複雑・ファジー小説
- Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下 ( No.163 )
- 日時: 2020/03/13 21:51
- 名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: 8NNPr/ZQ)
†第四章†──理に触れる者
第二話『蹉跌』
春前になると、正規の魔導師へと昇格した同期たちは、正式に任務地を告げられた者から、順にシュベルテを旅立っていった。
新人魔導師は、基本的に遠隔地へと回される場合が多い。
しばらくは、地方で常駐魔導師としての仕事をこなし、その手腕次第で、シュベルテやハーフェルンといった、大都市勤務の魔導師に出世できるのだ。
トワリスは、春になっても任務地を言い渡されていなかったので、王都周辺を管轄区とする、中央部隊での勤務になる可能性が高かった。
元々、王都アーベリトでの勤務を希望していたので、いよいよそれが叶うのではないかと、内心浮かれていた。
勿論、必ずしも希望が通るわけではないことは分かっていたが、他にアーベリトに行きたがっている新人魔導師がいるとは聞いたことがなかったし、成績上位者でもあったので、望みは十分にある。
本当は、無事に正規の魔導師になれた旨を、サミルやルーフェン、リリアナたちに手紙で報告しようと思っていたが、アーベリト勤務になって皆を驚かせたかったので、書かなかった。
(そういえば、サイさんはどこの勤務になるだろう……)
その日、午前中の訓練を終え、共同の食堂で昼食をとっていたトワリスは、ふと、卒業試験を共に乗り越えた、サイの顔を思い浮かべた。
今まで同期の魔導師たちとは、足並みを揃えて生活していたが、卒業試験が終わると、それぞれの進路に向けて慌ただしく準備を始めないといけないので、訓練への参加は絶対ではなかった。
それだけではなく、中には休暇をとって、遠方の実家に帰る者もいた。
言わば、ほとんど休みなしで鍛練を重ねてきた訓練生たちへの、ご褒美期間と言えるだろう。
卒業試験後は、そういった自由が、唯一認められているのだ。
サイも、訓練には顔を出していなかったので、もしかしたら、里帰りなどしているのかもしれない。
彼もまた、トワリスと同じく、まだ正式な勤務地は決まっていないようであったから、今後中央部隊に呼ばれる可能性が高いだろう。
ラフェリオンの一件があったせいで、最優秀者には選ばれなかったものの、サイは、成績だけで言えば、入団してから常に首席を取り続けてきたような新人だ。
彼ならば、希望なんて出さなくても、中央部隊から直々に呼ばれたって何らおかしくはない。
あるいは、魔術が好きなようだから、研究分野に着手するのも向いているかもしれない。
どんな道を行くことになっても、サイなら、手際よく仕事をこなしてしまうんだろう。
卒業試験の間、行動を共にして改めて感じたが、サイは本当に聡明で、優れた洞察力を持っていた。
普通は気づかないような、どんな些細な変化も見逃さないし、それらの情報から導き出される策は、どれも隙がなく、様々な事態が想定されたものだった。
話せば話すほど、彼には敵わないな、と何度も思わされたし、それでいて、不思議と嫉妬の念が湧かないのも、サイの魅力の一つなんだろう。
サイは、天性の才覚を持ちながら、嫌みのない、過ぎるほど謙虚な性格をしている。
だからこそ、純粋に尊敬できるし、羨望の眼差しを向けられることはあっても、妬む者はいないのだろう。
- Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下 ( No.164 )
- 日時: 2019/07/28 18:14
- 名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: ae8EVJ5z)
悩んだ末に、トワリスは、サイを訪ねてみることにした。
故郷に戻っているのだとしたら、諦めるしかないが、訓練に出ないのは、別の理由があってのことかもしれない。
トワリスも、いずれシュベルテを離れることになるだろうから、その前に、別れの挨拶くらいはしておきたかった。
食堂から出ると、トワリスは、早速男子寮の方へと向かった。
トワリスが寝起きしている自室は、訓練場のある本部の一角を間借りしていたが、男は人数が多いので、別の棟を宿舎として暮らしている。
一人部屋ではなく、何人かで一つの部屋を使っているようなので、扉を叩いて、サイ以外の同輩が出てきたらと思うと、少し緊張した。
だが、アレクシアも男子寮には何度も行ったことがあると言っていたので、トワリスが訪問したからといって、咎められることはないだろう。
石造で頑強な魔導師団本部に比べ、男子寮は、古臭い木造建築であった。
踏む度にぎいぎいと音を立てる廊下や、漂う汗や砂が混じったような臭いが鼻をつくと、なんとなく、孤児院にいたときのことを思い出す。
来たのは初めてであったが、どことなく既視感のある光景に、トワリスは、ふと懐かしさを覚えたのであった。
遠方での勤務が決まった者や、休暇を堪能している者が不在なので、男子寮は、部屋数の割に人の気配が少なく、静かだった。
とはいっても、換気のために開かれた廊下の窓からは、城下の人々の声が、騒々しく聞こえてくる。
昼時で、今日は天気も良いので、市場が賑わっているのだろう。
アーベリトにいた頃は、周囲が森に囲まれていたので、虫の鳴き声や鳥の囀りがよく耳に入ってきていたが、 シュベルテは建物ばかりで、人も多いので、常に人の声が聞こえていた。
サイの名前が入った金属板がかかった部屋を見つけると、トワリスは、一つ呼吸をしてから、扉を叩いた。
幸い、中からは人の気配がしたし、サイと新しい墨の匂いもしたので、彼が部屋の中にいるということは、確信していた。
しかし、二度扉を叩いても、声をかけてみても、一切反応がない。
都合が悪かったのだしても、返事くらいはするはずなので、どうにも様子がおかしい。
訝しんだトワリスは、躊躇いつつも、思いきって扉の取っ手に手をかけた。
勿論、無断で人の部屋に侵入しようなんて思ってはいないが、いるはずなのに反応がないなんて、万が一ということが考えられる。
取っ手を回せば、がちゃり、と音がして、扉が開いてしまう。
拳一つ分ほど押し開いて、中を伺ったトワリスは、目の前の光景にぎょっとした。
部屋の中に並ぶ、複数の寝台の隙間に、サイが倒れ込んでいたのだ。
「サイさん……!?」
思わず叫んで、トワリスは部屋へと踏み込んだ。
駆け寄って抱き起こしてみれば、サイの口からは、すう、すう、と寝息が聞こえてくる。
呼吸はしており、どうやらただ眠っているだけのようなので、トワリスは、ひとまずほっと胸を撫で下ろした。
しかしながら、その顔面は真っ青で、目の下には色濃い隈が刻まれている。
最後に会った時とは比べ物にならないくらい、窶(やつ)れたサイの姿に、何があったのかと動揺せざるを得なかった。
(とにかく、医術師を呼ばないと……!)
取り急ぎ、サイを寝台に引っ張りあげ、毛布をかける。
そうして、立ち上がって初めて、トワリスは、この部屋の異常さを認識した。
文机の周辺を中心に、足の踏み場もないくらい、紙や魔導書が床に散乱していたのである。
(これは、医療魔術の魔導書……?)
ふと足元にあった一冊を拾い上げ、中身を開いてみる。
よほど熱心に勉強していたのか、散らばっている紙にも、目が痛くなるほどびっしりと、古語が書き連ねられていた。
共同部屋なので、暮らしていた人数分の寝台と、大きな文机が一つ、部屋の隅に設置されている。
しかし、一通り辺りを見回してみたが、部屋にはサイしかいないようなので、この紙と魔導書の山は、どうやら彼が散らかしたものらしい。
一心不乱に勉強していたのだとしても、これはあまりにも異様な散乱具合である。
- Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下 ( No.165 )
- 日時: 2019/07/30 18:32
- 名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: NRm3D0Z6)
とりあえず、今は医務室に行こうと、持っていた魔導書を文机に置こうとしたとき。
不意に、目の端で何かがきらりと光った。
文机の下に落ちていたそれを、何気なく拾ったトワリスは、思わず目を疑った。
落ちていたのは、“回れ”の術式が刻印された、青い硝子玉の欠片──破壊されて飛び散ったはずの、偽ラフェリオンの眼球だったのである。
大きく目を見開いて、トワリスはサイの方を見た。
何故、サイがこれを持っているのだろう。
偽ラフェリオンを破壊したあと、その残骸を集めたが、青い眼球は見つからなかった。
術式を解除したときに砕け、屋敷の崩壊に巻き込まれて散ってしまったのだろうと、皆でそう結論付けて、諦めたはずなのに──。
硬直したまま、サイから目を反らせずにいると、不意に、サイの身体がぴくりと動いた。
小さく呻き声をあげながら、身を起こしたサイが、ゆっくりと目を開く。
しばらくは、夢と現の間をさまよっているような顔で、トワリスを見つめていたが、やがて、はっと瞠目すると、サイは寝台の上から飛び退いた。
「ト、トワリスさんっ!?」
大声をあげるのと同時に、寝台から転げ落ちて、腰を打ち付ける。
痛みに悶絶しながらも、ふらふらと立ち上がったサイは、目を白黒させながら、トワリスに向き直った。
「えっ、あの……トワリスさん? トワリスさんが、どうして私の部屋に……?」
混乱した様子で、サイはきょろきょろと部屋を見回している。
トワリスは、咄嗟に青い眼球を懐に隠すと、小さく頭を下げた。
「……勝手にお邪魔してしまって、すみません。最近訓練場にも全然いらっしゃってなかったので、お部屋を訪ねて来たんですけど、扉が開いていて……。中を覗いたら、サイさんが倒れていたので、つい」
サイは、未だ状況が飲み込めていないような顔で、ぼーっとトワリスを見つめている。
しかし、ややあって、扉の方を一瞥すると、恥ずかしそうに頭を掻いた。
「あっ、そっか……昨夜食堂に行って帰ってきてから、そのまま扉を開けっ放しにしていたのかもしれません。ご迷惑おかけしてしまって、申し訳ないです……」
トワリスは、怪訝そうに眉を寄せた。
「昨夜? 昨夜は食堂やってませんでしたよ。食堂長が、肩痛めたとかで……」
「えっ……」
サイは、ぱちぱちと瞬くと、首をかしげた。
「……トワリスさん、今日何日ですか?」
「八日、ですけど」
答えると、サイは驚いた様子で声をあげた。
「八日!? そんな、もう三日も経ってたのか……」
「……まさか、三日間何も食べてないんですか?」
そうみたいです、と頷いたサイに、トワリスは、思わず口元を引きつらせた。
トワリスも、集中して勉強していたら朝になっていた、くらいの経験はあるが、三日も寝食を忘れるなんて、道理で倒れるわけだ。
日にちの経過に気づかないほど熱中していたなんて、集中の度を越している。
慌ててサイを寝台に座らせると、遠慮する彼を振り切って、トワリスは食堂に行き、粥と蜂蜜湯を用意してもらい、再びサイの元に戻った。
医務室に駆け込もうとも思ったが、ひとまず話せるくらいの体力はあるようなので、飲み食いさせるのが優先だと考えたのだ。
食事を終え、幾分か顔色のましになったサイは、蜂蜜湯を啜りながら、何度もトワリスに謝罪した。
「……す、すみません、何から何まで……。部屋が一緒だった同期は、みんな任務地が決まって出ていってしまったものですから、どうにも周りのことに気が回らなくて……」
言いながら、気の抜けるような笑みを浮かべるサイに、図書室で昼夜問わず書類とにらめっこをしていた、銀髪が思い浮かぶ。
それにしても、サイは自己管理までしっかり出来ていそうな印象だったので、不摂生が祟って倒れるなんて、少し意外だった。
- Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下 ( No.166 )
- 日時: 2019/08/02 19:01
- 名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: 6kBwDVDs)
トワリスは、呆れたように肩をすくめた。
「本当ですよ……たまたま私が来たから良かったものの、このまま誰も部屋を訪ねてこなかったら、どうするつもりだったんですか。全く、何をそんなに夢中になってたんだか……」
「重ね重ね、すみません……。その、魔導書を読んでいたら、昔から周りが見えなくなる質でして」
項垂れるサイを睨んで、それから、荒れた文机を一瞥する。
トワリスは、真剣な面持ちになると、探るような目でサイを見た。
「……魔導書って、医療魔術に関する勉強をしてたんですか? ここ数日間、ずっと?」
トワリスからの、疑念の眼差しに気づいたのだろう。
サイは、少し戸惑ったように目線をそらすと、曖昧に首肯した。
「えっと、はい……まあ、そんなものです。ちょっと、色々気になることが出来てしまって……」
あはは、と乾いた笑みを浮かべ、誤魔化そうとする。
トワリスは、一度躊躇ってから、懐に隠していた青い硝子の眼球を取り出すと、それをサイに見せつけた。
「……気になることって、これが関係してるんですか?」
