複雑・ファジー小説

Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下 ( No.192 )
日時: 2019/11/14 03:36
名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: NRm3D0Z6)

 祭典に招待され、各街の権力者たちがハーフェルンに集まっていく中。
ルーフェンは、ほとんどの時間をマルカン邸で過ごしていたので、トワリスが彼と遭遇する機会は、想像以上に多くあった。

 婚約した間柄というだけあって、ルーフェンとロゼッタは仲睦まじいように見えたし、何より、領主クラークが、暇さえあればルーフェンを屋敷に呼んで、食事を共にしたり、街を案内したりしていたのだ。
ハーフェルンは、軍事面の大半を、召喚師率いるシュベルテの魔導師団に依存している街だ。
愛娘を差し出す父親としても、ハーフェルンの領主としても、やはり召喚師との繋がりは、後生大事にしていきたいのだろう。
基本的には、誰に対しても鷹揚で、人当たりの良いクラークであったが、ルーフェンには別格のもてなしを見せているのであった。

 結果的に、ルーフェンとクラークばかりが一緒にいることが多くなっていたので、「お父様ばかりずるい」と、ロゼッタが不満を爆発させるのに、そう時間はかからなかった。
トワリスを顎で使い、なんだかんだで悠々自適生活を楽しんでいたロゼッタであったが、四六時中部屋に籠っている生活が続き、鬱憤も溜まってきていたのだろう。
ある時、ロゼッタが、ルーフェンと二人きりで出掛けたいと言い出したのである。

 ロゼッタの願いであれば、どんなものでも二つ返事で叶えるクラークであったが、護衛もつけずに外出となると、流石にすぐには頷かなかった。
夕食に毒が混ぜられたのも、つい最近のことであるし、ロゼッタの命を狙う輩が、いつどこに潜んでいるのか検討がつかない。
まして今は、各街の要人たちが、ハーフェルンに集結しているような状態である。
平素より警備を強化しているとはいえ、ハーフェルン街内には、どんな危険が紛れこんでいるか分からないのだ。

 とはいいつつ、結局、折れたのはクラークの方であった。
自警団の目の行き届く市街地、そして、予め決められた場所にしか行かないという条件つきにはなったが、クラークは、ロゼッタが一日ルーフェンと外出することを許したのである。
他にもいくつか禁止事項を並べられたので、こんなに自由がきかないなんて嫌だと、ロゼッタは不貞腐れた。
だが、表向き彼女は、淑やかで大人しいお嬢様で通っている。
父親や臣下たちの前で、声をあげて駄々をこねるわけにもいかなかったらしく、ロゼッタは、渋々提示された条件を飲んだのであった。

(……だからって、なんで私が逢引に着いていかなくちゃいけないのさ……)

 ルーフェンとロゼッタの後ろ姿を見ながら、トワリスは、密かにため息をついた。

 クラークが出した条件の中には、トワリスの同行も含まれていた。
否、正確には、尾行である。
ロゼッタにばれることなく、二人を守るようにと、隠密行動をクラークから命じられたのだ。
クラークのことだから、念には念を入れ、トワリス以外の者にも尾行を命じているのだろう。
朝方、ロゼッタたちが屋敷を出発してから、昼時の現在に至るまで、どことなく複数人の気配を感じながら、トワリスは、二人の跡をこっそりと着けていたのであった。

Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下 ( No.193 )
日時: 2019/11/13 20:02
名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: NRm3D0Z6)


 露店の並ぶ通りを散策し、一通り買い物を楽しんだらしいロゼッタは、賑わう市街を抜けると、街で最も大きな閘門(こうもん)橋へとルーフェンを案内した。
ロゼッタは今日一日で、街の各所をルーフェンに紹介するのだと息込んでいたが、中でも自慢したいと言っていたのが、最近拡張予定のあるハーフェルン運河であった。
その名の通り、ハーフェルンにおいて、主要に使われている運河であるが、そこにかかる閘門橋から見える海、そして街並みは、ロゼッタ曰く絶景なのだという。

 現在、運河を拡張させるにあたり、閘門橋周辺の一般人の立ち入りは禁止しているので、そこまで行けば、ルーフェンとロゼッタは実質二人きりだ。
昼頃には橋を登って、二人で夕暮れを見ながら、甘い時間を過ごすのだと、ロゼッタは何度もトワリスに話していた。

 最初、運河の拡張は、ロゼッタがクラークにおねだりしたのだと聞いて、娘の一言でそんな大事を決めてしまうなんて、金持ちの考えることはやはり分からないと、呆れたものだ。
しかし、ルーフェンのために念入りにお洒落をして、何日も前から逢瀬が楽しみだと頬を染めていたロゼッタは、純粋に意地らしく、どこか眩しく見えた。
同時に、そんな健気な婚約者がいながら、別の女性にも思わせ振りな態度をとるルーフェンに、つくづく腹が立った。
一護衛に過ぎないトワリスが、口を出すことではないと、重々承知している。
それに、ロゼッタはロゼッタで、詐欺と言えるくらい裏表が激しい性格なので、全面的に彼女の味方をしたいかと言われると、正直そうでもない。
ただ、一途に相手を想うロゼッタの気持ちが、どうしてか痛いほど理解できたので、ルーフェンのへらへらとした態度を見ていると、無性に怒りがわいた。

 婚約者がいる身の上で、他の女性にも手を出そうなんて、そんな浮わついた生活をするのは、召喚師としての沽券に関わると思う。
けれども、再会して以来、任務に集中できないほどルーフェンに腹を立てていたことが、自分でも意外であった。
他人の恋愛事情なんて、あまり気にしたことがないし、それこそトワリスは、こういった事柄に人よりも疎いと思っていたので、こんなに心が掻き乱されるなんて、自分が自分ではないような気がした。

 いつものように、頑張れ、頑張れと自分を奮い立たせてみても、まるで身が入らない。
尾行だって、本当はしたくないはずなのに、なんとなく二人のやりとりが気になって、見てしまう。
周囲の人々に正体がばれないよう、ルーフェンとロゼッタは、外套の頭巾を深くかぶって行動していたが、それでも、時折見える横顔から、二人の楽しげな雰囲気が伝わってくる。
その度に、トワリスの中で、苛立ちが募っていくのだった。

 橋の上までついていくと、気配を悟られてしまうので、トワリスは、石造りの階段に身を潜めて、ロゼッタたちの様子を伺っていた。

 階段の中程に腰かけていたが、この高さからでも、家々の合間を縫って緩やかに流れていく、水路の道筋が見渡せた。
道の代わりに水を敷き、大小様々な水路が、華やかな街中を縫って流れていく。
その様は、港湾都市ハーフェルンでしか見られない、特有の光景だ。
閘門橋の一番上まで登れば、その水路や運河が、やがて集まり、海へと流れ出ていくところまで見えるのだろう。

 閘門は閉じていたので、運河の水面は凪いでいたが、時折穏やかな風に波立っては、陽光を反射してきらきらと光っている。
夕陽が沈む頃には、色を変えて、一層輝くはずだ。
このまま閘門橋に留まれば、ロゼッタの言う通り、さぞ美しい光景が見られるに違いない。

