複雑・ファジー小説

Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下 ( No.206 )
日時: 2020/03/13 21:57
名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: 8NNPr/ZQ)

†第四章†──理に触れる者
第三話『結実』



 ロゼッタが倒れたというので、一時騒然となったマルカン家であったが、それから二日も経つと、祭典前の忙しさに、そんな話題はついぞ聞かなくなった。

 セントランスの支配下から脱した、歴史的な記念日を祝う、ハーフェルン最大の祭典。
毎年秋頃、七日間にも渡って開催されるこの祭りは、サーフェリア全体から見ても大規模な催しで、ただですら人口密度の高いハーフェルンの中央通りは、一層の賑わいを見せていた。
街の随所から吊るされた布飾りは、風に揺られて優雅に躍り、時折遠くから響いてくる汽笛の音は、共に潮の匂いを運んでくる。
祭りは明日からだというのに、既に盛んな呼び込みや声かけが行われ、陽気な笛吹を囲みながら、はしゃいで走る楽しげな子供たちの声が、屋敷の中にまで聞こえてきていた。

 祭典の直前ともなれば、ルーフェンばかりを特別扱いするわけにもいかず、クラークやロゼッタは、他の参加者たちの饗(もてな)しにも励むようになった。
民にとっては楽しい祭りでも、権力者たちにとっては、貴重な外交の場である。
特に、商業で発展してきたハーフェルンにとって、他街との関係性は重要なものだ。
ハーフェルンへの滞在期間中、遠く遥々やってきた各街の領主たちを少しでも満足させようと、クラークに余念はないのであった。

 目の回るような忙しさの中でも、ルーフェンと話すときは、ロゼッタは常に完璧な笑みを浮かべていた。
それは、ルーフェンもまた同じことであったが、今回に限っては、主催者側であるロゼッタのほうが、気苦労の絶えない状況が続いているだろう。
しかし、どんな状態であっても、相手の好む対応をして見せられるのは、ロゼッタの出色の特技だ。
数日ぶりに言葉交わしたその日も、ロゼッタは、一切疲れを感じさせない微笑みで、ルーフェンを見ると話しかけてきた。

「まあ、召喚師様、ごきげんよう。お互いずっと屋敷内にいたのに、なんだか凄く久々にお会いした気分ですわ」

 長廊下に伸びる絨毯の上を跳ね、見事な刺繍を施した薄手のスカートを揺らして、ロゼッタは頬を染める。
ルーフェンは、挨拶代わりに彼女の手の甲に口付けると、同じくにこりと微笑んで見せた。

「そうだね。見かけることはあっても、なかなか話す時間はとれなかったからね。今は大丈夫なの?」

「ええ。ちょうどこの前お話しした、ハザラン家の方々とのお食事が終わったところですの。お父様ったら、すっかり話し込んでしまって……」

 呆れたように眉を下げて、ロゼッタが苦笑する。
つられたように笑むと、ルーフェンも、肩をすくめた。

 ロゼッタの父、クラークは、とんでもなく話好きであることで有名だ。
退屈しないという意味では良いかもしれないが、会食など開こうものなら、終始口を動かしているので、いつまで経ってもお喋りが終わらない。
ここのところ、ルーフェンとロゼッタが話す暇さえなかったのも、クラークの話が長いことが原因の一つであった。
忙しいとはいっても、同じ屋敷の中にいるわけだから、二人が顔を合わせる機会など、いくらでもあった。
だがクラークは、ことあるごとに、ロゼッタを連れて賓客相手に話し込んでいるのだ。
流石のロゼッタも、盛り上がっている父を残して、ルーフェンの元に行くわけにはいかなかったらしい。
見かける度に、惜しむような視線を投げ掛けてくるロゼッタに対し、ルーフェンも苦笑を返すしかなかったのである。

Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下 ( No.207 )
日時: 2019/12/30 19:22
名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: pRqGJiiJ)


 見かける度に、と考えたところで、ルーフェンは、いつもロゼッタの隣に仏頂面で立っていた、獣人混じりの少女のことを思い出した。
そういえば、運河に行ったあの日以来、トワリスのことを見かけていない。
あの一件が原因で、ロゼッタの専属を外されていたのだとしても、屋敷で生活している以上、全く姿を見ていないというのはおかしな話である。
まさか、早々に屋敷から追い出されたか、あるいは自分から出ていったのだろうか。

 ルーフェンは、唇に笑みを刻んだまま、事もなげに尋ねた。

「そういえば、あの護衛役の子は? ほら、前は四六時中、君にべったりだったでしょう」

 一瞬、誰のことを言っているのか分からなかったのか、ロゼッタは、こてんと首をかしげた。
しかし、すぐに思い立った様子で頷くと、困ったように眉を下げた。

「ああ、えっと……トワリスのことですわよね? 獣人混じりの。実はあの子、私の専属護衛からは、外れてしまいましたの」

「…………」

 やはりか、と内心一人ごちて、ルーフェンは密かに嘆息した。
元はといえば、ロゼッタが運河に耳飾りを落としてしまったことが原因だが、あれだけの騒ぎを起こしたのだ。
クラークも相当頭に血が昇っているようであったし、何かしら処分を受けることになってもおかしくないとは思っていた。

 ロゼッタは、探るようにルーフェンを見やってから、悲しげに目を伏せた。

「私はトワリスのこと、すごく気に入っていたから、止めましたのよ。だけどお父様は、もっと経験豊富で、頼りになる魔導師が良いだろうって……。こちらから護衛になってほしいって呼んだのに、トワリスには、なんだか申し訳ないことをしてしまいましたわ」

 次いで、ルーフェンの顔を覗き込むと、ロゼッタは続けた。

「でもね、トワリスを専属護衛から外した一番の理由は、彼女のためでもありますの。あの子ったら、相当無理をしていたみたいで、この前、急に倒れてしまったんですもの」

「……え、倒れた?」

 思いがけない返事に、ルーフェンが目を瞬かせる。
ロゼッタは首肯すると、心配そうに胸の前で手を合わせた。

「急なことで、私もびっくりしましたわ。大きな音がして、廊下に出てみたら、私の部屋の近くでトワリスが倒れているんですもの。ほら、あの日ですわ。私と召喚師様で、運河まで行った日の午後。……とはいっても、もうお医者様に診て頂きましたし、その日のうちに目を覚ましたんですけれどね。トワリス自身も、何でもないから大丈夫とは言っていたのだけれど、念のため、休暇を言い渡して、今も医務室で休ませていますの。トワリスって真面目だし、ハーフェルンに来てから環境が変わって、ずっと気を張っていたんじゃないかしら。お医者様も、疲れが溜まっていたようだから、しばらく休めば大丈夫だろうって、そう仰ってましたわ」

 だから安心してほしい、とでも言いたげに、ロゼッタが見上げてくる。
そんな彼女の両耳で、ちらりと紅色の耳飾りが揺れて、ルーフェンは、微かに目を細めた。

 毎日変わるロゼッタの装飾品なんて、それほど気に止めたことはなかったが、その対の耳飾りだけは、妙に目についた。
運河に落として、片方だけになった、あの耳飾りではない。
別物だが、限りなくそれに似た、紅色の耳飾りであった。

(……ほら、やっぱり)

 今、目の前にトワリスがいたら、そんな心ない一言を、投げ掛けていたかもしれない。
そう思うくらいには、ルーフェンの胸の奥底に、呆れのような、苛立ちのようなものがぶり返していた。

 トワリスが命がけで取りに行ったあの耳飾りは、ロゼッタにとっては、やはり数ある贈り物の一つに過ぎず、いくらでも替えの利く存在だったわけだ。
そしてロゼッタは、トワリスを案ずる言葉を並べ立てながら、その一方で、何食わぬ顔で代わりの耳飾りをつけてしまうような、そういう価値観の人間なのだ。

Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下 ( No.208 )
日時: 2020/03/03 00:32
名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: 8NNPr/ZQ)

 ロゼッタには、悪意などないのだろう。
単に、お気に入りだった耳飾りを片方落としたから、似たような代わりをつけることにしただけで、彼女にとっては、それが普通なのだ。

 権力者の“普通”は、大抵どこかぶっ飛んでいる。
まず、臣下は主に尽くすのが当然だと思っているし、今回に関して言えば、トワリスが耳飾りを追って運河に飛び込んだことなど気づかず、疲れて気でも触れたんじゃないかと思っている可能性がある。
勿論、一概にそう断言するつもりはないが、金持ちの感覚とは、大概そんなものだということを、ルーフェンは嫌になるほど分かっていた。

 ルーフェンの視線が、自分の耳飾りに向けられていることに気づくと、ロゼッタは恥ずかしげ俯いた。
そして、左耳から耳飾りを外すと、それをルーフェンに差し出した。

「前の耳飾りは、私が運河に落としてしまったから、結局お話が途中になってしまいましたわね。……これ、差し上げますわ。アノトーンではないのだけれど、同じく北方で採れた石でできてますの。もらってくださる?」

 控えめな、けれど断られるなんて考えてもみないような口調で、ロゼッタは、ルーフェンの手に耳飾りを握らせる。
されるがままに受け取ったルーフェンは、ロゼッタの片耳で光る耳飾りを、つかの間、じっと見つめていた。

(……片耳だけ、なら)

 片耳だけつけている状態なら、それこそ、前に運河に落とした耳飾りの片割れを、ロゼッタが大事に身に付けているように見えるだろうか。
同じ紅色で、似たような耳飾りだから、余程注目して見ていた者でなければ、別物だなんて分かりはしない。
トワリスだって、近くで凝視でもしない限りは、別の耳飾りだなんて判別できないだろう。
ロゼッタにとって、あの落とした耳飾りが大切なものだったのだと分かったら、例えそれが勘違いでも、トワリスの気持ちは、幾分か救われるだろうか。

 そんなことを一瞬考えて、ルーフェンは、慌てて思考を振り払った。
トワリスの行動を、無駄な親切心だと内心揶揄ていたのに、今度は自分が頼まれてもいないお節介を焼こうとするなんて、とんだ笑い種である。

 ルーフェンが黙っているので、不安に思ったのだろう。
どこか戸惑った様子で見上げてきたロゼッタに、ルーフェンは、すぐに笑みを浮かべると、受け取った耳飾りを懐にしまった。

「ありがとう、大事にするよ。……願掛け、してくれてるんだもんね?」

 そう返事をすれば、ぱっと表情を明るくしたロゼッタが、深く頷く。
ルーフェンは、そんな彼女の左耳に残った耳飾りに触れると、自ら敬遠して振り払ったはずの思考とは裏腹に、口を開いて、言った。

「……じゃあロゼッタちゃんも、この耳飾り、大事にして、ずっとつけていてね」

 ぽっと染まった頬に手を当て、ロゼッタが、こくこくと頷く。
照れ臭くなったのか、目線を落としてしまったロゼッタに、ルーフェンははっと手を止めると、それ以上何も言わなかった。

Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下 ( No.209 )
日時: 2020/01/09 19:08
名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: pRqGJiiJ)



 ロゼッタと別れた後、ルーフェンも他街の賓客と話したり、持ち込んだ事務作業などをして時間を潰していたが、ふと気を抜くと、頭の中で、先程のロゼッタとのやりとりが再生されていた。
トワリスが気づくかどうかも分からないのに、ロゼッタに「耳飾りを大事につけていてほしい」だなんて、果たしてそこまで、口走る必要があったのだろうか。
ロゼッタが、こんな甘い囁き合いは、単なる戯れだと線引きできる相手であることは分かっている。
だから、これといって大きな問題はないのだが、それでも、自分がろくに考えもせず、半ば衝動的にあんな発言をしてしまったことが、驚きであり、また後悔するところでもあった。

 言葉でも行動でも、考えずに実行すると、意図せず大きな影響をもたらすことがある。
例え上辺だけのものでも、相手によっては、冗談では済まないことがあるのだ。
特に上層階級の人間と話すときは、どんな些細な会話、やりとりをしているときでも、いつも頭の片隅には、本当にその行動が正しいのか、慎重に推考を重ねている自分がいる。
たかが“婚約者ごっこ”をしている者同士の、意味のない睦み合いだと一蹴してしまえばそれまでだが、何かに執着を見せるような物言いをしてしまったことが、ルーフェンにとっては誤算であった。
相手がたまたまロゼッタだったから良かったものの、執着を見せるというのは、弱みを見せるのと同じようなことだ。
立場上、いつどんなことが脅迫手段に利用されるか分からない。
今ならそうと、冷静に判断できるのに、何故あの時、ろくに考えもせずに耳飾りを受け取って、あろうことか「大事にして」だなんて発言をしてしまったのか。
どれもこれも、うっかりトワリスを気遣ったせいである。

 褪せていく夕陽の光を見つめながら、ルーフェンは、悶々と考えを巡らせていた。
窓から差し込んでいた西日が途絶え、やがて、辺りが暗くなると、ひんやりとした夜の空気が、足元から這い上がってくる。

 灯りもつけず、ただ椅子に腰掛けて、部屋の一角を眺めていると、ふと、寝台と壁の隙間に、かつての幼かったトワリスが、うずくまっているように見えた。
暗闇に怯え、血が滴るまで手首に噛みつきながら、その小さな背を震わせていた。
周囲を拒絶し、身を振り絞るようにして泣いていた彼女の姿が、ひどく痛々しく、弱々しく目に映ったのを思い出す。

 トワリスが倒れた、と聞いたが、原因は一体なんなのだろう。
ロゼッタは疲れだと言っていたが、トワリスは、冷たい運河に飛び込んだ後も、悠々と歩いていたような娘だ。
肉体的にというよりは、きっと精神的に、負担になるようなことがあったに違いない。
失敗と不運が重なって、専属護衛を外されたことが悲しかったのかもしれないし、獣人混じりだなんていう特殊な出自だから、今まで何かしら、嫌がらせを受けてきたことがあったのかもしれない。
あるいは、ルーフェンの言った、ロゼッタにとってあんな耳飾りは大したものじゃない、という言葉が、トワリスにとっては余程ショックだった可能性もある。

 何か辛いことがあったのか、なんて尋ねたところで、おそらくトワリスは、何も答えない。
ロゼッタにも、別に何でもないと答えたようだし、ルーフェンが問うたところで、結果は同じだろう。
そういう娘(こ)なのだ、今も、昔も。
思えば、アーベリトで一緒に暮らしていたときから、トワリスは、助けてやると言っているのに、その手を振り払って、噛みついてくるような子供だった。
かといって、一人で何でもこなせるほど、器用なわけではない。
むしろ、見ているこちらが気を揉むくらい不器用で、抱える不安を吐き出すのも下手くそなのに、それでも唇を噛み締めて、一直線に走っていく。
疲れても、傷ついて倒れても、そういう生き方しかできない、呆れるほど頑固で、真っ直ぐな娘なのだ。
──そう思った時には、ルーフェンは、上着を羽織って部屋を出ていた。

Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下 ( No.210 )
日時: 2020/01/13 19:19
名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: pRqGJiiJ)



 日が暮れ落ちて、燭台の炎だけがぼんやりと光る長廊下に出ると、辺りは、染み入るような静けさに包まれていた。
警備の者以外は、既にその日の業務を終え、自室に戻ったのだろうか。
もしかしたら今は、もう人々が寝静まる時間なのかもしれない。
時刻も確認していないし、そもそも、ロゼッタの言っていた医務室とやらに、確実にトワリスがいるかどうかも定かではない。
それでもルーフェンは、何かに突き動かされるような形で、足早に長廊下を抜けた。