瞬間、サイの目の色が変わる。
飛び付くように文机の下の紙の山を漁り、振り返ると、サイは引ったくるようにして、トワリスの手から青い眼球を奪った。
微かに呼吸を乱して、サイは、守るように青い眼球を握りこんでいる。
トワリスは、表情を険しくすると、鋭い声で尋ねた。
「どうしてそれを、貴方が持っているんですか? あの時確かに、飛び散って瓦礫に紛れちゃったんだろうって、サイさんも言っていましたよね? ……嘘ついて、隠し持っていたんですか?」
「…………」
サイの額に、じっとりと汗が流れる。
射抜くような視線を向けてくるトワリスに、サイは、身体を細かく震わせながら答えた。
「……結果的に、トワリスさんやアレクシアさんを騙してしまったことは、本当に申し訳ないと思ってます。でも、誤解しないでほしいんです。別にお二人を欺こうとか、そういう意図はなくて、ただ私は、どうしても、ハルゴン氏の造形魔術について知りたくて、この眼球を持ち帰ったんです……」
そう言って、顔をあげたサイの表情を見て、トワリスはぞっとした。
サイは、具合が悪くて震えているわけでも、トワリスに嘘がばれたから、怯えて震えているわけでもない。
ただ、興奮して震えているのだ。
青い眼球を大切そうに胸元で握り直すと、サイは続けた。
「だって、素晴らしいと思いませんか……? 偽物のラフェリオンは、結局操られていただけでしたけど、あの本物のラフェリオンは、自らの意思で動いていたんです。あんな、あんな、本物の人間みたいに……。……いえ、人間ですよ、あれは。死体と死体を繋ぎ合わせて、ハルゴン氏は、一人の人間を作り出したんです。命を作ったんですよ! でも、ハルゴン邸にあった魔導書にも、ラフェリオンのついて詳しいことは書かれていませんでしたし、一体どうやって作ったのか、検討もつかないんです。どんな魔術を使ったのか……どうしても、知りたいんです。私が、この手で……!」
サイの緑色の瞳が、爛々と光り出す。
いつも穏やかなサイからは想像もできないような、高ぶった口調に、トワリスは何も言えなくなった。
- Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下 ( No.167 )
- 日時: 2019/09/19 22:31
- 名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: NRm3D0Z6)
ミシェル・ハルゴンが使ったのは、命を操る禁忌魔術だ。
その行使を強制された彼が、ラフェリオンの制作過程など記録して残しているはずはないし、事件の真相を知るはずの前団長、ブラウィン・エイデンとその一派も亡き者になった以上、その方法を探る手立てはないはずである。
というより、探ってはいけないのだ。
禁忌魔術は、使用は勿論、研究することも禁止されている。
絶句するトワリスの腕を強く掴んで、サイは言い募った。
「トワリスさん、もう一度、一緒にラフェリオンに会いに行きませんか……? あの時は、アレクシアさんのこともありましたし、私も混乱していたので、思い切れなかったんです。でも、やはり諦められません。別に、破壊しようというわけじゃないんです。ただ、ラフェリオンに会って、どんな魔術が施されているのか、調べたいんです……!」
ぐっと腕を握る手に力を込められて、トワリスは、痛みに顔を歪めた。
抵抗しても、びくとも動かない、凄まじい力だ。
「──っ、離して下さい……っ」
トワリスは、空いている方の手でどうにかサイを突き飛ばすと、なんとか腕を振りほどいた。
心臓が激しく脈打って、掴まれていた手首が、じくじくと痛む。
伸びてくる人の手が恐ろしいと思ったのは、久々であった。
よろけたサイは、我に返った様子でトワリスを見ると、慌てて口を開いた。
「す、すみません、痛かったですか?」
赤くなったトワリスの手首を見て、サイが心配そうに眉を下げる。
トワリスは、近づいてきたサイから、一歩距離をとった。
「……どうしたんですか、サイさん。……ラフェリオンは、禁忌魔術によって作り出されたんですよ……? 私たちが、これ以上手を出していいことじゃないんです」
サイの瞳に、一瞬、暗い陰が落ちる。
サイは、残念そうに一つ吐息をこぼして、うつむいた。
「……手を出しちゃいけないなんて、そんなことは、先人が決めたことでしょう? 古い掟に、いつまで縛られなければならないんです? 勿論、ブラウィン・エイデンのように、使用を他人に強制するなんて、そんなことはあってはならないと思います。でも私は、禁忌魔術には、いろんな可能性が秘められていると思うんです。ここ数日、様々な文献に目を通しましたが、どの専門書にも、禁忌魔術については書かれていませんでした。……それが、むしろ興味深い。禁忌魔術とは、一体何なのか。知りたくて知りたくて、夜も眠れません。確かに、代償が伴う魔術もあるでしょう。しかし、それらの危険性も含め、理解した上で行使できる魔導師がいるなら、使うことは愚か、調べることも禁止するなんて、そんな極端な真似をしなくても済むんじゃないでしょうか」
一枚、また一枚と、散らばっている紙を手にとっては、落としていく。
サイは、口元を歪めて、薄ら笑いを浮かべた。
「ハルゴン氏は、一人の人間を魔術で生んだ。人間は、魔術で生物を作れるんですよ、トワリスさん。彼に出来たんです、私にだって、出来る可能性はあると思いませんか……?」
ぞわりと、全身に鳥肌が立った。
サイは、禁忌魔術の絶大な力に、酔っている。
その感覚は、トワリスにも覚えがあったからこそ、サイの取り憑かれたような言葉が、冷水のように胸に染みこんできた。
五年ほど前、孤児院で出会ったリリアナの脚を治せないかと、魔術を探していた時。
トワリスも、一度だけ禁忌魔術を使ったことがあったのだ。
枯れたはずの押し花を、生花に蘇らせる魔術──命を操る魔術を使ったのである。
無知であったが故に行使してしまい、後々冷静になって、後悔した。
しかし同時に、強力な魔術を使えたということに喜びを感じ、酔いしれたのも、また事実であった。
あの時の、狼狽と愉悦が混じったような奇妙な感覚は、今思い出しても、吐き気がする。
- Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下 ( No.168 )
- 日時: 2019/08/10 05:14
- 名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: NRm3D0Z6)
トワリスは、自らを奮い立たせるように拳を握ると、サイに問うた。
「……仮に出来たとして、どうするっていうんです? 魔術で命を作って、サイさんは、一体何がしたいんですか……?」
サイの瞳が、微かに揺れる。
胸を打たれたように、大きく目を見開くと、サイは、長い間黙りこんでいた。
しかし、やがて魂が抜けたように息を吐くと、ぽつりと答えた。
「……そこまでは、考えてませんでしたね」
「…………」
内心ほっとして、トワリスは、肩の力を抜いた。
きっとサイは、本当にただの知識欲で、禁忌魔術に執着しているだけなのだろう。
悪用しようとか、そんなつもりはないのだ。
そうだと、信じたかった。
トワリスは、サイの目の前に手を出すと、毅然とした態度で言った。
「……青い眼球、渡してください。今更上層部に提出して、ラフェリオンの件を掘り返すのも嫌なので、アレクシアに渡します」
「…………」
サイはつかの間、迷った様子で黙りこんでいた。
しかし、やがて緩慢な動きで手を伸ばすと、トワリスに青い眼球の欠片を渡してきた。
偽物のラフェリオンには、結局禁忌魔術は関わっていなかったわけだから、こんなものを取り上げたって、あまり意味はないのだろう。
けれど、サイがトワリスたちを欺いてまで手に入れたこの硝子玉を奪うことが、少しでも彼の禁忌魔術への執着を削ぐことになるなら、それでいいと思った。
サイは、玩具を没収された子供のような顔で、床の一点を凝視している。
トワリスは、サイが食べた後の食器類を重ねながら、沈んだ声で言った。
「……サイさん、疲れてるんですよ。ちゃんと寝てください。医務室にも、後で行ってくださいね」
サイは、返事をしない。
トワリスは、食器と盆を持つと、そのままサイから逃げるように扉へと向かった。
「それじゃあ、お邪魔しました。……お大事に」
振り返ることもせずに、足早に部屋を出る。
それからは、廊下を駆けるように歩いたことも、食堂に行って盆と食器を返したことも、トワリスは、よく覚えていなかった。
自室に戻り、一人になってようやく、激しい恐怖が込み上げてきた。
嘘をつかれていたことも悲しかったが、それ以上に、サイは一体どうしてしまったんだろう、という動揺が、心を支配していた。
元々、彼は魔術に対する探求心が強かったから、ラフェリオンに深い興味関心を抱いていることは、知っていた。
しかし先程のサイは、明らかに卒業試験時と比べ、様子がおかしかった。
今までは、純粋に魔術に憧れて、きらきらと瞳を輝かせる子供のようだったのに、今日のサイは、途中から、まるで何かに心を乗っ取られたかのように見えた。
とはいえ、トワリス自身がどうすれば良かったかなんて、分からない。
止めたって聞いてくれる様子はなかったし、本音を言うと、深追いする勇気もなかった。
知らずに禁忌魔術を使い、喀血した幼少の頃の記憶が、今でも脳裏にこびりついているからだ。
だからといって、上層部にサイのことを報告するなんて、したくなかった。
上層部が介入すれば、サイを止められることはできるかもしれない。
だが、訓練にも出ず、サイが一心不乱に禁忌魔術に手を染めようとしていた、なんてことを上層部に知らせたら、これまでのサイの努力は、泡になって消えてしまうだろう。
短い期間ではあったが、彼は苦楽を共にしてきた同輩であり、気の合う友人だ。
少なくともトワリスは、そう思っている。
そんなサイの未来を、己の手で潰すなんて、トワリスにはできなかった。
どうにも気分が落ち着かず、目を閉じて、サイのことを考えていると、不意に、ぱさりと物音がした。
扉の郵便受けに、一通の手紙が投げ込まれている。
寝台に座って、ぼんやりと扉の方を見つめていたトワリスは、いつもならすぐに開封する手紙を、郵便受けから取りにいくこともしなかった。
手紙は、きっとリリアナからだろう。
検閲の厳しい魔導師団の本部宛に、しかもトワリス相手に手紙を送ってくる人なんて、彼女くらいしか思い付かない。
今は、手紙を読んで、明るい気持ちで返事を考える気にもなれなかったので、トワリスは、再び寝台の上で物思いに耽っていた。
しかし、ふと立ち上がると、まさか、という思いで、手紙を受け取りに行った。
手紙の正体に、リリアナの他にもう一つ、心当たりがあったのだ。
郵便受けを開き、中から手紙を出す。
それが、リリアナがいつも送ってくる、可愛らしい柄の便箋ではないと気づいたとき、トワリスの鼓動が、どくりと跳ね上がった。
それは、本部から送られてきた、辞令書だったのである。
本来は、上官から面と向かって勤務地を言い渡された後に、正式な辞令書を受け取る場合が多いのだが、何か行き違いでもあったのだろうか。
どうやら、呼び出しをされる前に、辞令書が届いてしまったらしい。
そこに書かれている勤務地が、アーベリトであることを祈って──。
トワリスは、封筒を開いたのであった。
- Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下 ( No.169 )
- 日時: 2019/09/19 22:48
- 名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: NRm3D0Z6)
* * *
身体にまとわりつくような、霧雨が降る。
定期便の馬車の窓から、水で溶かしたように滲む山々の輪郭を眺めて、トワリスは、何度目ともわからぬため息をついた。
同じ馬車に乗り合わせた客たちも、心なしか、疲れたような表情で、一様に俯いている。
トワリスもまた、例外ではなく、まるで自分の心情を表したかのような鬱屈とした空模様に、気分が沈むばかりだった。
一月ほど前、届いた辞令書に記されていた勤務地は、念願のアーベリト──ではなく、ハーフェルンであった。
ハーフェルンは、旧王都シュベルテの北東に位置する、巨大な港湾都市である。
海に面し、船舶の停泊に適していることから、交易市場として発達しているこの街は、特に、現在の領主、クラーク・マルカンが治めるようになってからは、正式にアーベリト、シュベルテと協力関係を結んだこともあって、一層活気を増し、サーフェリア随一の物流量を誇る大都市となっていた。
卒業して早々、ハーフェルンに配属されるなんて、普通なら喜ぶべきことであった。
規模としてはシュベルテの方が大きいとはいえ、ハーフェルンには、軍事都市にはない華やかさがある。
中にはシュベルテよりも、ハーフェルンに配属されたいと希望する新人魔導師だって、少なくはなかっただろう。
しかもトワリスは、単なる常駐魔導師として、ハーフェルンに配属になったわけではない。
なんと、領主であるクラーク・マルカンから、娘のロゼッタの専属護衛になってほしいと、直々に指名されたのである。
魔導師一年目の新人としては、これほど名誉なことは他にない。
それでもトワリスは、ハーフェルンへの配属が決まってから、ずっと悲しみに暮れていた。
