複雑・ファジー小説
- Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下 ( No.11 )
- 日時: 2018/04/14 13:34
- 名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: noCtoyMf)
ルーフェンは、一頻り笑うと、倒壊した屋敷の方を見た。
「それで、俺はどうすればいいですか? 言っておきますけど、魔術で骨組みを組み立てろって言うのは、無理ですよ」
苦笑して言うと、大工たちは、互いに顔を見合わせてから、申し訳なさそうに答えた。
「……ああ、えっと……。じゃあ、瓦礫だけどかして頂くことって、できますかね?」
「こんなことで呼びつけてしまって、本当に恐縮なんですが……」
たくましい体躯に似合わぬ、遠慮がちな声で言って、大工たちが頭を下げてくる。
ルーフェンは、柔らかく笑うと、崩れた瓦礫の山に向き直って、小声で詠唱した。
「……風よ、猛き風、茫漠たる風よ……」
一瞬、屋敷の残骸を中心に風が巻き起こって、ふわりと髪がはためく。
同時に、瓦礫がゆっくりと浮いて、半転したかと思うと、後方の地面に着地した。
声もなく見守っていた者達が、わぁっと声をあげる。
自分よりも重量のある物体を浮遊させるというのは、それなりに難しい魔術であったが、以前ルーフェンは、リオット族たちが棲んでいた奈落の底──ノーラデュースで、落盤してきた岩石すら魔術で支えたのだ。
倒壊した屋敷の残骸など浮かすぐらい、造作もなかった。
拍手している大工たちの方に振り返ると、ルーフェンは苦笑した。
「こういう魔術は、リオット族が得意ですから、次は彼らを呼んでくださいね」
何度もお礼を言いながら、大工たちが頷く。
そうして、ルーフェンがその場から立ち去ろうとした時。
ふと、大工の一人が、声をあげた。
「──あっ、おい! 子供が倒れてるぞ!」
楽しげな雰囲気が一転。
騒然とした空気に変わって、人々が顔を強張らせる。
怪我人はいないと思われていたが、よく見ると、ルーフェンが退けた瓦礫の下に、子供が倒れこんでいたのだ。
慌てて駆け寄ると、倒れていたのは、痩せこけた小さな子供だった。
運良く瓦礫の隙間に入っていたのか、幸い、大きな怪我は負っていない。
しかし、頭から爪先まで土埃まみれで、身体の至るところに、かすり傷がついている。
また、その赤褐色の短髪はぼさぼさで、手足には、縛られたような縄目がくっきりと跡に残っていた。
「……こりゃあ、乞食のガキか何かでしょう。よくあるんですよ。身寄りのない子供が、廃屋とか建設途中の建物に入り込んで、雨風しのいでるんです。昨日、天気が悪かったから、ここに忍び込んで、倒壊に巻き込まれちまったのかも」
苦々しい顔つきで、ラッカが言う。
ルーフェンは、子供を覗きこんで、その枝きれのような腕に触れた。
「……君、大丈夫?」
ゆさゆさと軽く揺らしてみるも、子供は反応しない。
その時、髪の毛の隙間から子供の耳が見えて、ルーフェンはぎょっとした。
その耳は、人間と同じ位置にあるものの、まるで犬か狼の耳のような形をしていたからだ。
- Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下 ( No.12 )
- 日時: 2018/04/18 18:01
- 名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: ktklDelg)
「獣、人……?」
信じられない、という思いで、ぽつりと呟く。
噂をすれば、とは言うが、つい先程、獣人奴隷の話題に触れたばかりの状況で、まさか本物を目の当たりにすることになるとは思わなかった。
同じく驚愕の表情を浮かべたラッカと、しばらく唖然としていると、不意に、ぴくりと子供の手が動いた。
瞬間、ぱっと子供が目を見開いて、ルーフェンを凝視する。
思わずたじろいだルーフェンが、何かを言う前に、子供は素早く起き上がると、突然、矢のごとく走り出した。
「えっ、ちょっ、ちょっと待って──!」
慌てて身を翻し、ルーフェンも走り出す。
ただの乞食ならともかく、もし本当にあの子供が獣人なら、このまま見逃すわけにはいかない。
驚く大工たちを置いて、ルーフェンは、全速力で子供を追いかけた。
しかし、あの細くて小さな身体の、どこにそんな力があるのかと思うほど、子供の足は速かった。
(まずい、全然追い付けない……!)
子供は、まるで猿のような身軽さで跳び上がると、近くの民家の屋根に登った。
このまま屋根を越えて、反対側の通りに渡られては、子供の姿を見失ってしまう。
魔術を使うか、とルーフェンが構えた時だった。
足を踏み外したのか、子供の身体が傾いて、屋根の上を転がっていく。
ルーフェンは、弾かれたように顔をあげると、地面を強く蹴って、手を伸ばした。
そして、落ちてきた子供を間一髪で抱え込むと、身をねじって、子供を庇うように背中から地面に着地した。
「────っ!」
舞い上がった土煙に咳き込みながら、腕の中の子供を見る。
子供は、ルーフェンを見て瞠目すると、なんとかその腕から抜け出そうと、身体を仰け反らせた。
「っ、大人しくして、何もしないよ……!」
そう言いながら、何とか子供を押さえ込む。
子供とは思えない強い力で暴れられて、ルーフェンも、逃げられないようにするのが精一杯だった。
やがて、追い付いてきた大工たちを見て、ルーフェンは叫んだ。
「皆っ、耳、塞いで、しゃがんでて!」
困惑した様子で、大工たちが、とりあえず耳を覆って屈む。
ルーフェンは、身体を反転させて、子供を地面に縫い止めると、唱えた。
「──汝、獲得と地位を司る地獄の侯爵よ!
従順として求めに応じ、可視の姿となれ。フォルネウス……!」
刹那、地面が波打って、水中から飛び出すように、巨大な銀鮫──フォルネウスが姿を現した。
フォルネウスは、宙を滑空しながら、独特の抑揚がある低音を発する。
すると、子供がびくりと背を反らせて、硬直した。
ややあって、脱力した子供が、寝息を立て始めたことを確認すると、ルーフェンは、はぁっと安堵の息を吐いた。
「な、何したんです……?」
警戒したように、上空を泳ぐフォルネウスを見ながら、大工たちが立ち上がる。
ルーフェンは、フォルネウスを消すと、ぱんぱんと服の汚れを払った。
「少し眠らせただけです。このまま暴れられちゃ、連れていけないので……」
そう言って、眠っている子供に視線を落とす。
犬や狼のような耳に、人間離れした動き。
今朝読んだ、獣人奴隷に関する報告書を思い出しながら、ルーフェンは眉を寄せた。
報告書にあった獣人については、成人女性と書いてあったから、きっとこの子供のことではない。
だが、特徴を見る限り、この子供が獣人であることは間違いない。
とすると、サーフェリアには、複数の獣人が渡ってきていたのだろうか。
(……全く、とんでもないもの見つけたな)
ルーフェンは、やれやれと肩を落とした。
詳しいことはまだ分からないが、獣人という存在が、サーフェリアにとって脅威であることに変わりはない。
召喚師として、放置しておいて良い問題ではないだろう。
ルーフェンは、ぐったりと眠っている子供の背に腕を差し入れると、そのまま抱きかかえた。
驚くほど軽いその子供は、よく見れば、少女らしい顔立ちをしていた。
- Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下 ( No.13 )
- 日時: 2018/08/14 13:50
- 名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: zc76bp3U)
サミルの屋敷に戻ると、ルーフェンは、ひとまず少女を自室に連れていった。
本当は、ちゃんと施療院に預けて治療してやりたいところだが、もし少女が目を覚まして、先程のように大暴れし始めたら、医師たちでは太刀打ちできない。
獣人の存在を公にするかどうかも迷っていたし、まずは、ダナを頼ることにしたのである。
ことの経緯を話すと、自警団員のロンダートは跳び上がって驚いていたが、ダナは、いつも通り一笑しただけであった。
獣人かもしれない、と聞いても、ダナは大して動揺することなく、慣れた手付きで触診すると、少女をルーフェンの寝台に寝かせた。
「……うむ。痩せすぎている、という点を除いても、気になるところだらけじゃのう」
身体の汚れを、濡れた手拭いで拭いてやりながら、ダナが呟く。
ルーフェンは、少女の青白い顔を見つめながら、顔をしかめた。
「事情を話して、施療院に連れていった方がいいですか? この子の素性も分からないし、俺達以外だと、まだサミルさんにしか話してないんですが……」
ダナは、悩ましげに唸ると、少女の着ていたぼろ布をめくり上げた。
「まあ、治療自体は、この屋敷でも可能じゃが……。問題は、傷一つの深刻さというより、数じゃな。まずは、この脇腹。内出血して、腫れておるじゃろう。骨は折れとらんようだから、じきに治るとは思うが、下手をすれば、内臓も損傷しかねん位置じゃ」
少女の全身の傷を、一つ一つ示しながら、ダナは言った。
「他にも、こういった内出血が何ヵ所もある。あとは、蹴られたような痕や、深い切り傷、擦り傷も多い。少し熱もあるし、古傷も見られるな。軽く引っ掻いたような浅い傷も含めると、まさに満身創痍の状態じゃ」
「…………」
そうして説明されながら、少女の身体の傷を見ていくうちに、ルーフェンは、だんだん全身が冷たく強張ってくるのを感じていた。
ルーフェンも、武術の心得はあるから、この少女が負っている傷の深刻さは、なんとなく分かった。
刃物で抉られたような傷に、棒で叩かれたような内出血。
縄目の跡も、手首だけでなく、肩や太股など至るところに残っていて、腹部には蹴られたか、殴られたかしたようなあざがいくつもあった。
どれも、屋敷の倒壊に捲き込まれて、出来たものではない。
最後に、背中に捺された焼き印を見ると、ルーフェンの隣にいたロンダートが、嫌そうな顔で呟いた。
「この子……奴隷ですね」
「…………」
三人の間に、重苦しい沈黙が下りる。
二十年前のリオット族による騒擾(そうじょう)をきっかけに、シュベルテでもアーベリトでも、奴隷制は禁止されている。
だから、こんな間近で奴隷を見るのは、初めてだ。
「かわいそうに……この子、きっと、どっかから逃げてきたんですよ。決死の覚悟で、ここまで来たんじゃないかなぁ」
ロンダートが、ため息混じりに言った。
その含みのある物言いに、ルーフェンが首を傾げると、ロンダートは苦笑した。
「いや、実は、俺も奴隷出身なんですよ。でも十二の時に雇い主が借金して、夜逃げしましてね。途方に暮れてるところを、サミル先生の孤児院に拾ってもらって、こうしてアーベリトの自警団員をやってるんです。アーベリトで働いてる奴らは、俺みたいな拾われっ子、多いですからね。だから、この子の気持ちも分かるなぁ」
ロンダートは、胸当てを外して上着を脱ぐと、ルーフェンに背中を見せた。
そこには、奴隷印と呼ばれる焼き印が、確かに残っている。
皮膚を醜く引きつらせ、くっきりと背中に刻まれた奴隷印。
少女の背中にあるものと、多少模様は違うが、どちらも、何年経とうと消えはしないのだろう。
- Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下 ( No.14 )
- 日時: 2018/05/01 20:28
- 名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: ktklDelg)
いそいそと脱いだ上着を着直しながら、ロンダートは続けた。
「まあ、なんとか逃げ出したんだから、この子はすごいですよ。ある程度奴隷生活が長いと、普通、逃げようって考えすら浮かびませんからね」