 別館へと足を向け、吹き抜けの廊下に出れば、冷たい空気が肌をさする。
無情な夜風にさらわれて、足元をからからと転がっていく枯れ葉を見ながら、ルーフェンは、今までトワリスと交わした会話の端々を、ぽつぽつと思い返そうとした。

 いきなり運河に飛び込んでおいて、やれ助けは不要だっただの、余計なお世話だっただのと喚き出したときは、なんて面倒臭い女だと内心呆れたが、思えばトワリスは、出会ったときから扱いが面倒臭かった。
異様に足が速いから、捕まえるのも一苦労だったし、ようやく捕まえたと思えば、噛むは蹴るわの大騒ぎで、こちらは傷だらけになった。
怪我を手当てしてやろうとしているのに、唸って威嚇してくるし、食事を持っていっても、怯えて暴れて熱いスープをぶっかけてくる始末。
その様は、少女というより、まるで野生動物のようで、それでも諦めずに接して、ようやく少し打ち解けてきたかと思いきや、最初に懐いたのはルーフェンではなくサミルだったので、微妙な気分になった記憶がある。

 アーベリトで一緒に暮らしていく内に、やがて、トワリスも落ち着いて、ルーフェンに着いて回るようになったが、やはり彼女は不器用で、いまいち難しいところがある少女であった。
口下手ながらに必死に言葉を紡いで、遠慮がちにルーフェンの側に座っていたり、文字を教えてほしいと乞う姿は、手のかかる妹のようで可愛らしくもあったが、やはり、肝心な心の内は、なかなか明かさないところがあったのだ。

 街に連れ出してみても、露店に並ぶ品々や、目新しいものに逐一目を輝かせはするものの、眺めるだけで、子供らしく欲しいとは絶対に言わなかった。
地下に閉じ込められていた記憶が蘇るのか、夜闇が苦手で、上手く寝付けなかったときも、その理由を口に出すことさえしていなかったように思う。
最初はまだ泣くことが出来ていたのに、いつしか、涙すら飲み込んで、一人で堪えるようになっていた。
何かに耐えている時ほど、トワリスは、頑なに唇を結んでいる。
こちらもあえて問いただしはしなかったが、助けてだなんて言われたことがない。
だからこそ、目が離せなくて、放っておけなかったのだ。

 本音を表に出すまいとする気持ちは、ルーフェンにもよく分かる。
本心などさらけ出したところで、それが認められるわけではないし、今更誰かに、助けてほしいなどと考えることもない。
周囲から差しのべられた手を拒絶して、一人、部屋の隅で身悶えしていた幼いトワリスを見て、彼女と自分は、似ているのかもしれないと感じたことも、しばしばあった。
ただ、ルーフェンとトワリスで違うのは、きっと、彼女の場合、言わないのではなくて、言えないのだ。
不器用故に、上手く本音を伝えることができず、身の内に留める術しか持っていないのである。

 感情表現が下手くそで、存外に控えめのかと思いきや、そのくせ頑固ではあるので、一度思い込むと一人で突っ走りがちだ。
だから、周囲に上手く溶け込めるように、こちらが彼女の心の内を読み取って、手助けしてやらねばと、十五のルーフェンも、子供ながらにそう思っていた。

 特殊な出自ではあるが、トワリスは、心優しいごく普通の少女だった。
ルーフェンのように、己を縛る立場も、役割もないわけだから、人と馴染めるようになりさえすれば、アーベリトの穏やかな街中で、平々凡々に暮らしていくのが良いだろう。
そう、思っていたのに──。
レーシアス邸を出る直前に、突然魔導師になるなどと言い出したから、驚いたのだ。
本心を言えないだけで、決して気持ちを押し殺すことに長けているわけではないトワリスが、魔導師なんて向いているはずもない。
まして彼女は、獣人混じりだ。
読み書きもままならなければ、通常よりも魔力を持っていないのだから、実際に魔導師にまで上り詰める過程で、相当の苦労を要したのではないだろうか。

 そこまで彼女を駆り立てたものは、一体なんだったのか。
魔導師になりたいと打ち明けてきたとき、トワリスは、確か何と言っていたか。
所々記憶が朧気になっていて、はっきりとは思い出せない。

 五年の月日が経って、偶然にもこのマルカン邸で再会したときから、ずっとトワリスは、眉間に皺を寄せている。
なんとなく、ルーフェンの軽薄な態度が気に入らないのだろうなというのは勘づいていたが、それを抜きにしても、ハーフェルンでのトワリスは、終始居心地が悪そうに見えた。

 折角自由を得たのに、何故トワリスは、魔導師だなんていう窮屈な道を選んだのだろうか。
一方的な押し付けになってしまうが、人とは違う獣人混じりだからこそ、トワリスには、それに縛られず、普通に生きてほしかった。
トワリスの捕らわれる柵(しがらみ)に、共感できる部分があったからこそ、ルーフェンでは叶えられぬ“普通”を、彼女には手にいれてほしかったのだ。
再会するまでは、過去の出来事になりつつあったが、まだそんな思いが心のどこかにあったから、トワリスを見ると、妙に苛立つのかもしれない。
彼女との会話を辿っていくうちに、ふと、そんな結論に至ったのだった。

Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下 ( No.211 )
日時: 2020/01/18 18:41
名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: pRqGJiiJ)



 長い吹き抜けの廊下を渡り終えると、マルカン邸の所有する縦長の別館が、目の前にいくつも立ち並んでいた。
細い月を背景に、塔のように立ちはだかるそれらを、こうして間近に見るのは初めてである。
以前、その一棟一棟が、使用人たちの宿舎であったり、医療棟であったりと、個別に役割があるのだと、クラークが自慢げに話してきたのを覚えている。
その記憶だけを頼りに、訪れたのだ。

 息を潜め、整備された石畳を歩いていくと、棟の一つに、ちらりと灯りが見えた。
開け放たれた二階の窓から、わずかに光が漏れている。
それを見たとき、五年前、一人で二階の窓から飛び降りたトワリスが、当時の主人であった絵師の元へと戻ってしまったときのことが、脳裏に甦った。
行こうと思えば、どこにでも自由に跳んでいける脚を持っていながら、それでも彼女は、逃げようだなんて恐ろしくて実行できなかったのだろう。
頭の隅に追いやられていたトワリスとの記憶は、今でも思い返そうとすれば、ぽつりぽつりと瞼の裏に浮かんでくる。
──地下の闇の中で、震えていた姿も。
助けに駆けつけたときの、驚愕と困惑の狭間で揺れる、怯えたような顔つきも。

 月を覆っていた雲が流れて、ルーフェンの足元を、仄白い月光がなぞった。
足音を立てぬようにゆっくり歩いて、灯りの漏れる棟に近づくと、その影に隠れて、開いた窓の様子を伺った。
窓際に手燭をかけて、誰かが、腰かけて本を読んでいる。
それが、トワリスではない、見知らぬ女性だと悟った時──。
ルーフェンは、無意識に入っていた肩の力を、ふっと抜いた。

(……俺、何やってんだろ)

 自嘲めいたため息が、思わずこぼれる。
医務室とやらの場所を把握していたわけでもないのに、そう都合よく、トワリスを見つけられるはずがない。
見つけたところで、自分でも、どうしたかったのか分からない。
ただ、こんな風に静かな夜は、昔のように、トワリスも心細くなっているのではないだろうかと、根拠のない心配をしただけだ。

 祭典に招待された身でありながら、夜中に屋敷内をうろつくなど、我ながら、随分と怪しい行動をとってしまった。
警備の者に見つかっていたら、それこそちょっとした騒ぎになっていたかもしれない。
夜更けに大した理由もなく、元護衛役の女性を訪ねて徘徊していたなど、それこそトワリスの言う通り、変態である。

 早々に退散して、頭を冷やそうと踵を返した、その時だった。
不意に、首元に鋭い殺気が迫ってきて、ルーフェンは、咄嗟に身を翻した。

 迫ってきた素早い手刀を避けて、その手首を掴み上げる。
マルカン邸に侵入したならず者かと思ったが、その手首の細さに違和感を覚えて、ルーフェンは、思わず動きを止めた。
相手も、同じく不自然に思ったのだろう。
間髪入れずに蹴りあげようとしてきた脚を止めて、訝しげにこちらを見上げてくる。

 視界の悪い夜闇の中、驚いたように目を見開いて、二人は、つかの間互いを凝視していた。
しかし、やがて掴んでいた手を放すと、ルーフェンは口を開いた。

「……トワリスちゃん、なんでここに」

 間の抜けたような声で尋ねれば、同じく硬直していたトワリスが、我に返った様子で一歩後退する。
攻撃を仕掛けた相手が、まさかの召喚師であったことに焦ったのか、トワリスは、どぎまぎとして言葉を詰まらせた。

「な、なんでって……見回りに決まってるじゃないですか。今日からその、この屋敷の警備を命じられていて、夜番だったんです。最近、なんだか変な視線を感じることが多いので、巡回を……」

「警備……」

 言われてみれば確かに、トワリスは、自警団用のローブを着用している。
同時に、トワリスには休暇を申し渡した、と言っていたロゼッタの笑顔の裏が見えたような気がして、ルーフェンは、内心苦笑いした。
どうやらトワリスは、倒れた後、ロゼッタの専属護衛から外されて、マルカン邸常駐の自警団員扱いされることになったようだ。
つまりロゼッタは、ルーフェンが心配しているような素振りを見せたから、まだ現場復帰させていないだなんて、トワリスを気遣ったような嘘をついたわけである。

 トワリスは、睨むようにルーフェンを見た。

「召喚師様こそ、なんでこんな場所にいらっしゃるんですか。こそこそ隠れたりなんかしてるから、てっきり不審者かと……」

 危うく刀まで抜くところだったとぼやきながら、トワリスは、視線をさまよわせる。
今回に関しては、全面的にルーフェンが悪いので、責める気は毛頭ないが、トワリス的には、やはりばつが悪い様子だ。

Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下 ( No.212 )
日時: 2020/01/22 18:51
名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: pRqGJiiJ)



 ルーフェンは、へらっと笑って答えた。

「えーっと、ごめんね。なんとなく外の空気が吸いたくなったというか、お散歩したくなったというか……」

 夜中にうろついていたまともな言い訳など思い付かず、ひとまず適当に笑って、言い淀む。
案の定、疑いの眼差しを向けてきたトワリスは、少しの沈黙の後、すぐそばの棟の二階で、女性が本を読んでいることに気づくと、途端に軽蔑するような顔つきになった。

「お散歩って、まさか……夜中に忍び込んで、あの女の人に何かしようとしてたんじゃ……」

「いや待って。君の中で、俺ってそこまで最低な人間に成り下がってるの?」

 流石に心外だと否定して、首を振る。
だがトワリスは、眉をつり上げると、棟を指差して叫んだ。

「だってさっき、こそこそ隠れてたじゃないですか! あの女の人のこと見てたんですよね? 私、はっきり目撃しましたよ!」

「しーっ、声が大きい」

 慌ててトワリスの口を塞ごうとすると、その手を素早く手刀で叩き落とされる。
耳を逆立て、警戒した様子でずりずりと後退していくトワリスを見ていると、なんだか昔に戻ったような気分になった。

 ここで無理にトワリスを抑え込もうものなら、余計に大声をあげて、殴りかかってくるだろう。
寝静まった使用人たちや、警備にあたる自警団員たちに気づかれて、駆けつけられでもしたら、それこそあらぬ疑いをかけられそうである。
トワリスに会いに来たのに、いざ会うことが出来たら後悔するなんて、なんとも皮肉な話だ。

 ルーフェンは、やれやれと肩をすくめると、諦めたように息を吐いた。

「……トワリスちゃんに、会いに来たんだよ。倒れたって聞いたから、大丈夫かなと思って」

「……は?」

 目を見張ったトワリスが、再び硬直する。
余程驚いたのか、目をぱちくりと瞬かせる彼女に、ルーフェンは言い募った。

「何か、嫌なことでもあった? それとも、俺の発言が君を傷つけてしまったかな。もしそうだったなら、謝るよ。何にせよ、ハーフェルンで再会してから、ずーっと眉間に皺を寄せてるからさ。無理にとは言わないけど、よかったら、相談に乗るよ」

 毒気を抜かれたのか、ぽかんとした表情で、トワリスは凍りついている。
ややあって、声の調子を落とすと、トワリスは答えた。

「そ、相談って……別に、倒れたのは召喚師様のせいじゃありません。私の考えが甘かったというか、なんというか……とにかく、大したことじゃないです。大体、どういうつもりなんですか。ただの下っ端魔導師が倒れたからって、いちいち相談に乗るほど、召喚師様は暇じゃないでしょう」

 刺々しい口調で言いながら、トワリスは、目線を斜め下に落とす。
ルーフェンは苦笑すると、からかうような、大袈裟な口ぶりで言った。

「そんな冷たい言い方しないでよ。俺と君の仲じゃない。ほら、忘れちゃった? トワリスちゃん、暗いのが苦手だったから、今日みたいな夜は上手く寝付けなくてさ。怖くなる度に、俺やサミルさんのところに来て、一緒に──」

「ばっ、そんなの昔の話じゃないですか! 私もう十七ですよ!? 子供扱いしないでくださいっ!」

「しーっ、だから声が大きいってば」

 思いの外、トワリスが全力で応酬してきたので、慌てて人差し指を唇に当てる。
いちいち真に受けてしまうので、彼女に冗談は禁物らしい。

Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下 ( No.213 )
日時: 2020/01/26 18:25
名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: pRqGJiiJ)


 頬を紅潮させ、怒りを露にするトワリスを見ながら、ルーフェンは、棟の石壁に背を預けた。

「……まあ、ここからは、真面目な話だけどさ」

 言いながら、ちょいちょい、とトワリスに手招きをして、隣に来るように促す。
予想通り、トワリスは一歩も近づいて来なかったが、ルーフェンは、そのまま続けた。

「トワリスちゃん、アーベリトに戻っておいでよ」

 刹那、明らかな動揺が、トワリスの目に走る。
驚愕と、そして微かな期待を宿した瞳で、じっとこちらを見上げてくるトワリスに、ルーフェンは、淡々と溢した。

「君を探している間に、昔のことを、色々思い出したんだ。君は魔導師になると言って、実際にそれを叶えた。立派なことだと思うし、そんな君に偶然再会できて、俺も嬉しく思うよ。……ただ、ハーフェルンでの君は、すごく窮屈そうに見える。トワリスちゃんの人生だから、好きなことをやればいいとは思うけど、君に、魔導師は向いていないんじゃないかな。もしかしたら君は、サミルさんや俺への恩返しのつもりで、魔導師を続けようとしているのかもしれないけど、別に俺たちは、お礼がほしくて君を助けたわけじゃない。だから、今更そんなことを気にする必要はないんだよ。普通とは違う出自に理解を示そうとしない連中や、嘲笑って利用してくるような人間の中に居続けるのは、君だって大変だろう? 倒れるくらい辛いなら、またアーベリトにおいで」

「…………」

 トワリスの目に、不安定な光が揺蕩っている。
一瞬、希望に閃いたその瞳は、ルーフェンの話を聞いている内に、やがて、暗い理知的な色に覆われてしまった。

「……私が、可哀想だからですか?」

「え……」

 悲しげなトワリスの口調に、思わず瞠目する。
トワリスは、何かを堪えるように拳を握ると、立て続けに問うた。

「獣人混じりで、居場所がなくて可哀想だから、そんなことを言ってくださるんですか」

 やり場のない感情を抑え込んでいるような、暗く、気落ちした声。
晴らそうと思っていたトワリスの表情が、一層曇ってしまったので、ルーフェンは狼狽した。

 可哀想だから、という言葉は、確かにその通りなのかもしれない。
過去に関わりがあったとはいえ、一介の魔導師に過ぎないトワリスをここまで気にかけているのは、他ならぬ、同情という表現が一番合っているだろう。
けれども、彼女に向けているものは、決して安っぽい哀れみなどではなかった。
本当に、心の底から、幸せになってほしいのだ。