 ふと見上げれば、澄み渡った青空が広がっていて、海の方から吹いてくる風は、濡れた潮の匂いがした。
命令とはいえ、こうして隠れて、微かに聞こえてくるルーフェンとロゼッタの会話に聞き耳を立てていると、胸の奥底に罪悪感が膨れ上がってくる。
よく晴れた春の日差しが、トワリスの後ろめたい気持ちを、くっきりと照らし出しているようだ。

 トワリスは、細く息をつくと、耳をそばだてながら、膝の間に顔を埋めたのであった。

Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下 ( No.194 )
日時: 2020/03/03 00:09
名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: 8NNPr/ZQ)


 ロゼッタの手を取り、登ってきた階段の方を振り返ると、ルーフェンは、微かに目を細めた。

 クラークの命令で動いている監視役なのか、敵意のない気配も混じっているが、マルカン邸を出たときから、複数人の視線を感じていた。
市街でロゼッタの露店巡りに付き合っていた時は、人混みに揉まれていたので、探るのも面倒で無視していたが、こうして人気のない閘門橋まで上がると、嫌でも周囲に潜む気配を感じ取れてしまう。
左右の階段に一人ずつ、そして橋の下にもう一人。
うまく隠れている者もいるが、虎視眈々とこちらの隙を狙っている、不遜な輩も混じっているようだ。

 ルーフェンは、口元に薄く笑みを浮かべると、ロゼッタの方を向いた。
ロゼッタは、橋の欄干に掴まって、眩しそうに運河を眺めている。
ルーフェンが隣に並び、同じように欄干に寄りかかると、ロゼッタは、嬉しそうに運河を指差した。

「ねえ召喚師様、ご覧になって。この運河、昨年から更に広げていますのよ。完成したら、船も今より行き交うようになって、ハーフェルンが一層華やぎますわ。そうしたら、また私と一緒に、ここでお祝いして下さる?」

 ふわりと風に靡いた茶髪を耳にかけ、ロゼッタが言う。
ルーフェンが、もちろん、と返事をすると、ロゼッタの笑顔は、更に明るくなった。

「距離としては、どこまで?」

 問うと、ロゼッタの指先が、運河を辿る。
賑わう街を抜けた、更のその先──明色な海との合流点を指差すと、ロゼッタは答えた。

「閘門をあと三ヶ所、距離としては、文化都市ウェーリンまで伸ばすつもりですわ。そうすれば、ネール山脈との物資のやり取りも出来るようになりますもの。あそこと取引できたのは、ハーフェルンが初めてですの」

「へえ、あんな北まで」

 ルーフェンが、感心した様子で、肩をすくめる。
ロゼッタは、微笑みを浮かべたまま、自らの深紅の耳飾りに手を触れた。

「北方の鉱脈には、ハーフェルンも注目していますの。ネール山脈の周辺は、閉鎖的な街や村が多いから、門外不出になっているようですけれど、あの地域一帯で採れる鉱物は、装飾品としても魔石としても有用だって、お父様が仰っていましたわ。ほら、この耳飾りに使われているアノトーンという宝石も、北方から譲り受けましたの。綺麗でしょう?」

 指で弾けば、ロゼッタの耳飾りが、ちらりと光る。
次いで、ルーフェンのランシャムの耳飾りを一瞥すると、ロゼッタは続けた。

「召喚師様の耳飾りについた緋色の石も、北方でしか採れないってお聞きしましたわ。私ね、召喚師様とお揃いにしたくて、お父様に紅色の耳飾りをおねだりしたの。そうしたら、珍しい宝石ならネール山脈で沢山採れるから、運河の開通と同時に、北方は私が開拓してやるって、そうお約束してくださったわ。お父様ったら、召喚師様が以前、南のリオット族を使ってノーラデュースを開拓したことに、よっぽど感銘を受けたみたい。ネール山脈はハーフェルンが手に入れるんだって、すごく張り切ってますのよ」

 ルーフェンが、微かに眉をあげる。
その銀の瞳に笑みを閃かせると、ルーフェンは、一拍置いて答えた。

「それは光栄だな。リオット族の皆も、今の話を聞いたら喜ぶと思うよ」

「まあ、本当?」

 ロゼッタは、跳ねるようにルーフェンに向き直った。

「だったら、是非お話しして差し上げたいですわ。私は、リオット族の方々を野蛮だの、恐ろしいだの、そんな風に言うつもりはありません。むしろ、直接お会いしたいと思っていたくらいですもの。ハーフェルンとしては、いつでも大歓迎です。いかがかしら? なんなら、今からでも遅くはありませんし、今回の祭典にお招きしてもよろしくて?」

 上目遣いにルーフェンを見て、ロゼッタが尋ねる。
ルーフェンは、くすりと笑うと、肩をすくめてみせた。

「……気持ちは嬉しいけど、俺がちょっと困るかな」

「あら、どうして?」

 ロゼッタが、愛らしく首を傾げる。
ルーフェンは、彼女の手をとると、その薄い甲を、指の腹でゆっくりとなぞった。

「君との時間を誰かにとられるのは、惜しいから」

 瞬間、ぼんっと音を立てて、ロゼッタの顔が茹で上がる。
俯き、ルーフェンに握られた手を胸元で握りこむと、ロゼッタは、くるりと背を向けた。

Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下 ( No.195 )
日時: 2019/11/21 19:24
名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: NRm3D0Z6)



「あ、あの、耳飾り……さっき、召喚師様とお揃いにしたかったから、同じ赤系統の石を選んだって言ったでしょう? 実は、その、もう一つ意味があって……。願掛けもしていますの」

「願掛け?」

 ルーフェンが聞き返すと、ロゼッタは振り返らずに、こくりと頷いた。

「聞いたことありませんか? 対の耳飾りを分け合って、男性は左耳に、女性は右耳につけるんです。そうすれば、離れ離れになっても、再び対に戻れるっていう、古い言い伝え。二人で一つ、将来を誓い合った男女で交わす、おまじないみたいなものですわ」

 言いながら、左耳の耳飾りをはずすと、ロゼッタは、欄干の上から腕を伸ばした。
眩い陽の光に透かせば、その紅色の宝石が、朱や茜に煌めいて、色を変える。
恥ずかしいのか、緊張しているのか。
その指先を震わせ、耳まで真っ赤に染めながら、ロゼッタは、思いきった様子で唇を開いた。

「召喚師様は、命懸けのお仕事をなさっているわけですし、今はまだ、頻繁にお会いできるわけではないでしょう? だから……その、この耳飾り、もらっては頂けませんか?」

 光を反射しながら、耳飾りが揺れる。
ルーフェンが返事をする前に、ロゼッタは、どこか慌てたように付け加えた。

「召喚師様には、その緋色の耳飾りがありますから、つけてほしいなんて我が儘は言いませんわ。ただ、このアノトーンの耳飾りも持っていて下さったら、私達、いつも一緒にいられるような気持ちになれるでしょう? 持っているだけでも、願掛けに意味はあると思いますの。対であろうとなかろうと、昔から、耳飾りを大切な人に贈ったり、預けたりすることは──あっ」