「……そうなんですか?」
ルーフェンが暗い声で尋ねると、ロンダートは頷いた。
「逃げたところで、行く場所なんてないですから。中には誘拐されたり、親に売られたりして奴隷にされた奴もいるけど、大半の奴隷は捕虜とか、身寄りがない奴等ばっかりです。だから、逃げ出しても、結局路頭に迷うことになるんです。それに、脱走がばれたら、主人にこっぴどく暴力振るわれたりしますし、最悪殺されます。それが怖くて、逃げようなんて気も失せてくるんですよ」
「…………」
ロンダートの話を聞きながら、ルーフェンは、じっと少女の背中の焼き印を見つめていた。
この少女は、その小さな身体で、どれほどの苦痛に耐えてきたのだろう。
一体どれだけの覚悟で、ここまで走ってきたのだろう。
人間しかいないこの国で、たった一人──。
先程、ルーフェンから逃げようと、懸命に身をよじっていた少女の必死さを思い出すと、なんとも言えない息苦しさに襲われた。
ダナが、興味深そうに少女の耳の付け根を探っていると、ふいに、少女が薄く目を開けた。
あっと思う間もなく、少女がびくっと頭を起こして、ルーフェンたちを凝視する。
一瞬、また逃げ出すのではないかと身構えたルーフェンだったが、予想に反して、少女は逃げなかった。
ダナとルーフェン、ロンダートの三人の顔を順に見ると、怯えたように身を縮めて、急に泣き出した。
三人は、その様子を黙って眺めていたが、やがて、少しずつ少女の呼吸が整ってくると、ルーフェンは、躊躇いがちに口を開いた。
「大丈夫……?」
はっと顔をあげた少女が、ルーフェンを睨む。
ルーフェンは、一歩だけ近付くと、努めて穏やかな声で言った。
「何もしないよ。さっきは、無理矢理捕まえてごめんね。俺はルーフェン。……君、名前は?」
「…………」
問いかけても、少女は何も言わなかった。
長い間、強張った顔でルーフェンたちを見つめていたが、しばらくすると、徐々に頭が傾き始めて、ぱたりと寝台の上に倒れてしまった。
ダナは、少女が再び眠ってしまったことを確かめると、腕組みをした。
「とにかく、体力を回復してもらわにゃ、話にならん。今日のところは点滴して、よく寝てもらったほうがええの。その間、召喚師様は近くにいておくれ。このお嬢ちゃんが暴れだしたら、わしじゃ止められん」
「それは、もちろん」
ルーフェンが頷くと、ロンダートが口を挟んだ。
「召喚師様はお忙しいですし、俺がこの子を見張ってましょうか? 俺、魔術はあまり使えないですけど、この子一人押さえるくらいは、できると思います!」
意気揚々と申し出たロンダートに、ルーフェンは首を振った。
そして、少し考え込むように俯いてから、答えた。
- Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下 ( No.15 )
- 日時: 2018/05/06 20:40
- 名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: KXQB7i/G)
「……いや、ロンダートさんは、シュベルテに行って、十一年前のことを調べてきてもらえますか? 書状を出すだけだと、誤魔化される可能性がありますが、俺の名前を出して直接聞き出せば、魔導師団も、変な隠し立てはしないと思うので」
「十一年前、というと?」
聞き返してきたロンダートに、ダナが答えた。
「獣人奴隷の件じゃな」
「はい」
ルーフェンは、首肯した。
「十一年前、不法に人身売買された奴隷の中に、獣人が混じっていた件です。報告書には、その獣人は成人女性と書いてありましたが、この子と全くの無関係とは思えない。逆に、無関係なら、最近新しく獣人がサーフェリアに渡ってきたってことなります。どちらにせよ、調べた方が良いと思うんです」
ロンダートは、納得したように頷いてから、首を捻った。
「でも確か、その獣人って死んじまったんですよね? 調べるって言っても、どう調べればいいんです? シュベルテの魔導師団を訪ねて、詳しく話を聞けばいいんですか?」
ルーフェンは、眠っている少女を一瞥してから、答えた。
「そうですね……。では、魔導師団にこういう聞き方をしてください。『十一年前のシュベルテでの獣人奴隷に関する報告書が、未処理の状態でアーベリトに回されてきた。こちらで対応するのは構わないが、何故事件を解決しないまま放置しているのか、教えてほしい』と。本当に獣人奴隷の件が、獣人が死んで完結していたなら、報告書は処理されていたはずなんです。でも、されていなかったってことは、あの事件には続きがあったのかもしれない。とりあえず、この子の存在は伏せて、それだけ聞いてきて下さい」
ロンダートは、少し困ったように笑った。
「なんか、喧嘩売ってるみたいじゃないですか? シュベルテの魔導師団って、お高く止まってる感じだし、単に『事件を解決できなかったんじゃない! 報告書が残ってただけだ!』とか何とか言って、突き返されそうな気が……」
以前、シュベルテの魔導師団に、冷たく当たられた経験でもあるのだろうか。
気が進まない様子のロンダートに、しかし、ルーフェンは、わざとらしく眉をあげた。
「大丈夫、逆ですよ。事件を解決出来ていなかったなら、下っ端魔導師の能力の問題ってことになりますけど、解決したはずの事件の報告書が、未処理になってたっていうなら、魔導師団の上層部の“職務怠慢”ってことになります。下の失敗は認めても、上の過失は認めようとしませんから、事件が解決できていない言い訳を、丁寧に教えてくれるんじゃないですかね。だから、『未処理の報告書が流れてきたんだけど、まさか理由もなく未処理なんじゃないよね? 事件が解決できていない、ちゃんとした理由あるんだよね?』って、そういう風に聞いてきて下さい」
「うわぁ……おっかない」
喧嘩売ってるみたい、ではなく、本当に喧嘩を売っているのだと気づくと、ロンダートは密かにぼやいた。
それに対し、いたずらっぽく笑って見せると、ルーフェンは、再び少女のほうを見つめた。
「……場合によっては、この子を、シュベルテに引き渡した方が良いのかもしれません。可哀想だけど、本当にこの子がミストリアとの接点になりうる存在なら、ただ生かしておくわけにはいかない……」
そう呟いたルーフェンの顔に、もう笑みはなかった。
- Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下 ( No.16 )
- 日時: 2018/05/13 22:57
- 名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: ktklDelg)
それから三日経っても、少女は、一言も口をきかなかった。
名前を尋ねても一切答えず、もう逃げようともせず。
一日中、熱に浮かされたように、ぼんやりと宙を眺めては、時折、何かを思い出したように泣いているだけであった。
最低限、果汁や牛乳を飲んではいたが、食事はほとんど摂っていなかった。
ダナが、付きっきりで少女を看病してくれたおかげで、傷は回復に向かいつつあったが、死人のようなやつれ具合は、出会った当初と変わらない。
夜もあまり眠れていないのだろうと、点滴ついでに多少の睡眠薬を投与していたので、ルーフェンが仕事の合間に覗いても、少女はうつらうつらと浅く眠っているか、泣いているかのどちらかであった。
今日は、ダナが施療院のほうに呼ばれていると言うので、代わりにルーフェンが、少女の看病をしていた。
看病すると言っても、少女は黙って寝台に横たわっているだけなので、ただ様子を見るだけである。
ルーフェンは、事務仕事をしていた手を止めると、日が高く昇った窓の外を見て、はぁっとため息をついた。
そして、寝台に近づくと、朝から放置されているスープを、少女の前に出した。
「いらない?」
「…………」
少女は、重そうな瞼を開いて、一瞬だけスープを見たが、やはり何も言わずに、顔を背けてしまった。
試しにスープを温め直して、もう一度尋ねてみたが、結果は同じだった。
「……食べないと、元気になれないよ?」
「…………」
そう話しかけてみるも、少女は目をそらして、何も答えない。
ルーフェンは、諦めたように肩をすくめると、寝台の宮棚にスープを置こうと、身を乗り出した。
ルーフェンの腕が、少女の頭上を通った、その時だった。
突然、少女が跳ね起きたかと思うと、すごい勢いで皿をとり、一気にスープを口に流し込み始めた。
「ちょっ──」
止める間もなく、飲み込んだスープを吐き出して、少女が激しく咳き込む。
辺りに飛び散ったスープが、予想以上に熱い。
それでも尚、咳き込みながらスープを飲もうとする少女を見て、ルーフェンは、慌てて皿を取り上げた。
少女は、スープが熱くて咳き込んでいる。
そのことに気がつくと、ルーフェンは手拭いを取って、彼女の口元を拭おうとした。
「馬鹿! 熱いなら、なんで無理に──」
飲もうとするの、と言いかけた、その瞬間。
少女が、いきなり口元にあったルーフェンの手に、思いきり噛みついた。
「いっ──!?」
あまりの痛さに、少女を払いのけようとして、堪える。
ゆるゆると息を吐いて、なんとか痛みをやり過ごしながら、ルーフェンは言った。
「……離して」
「…………」
鼻に皺を寄せ、まるで威嚇する獣のような目付きで、少女が睨んでくる。
だが、ルーフェンの険しい表情を見ると、少女はぱっと口を離して、今度は、怯えたように縮こまった。
- Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下 ( No.17 )
- 日時: 2018/05/20 20:02
- 名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: V7PQ7NeQ)
頭を抱えて、少女はがたがたと震えている。
ルーフェンは、噛みつかれた手を擦りながら、戸惑ったように一歩下がった。
スープの熱さを確かめなかったのは自分の失敗だが、急に噛みついてきたと思えば、今度は怯え始めるなんて、少女の言動が理解できない。
どうすれば良いか分からず、とりあえずこぼれたスープを掃除していると、その時、扉を叩く音が聞こえてきた。
返事をすると、部屋に入ってきたのは、サミルであった。
「サミルさん……!」
思わぬ来客に声をあげて、振り返る。
サミルは、寝台の上で縮こまっている少女と、ルーフェンを交互に見ると、少し驚いたように瞠目した。
しかし、なんとなく状況を察したのか、柔らかく笑って歩み寄ってくると、持っていた数枚の皿を寝台の宮棚に置いて、返事をした。
「お久しぶりです。この子が、例の獣人の……?」
少女を示したサミルに、ルーフェンが頷く。
サミルとルーフェンが、こうして顔を合わせるのは、本当に久々であった。
同じ屋敷内に住んでいて、全く会わないと言うのも奇妙な話だが、ルーフェンはほとんど自室と執務室に缶詰になっていたし、サミルも来客の対応に追われていたから、落ち着いて話す暇もなかったのだ。
サミルは、姿勢を低くして少女の顔を覗きこむと、優しく微笑んだ。
「こんにちは、私はサミルと言います。貴女は?」
「…………」
案の定、少女はなにも言わない。
それどころか、新手の登場か、とでも言いたげな鋭い顔つきで、サミルを睨んでいる。
だがサミルは、そんなことは全く気にしていない様子で、寝台脇の椅子に腰かけた。
そして、持ってきた深皿の中身を、三枚の小皿に分けると、その内の一つを、木匙と共に少女の前に置いた。
皿の中には、牛乳でふやかしたパンの上に、たっぷりと蜂蜜がかけられた、パン粥が入っている。
「甘いものは、お好きですか? 一緒にお昼ご飯を食べましょう」
サミルはそう言うと、少女の横で、自分もパン粥を食べ始めた。