 アーベリトに移ってきた時から、初めて自分の手で“助けてあげた少女”ということもあって、トワリスのことは、どこか特別扱いしていた自覚があった。
召喚師として国を守ろう、だなんて崇高な目標があったわけではなかったが、誰かに感謝をされると、少しは召喚師らしいことが出来たような気がした。
いつだって笑顔に囲まれている、サミルのような存在には、自分はなれないだろうし、なりたいわけでもない。
堂々と正義を掲げられる、日だまりのような暖かい存在の陰で、敵対するものを断ち切る“悪”として生きる方が、自分には性に合っている。

 それでも、泣きながら怯えていたトワリスの瞳に、徐々に光が戻っていく様を見ていると、つかの間、自分まで日だまりに足を踏み出したような気分になって、嬉しかった。
“サーフェリアに独りぼっちの獣人混じり”という彼女の境遇に、たった独りの召喚師として、同情していた節があったのだろう。
似ているようで、全く違う。
そんな彼女の幸せを願っていたかつての気持ちは、五年経った今でも思い出せるのだから、きっと本物なのだ。

Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下 ( No.214 )
日時: 2020/01/29 18:46
名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: pRqGJiiJ)



 どんな言葉をかければ、トワリスの顔が晴れるのか分からなくて、ルーフェンは、言葉を探りながら言った。

「……可哀想、というか……ただ、消耗していく君を見たくないだけだよ。君は女の子なんだし、戦いの世界に身を投じるのも大変でしょう? 元はといえば、俺が軽い気持ちで魔術なんて教えてしまったのが、いけなかったのかもしれない。でも俺は、別に魔導師になってほしくて、トワリスちゃんに魔術や文字を教えた訳じゃないんだ。単に、可能性を広げてほしかっただけなんだよ。生い立ちが人とは違うからこそ、普通に幸せに生きてほしかった。アーベリトにいるなら、守ってあげられる。今まで、君がどんなことに悩んで、苦しんできたのか、俺には分からない。けど少なくとも、アーベリトに来たら、獣人混じりだからとか、そんな下らないことは気にせずに、暮らせると思うよ」

 言い終わっても、トワリスの表情は、沈んだままであった。
目を伏せ、何かを諦めてしまった様子で、黙りこんでいる。

 しばらくして、ふと目線だけ上げると、トワリスは尋ねた。

「……五年前、私が魔導師になるって言ったとき、召喚師様にどんなことを話したか、覚えていますか?」

「…………」

 答えに詰まって、ルーフェンは、何も言えなくなった。
先程も思い出そうとして、記憶をたどった部分だ。
覚えていようとも思わなかった五年前の会話なんて、そんなもの、一字一句覚えているわけがない。
そう思うのに、トワリスの決意を秘めていたであろう、その会話を忘れてしまったことに、ひどい罪悪感を覚えた。

 沈黙していると、再び視線を落としてしまったトワリスが、焦ったように言い直した。

「覚えてないですよね、あんな、些細な会話。申し訳ありません、変なことを聞いてしまって……」

 嘘でもいいから、何かを言おうと思うのに、まるで言葉が出てこない。
元来分かりやすいトワリスの表情からは、明らかな悲しみと、落胆の色が見えている。

 どうすれば良いだろう。
もし泣いているなら、涙を拭って謝れば機嫌が直るかもしれないが、なんとなく、トワリスにそんなことをするのは憚られたし、そもそも彼女は、泣いているわけじゃない。
手を握って、優しい言葉をかければ大概外さないが、それこそそんな真似をしたら、また殴られかねない。

 結局、一言も発せずにいると、トワリスが、軽く頭を下げた。

「お気遣い、ありがとうございます。……ですが、お断りします。確かに、アーベリトでの生活は楽しかったですし、いずれは、帰りたいとも思ってました。でも──」

 一瞬言い淀んで、口を閉じる。
しかし、すぐに顔をあげると、トワリスは、ルーフェンを真っ直ぐに見つめた。

「……でも、召喚師様の言う普通の幸せっていうものが、誰かに守ってもらいながら、穏やかに暮らすことなら……私は、そんなものいりません」

 口調こそ静かであったが、トワリスの言葉には、頑とした強い意思が込められていた。
揺らがぬ紅鳶の瞳が、ルーフェンを射抜く。
その目が宿す光を、ルーフェンは、以前も見たことがあった。

 記憶の片隅で、同じ目をした少女が、言った。

──もし、私が、サミルさんやルーフェンさんにとって、必要な人間になれたら……。また、レーシアス家に、置いてくれますか……?

 再度礼をすると、トワリスは、踵を返して歩いていってしまう。
その背中に声をかけようとしたが、ルーフェンは、戸惑ったように唇を開いただけで、声にはならなかった。
引き留めたところで、彼女を止めることは、自分にはできなような気がしたのだ。

 脳裏で、揺らめく蝋燭の炎が、図書室に並ぶ本の背表紙を、ゆらゆらとなぞっていく。
耳の底に、熱のこもった少女の声が、じわじわと蘇ってきた。

──私、二人の優しさに甘えて、ここで暮らすんじゃなくて、サミルさんたちにとって必要な人間になって、堂々とアーベリトに帰ってきます。

──絶対に、絶対に、帰ってきます。だから、そうしたら、私のこと、認めてください。

 静かな迫力に満ちた光が、少女の目の奥で閃く。
あの時も、今も、ルーフェンは、そんな彼女の瞳に浮かぶ強い光から、目を反らせなかった。


Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下 ( No.215 )
日時: 2021/04/14 18:00
名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: WZc7rJV3)

 専属護衛を外され、トワリスが一般の魔導師と成り下がった以上、ルーフェンが彼女と話せる機会は、もうほとんどないと思っていた。
屋敷に仕える魔導師の業務といえば、警備と巡回が主である。
実績を積んで位が上がれば、要人警護につくこともできようが、トワリスのような新人魔導師は、本来クラークやロゼッタに近づくことも許されない立場だ。
まして、ルーフェンのような賓客とは、互いを見かけることはあっても、接する機会など普通はない。
大事な会談の場に居合わせるようなこともないし、基本的には、屋敷外を警備したり、街の治安を守るのが仕事なのだ。
再びルーフェンが会いに行けば、多少言葉を交わすことはできるかもしれない。
だが、そんなことを繰り返していては、周囲の者たちに怪しまれるだろうし、会ったところで、トワリスに言うべきことなどない。
五年前の会話を思い出したよ、なんて、伝えるべきではないし、伝えたところで、それがなんだという話だ。
君に魔導師は向いてないてないんじゃないか、なんて冷たい一言を放っておいたくせに、今更慰めの言葉をかけるなんて、トワリスも混乱するだろう。
結局、あの夜以降、次にルーフェンがトワリスを見かけたのは、祭典一日目の、マルカン邸の大広間であった。

 ハーフェルンの祭典では、初日に開会式と称して、クラークが、各街の要人たちを集め、大広間で食事会を催すことになっていた。
この祝宴には、次期召喚師であった頃に、ルーフェンも何度か参加している。
充満する香水の匂いに息が詰まるし、召喚師と聞いて、飽きもせずにまとわりついてくる者たちの話に耳を傾けるのは、いつだって億劫であった。
ここ数年は、常にロゼッタが隣にいるようになったので、話しかけてくる女は多少減ったが、それでも、息つく暇のない程度には、誰かしらが声をかけてくる。
こちらとて、いちいち真面目に受け答えをするわけではないので、苦痛というほどではない。
ただ、自分を含めた誰も彼もが、似たような貼り付けの笑みを浮かべ、互いの腹を探り合っていているのかと思うと、馬鹿馬鹿しいような、自嘲的な気分になるのであった。

 広間の各所に配置された、自警団員や魔導師の中に、トワリスは、ぽつんと混じっていた。
祝宴が始まってから、彼女のことを見つけるのに、そう時間はかからなかった。
トワリスは、毅然と背筋を伸ばし、己の職務を全うしようと、固い表情で守るべき要人たちを見つめている。
昔は、あれだけルーフェンに着いて回っていたのに、今はこちらのことなど、気にもかけていない様子だ。
格下げされて、普通なら気分が腐りそうなところを、警備の任を言い渡されて、生真面目に実行しているのだろう。
厳つい男たちに混じって、真っ直ぐに立つ小柄な少女の姿は、どこか痛々しく見えた。

「……ねえ、召喚師様。珍しく、浮かないお顔。どうされたの?」

 ぼうっとトワリスを見つめていると、不意に、横合いから可愛らしく声をかけられた。
振り返ると、華やかに着飾ったロゼッタが立っている。
絹糸のような茶髪を美しく結い上げ、可憐な深緑のドレスに身を包んだ彼女には、微笑むだけで、周囲に花が咲いたような、艶やかな魅力があった。

「いや、なんでもないよ」

 如才なく笑ってみせれば、ロゼッタの顔が、嬉しそうに綻ぶ。
しかし、一瞬探るような目付きになると、ロゼッタは、賑わう食卓のほうを一瞥した。

「まあ、本当? それなら良いのですけれど……。お食事もほとんど召し上がっていないから、ご気分でも優れないのかと思いましたわ」

 言いながら、スカートの裾を持ち上げて、ロゼッタは、ルーフェンの隣に並ぶ。
それから、同じようにトワリスのほうに視線をやると、事も無げに呟いた。

「ここ最近、ずーっとあの子のことを見てますわね」

 その言葉に、ルーフェンは、思わずどきりとした。
あの子、というのが、トワリスのことを指しているのは明白である。
確かに、最近トワリスのことを気にかけてはいたが、端から見て分かるほど、露骨に態度に出ていただろうか。

Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下 ( No.216 )
日時: 2020/02/06 18:18
名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: 8NNPr/ZQ)


 じっとこちらを見上げてくるロゼッタに、ルーフェンは、肩をすくめた。

「……そうかな? まあ、トワリスちゃんは、五年前までアーベリトで引き取ってたから、なんとなく、上手くやってるかなって気になりはするね。……結局彼女のこと、この屋敷に魔導師として置くつもりなの? 倒れたあと、すぐに屋敷の警備に回ってたみたいだけど」

 誤魔化しついでに、以前ロゼッタが、トワリスには休暇を申し渡した、と嘯(うそぶ)いていたことを指摘する。
遠回しな言い方だったが、通じたらしく、ロゼッタは、むっと頬を膨らませると、ルーフェンから顔を背けた。

「それは誤解ですわ、召喚師様。立場は問わないから仕事に復帰したいって言ったのは、トワリスのほうですもの。私は、もう少し休むよう勧めましたのよ。でもあの子が、大丈夫だって聞かないから……」

 ぷりぷりと怒った様子で、ロゼッタが腕を組む。
その言葉も、疑わしいところではあったが、仕事に復帰すると言って聞かないトワリスの図も容易に想像できたので、それ以上は何も言わなかった。

 意外にも、ロゼッタの口ぶりからして、トワリスを屋敷に置き続けることには、クラークも反対していないらしい。
となると、今後もトワリスは、魔導師としてマルカン家に仕えるのだろうか。
ルーフェンとて、トワリスの意思を無視して、無理矢理魔導師をやめさせようとは思っていない。
しかし、あんな風に思い詰めた調子でマルカン家に居続けても、いずれまた、トワリスに限界が訪れるのは目に見えている。

 アーベリトにおいで、と。
あの誘いに乗ってくれたなら、昔のように、守ってやれたのに。
五年前、トワリスは、サミルやルーフェンにとって必要な人間になるために、魔導師を目指すのだと言っていた。
もし本当に、その気持ちを原動力にこれまで一途に走り続けてきたのだとしたら、見上げた根性である。
しかし、正直なところ、今のアーベリトには、中途半端な実力の魔導師なんて、いてもいなくても同じだ。
むしろトワリスは、見ていて危なっかしいから、平和な街中で安全に暮らしていてくれたほうが、こちらも精神的に助かるといえよう。

 思えば、トワリスが魔導師になるだなんて言い出した時に、はっきり反対すれば良かったのだ。
自由に生きようと、ようやく一歩を歩み出せた彼女を、見守ってみたかった。
かといって、賛同した記憶もないが、所詮は幼い少女の夢物語だと、完全に侮っていた。
あの時、ちゃんと止めていれば、こんなに気を揉まずに済んだのだろうか。
少なくとも、体格の良い男たちと肩を並べ、いつ命を落とすかも分からぬような生活を送る羽目には、ならなかったかもしれない。

 今のトワリスには、きっと何を言っても聞き入れてはくれないだろう。
彼女が傷ついて、立ち上がれぬ程ぼろぼろになる前に、手を差し出してやりたいが、そんな手は、恐らく振り払われて終わりだ。
その頑なさに、何度いらいらさせられた事か、もう分からない。

 釈然としない思考のまま、しかし、終始突っ立っているわけにもいかないので、ルーフェンは、ロゼッタに付き合って、賑わう貴族たちの輪に入った。
見知った顔もいたし、遠方から来た初対面の者もいたが、どれも大して変わらない、蠢く絵のように見える。
聞いたことのあるような、ないような名前を挙げられても、忘れてしまった話題を振られても、笑顔で適当に相槌を打っていれば、大概はうまく受け流せた。
けれど今日ばかりは、意識が別のところにいって、上手く立ち振る舞うことができない。
煌びやかに彩られた広間で、埋もれてしまいそうなトワリスの姿が気になって、笑みすらちゃんと浮かべられているか分からなかった。

Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下 ( No.217 )
日時: 2020/02/10 19:08
名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: 8NNPr/ZQ)



 祝宴の参加者たちが、食事で腹を満たし、各々酒も回ってきたところで、突然、シャンデリアや燭台の炎が消えた。
視界が暗転するのと同時に、談笑していた者たちも、一斉に口を閉じる。
突如訪れた暗闇と沈黙に、それでも、動じる者が一人もいないのは、今から始まる興行が、この祝宴恒例の目玉であると、皆が分かっていたからであった。

 ぽっと、広間の奥にある壇上に、魔術の光が灯る。
その中心へと現れた、派手な服飾の語り手に、賓客たちの視線が、一様に注がれた。

「──遠い昔、あるところに、一人の男が在った」

 語り手は、一度深々と観客に礼をすると、朗々とした声で言った。

「男は、類稀な叡知と、鋼の如き強健さを持ち合わせていた」

 澄んだ声が広間に響き渡り、やがて再び、舞台が暗転する。
次に明かりが灯った時には、語り手の姿は消え、代わりに壇上には、屈強な一人の男が立っていた。

「名を、ドリアード。後に、炎剣の使い手として語り継がれる、水蛇殺しの英雄である……」

 俳優が、腰の大剣を引き抜くと、その残光が炎を纏って、舞台上を焼き尽くす。
観客たちは、思わず身をすくませ、あまりの迫力に、短く悲鳴をあげた。
といっても、これは本物の炎などではなく、幻術である。
クラークが毎年用意する、この祝宴の目玉──それは、名のある劇団を招いて上演する、演劇なのだ。

(……今年は“ケリュイオスの蛇”か)