「あ」

 不意に、握られていた紅色の耳飾りが、するりとロゼッタの指から滑り落ちた。
咄嗟にロゼッタが手を伸ばすも、耳飾りは、あっという間に運河の底に吸い込まれていく。
ロゼッタまで落ちないようにと気遣ったルーフェンが、橋の下を覗いた時には、もうすでに、耳飾りは見えなくなっていた。

「う、うそ……」

 呟いたロゼッタの目に、みるみる涙が溢れていく。
欄干から顔を出し、つかの間、耳飾りを目で探していたルーフェンであったが、やがて、姿勢を戻すと、やれやれと内心息をついた。

 手先に集中していなかったせいで、うっかり落としてしまったのだろうが、あんな小さな耳飾りを、広大な運河の中から見つけるのは、ほとんど不可能に近いだろう。
魔石か何かであれば、魔術で探し出す方法もあるかもしれないが、あの紅色の宝石は、見る限り希少価値が高いというだけの単なる貴石だ。
運河の水を全部抜いたところで、耳飾りも一緒に流れていくだろうし、水深があるので、人数を動員したところで浚うのも難しい。

 ここは、諦めがつくように説得して、それとなく話題を変えるしかないだろう。
そう思って、ルーフェンがロゼッタの肩に手を当てた──その時だった。

「──……」

 何かが、鳥の如く軽やかに、橋の欄干に降り立った。
陽の光が遮られて、目の前がふっと暗くなる。
それが、人の形をしていると悟ったとき、ルーフェンは、驚いて瞠目した。

 欄干の上なんて、足場としては不安定なはずだ。
それなのに、人影はまるでバネのように体を縮ませ、欄干を蹴ると、弧を描いて運河の中へ飛び込んでいく。

 到底、人とは思えぬ身軽さと、しなやかな力強さ。
水音も、人々の喧騒さえも耳に入らず、ルーフェンは、呆然とその姿を見つめていた。

「──ト、トワリス!?」

 焦ったようなロゼッタの声で、我に返る。
次いで、聞こえてきた着水音と同時に、困惑した民衆たちのざわめきがあがって、ルーフェンも、慌てて橋の下を覗いた。

 何が起きたのか、一体誰が飛び込んだのかと、口々に騒ぎながら、周囲に人が集まってくる。
当然だ。ここは、ただの浅い水路などではない。
閘門橋は、巨大な商船すら潜り抜けられるほどの高い位置に掛かっているし、運河自体の水深だって、そこらの川など比較にならないくらい深いのだ。

Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下 ( No.196 )
日時: 2019/11/27 23:46
名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: NRm3D0Z6)

 ふと振り返れば、トワリスが落としていったであろう双剣と外套が、橋の隅に打ち捨てられていた。
重りになるものは脱いでいった──つまり、彼女は意図的に、運河に飛び込んでいったということだ。

(一体、何のために……?)

 思わず息を飲んで、波立った運河を見つめる。
しかし、いつまで経っても、トワリスらしき影は水面に浮かんでこなかった。

 幸い、閘門が閉じているので、流されることはないだろうし、岩などが水中に潜んでいることもないので、障害物に激突するようなことはないだろう。
だが、そもそも着水の時点で気絶すれば、溺死する可能性だって十分にあり得る。

 よほど衝撃的だったのか、ふと額に手を当てたロゼッタが、ふらりと倒れる。
その身体を支えて横たえると、ルーフェンは、素早く外套を脱いで、欄干に足をかけた。
水面に走らせた視界が、一瞬ぼやける。
考えただけでも怯んでしまうほどの高さなのに、何の躊躇もなく飛び込んでいったトワリスの姿が、未だに信じられなかった。

 ルーフェンは、息を吸うと、勢いよく欄干を蹴った。
水中に飛び込んだ瞬間、板で殴られたような衝撃と、心臓が縮むような冷たさが全身を襲う。
立ち泳ぎをしながら、周囲を見渡していると、視界の端に、突き出した赤褐色の頭が映った。

(見つけた……!)

 水を掻いて向きを変えると、ルーフェンは、トワリスが沈んでいった方へと泳いだ。
秋口とはいえ、想像以上に水温が低い。
水流に飲まれて溺れることはなくとも、この水温では、あっという間に体温を奪われて、動けなくなってしまうだろう。

 大きく手を伸ばすと、指先に何かが触れた。
トワリスの腕と思われるそれは、しかし、掴んだと思った途端、するりと手の中から抜けていってしまう。
手が滑ったのではなく、掴んだ手を拒まれたような感覚だった。

「トワリスちゃん! 手、伸ばして!」

 叫んでから、今度はトワリスの胴を抱え込むようにして、引き上げる。
力ずくで水面に上げられたトワリスは、苦しげに顔を出すと、身体を反るようにしてルーフェンを押し退けた。

「はっ、離してください……!」

 冷えきってしまったのか、トワリスが、震える声で言う。
再び水中に潜ろうとする彼女の腕を、咄嗟に掴み取ると、ルーフェンは信じられぬ思いで、その身体を引き寄せた。

「馬鹿! 何考えてる!」

 らしくもなく声を荒げてしまったが、そんなことは気にも留めていない様子で、トワリスは腕から抜け出そうと暴れている。
唇の血の気もなく、身体だって氷のように冷たくなっているのに、この状況で水中に留まろうとするなんて、トワリスは一体何を考えているのか。
ルーフェンは、半ば強引にトワリスを抱えると、短く詠唱をした。
しぶき立っていた水面が、突然、意思を持ったように水嵩を増し、ルーフェンとトワリスの身体を押し上げる。
元々、水中のトワリスを巻き込みたくなかっただけで、彼女さえ保護できれば、後は魔術で脱出しようと思っていたのだ。

Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下 ( No.197 )
日時: 2019/11/27 19:00
名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: NRm3D0Z6)



 ルーフェンは、抵抗するトワリスを押さえ込んで、石造の岸辺にずり上がった。
閘門橋を見上げれば、騒ぐ人々がこちらを指差して、忙しく行き交っている。
この分なら、こちらが動かなくとも、じきに助けが来るだろう。
そういえば、気絶したロゼッタも、橋の上に放置してきてしまった。

 無理矢理引きあげられたトワリスは、ルーフェンの腕をはねのけると、咳き込みながら怒鳴った。

「どうして離してくれなかったんですか! 耳飾り、まだ見つけてなかったのに!」

「耳飾り……?」

 訝しげに問い返して、目を見開く。
トワリスが運河に飛び込んだのは、ロゼッタの落とした耳飾りを探すためだったのだと気づいて、ルーフェンは、思わず眉をひそめた。

「耳飾りって……まさか、そんなことのために飛び込んだの?」

「そんなこと……?」

 トワリスの声音に、押し殺したような怒りが混ざる。
きつくルーフェンを睨み付けると、トワリスは激昂した。

「あの耳飾りは、マルカン候がロゼッタ様に贈ったものなんですよ! 大切な宝物なんだって、前に言ってたんです! そんなことじゃありません!」

 トワリスの真剣な面持ちに、ルーフェンは、つかの間言葉を止めた。
ロゼッタの“大切な宝物だ”なんていう言葉に、おそらく深い含みはない。
あるとすれば、単純に宝石としての希少価値が高いから、“宝物だ”というだけである。
父親からの贈り物だとか、願掛けをしたとか、そんなロゼッタの綺麗な言葉に、さして重大な意味はない。
ロゼッタに限らず、貴族の娘とは大概そういうものであることを、ルーフェンは知っていた。
けれどもトワリスは、そんな彼女たちの言葉を、いちいち額面通りに受け取っているのだろう。
だから、こんな風に真剣になれるのだ。