魔導師を目指したのも、良い成績を取ろうと努力したのも、全てはアーベリトを支えられるような人間になるためだったからだ。
なまじ、サミルやルーフェンと暮らした経験もあって、アーベリトは自分を受け入れてくれるだろう、なんて期待を持ってしまっていたから、余計に打撃が大きかった。
専属護衛に指名されるなんて、予想外のことであったので、それがどれくらい拘束力のあるものなのかは、まだ分からない。
しかし、少なくとも、あと二、三年くらいはハーフェルンにいることになるだろう。
仕事なのだから、いつまでも不貞腐れていてはいけないと言い聞かせながらも、アーベリトに近づくどころか、遠ざかってしまったと思うと、心が重く沈むのであった。
(……お母さんは、元々ハーフェルンに流れ着いたんだよね)
しとしとと降る雨垂れの音を聞きながら、トワリスは、ふと顔も浮かばぬ母を想った。
約二十年前、ミストリアから海を渡ってきたであろう獣人たちは、元はハーフェルンに漂着したのだ。
ハーフェルンは、奴隷制を敷いている街である。
故にトワリスの母親たちも、物珍しさからハーフェルンの奴隷商に捕らえられ、各地に散って、やがて死んだのだ。
シュベルテを含め、奴隷制を認めていない街も多く存在するが、それでも、人身売買を始めとする不正な取引など、どこにでも存在するものだ。
オルタという残酷絵師も、元はシュベルテの人間だったようなので、そういった闇取引でトワリスを買ったのだろう。
そう思えば、死ぬ前にアーベリトにたどり着いたトワリスは、とても幸運だった。
あの時、地下から逃げ出して、建物の骨組みの中で雨風を凌いでいなければ、ルーフェンたちが、トワリスを見つけてくれることはなかった。
仮に誰かに保護されたとしても、それがサミルやルーフェンではなかったら、きっと結果は違っていたはずだ。
散々噛みついて、迷惑をかけて、挙げ句自ら買主の元に戻った汚い小娘を、追いかけて再び助けてくれる人なんて、この世に一体どれくらいいるのだろう。
何か一つでも状況が違えば、あのまま地下で嬲り殺されていても、おかしくはなかったのだ。
あの時、あの場所で、手を取ってくれたのがサミルとルーフェンだったから、今の自分がある。
そう考えると、アーベリトでの出会い一つ一つが、改めて愛おしく思えた。
(……ハーフェルンに着いて、落ち着いたら、やっぱり手紙を書こう)
書いて、どれほど自分が貴方たちに感謝をしているのか、伝えるのだ。
サミルとルーフェンには、孤児院を出たあの頃に一通送っただけで、それ以降手紙を送っていない。
二人とも、トワリスからすれば雲の上の存在で、一介の魔導師からの手紙なんて、読んでくれるかどうかも分からない。
それでも、何かの拍子に、目にとまることがあったなら良いなと思う。
本当はアーベリトに行って、直接二人の役に立ちたかったけれど、別の街にいたとしても、あの時助けた半獣人の娘は、魔導師として頑張っているんだと、知らせたかった。
そしてその事実を、もし一瞬でも、二人が頭の片隅に置いてくれたら、それで十分だ。
トワリスは、馬車の轍がハーフェルンの街に入るまで、空を覆う一面の雲を眺めていたのだった。
- Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下 ( No.170 )
- 日時: 2019/08/12 19:05
- 名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: e7NtKjBm)
ハーフェルンの大門をくぐると、目前に広がった景色に、トワリスは思わず吐息を漏らした。
元は丘陵地帯に建てられたのだというこの港湾都市は、入口の大門から面する海に向かって、棚田のような形状になっている。
つまり、大門を抜けると、眼下に広大な海が広がっているのだ。
思えば、こうして近くで海を見たのは、初めてだったかもしれない。
トワリスは、沈んでいた気持ちも一瞬忘れて、景色に見とれてしまった。
海だけでなく、立ち並ぶ建物の間には、巨大な運河や細かな水路が通っており、立ち働く人々が、馬車ではなく船を使って行き来していた。
この光景を、今日のような曇天ではなく、晴れ渡る空の下で見たならば、どれほど美しかったろうか。
また、家々の色調、造形も様々で、水路を横断する橋の手すり一つにも、細かな装飾が施されている。
更には、石畳に使われている石材ですら、色の違うものが規則的に当てはめられていたりと、街全体が、芸術的なこだわりを感じる造りをしていた。
これは、ハーフェルンでの勤務を希望する魔導師が、毎年多いというのも頷ける。
この街には、精強で荘厳な雰囲気漂うシュベルテとはまた違う、鮮やかな魅力があるのだった。
ハーフェルンの領主、クラーク・マルカンが住む屋敷は、大門をくぐったすぐ先に建っていた。
この街を発展させてきた侯爵家の豪邸というだけあって、敷地は、庭部分だけでも、サミルの屋敷が一つ分入ってしまうのではないかというほどの大きさである。
魔導師の証である腕章を見せ、名乗ると、玄関口で出迎えてくれた侍従たちは、恭しく屋敷の中へと案内してくれた。
予想通りと言うべきか、マルカン邸は内装も派手で、屋敷の至るところに、いかにも高級そうな調度品や装飾品が並んでいた。
長廊下の左右の壁には、巧緻な額縁に入れられた絵画が並び、床に敷かれた分厚い絨毯には、金が織り込まれているのか、角度によって、きらきらと光って見える。
小汚ない旅装をしている自分が、この屋敷内を歩いていると、どうにも場違い感が否めなかった。
客間の前で、侍従たちが両脇から大扉を開けると、奥からきらびやかな光が溢れてきた。
天井からは、沢山の蝋燭を乗せた巨大なシャンデリアが吊り下がり、壁にかかった燭台は、珍しい色硝子製で、ちらちらと炎の光を反射しては、色の変わる影を落としている。
初仕事なので、毅然とした態度で臨もうと思っていたのに、ハーフェルンに来てから、珍しい品々や景色に目移りしてばかりだ。
部屋の中央には、大きな食卓があり、豪華な料理が並べられていた。
上座には、この屋敷の主であるクラーク・マルカンが、そして下座には、トワリスが護衛をすることになる、娘のロゼッタが腰かけている。
杯を片手に持っていたクラークは、案内役の従者たちが部屋から出ていくと、呆然と突っ立っているトワリスを見て、鷹揚に微笑んだ。
「よく来てくれたね。さあ、こちらにおいで。長旅で疲れたろう。食事も君のために用意したんだ」
整えられた口髭を撫でながら、クラークが言う。
トワリスは、その場に荷物を下ろすと、片膝をつき、手を合わせて礼をした。
「この度は、お引き立て賜り、誠にありがとうございます。ロゼッタ様の護衛役を拝命致しました、トワリスと申します。以後、よろしくお願い申し上げます」
強張った口調で挨拶をすると、クラークの下手にいたロゼッタが、鈴のような声で笑った。
「そんなに畏まらなくても良くてよ。私達、これから一緒にいることが多くなりますもの。遠慮はしないで、どうぞお掛けになって」
促されるまま顔をあげ、トワリスは、示された席に座る。
するとロゼッタは、上品に口元を覆って、ふふ、と顔を綻ばせた。
- Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下 ( No.171 )
- 日時: 2019/09/19 22:59
- 名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: NRm3D0Z6)
思いの外、二人が気さくな態度だったので、ほっとした反面、緊張は全く解けなかった。
見たこともないような豪邸で、高価そうな調度品、料理に囲まれ、目があった従者たちは皆、深々と頭を下げてくる。
そんな状況で、君のために食事を用意したんだ、なんて言われても、全くもって喉を通る気がしなかった。
クラークたちは、本当に歓迎してくれているつもりなのかもしれないが、仮にも侯爵家の当主が、たかが新人魔導師一人に席を設けるなんて、聞いたことがない。
それほど期待してくれているのだと思うと、嬉しくもあったが、一方で、とてつもない圧をかけられているように感じた。
それこそ、貴族出身の魔導師なら、難なくこの場を切り抜けてしまうのだろうが、トワリスは、革靴で高そうな絨毯を踏みつけることにさえ、抵抗を覚えていたくらいだ。
まさかこんなに好待遇を受けるとは思っていなかったし、礼儀作法も最低限しか知らないので、思いがけず粗相をしてしまわないかと、気が気でなかった。
クラークは、軽く杯を掲げた。
「いやぁ、君が来るのをずっと楽しみにしていたんだよ。かねがね、ロゼッタには優秀な女性の魔導師をつけたいと思っていてね。娘も今年十九になるし、婚約も決まっている身だ。何より、こんなにも愛らしいだろう? 男なんて専属でつけたら、何か間違いが起こるんじゃないかと、不安でね」
恥ずかしげもなく娘を称賛するクラークに、ロゼッタは、頬を赤くした。
「まあ、お父様ったら。人前でそんなこと言わないで。恥ずかしいですわ」
クラークは、まあいいじゃないか、とロゼッタをなだめると、陽気に笑い声をあげた。
どう反応して良いか分からず、トワリスは曖昧に微笑んで黙っていたが、自分の反応など、クラークたちは気にしていないらしい。
ロゼッタは、ぷっと頬を膨らませて父を睨んでいたが、やがて、満更でもなさそうに笑みを浮かべた。
クラークが娘を溺愛していることは、すぐに見てとれたが、実際、彼の言うことも大袈裟ではなく、ロゼッタは可愛らしい容姿をしていた。
ブルネットの緩やかな巻き髪に、長い睫毛で縁取られた栗色の瞳。
ほんのりと赤みを帯びた頬と、日焼けを知らない、きめ細かな白皙。
年の割に幼さは残すものの、優雅で淑やかな一挙一動からは、彼女の品格と育ちの良さが伺える。
口調も柔らかで、高貴な身分と言えど、近寄りがたい雰囲気はなかったので、男女問わず好かれそうな女性に思えた。
彼女の人柄は父親譲りなのか、クラークもまた、おおらかに笑う人であった。
食事の間中、ずっとマルカン家の自慢話ばかりしてくるので、返事には困ったが、トワリスからすれば、侯爵家の人間が、自分のような獣人混じりに対しても、分け隔てなく話しかけてくること自体が意外であった。
奴隷制を敷いているからとか、貧富差が激しい街だからとか、そういったことを気にして、少し身構え過ぎていたのかもしれない。
今回は、女であったことが決め手とはいえ、クラークとロゼッタは、自分の実力を見て指名してくれたのだろう。
そう思うと、一人前の魔導師への第一歩を踏み出せたのだと実感できて、純粋に嬉しかった。
- Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下 ( No.172 )
- 日時: 2019/08/17 20:12
- 名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: NRm3D0Z6)
夕刻まで続いた長い食事会は、大きな柱時計が四の刻を報せる頃に、ようやく終わりを迎えた。
呼びに来た侍従に応じると、クラークは、満足そうにトワリスを見た。
「おっと、もうこんな時間か。悪いね、つい話し込んでしまった。詳しい仕事内容は、明日うちの魔導師に説明させるから、ひとまず今日は休むといい。君の荷物は、部屋に運ばせてあるからね」
それだけ言うと、クラークは立ち上がって、侍従と共に客間を出ていってしまう。
休むといい、と言われても、用意してくれた部屋の場所が分からないので、案内してもらえないと動けない。
困っていると、同様に席を立ったロゼッタが、立ち去りがたい様子でトワリスに向き直った。
「貴女のお部屋は、私のお部屋のすぐ近くよ。折角だから、もう少しお話しましょう? お屋敷の説明もしたいし、魔導師団のお話とか、シュベルテのお話とか、もっと聞きたいですわ」
「は、はい!」
慌てて返事をすると、トワリスは、ロゼッタについて、侍従が開けてくれた扉をくぐった。
ようやくこの緊張状態から抜けられると、内心安堵していたのだが、どうやらロゼッタは、まだトワリスを解放する気はないらしい。
親しみやすい人柄だったとはいえ、ロゼッタは、他でもない侯爵家の息女である。
やはり、友人と世間話をするのとは、訳が違うのだ。
客間を出て、長廊下を進むその歩調にすら、ロゼッタからは、貴族の令嬢たる威厳が醸し出されているように見える。
纏う空気は柔らかなのに、背筋をぴんと伸ばし、前を見据えて歩くその姿を見ていると、改めて、彼女は自分とは住む世界が違う女性なのだな、と感じるのであった。
一通り屋敷を案内された後、トワリスは、ロゼッタの自室に通された。
広い屋敷を回ったので、高かった日は既に沈みかけていたが、ロゼッタはまだまだ話し足りないらしい。
侍従を一度下がらせ、トワリスを自室に招き入れると、今度はゆっくりお茶でもしようと言い出した。
ロゼッタの部屋は、彼女の印象に違わず、絨毯から敷物まで、全体がフリルとレースで飾り立てられているような一室であった。
部屋の中央に置かれた小さな食卓には、既に淹れたての紅茶と、焼き菓子が用意されている。
紅茶の香りと、ロゼッタの香水の匂いが入り交じって、部屋は甘やかな香りに包まれていた。
(……女の人の部屋、って感じだな……)