 目を引く幕開けに、周囲が息を飲む中。
ルーフェンは、どこか冷めたような気分で、英雄役の男を眺めていた。

 “ケリュイオスの蛇”とは、ハーフェルン発祥の、有名な伝承の一つである。
かつて、西のケリュイオスと呼ばれる海域には、九つの頭を持つ大蛇が棲み着いていた。
大蛇は、その巨大な九つの口で、通りがかった船を海水ごと飲み込んでしまう、邪悪な化物であった。
人々は大蛇を恐れ、ケリュイオスには船を出さなくなったが、すると大蛇は、陸地まで首を伸ばして、近隣の漁村を襲うようになった。
そこで、困り果てた人々を救おうと立ち上がったのが、ドリアードという男なのである。

 ドリアードは、生まれつき魔術の才があり、賢く心優しい青年であった。
元は魔導師などではなく、ただの船乗りであったが、漁村に襲来した水蛇に挑み、追い返してみせたことをきっかけに、周囲から英雄視されるようになっていた。
人々は、そんな彼の勇敢さ、そして強さを見込んで、海へと逃げ延びた水蛇を退治するように頼んだのだった。

 とはいえ水蛇は、九つある頭を全て落とさねば死なない、化物である。
荒れ狂う海上に一人、大蛇を討たんと航海に出たドリアードは、三日三晩の苦戦を強いられ、最終的には、燃え盛る炎剣と共に自ら喰われることを選ぶ。
己の命と引き換えに、水蛇を身の内から焼き滅ぼしたドリアードは、伝説の英雄として、後世に名を残したのだという。

 最期は相討ちになって終わりだなんて、悲劇的な結末のように思われるが、この“ケリュイオスの蛇”は、演劇などではよく取り上げられる演目であった。
英雄の海への旅路──命を擲(なげう)って、人々を救わんとするドリアードの苦悩、そして勇猛果敢な姿に、誰もが胸を熱くする、いわゆる冒険譚というやつだ。
子供の頃、親が読み聞かせてくれる絵本の中に、“ケリュイオスの蛇”があったという少年少女も少なくはないだろう。

 しかしながらルーフェンは、この物語が、昔から好きではなかった。
他人の死を美化した、ありがちな御伽噺など、掃いて捨てるほどあるが、その中でも、随分と胸糞の悪い結末だな、と思う。
王道な英雄譚、というよりは、哀れな生贄の生涯を目の当たりにしているような気分になるのだ。

Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下 ( No.218 )
日時: 2020/03/03 07:15
名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: 8NNPr/ZQ)

『ああ、なんと恐ろしい! 彼(か)の残虐な水蛇めは、きっとまた、村を襲い人を喰らうでしょう。この漁村だけではありません。いずれは大陸中の父を、母を……そして子を貪り、殺してしまうのでしょう。そうなる前に、どうか、あの水蛇を葬っては下さいませぬか! どうか、どうか──……』

 村人役の男が、ドリアードにすがりつく。
その悲嘆に暮れた、胸を引き裂くような懇願の声に、観客たちは、時を忘れて舞台の世界に引き込まれていった。

 読み手は皆、ドリアードが正義心から水蛇退治を引き受けたと考えるのだろう。
しかし、どうか助けてほしいと乞われたとき、実際にドリアードは、何を思ったのか。
いくら屈強で、魔術の才があったのだとしても、彼は元々、船乗りとして生きる道を選んでいた男だ。
それなのに、生まれつき力を持っていたというだけで、人喰いの化物に挑めと言われて、一体どんな気持ちだったのか。

 自分が生まれ育った村を守るだけならともかく、関わったこともないような他人を守るために、命をかけて戦うなんて、そんなことをする筋合いは彼にはない。
荒れた海上に船を出し、三日三晩戦い抜いた末に、己の身ごと化物を焼き尽くそうなどと、それは本当に、彼の意思だったのだろうか。
ドリアードの悲惨な生き様を、正義の一言で片付けたのは、読み手の一方的な望みのように思える。

『おのれ、化物め……! これ以上、貴様に好きにはさせぬ! その身切り裂いて、二度と海上へ出られぬようにしてやる!』

 天を裂かんばかりの絶叫を上げ、炎渦巻く剣を振りかぶって、ドリアードは水蛇へと立ち向かう。
水蛇は、九頭の化物ではなく、幻術で産み出された、強大な渦潮で表現されていた。
実際は、壇上でドリアード役の男が、剣舞を披露しているだけに過ぎないが、彼の迫真の演技と、幻術による水の炎の激しいぶつかり合いで、より美しく、力強い演出となっている。
内容自体は単純で、元は子供向けの御伽噺だが、そのあまりの迫力に、観客たちは皆、固唾を呑んで英雄の最期を見守っていた。
周囲から力を求められ、孤独に戦った哀れな生贄の末路は、語り手次第で、美談へと変わるのである。

 とはいえ、作り話にケチをつけていても仕方がないので、ルーフェンは、手近にあった杯を傾けながら、背後の壁に寄りかかった。
本来なら、社交場でこんなだらしのない格好は見せられないが、今は辺りが暗く、賓客たちは演劇に夢中なので、誰もルーフェンのことなど見ていないだろう。
すぐ隣にいるロゼッタも、目をきらきらと輝かせて、英雄ドリアードの勇姿に釘付けのようだ。
芸術は一通り嗜んでいるであろう、目の肥えた貴族たちさえ唸らせているわけだから、流石はクラークの選んできた劇団である。
演劇など見たことがなさそうなトワリスだって、目を奪われているに違いない。
子供の頃から彼女は、一見関心がなさそうでいて、意外とこういった娯楽に興味を示すのだ。

 視界が悪い中で、トワリスのほうを見ようとして、ふと、ルーフェンは一人の侍従に目を止めた。
演劇に魅入る賓客たちの間を、つまみや酒が乗った盆を持って、うろうろと行き来している。
一見、給仕としての役割を果たしている、ただの侍従のようであったが、彼の行動は、実に不可解であった。
今、酒など持って往復しても、肝心の賓客たちが演劇に夢中なので、呼び止められることはないはずからだ。

 召し出された様子もなく、侍従はただ、広間を見回しては、時折立ち止まって、一点に視線を注いでいる。
誰に気づかれることもなく、人の間を縫うようにして、目線を動かす侍従のそれが、目配せだと察したとき──。
ルーフェンは、持っていた杯を静かに卓に置いて、そっと周囲の気配を探った。

(相手は誰だ……? 何人いる?)

 ずっと、何者かがマルカン邸を狙っているのは、分かっていた。
ロゼッタと運河に行ったときも、クラークが差し向けた者以外に、尾行してくる気配があった。
おそらくこれには、クラークも気づいている。
だからこんなにも、広間に多くの警備を置いているのだ。

 元々クラークは、物々しい雰囲気を嫌って、こういった祝宴の場には、最低人数の自警団員しか置かない。
その分、外の警備は固めるが、賓客たちの目の触れるところには、信頼できる一部の武官しか配置しないのである。
しかし、今回はどうだ。トワリスを始め、信用できるかどうかも分からぬ手合いを、広間中に置いて、目を光らせている。
これに敵が怯んで、動かなければそれで良いし、何か悪巧みをすれば、ついでに炙り出して叩こう、という算段なのかもしれない。

Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下 ( No.219 )
日時: 2020/02/17 18:35
名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: 8NNPr/ZQ)


 ルーフェンは、隣で演劇に心奪われているロゼッタに、小さく耳打ちをした。

「……少なくとも四人、いや、もっとか。胡散臭いのが紛れ込んでる。心当たりは?」

 問うと、ロゼッタは、舞台上から目を離さぬまま、しれっと答えた。

「あんまりしつこいから、お父様が、この祝宴に招待なさったのだと思いますわ。……本当に来てくださったなら、良かった」

 次いで、にこりと笑って、ルーフェンを一瞥する。

「召喚師様、やっつけてくださる?」

「…………」

 特に動じる様子もなく、平然とそう言ってのけたロゼッタに、苦笑する。
呆れたように肩をすくめると、ルーフェンは、謀ったな、と一言だけ呟いた。
つまりは、全て計画の内だった、ということだ。
他街からの印象を重んじるクラークが、こんな大胆な作戦に出るとは少し意外であったが、要は、相手がそれだけ執拗にマルカン家を狙っている、ということなのだろう。
この祝宴に不遜な輩が紛れ込むことも、そして、その場に召喚師であるルーフェンが居合わせることも、全てクラークの策の内だったわけだ。

 賓客たちは演劇に夢中で、周囲は暗闇。
潜り込んだ刺客からすれば、これだけ動きやすい環境はない。
ルーフェンは、再び壁に寄りかかって、演劇を観る振りをしながら、侍従らしき男の動向を注視していた。
どんな攻撃を仕掛けてこようと、ねじ伏せることは造作もないが、問題は、相手が何人か、そしてどう賓客たちを逃がすか、である。

 マルカン家を狙っているなら、標的は当然クラークかロゼッタだろうが、敵が必ずしも、二人に的(まと)を絞るかは分からない。
大勢いる賓客相手に、同時に魔術でも放たれたら、流石に防ぎきれないし、そもそも大広間の中で戦闘をすれば、何かしらの被害が出ることは確実。
場合によっては、こちらから仕掛けて、負傷者が出る前に敵を潰すほうが有効かもしれない。

 ルーフェンは、ロゼッタを近くの自警団員に任せると、静かに侍従らしき男の元へと歩み寄った。
今のところ、この男以外に、怪しげな動きをしている者はいない。
この男を仕留めて、敵がマルカン家の急襲を諦めるならば、祝宴後に身元を調べれば良い話だし、強攻するならば、その場で動きを見せた者全員を、芋づる式に片付けていく他ないだろう。

 不自然に目線をちらつかせていた男と、ふと、目が合った。
男は、漫然と広間を見渡しているようにも見えたが、やはり、その視線の送り方には、意味があったのだろう。
ルーフェンの接近にいち早く気づくと、横目に何かを訴えてから、焦ったように駆け出した。

 周囲を押し退けて走る男に、賓客たちが、何事かと目を向ける。
男が頭上のシャンデリアに手を掲げ、魔術を使う──その素振りが見えた時には、ルーフェンは、男の首筋に一発入れて、昏倒させていた。

 しかし、その次の瞬間。
鈍い金属音と同時に、吊っていた金具部分が弾け、大量の蝋燭とシャンデリアが、ルーフェンの頭上に落下してくる。
手を翳し、短く詠唱すれば、シャンデリアは横から風で殴られたように吹き飛び、壁にぶち当たった。
蝋燭の土台となっていた色硝子が、床に落ちて割れる、派手な音が重なる。
賓客たちは悲鳴をあげ、さっと顔色を変えたが、腰をあげただけで、扉まで向かう者はいなかった。
突然の出来事に、事態を把握できていない者もいれば、劇の演出の一部ではと、勘繰っている者もいる。
逃げようにも、視界が暗く、思うように動け出せない者も多いようであった。

Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下 ( No.220 )
日時: 2020/02/18 20:44
名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: 8NNPr/ZQ)


 素早く舞台上に駆け上がると、ルーフェンは、騒然とする広間を俯瞰した。
残っている二つのシャンデリアや、燭台に炎を灯してから、腰を抜かした舞台役者たちに、目で逃げるように示す。
次いで、クラークの姿を探したが、つい先程まで舞台脇にいたはずの彼は、忽然と姿を消していた。
わざわざ祝宴に敵を招き入れたわけだから、賓客の避難に関しては、彼が算段を立てているものと信じていたが、どうやらあては外れたようだ。
クラークの性格上、一人で逃げて、顰蹙を買うような真似はしないはずだが、何の指示も出さないところを見ると、そもそも避難誘導をする気がないのだろう。
賓客ごと敵を逃がすつもりはないし、それどころか、この騒ぎを、演出の一部だった、とでも言い張るつもりなのかもしれない。

 混乱に乗じて、剣を抜いた四人の自警団員──刺客たちが、逃げようとする賓客たちに斬りかかった。
マルカン家に仕える、本物の武官たちも、応戦しようと身構える。
しかし、彼らが剣を交えるより速く、ルーフェンが遠隔から手を動かすと、その動きを準(なぞら)えるように、刺客たちの身体が宙に吹っ飛んだ。
壁で後頭部を打った者もいれば、吹っ飛んだ拍子に、剣が自らの身体に突き刺さった者もいる。
動揺して身をすくめる賓客の中で、四人の刺客たちは、呻き声をあげながら床に転がった。

「早く! 全員逃がせ!」

 ルーフェンが近くの魔導師に怒鳴り付けると、魔導師は、びくりと肩をすくませてから、慌てた様子で周囲に避難指示を出し始めた。
この際、クラークの思惑など、考慮してはいられない。
賓客にまで斬りかかっていたところを見る限り、今回の敵は、見境なく人を殺しても構わないと考えている。
そんな厄介な連中を逃がしたくない、という思いは確かにあるが、何人いるかも分からない刺客が一斉に動き出せば、ルーフェンとて即座には動けない。
このまま広間に閉じ込めておいて、人質でもとられるよりは、この場から全員逃がした方が、被害は最小限に抑えられるだろう。

 いよいよ、開いた大扉に向かって、賓客たちが走り出した、その刹那。
再び金具の弾ける鈍い音が響いたかと思うと、残っていた二つのシャンデリアが、地面に落下して砕け散った。
幸い、直下に人はいなかったが、蝋燭の炎が絨毯に燃え移って、一層人々の恐怖心を煽る。
自警団員たちが、咄嗟に火を消そうと集まってきたが、このような惨事に見慣れぬ大半の賓客たちは、腰を抜かしてうずくまるしかなかった。

 広間を照らすのは、心許ない燭台の光と、絨毯に燃え広がっていく貪食な炎のみ。
凄惨な絵図の中で、ルーフェンは、首謀者を見つけようと気配を探った。
シャンデリアが落ちた瞬間、魔力は感じなかった。
思えば、侍従に扮した刺客を仕留めたときだって、ルーフェンは、彼が魔力を使う前に気絶させたはずなのに、シャンデリアは落ちてきた。
つまりこれは、事前に仕掛けられていたことなのだ。
魔法陣を仕込んで、予備動作だけでシャンデリアが落ちるように細工をしていた、計画的犯行である。

 ルーフェンは、小さく舌打ちすると、フォルネウスを召喚しようと詠唱を始めた。
未だ潜んでいる刺客が、使用人として紛れているのか、賓客に扮しているのか。
また、この屋敷に、他にどんな小細工が仕組まれているのか、それすらも分からない。
こうなったら、フォルネウスの力で、全員の動きを封じたほうが手っ取り早いだろう。

 ルーフェンが、魔語を唱える、その時であった──。
不意に、視界に赤らんだ光が飛んだかと思うと、目の前で、燃え盛る火球が軌跡を描いた。
まるで巨大な鳥のように滑空したそれは、やがて渦を巻き、広間全体で炎のとぐろを巻く。
視界を覆う業炎は、一見規模の大きな魔術のように見えたが、何ということはない。
魔術を学んだ者であれば大抵が使えるような、簡単な幻術であった。

 劇団員の誰かが、刺客の動きを止めるために放ったのかと思ったが、そうではない。
炎を使ったこの幻術に、ルーフェンは、微かに見覚えがあった。

 視界の端で、木の葉が、ふわりと宙を舞った気がした。
熱風に巻き上げられたかの如く、軽やかに。
そして、獣のようにしなやかに。
炎渦の上を揺蕩うそれは、まるで重力を感じさせない動きで、床を蹴り、抜刀して翻る。