 ルーフェンは、言葉を選びながら、小さく息を吐いた。

「……仮にそうだったとしても、飛び込むのは危ないよ。あんな高さから落ちて、下手したら、死んでたかもしれない」

「あの程度じゃ死にません。私はそんな柔じゃないです!」

「第一、あんな小さな耳飾り、運河の中から見つけられるわけないだろう? 浅瀬ならまだしも──」

「召喚師様が途中で割り込んでこなければ、見つけられました! 私一人だったら、耳飾りを持って自力で岸まで上がれてたのに……!」

「…………」

 この言い種には、流石のルーフェンも、むっと眉根を寄せた。
意地になっているのだろうが、どう考えたって、トワリス一人で耳飾りを見つけられたとは思えない。
閘門橋から飛び降りて、今現在こうして口論を交わせるくらいだから、柔じゃないという彼女の言葉も、嘘ではないのだろう。
けれど、ルーフェンが助けに入らず、長時間あの冷たい運河の中で揉まれていれば、どんな頑丈な人間でも、体力を奪われて動けなくなってしまっていたはずだ。

 言い返そうとして、しかし、トワリスの姿を改めて見ると、ルーフェンは口を閉じた。
飛び込んだときに水を飲んでしまったのか、何度か叫んだ後に、トワリスは苦しげにひゅうひゅうと喉を鳴らしている。
寒いのか、それとも怒り故なのか、その小柄な肩は、微かに震えていた。

 ルーフェンは、やりづらそうに嘆息した。

「……助けが不要だったなら、ごめんね。でもやっぱり、いきなり運河に飛び込むなんて、誰がやったって危ないよ。今回助かったのは、運が良かったからだと思った方がいい。……耳飾りはまた買えるけど、君は買えないだろう?」

 はっと見開かれたトワリスの目が、大きく揺れる。
何を言っても怒鳴り返してきていたトワリスは、突然戸惑ったようにうつむくと、黙りこんでしまった。

「……大丈夫? どこか痛む?」

 心配になって声をかけるが、やはりトワリスは、唇を閉ざしたままだ。
顔色を伺おうにも、彼女は下を向いているので、濡れた前髪に隠されてよく見えない。
トワリスの表情を伺うため、赤褐色の髪に触れようとした──その、次の瞬間。

「触んないで下さいこの変態っ! 不潔っ! 女ったらしーっっ!!」

 ルーフェンの反応速度を上回る速さで、トワリスの掌が飛んでくる。
怒号と共に、スパァンと鳴り響く、乾いた音。
トワリスの手が、ルーフェンの頬──というよりは顔面をぶっ叩いた音は、辺り一面に、高々に響き渡ったのであった。

Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下 ( No.198 )
日時: 2019/11/30 18:44
名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: NRm3D0Z6)


「君は一体! 何をしに行ったのかね!?」

 温厚さの欠片もない、太い声でクラークに怒鳴られて、トワリスは萎縮した。
落ち着いて、と宥めるように言って、ルーフェンは、クラークとトワリスの間に立つ。
召喚師の手前、怒りは抑えているようであったが、クラークの顔つきは、今にも殴りかかってきそうなほど険しかった。

 運河でびしょ濡れになったルーフェンとトワリス、そして倒れていたロゼッタは、無事に自警団の者達に助け出され、マルカン邸に戻ってきた。
事の成り行きを聞いたクラークは、ひとまずトワリスたちを着替えさせ、応接室に通すと、烈火のごとく激怒した。
ただ逢引の監視を命じただけなのに、そのトワリスが、突然運河に飛び込むだなんて奇行に走るとは、一体誰が予想できただろう。
結果的に、大事なロゼッタを気絶させ、賓客であるルーフェンまで全身ずぶ濡れにしたわけだから、クラークの中で、トワリスは重罪人に成り上がっていたのだった。

「黙っていないで、なんとか言ったらどうなのだ。この前の毒混入を許した件といい、役に立たぬだけならまだしも、君はなんなのだ。私の顔に泥を塗りたいのか?」

「……申し訳ありません」

 仏頂面で謝罪をするだけで、トワリスは、それ以上何も言わない。
何故非難されるのか、まるで納得がいかないという心の内が、そのまま顔に出てしまっている。
そんな態度が、一層頭に来るのだろう。
クラークは、わなわなと拳を震わせて、床に正座するトワリスを指差した。

「第一、何故運河なんぞに飛び込んだのだ! トワリス、君のせいで市街はちょっとした騒ぎになったのだぞ。召喚師様にまでお手間を取らせおって……!」

「まあまあ……私は大丈夫ですから」

 憤慨するクラークを、ルーフェンが諌める。
豪奢な椅子から立ち上がり、ばんばんと机を叩いて叫んでいたクラークは、ルーフェンに向き直ると、恭しく頭を下げた。

「召喚師様、なんとお詫びを申し上げてよいやら……。本当に医術師は呼ばなくてよろしいのですか? 頬が赤く腫れておりますが……よほど勢いよく顔面から着水なさったのですね」

「いや、そんな器用な着水はしてないですけど……」

 あはは、と苦々しく笑って、ルーフェンは、トワリスを一瞥する。
この頬の赤みは、他でもない、トワリスにぶん殴られたせいで出来たものだ。
しかし、そんなことを話せば、クラークはいよいよトワリスを厳罰に処すだろう。
彼女も彼女で、少しは弁解すれば良いのに、ぶすぐれた顔で沈黙しているだけだ。
こんな態度をとっては、クラークの頭に血が昇るのも仕方がない。

 ルーフェンは、やれやれと肩をすくめると、クラークに笑みを向けた。

「マルカン候、そう怒らないで下さい。別に彼女も、意味がなく運河に飛び込んだわけじゃないんです。実は──」

「──子供が!」

 仕方なく、代わりに弁解してあげようと口を開いたルーフェンの言葉は、しかし、当の本人、トワリスによって遮られた。
思わず声が大きくなってしまって、トワリスは、はっと口をつぐむ。
ルーフェンとクラーク、二人の視線を受けて、トワリスは、どこか辿々しい口調で告げた。

「……子供が、溺れているように見えたんです。それで、助けようと思って、飛び込んだんですが……私の勘違いでした。すみません」

「…………」

 クラークの顔が、怒りを通り越し、呆れに歪む。
ルーフェンは、少し驚いたように瞠目して、トワリスを見つめていた。

Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下 ( No.199 )
日時: 2019/12/02 20:58
名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: NRm3D0Z6)


 彼女が嘘をついた理由が、分からなかった。
ロゼッタのために、落とした耳飾りを取り戻そうとしたのだと説明すれば、クラークの怒りは幾分か解けたはずだ。
無鉄砲さに注意を受けることはあったかもしれないが、娘のために動いた臣下を処すほど、クラークは横暴ではない。