落ち着かない様子で辺りを見回しながら、トワリスは、ふと今までの自分の生活を省みた。
アーベリトの孤児院で暮らしていた時も、魔導師団の寮で暮らしていた時も、必要最低限の家具と日用品しかない質素な生活をしていたので、ロゼッタの部屋を見ていると、まるで物語の世界に入り込んでしまったかのような気分になってくる。
もし、可愛い小物やお洒落な装飾が好きなリリアナがこの場にいたら、声をあげて大はしゃぎしただろう。
どこか夢見心地な気分になっていたトワリスは、しゅっとマッチを擦る音で、ふと我に返った。
葉巻特有の芳香が鼻をつき、部屋に似合わぬ紫煙が、ふわりと宙を揺蕩う。
長椅子の下──屈まなければ見えない位置にある引き出しから、葉巻を取り出したロゼッタは、まるで別人のような荒々しい仕草で髪を掻き上げると、どかりと椅子に腰を下ろした。
「……貴女って、魔導師なのよね? 火をつけたりもできますの?」
不意に、ロゼッタが問いかけてくる。
しかしその声には、鈴のような甲高さはない。
突然葉巻を吸い出したロゼッタの姿に、呆然と突っ立っていると、ロゼッタは苛立たしげに長椅子の手すりを叩いた。
「ねえちょっと! 聞いてる? 火はつけられるのかって聞いてるのだけど?」
「えっ……あ、はい」
質問の内容が全く頭に入って来ない状態で、トワリスは、思わず返事をした。
声を荒げて問い詰めてくるなんて、ますますロゼッタらしくない。
先程までの、高貴でおおらかなロゼッタはどこに行ったのだろうか。
- Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下 ( No.173 )
- 日時: 2019/08/21 21:59
- 名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: NRm3D0Z6)
困惑するトワリスに、ロゼッタは満足そうに微笑んだ。
「ふーん、魔導師が身近にいると、便利ですわね。マッチって結構高いのよ。次からは貴女が火をつけてちょうだい」
指に挟んだ葉巻を見せてから、ふうっと紫煙を吐き出す。
一変した彼女の様子に、動揺を隠せずにいると、ロゼッタは鼻を鳴らした。
「なぁに、文句でもありそうな顔ね? 私が葉巻を吸っちゃいけない?」
ぎくりとして、顔を強張らせる。
トワリスは、首を左右に振った。
「い、いえ……そういうわけでは。ただ、ちょっと意外だなと」
言いながら、思わず目を反らしてしまって、自分はなんて嘘が下手なのだと呆れ果てた。
別に、文句があるわけではない。
ただ、優雅に微笑んでいたはずの侯爵家のご令嬢が、自室に戻った途端、ふんぞり返って葉巻を吸い出すなんて、誰が予想できただろう。
長椅子から立ちあがり、靴の踵をかつかつと鳴らして歩いてくると、ロゼッタは、トワリスの顔面に煙を吹き掛けた。
「……っぅぶ!」
鋭い刺激臭が鼻をつき、激しく噎せ返る。
涙を浮かべ、屈んで咳き込むトワリスを、ロゼッタは見下ろした。
「貴女とは、今後四六時中一緒にいることになるだろうから教えておくけれど、私はね、こっちが素なのよ。この部屋にいるときは、何をしようと私の自由なの。そこに口を出すことは許さないから」
きっぱりとした口調で言って、ロゼッタは、鋭い視線を投げてくる。
咳が治まらず、苦悶しているトワリスを横目に、ロゼッタは続けた。
「そもそも私は、専属護衛なんて反対だったのよ。朝起きてから寝るまで張り付いて監視されるなんて、そんなのやってられませんもの。息が詰まっておかしくなりそうですわ。しかもよりによって、来たのがど新人の小娘なんて!」
まるで虫でも払うかのように、しっしっと手を振って、ロゼッタが嘆息する。
トワリスは、なんとか息を整えると、困ったように眉を下げた。
「そ、そう仰られましても……女の魔導師は、私しかいないんです。一応、もう一人心当たりはありますが、今年卒業の者ではないので……」
ふと、アレクシアの顔を思い浮かべ、言い淀む。
ハーフェルンに来たことは、トワリスにとっても本意ではなかったが、そんな風に邪険に扱われると、やはり良い気分はしない。
それに、ロゼッタに何を言われようと、彼女の父親であるクラークが護衛を望んでいる以上、トワリスは命令通りに動くしかないのだ。
ロゼッタは、吐き捨てるように答えた。
「もう一人の女魔導師って、あの蒼髪の女でしょう? 嫌よ。シュベルテに行ったとき、ちらっと見たけれど、私の勘が言ってましたもの。あれはいけ好かない女だって」
(……ま、間違ってない……)
的確なロゼッタの勘に、一瞬吹き出しそうになる。
性格のきつい女というのは、同じく性格に難のある女をかぎ分けるのが上手いのだろうか。
そんな失礼なことを考えていると、今度はロゼッタが、化粧台から香水と櫛を持ち出して、トワリスに近寄ってきた。
「えっ、ちょっ、何ですか!」
警戒した面持ちで、数歩後ずさる。
何しろ、顔に葉巻の煙を直接吹き掛けてくるような女だ。
この期に及んで香水なんてかけられたら、トワリスの鼻が曲がってしまう。
- Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下 ( No.174 )
- 日時: 2019/08/21 20:15
- 名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: J1W6A8bP)
ロゼッタは、葉巻を食卓の灰皿に押し付けて捨てると、訝しげに眉を歪めた。
「何って、多少身綺麗にして差し上げますわ。あの蒼髪の女よりは性格がましだと思って、貴女を選んだけれど、貴女は貴女で、この屋敷にふさわしくないんですもの。髪はぼさぼさだし、お肌も荒れているし、服だってよれよれ。そもそも私、シュベルテの団服のセンスって、理解できませんの。もっと可愛くて綺麗な服を用意させるから、明日からはそれを着なさい」
「い、いえ! 大丈夫です! お心遣いは結構ですから……」
首を振って距離をとるが、ロゼッタは、構わず近づいてくる。
まさか侯爵家の令嬢を殴るわけにもいかず、壁際まで追い詰められると、ロゼッタは、手のひらに出した香水を、無遠慮にトワリスの髪につけ始めた。
「……っ」
咄嗟に息を止めるも、むせかえるような薔薇の香りが、鼻腔と喉に入り込んでくる。
普通の人間が嗅げば、甘い良い香りだと感じるのだろう。
けれど、鼻の利くトワリスからすれば、頭の奥が痺れるような、強烈な刺激臭である。
香水が馴染むよう、トワリスの髪を櫛で梳いていたロゼッタは、ややあって、怪訝そうな顔をした。
「何をしかめっ面しているのよ。この香水、あのグランス家が私に贈って下さった特別なものですのよ。これだから物の価値の分からない人は……」
呆れたように文句をこぼして、ロゼッタが言う。
しかし、トワリスが呼吸を止め、本気で苦しんでいるのだと気づくと、ロゼッタは、やがて髪を梳く手を止めた。
「……ねえトワリス、貴女って、香水が苦手ですの? それとも単に、お洒落に慣れていないだけ?」
不機嫌さの滲んだ声に、ぷはっと息を吸って、顔をあげる。
悩んだ末に、差し障りのない言葉を選ぶと、トワリスは、控えめな声で答えた。
「……慣れていない、のもありますし……。私、多分普通より鼻が良いんです。だから、香水とか匂いの強いものは、つけたくなくて……。折角のご厚意を、申し訳ありません」
一度頭を下げてから、ちらりとロゼッタの表情を伺う。
香水を振りかけられるのは勿論嫌だが、ロゼッタの機嫌を損ねてしまうのも問題だ。
既に不安しかないが、これからはロゼッタの専属護衛として働いていかなければならないわけだから、出来ることなら、彼女とは円満な関係を築いていきたい。
- Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下 ( No.175 )
- 日時: 2019/11/08 22:50
- 名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: NRm3D0Z6)
ロゼッタは、しばらく不満げな顔で、じっとトワリスを見つめていた。
だが、やがてスカートの裾を軽く持ち上げると、華麗な足運びで、くるりと回って見せた。
「このドレス、素敵だと思わない? 高級感があって肌触りも上質、北方から取り寄せたモスリン製ですのよ」
淡い緑色の生地が、目の前でふわりと揺れる。
次いで、深紅の石が嵌め込まれた指輪と耳飾りを見せると、ロゼッタは自慢げに続けた。
「この指輪と耳飾りも、綺麗でしょう? 北方でしか採れない、アノトーンという稀少な宝石が、贅沢に使われたものなのよ。お父様から頂いた、大切な宝物ですの。お父様は、私がおねだりすれば何でもくださるんだから。こういうものを見ていると、憧れるわ、私も身につけたいわ、とか思いません?」
うっとりとした顔で、指輪がきらきらと光を反射する様を眺めながら、ロゼッタが言う。
トワリスは、何度か首肯すると、ぎこちなく答えた。
「そ、そうですね……。私は似合わないと思うので、つけたいとは思いませんけど、綺麗です……。ロゼッタ様に、よくお似合いですよ」
「…………」
ロゼッタの顔が、ますます不機嫌そうに歪む。
トワリスの言葉が、上辺だけの称賛に聞こえたのだろう。
実際、指輪や耳飾りを綺麗だと思ったのは本音だったのだが、質の良し悪しはいまいち分からなかった。
重そうなドレスも、爪ほどの大きな宝石がついた装飾品も、高価だと言われれば高価そうではあるが、城下の露店で、似たようなものを見たことがある気もする。
それに、なんだか着けていると動きづらそう、というのが正直なところだ。
そんなトワリスの本音を、的確に読み取ってしまったのか。
ロゼッタは、やれやれと首を振ると、ふうと息を吐いた。
「……なんだか、興醒めしましたわ。これじゃあ、私が貴女に迫っているみたいじゃない。別に、嫌だっていうなら無理強いをする趣味はありませんわ。第一その耳じゃ、耳飾りはつけられませんものね」
トワリスの狼の耳を見てから、ロゼッタは、つまらなさそうに顔を背ける。
しかし、あからさまに安堵の表情を浮かべたトワリスを見ると、ロゼッタは、今度は子供のように頬を膨らませた。
「あのねえ! 無理強いなんてはしたない真似はしませんけれど、貴女がこの屋敷にふさわしくないという言葉を、撤回する気はなくてよ! 貴女はこれから、社交場でも常に私の隣に立つことになるの。護衛が仕事だからといって、あまりみすぼらしい格好をしていると、雇い主である私の品位まで低く見えるということよ。お分かり?」
びしっと目前で指を差され、捲し立てられる。
顔を近づけると、ロゼッタは、トワリスの頬を両手で挟んだ。
「明日からは、ちゃんと身だしなみを整えてくること。ただし、私より派手な格好なんてしたら、許しませんわよ」
「わ、わかりました……」
凄まじい剣幕で脅されて、トワリスは、こくこくと頷いた。
とはいえ、今だって決してだらしない格好をしているわけではないし、むしろ、団服をきっちりと着こなしてきたつもりだったので、これ以上、どこをどう綺麗にしたら良いのか分からない。
確かに、ロゼッタに比べれば、トワリスは日焼けもしているし、癖毛だし、全身古傷だらけだ。
しかし、見て嫌悪感を催すほど、不潔な見た目をしているわけでも、みすぼらしい服装をしているわけでもない。
ロゼッタの美の基準で測られても、その期待に答えられる気がしなかった。
ロゼッタは、ふん、と鼻を鳴らすと、腕を組み、トワリスにとどめを刺した。
「言っておくけれど、私に部屋に連れ込まれて脅されたなんて、お父様や他の方々にばらしてみなさい。二度と魔導師として世間に出てこられなくしてやるんだからね!」
もはや、表情を取り繕う気力もなくなって、トワリスは、ぴくりと顔を強張らせる。
この先、ロゼッタと上手くやっていける気がしない。
そんな絶望を胸に抱えながら、トワリスは、再度頷くしかないのだった。
- Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下 ( No.176 )
- 日時: 2019/08/28 18:59
- 名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: NRm3D0Z6)
不安を抱えながら始まったロゼッタとの生活は、護衛というよりも、子守りに近かった。
彼女の猫かぶりは、もはや二重人格と呼べるほど見事なもので、外では貴いマルカン家の息女を演じるのだが、自室に戻ると、途端に彼女は、高飛車で我が儘放題の子供のように振る舞うのだ。
ロゼッタの本性を知らない侍従は多く、父親のクラークでさえも、娘は淑やかで、引っ込み思案な性格だと思い込んでいる様子であった。
屋敷の者達が鈍い、というよりも、そう思い込ませるためのロゼッタの手回しが徹底的で、まず、彼女の部屋に入れるのは、本当にごく一部の侍従のみであった。
そのごく一部に引き入れられてしまったことが、そもそもの悲劇の始まりである。
早々にロゼッタに手駒認定されたトワリスは、時に、家政婦のような仕事まで押し付けられることもあったし、欲しいものが出来たから買ってこいだの、そんな使いっ走りのような仕事まで強いられるようになった。
それだけではない。
ロゼッタは、トワリスが普通よりも身体能力が高いのだと気づくと、「窓から跳んで、素手で鳥を捕まえて見せなさいよ」なんて、面白半分に無理難題まで課してくる始末だ。