 運河に飛び込んでいった彼女を見たときと、同じ感覚だ。
一人、別の時間を生きているような──そんなトワリスの動きには、きっと、何人たりとも追い付けない。

 炎の幻術を使ったのが、トワリスであることは分かったが、その狙いまでは読めず、ルーフェンは、ただ瞠目して立っていた。
舞台下を業炎が包んだことで、刺客たちは、攻撃の手を止めざるを得なくなったはずだ。
しかし、この程度の幻術では、そう長くもたないし、標的が見えず、攻撃ができないのはこちらも同じである。
幻術が解ければ、再び戦闘が始まるだろう。
炎の明るさに視界を焼かれ、目が眩んで動けなくなるのは、ほんの一瞬程度。
けれど、その一瞬こそが、トワリスにとっては、十分な時間稼ぎなのであった。

 宙で一転し、壁に着地したトワリスが、その脚に魔力を込めた瞬間──。
身を踊らせていた木の葉は、一閃、矢の如く炎渦を切り裂いた。

 電光石火で駆け抜けた刃は、人々の目に、どう映ったのだろう。
吹き抜ける突風か、あるいは、地上に迸る稲妻か。
ぶわりと火の粉を散らし、尾を引くように紅鳶をたなびかせながら、トワリスは、縦横無尽に敵を薙ぎ倒していく。

 幻術が解け、人々の視界が元に戻った頃には、広間に八人の身体が転がっていた。
空気が、未だにびりびりと震えている。
トワリスが、潜んでいた刺客たちを峰打った瞬間は、速すぎて認識できなかった。
倒れた刺客のすぐそばにいた者でさえ、ただ、すり抜ける風を感じただけだ。

 双剣を鞘に納める、鍔(つば)鳴りの音が響く。
身を低くしていたトワリスは、すっと立ち上がると、唖然としている自警団員たちを見回して、言った。

「早く捕まえてください。気絶させただけです」

Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下 ( No.221 )
日時: 2020/02/23 18:31
名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: 8NNPr/ZQ)


 我に返った自警団員たちが、慌てた様子で、気絶した刺客たちを取り押さえる。
意識を取り戻しても動けぬように拘束され、広間から引きずり出されていく刺客たちを見て、ようやく生きている実感が湧いてきたのだろう。
賓客たちは、徐々に周囲の者たちの安否を確認しながら、口を開き始めた。

 夢でも見ているような思いで、舞台に立ち尽くしていたルーフェンは、ふと、名前を呼ばれたような気がして、振り返った。
今までどこに隠れていたのか、ロゼッタの肩を抱いたクラークが、壇上に上がってくる。
クラークは、呼びつけた魔導師に、燭台の炎を強めるように命じてから、次いで、ざわめく大広間を見渡した。

 落下したシャンデリアが三つ、床に砕け散っており、広間の至るところに、血痕が残っている。
だが、おそらくその血は刺客たちのもので、見たところ、怪我をして動けなくなっている賓客はいない。
大事にはなったが、被害は最小限と言える状況であった。

 クラークは、さっと両手をあげると、賓客たちに呼び掛けた。

「皆様! マルカン家頭首、クラークでございます!」

 青ざめていた賓客たちの視線が、舞台上のクラークに注がれる。
クラークは、大袈裟な身振り手振りをつけながら、演技がかった口調で語った。

「とんだ不埒者共が入り込んでいたようで、誠に申し訳ございませんでした! お怪我はございませんでしたか? 今、屋敷の医術師たちを呼んでおります。もしお怪我をなさった方がいらっしゃいましたら、早急に手当てをさせて頂きますので、この場でお知らせください!」

 クラークの声かけに、手を挙げた者はいなかった。
賓客たちは、強張った顔で、しばらく事態を飲み込むのに精一杯の様子であったが、騒ぎの割に負傷者がいないのだと分かると、緊張が解けてきたようだ。
見知った者同士で集まりながら、幾分か落ち着いた表情になった。

 クラークは、拍手をした。

「いやはや、流石は各領の中枢を担う皆様! 不遜な輩が騒ぎを起こそうとも、これしきでは動じぬ、肝の据わった方々ばかり! 本日は、折角の宴の席でございます。別のお部屋をご用意致しますので、仕切り直しと行きたいと存じますが、いかがでしょうか?」

 都合の良いクラークの言葉に、賓客たちが、ざわりとどよめいた。
大した被害がなかったとはいえ、急場の後に部屋を変えて飲み直そうなどと、とても責任者の台詞とは思えない。
召喚師の同席や、警備の増員を計算に入れ、結果的に怪我人を出さなかった点は評価すべきかもしれないが、言ってしまえば、そもそも刺客の侵入を許したこと自体が、クラークの落ち度なのだ。

 しかし、賓客たちの苦言を待たずに、クラークは続けた。

「皆様に怖い思いをさせてしまい、このようなことを申し上げるのは大変恐縮なのですが、実は、以前から無法者が紛れ込んでいることには、気づいておりました。一時は祝宴の中止も検討いたしましたが、遠路遙々お越しくださった皆様や、この祭典を心待ちにしていたハーフェルンの民たちの期待を裏切るわけにはいかないと、警備を強化した上で、開催した次第でございます。包み隠さずに言えば、これを機に、私を狙う一派を掃討することも目的の一つでした。ですがどうか、誤解をしないで頂きたいのです。私には決して、皆様を危険に陥れようなどという意図はございませんでした。むしろ、敵の刃をこの場で一手に引き受けたことが、今後の皆様の安全に繋がると考えております。なぜなら私には、この祝宴でいかなる有事が起ころうとも、絶対に皆様をお守りできるという自信があったからです。何せ今回は、我が国の守護者様もご出席なさっていたのですから!」

 突然、満面の笑みのクラークに肩を抱かれて、ルーフェンは眉をあげた。
いきなり何を言い出すのか狸じじい、と悪態をつきたくなったが、自分に向けられた賓客たちの顔つきを見て、すぐにクラークの言わんとすることが分かった。
つい先程まで、不満と疑念で一杯だった賓客たちの目の色が、明らかに変わっていたのである。

 クラークは、鷹揚に言い募った。

「祝宴を中止にして、私を引きずり出す好機を失えば、敵はハーフェルンのどこで、いつ、誰を襲っていたか分かりません。それでは、こちらとしても防ぎようがないというもの。ですから、あえて例年通り祝宴を開くことで、敵の目をこの私と、屋敷に集中させたのです。私は迷いました……いかに有効な策とはいえ、屋敷内に奴等を招き入れれば、皆様を恐ろしい目に遇わせてしまうのではないか、と。けれどその時、召喚師様が仰って下さいました。『土地を治める立場の者同士、街の安全を最優先したいという想いには、きっと皆も理解を示してくれるだろう。万が一の時は、この私も手を貸しますから』と。事実、召喚師様はお言葉通り、瞬く間に不埒者共を倒してしまいました! 被害といえば、まあ、合わせて屋敷一つ分は下らない、このシャンデリアでしょうか」

 クラークの冗談に、足元で砕け散っているシャンデリアを見て、賓客たちの間から苦笑が起こる。
クラークは見事、その口八丁で、今回の騒動は不測の事態などではなく、あくまで自分の掌の上で起こったことだったと言ってのけたのだ。

Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下 ( No.222 )
日時: 2020/03/03 07:23
名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: 8NNPr/ZQ)

 ルーフェンは、刺客が紛れ込んでいるかもしれない、なんて話を事前に相談された覚えはないので、全てはクラークの作り話である。
しかし、賓客たちに語っていたように、さも召喚師の手柄だと言わんばかりに告げられれば、ルーフェンも嫌な気分にはならないはずだと、クラークはそう見越して発言しているのだろう。
一度軌道に乗りさえすれば、流暢な口ぶりで事を運べるのが、この男の特徴である。
調子良く回る舌に、水を差してやりたい気持ちもあるが、今更賓客たちの不安を煽って雰囲気を悪くするほど、ひねくれてはいない。

 肩をすくめたルーフェンを、笑顔で一瞥してから、クラークは賓客たちに向かって言った。

「さあさあ、お部屋の準備が整ったようなので、今宵の出来事を肴(さかな)に、一層祭典を盛り上げてやろうという方は、是非ご準備を! なぁに、また怪しげな輩が潜んでいたとしても、我々には召喚師様がついております。……なんて、これ以上我が屋敷を壊されては、いくら私でも身上(しんしょう)が潰れてしまいますから、二度はありませんがね」

 再び、賓客たちの間に、笑い声が湧く。
警備が不十分だったために、襲撃されたと信じこんでいた賓客たちは、全てがクラークの計画の内だったと知り、今ではすっかり安心しきった様子だ。
先程まで青ざめ、立つこともままならなかった彼らは、ざわめきながら腰を上げたのだった。

 一礼してから、誘導指示に向かったクラークに代わり、ロゼッタが、ルーフェンの元へと歩いてきた。

「召喚師様、お疲れ様です。思えば私、召喚師様が魔術を使っているところ、初めて拝見しましたわ。私達を守って下さって、ありがとうございます」

 ロゼッタは、どこか興奮した表情でそう言ったが、ルーフェンは、返事をしなかった。
心ここに非ずといった様子で、ルーフェンは、移動する賓客たちの流れを、ぼんやりと見下ろしている。
首を傾げたロゼッタが、すぐ隣で腕を絡めると、ようやくルーフェンは顔をあげた。

「もしかして、怒ってしまった? お父様が、まるで召喚師様のことを利用するような真似をしてしまったから……」

 眉を下げて、ロゼッタが今にも泣き出しそうな声を出す。
ルーフェンは肩をすくめて、首を振った。

「……いや、そういうわけじゃないよ。確実に暴徒が騒ぎを起こすかどうかなんて、誰にも分からなかったんだし、君たちも瀬戸際だったんだろう? 陛下ではなく、俺がこの祭典に呼ばれた時点で、何かしらあるんだろうなとは思ってたよ。ハーフェルンに手を出そうっていうなら、それはアーベリトの敵でもある」

 ロゼッタは、表情を明るくすると、ルーフェンにすり寄るように身体を密着させた。

「そう言って頂けると、心強いですわ。実は、今回の件について、他にも召喚師様にご相談したいことがあって……。よろしければ、助けてくださったお詫びとお礼も兼ねて、祝宴の後──」

 そこまで言って、ロゼッタは言葉を切った。
ルーフェンの意識が、再び舞台下に注がれていたからだ。
ルーフェンは、つかの間、誰かを探すように視線を巡らせた後、ふと動きを止めると、ロゼッタの方を振り返った。

「相談には乗るけど、お礼はいらないよ。今回、俺はほとんど何もしてないから」

 それだけ言うと、ルーフェンは、するりと腕を抜いて、壇上から降りていく。
ロゼッタは瞠目してから、ルーフェンの後を追ったが、豪奢なドレスを着ている状態では、そう速く歩くことはできない。
ルーフェンは、広間を出ていく賓客たちの間を縫って、シャンデリアの破片を掃き掃除している、トワリスの元へと駆け寄った。

「……トワリスちゃん」

 声をかけると、トワリスは驚いた様子で、箒を動かす手を止めた。
もう一歩近づけば、踏んだ破片が押し割れて、ぱきりと音を立てる。
先程、三人もの刺客を一瞬で昏倒させたのは、やはり彼女だったのだろう。
激しく動いたせいか、トワリスの髪は跳ね、着用していた自警団員用の正装も、全体的に着崩したように乱れていた。

Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下 ( No.223 )
日時: 2020/03/05 18:44
名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: 8NNPr/ZQ)



「……何か御用でしょうか?」

 固い声で返事をしたトワリスに、ルーフェンは、一度言葉を止めた。
目線を落とせば、箒を握ったトワリスの手が目に入る。
彼女の手は、皮膚が分厚くて硬い、剣を扱う者の手であったが、それでも、男の手指よりはずっと小さく、細かった。

 運河から彼女を引きずりあげた時も思ったが、近くで見てみると、案外トワリスは小柄だ。
特別華奢というわけではないが、他の同業の男たちと並ばれてしまうと、やはりその線の細さが目についた。
剣を持たず、獣人混じりであることを差し引けば、トワリスは素朴な町娘にしか思えないだろう。
少なくとも、戦い慣れした男三人を、一瞬で延したようには見えない。

 女にしては節榑(ふしくれ)立った、トワリスの手を見つめながら、ルーフェンは答えた。

「怪我とか、してない? ……さっき、すごかったね。君の動き、目で追うこともできなかった」

 言ってから、トワリスの顔を見ると、彼女もまた、ルーフェンを見ていた。
意外そうに瞬いた後、トワリスは、どこか面映ゆそうに俯いた。

「……ありがとうございます。多分、紛れていたのはあれで全員だと思いますが、まだ油断はできません。雰囲気を悪くしてしまうかもしれませんが、この祝宴が終わったら、参加した全員の身元を、改めてお調べした方が良いと思います」

「うん、そうだね。マルカン候に伝えておくよ」

「……いいえ、仕事なので」

 そこで会話が途絶えてしまって、同時に目を伏せる。
今にも掃き掃除に戻ってしまいそうなトワリスを、どうにか引き留めようして、ルーフェンは、立て続けに尋ねた。

「ねえ、あの時……どうして紛れ込んでる奴等が分かったの? 剣を取り出したり、魔術を使うまでは、検討もつかなかっただろう?」

 付け焼き刃の質問であったが、本当に気になっていることではあった。
トワリスは、短い間とはいえマルカン家に仕えているので、見慣れぬ侍従や武官を片っ端から警戒していれば、紛れ込んでいる刺客に予想をつけることは出来たかもしれない。
しかし、遠方から来た賓客を装われれば、誰が刺客で、誰が本物の招待客だったかなんて、そんなことは分からなかったはずだ。
ルーフェンも、疑わしい相手に目星をつけることは出来たが、確信するまでには至らなかった。
トワリスが、一体どこを見て判断し、確実に侵入者を炙り出せたのか、ひっかかっていたのである。

 トワリスは、少し迷ったように視線をさまよわせてから、ぼそぼそと答えた。

「……色々ありますけど……匂い、ですね」

「匂い?」

 思わず聞き返すと、トワリスは、躊躇いがちに頷いた。

「ここに来た方たちは皆、薔薇か、それに近い香りの香水をつけてるんです。……多分、ロゼッタ様が、薔薇の香りがお好きなので」

 ちらりと上がったトワリスの目線の先には、ルーフェンを追ってきていた、ロゼッタの姿があった。
一歩下がって、トワリスたちの話を聞いていたロゼッタが、ひょっこりとルーフェンの横に顔を出す。
言われてみれば、ロゼッタからいつも漂う甘やかな匂いは、上品な薔薇の香りであった。
こういった社交場では、確かに大半の人間が香水をつけているが、それが何の香りだったかなんて、いちいち考えたことはなかった。
考えたところで、それらを嗅ぎ分けることは、普通の人間にはできないだろう。

 広間を見回してから、トワリスは続けた。

「祝宴が始まったときから、四人、匂いが妙に薄い人がいたんです。一人は、最初に召喚師様が倒した侍従でしたが、他は全員、グランス伯の代理出席の方々でした。グランス伯って、以前、ロゼッタ様に香水を送ってきた北方の領家の方々なんです。……おかしいですよね、遠方から贈り物をするくらい、香水に精通してる家の出身なのに、肝心の自分達が香水をつけてこないなんて。あれは、たまたま今日だけつけ忘れた、っていう匂いの薄さじゃありませんでした。多分、香水なんてつけたことがない、グランス伯の名前を借りた偽物なんです」

 トワリスは、ルーフェンとロゼッタに向き直った。

「一度、グランス家の方々と連絡をとってみた方がいいかもしれません。遠方であるが故に、親交はあっても面識がなかったことを利用されて、成りすまされただけだと信じたいですが、もし本当にグランス家が代理人をハーフェルンに送っていたのだとしたら、その人たちがどうなったか、確かめないといけないので」