 その時、不意に、扉を叩く音が聞こえてきた。
クラークの返事を聞いて、一人の侍従が、部屋に入ってくる。
侍従は、入室と同時に頭を下げると、クラークに進言した。

「申し上げます。ロゼッタ様が、たった今、お目覚めになりました」

「おお! それは真か!」

 曇っていたクラークの表情が、ぱっと輝く。
足取り軽く扉まで向かってから、ふと振り返ると、クラークは言った。

「今日のところは、この話は終わりだ。トワリス、君の処遇については追って沙汰する。召喚師様は、どうぞこの後も我が屋敷でごゆるりと。何かございましたら、侍女までお申し付けを」

 それだけ早口で残して、クラークは、さっさと部屋を出ていってしまう。
静まり返った室内で、ルーフェンは、どうすべきかとクラークの机に寄りかかったが、トワリスは、少し体制を崩しただけで、未だ硬い床の上に正座をしたままであった。

「椅子に座ったら?」

 クッションのきいた長椅子を示して、ルーフェンが口を開く。
トワリスは、どこか強張った面持ちで、おずおずと長椅子に腰かけると、やがて、暗い声で尋ねた。

「……召喚師様は、怒ってないんですか」

「何に?」

「邪魔をしたことと、頬を叩いたことです」

「……それを言うなら、昔噛まれたときの方が痛かったよ?」

 冗談のつもりで言ったが、トワリスは、くすりとも笑わなかった。
ただ目を伏せ、床の一点を見つめながら、膝上に置いた拳をぐっと握っている。

 ルーフェンは、一拍置いてから、トワリスに問うた。

「どうして耳飾りのために飛び込んだんだって、説明しなかったの? 子供が溺れてると勘違いしたなんて、嘘でしょう?」

 トワリスの目が、一瞬、ルーフェンを捉える。
しかし、すぐにそっぽを向くと、トワリスは、ぼそぼそと答えた。

「……だって……耳飾りをとって戻れたわけじゃありませんし。わざとじゃなかったとはいえ、贈った耳飾りを娘がなくしたと知ったら、父親としては悲しいじゃないですか」

「…………」

 驚きの答えに、ルーフェンは、思わず絶句してしまった。
優しい、といえば聞こえはいいが、それはあまりにも意味のない、無駄な親切心であった。
ロゼッタにとってもそうだが、クラークにとっても、あの耳飾りはさして重要なものではないだろう。
そもそも、贈ったかどうか覚えていない可能性が高いし、仮に覚えていたとしても、数ある贈り物の一つに過ぎない。
あの耳飾りには、命をかけるような価値などないし、クラークを気遣うあまり、己の立場を危うくするだなんて、思いやりがあるというよりは単なるお人好しだ。
耳飾りを取り戻そうとしたのだと訴えて、自分の地位を守った方が余程利口である。

 ただの町娘として暮らすならば、優しさは美徳と言えるだろう。
しかし、トワリスが選んだ魔導師という道は、戦いに身を投じる中で、時には人を騙し、貶めることも必要になるはずだ。
それなのに、彼女は今まで、この愚直さで生きてきたのかと思うと、感心するのと同時に、言い知れぬ苛立ちや呆れのようなものも感じた。

Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下 ( No.200 )
日時: 2019/12/05 19:44
名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: NRm3D0Z6)


 ルーフェンは、顔に出さぬように、内心ため息をついた。

「……耳飾りがなくなったのは、君のせいではないし、正直に言えばよかったと思うよ。トワリスちゃんは、あの耳飾りがすごく価値のあるものだと思っているようだけど、多分そうじゃない。マルカン候の娘の溺愛ぶり、見てるでしょ? あの調子で、しょっちゅう娘に物を買い与えてる。あの耳飾りは、その中の一つでしかないよ」

「……どうしてそんなこと言うんですか」

 忠告のつもりで言ったが、それこそトワリスにとっては、不要な親切心だったらしい。
どこか不機嫌そうにルーフェンを見ると、トワリスは、言い直した。

「お言葉ですが、召喚師様こそ、人の気持ちを軽く見すぎじゃありませんか。あの耳飾りは、マルカン候からの贈り物であり、ロゼッタ様が召喚師様のために身に付けてたものでもあるんですよ。数日前から、嬉しそうに耳飾りを自慢してくるところを、私はずっと見てました。そういう背景を知らないくせに、そんな風に言わないでください」

「…………」

 いや、ロゼッタちゃんに限っては──と言いかけて、ルーフェンは口を閉じた。
トワリスは、見るからに頑なな態度で、ルーフェンを睨んでいる。
ここで何か反論をするのは、火に油を注ぐこときなるだろう。

 ルーフェンは、話を別の方向に向けた。

「でも、このままだと、君の立場が危ないかもしれないよ。マルカン候は、君が勘違いで運河に飛び込んで、騒ぎを起こしたと思い込んでる。相当ご立腹のようだったし、誤解を解かないと、屋敷から叩き出され兼ねない」

 ぴくりと、トワリスの睫毛が動く。
唇を噛むと、トワリスは、細く息を吐いた。

「……そうなっても、仕方ないのかもしれません」

 弱々しい声で、トワリスは続けた。

「……マルカン候には、感謝しているんです。ハーフェルンに来て振り回されることも多かったけど、私みたいな新人魔導師を、こんな大役に起用して、期待してるって言って下さった。経歴とか獣人混じりだとか、そういうことも気にせず、魔導師としての実力だけを見ようとして下さってたんです。マルカン候は、きっとそういう方で……だから、その上で、私じゃロゼッタ様の護衛は勤まらないって判断されたなら、仕方がないです」

 どこか諦めたような声音で、トワリスは言った。

「前にも、叱られたんです。ロゼッタ様の夕食に、毒が盛られていたことがあって、それを、私が見逃してしまったから……。今回の件も、耳飾りを取りに行こうとしたこと自体は、後悔していません。でも、結果的に皆さんに迷惑をかけてしまったので、見限られても文句は言えません。中途半端に辞めることになるのは悔しいですが、ここでしつこく食い下がって、ロゼッタ様を危険にさらしたら、元も子もない。暇を出されたら、大人しく魔導師団に戻って、修行し直します……」

 言い終えたあと、膝上に置かれたトワリスの拳に、ぎゅっと力が入ったのが分かった。
言葉だけは聞き分けの良いものだが、やはり、悔しいのだろう。
トワリスは、投げ槍になっているというより、ただ、良かれと行ったことが空回って、気落ちしているようであった。

 ルーフェンは、そんな彼女の顔つきを、しばらく意外そうに眺めていた。
クラークと対峙していたときは、仏頂面に見えたが、実際のトワリスは、騒ぎを起こしたことを気にしているようだ。
叱られてぶすぐれていた訳ではなく、単に緊張して、表情が固くなっていただけだったのかもしれない。

Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下 ( No.201 )
日時: 2019/12/09 18:52
名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: NRm3D0Z6)


(不器用というか、なんというか……)

 予想でしかないが、今までもこの堅すぎる性格が災いして、トワリスは痛い目を見たことがあったのではないだろうか。
そんなことを考えていると、トワリスが、居心地が悪そうにルーフェンを見上げて、言い募った。