最初は、彼女も日頃の鬱憤が溜まっているのだろうと、我慢していたトワリスであったが、半月も経つ頃には、堪忍袋の緒が切れていた。
しかし、いくら注意しても、叱り飛ばしても、ロゼッタの無茶苦茶な行動は止まらない。
おまけに彼女は飽き性で、散々わめき散らしてトワリスにせがんだことも、翌日には忘れたりしているので、余計に質が悪かった。
一方で、護衛としての任務は、ほとんどないに等しかった。
何せマルカン家の豪邸には、当然のことであるが、厳重な警備が敷かれている。
屋敷内に不審な者が入ってくることはないし、ロゼッタも滅多に外出することがなかったので、そもそも彼女が危険な目に遭うことがなかったのだ。
近年のハーフェルンでは、内戦に巻き込まれるようなこともないし、勿論、平和であるに越したことはない。
だが、魔導師らしい仕事もなく、日がなロゼッタの無茶に付き合わされてばかりいると、いよいよ何故自分は専属護衛としての雇われたのか、分からなくなってくる。
だんだん自分は、ロゼッタの世話役として招き入れられたのではないか、とさえ思うようになった。
十九の我が儘な子供、ロゼッタのお守りは、今まで受けてきたどんな任務よりも、精神的に疲れるのであった。
その日も、突然呼び出されたかと思うと、用件は庭の木の実をとってこい、だったので、ロゼッタの部屋に入った瞬間、トワリスはため息をついてしまった。
とうに日は暮れ落ち、燭台に灯された炎に照らされて、レースのカーテンが、ゆらゆらと光っている。
そんな幻想的とも言える部屋の中で、ロゼッタは、窓を開け放つと、下方に見えるリバーブの木を指差して、口を開いた。
「見てご覧なさい。リバーブの実が生ってるの。今は緑色だけれど、熟れると明るい橙色になって、とっても綺麗ですのよ。乾燥させたら、装飾品にも使えるの。私、あれがほしいわ。トワリス、今から取ってきなさいよ」
興奮した様子で言いながら、ロゼッタは窓枠を掴んで、ぴょんぴょんと跳ねている。
トワリスは、呆れたように肩をすくめると、静かに首を振った。
「取ってきなさいって、窓からですか? 嫌ですよ、ここ二階ですし。明日、朝になったら、庭師の方に頼んで取ってもらえばいいじゃないですか」
ぶっきらぼうに答えると、いつものように、ロゼッタは頬を膨らませた。
「いいじゃない、トワリスならできるでしょう? それに朝になると、あっという間に鳥が実を啄んじゃうのよ。リバーブはこの時期しか実らないのに、去年も一昨年も、それで採り損ねたの」
だから夜の内に採らないと、と意気込んで、ロゼッタは、窓から身を乗り出す。
それでも興味を示さないトワリスに、みるみる表情を歪めると、ロゼッタは癇癪を起こしたかのように叫んだ。
「ねえ! 取ってきなさいって言ってるのよ、ケチ! あんまり私に逆らうと、お父様に言いつけますわよ! 貴女を雇ってるのはお父様で、お父様が怒ったら、貴女なんて呆気なく潰れるんだから!」
言いながら、ロゼッタが腹立たしげに床を踏み鳴らす。
随分と物騒な脅し文句だが、似たような言葉を何度も聞いているので、今更揺らぎはしない。
今はリバーブの実がほしいと騒いでいるが、どうせ明日になれば、飽きて別の事柄に執心するのだ。
トワリスは、憤慨するロゼッタを無視して窓際まで近づくと、静かに窓とカーテンを閉めた。
「夜風に長時間当たっていると、風邪を引いてしまいますよ。明日になっても実が欲しいなら考えますから、今日はもう休んでください」
「…………」
落ち着いた声でなだめるが、ロゼッタはスカートの裾を握りしめ、トワリスをきつく睨んでいる。
思い通りにいかないと、ロゼッタは大抵駄々をこねて、最終的にはだんまりを決め込む。
猫かぶりをしているときは、感心するほど立派に振る舞うのだが、素のロゼッタは、まるで年端も行かぬ子供のようであった。
こうしてロゼッタの相手をしていると、かつて、孤児院で年下の子供たちの世話をしていたときのことを、頻繁に思い出す。
- Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下 ( No.177 )
- 日時: 2019/08/28 19:02
- 名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: NRm3D0Z6)
その時、不意に扉を叩く音が聞こえてきて、トワリスは振り返った。
いつもの時刻より早いが、侍女がロゼッタに夕食を届けに来たのだろう。
クラークが屋敷にいるときは、共に広間で食べるのが常だったが、不在の時は、ロゼッタは自室で一人で食べたがるのだ。
トワリスは、扉を開けて侍女から夕食を受けとると、それを食卓に並べ、不貞腐れて立っているロゼッタに声をかけた。
「ほら、夕食が届きましたよ。温かい内に召し上がってください」
ロゼッタは、依然として動こうとしない。
しばらくそのまま、黙って突っ立っていたが、そんなことをしても、トワリスが折れないことを悟ったのだろう。
やがて、ぶうたれた顔で席につくと、夕食を食べ始めた。
「……今日は悪い日ですわ。トワリスは生意気だし、夕飯には人参が入ってるし……。私、人参は嫌いだから入れないでって、再三料理長に言ってますのよ」
ぶつぶつと文句をこぼしながら、ロゼッタは器用に人参を避けて、スープを口に運んでいる。
言い分は幼稚なのに、食後の一服にと葉巻を用意して食卓に置いている辺りは、なんとも爛れた大人らしい。
なんて、もちろん口が避けても言えない。
これまでも、葉巻は程ほどにしろとか、好き嫌いするなとか、何度も注意してきたが、その度に言い争いになってきたので、トワリスは、何も言わずに部屋の隅で立っていた。
程なくして、夕食を食べ終わると、ロゼッタは紫煙を吐きながら、向かいの席に示して、トワリスに座るように言った。
そして、長椅子の下の秘密の引き出しから、細長い硝子瓶を取ると、グラスを二つ並べて、薄黄色の液体を注いでいく。
グラスを一つ、トワリスの前に出すと、ロゼッタは、唇を開いた。
「今夜は気分が悪いから、一杯付き合いなさい。これくらいはいいでしょう?」
どこか気だるそうに言って、ロゼッタは、一気に杯を呷る。
トワリスは、差し出されたグラスを覗きこんで、眉をしかめた。
「いや、仕事中なので、お酒は……」
「大したお酒じゃありませんわ。度数の低い果実酒よ。なぁに、この程度も聞けないって言うの?」
断ろうとするトワリスを遮って、ロゼッタは、グラスを押し付けてくる。
渋々それを受け取ったトワリスは、仕方なく、薄黄色の液体を口に含んだ。
瞬間、強い酒の臭いが鼻を突き抜け、痺れるような痛みが、喉を刺す。
トワリスは、うえっと舌を出すと、グラスを食卓に戻した。
「……何か、変な味ですね」
トワリスの反応を見ると、不機嫌そうだったロゼッタは、楽しげな顔つきになった。
「あら、この美味しさが分からないの? トワリスって、もしかしてお酒も飲んだことなかったのかしら? お子ちゃまですわね」
からからと笑い声をあげて、ロゼッタはもう一杯、果実酒を飲み干す。
酒を飲んだのは、ロゼッタの言う通り初めてだったが、それを認めると、余計に馬鹿にされそうだったので、トワリスは返事をしなかった。
- Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下 ( No.178 )
- 日時: 2019/08/30 18:36
- 名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: NRm3D0Z6)
一頻り笑うと、ロゼッタは続けた。
「お酒も、多少は慣れておいた方が良いですわよ。ハーフェルンじゃもうすぐ祭典があるし、貴女も今後、お酒を勧められたりするかもしれないでしょう?」
果実酒の力か、どこか上機嫌な口調で言って、ロゼッタはグラスを揺らしている。
近々行われる祭典とは、ハーフェルンが西方の軍事国家、セントランスの支配下から脱した、言わば独立を記念する祭りのことだ。
もう五百年以上も前のことなので、今では祝事というよりも、陽気などんちゃん騒ぎといった色合いが強い行事であったが、七日にも渡るその祭典は、近隣の街をも巻き込んで、他にはないほどの大賑わいを見せるのだと言う。
トワリスは、困ったように首を振った。
「祭典の時は、色んな人がお屋敷を出入りするわけですから、それこそ私は、お酒を飲んでる暇なんてありませんよ。ロゼッタ様の護衛と、警備に回らないと」
ロゼッタが、わざとらしく嘆息する。
「なによ、お堅いわね。私が飲めって言っても飲まないわけ?」
「飲みません」
きっぱりと断ると、ロゼッタは笑みを消して、唇を尖らせた。
ぶつくさと文句を言いながら、もう一杯、更にもう一杯と、杯を煽っていく。
そんな彼女の指先が、微かに震えていることに気づくと、トワリスは顔をしかめた。
「……ロゼッタ様、もうやめておいた方がいいんじゃないですか? 酔って倒れちゃっても知りませんよ」
言いながら、ロゼッタからグラスを取り上げる。
するとロゼッタは、そのグラスにすがるように手を伸ばすと、再び駄々っ子の如く怒り出した。
「馬鹿言わないでちょうだい! この程度で酔ったりなんかしませんわ、まだ平気よ!」
ばんっ、と食卓を叩いて、ロゼッタがトワリスを睨んでくる。
しかし、その上気した頬にはうっすらと汗がにじんでいるし、心なしか、唇の色も悪い気がする。
酔っているにしても、違和感を感じるロゼッタの変化に、トワリスが眉をひそめた、その時──。
不意に、扉を軽く叩く音が聞こえてきたと思うと、部屋の外から、侍女の声が響いてきた。
「ロゼッタ様、お食事をお持ちしました」
瞬間、さっと青ざめたロゼッタが、口を覆って立ち上がった。
全身から冷や汗を噴き出し、そのままがくがくと震えだすと、ロゼッタは、トワリスと侍女を置いて、勢いよく部屋から飛び出していく。
「ロゼッタ様!?」
一瞬、状況が飲み込めずにいたトワリスであったが、すぐに事態の深刻さを理解すると、ロゼッタの食べ終えた食器を見た。
(まさか、何か入って……)
最初に食事を持ってきた、侍女の姿が脳裏に蘇る。
彼女は指定の侍女服を着ていたので、怪しむこともしなかったし、正直顔もよく思い出せない。
だが、果実酒は元々ロゼッタの部屋にあったものだから、何か入っていたのだとすれば、あの侍女が持ってきた食事以外に考えられないだろう。
トワリスは、慌てて部屋を出ると、ロゼッタの後を追ったのだった。
- Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下 ( No.179 )
- 日時: 2019/09/02 18:15
- 名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: NRm3D0Z6)
「ロゼッタの食事に毒が盛られていただと!? 毒見は何をしておった!」
クラークの怒声が響いて、広間の空気が、一層張りつめたものへと変わる。
翌日、毒入りの夕食を口にしたロゼッタが倒れたと聞き、外出先から戻ってきたクラークは、当然ながら、烈火の如く激怒した。
混入していた毒が致死性のものではなかったことと、比較的すぐに気づいて対処できたことが幸いして、ロゼッタはすぐに回復したが、一歩間違えれば、どんな結果になっていたか分からない。
トワリスと共に召し出され、ロゼッタの食事の毒見を担当していたと言う料理番の男は、真っ青な顔で、床にひれ伏した。
「も、申し訳ございません! しかしながら、私共がお出ししたお食事には、毒など盛られておりませんでした。毒が混入したのは、その前です。我々が夕食をご用意する前に、何者かが、毒を入れた別のお食事を、ロゼッタ様にお出ししたのです」
瞬間、クラークの鋭い視線が、トワリスの方へと向く。
背の高い、豪奢な椅子から見下ろされて、トワリスは、床に縫い付けられたように動けなくなった。
「食事を受け取ったのは、トワリス、君だったそうだな。何故違和感に気づかなかった? ロゼッタに食事を持って行く侍女は、いつも決まった顔ぶれであったはずだろう?」
「……申し訳ございません」
トワリスは、深々と土下座をして、そう一言発することしかできなかった。
クラークの口調は静かだったが、その表情を見ずとも、彼が心の底から激怒していることが分かる。
屋敷に迎え入れてくれた時の、優しい笑みなど跡形もないクラークの厳しい態度に、トワリスは、額を床から離せなかった。
言い訳も思い付かない、護衛として自分に非があったと、認めるざるを得なかった。
魔導師団に入団して五年、魔術の知識や戦い方は学んできたが、要人に仕えた経験など、トワリスには一切ない。
ロゼッタの我が儘に振り回され、世話役の真似事をして生活している内に、自分の本来の役割を失念していた。
ロゼッタは領主ではないが、ハーフェルンを治める侯爵家の一員である以上、権力を持ち、人の上に立つ人間なのだということは変わらない。
いつどこで、誰に狙われるか分からない彼女たちを、常に気を張って守るのが、自分たちの仕事なのだ。
クラークは、怒りと呆れが混ざったような声で、言い募った。
「……私はね、これでも君には期待しているんだよ。シュベルテのことは、心から信頼しているし、君は女性の身でありながら、魔導師団では、大変優秀だったと聞いていたからね。だが、護衛としての役目を果たせないというなら、私の愛娘を託すわけにはいかない。ロゼッタは危うく死にかけた……この失態は、斬首にも値する。分かるかね?」