ルーフェンが、呆然とその様子を見守っていると、サミルは、そちらにも小皿を差し出した。
「ルーフェンも、よかったらどうですか?」
「あ……はい」
断る理由もないので、皿と木匙を受け取る。
いまいち、サミルがどういうつもりなのか分からなかったが、少女を挟んで、サミルと反対側の椅子に座ると、ルーフェンもパン粥を食べた。
温かい牛乳に浸したパンと、蜂蜜の甘味が、じゅわっと口に広がる。
そういえば、初めてサミルに出会ったときは、卵粥をもらったな、などと思い出しながら、ルーフェンは、黙々と木匙を口に運んでいた。
- Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下 ( No.18 )
- 日時: 2018/05/26 20:45
- 名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: ktklDelg)
少女は、目の前に置かれた皿を見つめて、長い間、俯いていた。
時折、サミルやルーフェンを見ては、困惑したように視線をさまよわせていたが、ややあって、ぶすっとした顔つきになると、小皿を掴んで投げた。
からん、と音がして、寝台から転げ落ちた小皿の中身が、こぼれ出る。
ルーフェンは、落ちた小皿を拾おうとしたが、サミルはそれを制して、しーっと人差し指を唇に当てた。
少女に食べろと促さず、皿を拾えとも言わずに、サミルは、ただ自分のパン粥を食べている。
少女は、そんなサミルの様子を、注意深く伺っていたが、やがて、本当に何も言われないと悟ったのか、持っていた木匙を元の深皿に差して、ちびちびとパン粥を口に入れ始めた。
(た、食べた……)
声には出さなかったが、ルーフェンは、内心驚いていた。
この少女が、自らものを口にしているところを見るのは、初めてだったからだ。
少女は、食べているというより、パン粥の蜂蜜をなめているだけのようにも見えた。
それでも、自分の意思で食べているのだから、大きな進歩である。
部屋の周囲は、静かだった。
時々、屋敷の者が行き交う足音や、外から鳥の鳴き声が聞こえたりはしたが、それ以外の音は、なにもしない。
その内、そこに小さくすすり泣く声が混じってきたかと思うと、少女は、再びぽろぽろと涙を溢し始めた。
「…………」
身を絞るような、か細い泣き声。
ルーフェンは、サミルに習って黙っていたが、悲痛な声をあげて泣いている少女を、じっと見ていた。
しばらくすると、少女は嗚咽をもらしながら、いそいそと手を伸ばして、先程自分が投げた小皿を拾った。
サミルは、少女が小皿を差し出してくると、嬉しそうに笑って、ようやく口を開いた。
「ありがとうございます。拾ってくれるなんて、優しいですね」
返事はせずに、しゃくりあげながら、少女は、再び深皿のパン粥をつつき出す。
ルーフェンは、終始ぽかんとした表情で、サミルと少女のやり取りを眺めていた。
少女の食べる手が、止まった後。
汚れた寝台のシーツを替えてやると、少女は、また眠りに落ちた。
サミルとルーフェンは、少女が起きないようにそっと部屋の外に出ると、ふうっと胸を撫で下ろした。
「サミルさん、流石ですね。扱いがうまいと言うか、なんと言うか……」
感心してルーフェンが言うと、サミルは苦笑した。
「本当は、もうちょっと食べて欲しかったのですけどね。ダナ先生から、ほとんど食べていないと聞いていたものですから……」
ルーフェンは、首を左右に振った。
「いや、それでも大進歩でした。あの子が自分から食べてるところ、初めて見ましたし。俺なんか、スープを飲ませようとしたら、吐き出された挙げ句、思いっきり手を噛まれたんですよ」
くっきりと歯形のついて、軽く出血している掌を見せると、サミルは眉を下げた。
「ああいう子は、信頼してもらうまでが一番時間かかりますから。無理強いしたり、急かしたりすると、完全に自分の殻に閉じ籠ります。根気強く話していかないと、なかなか心は開いてくれないんですよ」
うーん、と唸って、ルーフェンは肩をすくめた。
- Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下 ( No.19 )
- 日時: 2018/06/01 21:13
- 名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: ktklDelg)
「無理強いしたつもりは、なかったんですけどね。食べないと思ったら、急にスープ飲み出したり、泣いちゃったり……俺には、よく分からないです」
サミルは、ルーフェンの肩に優しく手を置いた。
「まあ、そう腐らないで。一度つらい経験をしてしまった子は、とても敏感になるのですよ。ルーフェンも分かるでしょう? こちらには無理強いしたつもりなどなくても、もしかしたらあの子は、スープを飲まなかったら叱られてしまうと思ったのかもしれません。心の傷が癒えるには、時間がかかりますから、今は見守ってあげましょう」
「…………」
ルーフェンは、サミルの言葉に頷きながら、少女とのやり取りを思い出していた。
寝台の宮棚にスープを戻そうとして、腕を伸ばしたとき、少女は途端に怯え出した。
もしあれが、少女から見て、腕を振り上げるような仕草に見えたのだとしたら、ルーフェンに殴られるとでも思ったのかもしれない。
サミルは、少し扉を開けて、眠る少女を一瞥した。
「精神面はともかく、泣いたり、起き上がったりする体力はあるようですから、少し安心しました。あまり薬に頼りきりなのも良くないですし、今晩は、睡眠薬を抜きましょう。あとは案外、女性が相手だと、反応が違うかもしれませんね。あの子は女の子ですから、女性が看てくれた方が、安心する可能性もあります」
ルーフェンは、一拍あけてから、そうですね、と返事をした。
そして、くすりと笑うと、冗談っぽく言った。
「だけど、もしそうなったら、少し妬けますね。俺が保護した動物が、最初に俺じゃなくて、他人になついたような、微妙な気分です」
サミルは、呆れたように笑みを返した。
「こらこら、女の子を動物だなんて」
「でも、半分動物みたいなものでしょう? 噛みついてきた時なんて、本当、人間っていうか凶暴な動物って感じで──」
その時だった。
ふと、聞きなれた慌ただしい足音が響いてきたかと思うと、書簡を手にしたロンダートが、ばたばたと駆けてきた。
「召喚師様ぁー! と、サミル先生も!」
嬉しそうに叫んで、二人の前で止まる。
ロンダートは、ぴしっと敬礼して見せてから、サミルに挨拶をし、それから、ルーフェンにぐいと顔を近づけた。
「獣人奴隷の件、シュベルテで聞いて来ました! どんぴしゃでしたよ、召喚師様!」
あまりにも前のめりになって言ってくるので、ルーフェンが、思わず一歩下がる。
そんなことにも構わず、がさがさと書簡を広げると、ロンダートは早速報告を始めた。
「なんで件の報告書が、未処理になってたかって話なんですが、召喚師様の読み通り、あの事件には続きがありました。なんと、例の獣人奴隷には、子供がいたらしいんですよ!」
はっと目を見開いて、ルーフェンが続きを促す。
ロンダートは、得意気な様子で、はきはきと言い募った。
「そもそも事の発端は、ハーフェルンの海岸に、数人の獣人が流れ着いていたことだったらしいんですけどね。珍しいって言うんで、奴隷商が捕獲したのは良いものの、その獣人たちは次々と死んでしまって、生き残ったのは、太股に赤い木の葉模様の刺青が入った、女性の獣人だけ。それが、召喚師様が見た報告書に書かれていた、獣人奴隷です」
書簡を一枚めくって、ロンダートは続けた。
「その獣人奴隷も、奴隷商の不正取引が露見した頃に、亡くなったみたいなんですがね。どうやら、捕まった奴隷商たちの証言で、死んだ獣人奴隷の女は、他の人間奴隷との子供を妊娠していて、しかも、その子供は既に売り飛ばされた後だった、ということが分かったそうなんです。それで、魔導師たちはひとまず、この事件を終わりとはせずに、しばらくその半獣人の子供を探していたんだそうですが、結局見つからず……。だから、報告書は未処理のまま、事件はお蔵入りになっていたようですね」
「人間と、獣人の、混血……」
呟いてから、ルーフェンは、息を飲んだ。
「じゃあ、その見つけられなかった半獣人の子供っていうのが……」
三人の視線が、部屋の中で眠っている少女に向く。
ロンダートは、大きく頷いた。
「ね? どんぴしゃだって、言ったでしょう? 決定的な証拠になるものはないですけど、他に生きた獣人がサーフェリアに来たって言う話も聞きませんし、ほぼ確実ですよ!」
「…………」
ルーフェンは、少女を見つめたまま、しばらく黙っていた。
実を言うと、ルーフェンが期待していた“事件の続き”は、本当はあの女性の獣人奴隷が生きていた、ということだった。
世間には死んだと公表していても、王宮が、彼女を貴重な獣人として生かしていた、なんてことも、あり得ない話ではないからだ。
ルーフェンが王宮にいた頃、生きた獣人を捕らえているなんて話は聞いたことはなかったから、可能性としては、低いと思っていた。
それでも、生きてくれていたら良かったのにと、期待していた。
もし生きていたなら、少女が、このサーフェリアでたった一人きりの獣人になることはなかったし、矢面にたって、好奇の目にさらされることもなかったからだ。
なんとなく、そんなルーフェンの心境を察したのだろう。
サミルも、騒いでいたロンダートも、神妙な面持ちで目を伏せた。
サミルは、ルーフェンの頭に手を置くと、穏やかな声で言った。
「……悩むのは後にしましょう。まずは、あの子の体調を回復させないといけません。大丈夫、きっと良くなりますよ」
「…………」
ルーフェンは、サミルの方を見て、小さく頷いたのだった。
- Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下 ( No.20 )
- 日時: 2018/08/21 21:16
- 名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: zc76bp3U)
その夜、執務室で仕事を続けながらも、ルーフェンは、ずっと獣人混じりの少女のことを考えていた。
獣人と人間の間に生まれた、混血の子供。
報告書が発行されたのは、一四七七年だから、この年より少し前に少女が生まれたと仮定すると、少女は十一歳か、十二歳といったところか。
生まれてから、彼女がどんな環境に身を置いてきたかは、あの全身の傷を見れば、大体察しがついた。
本来ならば、獣人の血を引く少女なんてものは、シュベルテの魔導師団に引き渡すべきなのだろう。
王都がアーベリトになった現在でも、魔導師団の最高権力者は、召喚師であるルーフェンということになっている。
しかし、やはりサーフェリアにおける軍事の中枢は、旧王都シュベルテだ。
少女の存在が、ミストリアとの関係に波紋を呼ぶ可能性があるというなら、今回のことはシュベルテに任せた方が良い。
ルーフェンとて、最初はそのつもりだった。
だが、その一方で。
少女の生い立ちを知った今、果たして本当に、シュベルテに彼女のことを開示する必要があるのだろうか、と考えている自分もいた。
少女は、ミストリアから来たのではない。
母親が獣人だったというだけで、サーフェリアで生まれ、サーフェリアで育ったのだ。
少女からミストリアの情報を引き出せはしないだろうし、サーフェリアにとって彼女は、さほど重要な存在、というわけでもないはずだ。
それなら、このまま少女を、アーベリトで匿っていても良いように思えた。
シュベルテで獣人奴隷が発見されたときも、大騒ぎされたのだ。
もし少女の存在が知れ渡ったら、また話題になるだろうし、奴隷出身の獣人混じりなんて、どんな目で見られるか分からない。