 それでは、片付けに戻ります、と一礼すると、ルーフェンの返事を聞かぬまま、トワリスは逃げるように、別の自警団員たちに合流してしまった。
ロゼッタはしばらく、トワリスの後ろ姿を見つめていたが、途中から入り込んだために、いまいた話が理解しきれていなかったのだろう。
ぱちぱちと瞬いてから、唇を開いた。

Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下 ( No.224 )
日時: 2020/03/08 19:02
名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: 8NNPr/ZQ)



「えーっと……香水って? お二人で、何のお話をなさっていたの? グランス家の方々がどうとかって……」

 ルーフェンは、同様にトワリスが去っていった方向を眺めながら、呟くように言った。

「匂いで、紛れ込んでた奴等の正体が分かったんだってさ。今回、事態を解決したのは、俺じゃなくてトワリスちゃんなんだよ」
 
「に、匂いで……?」

 思わず引き気味に答えてしまって、ロゼッタは、慌てて口をつぐんだ。
炎の幻術が巻き上がった瞬間、ロゼッタは驚いて目をつぶってしまっていたので、あの場で何が起こったのかは、よく分かっていなかった。
しかし、ルーフェンの言葉を額面通り受け取るならば、トワリスは祝宴が始まった時から、広間にいる人々の匂いを嗅ぎ回って、侵入者を探していたということだろうか。
もしそうだとしたら、その様はまるで獣のようである。

 とはいえ、仮に内心ドン引きしていても、それをルーフェンの前で態度に出すだなんて、もってのほかだ。
マルカン家の淑女たるもの、たとえ相手が、人間離れした嗅覚を持つ得体の知れない女でも、表向き差別などしてはならない。
過程はどうあれ、侵入者を誰よりも早く見つけ出し、倒したことは、賞賛すべき行為である。
匂いで嗅ぎ分けたなんて予想外すぎて、うっかり素が出そうになったが、ここは素直に、誉めておくべきだろう。

 ロゼッタは、上品に微笑んで見せた。

「やっぱり、獣人の血が混じってると、鼻が利くものなのね。前に香水の匂いが苦手って言ってたことがあったから、普通より敏感なのかしら、とは思っていたけれど……まさかそれで、悪い人達を見つけ出してしまうなんて。トワリスってばすごいわ、これはお父様にも教えて差し上げないと。トワリスのことを揶揄する方もいるけれど、私はむしろ、獣人混じりであることこそ、彼女の強みだと思ってますわ」

 言ってから、同意を求めるように、上目遣いでルーフェンを見る。
その彼の顔を見て、ロゼッタは、思わず目を疑った。
ルーフェンは、いつものように笑むでもなく、かといって、トワリスの行動に呆れている様子もない。
虚を突かれたような、無防備な表情をしていたのだ。

 ルーフェンの沈黙を訝しんだロゼッタが、再び口を開こうとしたとき。
ルーフェンが、ぽつんと呟いた。

「……いや、本当に……すごいな。匂いなんて、考えたこともなかったし、考えていたとしても、あの子じゃなきゃ気づけなかった」

 おそらく、誰に言ったわけでもなかったのだろう。
無意識に、心の底から滑り出てしまった、素直な賛美の言葉のようであった。

「……召喚師様?」

 少し強めに声をかけると、ようやくルーフェンと、視線がかち合う。
けれどその目は、ロゼッタのことを見てはいなかった。

「あの子、古語どころか、普通の文字も読めなかったんだ」

「……え?」

 問い返すと、ルーフェンの顔に、初めて表情が現れた。
驚きと、その奥にある嬉しさを隠しきれないような、柔らかい熱のこもった表情。
ルーフェンは、再び前を向くと、穏やかな口調で言った。

「獣人混じりであることが強みだって、そう言っただろう? 確かに、それもあるかもしれない。でもあの子は、初めて会ったとき、会話もまともに出来ないような……そういう子だったんだよ。ここに来るまで、本当に……頑張ってきたんだと思う」

 その銀の瞳に浮かぶ、触れられそうなほどの感嘆の色を、ロゼッタは、不思議な思いで見つめていた。
アーベリトへの遷都をきっかけに、婚約関係を結んで、かれこれ五年。
少なくともその間では、見たこともない、眩しそうな表情であった。

Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下 ( No.225 )
日時: 2020/03/11 19:39
名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: 8NNPr/ZQ)




 ルーフェンは、誰に対しても優しく、人当たりが良いように見えるが、その実、誰にも興味を持っていないのだろうというのが、ロゼッタの印象であった。
中には、ルーフェンの甘言を本気にする者もいたし、当初はロゼッタも例外ではなかったが、付き合っていく内に、彼は笑顔の裏で、一体何を考えているのだろうと、不気味に思うようになったのだ。
しかし、元々政略的な理由で婚約者になったので、そこに恋情がないからといって、関係を解消することにはならなかった。
ロゼッタ的にも、アーベリトとは友好的な間柄で在りたかったし、何より、ルーフェンと仲睦まじい演技をしていれば、召喚師に取り入りたい父、クラークも喜ぶ。
勿論、嫌だと言えば、クラークは関係解消に動いてくれたのかもしれないが、そもそもルーフェンとは、年に数度会うか、会わないかといった状態であったし、彼は察しが良く、何も言わずに“婚約者ごっこ”に付き合ってくれていたので、そういう意味では一緒にいて楽であった。
召喚師一族に嫁げるということは、マルカン家にとって非常に名誉なことであったし、ルーフェンだって、ハーフェルンとの関係は大切にしたいはずである。
あくまで利害の話をしているのに、そこに好きだの嫌いだの、個人的な感情が入ると厄介だ。
だから、このまま後腐れのない、無感情な関係を続けていく上では、ルーフェンが誰にも関心を持たない、酷薄な人間であっても、腹の底の読めない狸男であっても、さして問題はない。
むしろ、余計な私情を挟んでこない分、都合が良い。
五年間ずっと、そう言い聞かせて、信じていたのに──。
まさか、こんなにも分かりやすく、ルーフェンの感情が動いた瞬間を目の当たりにするとは。

 ロゼッタはしばらくの間、ルーフェンの顔を、黙って眺めていた。
しかし、ややあって、呆れたようにため息をつくと、ぼそりと囁いた。

「……なんかもう、面倒になりましたわ」

 気づいたルーフェンが、ロゼッタに視線を戻す。
ロゼッタは、ルーフェンの手を引いて、人気のない舞台袖まで来ると、突然、左耳の耳飾りをとって、床に叩き落とした。
追い討ちと言わんばかりに、靴の踵で耳飾りをぐりぐりと踏みつければ、付石は、小さく音を立てて、呆気なく砕ける。
以前ルーフェンと、願掛けだのなんだのとやり取りをした、紅色の耳飾りであった。

「こんなに馬鹿馬鹿しい婚約者ごっこって、ないですわね。私、本気で恋愛をするなら、追いかけるより追いかけられたい派ですの。他の女ばっかり見てる男なんて、絶対に御免ですわ」

「…………」

 腕組みをして、吐き捨てるようにロゼッタが言い放つ。
ルーフェンは、つかの間沈黙して、微かに首を傾げた。

「えーっと……何の話?」

「私達の話ですわ!」

 だんっ、と床を踏み鳴らして、ロゼッタがルーフェンを睨む。
歩み寄って、ルーフェンの顔を至近距離で見つめると、ロゼッタは、打って変わった低い声で告げた。

「よろしくて? この際、婚約者だからとか、そんな話はどうだって良いのです。私が欲しいのは一つだけ、リオット族の独占権をハーフェルンに譲渡してちょうだい」

 ルーフェンが、ぱちぱちと目を瞬かせる。
頑として目をそらさず、返事を待っているロゼッタに、ルーフェンは、ぷっと吹き出した。

「……やたらとリオット族をハーフェルンに招待したがってたけど、やっぱりそれが目的だったんだ?」

「ええ、今更否定はしませんわ。召喚師様と駆け引きしたって埒が明きませんから、もう直球に申し上げます。……お返事は?」

「お断りかな」

「チッ」

 隠す様子もなく盛大に舌打ちをして、ロゼッタが離れる。
くすくすと笑うルーフェンに、ロゼッタは、苛立たしげに尋ねた。

Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下 ( No.226 )
日時: 2020/03/14 18:53
名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: 8NNPr/ZQ)



「どうして頷いて下さらないの? 勿論、利益の分配だって、アーベリトが損にならないよう計らいますわ。ハーフェルンなら、南方だけでなく北方の鉱脈とも繋がりがあります。リオット族の能力は、シュベルテの弱小商会よりも、ハーフェルンが所有していた方が有用でしょう」

「うん、だからだよ」

 ロゼッタが、怪訝そうに眉を寄せる。
ルーフェンは、足元で砕けた紅色の耳飾りを一瞥すると、言い募った。

「俺がリオット族をアーベリトに留まらせているのは、彼らの価値を下げないためだよ。ハーフェルンに頼った方が、そりゃあ手広く成功するんだろうけど、それで結果的にリオット族の存在が身近になるのは、本意じゃない。この耳飾りに使ってる石だって、言ってしまえば、ただの石ころだ。でも、そう簡単には手に入らないから、高値で取引される」

「……つまり?」

「人は身近なものには価値を見出ださないけど、普段お目にかかれないものには、価値を見出だすし、欲しくなるってこと」

 至極全うな答えが返ってきて、ロゼッタは、面白くないといった風にそっぽを向いた。
よほど不機嫌そうな表情になっていたのだろう。
ルーフェンは、困ったように眉を下げた。

「ごめんね、怒らないで。リオット族の件は承諾できないけど、君のお願いは、なるべく聞き入れたいと思ってるんだ」

「…………」

 尚も吐き出される歯の浮くような台詞に、ロゼッタの眉間の皺が深まる。
すっと目を細めると、ロゼッタは冷たい視線を投げ掛けた。

「そういう嘘、軽々しく言わないで下さる? いつか私怨で刺されますわよ」

「あはは、もう手遅れかな」

 特に反省した様子もなく、ルーフェンは、軽い調子で返事をした。
真面目な話をしていたかと思いきや、突然、会話をはぐらかすような、掴み所のない部分を見せるのは、もはやルーフェンの癖みたいなものだ。
いちいち真に受けなければ、さほど気にならないが、相手によっては、人を食ったような態度に見えて、腹が立つだろう。

 ロゼッタは、ため息混じりに言った。

「まあ、いいでしょう。元々良い答えがもらえるとは思ってませんでしたし、今回は、お父様が貴方を利用するような真似をしてしまいましたから、多くは望みませんわ。アーベリトがハーフェルンとの協力関係を反故(ほご)にしない限り、私達は、貴方の思うように従います。……トワリスのことも、欲しいなら差し上げますわ」

 トワリスの名前を出すと、ルーフェンは、不思議そうに目を見開いた。

「……トワリスちゃん? どうして?」

 いっそ動揺を見せてくれたら面白かったのだが、ただただ疑問に思った様子で、ルーフェンは尋ねてくる。
この話の流れで、何故トワリスの名前が出てきたのか、本気で分かっていないようだ。
唾を吐きたい衝動を抑え、再び顔を近づけると、ロゼッタは凄味のきいた声を出した。

「どうして? 今、どうしてって仰いました? ここ数日、婚約者には目もくれず、ずーっとあの女のことばかり追いかけていたでしょう。お忘れかしら」

「いや、追いかけてた、っていうか……そういうつもりではなかったんだけど。……寂しい思いをさせてたなら、ごめんね?」

 言いながら、じりじりと迫ってくるロゼッタに、ルーフェンが一歩下がる。
へらりと笑って、ルーフェンは謝ったが、ロゼッタは、表情をぴくりとも動かさなかった。

Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下 ( No.227 )
日時: 2020/04/07 21:10
名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: 8NNPr/ZQ)


「薄っぺらい謝罪は結構ですわ。一度懐に入れた臣下をとっかえひっかえしたくなかったから、手元に残すつもりでしたけれど、気持ち的には、トワリスなんてさっさと手放したかったんですもの。お父様も、トワリスのことは能力不足だと思っていらっしゃるようですし、彼女を屋敷から追い払って、結果的に召喚師様に恩が売れるなら、それが一番だって、ついさっき思い直しましたの」

「……そうなの? 卿はともかく、君はトワリスちゃんのこと、気に入ってるのかと思ってたけど」

「気に入ってませんわ! あんなうるさい女!」

 叫びにも近いようなロゼッタの声に、ルーフェンは、思わず周囲を見回した。
人目に触れない舞台袖とはいえ、幕を隔てたその先の広間には、まだ侍従や賓客たちが残っている。
ロゼッタ的に、こんな癇癪を起こしている姿を誰かに目撃されたら、まずいのではないだろうか。

 しかし、ルーフェンが口を挟む隙もなく、ロゼッタは、地団駄を踏みながら憤慨した。

「あれは駄目、これも駄目、怪我をしたら危険だから、健康に悪いからって。私、これまでの人生で、あんなに怒られたことありませんでしたわ! 健康に悪いってなに? トワリスは、私のお母様にでもなったつもりだったのかしら? 年下のくせに、乳母よりうるさいんだもの!」

 乳母より、という言葉を聞いた瞬間、耐えきれなくなって、ルーフェンはいきなり吹き出した。
腹を押さえ、身体をくの字に曲げて、大爆笑している。
ロゼッタは、顔を微かに赤くすると、ルーフェンを怒鳴り付けた。

「もう、笑うところじゃありません! お父様が私に専属護衛をつけたいって言うから、どうにか我慢していましたけれど、トワリスったら、一挙一動に文句をつけてくるんですもの。息苦しさで、頭がどうにかなりそうでしたわ!」

 畳み掛けて言うと、ルーフェンは、更に笑い出した。
何がそんなに可笑しかったのか、ロゼッタには分からなかったが、もしかしたらルーフェンにも、トワリスの口うるささに心当たりがあったのかもしれない。
ややあって、涙を拭きながら顔をあげると、ルーフェンは、ようやく出たような声で言った。

「……確かに、言われてみれば、トワリスちゃんってそういうところあるかも」

 トワリスとの出来事を思い出しているうちに、再び笑いの発作が起きたのか、ルーフェンが、何度か堪えるように咳き込む。
それから、「そっかぁ」と呟くと、柔らかい表情になって、幕の隙間から溢れる、ほんの僅かな光を見つめた。

「そういうつもりじゃなかったけど……そうなのかもね」

「…………」

 ルーフェンが自分に向けた、ただの独り言のようであった。
ほら見たことかと、指を差して笑ってやりたかったが、彼の視線は、やはりロゼッタの方には向いていない。
こちらを見もしない相手を、ご丁寧にからかってやるのも馬鹿馬鹿しくなったので、ロゼッタは、開こうとした口を閉じた。

 しばらくの間、ロゼッタは、ただ呆れた様子で、ルーフェンのことを見ていた。
だが、やがて、大きくため息をつくと、平坦な口調で言った。

「もうおしまいにしましょう。どうせ別室で祝宴が再開したら、またご一緒することになりますし、今は貴方のお顔を見ていたい気分ではありませんわ」

 それだけ言って、くるりと背を向ける。
わざと靴の踵を鳴らし、舞台袖から出ていこうとすると、ルーフェンが、声をかけてきた。

「ロゼッタちゃん、さっきの言葉、嘘じゃないよ」

 足を止めて、振り返る。
一体どの言葉だと、訝しむように無言で問うと、ルーフェンは言い直した。

「君のお願い、可能な限りは聞くよってやつ。だから今日みたいに、俺の力が必要だったら、また呼んで。いずれ君が治めるであろうハーフェルンを、敵に回すなんて、恐ろしくて出来ないからね」

