複雑・ファジー小説
- Re: 片時も、違わずに ( No.3 )
- 日時: 2017/12/11 17:58
- 名前: 凛太 ◆GmgU93SCyE (ID: a0p/ia.h)
「静かに。これから見るもの、聞くこと、全てに返事をしては駄目だよ。いつも通り、素知らぬふりを通して」
声を潜めて早口に捲し立てる。持田はその円らな双眸を、数度瞬かせ、そして頷いた。たぶん、持田も何か察するところがあったのだろう。この夕日に照らされた校舎は、どこか歪な雰囲気に包まれていた。
遠くで、音がする。ずるずると、何かを引きずるような。徐々に音が大きくなる。近寄ってきているのだ。廊下の果てから、こちらを飲み込もうと黒い靄が押し寄せる。慌てて持田を見やると、彼女は恐怖で顔を引きつらせていた。持田の口を手で覆い、首を横に振った。悲鳴をあげては、だめだ。やがて目と鼻の先に靄が迫り、私達を品定めするかのようにして、数秒留まった。私はなるべくそちらを見ないように、平静を装った。息がつまるような時間は、すぐに終わった。黒い靄はゆっくりと引返し、廊下の向こう側に溶けていく。それを見届けてから、私は壁にもたれかかるようにして座り込んだ。いつのまにか、陸上部の掛け声や吹奏楽部の合奏が聞こえる。戻ってこれたのだ。
「もう、大丈夫」
私は押し込めていたものを吐き出すように、そう告げた。持田は呆然と立ち尽くし、いつまでも彼の者が去っていった方に顔を向けていた。
「ね、亜梨子」
「……うん」
「今のって、何」
あれ、と思う。心なしか、持田の声は弾んでいた。
「私にもわかんない。でも、この世界のすぐ隣に、さっきみたいな化け物がうようよいるんだって。だから、私と一緒にいると、また同じような目にあうよ」
あちらの国。おばあちゃんが、ずっと私に言い聞かせていたもの。この世界のすぐ近くにある、異形の国。ふとした時、何気ない瞬間、そいつは魔法使いを迎えにやってくるのだ。大抵は、ひと気の少ない逢魔時を見計らってくる。だから、私は友達を作ることが厭わしいと、そう感じていたのだ。稀に、こういう風に巻き込んでしまうから。詩君なら、こんな心配はいらない。
「え、それって、すっごく楽しいじゃん!」
瞳を爛々ときらめかせて、持田は私に向き直った。驚きと呆れで、うまく頭が回らない。
「話、きいてた?」
「超きいてた。亜梨子って、何者?」
中学の頃は、私と詩君が魔法使いなんだって、みんな知っていた。だから、ある意味では気楽だったのかもしれない。別に魔法使いだって明かすことは、秘密でもなんでもない。けれど、理由はわからないけど、そのことを口にするのは僅かにためらわれた。
「……魔法使い」
「まじで! えっ、じゃあさ、悪魔と契約したりとか、箒で空飛んだりとか」
「悪魔と契約するのは大昔の魔法使いのことだし、今の魔法使いはそんなに力が強くないんだよ」
「それでも十分すごいわ、あたし、めちゃくちゃわくわくしてきた」
予想外の反応に、私は戸惑うばかりだ。持田は歯を見せて笑う。
「だから、友達になろうよ」
なんで。その問いを発することは叶わなかった。夕日に照らされた持田の姿が、あまりにも眩しかったから。私は思わず目を細めた。
「しょうがないなあ、いいよ」
「なんだそれ、かわいくない」
なんだか馬鹿馬鹿しくって、可笑しくって、笑ってしまう。
「じゃあ、帰ろっか」
どちらともなく、そう言った。尻餅をついたままの私を、持田が引き起こす。その手の体温は存外に確かなもので。調子の良い私は、持田のことを認め始めているのだ。
亜梨子。
抱えてしまったならば、きっと手放す時が来るのが惜しくなる。廊下の奥、私の名前を呼ぶ声がしたなんて、そんなの間違いに決まってる。