もしかしたら、かつてのリオット族のように、邪険に扱われることになるかもしれない。
そうなるくらいなら、このアーベリトという街の中で、ずっと守っていてあげたかった。
(……なんか、サミルさんのお人好し菌が、移ったかな)
会って三日くらいしか経っていないのに、いつの間にか、少女に深く同情している自分がいて、ルーフェンは自嘲気味に笑った。
以前ノーラデュースで、オーラントに『結局あんたは、正義の味方になりたいんだな』なんてことを言われたが、確かにその通りなのかもしれない。
シュベルテにいた頃は、そんな甘さは切り捨てるべきなのだろう、と考えていた。
だが、アーベリトの者達と過ごすようになって、最近は、それでもいいか、というような気持ちになっていた。
まんじりともせず、ひたすら書面にペンを走らせていると、不意に、どこからか泣き声が聞こえてきた。
ふと手を止めて、隣の自室の方を見る。
おそらく、少女がまた泣いているのだろう。
(今晩は睡眠薬を飲ませてないから、寝付けてないのかな……)
窓の外の夜空を一瞥してから、ルーフェンは、再び自室の方を見た。
一瞬、様子を見に行こうかとも思ったが、もうかなり夜も更けている。
こんな時間に行っては、逆に驚かせてしまうかもしれない。
日中も、眠ったり泣いたりを繰り返しているから、じきに泣き止むだろうと予想して、ルーフェンは、再び書類に目を落とした。
しかし、ルーフェンの予想に反して、少女の泣き声はなかなか止まなかった。
だんだん、何か深刻な事態でも起きたのではないかと心配になってきて、ルーフェンは、手燭を持って部屋を出た。
様子を伺ってみて、何でもなさそうなら、すぐに戻ればいいだろう。
返事がないのは分かっていたが、一応扉を叩いて、そっと開けてみる。
真っ暗な空間を、手燭の明かりで照らしながら、ルーフェンは自室に入っていった。
- Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下 ( No.21 )
- 日時: 2018/06/08 20:34
- 名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: ktklDelg)
寝台を照らしても、少女の姿がなかったので、一瞬驚いたが、よく見ると、少女は寝台と壁の隙間にうずくまって、ぐずぐずと泣いていた。
「……眠れないの?」
ひとまず手燭を机に置いて、その場にしゃがみこむ。
なるべく少女を刺激しないように、少し離れた位置から、ルーフェンは問いかけた。
そして、彼女と同じ目線になった瞬間、あることに気づくと、ルーフェンは身を凍らせた。
少女は泣きながら、自分の手首を、血が出るまで掻きむしっていたのだ。
「…………」
言葉を失って、ルーフェンは黙りこんだ。
同時に、ああ、そうか、と思った。
そうか、この少女は、どこか自分に似ているのだ。
だから、まだ会って間もないのに、見ていてこんなに悲しくなるのだろう、と。
この少女が抱える闇と、自分の内にある闇は、全く違うものなのだろうけれど。
それでも、よく似ていると思った。
周囲のものを拒絶し、当たり散らして、行き場のない怒りと苦しみを持て余す。
そうして、周りが見えなくなっている少女の姿は、まるで王宮に入ったばかりの頃の、かつての自分を見ているようだった。
ルーフェンは、一歩、少女に近づいた。
「……そんなこと、やめた方がいいよ。きっと、後で後悔するよ」
びくりと震えた少女が、ルーフェンを見る。
その目には、明らかな怯えと警戒の色が見てとれた。
ルーフェンは、少女の反応を探りながら、柔らかい声で言った。
「周り、見て。……ここには、君を助けようとしてる人が、沢山いるよ」
もう一歩だけ近づいて、ルーフェンは、少女を見つめた。
その時、彼女の手首の状態がはっきりと見えて、ぞっとした。
出血が思ったよりも酷く、滴った血が、服にまで染み込んでいたのだ。
心臓の鼓動が、速くなった。
自傷行為だから、多少出血している程度だろうと踏んでいたが、甘かった。
もしこのまま自傷を続けて、出血が止まらなければ、命に関わる。
かといって、怯えきっているところを、無理矢理止めに入れば、余計に彼女の恐怖心を煽ることになるかもしれない。
- Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下 ( No.22 )
- 日時: 2018/06/11 12:06
- 名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: ktklDelg)
どうすれば良いのか、分からなかった。
しかし、ふと呻いた少女が、自らの手首に噛みつこうとした時。
考えるより先に、ルーフェンの身体は動いていた。
咄嗟に少女の腕を掴みあげて、逃げられないように、身体を引き寄せる。
すぐに解放した方が良いかとも思ったが、ルーフェンはそのまま、もがく少女の腕を押さえていた。
彼女の歯には、おそらく人間よりも鋭い牙がある。
ルーフェンが手を噛みつかれたときも、出血した。
そんな歯で、今の傷だらけの手首に噛みついたら、本当に命に危険が及ぶかもしれないと思ったからだ。
「──いっ、いやいやっ!」
ルーフェンの急な動きに、よほど驚いたのか、少女が初めて悲鳴をあげた。
なんとか逃れようと身をよじりながら、思いきり、ルーフェンの腕にかじりつく。
それでもルーフェンが、手を離してくれないと悟ると、少女は一層激しく泣きじゃくり出した。
首を振り、半狂乱になって叫びながら、少女が暴れ出す。
ルーフェンは、しばらく少女のさせたいようにさせていたが、その悲痛な叫び声を聞いている内に、鋭い悲しみが胸に広がってきた。
無理矢理喉の奥から絞り出したような、掠れた泣き声。
震えながら、力一杯抵抗している少女の腕は、力強くも、少しでも力を込めたら折れてしまいそうなほど、細かった。
ルーフェンは、ゆっくりと空いている方の手を伸ばすと、少女の身体に腕を回した。
「……落ち着いて。嫌なこと、何もしないから」
暴れる少女を抱き込んで、その場にしゃがみこむ。
少女は、嗚咽を漏らしながら、必死にルーフェンの肩を叩いたり、噛みついたりしていた。
「痛いっ、死んじゃう」
「死なないよ、大丈夫」
「死んじゃう、こわいこわいこわ──」
「怖くないよ」
ルーフェンは、優しく語りかけるように言った。
「大丈夫。怖いものなんて、ないでしょ」
しばらく攻防が続くも、暴れ疲れてきたのか、少女の抵抗する力が、徐々に弱まってくる。
激しく咳き込み、喘鳴しながら、少女は歯を食い縛っていたが、やがて、微かに身動ぎをすると、ぽつりと呟いた。
「……。……大丈夫?」
ルーフェンは、はっと少女の顔を見た。
俯いていて表情は見えないが、今の言葉は、きっとルーフェンへの問いかけである。
ルーフェンの言葉に対して、少女が反応したのだ。
少女を抱く腕に力を込めて、ルーフェンは答えた。
「……そう、大丈夫」
しゃくりあげて、頻繁に上下する背中をさすりながら、何度も囁いた。
「大丈夫……絶対、助けてあげるから」
「…………」
とくり、とくりと、小さな心音が伝わってくる。
少女は、ルーフェンの穏やかな声を聞きながら、長い間、すすり泣いていた。
- Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下 ( No.23 )
- 日時: 2018/06/12 22:33
- 名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: ktklDelg)
ようやく泣き止むと、少女は再び黙り込んでしまった。
気分が落ち着いたのか、寝台に戻しても、手首の手当てをしても、暴れることなく、されるがままになっている。
近づいても抵抗されないのは有り難いが、またしても反応を返してくれなくなったのは、少し残念であった。
先程、ルーフェンの言葉に返事をしてくれたのが、まるで嘘のようである。
少女の傷ついた手首に包帯を巻くと、ルーフェンは尋ねた。
「きつくない?」
「…………」
少女は寝台の上に座って、ぼんやりと俯いている。
ルーフェンは、しばらく寝台脇の椅子に座って、少女のことを眺めていたが、やがて、机に置いていた手燭を取ると、立ち上がった。
「……それじゃあ、俺、行くから。もし何か困ったことがあったら、呼んで。隣の部屋にいるからね」
それだけ言って、踵を返したとき。
不意に後ろに引っ張られて、ルーフェンは立ち止まった。
振り返れば、下を向いたままの少女が、ルーフェンの袖を掴んでいる。
ルーフェンは、少女に向き直った。
「……どうした?」
「…………」
少女は、ルーフェンの顔を見ることもせず、じっと黙り込んでいる。
だが、ふとルーフェンの手元を一瞥すると、その手から手燭を奪って、握りしめた。
ゆらゆらと揺れる蝋燭の炎を見つめて、少女は、人形のように動かない。
しかしルーフェンが、手燭を取り返そうと手を伸ばすと、少女はきっとルーフェンを睨んで、威嚇してきた。
どうやら、少女の目当てはルーフェンではなく、手燭だったらしい。
ルーフェンは、小さくため息をついて、再び椅子に座った。
そして、少女と手燭を交互に見ながら、問いかけた。
「……もしかして、暗いのが苦手だったとか?」
先程、震えながら暗闇の中でうずくまっていた少女の姿を、思い出す。
もしかしたら、夜中に目が覚めて、部屋が真っ暗だったから、怖くなってしまったのかもしれない。
ルーフェンを引き止めたのも、手燭を持っていかれたくなかったためだと考えると、納得がいく。
ルーフェンは、砕けた口調で言った。
「確かに、夜って怖い時があるよね。俺も小さい頃は、ふと目が覚めた時に、暗闇が怖くなることがあったよ。何かの視線を感じたり、寝台の隙間から、誰かが自分に掴みかかってくるんじゃないかって、想像してしまったりね」
「…………」
相変わらず返事がないので、ルーフェンも言葉を止める。
サミルの言う通り、根気強く接していくべきなのだろうと分かってはいたが、先程からずっと一人で喋っているので、だんだん虚しくなってきた。
- Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下 ( No.24 )
- 日時: 2018/07/22 21:29
- 名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: ktklDelg)
「……この手燭、部屋に置いておくから、そうしたら眠れそう?」
「…………」
手燭を握る手に力を込めて、少女が唇を噛む。
彼女が、一体何を言いたいのかはよく分からなかったが、それでも、まだ何かに怯えているのは見てとれた。
ルーフェンは、困ったように肩をすくめた。
少女からすれば、ルーフェンが隣にいることも嫌なのかもれないが、こうも怯えている姿を見せられては、このまま部屋に一人にするのも憚られる。
少女の気を引けそうな話題を考えながら、ルーフェンも、つかの間黙り込んでいた。
だが、ふと何か思い付いたように座り直すと、人差し指を手燭に向けた。
「眠れないなら、少し遊ぼうか?」
ひょいっと人差し指を動かして、少女の方に向ける。
すると、その瞬間、手燭の炎が分散して、少女の目の前に、ぽっと火の玉が現れた。
「……!」
少女が瞠目して、固まる。
一瞬、怖がらせてしまったかと焦ったが、少女は、単に驚いただけのようだった。
人差し指を動かせば、その動きに合わせて、ゆらゆらと火の玉が揺れる。
少女の目が、興味深そうにそれを追っているところを見て、ルーフェンは、思わず笑いそうになった。
彼女の姿が、まるで格好の遊び道具を見つけたときの動物のようだったからだ。
笑いを噛み殺しながら、浮かぶ火の玉を消すと、ルーフェンは、椅子から立ち上がった。