ひやりとしたものが、首筋をなぞる。
唇の震えを抑えるように噛み締めて、トワリスは、冷たい床を間近に見つめていた。
ややあって、トワリスに顔をあげるように命じると、クラークは、その血の気のない顔を見て、嘆息した。
「……まあ、私も非情ではない。運良くロゼッタは無事であったわけだし、君のような年若い娘に、斬首を宣告するのも良心が痛む。それに、件の毒入りの食事を持ち込んだ侍女を、はっきりと見たのは君だけだ。別の者にも調べさせているが、毒を混入させた犯人が、まだ屋敷の中に潜んでいる可能性がある。其奴を探し出し、私の前に連れてくるのだ。その任を果たせば、今回の失態には目を瞑り、これからもマルカン家に魔導師として仕えることを許そう。勿論、ロゼッタの専属護衛からは、外れてもらうがね」
「……はい」
どこか遠い、掠れた自分の声。
重々しいクラークの言葉を受け止め、どうにか返事をすると、トワリスは、ぐっと拳を握った。
期待している──そう言ってもらえたことが、唯一の救いだ。
- Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下 ( No.180 )
- 日時: 2019/09/04 19:01
- 名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: dSN9v.nR)
再度深々と頭を下げ、クラークの御前から下がろうとした時であった。
不意に、部屋の扉が叩かれたかと思うと、侍女を連れ立ったロゼッタが、ゆっくりとした足取りで入室してきた。
「おお! おお……! ロゼッタ!」
椅子から転がるようにして駆け出し、跪く毒見やトワリスを押し退けて、クラークは娘の元へ走り寄る。
連れ添っていた侍女すらも払い除けると、クラークは、涙ながらにロゼッタを強く抱擁した。
「お父様ったら、そんなに強く抱き締められたら、苦しいですわ」
苦笑混じりに言って、ロゼッタが、ぽんぽんとクラークの肩を叩く。
クラークは、鼻をすすりながら離れると、自分の上着を脱いで、薄い寝巻き姿のロゼッタにかけた。
「駄目じゃないか、こんな薄着で出てくるなんて。まだ寝ていなさい。必要なものがあるなら、届けさせるから」
クラークの声が、まるで幼子に言い聞かせるような、優しいものへと変わる。
ロゼッタは、口元を覆って笑むと、小さく首を振った。
「もう、お父様ったら、大袈裟ですわ。入っていたのは、鼠程度も殺せるか分からないような少量の毒だったって、お医者様も仰っていたじゃない。きっと軽い悪戯か、誰かの悪ふざけですわ」
ロゼッタのふわふわとした態度に、部屋を縛っていた緊張感が、僅かに緩まる。
しかし、クラークは厳しい表情に戻ると、ロゼッタの両肩を強く掴んだ。
「何を言っておるんだ! 例え悪戯だったのだとしても、到底許されることではない! 屋敷の警備は厳重だ。侍女のふりをして毒を盛った女も、まだ屋敷の中にいるやもしれん。見ていろロゼッタ、絶対に私が捕らえて、殺してやる……!」
クラークが、怒りで語尾を震わせながら、顔を真っ赤にする。
だが、ふとロゼッタの顔を見ると、クラークの顔は瞬時に青くなった。
すん、すんと鼻をすすりながら、ロゼッタは泣いていたのだ。
「ロ、ロゼッタ!? どうしたのだ!? すまない、声を荒らげたのが怖かったかい?」
クラークは、すぐさま華奢な肩から手を引くと、ロゼッタの顔色を伺った。
やりとりを見守っていた侍従たちも、思いがけず流れた涙に、ごくりと息を飲む。
ロゼッタは、取り出したハンカチで口元を押さえると、弱々しく震えながら、かくりとその場に崩れ落ちた。
「わ、私だって、すごく、すごく怖かったですわ……。もしあのまま死んで、二度とお父様ともお会いできなくなっていたかと思うと、そんな想像、するだけで涙が止まりませんの……。もう二度と、あんな思い、したくありませんわ……」
儚げな、今にも消え入りそうな声で言いながら、ロゼッタは泣き崩れる。
絶句するクラークを、潤んだ瞳で見上げると、ロゼッタは言い募った。
- Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下 ( No.181 )
- 日時: 2019/09/07 00:12
- 名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: NRm3D0Z6)
「でも、でもね、私、お屋敷の皆を疑うなんて……もっとしたくありませんの。皆、私やお父様のために、一生懸命働いて下さっているのよ。それを、まだ残っているかも分からない犯人を探すために、疑うなんて……。罪悪感で、胸が張り裂けそうですわ……」
「ロゼッタ……」
娘の涙につられたのか、心なしか、クラークも鼻を赤くしている。
彼だけではない。
侍従たちも、扉の前で警護を行っている魔導師たちでさえ、広間にいる全員が、泣き出しそうな顔でロゼッタのことを見つめている。
つい先程まで、全身の毛が逆立つような緊張感で場が支配されていたのに、ロゼッタが現れてから、空気は彼女一色に染まってしまった。
ロゼッタは、唖然としているトワリスを一瞥すると、クラークに向き直った。
「トワリスのことも、あまり責めないで……? トワリスは、この屋敷に来て、まだ日が浅いんですもの。沢山いる侍女の顔が覚えられていなくても、無理はありませんわ。トワリスが毒を盛ったわけでもないのに、罰として護衛を外そうなんて、可哀想よ」
「う、うむ……だが……」
戸惑った様子で口ごもり、クラークも、トワリスに視線を移す。
やはり、一度失態を犯したような者に、最愛の娘を任せたくはないのだろう。
クラークの目には、訝しげな疑念の色が浮かんでいる。
ロゼッタは立ち上がると、寝巻きのスカートの裾を揺らして、トワリスの元へ駆け寄った。
「私、トワリスとはとっても仲良くなったんですのよ。毎日お仕事も真面目にやってくれるし、今回だって、トワリスがいなかったら、私は自室で倒れて、そのまま動けなくなっていたかもしれませんわ。ね? 私、専属護衛はトワリスのままがいいですわ」
すり寄るように身体を寄せると、ロゼッタは、トワリスに腕を絡めてくる。
何度見ても目を疑ってしまうようなロゼッタの猫かぶりに、思わず鳥肌が立ったが、この状況で彼女が味方についてくれたことは、トワリスにとっても有難いことであった。
クラークは、悩ましげに眉を寄せて、しばらく二人のことを見つめていた。
だが、やがて一つ咳払いをすると、ゆったりとした足取りでトワリスたちの前に立ち、言った。
「……ロゼッタが気に入っているというなら、仕方あるまい。トワリス、君には引き続き、娘の護衛を命じよう」
背後から、侍従たちのため息が聞こえたような気がした。
ロゼッタが望んだことを、クラークが拒否した前例はないのだろう。
侍従たちの諦めたような顔を見ていると、彼らの親子関係が伺える。
ロゼッタは、ぱぁっと眩い笑顔を見せると、クラークに抱きついた。
「嬉しいですわ! お父様大好き!」
威厳を保つべく顔つきを引き締めようとしているが、クラークの表情は、明らかに緩んでいる。
侍従たちも、やれやれと呆れたような顔をしてはいるが、どこか微笑ましそうにロゼッタたちを眺めていた。
広間に張り巡らされていた緊張の糸が、跡形もなく切れ、ばらばらと解かれていく。
ロゼッタは、一瞬だけトワリスの方を見ると、ぺろりと舌を出して見せたのだった。
- Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下 ( No.182 )
- 日時: 2019/09/10 18:01
- 名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: NRm3D0Z6)
結局、クラークの怒号から始まった会議は、ロゼッタの登場により、和やかな幕引きを迎えた。
とはいえ、毒を盛った犯人がまだ捕まっていない状況下で、何の対策もとらないというわけにはいかない。
ロゼッタのしばらくの外出制限と、彼女の周りを信頼のおける侍従のみで固めることを決めてから、クラークは、改めてトワリスが専属護衛を続けることを認めたのであった。
トワリスを連れ、自室に戻ったロゼッタは、自分が狙われたという事実に傷ついた様子もなく、ご機嫌であった。
どちらかというと、落ち込んでいたのは、トワリスの方だ。
ロゼッタに家政婦扱いされる日々が続き、油断して、結果、護衛対象を危険に晒してしまった。
これは、魔導師として恥ずべきことである。
確かにトワリスは、マルカン家に来てから、まだそれほど日数は経っていないし、そもそも正規の魔導師になってから、何の経験も積んでいないような新人である。
だが、そんなことは言い訳にならない。
トワリスが、ロゼッタに食事を持ってくる侍女を把握し、こういった事態を予測できていれば、防げたことなのだ。
鼻歌を歌いながら、長椅子に堂々と寝そべるロゼッタに、トワリスは、深々と頭を下げた。
「あの……ありがとうございました、かばってくださって。それから、申し訳ありませんでした」
頭をあげずに、ロゼッタからの返事を待つ。
ロゼッタは、手に取った本を適当に捲りながら、どうでも良さそうに答えた。
「別に、かばったつもりはありませんわ。貴女が外されたら、別の魔導師がまた専属護衛として、私に貼り付きに来るでしょう? そうしたら、自室での悠々自適生活が続けられなくなるじゃない。かといって、無闇に私の本性をばらしたくはないし。今のところ、トワリスと私の部屋の掃除係以外には、明かしていませんの」
トワリスの方を見ようともせず、ロゼッタは、足をぷらぷらと動かしている。
なんとなく、そんな理由だろうとは思っていたが、ロゼッタのおかげで、護衛を外されずに済んだのは事実だ。
ロゼッタとの生活は苦労も多いが、勤めを果たせないまま中途半端に辞めることになるのは、やはり悔しい。
頭をあげると、トワリスは、真剣な声で言った。
「……それでも、私の護衛としての自覚が、足りなかったんだと思います。今後は、気を引きしめて任務に勤めます」
「…………」
ロゼッタの視線が、ようやくトワリスに向く。
勢いをつけて長椅子から起き上がると、ロゼッタは、苦笑まじりに肩をすくめた。
「そんなに頑張る必要はなくってよ。貴女はただ、私の側にいればいいの。ロゼッタ・マルカンの近くには、常に護衛がいる……その事実だけで、お父様は安心するのよ。大事なのは、護衛がいるってことであって、それがどんな魔導師なのかは、どうでもいいの」
「え……」
ロゼッタの言葉に、思わず目を見開く。
悪意があるのか、ないのか、ロゼッタは可憐に微笑むと、言い募った。
「勿論、毒を盛るような輩は論外ですわよ? ただ、こちらに害を成さない魔導師なら、誰でも良いってこと。今回の件も、私とずっと一緒にいたトワリスが、毒を盛った犯人でないことは確かだし、そもそも、魔導師になったばかりの女の子が、それほど役に立つなんて、誰も期待していませんもの。だからお父様も、専属護衛を続けることをお許しになったのだと思いますわ。お父様は、とにかく誰でも良いから、娘の近くに護衛を置いて安心したいだけなの。だから、無駄に頑張る必要はないのよ。トワリスは、私の自由な生活を見過ごしてくれれば、それで良いの」
お願いね、と付け加えて、ロゼッタが片目を瞑る。
黙っているトワリスを扉の方に向け、ぽんっと背を押すと、ロゼッタは楽しげに言った。
- Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下 ( No.183 )
- 日時: 2019/09/17 23:38
- 名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: NRm3D0Z6)
「そんなわけだから、早速お酒をくすねてきてちょうだい。厨房に入ってすぐ左の、一番下の戸棚に入ってますわ。在庫が切れてしまいましたの。私は自室から出ないようにってお父様から言われているから、これからはトワリスが、私の“楽しみ”を調達してくるのよ」
ぐいぐいとトワリスを扉まで押しやり、ロゼッタは、満面の笑みで手を振る。
強引に部屋から出されたトワリスは、しばらくの間、閉じた扉を呆然と見つめていた。
だが、やがて踵を返すと、うつむいたまま、厨房に向けて長廊下を歩き出した。
壁際の骨董品の埃を払っていた侍女たちが、声を潜めて、くすくすと笑い合っている。
しかし、ふとトワリスと目が合うと、彼女たちは真顔になり、何事もなかったかのように、はたきを振り始めた。
立ち働き、廊下を行き来する侍従たちの視線が、何故だか痛い。
誰かの声が聞こえる度、視線を感じる度、それらがすべて、自分に対して悪意を持って、突き刺さってくるように感じた。
屋敷の者達は、トワリスのことを、一体どう思っているのだろう。
得体の知れない獣人混じりで、役に立たない新人魔導師。
そんな分際で、突然マルカン家にやってきたと思ったら、大事なロゼッタの御付きを命じられるなんて、気に食わないと思われているだろうか。
それとも、大役を仰せつかったくせに、毒入りの夕食をあっさりと見逃すなんて、能無しだと馬鹿にされているだろうか。
