複雑・ファジー小説

「喝采せよ! 喜劇はここにはじまれり!」起② ( No.6 )
日時: 2017/10/14 21:21
名前: いずいず ◆91vP.mNE7s (ID: bs11P6Cd)

「あら、もうはじまっちゃってるのね。ユイカちゃんの学校ってまだだったかしら」
 ホールへの扉をあけながら母がいう。扉をくぐった向こうにももうひとつ扉があって、ちょっとした小部屋のようなそこでは、ホールの内側からかすかに声が聞こえていた。
「いい、智羽矢。なかで、高校生のお兄さんお姉さんがお芝居をしているから、静かにしてなきゃだめよ?」
 口元に人差し指を当てて、母が智羽矢にいい聞かせる。智羽矢がうんとうなずくと、母はもうひとつの扉をあけた。
 さっきの女生徒がいった「絶対面白い」演劇とやらが観えるのだと、智羽矢はちょっとわくわくしていた。

 が。
(おかあさん、寝ちゃった……)
 光源は舞台の照明のみの仄暗いホールのなかは適度に空調が聴いており、また聞こえてくるのは舞台の上の演劇部員たちの台詞と効果音ばかり。居眠りするにはもってこいの環境であったため、母はあっとういうまに舟をこぎはじめてしまった。
(おねえちゃんは絶対面白いっていったけど、退屈だな)

 全国高等学校総合文化祭演劇部門に出場するのは、北海道、東北、関東(南・北)、中部、近畿、中国、四国、九州の各ブロックから選抜された、いずれ劣らぬ強豪校である。凝った舞台装置、自前のブラスバンド、部員数にものをいわせた派手な演出など、ちいさな市民劇団では太刀打ちできない、プロの演劇集団と比肩するレベルのものが、この地方の市民文化ホールで上演されているのである。仕事で休みが取れずなかなか上京する機会のない地方の兼業演劇人からすれば、這ってでも観に行きたい大会である。

 ただ、智羽矢はまだ幼すぎた。
 彼がもう少し大きければ——たとえば、中学生であったりすれば、舞台で展開している同世代の劇を楽しく、また共感して眺めることもできただろう。コミカルな演出に吹き出したり、クライマックスでは思わず涙をこらえることができなくなったかもしれない。
 でも、智羽矢は小学二年生で、まだ八歳にもなっていない。
(おしっこいってこよう)
 長時間客席に座っていることさえ、難しい年齢だった。

 重たいふたつの扉を、通りがかりの制服姿にあけてもらってロビーに出る。
 ロビーの床が石畳のせいか、ホールのなかより少し空気がするどい。上演中ということもあって、人影がまばらなロビーでは、スタッフらしき高校生たちがおしゃべりに興じていたり——さっきの受付のお姉さんは見当たらなかった——、演技を終えたあとなのか大きな荷物を抱えた集団が先生の話を聞いていたりと、なかとかわらず静かだった。
 壁に貼ってあったトイレへの案内板を見つけて、そちらへむけて智羽矢が駆け出したときだった。

「よーし、野郎ども! 集合!」

 心臓を掴まれるような、声、だった。
 足が止まる。声がしたほうを振り返れば、白いシャツの長袖を肘までまくり上げた高校男子が、笑顔で腕を広げていた。