そして、少女が握る手燭の炎を、包むように両手で囲むと、唱えた。
「──其は空虚に非ず、我が眷属なり。主の名はルーフェン……」
詠唱が終わるのと同時に、手燭の炎が一気に燃え盛り、部屋全体が明るくなる。
少女は一瞬、全身が炎に包まれたような錯覚に陥ったが、不思議と熱さは感じなかった。
増幅した炎が、鳥の形を象って、ルーフェンの周りを滑空する。
ルーフェンの肩に止まってから、炎の鳥は弾けるように消えてしまったが、少女はしばらく、飛散した火の粉に魅入っている様子であった。
「面白いでしょ? 簡単な幻術の一種だよ」
少女の顔を見つめて、ルーフェンがにこりと笑う。
次いで、部屋の引き出しから紙と羽ペンを取り出すと、ルーフェンはそれらを少女に見せた。
「君もやってみる? 簡単な魔術だし、使うと周りが明るくなる。また暗い場所が怖くなったら、この魔術を使えばいいよ」
少女の目に、微かに光が宿る。
しかし、すぐに暗い表情に戻ると、少女は首を横に振った。
「……魔術……使え、ません」
小さな声ではあったが、再び少女が返事をしてくれたことに驚いて、ルーフェンが瞠目する。
ルーフェンは、表情をやわらげると、穏やかな声で返した。
「できるよ。君にも、人間の血が入ってるんだから。魔力って言うのは本来、誰にでもあるものなんだ。魔術が使えるか、使えないかは、その扱い方を知っているか、知らないかの差なんだよ」
「…………」
こちらを見上げてきた少女に、頷いて見せる。
ルーフェンは、紙にさらさらと魔法陣を描くと、それを少女に差し出した。
- Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下 ( No.25 )
- 日時: 2018/06/18 19:54
- 名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: ktklDelg)
「最初は、うまく魔力を一ヶ所に集中させられないだろうから、魔法陣を使うといいよ。魔法陣っていうのは、簡単に言うと、ここから魔力を放出させますよっていう、目印みたいなものなんだ」
説明しながら、少女が持つ手燭の下に、魔法陣が描かれた紙を敷く。
膝の上に置かれた魔法陣を凝視して、少女は、その紙面を指でなぞった。
インクで描かれた円の中には、三角形やら、読めない文字やらが、規則的に並んでいる。
興味津々の少女に、ルーフェンは続けた。
「あとは、呪文だね。呪文を唱えることで、具体的にどんな現象を起こしたいのか、炎に指示できるんだ。魔法陣も呪文も、慣れちゃえば必要なくなるけど、あったほうが成功率は高くなる。分かった?」
「…………」
少し難しい話をしてしまっただろうか、というルーフェンの予想に反して、少女は、こくりと頷いた。
ここ数日、ほとんど口を開かなかったため、もしかしたら少女は話せないのかもしれない、とさえ思っていたのだが、どうやらそうではないらしい。
返事もしてくれるし、ルーフェンの言っていることも、少女はちゃんと理解できているようだった。
炎の鳥のおかげで、ルーフェンに対する嫌悪感や恐怖心が薄れたのか。
一心にこちらに耳を傾ける少女に、ルーフェンは言った。
「じゃあ、蝋燭の炎に集中して。俺の真似して、唱えてみて。──其は、空虚に非ず、我が眷属なり」
「……そは、くうきょに、あらず、わが、けんぞく、なり」
辿々しく繰り返す少女に合わせ、ルーフェンは、ゆっくりと告げた。
「主の、名は──……」
ルーフェンから、手燭に視線を移して、少女は口を開いた。
「──トワリス……」
ぱっと炎が眩く散ったかと思うと、部屋全体に火の粉が舞って、二人の上に降り注ぐ。
触れても熱くない、きらきらと光る幻の火の粉は、まるで雪の粒のようだった。
掌を広げ、火の粉を掴み取ろうとする少女に、ルーフェンは満足げに言った。
「形にはならなかったけど、まあ、最初はこんなものだよ。これだけでも、十分綺麗でしょ、トワリスちゃん?」
ルーフェンの方を見上げて、トワリスが首肯する。
しかし、うっかり名前を言ってしまったことに気づくと、トワリスははっと手で口をふさいだ。
ルーフェンは、苦笑した。
「名前、言いたくなかった?」
「…………」
押し黙ったまま、トワリスは、警戒した様子でルーフェンを睨んだ。
魔術を教えてくれた、と言えば聞こえはいいが、呪文詠唱にかこつけて、名前を言わされたような気もする。
- Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下 ( No.26 )
- 日時: 2018/06/23 17:14
- 名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: ktklDelg)
再び口を利いてくれなくなったトワリスに、ルーフェンは肩をすくめた。
「そんなに怒らないでよ、ごめんね。別に無理矢理名前を聞き出したかった訳じゃないし、呼ばれたくないなら、呼ばないよ」
これ以上距離を詰めるのは得策ではないと、ルーフェンが一歩引く。
トワリスは、しばらく口を閉じて、ルーフェンの動向を伺っていたが、やがて、手燭を宮棚に置き、膝を抱え込むと、小さな声で言った。
「名前は……。……どの一族の出かを示す、大事なものだから、人間には教えるなって。……お母さんが、言ってたらしくて」
お母さん、という言葉に、ルーフェンが顔をあげる。
このままトワリスに話を聞いていけば、その母親であろう女性の獣人について、詳しく聞けるかもしれない。
本当にトワリスは、人間と獣人の間に生まれた、混血の娘なのか。
トワリスの母親は、どのようにして獣人の国ミストリアから、人間の国サーフェリアに渡ってきたのか。
気になる点は、いくつもある。
表情から笑みを消すと、ルーフェンは尋ねた。
「君のお母さんは、ミストリアからサーフェリアに渡ってきたところを捕らえられ、奴隷にされた。君は、そんなお母さんと、人間の男の間に生まれた子供……。これは、本当のことなの?」
はっと目を見開いて、トワリスがルーフェンを見る。
急に身を乗り出すと、トワリスは勢いよく捲し立てた。
「お母さんの、こと、知ってるんですか! 人狼族、なんです! 脚に、赤い木の葉の、刺青があって、髪色は私と同じ、赤褐色で、それから、えっと……!」
なんとか母親の情報を伝えようと、必死に言葉を探し出す。
徐々に涙声になりながら、トワリスはルーフェンに詰め寄った。
「私、お母さんのこと、全然覚えてないんです。生まれて、すぐ、引き離されちゃったみたいで……! でも、お母さんと一緒にいたっていうおばさんが、お母さんの言葉とか、特徴とか、色々教えてくれたから、私、それを手掛かりに、お母さんのこと──」
「ちょっ、ちょっと待った、落ち着いて」
思わず口をはさんで、ルーフェンが制止をかける。
突然話し始めたトワリスに、ルーフェンは慌てて首を振った。
「申し訳ないんだけど、俺も、君のお母さんのことを直接知ってる訳じゃないんだ。ただ、違法取引された奴隷の中に、獣人──つまり君のお母さんがいたっていう話を聞いただけで……。出来ることなら、もう少し詳しく調べてあげたいところだけど……君のお母さんは、十一年前に亡くなっている。探し出すことはできない」
「──……」
不意に、トワリスの瞳が、ゆらりと揺れる。
体勢を戻して、身を縮めると、トワリスの目から、涙があふれ始めた。
「……やっぱり、死んじゃってたんだ……」
せり上がってきた熱い痛みを堪えるように、トワリスが息を詰まらせる。
嗚咽を漏らしながら、泣き声を上げ始めたトワリスに、ルーフェンは、何も言えなくなった。
母親が生きていると信じ続けたって、いずれ真実を知れば、結局悲しむことになる。
だから、母親の死を知らせることは、ある意味優しさのつもりであった。
それでも、こんな風に泣かれてしまうと、罪悪感を感じざるを得ない。
きっと、彼女にとって母親は、肉親であるのと同時に、人間しかいないこのサーフェリアの中で生きる、唯一の同胞だったのだ。
(……そう、だよな。普通、母親が死んでたって聞いたら、悲しむよな)
母親の死を打ち明けるにしても、もうちょっと言い方を考えれば良かったかもしれない。
母親の死を嘆く感覚なんて、ルーフェンはあまり感じたことがなかったから、つい無遠慮な発言をしてしまった。
慰めの言葉をかけようにも、泣かせたのは自分なので、今更どうすれば良いのか分からない。
ルーフェンは、躊躇いがちにトワリスに手を伸ばすと、言った。
「……探し出すことはできないけど……もうちょっと、色々調べてみるよ。君のお母さんのこと……。何か分かったら、絶対に君に伝える。……だから、泣かないで」
そっと背を擦るも、トワリスはなかなか泣き止まない。
ルーフェンは、表情を曇らせたまま、しばらく押し黙っていたが、やがて、もうそっとしておいた方がよいと思ったのだろう。
手燭の炎を強めると、トワリスから手を引いた。
「夜遅いから、もう寝た方がいいよ。手燭は、ここに置いておくからね。何かあったら、言って。俺でもいいし、俺じゃなくても、誰かはこの部屋の近くにいるようにするから」
「…………」
すすり泣きながら、トワリスが膝の間に顔を押し付ける。
ルーフェンは、彼女の様子を伺いながら、言った。
「まずは、ゆっくり休んで。落ち着いたら、また話そう」
- Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下 ( No.27 )
- 日時: 2018/06/26 20:42
- 名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: ktklDelg)
いつの間に眠っていたのだろうか。
座った姿勢のまま、寝台の上でびくりと顔をあげると、トワリスは辺りを見回した。
瞼が腫れたように重くて、頭の中もぼんやりしている。
先程散々泣きじゃくったせいで、涙を擦った跡が、ひりひりと痛んだ。
(……お母さん……)
顔さえ浮かばない母を思って、ぎゅっと唇を噛む。
幼い頃に引き離されてしまったから、母のことは、ほとんど覚えていない。
ミストリアから渡ってきた、人狼族であったことも、どんな言葉を残していなくなったのかということも、全て人伝に聞いた話だ。
それでも、母と再会することだけが、トワリスにとっての生きる糧だった。
獣人の血が入っていると聞けば、皆、奇異の目を向けてくる。
腕をきつく縛られ、強固な足枷を嵌められれば、もう抵抗することもできない。
ここは人間の国、サーフェリアだ。
獣人の居場所などないこの国で、きっと、母も同じ目に遭っている。
だからこそ、再会すれば、この痛みが分かち合えると思った。
身を寄せあって、二人、どこか遠くに逃げられないか──そう夢を見たこともある。
そんな夢物語は、ルーフェンと名乗るあの少年の言葉で、打ち消されてしまったけれど。
(……あの人、また来るのかな……)
宮棚に置いてある手燭の炎を眺めながら、ふと、先程までこの場にいた銀髪の少年を思い出す。
身なりや、周囲からの敬われ方からして、恐らく身分の高い人間なのだろうが、なんとも不思議な雰囲気の少年であった。
最初は、全てを見透かすようなあの銀の瞳が、怖いと思った。
彼だけではない。
寝台を取り囲んで、見下ろしてくるこの屋敷の者達全員が、恐ろしくて仕方がなかった。
しかし、この屋敷の人間たちには、トワリスに暴力を振るったり、鎖で繋ぎ止めようとする者は、誰一人としていない。
それどころか、傷の手当てをしたり、温かい食事を与えようとしてくる。
──周り、見て。……ここには、君を助けようとしてる人が、沢山いるよ。
あの銀髪の少年が、はっきりとそう言っていた。
単に物珍しいから捕まえた、というわけではなく、本当に助けようとしてくれているのだろうか。
(私、を……?)