侍女たちが笑っていた理由など分からないし、侍従たちだって、本当にトワリスのことを見ていたかなんて分からないのに、今は、全てが自分を指差して、嘲笑しているように思えた。
──大事なのは、護衛がいるってことであって、それがどんな魔導師なのかはどうでもいいの。
ロゼッタにそう言われたとき、今までの自分が、全て粉々になってしまったような気がした。
本当は、アーベリトに行きたかった。
けれど、クラークに「期待している」と言われたとき、この人は、自分の努力を評価してくれたのだと思って、すごく嬉しかったのだ。
クラークはきっと、一人の魔導師としてトワリスを見て、その能力を認め、ロゼッタの護衛を任せてくれた。
だからこそ、ハーフェルンでも頑張って行かねばと、心を奮い立たせようとした。
それなのに。
それ、なのに──。
トワリスは、勢いよく自分の頬を叩くと、ぶんぶんと首を振った。
(……余計なこと考えてないで、頑張れ、頑張れ……)
一つ深呼吸すると、トワリスは、歩調を速くした。
ハーフェルンの者達にどう思われていようと、やる気をなくして良い理由にはならない。
護衛としての自覚が足らず、毒の混入を許してしまったのは、覆しようのない自分の失態だ。
能無しの新人魔導師から脱却するには、結果を残して周囲を見返す、その方法しかないのだ。
これまでだって、挫けそうになることは幾度もあったが、そのたびに自分を叱責し、頑張れと言い聞かせて、どうにか踏ん張ってきた。
元々自分は、人としての生活もままならないような、無力な子供であった。
それが、走って、走って、脚が疲れてちぎれそうになっても、諦めずに走って、やっと、念願の魔導師になれたのだ。
なかなか認めてもらえないからと、こんなところで腐っているなんて、それこそ今までの自分を、否定する行為に他ならないだろう。
獣人混じりだと気味悪がられるなら、そんな印象が吹っ飛ぶくらいの、立派な魔導師になれば良い。
強くて、頼れて、いつかサミルやルーフェンにも認めてもらえるような、そんな魔導師になるのだ。
今までだって、沢山努力してきたのだから、これからだって、もっともっと走って行ける。
周囲から何を言われようと、まずは、ハーフェルンで精一杯、積み重ねていくのだ。
少なくともクラークは、期待していると言ってくれた。
ならば、その期待に応えることが、立派な魔導師への第一歩だろう。
ロゼッタ一人守れないようでは、アーベリトに行ったって、きっと何もできない。
自分の最終目標は、召喚師の右腕になって、サーフェリアの人々を守れるようになることなのだから──。
- Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下 ( No.184 )
- 日時: 2019/09/14 20:41
- 名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: NRm3D0Z6)
(守れるように、か……)
ふと、五年ほど前、アーベリトのサミルの屋敷で、刺客に襲われた時のことを思い出した。
国王の暗殺を謀り、入り込んだと思われる黒装束の男達。
あの時、たったの十五だったルーフェンは、まるで虫でも踏み潰すかのように、簡単に刺客たちを殺してしまった。
その光景を見て、当時は恐ろしさに立ち尽くすことしか出来なかったが、今なら、恐怖以外の感情も抱けると思う。
きっと、時に非情にならなければ、誰かを守ることなど出来はしないのだ。
(……守るっていうのは、多分、私が思う以上に大変なことなんだよね)
それこそ、普段は優しかったルーフェンが、残虐で冷徹な空気を纏ってしまうほどに──。
トワリスがアーベリトを去ってからも、あんな風にサミルは、誰かに狙われるような毎日を送っているのだろうか。
領主の娘というだけで、ロゼッタも毒を盛られたりするのだ。
一国の主ともなれば、より多くの者に狙われ、死を間近に感じるような生活をしているかもしれない。
サミルを守るルーフェンだって、きっとそうだ。
誰かを守るというのは、誰かを傷つけ、殺すことと同じだ。
傷つければ傷つけただけ、それと同等の恨みと憎しみが、己に返ってくる。
たったの十五歳で、そのことを理解していたルーフェンは、一体どれだけのものを犠牲にしてきたのだろう。
そしてこれからも、何度自分の気持ちを踏みにじって行くのだろう。
あれから、もう五年経った。
トワリスは十七歳になったし、ルーフェンは、二十歳になっているはずだ。
トワリスにとっては、激動の五年であったが、ルーフェンにとっては、どんな五年だっただろう。
サミルもルーフェンも、慌ただしく、忙しい日々を過ごしてきたに違いない。
けれど、願わくば、あんな風に死の恐怖に晒されるような出来事には、遭っていなければ良いなと思う。
そんなことを考えながら、吹き抜けの廊下に差し掛かったとき。
不意に目の前に、ぼんやりとルーフェンの姿が浮かんできた。
ひゅう、と中庭を抜ける一陣の風に、さらりと揺れる、銀色の髪。
日の光を反射して、ちかちかと煌めく緋色の耳飾りは、紛れもない、サーフェリアの召喚師である証だ。
ルーフェンは、長い睫毛を伏せて、中庭の噴水を覗きこんでいる。
陶器のような白い肌も、透き通った白銀の瞳も、どこか神秘的な空気を纏ったその風貌は、昔と全く変わっていない。
しかし、目前にいるルーフェンは、トワリスの記憶の中にいる少年の姿ではなかった。
背も高くなり、鼻筋もすっと通った、青年のルーフェンであったのだ。
五年も会っていないのに、妙に明瞭な想像である。
どこか憂いげな瞳で佇んでいるルーフェンを、トワリスは、長い間、浮かされたように眺めていた。
やがて、ルーフェンが振り返ったかと思うと、その白銀の瞳と、ぱちりと目が合う。
縫い止められたように動かないトワリスを見て、ルーフェンは、微かに表情を綻ばせた。
「俺に、何か用?」
穏やかな声をかけられて、思わず、どきりと心臓が跳ねる。
同時に、大きく目を見開くと、トワリスは、目にも止まらぬ速さで、長廊下の柱に隠れた。
(……え? えっ、本物……?)
一度頬をつねってみてから、柱に隠れたまま、ルーフェンを一瞥する。
不思議そうに首をかしげるルーフェンを見て、それが自分の想像などではなく、本物のルーフェン・シェイルハートであることを確信すると、トワリスは、驚愕のあまり言葉が出なくなった。
- Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下 ( No.185 )
- 日時: 2019/09/20 15:49
- 名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: NRm3D0Z6)
何故、アーベリトにいるはずのルーフェンが、ハーフェルンにいるのだろう。
そんなことより、どうして自分は隠れているのだろう。
先程、確実に目が合ったのに。
しかも話しかけられたのに。
黙ったまま柱の裏に逃げ込むなんて、完全に不審人物である。
トワリスは、逡巡の末、ぎくしゃくとした足取りでルーフェンの前に出ると、斜め下に視線をそらして、声を絞り出した。
「あ、あの……あ、怪しい者じゃないです……」
「…………」
言い終わった瞬間、再び柱の後ろに隠れたくなった。
いきなり怪しい者じゃない、なんて言う奴は、絶対に怪しい。
案の定、目の前に立っているルーフェンも、きょとんとした表情で、目を瞬かせている。
思考がぐるぐると回って、口を開閉させても、上手く言葉が出てこなかった。
全身から汗が噴き出して、緊張なのか、恥ずかしさなのか、頬に熱が集まっていく。
もしルーフェンと再会できたら、一言目は、何を言おうと思っていたんだっけ。
何度か考えたことはある気がするが、今は頭が真っ白で、何も思い付かない。
自分は今、どんな間抜けな顔をしているだろう。
そういえば、今日はまともに髪も梳(と)かしていなかった気がする。
最近は、身なりを整えていないとロゼッタが怒ってくるので、特別跳ねている癖毛くらいは、意識して直していた。
だが、今朝は怒り心頭のクラークに呼び出されて、髪をどうこうする暇なんてなかったから、みっともない姿をしているかもしれない。
唇をしきりに動かしては、下を向いて、黙り込む。
ルーフェンは、そんなトワリスの言葉を、しばらく待っていたようだったが、ややあって、彼女の耳を目に止めると、少し驚いたように言った。
「……もしかして、トワリスちゃん?」
トワリスの動きが、ぴたりと止まる。
名前を呼ばれたことが、つかの間、現実のことなのかどうか、分からなかった。
鼓動が異様なほど速くなって、胸の中で、心臓が暴れまわっている。
口を開けば、勢いよく心臓が飛び出してきてしまいそうだった。
トワリスは、瞠目したまま、おずおずと顔をあげた。
そして、ぐっと何かを堪えるように一拍置くと、ようやく言葉を押し出した。
「……そう、そうです……トワリスです……」
喉の奥が熱くなって、大きく頷けば、その拍子に涙がこぼれそうになる。
声が震えて、再びうつむくと、トワリスは泣くまいと、ぐっと口を閉じた。
もっと心の準備をしてから再会したかったとか、まともな一言目を言いたかったとか、そんな思いが渦巻いていたが、名前を呼ばれたのだと分かった瞬間、強い喜びが突き上げてきた。
柔らかくて、優しくて、けれどトワリスが知っているものより少し低い、落ち着いた声。
多く助けた内の、子供の一人でいい。
獣人混じりの、珍しい子供としてでもいい。
ただ、自分のことを覚えていてくれたことが、本当に嬉しかった。
トワリスは、ごしごしと顔を拭うと、ルーフェンの目をまっすぐに見つめた。
「……魔導師になれました、召喚師様。孤児院を出たあと、私、魔導師になったんです」
そうこぼした途端、言いたかった言葉が、頭の中に一気に溢れてきた。
五年前、奴隷のまま生活していたならば、あの暗い地下で、誰にも知られることなく、トワリスは死んでいただろう。
今の自分があるのは、サミルとルーフェンのおかげだ。
そう、もしも再会できたなら、一言目は、感謝の言葉を言いたかったのだ。
命を救ってくれて、ありがとう。
手当てをして、何度も反抗したのに優しくしてくれて、文字を教えてくれて、生き方を示してくれて、ありがとう。
別れは寂しかったけれど、孤児院に行ったら、リリアナという友達が出来た。
魔導師になるまでの道程も、決してなだらかではなかったが、サイやアレクシアと共に戦って、己の世界は広がった。
今までも、そしてこれからも、沢山のものを見て、感じていけるのは、五年前、サミルとルーフェンが自分を助けてくれたからだ。
トワリスは、涙のたまった目で、ルーフェンを見上げた。
「召喚師様、私……私、伝えたいことが──」
「召喚師様ぁーっ!」
言葉を続けようとした、その時。
どこからか、聞いたことのない声が響いてきた。
ルーフェンの声でも、ロゼッタの声でもない、甲高い女性の声である。
声がした方に振り向くと、トワリスが来たのとは反対の長廊下から、金髪の女性が駆けてくるのが見えた。
装飾の多い豪華なドレスを着て、濃厚な香水の匂いを纏った女は、長いスカートの裾を持ち上げて、中庭に入ってくる。
女は、一直線にこちらに向かってくると、大きな胸を揺らして、ルーフェンに勢いよく抱きついた。
「こんなところにいらしたのね! お会いしたかったわ!」
言い様、女は背伸びをして、ルーフェンに口付けをする。
ひゅん、と涙の引っ込んだトワリスは、目の前で起きている光景が信じられず、凍りついたように立っていた。
この金髪の女性は、一体どこの誰だろうか。
身なりからして、どこぞの貴族のご令嬢だろうが、人が会話をしているところに突然現れて、しかも堂々と口付けを交わすなんて、いくらなんでも非常識過ぎる。
- Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下 ( No.186 )
- 日時: 2019/09/22 19:22
- 名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: NRm3D0Z6)
女は、ぽかんと棒立ちするトワリスには目もくれず、ルーフェンの首に白い腕を回した。
「今回の祭典には、召喚師様もいらっしゃるって聞いて、楽しみにしていたのよ。召喚師様ったら、ここのところ全然お相手してくださらないんですもの。私、とっても寂しかったわ」
いじけた様子で膨れっ面になるも、女は未だに、ルーフェンに抱きついたままだ。
ルーフェンは、それを拒否することもなく、へらへらとした笑みを浮かべた。
「ごめんね。最近立て込んでいて、なかなかアーベリトから離れられなかったんだ」
「最近? 嘘よ。ここのところ、ずーっとじゃない!」
ようやくルーフェンから離れると、女は声を荒らげ、ぷいっと顔をそらす。
ルーフェンは、苦笑して肩をすくめると、憤慨する彼女の手を取り、軽く口づけた。
「そんなに怒らないで。君には笑顔の方が似合うから、機嫌直してほしいな」
「…………」
ルーフェンがそう囁けば、女の頬が、ぽっと赤く染まる。
まだ顔は背けているが、彼女の機嫌がその一瞬で直ってしまったのは、見て取るように分かった。
ルーフェンは、女の手を離すと、トワリスの方に向き直った。
「……で、話の途中だったけど、なんだっけ?」
(な、なんだっけ……?)