「……召喚師様、やっぱり怒ってるんですか」

 そう問われて、はっと我に返る。
どうやら、トワリスのことを長時間凝視ししすぎたらしい。

 ルーフェンは、首を左右に振った。

「いや、そういうわけじゃないよ。殴られたところも、もう痛くないし。触られるのが嫌だったんでしょ? ごめんね、大した意味はなかったんだ。もう何もしないよ」

 笑みを浮かべ、何もしないという証明に、両手をひらひら上げて見せる。
トワリスは、少し罰が悪そうに目をそらした。

「いえ、その……私も、申し訳ありませんでした。いきなり、叩いたりして……。でも私、もう一つ謝らなければならないことがあって……実は、召喚師様たちのこと、尾行していたんです」

「…………」

 知っていたが、この後に及んで本人が打ち明けてくるとは思わず、ルーフェンは眉をあげた。
尾行していただなんて、それこそ言わなければ済む話なのに、どこまで馬鹿正直なのだろうか。

 ルーフェンは、肩をすくめた。

「……気づいてたよ。というか、それもマルカン候からの命令でしょう? 君が気にすることじゃない。トワリスちゃんはお金持ち連中の感覚にあまり慣れていないみたいだけど、基本的にご貴族様は、護衛も監視もなしに出掛けるなんてあり得ないんだよ。それが例え、ただのお散歩でも、何でもね」

 皮肉っぽく言うと、トワリスは、微かに眉を下げた。

「それは、まあ確かに何が起こるか分かりませんし、護衛がつくのは大事なことですけど……。でも、今回は召喚師様がいたし、無理に尾行する必要はなかったのかなと。だって、嫌じゃないですか? 折角その……こ、婚約者と出掛けてるのに、誰かに見られてるなんて……」

 どこか恥ずかしげに言って、トワリスは、視線を斜め下にそらす。
ルーフェンは、苦笑混じりに答えた。

「どうかな? まあ、親心もあるだろうし、いいんじゃない? 大事に育ててきた娘が人混みに出掛けるってなったら、そりゃあ心配だろうし、まして一緒にいる男が、俺みたいなフラフラした奴じゃあね」

 そう冗談混じりに返すと、トワリスの目が、大きく見開かれた。

「ご自分がフラフラの変態である自覚はあったんですね」

「……え? 俺、変態だと思われてたの?」

 あ、と声を上げて、トワリスが口を閉じる。
そういえば、運河で殴ってきた時も、変態だの不潔だのと、トワリスは叫んでいた気がする。

 いや、とか、あの、とか口ごもった末に、トワリスは、言いづらそうにぼやいた。

「……へ、変態、というか……だって、ロゼッタ様がいるのに、金髪の女の人と仲良くしてたじゃないですか……」

「金髪……? 誰だっけ?」

 ぱちぱちと瞬いたルーフェンに、トワリスが、怪訝そうに眉をしかめる。
信じられないものを見るような目つきになると、トワリスは、強い口調で言った。

「い、いたじゃないですか! 私と召喚師様が、この屋敷の中庭で偶然会ったとき! 金髪の、女の人が嬉しそうに来て、その、召喚師様と……」

 ごにょごにょと口ごもりながら、トワリスの語尾が、尻すぼみになっていく。
ルーフェンは、うーんと呟いて、それから、首をかしげた。

「そういえば、そんなことがあったかな。金髪の、髪長い子だっけ。それとも短い方?」

「まさか複数心当たりがあるんですか……」

 いよいよ本気で軽蔑し始めたのか、長椅子の右端に移動して、トワリスがルーフェンと距離を取る。
ルーフェンは、からからと笑うと、トワリスが座っている長椅子の、左端に座った。

Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下 ( No.202 )
日時: 2019/12/12 18:02
名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: NRm3D0Z6)





「そんなもんだって。いちいち真に受けて相手にしてたら、こっちが疲れるもん。……トワリスちゃんも、疲れない?」

 トワリスの眉間の皺が、更に深まる。
ぐっと伸びをすると、ルーフェンは、トワリスを見た。

「いきなりこんなこと言われても、余計なお世話だと思うかもしれないけどさ。もう少し、器用に生きなよ。でないと、自分ばっかり損するよ。世の中、ねじまがってる人間の方が多いから」

 眉を下げて、ルーフェンは、どこか困ったように笑う。
緊張感の欠ける軽い言い方に、トワリスは、刺々しい視線を投げた。

 二人きりで、こんなに近くで話したのは、再会してから初めてであった。
改めて思う。やはり今のルーフェンは、昔の彼とは別人のようだ。
言葉を交わし、目は合っているのに、なんだか今のルーフェンは、終始こちらを見ていないような感じがする。
言葉一つ一つも薄っぺらくて、言動は優しくとも、暖かみが感じられない。
滲み出るその軽薄さを、本人が隠そうともしていないところが、余計に腹立たしかった。

 運河から引きずりあげられたとき、一瞬、昔に戻ったような気がした。
そう感じさせたのが、ルーフェンの瞳だったのか、それとも声色だったのか、自分でも理由は分からない。
けれども、「君は買えないだろう」と言われたあの瞬間、ルーフェンが地下まで助けに来てくれた、幼かった頃の記憶が頭に蘇ったのだ。

 しかしそれも、今では自分の都合の良い思い込みだったように思える。
現在、少し離れた位置に腰かけるルーフェンは、トワリスのことなんて見ていないし、おそらくロゼッタにも、その他の人々にも、さして興味がないのだろう。
かといって敵意を見せることもなく、ただへらへらと笑って、甘い言葉を吐いているのだ。

 トワリスの中に沸き上がってきた、もやもやとした気持ちが、考えるより先に、口からこぼれ出た。

「……どうせ私は、不器用ですよ」

 ルーフェンが、トワリスを見る。
しまった、と思ったが、こみ上がってきたどす黒いものは、止める間もなく、濁流のように唇から溢れ出した。

「召喚師様みたいに器用な方は、私を見てると、馬鹿だなと思うんでしょうね。いちいち真に受けて、信じて憧れて、馬鹿だなぁって。そうなんですよ、私、馬鹿なんですよ。口うるさく注意するばっかりで、護衛としては何の役にも立たないし、空回ってばっかりだし……」

「いや、そんなつもりで言ったわけじゃないけど……」

 トワリスの極端な解釈に、ルーフェンが制止をかけてくる。
そんなことには構わず、地面を踏み鳴らすように立ち上がると、トワリスは声を荒げた。

「でも、あの耳飾りが本当にどうでもいいものだったかなんて、そんなの分からないじゃないですか! 少なくとも私は、大事なものなんだって思ったし、なくしたら、マルカン候もロゼッタ様も、悲しむだろうと思ったんです! 悪いですか? それで何か、召喚師様にご迷惑をかけましたか? かけてませんよね? 運河に飛び込んだのだって、召喚師様が勝手にやったことじゃないですか。私は助けてほしいなんて一言も言ってないし、自力で耳飾りを取って戻れました! ご存知の通り獣女なので、召喚師様よりもずっと頑丈だし、体力もあるんです! だから、余計なお世話だったんですよ!」