手首の包帯や、薄くなってきた脚のあざを擦りながら、トワリスは、小さく息を吐いた。
そういえば、身体を蝕むような鈍い痛みも、腹にあった重石のような違和感も、今はほとんど感じない。
ここ何日も眠ってばかりいたから、気づかなかったが、確かに、全身の傷が治り始めている。
(──何日、も……?)
その時、ふとそんなことを思って、トワリスは顔を強張らせた。
はっと窓の外を見て、硬直する。
トワリスは、徐々に明るみを帯びてきた夜空を見て、自分が何回目の夜を迎えたのか、必死に思い出そうとした。
(私、何日ここにいるんだろう……?)
- Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下 ( No.28 )
- 日時: 2018/06/29 23:01
- 名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: ktklDelg)
錆びた足枷を叩き壊して、その隙に、“あの場所”から逃げ出してきた。
けれど、それから一体、何日経ったのだろうか。
逃げて、雨の中を走って、走って。
あまりの寒さに、脚が動かなくなったから、人気のない骨組みばかりの建物に隠れて、震えていた。
だけど、あの夜は風が強かったから、煽られた建物が急に傾いて、崩れてきて──。
──目を開けたら、あの銀髪の少年がいた。
そう、あれから、どれくらいの時間が流れたのか。
“あの男”は、今頃怒り狂いながら、自分を探しているかもしれない。
そう思うと、息苦しいほどの恐怖が襲ってきた。
(どうしよう、帰らなきゃ……!)
無断で逃げ出した上、何日も行方をくらましたのだ。
早く戻らなければ、どんなきつい仕置きをされるか分からない。
トワリスは、慌ててルーフェンが巻いてくれた手首の包帯を引き剥がすと、それを寝台の上に捨てた。
こんな綺麗な屋敷に匿われて、手当てをされていたなんて知られたら、きっと余計に怒られてしまうからだ。
焦りと混乱で、呼吸が荒くなる。
激しく喘鳴しながら、トワリスは手首の傷をかきむしると、思いっきり、噛みついた。
「……っ」
鋭い痛みと共に、温かい液体が流れ出て、血臭が鼻をつく。
同時に、濃い顔料の匂いが蘇って、トワリスは、込み上げてきた吐き気に顔を歪めた。
(帰らなきゃ、帰らなきゃ……!)
転がるようにして寝台から降り、部屋を見回す。
扉に近づこうとして、けれど、外に誰かの気配を感じると、トワリスは踏みとどまった。
確か、眠る前にルーフェンが、この部屋の近くに必ず誰かいるようにする、と言っていた。
きっと、その言葉通り、扉の外には誰かがいて、トワリスが部屋から出ないか見張っているのだろう。
(見つかったら、捕まる……)
物音を立てぬよう、そっと踵を返して、窓に手をかける。
窓を開ければ、冷たい夜明けの風がすうっと部屋に入り込んできて、トワリスはぶるりと身震いした。
窓から顔を出し、広がる庭園を見回してみる。
今のところ、誰かが動く物音はしない。
耳を澄ませ、注意深く周囲を探りながら、トワリスは、しばらく外の薄闇を凝視していた。
だが、やがて窓から下を覗きこみ、地面までの距離を目測すると、身を乗り出した。
(二階……そんなに、高くない)
ふっと息を吸って、窓枠に足をかける。
トワリスは、最後に振り返って、寝台の宮棚に置かれた手燭を一瞥すると、窓枠を蹴ったのだった。
- Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下 ( No.29 )
- 日時: 2018/07/01 17:50
- 名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: 5VHpYoUr)
* * *
「は? あの子がいなくなった?」
ロンダートの報告を受けて、ルーフェンは眉を寄せた。
ロンダートは、青ざめた顔で深々と頭を下げると、早口で言った。
「いやっ、その、さっき目が覚めて、なんとなーく部屋を覗いたら、もういなくなってて! 俺、ずっと扉の前にいたんですよ!? 召喚師様に言いつけられた時間から、片時も離れなかったんです! 本当に!」
「さっき目が覚めて、って……ロンダートさん、どうせ居眠りしてたんでしょう」
ルーフェンの指摘に、ロンダートがはっと口をつぐむ。
ルーフェンは、呆れた様子でため息をつくと、ロンダートの横をすり抜けて、トワリスを寝かせていた自室に向かった。
昨夜、トワリスと話した後、ルーフェンは、仕事のことでサミルを訪ねなければならなかった。
だから、何かあった時のためにと、夜番で屋敷を警備をしていたロンダートに、トワリスの部屋の近くにいるようにと申し付けたのだ。
しかし、当のロンダートは、警備中に朝まで居眠りをしていて、トワリスが部屋から抜け出したことに気づかなかったのだという。
元来抜けた男だと思ってはいたが、まさか、ロンダートのうっかりとトワリスの逃亡が、運悪く重なるとは思わなかった。
自室の扉を開けると、ロンダートの言う通り、トワリスはいなくなっていた。
寝台は荒れ、床には点々と乾いた血が散っており、部屋の窓は全開になっている。
彼女が窓から抜け出したのだろうというのは、火を見るより明らかであった。
(……ロンダートさんに警備を頼んでから、二刻が経ってる。まだ怪我も完治していないし、そんなに遠くまでは行ってない、と思いたいけど……)
悩ましげに目を伏せて、寝台を見つめる。
そう思いたいが、何しろトワリスは、獣人混じりだ。
初めて出会ったときも、傷だらけの状態でルーフェンより速く走っていたし、ひとっ跳びで民家の屋根まで駆け上がっていた。
遠くまでは行っていないだろうと高を括って、手当たり次第に周囲を探しても、トワリスを見つけられる気がしない。
燃え尽きた手燭や、昨夜ルーフェンが渡した、魔法陣の描かれた用紙。
そして、寝台に放置されている、血のついた包帯。
それらを眺めながら、トワリスの行方を考えていると、後ろから着いてきたらしいロンダートが、今にも泣きそうな声で言った。
「うぅ……本っ当にすみませんでした! だってだって、逃げるにしても、あんな小さな女の子が、窓から飛び降りるとは思わなかったんですよぉ。ここ、二階ですし! 確かに居眠りしちゃってたのは認めますけど、扉の前にはいたし、その、トワリスちゃん? でしたっけ。あの子に何かあったら、すぐに動けるはずだったんです!」
「…………」
弁明を無視して、ルーフェンが物思いしていると、ロンダートがみるみる絶望したような表情になった。
「しょ、召喚師様ぁ……お、俺、首ですか? シュベルテで聞いたんです……召喚師様のご機嫌損ねたら、職を追われるって。そ、それとももっと重い……まさか、ざ、斬首とか!?」
一人で縮み上がっているロンダートに、ルーフェンは、煩わしそうに答えた。
「ロンダートさん、うるさい。そんなことしないから、さっさと探すの手伝って」
「はっ、はひ!」
裏返った声で、ロンダートが敬礼する。
ルーフェンは、そんなロンダートを横目に見てから、窓の外を見下ろした。
ルーフェンの自室は二階だから、普通の少女なら、飛び降りようなんてことは考えないだろう。
縄や布を使った形跡もないし、地面まで伝っていけるような木もない。
だがトワリスなら、これくらいの高さ、簡単に飛び降りることができるはずだ。
(窓から飛び出したとして、問題は、どこに行ったか……だな)
トワリスが手首に巻いていたはずの包帯を見つめながら、ルーフェンは、微かに目を細めた。
昨夜の様子からして、トワリスは、母親の死にかなり衝撃を受けていた。
他に行く宛なんてないだろうし、もしかしたら彼女は、母親を探しに行ったのかもしれない。
- Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下 ( No.30 )
- 日時: 2018/07/04 20:11
- 名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: ktklDelg)
ルーフェンは、早足に部屋を出ると、屋敷の正門へと続く長廊下を歩き出した。
「とりあえず俺は、シュベルテに行って、報告書にあった奴隷商について、詳しく聞いてみます。トワリスちゃん、もしかしたら母親を探しに出たのかもしれない。あの子が、母親を捕らえていた奴隷商の拠点なんて把握しているか分からないけど、知っていたとしたら、そこに向かっている可能性が高い。ロンダートさんは、自警団員何人か連れて、周囲を探してください。……獣人混じりの子供なんて、見つかったら大騒ぎになる」
「わ、わかりました……!」
ルーフェンの真剣な顔つきに、思わず息を飲んで、ロンダートが頷く。
そうして、お互い別れようとした、その時だった。
屋敷の正門から、傴僂(せむし)の男が入ってきたかと思うと、男は、ルーフェンを見や否や、ぱあっと表情を明るくした。
「しょ、召喚師様! おはようございます……!」
一礼し、キャンバスの沢山入った袋を引きずるようにして、男が近づいてくる。
それが、残酷絵師、オルタ・クレバスであることに気づくと、ルーフェンは内心ため息をついた。
どうせまた、宮廷絵師として雇ってほしいと懇願しに来たのだろう。
「クレバスさん、すみません。今ちょっと忙しいので」
冷たく言い放って、ロンダートに早く捜索に行くようにと指示を出す。
ロンダートが駆け足で自警団の召集に行くところを見送ると、ルーフェンも、オルタを置いて正門を出ようとした。
しかし、その手を掴んで、オルタが話しかけてくる。
「お待ちください。ほんの、ほんの少しの時間で良いのです。どうか、私の絵を見て頂けませんか。今回は、召喚師様のご希望に沿うような絵を描いてきたのです……!」
そう言ってオルタが取り出したのは、アーベリトの街並みが描かれたキャンバスであった。
質素だが、清潔感のある白亜の家々も、楽しげに走り回る街の子供達も、その一つ一つが緻密に、丁寧に描かれている。
おそらく、前回会ったときに、残酷絵は好みではないとルーフェンが言ったので、オルタはそれを気にして、わざわざ画風を変えてきたのだろう。
