複雑・ファジー小説

Prologue : My eyes,Your hope ( No.1 )
日時: 2018/01/21 18:44
名前: 幾束 (ID: vGUBlT6.)


「おい、シルヴィ? 何処にいるんだ、返事をしろ!」

 濁った硝子の向こうには、轟々と燃え盛る木々。昨日までは、この窓から美しい針葉樹の森が見えたはずなのに。男は眉を顰める。継ぎ接ぎの鉄板で出来た壁に拳を叩き込んだ。鈍い轟音。消えていく残響に、ジ、ジジ、と天井の豆電球が返事をした。暫く間があって、男がゆっくりと歩き出す。右脚を引きずる音と、荒い息が、不気味な程静かな廊下に反響した。
 やがて男は、突き当たって左の扉の前で立ち止まった。ゆっくり息を整え、その扉を三回叩く。しかし、部屋の中から反応は一切返って来ない。男は暫しの間待ったが、やがてしびれを切らしたのか扉の取っ手に手を掛けた。高い金属音がして扉が開くと、薄暗く、陰気な部屋の中に、木箱が大量に積まれていた。恐らく倉庫だろう。男は静かに、足を踏み入れる。迷わず真っ直ぐに向かうのは、倉庫の左の隅。箱と箱の間に、隙間が出来ていた。その隙間の奥に、一つの一際大きな箱。男は溜め息を吐き、その箱に向かい呼び掛けた。

「シルヴィ」

 木の擦れる音がし、ゆっくりとその蓋が持ち上げられた。中から、白い腕がまず出て来る。そこから次々に、頭、胴、足。革靴の底がしっかりと床を捕らえる。箱の中のそれは、淡い金色の髪を結わえ、白いブラウスを着た幼い少女だった。ひび割れた唇が薄く開く。

「とう、さん」

 娘を見る男の顔は衝撃に満ちていた。震える足で一歩踏み出し、節くれ立った手で少女の顔を包む。何回か唇を動かし、何か一言を絞り出そうとして、結局止めていた。
 少女の目は澄んだ空色で、ただじっと父親を見つめている。しかしそれは「左目」のみの話であって、右目の様子は見るからにおかしかった。固く固く閉じられた右目。瞼の隙間から、赤黒いものが溢れ出している。男は小刻みに揺れる指で、それを拭った。印の様にこびりつく色。暫く少女の目をじっと見詰め、男は掠れた声で呟く。

「やられたのか?」

 少女は頷いた。弾みで、空色の左目から滴が零れる。はっとしたような表情が浮かんだ後、関が切れたように、みるみる少女の顔は崩れていった。頬の赤を透明な雫が辿っていく。男は床に膝を付き、必死に娘を抱き締めた。細い背中を拍子をつけて叩き、つらかったな、ごめんな、と繰り返し唱えた。優しい声とは裏腹に、男の眉間には深い皺が寄っている。少女に触れる手も未だ震えていた。暗く冷たい空間を、少女の嗚咽が引き裂く。

 嘆息と、少しの間。男の手も落ち着きを取り戻して来た頃、唐突に少女が言った。

「もってきたよ」

 少女は鼻水をすすりながら、男の腕を綺麗にすり抜けた。涙の跡も拭わず、必死にズボンのポケットの中をまさぐっている。あった、と声を弾ませ、取り出した物を、男に手渡す。そして男はまたもや、言葉を失った。

「シルヴィ、これは……」
「とうさんの大事なものでしょ?」

 そう言って少女はにっこりと笑った。得意気な、無邪気な笑みだった。反対に、男の顔はまだ固まっている。少女が更に笑う。へんな顔、と。男は呆けたようにその笑顔を見ていた。何か言い掛けては、躊躇っている。言葉が出て来ないのだろう。男は自分の煤だらけの髪をがしがし掻いた。