ひくっと口元を引きつらせると、トワリスは、ルーフェンを見上げる。
なんだっけ、だなんて、どうしてそんなこと、何事もなかったかのように言えるのだろうか。
トワリスが、ずっと暖めてきた感謝の気持ちを、たった今伝えようとしていたことなど、ルーフェンは知る由もない。
けれど、五年ぶりの再会であったことは、トワリスにとっても、ルーフェンにとっても同じだったはずだ。
せめて「久しぶりだね、元気だった?」とか、「魔導師になれたんだね、おめでとう」とか、そういう一言くらい、言ってくれても良かったのではなかろうか。
思いがけない再会が、こうもあっさり完結してしまうなんて、こんなに悲しいことはない。
ふと目線をずらせば、金髪の女が、恨めしそうにトワリスのことを見ている。
さっさとどこかへ行け、とでも言いたげな表情である。
彼女からすれば、トワリスのほうが、ルーフェンとの逢瀬を邪魔する厄介者なのだろう。
最初にルーフェンと話していたのはトワリスなのだから、責められる謂れはないのだが、もしかしたら、ルーフェンとこの金髪の女性は、恋人同士なのかもしれない。
いや、口づけなんて交わしているくらいだから、きっとそうだ。
ともすれば、やはり去るべきなのは、自分の方なのだろう。
トワリスは、忙しなく視線をさまよわせながら、一歩後ずさった。
「いや、その……やっぱり、何でもないです。……すみません、邪魔をしてしまって……」
ちら、と二人の表情を伺いながら、軽く頭を下げる。
しかしルーフェンは、不思議そうに瞬くと、首を傾けた。
「すみませんって、何が? 邪魔だなんて思ってないよ。ごめんね、何か言おうとしてくれてたのに」
「え……」
ルーフェンの言葉に、思わず耳を疑う。
邪魔だなんて思ってない、ということはつまり、ルーフェンにとって、人前で誰かと抱き合ったり、口付けをしたりすることは、恥ずかしくもなんともない、日常茶飯事だということだろうか。
確かに、女から抱きつかれたとき、ルーフェンはそれを拒んだり、トワリスの方を気にしたりする様子はなかった。
普通、恋人同士だろうがなんだろうが、人目のある場所で触れ合うのは、抵抗があるものではないんだろうか。
それとも、貴族の間では、口づけなんて挨拶の一種なんだろうか。
折角気持ちが落ち着いていたのに、再び頭が混乱してくる。
今、目の前にいるルーフェンが、なんだか自分の知っているルーフェンとは、別人のように思えた。
柔らかい表情も、落ち着いた声音も、記憶の中の彼そのものであるが、昔と今のルーフェンでは、何かが違うような気がする。
五年前は、一緒にいれば心が暖かくなって、安心できたのに、今のルーフェンは、見ているだけで、胸の奥がざわついてくるのだ。
言い表しようのない感情が沸き上がってきて、目を白黒させていたトワリスは、不意に、何かが頬に触れた感覚で、はっと我に返った。
気づけば、ルーフェンが、トワリスの頬に触れている。
ルーフェンは、どこか心配そうな口調で、問いかけてきた。
「大丈夫? 顔、真っ赤だけど……」
銀の瞳に覗き込まれて、びくっと身体が強張る。
ルーフェンは、どういうつもりでこんなことをしているのだろう。
無自覚なのか、それとも意図的なのか。
もしかして、いや、もしかしなくても、ルーフェンはすごく女慣れしているのでは──。
そんな風に思った瞬間、言葉より先に、手が出てしまった。
「──うっ、うぎゃぁぁああっっ!」
奇声をあげ、ルーフェンの腕をはねのけると、トワリスは踵を返した。
ルーフェンのほうなど見向きもせずに、元来た廊下を、全速力で走り出す。
道中、驚いた侍従たちが、何事かと声をかけてきたが、それに返事をする余裕もなかった。
(な、なんっ、なんであんなこと、平然と……!)
暴れていた心臓が、いよいよ喉元まで迫っている。
トワリスは、心臓を吐き出さないよう、強く唇を引き結ぶと、そのままロゼッタの部屋へと駆け戻ったのだった。
- Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下 ( No.187 )
- 日時: 2021/04/14 17:04
- 名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: WZc7rJV3)
トワリスが蹴破るようにして扉を開けると、長椅子に腰かけていたロゼッタは、びくりと肩を揺らした。
「なに、どうしたの……? そんなに慌てて……」
ロゼッタが、訝しげに眉を寄せて、トワリスの方を見る。
本来なら、ノックもせずに主人の部屋に飛び込んできたことを責めるところだが、トワリスの様子に、これは只事ではないと察したのだろう。
トワリスは、ゆるゆると首を振ると、脱力して床に座り込んだ。
「す、すみません……ちょっと、色々あって……」
曖昧な答えに、ロゼッタが眉をしかめる。
読んでいた本をぱたんと閉じると、ロゼッタは、呆れたように嘆息した。
「色々って、一体なんですの? 厨房まで行っただけでしょう?」
その言葉に、はっと自分の両手を見る。
そういえば、ルーフェンとの衝撃的な再会で、すっかり忘れていたが、厨房から酒を取ってくるように頼まれていたのだった。
トワリスは、がっくりと項垂れると、ロゼッタに深々と頭を下げた。
「……申し訳ありません。お酒、取ってくるの忘れました」
「はあ!?」
長椅子から立ち上がって、ロゼッタが詰め寄ってくる。
トワリスの両肩を掴み、がくがくと揺らすと、ロゼッタは早口で捲し立てた。
「忘れましたって、じゃあ貴女は一体何をしていましたの!? ここから厨房まで、大した距離ないじゃない! そんな短い間に、何があったら本来の目的を忘れるっていうのよ!」
「そ、その、中庭で召喚師様とお会いして……」
「なんですって!?」
瞬間、ロゼッタが手を止めて、言葉を詰まらせる。
その栗色の瞳を、みるみる輝かせると、ロゼッタは足取り軽く、トワリスに背を向けた。
「それならそうと、早く言いなさいよ! 召喚師様ってば、もうご到着なさってたのね。早速お父様とお出迎えに行かなくちゃ!」
酒のことはもう頭から飛んだのか、一転してご機嫌な様子で、ロゼッタは化粧台に向かう。
トワリスは、肩を擦りつつ立ち上がると、ロゼッタに問うた。
「あの、どうして召喚師様が、ハーフェルンにいらっしゃっるんでしょうか? ロゼッタ様がお呼びになったんですか?」
長椅子に腰を下ろして、ロゼッタに向き直る。
ロゼッタは、緩く巻いた茶髪を梳かしながら、鼻歌混じりに答えた。
「ええ、そうですわ。五日後に開かれる祭典に向けて、各街の御領家をハーフェルンにご招待していますの。親交深いアーベリトに、声をかけないわけないでしょう? 陛下がおいでになるかどうかは分かりませんでしたけれど、召喚師様は、きっと来てくださると思ってましたわ。だって召喚師様は、私の婚約者ですもの」
「こんやく……!?」
思わず声が裏返って、長椅子から落ちそうになる。
トワリスの動揺ぶりに、ロゼッタは振り返ると、不可解そうに眉を寄せた。
- Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下 ( No.188 )
- 日時: 2019/09/28 19:52
- 名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: m1N/dDQG)
「あら、何をそんなに驚いていますの? 有名な話よ。私と召喚師様は、もう随分と前から、将来を誓い合った仲なの」
「そ、そうなんですか……」
手探りで背もたれを掴み、どうにか長椅子に座り直す。
考えてみれば、不自然な話ではない。
アーベリト、シュベルテ、ハーフェルン──この三街には、今や強固な繋がりがあるし、旧王都シュベルテを治めるカーライル家に、老齢のバジレットと赤ん坊のシャルシスしかいない以上、召喚師ルーフェンと、年頃の近いマルカン家のロゼッタが結ばれるのは、ごく自然な流れだ。
しかし、だとすれば、先ほど見たあの金髪の女性は、誰だったのだろうか。
あの密着具合は、どう見ても友人の距離感ではなかった。
(……もしかして、浮気? あれって浮気だよね?)
まさか、という思いが、頭の中を駆け巡る。
確かにルーフェンは、昔から、誰に対しても優しかった。
いつも穏やかな笑みを向けてくれる、その分け隔てない優しさに、つい惹かれてしまう気持ちは、トワリスもよく分かる。
だが、その気持ちに、ルーフェンがいちいち意味深で思わせぶりな返しをしていたのだとしたら、色々と問題が起こるだろう。
現に今、その問題に直面している。
ルーフェンは、ロゼッタという婚約者がありながら、他の女性に抱きつかれ、口づけまでされていたのだ。
(まあ、召喚師って立場なら、奥さんが複数いたっておかしくはないけど……。でもだからって、まだ本妻もいない内から、早々に浮気なんてする……? 位の高い人って、そんなものなの? ふ、不潔だ……)
ぞわっと、全身に鳥肌が立った。
正直、人前で平然と乳繰り合っている時点で少し引いたが、あれが浮気現場だったなんて、更なる衝撃である。
この五年間で、ルーフェンはどうして、そんな移り気な性格になってしまったのだろう。
それとも、トワリスが知らなかっただけで、元々ルーフェンはだらしない質だったのだろうか。
どちらにせよ、なんだか夢から覚めたような気分だ。
昔のルーフェンと、今のルーフェンが別人のようだと思ったあの時、自分が何に違和感を感じていたのか、なんとなく分かった。
今のルーフェンの笑みには、妙な色気があって、気を抜けば心を捕らえられてしまいそうだが、一方で、どことなく胡散臭さがあったのだ。
トワリスは、密かにため息をつくと、鏡と向き合っているロゼッタを一瞥した。
ロゼッタは、ルーフェンが浮気していることを、知っているのだろうか。
もし黙認しているならば、何も言うことはないが、知らずにいて、ルーフェンの訪問に喜び、こんな風にめかしこんでいるのだとしたら、可哀想で見ていられない。
ルーフェンはとんでもない、最低な男である。
- Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下 ( No.189 )
- 日時: 2019/10/01 18:06
- 名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: NRm3D0Z6)
トワリスからの視線を感じたのだろう。
ロゼッタは、口紅を引き終わると、トワリスの方を振り返った。
「さっきからなんですの? 人のことじろじろ見て……」
「えっ、あ、すみません……」
口ごもりながら謝罪をし、慌てて視線をそらす。
ややあって、落ち着かなさそうに手を組むと、トワリスは、控えめな声で言った。
「……あ、あの、ロゼッタ様。なんていうか、すごく、脈絡のないお話なんですが……」
再び化粧を続けようとしたロゼッタが、トワリスを見る。
トワリスは、意味もなく両手の指を絡ませながら、ぼそぼそと尋ねた。
「……その、う、浮気をする男性って、どう思いますか……?」
トワリスからの質問が意外だったのか、ロゼッタは、ぱちぱちと目を瞬かせる。
一度化粧台の席から立ちあがり、トワリスの隣に座ると、ロゼッタは、興味津々といった様子で、顔を近づけてきた。
「なに、トワリスってば、浮気でもされましたの?」
「い、いえ! 私の話ではないんですが……えっと、この前、私の知り合いの恋人が、別の女性と会ってるところを見てしまって……こ、これが浮気現場ってやつかぁと、しみじみ……」
しみじみって何だ、と自分に突っ込みを入れながらも、ロゼッタの顔色を伺う。
嘘が下手な自覚はあるので、突然こんな話題を出したことを不審がられないかと不安だったが、どうやらロゼッタは、自分とルーフェンのことだなんて思ってもいないようだ。
腕を組み、ふうと息を吐くと、ロゼッタは、背もたれに寄りかかった。
「勿論、良くないことだと思いますわ。ただ、浮気は男の本能って言いますし、浮気される側にも、全く問題がないとは言いきれないでしょう? 一概には片付けられないことじゃなくて?」
「な、なるほど……」
予想していたより寛大な答えが返ってきたので、トワリスは、思わず感心してしまった。
やはり、二歳しか違わないとはいえ、社交界を練り歩く領主の娘ともなれば、踏んできた場数が違うのかもしれない。
これまでも、いわゆる恋話っぽい話を振られたことはあったが、リリアナは白馬の王子様に夢を見ているタイプであったし、アレクシアは貞操観念がガバガバだったので、色恋沙汰とは無縁のトワリスでも、それはおかしいだろうと思うような会話にしかならなかった。
その点、ロゼッタの言葉には、重みと説得力が感じられる。
そもそも、ルーフェンとロゼッタの婚約だって、政略的な意味合いが大きいのだろうし、浮気されるくらい、ロゼッタにとっては大した問題ではないのかもしれない。
──と、安堵したのもつかの間。
不意に、ロゼッタの顔に影が落ちたかと思うと、ロゼッタは、低い声で呟いた。
「……まあ、この私を相手に浮気なんてしようものなら、そんな男、四肢を切り落として海に沈めるけれどね……」
(大問題だ、召喚師様が魚の餌に……)
まるで害虫でも見下ろしているかのようなロゼッタの横顔に、思わず震撼する。
やっぱり、浮気は良くないですよね、なんて当たり障りのない返答をして、トワリスは、必死に平静を装おうとした。
この場合、自分はどうすれば良いのだろう。
どうにかしてルーフェンと話す機会を作って、浮気をやめないと魚の餌になりますよ、と忠告すれば、事を収められるだろうか。
こういった色恋沙汰には、下手に介入せず、第三者は大人しく見なかったことにするのが正解なのだろうが、何しろ、相手が相手である。
浮気されていたなんてわかったら、ロゼッタ本人も怒るだろうし、彼女を溺愛するクラークが、一体どんな手段でルーフェンに報復するか分からない。
もし、本当にサーフェリアの守護者が魚の餌にでもなったら、痴情のもつれどころではない、国を揺るがす大事である。
(ぅう、なんで私が、こんなことで悩む羽目に……)
海に沈める、だなんて言っているくらいだから、ロゼッタはやはり、ルーフェンの素行を知らないのだろう。
人知れず、トワリスは頭を抱えたのであった。