期待の眼差しを向けてくるオルタに、しかし、ルーフェンは首を横に振った。
「……悪いけど、何度も言う通り、こっちには芸術家を雇う余裕がないんです。貴方の絵なら評価してる人が沢山いるでしょうし、よそに行ってください。それじゃあ、本当に時間がないので」
「そ、そんな、待ってください!」
早口で立ち去るように告げるも、オルタはしがみついてきて、なかなか離れない。
苛立ったルーフェンが、咄嗟に腕を強く振り払うと、しまった、と思う間もなく、オルタはよろけて地面に手をついた。
転んだ拍子に、オルタの持っていた荷物から、キャンバスや画用紙が滑り出る。
流石に突き飛ばすのはまずかったかと、広がってしまった画用紙を集めようと屈んだ、その時──。
地面に散らばった素描に目を止めると、ルーフェンは、目を見開いたまま硬直した。
沢山の画用紙に描かれた、残酷絵の素描。
鎖で縛られ、杭で打たれ、身動き一つできぬ状態で苦悶の表情を浮かべる、子供たちの絵。
その中に、トワリスと瓜二つの子供が描かれた絵が、無数にあったのである。
- Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下 ( No.31 )
- 日時: 2018/07/07 20:19
- 名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: ZFLyzH3q)
ルーフェンが、残酷絵を手に取り凝視していると、ふいに、オルタが口端をあげた。
「その絵に、興味がおありですか?」
「…………」
嬉々として立ちあがり、ルーフェンの顔を覗きこんでくる。
だがルーフェンは、眉をしかめると、静かに尋ねた。
「……これ、いつ描いたんですか」
冷たい声音で言って、オルタを睨む。
ルーフェンが、絵に関心を抱いたわけではないと気づいたのだろう。
オルタは、少し困惑したように答えた。
「それは……つい最近起きた、北方ネールの内戦で──」
「──本当に?」
オルタの言葉を遮って、問い詰める。
ルーフェンは、すっと目を細めると、低い声で言った。
「あんた、奴隷買いだろう」
オルタの腫れぼったい目が、くっと見開かれる。
ルーフェンは、きつい口調で続けた。
「前に戦場で素描するのが趣味だとか言っていたけど……あんたはそれ以外にも、買った奴隷を痛め付けては、その子達を描いている。違うか?」
ルーフェンの怒りを買ったことに動揺したのか、オルタは何も言えず、しきりに唇だけを動かしている。
ルーフェンは、再度大きく息を吐くと、持っていたトワリスの素描を、オルタの前に突きつけた。
「まさか、こんなところで手がかりが見つかるとはね。……俺は、この子を知っている。彼女はネールにはいないはずだし、奴隷の焼印も、誰かに負わされたであろう全身の傷も見た」
「…………」
よろよろと後ろに下がると、事の重大さに気づいたらしいオルタが、顔を強張らせる。
自分の残酷絵を気に入ってほしい一心で、素描を持ち込んだのであろうし、それについては、ルーフェンも何も言えない。
奴隷をいたぶり、その様を絵として残している画家だって、国中を探せば、オルタ以外にも存在するだろう。
残酷絵の風潮や、奴隷制が国全体で禁止されない限り、それらに関しては、咎められることではないのだ。
しかし、アーベリトにトワリスのような奴隷を持ち込んだとなれば、話は別である。
アーベリトは、奴隷制を認めていない街だ。
そこに所有している奴隷をつれてきたとなれば、立派な罪になる。
オルタは、ようやく口を開くと、慌てた様子で言った。
「どっ、奴隷買い、といっても、今はほとんど手放しているんです! ほら、よく見てください! 実はその絵に描いてある子も、人間の奴隷ではなくて、珍しい獣人の血が入った子供で……!」
ルーフェンから素描を取り上げると、オルタは、大切そうにそれを抱え込んだ。
「しょ、召喚師様はお優しいから、たとえ奴隷であろうと、人間を物扱いするなと仰りたいんですよね……? でしたら、問題ありません。この子供は、人間ではないのです。獣人混じりで、痛覚も鈍いのか頑丈ですし、ほとんど弱らなくて……!」
余計に表情を険しくしたルーフェンに構わず、オルタは、どこか自慢げに言い募った。
「それに、この子自身、他に行く場所もないのですよ。ですから……そう、私が親代わりに引き取ったようなもので。ちゃんと、自分から私の元に帰ってきますし、今朝だって、教えた通り、私の仕事場に戻ってきて……!」
微塵も罪悪感など感じていないような口振りで、オルタが捲し立てる。
おそらく、根本的な価値観と言うものが、ルーフェンとオルタでは違うのだろう。
奴隷の扱いに慣れた者は、奴隷を人として見ようとはしないし、まして、それが獣人混じりなどという異質な存在であるなら、尚更だ。
ルーフェンは、ぐっとオルタの胸ぐらを掴むと、顔を近づけた。
「御託はいらない。今すぐ、その仕事場とやらに案内しろ」
- Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下 ( No.32 )
- 日時: 2018/07/10 19:53
- 名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: ktklDelg)
* * *
鼻にこびりつくような、濃い顔料の臭いで、トワリスはぼんやりと覚醒した。
鉛のように重い頭を持ち上げ、立とうとするも、両手両足には枷が嵌められていて、うまく身動きがとれない。
動く度、じゃらじゃらと鳴る枷の鎖は、石床に穿たれた、頑強な金具に繋がれていた。
蝋燭一本の明かりもない、真っ暗な地下の独房の中。
ここが、本来のトワリスの居場所だった。
耳が痛くなるほどの静寂と、肌を這うような黴臭い空気。
力任せに腕を動かせば、無機質な鉄枷が食い込んで、じくじくと手首が痛んだ。
(暗い……)
手枷を無意識にかじりながら、足枷を石床に叩きつける。
舌に広がった血の味は、鉄のものだったのか、それとも、己の歯茎から滲んだものだったのか。
自らこの場所に戻ってきたのに、再びこの暗闇に放られると、怖くて、悲しくて、目から涙がこぼれた。
「……そ、そは、くうきょに、あらず……」
震える声で、教わった呪文を唱えてみるも、ここには手燭の炎がないし、魔法陣だって描けない。
涙声で咳き込みながら、それでも何度も呪文を詠唱してみたが、やはり、あの炎の鳥は現れてはくれなかった。
耳を澄ましても、目を凝らしても、この地下の独房からは、外の様子など伺えない。
ルーフェンのいた屋敷から抜け出してきて、もう一日以上経っただろうか。
この家──オルタ・クレバスの仕事場に戻ってきてからは、すぐに気絶させられてしまったため、時間の経過が分からなかった。
ただ一つ、分かることといえば、今は夜ではない、ということだ。
オルタが、絵を描きに現れるのは、必ず日が暮れてからなのである。
(また、夜がきたら……)
今度は、何をされるのだろう。
切られるのも、絞められるのも、焼かれるのも、嫌で嫌で仕方がない。
いっそ慣れて、痛みなんて感じなくなってしまえばいいのに、いつまでたっても、その苦しみからは解放されなかった。
ふいに、重々しい足音が響いてきて、トワリスははっと息を飲んだ。
身を潜め、暗闇を凝視していると、やがて、独房の前に体躯の大きな男がやってくる。
この男もまた、オルタに買われた奴隷の一人だ。
彼は、傴僂で貧弱なオルタに代わり、トワリスをこの独房に閉じ込め、その世話をするのが仕事のようだった。
オルタの命令一つで、トワリスに直接暴力も振るってくることもあれば、一方で、死にはしないように最低限の食事を与えてくることもある。
暗がりでしか会ったことがないから、顔もはっきり見えないし、名前も知らなかったが、トワリスは、この男がオルタの次に恐ろしかった。
牢の扉を開いて、男がトワリスに近づいてくる。
その手に棍棒が握られているのを見て、トワリスは硬直した。
- Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下 ( No.33 )
- 日時: 2018/07/12 19:25
- 名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: ktklDelg)
(……に、逃げないと)
頭ではそう思うのに、身体が凍りついたかのように、動かない。
いつもそうだ。
オルタやこの男が出てくると、恐怖で身体が言うことを聞かなかった。
仮に逃げられても、見つかったときのことを考えると、恐ろしくて、脚がすくんでしまうのだ。
ただ黙って男を凝視していると、ふいに、その右腕が振り上がる。
瞬間、棍棒が無造作に皮膚を打つ音が響いて、左の足首に衝撃が走った。
「────っ!」
声にならない呻きを漏らして、身を守るように背を丸める。
叩かれた足首の激痛に身悶えしていると、男は苛立たしげに目元を歪めて、問いかけてきた。
「……お前、なぜ逃げた」
ぐっと乱暴にトワリスの前髪を掴み、男が無理矢理顔を覗きこんでくる。
その腕には、 刃物で刻まれたであろう痛々しい傷が、無数についていた。
この男の仕事は、トワリスの管理だ。
そのトワリスの逃亡を許してしまったが故に、罰を与えられたのかもしれない。
今度は右脚に棍棒を押し当てられて、頭が真っ白になる。
戦(おのの)いて、無意識に後退しようとすれば、足枷の鎖を引っ張られて、トワリスは勢いよく仰向けに転んだ。
「……二度と逃げられないように、脚を折れとのご命令だ」
太い声で言って、男が、再び棍棒を振り上げる。
反射的に目を閉じた、その次の瞬間──。
空気の唸り声が聞こえたかと思うと、同時に、何かを殴り付けるような鈍い音が響いた。
しかし、トワリスには、覚悟していた痛みは一向にやってこない。
階上から、複数人の足音が聞こえてきたかと思うと、それとは別に、自分のすぐ近くで、何者かの気配を感じる。
恐る恐る顔を上げたトワリスは、刹那。
目の前でどさりと倒れた男の背後に、人影があることに気づくと、大きく目を見開いた。