 トワリスの勢いに気圧されたのか、ルーフェンは、ぽかんとした表情で絶句している。
つい先刻ぶん殴った召喚師に、今度は暴言の数々。
そろそろ首を飛ばされてもおかしくないと、頭の片隅で考えつつも、トワリスの思考は、すっかり煮え立っていた。

「本当に、余計なお世話なんです……! だって、私がどうなろうと、召喚師様には関係ないじゃないですか。興味ないくせに、誰彼構わず無駄に優しくしたり、振り回したりして……そういうの不誠実だし、はっきり言って気持ち悪いです!」

 自分で言いながら、思いがけず目頭が熱くなって、トワリスは唇を震わせた。
八つ当たりが混じっている自覚はあったし、今更冷静ぶったところで遅いが、ここで泣くだなんて、感情的かつみっともない姿は晒したくない。

 ルーフェンは、未だ言葉が見つからないのか、目を丸くして固まっている。
トワリスは、ルーフェンに背を向けると、扉の方まで大股で歩いていった。

「数々のご無礼、不躾な発言、誠に申し訳ございませんでした! でも、もう知りません……召喚師様なんて、魚の餌にでも、海の藻屑にでもなればいいんですよ……!」

 そう言い放つと、トワリスは、勢いよく取っ手に手をかけた。
「魚の餌……?」と呆気にとられるルーフェンを振り返ることもなく、力一杯、扉を閉めて退室する。
扉が嫌な音を立てたことには、気づかなかったふりをして、トワリスは、その場から逃げるように立ち去ったのであった。

Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下 ( No.203 )
日時: 2019/12/15 19:51
名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: pRqGJiiJ)


(召喚師様の馬鹿! 馬鹿馬鹿馬鹿! 変態! 人でなし! でも、私が一番の、馬鹿……!)

 ずんずんと長廊下を進みながら、トワリスは、髪の毛をぐしゃぐしゃとかき混ぜた。
滅茶苦茶だ、もう何もかも。
発言も、思考も、全てが感情的で支離滅裂。
思い返すと、自分の非ばかりが思い起こされて、頭が痛くなった。

 ルーフェンは、ただ運河に飛び込んだトワリスを、親切心で助けてくれただけだ。
如何なる理由があろうと、いきなり高い閘門橋から飛び込むなんて危険だと、そう言った彼の言葉は、まさしく正論だった。
正論すぎて、つい感情的な返しをしてしまったのだ。

 ロゼッタの宝物だと思っていたから、耳飾りが運河に落ちたとき、考えもなしに追って飛び込んだ。
結果的に、多少怪我を負ったとしても、護衛としてまだ役に立てていない自分が、ロゼッタの想いを守れるなら、それでいいと思っていた。
だからこそ、ルーフェンに耳飾りの価値を否定されたとき、自分の行動と気持ちまで、一緒に否定されたように感じたのだ。

 ルーフェンは、何も知らない。
ロゼッタがどんな想いで着飾っていたのかも、トワリスがどんな思いで、一人前の魔導師を目指してきたのかも、何も知らない。
知る必要もないだろう。
国を護る召喚師が、一個人の思いにいちいち耳を傾ける道理はないし、興味を持つも理由ない。
ただ、興味がないならないで、そう振る舞えば良いのに、彼は甘い言葉を吐いて、上辺だけの笑みを浮かべるのだ。
まるで、適当にあしらっておけば良い、お前など眼中にない、とでも言うかのように。
そんなの、冷たくされるよりも、一層質が悪い。

 「もっと器用に生きなよ」と、へらへらと軽い調子で言われたときも、怒りが沸いた。
自分が不器用なことなんて、言われなくても分かっているし、意識するだけで要領良くなれるなら、とっくにそうしている。
不器用だから、不器用なりに頑張っているのに、簡単な一言で片付けられて、頭に血が昇った。
どれもこれも、ルーフェンの言うことは間違っていなかったが、あまりにも合理的すぎて、腹が立つ。
けれど、何よりも腹立たしかったのは、いちいち憤慨して、感情的になった自分が、次々にみっともない姿を晒してしまったことであった。

(……私、これからどうなるんだろう)

 ふと、怒り狂うクラークの顔が浮かんで、トワリスは立ち止まった。

 あの様子では、解雇されるのは確実だろう。
良くて解雇、もしくは地下牢行き、最悪、斬首を命じられる可能性もある。
流石に運河に飛び込んだことが、極刑の理由にはならないだろうが、トワリスは以前、ロゼッタが毒を口にしてしまったとき、クラークから「斬首にも値する失態だ」と釘を刺されている。
役に立たない上に、人騒がせで、おまけに召喚師に対して暴言と暴力を働いてしまったわけだから、重い処分を科されてもおかしくはない。
ルーフェンに怒っている様子はなかったが、彼に傾倒しているクラークが許してくれるかどうかは、また別問題である。
ロゼッタだって、結果的に逢瀬の邪魔をしてしまったわけだから、怒っているかもしれない。
ルーフェンの言う通り、あの耳飾りが、本当にロゼッタにとって大したものでなかったのなら、尚更である。

Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下 ( No.204 )
日時: 2019/12/18 18:58
名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: pRqGJiiJ)


 
 ひらりと舞った枯れ葉が、トワリスの足元に落ちた。
気づけばトワリスは、本館と別館を繋ぐ、吹き抜けの長廊下にぽつんと立っていた。

 ルーフェンと再会した中庭。
ロゼッタに使いっ走りされて、何度も往復した長廊下。
初めて見たときは、屋敷の中にこんなに広い庭があるなんて、と感動したものだが、今ではもう、すっかり見慣れてしまった風景だ。

 あるかないかの微風でも、薄っぺらの枯れ葉は、大袈裟なくらいに翻弄される。
意識しなければ、誰にも気づかれないような地面の上で。
のたうち踊り、いずれは踏まれ、散り散りになって、いつの間にか消えてしまうのだ。

 一歩中庭に出ると、廊下を走る葉擦れの音より、噴水の流れる音の方が強くなった。
留まることなく揺れる水面には、青い空が、ぼんやりと映り込んでいる。
そこに投影された、トワリスの顔もまた、重なる波紋に打ち消されて、朧気に震えていた。

 不意に、誰かに名前を呼ばれたような気がして、トワリスは顔をあげた。
周囲を見回してみても、近くに人の気配はない。
けれど、ぼそぼそと籠ったような囁き声は、確かに聞こえてきていた。

 耳を立て、声の元を辿って、長廊下に戻る。
やがて、それが自室のすぐ近くにある、ロゼッタの部屋から聞こえてくる声なのだと気づくと、トワリスは、思わず扉の前で足を止めた。
声の主は、クラークとロゼッタであった。

「──ろう、……じゃないか。トワリスは、まだ年若い魔導師だ。やはり、荷が重すぎたのだよ。わかっておくれ、これはロゼッタのためなんだ」

 耳を澄ませれば、扉越しでも、はっきりと会話が聞こえてくる。
一言、二言聞いただけで、すぐに分かった。
クラークが、トワリスを専属護衛から外すために、ロゼッタを説得しているのだ。

