な音が鳴る。枕元の床に直接置かれたお盆の上には、小さな土鍋とレンゲが乗っていた。
 熊の顔を模った、一人用の土鍋。焦げがもう取れないと母がぼやいていた。その記憶を手繰るように手を伸ばすと、「いいよいいよ、妹ちゃんはそんなことやらなくて。僕が食べさせてあげるから」と取り上げられてしまった。
「でも、元気そうで良かった。随分ぐったりしてたから、このまま死んじゃうんじゃないかと思っちゃったよ。お薬が効いたみたいだね。うん、迷ったけどお医者さんに診てもらったのは正解だった」
 一人で頷きながら、その手は器用に小さなレンゲで鍋の中身を一口分掬う。
 白くとろりとしたお粥の中に、薄黄色のものが混ざっている。たまごだろうか。うっすらと湯気が上っている。
「はい、口開けて」
「……やだ」
 思わず言ってから、しまった、と息を呑んだ。
 彼の顔を見るといつもの笑顔のまま、ただ首を傾げていた。下がった眉だけが、いつもと違う。どうしよう。失敗した。
「うん? なんて?」
「……えっと、熱そうだから」
 なんとか思い付いた言葉を絞り出す。声は震えて、擦れてしまった。それでも向けられた表情がほっと緩くなる。私も気付かれないよう小さく、喉に詰まっていた息を吐きだした。
「あぁ、そういうことか。大丈夫だよ、少し置いたから火傷はしないと思う。うーん、そうだなあ」
 私じゃなくて自分の口元にレンゲを持っていくと、乗ったお粥にそっと息を吹きかける。
「ほら、これで大丈夫だよ。はい、あーん」
 今度は言われるままに口を開いた。
 温かい出汁の味に、つい安心してしまう。
 口の中のものを飲み込めば、また一口分が顔の前に差し出された。そうしてそれを、咀嚼する。食べたくなくても、その繰り返しで鍋の中身はどんどん減っていった。
 やらなければいけない事があるのに、布団に入ったままのんびりとお粥を食べている。そのずれが、ただひたすら私を焦らせる。重たい体はここに置いて、心だけで飛び出してしまいたい。
 そんな事を考えているうちに、最後の一口が私の口から入って喉の奥に落ちていった。
「全部食べたね。少し残っちゃうかと思ったけど……偉い偉い」
 大きくて硬い手の平が、私の頭を撫でる。汗でべとべとの髪を指で梳くような、優しい撫で方だった。
 床の上の土鍋に、レンゲが入れられる。お盆が持ち上げられて、茶色い裏側が頭の真上に浮いて見えた。
 高くなった彼の頭を、布団からただ見上げる。
「また後で様子見に来るから、それまでちゃんと寝てるんだよ」
 そう言い残して、彼はまたドアの向こうへと消えていった。
 音の無い部屋の中に、リズミカルな足音が届く。段々小さくなっていくのは、階段を降りているからなのだろうか。
 少し忘れかけていた怠さがぶり返してきて、布団に体を倒した。ぼすりと頭が枕に受け止められる。
 お腹が空いていたわけではないのに食べたからか、体の中に食べたものがぎゅうぎゅうに詰まっているようだ。それに頭もぼんやりとしている。大きく息を吐けば、肺の中の熱い空気が部屋に混ざっていった。
 ここから出なければ。立って、歩いて、外へ。
 そう考えているうちに、いつの間にか視界はまた群青色の闇に覆われていた。瞼が閉じている。そう気付いた時には開く気にもなれなくて、また眠気の海の中に沈んでいった。



 枕に顔を擦り付けてから目を開くと、雨戸の隙間から差し込む光はオレンジ色に染まっていた。
 朝より体はずっと軽くなっている。起き上がることすら辛かったのが、嘘のようだ。ただその代わりにやけに息苦しかった。鼻の通りがとても悪い。口から大きく息を吸うと、喉の奥が呼吸で乾いて変な味がした。
 布団から抜け出して、ドアの前に立つ。そっと耳を当ててみても、物音は何も聞こえない。彼がいると、いつも何か音が聞こえてくるからよく分かる。今はどこかへ出掛けたのだろうか。それが何故かは分からないけれど、とにかく出ていくなら今しかない。
 ドアノブを掴んで、そっと押す。キイ、と蝶番がこすれる音が小さく鳴って、ドアは開いた。
 隙間から覗くと、部屋と同じフローリングの上にいくつも段ボールが積み重なっていた。数えてみると六つ。それほど廊下は長くないのに、他の部屋に続くドアの前にも置かれている。
 そういえば物置にしていた空き部屋に、取っておくものをああやって段ボールに詰めて置いていた。私を寝かせるために、わざわざ段ボールを出したのだろうか。だとしても、それは優しいからじゃない。きっとそうだ。
 更にドアを開いて、部屋と廊下の境目をまたいだ。静かな中に、心臓の音がうるさく響いている。
階段は部屋を出てすぐ、右側にあった。