「ル──」
名前を呼ぼうとして、口を閉じる。
喉の奥に熱いものが込み上げてきて、うまく言葉が出なくなった。
- Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下 ( No.34 )
- 日時: 2018/07/15 20:44
- 名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: ktklDelg)
走ってきたのか、微かに息を乱して、ルーフェンもトワリスを凝視している。
しばらくそうして、二人は互いを見つめ合っていたが、やがてルーフェンは、周囲が暗いことに気づくと、宙で指を動かし、石壁にかかった燭台の燃えさしに、穏やかな炎が灯らせた。
「よかった、見つかった……」
ふうっと安堵の息を漏らして、ルーフェンがその場にしゃがみこむ。
すると、突然騒がしくなった階上から、ロンダートの声が聞こえてきた。
「召喚師様ぁー! 奴隷を三名、保護しましたー!」
その声を受けると、ルーフェンは立ち上がった。
そして、倒れた男の背中に、焼鏝(やきごて)で付けられたであろう奴隷印が刻まれているのを確認する。
ルーフェンは、トワリスを再度見ると、一階へ繋がる階段の方に向けて、返事をした。
「こっちも二人、見つけた。引き続き、他に捕らえられている奴隷がいないか探して、全員保護したら、屋敷に戻って!」
「わかりましたー!」
ばたばたと慌ただしい足音や、声が響いてくる。
おそらく階上には、ロンダート以外にも、何人か自警団の者が来ているのだろう。
はっきりと状況を飲み込むことは出来なかったが、ただ、ルーフェンたちが助けに来てくれたのだと。
それだけは理解できた。
ぼんやりと燭台の明かりに包まれる、独房の中。
ルーフェンは、額の汗を拭うと、ゆっくりとした動きで、トワリスの手枷に触れた。
指先を動かして、ルーフェンが鍵穴部分をなぞると、かしゃり、と解錠の音がして、手枷が地面に落ちる。
同じように足枷も外すと、ルーフェンは、トワリスの様子を伺いながら、彼女の手をそっと握った。
「戻ろう、トワリスちゃん。こんなところにいちゃ駄目だ」
「い、いや……っ」
しかし、その手を振りほどいて、トワリスが後ずさる。
トワリスは、動かない左足を引きずって、どうにかルーフェンと距離を取ると、首を振った。
「逃げようとしたら……脚、折るって言われた」
一瞬、表情を曇らせると、ルーフェンは倒れている男の方を睨んだ。
だが、すぐに表情を緩めると、ルーフェンはその場に屈みこんだ。
「……心配しなくてもいいよ。君をここに閉じ込めていた奴は、アーベリトから追放して、シュベルテの魔導師団に引き渡す。だから、おいで。君はもう奴隷じゃない」
「…………」
優しい声で言って、手を差し出す。
戸惑った様子のトワリスに、ルーフェンは、笑みを向けた。
「助けてあげるって、言ったでしょ。もしまた悪い奴が来ても、俺がやっつけてあげるから」
こちらを見上げてきたトワリスに、ルーフェンが頷いて見せる。
ゆらゆらと揺れるトワリスの瞳には、まだ不安と困惑の色が、はっきりと見てとれた。
やがて、躊躇いがちに伸びてきたトワリスの手を取ると、ルーフェンは、その手を握りこんだ。
「……大丈夫。安心して」
握った手に、更に力を込める。
少し間を置いてから、強気な表情を浮かべると、ルーフェンは言った。
「俺はこの国の、召喚師様だからね」
- Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下 ( No.35 )
- 日時: 2018/07/18 19:31
- 名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: ktklDelg)
ルーフェンに背負われて、サミルの屋敷まで戻ると、トワリスは再びダナの治療を受けることになった。
ルーフェンの自室に通され、折られた左脚を固定してもらうと、ダナは眠るようにと言ったが、徐々に自分の置かれている状況を飲み込み始めると、それまで堪えてきた恐怖と興奮が一気に噴き出してきて、うまく寝付くことができなかった。
薄暗かった空が闇色に染まると、しばらくして、サミルとルーフェンが部屋を訪ねてきた。
二人は、何やら深刻そうに話をしながら、部屋に入ってきたが、トワリスが起きていることに気づくと、すぐに穏やかな表情になった。
「傷の具合は、どうですか? 痛いところはありますか?」
寝台脇にゆっくりとしゃがみこむと、サミルが問いかけてくる。
トワリスは返事をしなかったが、サミルはそれを咎めることもなく、ただ、折れた左脚を一瞥しただけであった。
手近な椅子に座ると、ルーフェンが言った。
「トワリスちゃん、君を監禁していた男……オルタ・クレバスは、言った通り、アーベリトから追放した。他の奴隷たちの身柄も、シュベルテに引き渡したよ。オルタ・クレバスは、元々シュベルテの人間だから、処遇はあちらに委託する。でも、シュベルテも奴隷制を廃止にしている街だから、奴隷たちがまた不当な扱いを受けることはないはずだよ」
「…………」
トワリスは、緩慢な動きで寝台から起き上がると、つかの間、不安げにルーフェンを見つめていた。
それから、微かにうつ向くと、呟くように言った。
「……私も、シュベルテに、送られるんですか」
一瞬、ルーフェンとサミルが顔を見合わせる。
口を開こうとしたルーフェンを制して、サミルが、静かにトワリスの手に己の手を重ねた。
「ルーフェンと話して、貴女のことは、アーベリトが引き受けることにしました。……ただ、貴女という存在を、シュベルテに明かすことはします」
「…………」
ぴくりと、トワリスの手が震える。
自分の存在が広く知れ渡るというのは、ひどく恐ろしいことのように感じた。
人間しかいないこのサーフェリアという国で、獣人混じりの自分がいかに異質で、奇怪な存在なのか。
それは、これまでの奴隷生活の中で、散々思い知ってきたことだ。
奴隷から解放されるにしても、この先、生きていくのならば、誰の目にも触れられず、知られずにいたいというのが本音だった。
- Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下 ( No.36 )
- 日時: 2018/07/21 19:36
- 名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: 50PasCpc)
そんなトワリスの心中を察したのだろう。
サミルは、安心させるように微笑んだ。
「トワリスさん、どうか誤解をしないでください。確かに、獣人奴隷の件については、元々シュベルテの管轄でしたから、報告という意味合いはあります。でもね、別に私達は、貴女のことを無闇に見せびらかしたいわけじゃありません。ただ、貴女のことを、隠すような後ろめたい存在だとは認識させたくないから、シュベルテに伝えるのです」
顔をあげたトワリスの目を、サミルは、まっすぐに見つめた。
「獣人は、私達人間にとって、未知の存在です。その血を引く貴女は、どうしても、サーフェリアにおいて目を引いてしまう。……でも私は、それが何だと言いたい。だって貴女には、何の罪もないのですから」
柔らかい、けれどはっきりとした口調で、サミルは続けた。
「これまで、沢山辛い思いをしてきたでしょう。今後も、獣人の血を引いていることを理由に、後ろ指を指されることがあるかもしれません。ですが、それを恐れて、隠れるように暮らすのは、とても悲しいことだと思うのです。自由の身になったからこそ、私は、貴女に堂々と生きていってほしい。そうなるために、このアーベリトが、トワリスさんの新しい居場所になればとも思っています」
「…………」
自然と、涙が出てきた。
胸からあふれでてくる、この温かい感覚がなんなのか、よく分からなくて。
トワリスは、嗚咽を漏らしながら、震える声で呟いた。
「……最初は、ずっと、ハーフェルンにいたんです」
目を拭って、辿々しく口を開く。
「ハーフェルンの、奴隷市場に、いて……そこには、私以外にも、いっぱい奴隷がいて、売られる前は、叩かれたり、殴られたりすることもなかった……。お母さんとは、もう、離れ離れになってたけど、お母さんのこと、知ってるっていうおばさんが、色々、教えてくれて……。もし、お母さんに会えたら、きっと、助けてくれるって、そう、思って、ずっと会いたかったの……」
「…………」
黙って聞いているサミルの手を、すがるように握り返して、トワリスは言った。
「でも、その後、私も、あのオルタって人間に買われて、シュベルテに、連れていかれたし……。お母さん、死んじゃってるかもって、本当は、思ってたから……。もう、どうすればよいのか、どこ、逃げれば良いのか、全然、分からなくて……ずっと、怖かった……」
サミルは、トワリスの手を握ったまま、柔らかく微笑んだ。
「サーフェリアに、たった一人。なぜミストリアから渡ってきたのか、その経緯は分かりませんが、おそらくお母様も、凄まじい不安や恐怖、孤独と戦っておられたはずです。……それでも、貴女を産んだ」
懐から書類を取り出すと、サミルは、それをトワリスに差し出した。
「強いお母様だったのでしょうね。きっと、空から、貴女の幸せを祈っていますよ」
差し出されたのは、件の獣人奴隷の違法取引について、詳細が書かれた書類だった。
トワリスの母親の、脚に彫られていた木の葉の刺青の模様まで、細かく記載されている。
サミルとルーフェンが、改めて調べ直してくれたものなのだろう。
文字は読めなかったけれど、大事そうに書類を抱くと、トワリスはむせび泣いた。
涙をためた目を上げれば、サミルの後ろから、ルーフェンもこちらを見ている。
目が合うと、ルーフェンは、持ってきた手燭を宮棚に置いてから、トワリスに向き直った。
そして、声に出さずに、「良かったね」とだけ唇を動かすと、目を細めて笑んだ。
泣きつかれて、眠りに落ちるまで。
サミルは、ずっと背中を擦っていてくれたのだった。
To be continued....