 トワリスは、ごくりと息を飲んだ。
いけないことだと思いつつも、このやり取りに己の命運がかかっているのだと思うと、その場から動けなくなった。

 次いで、躊躇いがちなロゼッタの声が聞こえてくる。

「でも……私、新しく別の魔導師が専属になるなんて嫌ですわ。若くたっていいじゃない。年の近い女の子の魔導師が良いって提案したのは、お父様だったでしょう?」

 ロゼッタは、逢引の邪魔をされたことなど気にしていないのか、トワリスを変わらず引き留めようとしてくれている。
魔導師としてのトワリスを、認めているからじゃない。
単に、自分の本性を知る人間を増やしたくないから、トワリスを残そうとしているだけだ。
もう、それでいい。それでも良いから、機会がほしかった。
諦めかけていたけれど、ロゼッタがトワリスを嫌っていないなら、まだ望みはある。
あともう一度。クラークたちの期待に応えられる、最後のチャンスだ。
クラークが、ロゼッタのお願いに、いつものように頷いてさえくれれば──自分はまだ、頑張れる。

 一枚隔てた先で、クラークが、再び口を開いた。

「それはそうだが、まさかロゼッタよりも年下の新人が来るとは思わなかったものだから……。加えて、偽の侍女にも気づかぬ、能無しときた。夕食に毒など入っておらんというのに、それすらも簡単に信じ込む始末」

 その言葉を聞いた瞬間、トワリスの目の前が、真っ白になった。

 今、クラークが口にしたのは、ロゼッタの夕食に毒が盛られた、あの夜のことを指すのだろうか。
夕食に毒が入っていなかっただなんて、そんな、まるでクラークが、最初から仕組んでいたかのような言い方である。

Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下 ( No.205 )
日時: 2020/03/13 21:54
名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: 8NNPr/ZQ)



 クラークは、付け加えるように続けた。

「とはいえ、ロゼッタがそんなにもトワリスのことを気に入っていると言うなら、屋敷から追い出そうとまでは言わんよ。獣人混じりだなんていう、特殊な出自の娘だ。他に行く宛もないだろうしな。元々、期待はしていなかったが、マルカン家には置いておくつもりで雇ったのだ。ほら……今の陛下や召喚師様は、そういうのがお好きだろう? 哀れな子供を引き取って、保護するような……そう、慈善活動、とでもいうのかね」

 そこから先の台詞は、もう耳に入ってこなかった。
周囲の音が遠のいて、代わりに、風に翻弄される葉擦れの音が、耳鳴りのように聞こえてきた。

 悲しいとか、悔しいとか、そんな感情は、特に沸いてこなかった。
ただ、濃い霧の中にいるようで、全てに現実感がない。
トワリスは、薄く濁った目の前を見つめたまま、ぼんやりと立ち尽くしていた。

(……なんで私、こんなに馬鹿なんだろう)

 ふと、ルーフェンの先程の言葉が、脳裏に蘇る。
まさしく、彼の言う通り。世の中、ねじまがった人間だらけだ。
ルーフェンも、クラークもロゼッタも、皆、皆、嘘ばっかり。
でもそれが、悪い訳じゃない。
トワリスだって、嘘の一つや二つ、ついたことはあるし、周りが嘘つきばっかりなのだから、自分だって、嘘をついて自衛していかなきゃ、上手く生きていくことなんてできないのだろう。
無闇矢鱈に信じて、舞い上がっているほうが馬鹿なのだ。

 大きく息を吸い、扉に背を向けたとき。
白濁していた視界が、ぼやけて歪んだ。

 そもそも自分は、期待しているだなんていうクラークの言葉を、どうして鵜呑みにしていたのだろう。
つい最近、魔導師になったばかりの小娘なんて、期待されなくて当然なのに。
おおらかに笑ってクラークが言った台詞は、言わば、やる気を出させるための、空世辞といったところだろう。
それを信じて、無駄に意気込んでいたのは、トワリスの勝手だ。
クラークの仕組んだ罠に気づけず、毒入り事件を見抜けなかったのも、結局は自分が未熟なせい。
最終的に、真実を盗み聞きして、落ち込んでいるのもまた、トワリスの自業自得である。
そうだ、全部全部、単純で空回りばかりする、自分が悪いのだ。

(……こんなことで、不貞腐れるな。……良かったじゃないか、処罰は免れそうで……)

 そう自分に言い聞かせながら、トワリスは、は、と短く呼吸を繰り返した。

 期待されていなかったからといって、何だと言うのか。
実際、経験も実績もない新人なのだから、今回、たまたま専属護衛に選ばれたことが、奇跡みたいなものだったのだ。
そんなことより、先程の会話内容からして、斬首を命じられるようなことはなさそうだから、それで良しとしよう。
むしろ、あれだけ失態を重ねても、まだ屋敷に置いてもらえるというのだから、運が良かったととるべきだ。
どんな理由だったとしても、魔導師として誰かを守る機会を与えてもらえるなら、いつか必ず、挽回できるチャンスが訪れる。
そう、どんな理由、だったとしても──。

「……っ、は……」

 全身に、ぶわっと冷たい汗が噴き出した。
喉の奥から突き上げてこようとするものを抑え、なんとか一歩、一歩と足を動かす。
やがて、自室の扉の前までたどり着いたとき、不意に、ぐらりと目の前が回って、気づけば、トワリスは床に手をついて、うずくまっていた。

「……はっ、は、っ……」

 そうか、と思った。
そうか、自分は、可哀想だからハーフェルンに引き取られたのだ。

 ロゼッタに合いそうな珍しい女魔導師だからとか、期待はできないにしても実力は見込めそうだからとか、そんな話ではない。
もはや、魔導師としてすら認識されていなかった。
居場所のない、哀れな獣人混じりを保護したら、きっとアーベリトのサミルやルーフェンが注目してくるだろうと思ったから、クラークは、トワリスを雇ったのだ。
だからきっと、ロゼッタを守れなくても、急に運河に飛び込んでルーフェンに迷惑をかけても、なんだかんだで、「まあいいか」と見逃されたに違いない。
だって自分は、可哀想だから──。

「は、はっ、っ、はっ……」

 狭まってくる呼吸をどうにか整えようとしながら、トワリスは、胸を抑えた。

 大丈夫、だから何だ。
獣人混じり扱いされることには慣れているし、何度も言い聞かせている通り、魔導師として認められないなら、認められるように自分が頑張ればいいのだ。
平気だ、まだ頑張れる。体力には自信がある。
走って、走って、ここまで上り詰めたのだから、これからだって、もっと、もっと──。

(……頑張れる? 本当に……?)

 ふと耳元で、もう一人の自分が、そう囁いた。

 息が、苦しい。
全力疾走した後だって、こんなに呼吸を乱したことはないのに、吸っても吸っても、息苦しさが加速する。
身体が痺れて、鉛のように重い。
走りすぎて、脚が痛くて、もう立ち上がることすら出来ないように思えた。

 肺が震えて、空気の代わりに水でも吸い込んだかのように、ごぼごぼと咳き込む。
いよいよ息が吸えなくなって、激しく喘鳴すると、トワリスはその場に倒れ込んだのだった。

 

To be continued....