 そう言うと、ルーフェンは眉をあげて、唇で弧を描いた。
ロゼッタは、しばらく真顔で立っていたが、ふと目をつぶってから、別人のような可憐な笑みを浮かべると、鈴を転がしたような、高い声で言った。

「私も、召喚師様とは、これからも円満な関係でいたいですわ。だって貴方といると、皆が私のことを羨ましい、妬ましいって陰口叩きながら、指を差してくるんですもの。私、そういう奴等の不細工顔をつまみにお酒を飲むの、だーい好き」

 愛らしく片目をつぶって見せて、にっこりと笑う。
その笑顔を見て、ルーフェンは肩をすくめると、苦笑を浮かべたのだった。

Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下 ( No.228 )
日時: 2020/03/19 18:28
名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: sThNyEJr)


 七日間にも渡る、ハーフェルンの祭典に招待された時。
事前入りすることも考えると、半月近くもアーベリトを空けてしまうことになるので、ルーフェンは正直、乗り気ではなかった。
現国王、サミルからは、「ハーフェルンとの付き合いを無下にするわけにはいかないし、たまには外に出た方が、息抜きできるだろうから」と言われて送り出されたが、社交場で卑しい貴族連中と無駄話をしていると、息抜きどころか、むしろ息が詰まる。
たとえ、生死の境を渡り歩くような、命のやり取りに手を出すことになったとしても、直接アーベリトを守っている実感がある方が、よほど生きているような感じがした。

 アーベリトが王都になってから、五年。
サミルたちと過ごすようになって、救われた部分も多くあったが、一方で、彼らとの時間を、かけがえのないものだと自覚するほど、じわじわと広がる焦燥感や不安感が、心を支配するようになった。
王位を得たことで、少なからず他街から悪意を向けられるようになったアーベリトを、もし自分が守りきれなかったらと、そんな仮定をする度に、神経を苛むような痛みが、胸の奥に走るのだ。

 その痛みから、解放されたいと思うこともあったが、その先を考えると、別の虚しさや寂しさが、目の前に鎮座していた。
そもそもアーベリトは、現在シュベルテにいるエルディオ家の嫡男、シャルシスが成人するまでの期間限定という約定で、王都になったのだ。
元王太妃、バジレットの判断にもよるが、シャルシスが成人するまで、あと十年もない。
これから、十年も経たぬ内に、サミルは王位をエルディオ家に返上し、王都は再びシュベルテとなる。
そうなれば、アーベリトを守らねばという重圧はなくなるが、召喚師であるルーフェンは、シュベルテへと戻らなければならなかった。

 ふとした拍子に心を蝕む、そうした痛みや虚しさは、皮肉にも、あれだけ忌避していた、召喚師としての責務を果たしている時にだけ、忘れることができた。
そうする以外に、無慈悲な時をやり過ごす方法が、思い付かなかったのかもしれない。
かつての制圧対象といえば、内乱時でもない限り、イシュカル教徒くらいのものであったが、アーベリトへの遷都をきっかけに、サミルやルーフェンを狙う輩は増えた。
セントランスやハーフェルンといった大都市を押し退け、アーベリトなどという、ちっぽけな街が王都になったことで、単純に気に食わないと感じる者もいたし、政治的に権力を持っている者の中には、エルディオ家が継続して王位を継承しなかったせいで、痛手を被った勢力もあるだろう。
ルーフェンは、リオット族を引き入れ、一部の商会にのみ特権を与えているから、商家にも、召喚師を恨んでいる者は多くいるはずだ。

 アーベリトの破滅を願う、そういった連中の動きを見逃さず、引きずり出して殺した時が、一番安心できた。
まだ自分は、アーベリトを守れていると思うと、そこに自分の存在意義を、見出だせているような気がするのだ。
徹底的で、ある意味正しいルーフェンのやり方を、サミルが察する度に悲しんでいることは知っていたが、犠牲の上に平和が成り立つのであれば、この方法が最善なのだと、ルーフェンは確信していた。
敵対する人間を潰すことでしか、不安をやり過ごせないなんて、我ながら、哀れな生き方だと思う。
それでもこの先、たった十年足らずで終わってしまう、穏やかなアーベリトの時間を守るためならば、何でもするつもりであった。
そういう心持ちでいないと、自分がアーベリトに来た意味が、なくなってしまう。

 時折、幼い姿をした自分が、こちらを睨んでいた。
かつて自分が、母をそう罵ったように、軽蔑の眼差しを向けながら、「人殺し」と、そう叫ぶのだった。

Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下 ( No.229 )
日時: 2020/03/22 04:06
名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: 8NNPr/ZQ)

 そんな子供さえ殺している内に、身悶えするような痛みを感じることは少なくなっていったが、心を巣食う負の感情が、消え去ったわけではなかった。
無意味に時間を過ごしている時は特に、悩んでもどうしようもない不安を、悶々と考えてしまう。
厄介なことに、そういう時間ほど、ゆっくりと流れていくものだ。
苦しんでいることを、人に悟られたくはないから、誰かと話すときは、笑って慇懃(いんぎん)に済ませるが、ハーフェルンに来て、久々に社交場に出てみると、その時間は、永遠に続くのではないかと思うほど長く、憂鬱であった。

 しかし、意外なことに、いざ祭典が始まると、それは身構えていたよりずっと早く、幕引きしてしまった。
一日目の祝宴で一悶着あった後も、ロゼッタを連れ立って、貴族たちの相手をしなければならなかったが、その時間は、あっという間に過ぎ去った。
というより、今思えば、終始ぼーっとしていたのだろう。

 祭典中、賑やかな街並みを眺めていても、誰かと話していても、常に意識は別のところにあった。
客室に戻り、窓から射し込む月明かりを見ながら、その日一日を振り返ると、今日もトワリスを見かけなかったと、そんなことばかり思うようになっていたのだ。

 トワリスのことを考えていると気づく度、最初こそ、呑気な己を嘲笑するだけで終わっていたが、いつしか、ひやりとしたものが、首筋に触れるようになった。
彼女の頑なな態度に、妙に苛立っていたのも、単なる庇護欲から来るものだけではないと、だんだん勘づき始めていた。
しかし、だからこそ早い内に、目をそらすべきなのだと、そう言い聞かせていた。

 トワリスに限らず、誰かとの未来なんて、想像したことはない。
刹那的な関係を求めるなら、手を伸ばしても良いかもしれないが、潔癖なトワリスが、そんな不誠実な真似を許すはずがないし、かといって、長い間召喚師一族の横に縛り付けておくには、彼女は優しすぎるだろう。
召喚師に寄り添った者の末路を、ルーフェンはよく知っている。
母シルヴィアは、十八で一人目のルイスを産み落とし、結果的に四人の夫と四人の子を持ったが、誰一人として、幸福を得た者はいなかった。
召喚師一族と関わるというのは、つまり、そういうことなのだ。
本人たちの意思に関係なく、たとえどんな軽い気持ちで一緒にいたのだとしても、いずれは次期召喚師という、国の贄を誕生させる重責を背負わされることになる。
そんな重責を、他でもない好いた相手に、誰が背負わせようなどと思うのか。
少なくとも、ルーフェンには理解できなかったし、完全なる利害の一致で関係を持っていたロゼッタとも、これ以上続けるのは申し訳がないから、そろそろ潮時だろうと考えていた。

 日毎、悶々とそのような思考を巡らせていると、危機感を感じていながら、自分にも人らしく春を知る余裕があったんだなぁと、他人事のように思えておかしくなった。
かつて、牙を剥いて噛みついてきていた少女に、まさかこんな想いを抱くようになるなんて、人生とは分からないものである。

 初日の祝宴以降、下っ端の武官たちは、城下の警備に回されていたようで、結局祭典の間、ルーフェンがトワリスを見かけることは、一度もなかった。
顔を見ない時間が増えれば、トワリスのことを考えることも減っていくだろうと思っていたが、人の心とは不思議なもので、その逆だった。
二日目、三日目と祭典が過ぎていくと、むしろ、彼女はどうしているだろうかと、考える頻度が増えていったのだ。

 祭典が終われば、ルーフェンはアーベリトに戻るし、トワリスだって、解雇通達を受け次第、シュベルテに戻るなり、魔導師を辞めるなりするだろう。
彼女が解雇される原因に、少なからず自分も関与していると思うと、多少罪悪感はあったが、そうなれば、今後トワリスと顔を合わせることはなくなる。
その事実に、安堵している自分がいた。
ロゼッタは、ルーフェンがトワリスに慕情を抱いている、とでも言いたげであったし、自分でも、これがそうなのかと思ったが、ルーフェンには、トワリスと共に過ごしたいとか、そういった願望はなかった。
アーベリトに誘ったのも、単にトワリスが、ハーフェルンにいるよりは穏やかに暮らせるんじゃないかと、そう思っただけだ。
あのときは、不器用なトワリスを守ってやりたい一心で、自分の目の届くアーベリトに来ないかと提案したが、今考えてみると、そんな誘いすら軽率だったと後悔しているから、トワリスが断ってくれて、良かったかもしれない。
今後、彼女に関わらなければ、身の内に起きた余計な変化を、認めずに済む。
このまま別れて、更に時が経てば、記憶なんて風化していく。
人生のほんの一瞬、一時抱いただけの感情など、簡単に薄まっていくだろう。
十年も経てば、若い頃の良い思い出だったと、満たされた気持ちで、忘れ去っていける。
自分の立場であれば、そうであるべきだ。
きっと、そうでなければならないのだ。

 そんな風に思い込むと、纏まりのなかった思考は、途端に収束して落ち着いたが、代わりに、虚ろになった胸の奥に、ぽっかりと空洞ができたような気がした。
マルカン家の客室には、部屋全体を暖める大きな炉も、分厚い豪奢な寝具も用意されていたが、一度胸の空洞を意識してしまうと、足元から、薄寒さが這い上がってくる。
夜、しんしんと冷え込む室内で、独り物思いに耽っていると、妙に冴えた頭が、恐ろしいほど冷静に現実を叩きつけてくるのであった。

Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下 ( No.230 )
日時: 2020/03/23 19:24
名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: 8NNPr/ZQ)



 不意に、扉を叩く音が響いた。
我に返ったルーフェンは、返事をしようとして、しかし、扉越しに聞こえてきた声に、さっと血の気が引いた。

「あの……夜分に失礼します。召喚師様、いらっしゃいますか?」

──トワリスの声だ。
そう悟った瞬間、開こうとした口を閉ざし、寝台に腰かけたまま、ルーフェンは動けなくなった。

 狙ったかのようなこのタイミングに、一体、何をしに来たのだろう。
祭典が開かれていた七日間、折角会わずに済んだと安堵していたのに──なんていうのは、ルーフェンの勝手な都合だが、それにしたって、トワリスがわざわざ尋ねてくる理由なんて思い付かない。

 無意識に息まで殺して、居留守を決め込んでいると、やがて、扉の外に佇んでいた気配が消えた。
ルーフェンを不在だと思って、帰ったのだろうか。
詰めていた息を吐き出し、目をつぶると、のし掛かるような疲れが、どっと押し寄せてきた。
確かに会いたくはなかったが、無視までするなんて、なんだか自分が情けなくなった。
トワリスに対して、後ろめたいことがあるわけでもないし、いつも通りの態度で、扉を開ければ良かったのだ。

 自分自身に呆れ果てながら、ほっと肩を撫で下ろしたのも、つかの間。
ふと、窓の方から、枠が軋むような、微かな音が聞こえてきた。
まさか、と思いながら腰をあげ、恐る恐る窓に近づき、押し開く。
一階の窓を見下ろし、それから、突き出た屋根のほうを見上げると、その──まさかであった。
視線の先では、屋根伝いに渡ってきて、ルーフェンの部屋を窓から伺おうとしていたトワリスが、洋瓦から顔を覗かせていたのだ。

「──!?」

 目があった瞬間、二人は驚いて、同時に悲鳴をあげた。
トワリスは、飛び退いた拍子に屋根から落ちたが、咄嗟にせり出した窓枠を掴んで、事なきを得たらしい。
腕一本で落ちずに持ちこたえたトワリスを、そのまま室内に引きずり上げると、ルーフェンは、目を白黒させながら尋ねた。

「な、えっ!? 何してるの!?」

 二階なので、そこまでの高さがないとはいえ、不意打ちで落下していたら、トワリスとて着地に失敗していたかもしれない。
妙にずっしりと重たそうな背負い袋を下ろし、腹に抱え込みながら、トワリスは、ふるふると首を振った。

「いや、あの……すみません。でも、違うんです。別に侵入しようとしたとかじゃなくて……気配はあるのに、扉を叩いたとき、返事がなかったから、中で召喚師様が倒れてるんじゃないかと思って……。別の人なんですけど、前にそういうことがあったから、心配で……」

 もう一度、すみません、と付け足して、トワリスは言葉を濁した。
だからといって、屋根を伝ってくるのはいかがなものかと思うが、心配してくれていたのは、本当だったのだろう。
よほど焦っていたのか、いつもは血色のよいトワリスの頬が、心なしか青白い気がする。
彼女の心境を思うと、居留守なんて決め込んでいた自分が、一層憎らしく思えた。

 窓を閉めると、ルーフェンは、床に座り込んでいるトワリスと向かい合った。

「……ごめん。その、寝てて気づかなくて。何か用だった?」

 一度咳払いをして問うと、トワリスは、躊躇いがちに顔をあげた。
まるで、この場にいる自分に戸惑っているような、まごついた表情であった。

 床の上で正座をすると、トワリスは、口を開いた。

「用、というほどのものではないのですが……召喚師様は、明日には、アーベリトに帰られますよね? 私も、実は解雇を申し渡されてしまったので、祭典の後始末が終わり次第、シュベルテに戻ろうと思うんです。それで、その……色々と失礼なこともしてしまったので、ご挨拶に伺いたいって言ったら、ロゼッタ様が、召喚師様の泊まっているお部屋を教えてくださって……」

 たどたどしいトワリスの言葉に、なるほど、と納得して、ルーフェンもその場に胡座をかいた。
祝宴の際は、随分と素っ気ない態度だったので、トワリスももう自分とは関わりたくないのだろうと思っていたが、それはそれとして、召喚師に対して暴言や暴力を振るったことを、きちんと謝罪したいらしい。
律儀なトワリスのことだから、お互いがハーフェルンを去る前に、ルーフェンに会いに行かねばと思い悩んでいたのだろう。

 冷たい床に座らせたままというのも酷なので、椅子を勧めようかと思ったが、やめた。
トワリスは、そこまで気にしていないだろうが、仮にもここはルーフェンの部屋で、他に人はいない。
一度椅子に腰を落ち着けてしまうと、長話になるかもしれないし、仮にも二人きりの状態で、トワリスを長く引き留めるのは、なんとなく憚られた。

Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下 ( No.231 )
日時: 2020/03/25 19:10
名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: 8NNPr/ZQ)


 ルーフェンは、にこりと微笑んだ。

「……それは、わざわざありがとう。君には嫌われてたような気がしてたから、最後に会えて嬉しいよ」

 そう言うと、トワリスは表情を曇らせた。

「べ、別に嫌ってたわけじゃ……。ただ、いろんな女の人の前で鼻の下を伸ばして、いい加減な態度ばかりとるのは、いかがなものかと……」

 口ごもりながら、目線を下にそらして、トワリスは不満げにぼやいた。
この調子で、ロゼッタにもあれやこれやと、口うるさく注意していたのだろう。
母親になったつもりか、と憤慨していたロゼッタの表現が言い得て妙で、思い出すだけで、再び笑いそうになった。