 手すりを掴んで、そっと足を出す。きっと彼は留守だけど、どこからバレるのか分からないから慎重に。音が鳴らないよう、一段ずつ下りていく。
 階段が終われば、左右にドアが一つずつ。右がトイレで、左が洗面所だ。
 そして、正面には外へ続く玄関。
 あそこを出れば。外に出て、誰かに会えたら。そうすれば私は逃げられる。
 家で一番大きなドアに駆け寄ろうとした足が、ふと止まる。彼は一体、どうして私を閉じ込めていたんだろう。
 私は彼から殴られたりはしなかった。ただ、彼はこの家の中で私に優しくしていただけだ。些細な言葉に喜んだり、悲しんだり。
 振り返って玄関に背を向ければ、リビングのドアが少しだけ開いているのが見えた。
 今なら隠されていた彼の何かが、あそこにあるかもしれない。
 大丈夫。少しだけ。少し覗いたら、すぐにここを出よう。それくらいならきっと間に合うから。
 リビングに入るとなんだか甘いような、でもお菓子とかではない臭いが私の鼻に流れ込んできた。 嫌な臭いだけど、どこかで嗅いだことがある気がする。火曜日のゴミ出しを手伝った時とか。
 見回してみても、変わったところは何もない。記憶と同じ家具に、窓から入った夕日の光が映っていた。
 電話が乗っている棚の取っ手を掴む。滑りが悪い引き出しは、レールが引っかかったら少し戻してもう一度引くと、ちゃんと開いた。
 中にはプラスチックのかごに仕切られて、薬が入った瓶や箱が並んでいる。細かい字で難しいことが色々書いているけど、多分いつも使っていた風邪薬や胃腸薬だろう。他の引き出しも探してみるけど、印鑑や今までもらった年賀状、銀行の通帳が出てくるばかりで、彼のものは何も見つからなかった。
 他のところを探してみようと、食卓テーブルの横を通った時。ふと綺麗に片付いた上に一枚だけ置いてある紙の、大きく書かれた漢字が目に入った。
「登校、許可証……?」
 その下には細かい字で色々書いてあり、真ん中には四角の中に何かを書く部分がある。アルファベットのシーの上に小さな丸があるから、温度を計るのだろうか。
 紙を元のテーブルに置いて、次はキッチンを見てみようかと思った時。ドアの向こうからガチャリと重たい金属の音が鳴った。
 足が竦む。どこかへ隠れなければと思うのに、動かない体の中で胸だけが内側から叩いている。
 廊下からリビングを隠すドアが開かれる。喉の奥から、悲鳴になり損ねた息が音を立てた。
「──あれ、どうしたの? 起きちゃった?」
 優しい声が、少し硬くなって私の耳に刺さる。足元を見たまま、顔が上げられない。
「あの、その……喉、かわいちゃって……」
「ああ、そっか。部屋に飲み物置いておけば良かった。ごめんね。今体温計と一緒に色々いいもの買ってきたんだ。スポーツドリンクとか、お茶とか。お水もあるよ」
 矢継ぎ早に飛んでくる言葉と一緒に、テーブルの上に物が置かれていく。
 私が返事に悩んでいると、彼は更に口を開いた。
「キッチンは今ちょっとゴミを溜めちゃってるから、入っちゃだめだよ。熱は下がってきたみたいだけどインフルエンザだもん、清潔な場所で安静にしてないと。大丈夫、学校も一週間くらいは欠席扱いにならないって」
 楽になって良かったね。そう言いながら、俯いたままの頭を大きな手が撫でる。
 喉が渇いたと言った手前、何か飲まなくてはいけない。テーブルの上から、水が入ったペットボトルを取った。
 キャップを握って捻る。いくら力を込めても、なかなか開く気配は無い。
「ほら、貸してごらん」
 彼はそう言うと、私の手からペットボトルを取り上げた。そして軽く捻って、また私の手の中に戻す。キャップはちゃんと開いていた。
 ありがとう、と言おうとして開きかけた唇に、慌てて飲み口を付けた。冷たい水が干乾びた喉を通っていく感覚が気持ちよくて、気付けば中身は半分くらい減っていた。
「本当に喉渇いてたんだ。ううん、妹ちゃんにそんな我慢させるなんて、兄失格だなあ」
 照れたように笑う声に、思わず彼の顔を見上げる。この人は何を言っているんだろう。
 私に兄なんか、いないのに。
「さ、そろそろお部屋に戻ろうか。もうアンクレットも付け直して大丈夫だよね」
 買い物に持って行ったらしい鞄の中から、鉄で出来た輪とそれを繋ぐ鎖が出てきた。
 そっと、跪いた彼が私の右足を取る。足首に輪が通されて、揺れる鎖がじゃらりと音を立てた。
 二日振りの重みが戻ってきた。
「二階のあの部屋、妹ちゃんの新しい部屋にしようと思ってるんだ。今は何も無いけど、これから妹ちゃんに相応しい家具を集めていくから。ちょっと我慢しててね」
 楽しそうに笑いかける彼に、私は何も返さない。
 私がここに、自分の家に監禁されてから、もう二週間が経つ。