「あー……てっきり、あいつらに盗られたものかと」
「うん、すごいでしょ? すっごく大事なものだって聞いてたから、わたしが取ってきたの」

 よく響く笑い声。男はつられて口角を上げたが、直ぐに真剣な表情に戻った。さっきまで淀んでいた瞳の底に、強い光が現れている。男はいきなり少女の肩を掴み、もう一度、きつくきつく抱き締めた。少女が首をかしげる。どうしたの、と遠慮がちに呟いた。男は少女を離し、その手の中の物を少女の小さな手に押し付けた。少女は更に首を傾ける。

「……これ、とうさんの」
「いや、お前が持ってろ。そして良いか、よく聞け」

 男はしっかりと少女の目を見た。少女も、左目でそれに答える。

「ここから出て屋上に行くんだ。そこに飛行船と、皆が居る。そこまで走れ。そして絶対に、これをあいつらに渡しちゃいけない。分かったか?」
「うん、分かった。でも、とうさんは?」

 男は泣き笑いのような歪んだ笑顔を浮かべ、少女の頭をいとおしそうに撫でた。そして、首に掛けた古く重そうなゴーグルを外し、目の前の細い首に掛ける。それは少女にとってかなり大きかったが、少女は感慨深げに受け取った。そして男は、小さな白いその手にごつごつとした自分の手を重ねた。似ても似つかない二つの手。しかし、互いを見つめるその眼差しはよく似ていた。

「とうさんはな、仕事が残ってるんだ。だから後から行く。先に皆と此処を出てくれ」
「え……」
「出来るだろ?」

 少女はゴーグルをいじりながら暫く迷っていたが、やがて力強く頷いた。空色の瞳には父親と同じ様に、強い光が宿っている。それでこそだ、と男は呟き、ふらつきながら立ち上がった。そして少女を外へと促す。

「シルヴィ」

 少女が部屋を出る寸前。男は少女を呼び止めた。少女が振り返ると、男は暗い倉庫の真ん中で、木箱に囲まれながら立っていた。そして、また泣き笑いの様な表情を浮かべる。男は深呼吸を一つし、しっかりした声で少女に問う。

「この世で一番大切な物……お前なら覚えてるよな」

 少女は一瞬目を瞬いた後、満面の笑みを浮かべた。

「命! そうでしょ?」

 男は満足そうに笑った。少女はじゃあ後でね、と手を振りながら、ゴーグルを揺らして走り去った。

「……っ」

 それを見届けると、男は木箱の間に座り込んでしまった。荒い呼吸音が響く。少女の前で無理をしたのが効いたのか、男の体はすっかり鈍い痛みに支配されていた。指先を動かす事すらままならない。暗さである程度誤魔化されていたが、男の腰に巻いてある布は既に真っ赤に染まっていた。しかしそれでもなお、男は笑みを浮かべた。消え入りそうな声で呟く。

「はは……見てるか、お前……俺達のシルヴィアはあんなに成長したんだ……」

 返事は何処からも無い。
 その代わり、部屋の外から金属の擦れる様な重たい音が近付いて来た。何者かが此方に迫っている。未だ男の笑顔は消えない。ただじっと、中空を見つめている。金属音はじりじりと大きくなってきた。男はようやく気付いた様で、開かれた扉に静かに目を向けた。その表情に緊迫感はまるで無かった。
 やがて、金属音が部屋の扉の直前で止まる。相手の姿は依然として見えない。
 暫くの間の後、からんころん、と軽い音がして何かが部屋に投げ込まれた。何か、瓶の様な物。扉の向こうからの光を反射し、ぎらぎらと光っている。先端から紐が飛び出ており、その紐の先には、赤々とした火が点いていた。その火の持つ意味を悟っても、男は微動だにしない。微笑みながら、宙へと視線を向ける。

 男はゆっくりと目を閉じながら、ぽつりと呟いた。

「生きろ……シルヴィア」

 ____爆音が、轟いた。