 言うか言うまいか迷ってから、困ったように肩をすくめて、ルーフェンは続けた。

「あのさ、一応言っておくけど、祭典中に会った女の子たちは、全員ただの知り合いだから。社交場だと、ああいう距離感が普通というか、深い意味はないというか……。なんなら、ロゼッタちゃんとも別に──」

「分かってます。いちいち気にしてる、私が悪いんです。ロゼッタ様にも怒られました、他人のすることに逐一目くじらを立てるなって。浮気したとかしてないとか、そういう恋愛沙汰も、貴族の方々は本来、笑ってやり過ごさないといけないんですよね。まして、私みたいな一般の魔導師が、怒るようなことじゃない。今回の件で学びました」

「……いや、俺が言ってるのは、そういう話でもないんだけど……」

 言葉を遮り、間髪入れずトワリスが答える。
まるで分かっていない答えに、改めて説明しようとも思ったが、そこまで必死に言い訳をするのも、逆に怪しまれそうだったので、ルーフェンは口を閉じた。
誤解されたままというのも、なんとなく嫌であったが、そう思われるような振る舞いをしていたのも確かなので、弁解の余地はない。

 一方のトワリスは、しばらく小言を言った末に、しまった、という風に口元を押さえると、自分の頬をぴしゃりと叩いて、怒ったように言った。

「そうじゃなくて……! えっと、私はこんな話をしに来たんじゃないんですよ!」

 何やらぶつぶつと溢しながら、やがて、ふと真剣な顔つきになると、ルーフェンに向き直る。
居住まいを正し、一つ呼吸をしてから、トワリスは、持ってきた背負い袋の中から、三冊の分厚い魔導書を取り出した。

「これ……ようやく、召喚師様にお返しできます。いずれ私が、アーベリトに直接伺って、お返ししたかったのですが、先になってしまいそうなので……今、お返しさせて下さい」

 ルーフェンの方に向きをそろえ、丁寧に重ねると、トワリスは、そのまま魔導書を差し出してきた。
五年前、トワリスがアーベリトの図書室から借りていった、三冊の魔導書であった。
よほど使い込んだのだろうが、丁寧に扱ってもいたようだ。
魔導書は、所々擦りきれている部分があったものの、その硬表紙の保存状態は、元が古い蔵書と思えぬほど良かった。

 続けて、その上に便箋を一枚乗せると、トワリスは、どこか恥ずかしげに言った。

「あと、この手紙は……私の気持ちです。直接だと、余計なことしか言えないので、手紙にまとめました。もし、お時間があったら読んでください。なければ、捨てていただいて構いません」

「…………」

 色味も飾り気もない、無地の白い便箋であった。
きっと中の手紙には、粛々とした別れの挨拶だけが、几帳面な文字で書き連ねてあるのだろう。
業務連絡でもあるまいし、そこまで畏まった文面にしなくても良いのに、トワリスが寄越す手紙は、昔から妙に堅苦しかった。
それでも、口では上手く言えないからと、選び抜かれた言葉が並ぶその手紙には、いつだって彼女らしさが認(したた)められている。
今日まで祭典で、トワリスとて日中忙しかっただろうから、昨夜あたりに、徹夜で書いたのかもしれない。
あの細い手指で筆を持ち、一生懸命文を綴っていたのかと思うと、なんとも言えぬ温かさが、胸の奥に広がった。

Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下 ( No.232 )
日時: 2020/03/27 18:52
名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: 8NNPr/ZQ)



 そっと便箋を手に取ると、ルーフェンは問うた。

「……今、開けて読んでいい?」

「えっ」

 トワリスの顔が、ほのかに赤くなる。
それはちょっと、と俯いてから、ややあって、ルーフェンから便箋を引ったくると、トワリスは、か細い声で言った。

「や、やっぱり、直接言わせてください……」

 手繰り寄せた便箋が、トワリスの手の中で、くしゃりと丸まる。
もったいない、と思ったが、トワリスはもう、便箋のことなど頭にないらしく、強ばった顔で身を縮こまらせていた。

 緊張しているのか、便箋を握りつぶしているその手が、微かに震えている。
しばらくの沈黙の末、三つ指をつくと、トワリスは、決心したように、深々と礼をした。

「……まず、五年前のこと、本当に……ありがとうございました。陛下と召喚師様には、言葉では言い表せないほど、感謝しています。今こうして生きているのも、魔導師になれたのも、全部、お二人のおかげです。ハーフェルンでは、いらぬことばかり口走ってしまい、誠に申し訳ありませんでした。失敗しているところばかり晒してしまって、お恥ずかしい限りなんですが……本当は、ずっと、ずっと、お礼を言いたかったんです。偶然召喚師様と再会できたときも、すごく、嬉しくて……色々あったけど、今まで頑張ってきて良かったなって、心から、そう思ったんです」

 トワリスの中で、何度も繰り返してはいたが、結局一度も、口には出せていなかった言葉であった。
本当は、中庭で再会したときに、開口一番で言いたかった言葉。

 顔を上げぬまま、トワリスは言い募った。

「短い間でしたが、ハーフェルンにきて、自分がまだまだだったんだってこと、沢山思い知らされました。マルカン侯やロゼッタ様に言われたことも、召喚師様に言われたことも、祭典の間、ずっと考えていたんです。納得できたものもあれば、正直、納得できないものもありました。だけど、全部私に対してのご意見だと思って、大切にします。シュベルテに戻ってからも思い出して、精進します。それでいずれは──」

 そこまで言ったところで、トワリスは、言葉を止めた。
ルーフェンが、話を聞きながら、くすくすと笑っている。
トワリスが顔をしかめたことに気づくと、ルーフェンは、慌てて手を振った。

「……ああ、ごめん、ごめんね。話がおかしくて、笑ったんじゃないんだ。ただ、トワリスちゃんって本当、真面目だなぁと思って」

 「そうですか?」と小さく問い返して、ようやく、トワリスが顔をあげる。
一度笑みをおさめると、ルーフェンは、いたずらっぽく口角を上げて、トワリスに尋ねた。

「ロゼッタちゃんが、君をそばに置くのが嫌になっちゃった理由、聞いた?」

 ぱちぱちと瞬いたトワリスが、首を横に振る。
眉を寄せ、考え込むような表情になってから、トワリスは、おずおずと答えた。

「……魔導師として、未熟だから、ですか?」

 一瞬、ルーフェンの顔が、笑いを噛み殺したかのように歪む。
真剣に答えたのに笑われて、トワリスが再び顔をしかめると、ルーフェンは謝りながら、どこか楽しげに答えた。

「……君がさ、乳母より口うるさいからだって」

「は? いや、だってそれは──」

 反論しかけて、慌てて口をつぐむ。
つい先程、納得ができない言葉でも、大切にすると宣言したばかりなのに、早速破ろうとしてしまった。
だってそれは、の先に続けたい文句は腐るほどあったが、それはルーフェンの前で言うことではないだろう。

Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下 ( No.233 )
日時: 2020/03/29 19:06
名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: 8NNPr/ZQ)


 トワリスの心の中の葛藤を察したのか、ルーフェンは、苦笑混じりに言った。

「真面目なのは結構だけど、無理して飲み込まなくていいと思うよ。どうせ影で、悪どいことしまくってるんでしょ、天下のロゼッタ様はさ。まあ、侯爵令嬢としての生活は窮屈だろうから、その気持ちも分かるけど、あくまでトワリスちゃんは、善意で注意してたわけなんだし、そんなに気にしなくていいんじゃない?」

 返答が予想外だったのか、トワリスは、目を丸くした。
しかし、すぐに俯いて、ゆるゆると首を振ると、膝上に置いた拳を、ぎゅっと握りしめた。

「い、いえ、気にします……。単に私の言い方が、悪かったって話で……。ロゼッタ様の身の安全が第一なのは勿論ですが、あくまで私は一臣下ですから、出すぎた行為や発言は非礼にあたるっていう自覚が、足りなかったんだと思います」

「そう? まあ、君がそう思うなら、いいんだけどさ。ただ、トワリスちゃんには、自分を曲げてほしくないなぁと思って」

 思い詰めた様子のトワリスに、ルーフェンは、眉を下げた。

「俺も、色々余計なことを言ってしまって、ごめんね。トワリスちゃんみたいな子は、狡猾な奴等に利用されそうで、見てられなかったんだ。でも、だからって周りと同じく狡猾になって、自分を偽れだなんて、よく考えたら可笑しいよね。トワリスちゃんは、そのまっすぐさで、実際にここまで来ちゃったんだもんな」

 呟くように言ってから、ふと、目を伏せる。
言葉の意味を図りかねて、難しい顔をしているトワリスに、ルーフェンは付け足した。

「要は、周りが何を言ってこようと、今後もトワリスちゃんは、トワリスちゃんらしく、そのまんまでいてほしいなぁってこと。大層なことを言えるほど、長い時間を君と過ごしてきたわけじゃないけど、トワリスちゃんは、今も昔も、根っこの部分は変わってないなって感じるし、これからも、変わらないでほしいと思うよ」

 言い終わると、トワリスは、更に表情を固くしてしまった。
変わらないでいてほしいというのは、ルーフェンの本心であったが、どうやら彼女には、頷きがたい意見だったらしい。
かといって、何か言わねば、生真面目さ故に一人で思い悩んで、どんどん落ち込んでいきそうなので、やはりトワリスは、面倒臭い性格だと思う。
面倒臭いのに、ずっと見ていたいと思うようになってしまったのは、いつからだっただろうか。
五年前から、その気持ちはあったような気もするし、この七日間で、急速に芽生えた気持ちのような気もする。

 トワリスは、また考え込むように下を向いて、しばらく押し黙ってきた。
だが、やがて、思い定めたようにルーフェンを見ると、その身を乗り出した。

「でも、変わらないと……強くなれません。私、もっと強い魔導師になりたいんです。出すぎたことだって思われるかもしれませんけど、召喚師様にも頼ってもらえるような……そういう存在に、本気でなりたいって思ってるんです」

 思いがけず、熱のこもった声で言われ、見つめられて、ルーフェンは、思わずどきりとした。
また、あの瞳だ。五年前、魔導師になると告げてきた時と同じ、静かな迫力に満ちた、赤鳶の瞳──。
この目に捕らえられると、もう顔を背けられなくなってしまう。

 不意に、炉で踊っていた炎が、ばちっと音を立てて爆ぜた。
トワリスの赤みがかった瞳は、炎の色とは違う赤であったが、ゆらゆらと揺れるその奥──芯の部分で放つ不動の光は、どこか似ているように見えた。

 揺蕩う火影が、その頬を撫でる様を見つめながら、ルーフェンは、トワリスの腕を掴んで、引き寄せた。

「……それなら、やっぱり、アーベリトにおいでよ」

 こぼれ出た言葉に、トワリスの目が、微かに動く。
言ってしまってから、自分が何を口走ったのか分かって、ルーフェンは、慌てて補った。

「ああ、いや、もちろん。前にも言った通り、無理強いするつもりはないんだけど……」

 気まずくなって、目線をそらす。
乗り出していた体制を戻し、俯くと、トワリスはどこかおかしそうに言った。

「……召喚師様も、なんだかんだで、根本は昔と変わらないですよね。だってこの前も、今も、命令だから来いって言えば、それで済む話なのに」

 それからトワリスは、落ち着いた表情になると、再び黙りこんでしまった。
長い沈黙が続いて、徐々に、彼女の目の色が、色味のないものへと変わっていく。
トワリスは、一線引くと、遠くを見ているような、静かな顔つきになった。

「召喚師様は、私を心配してくださってるんですよね。……そのお気持ちは、とても嬉しいですし、未だに気にかけて頂いてるのは、光栄です。でも、実力不足のままアーベリトに行ったって、意味がないんです。私が目指しているのは、アーベリトで守られている獣人混じりじゃなくて、アーベリトを守る魔導師なんです」

「…………」

 ここで、そうかと答えて、話を切り上げるのが正解だったのだろう。
そうすれば、現時点で、トワリスがアーベリトに来ることはなくなる。
頭では、そのことが分かっていたが、ルーフェンは躊躇ったように口を開きかけるだけで、なにも言うことができなかった。
ややあって、ため息をつくと、ルーフェンはぽつりと溢した。

「……そうじゃないよ」

 顔を上げたトワリスが、怪訝そうに首を傾げる。
トワリスは、ルーフェンの否定の意味が分からないようであったが、正直なところ、ルーフェン自身も、よく分からなくなっていた。
同情心からアーベリトに誘われているのだと勘違いして、落ち込むトワリスの誤解を解きたいだけなのだと思いたかったが、それだけではないような気もしていたのだ。

Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下 ( No.234 )
日時: 2020/03/31 19:11
名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: 8NNPr/ZQ)



 ルーフェンは、諦めたように吐息をつくと、穏やかな声で言った。

「ごめん、そうじゃない。言葉足らずだったな……。今、アーベリトにおいでって言ったのは、君のことが心配だからってわけじゃない。君に来てほしいから、言ってるんだよ」

 トワリスが、瞠目する。
ルーフェンは、その目を見つめ返した。

「祝宴の場で戦う君を見たとき、本気ですごいと思った。俺じゃ、誰が侵入者なのか的確に見抜けなかったし、素早く動けたのも、君だからこそだと思う。魔術を使ったからって、誰でもあんな風に動けるわけじゃない。白状すると、今まで、君があんなに強いと思ってなかったんだ」

「…………」

 ルーフェンは、トワリスの腕を掴む手に、力を込めた。

「五年前に言ってくれたこと、ちゃんと思い出したよ。俺たちに甘えて、アーベリトで暮らすんじゃなくて、サミルさんたちにとって必要な人間になって、帰ってきたいんだって、そう言ってたでしょう? ……もう十分だよ。君はそこらの魔導師よりもずっと強いし、何より信頼できる。……だから、俺と一緒に、アーベリトを守ってくれない?」

 言っている最中、トワリスは、ただ大きく目を見開いて、ルーフェンの言葉に耳を傾けていた。
言い終えた後も、まるで石像のように硬直して、ルーフェンのことをじっと見つめていたが、やがて、ふと、その目に不安定な光が揺らいだと思うと、トワリスの頬に、ぽろっと涙が伝った。

「えっ……」

 ぎょっとして、今度はルーフェンが硬直する。
トワリスは、自分でも驚いたように涙を拭うと、すんっと鼻をすすった。

「……本当ですか」

 呟いてから、ルーフェンを見る。
トワリスの頬に、もう雫は流れていなかったが、強く擦った目には、まだ涙が滲んで、潤んでいた。

「嘘だったら、刺しますよ」

「刺っ……こんな時に嘘つかないよ……」

 それを聞くと、再び涙腺が緩くなったのか、トワリスは、下を向いた。
何度も瞬き、それでも堪えきれなかったものは拭いながら、トワリスは、途切れ途切れに言葉を紡いだ。

「……私、まだまだなんです。全然、まだ駄目なところが沢山あって……だけど、そう言ってもらえると、すごく嬉しいです……。嬉しい……」

 涙が溢れている間、トワリスは、決して顔をあげなかった。
声を漏らすこともなく、ただ、擦りすぎて赤くなった瞼に、袖口を押し当てている。
しばらくは、すすり上げるように、呼吸を震わせていたが、大きく息を吸うと、トワリスは、ゆっくりと顔をあげた。

「……こんなこと、言うつもりなかったんですけど……祝宴の時、実はわざと派手な魔術を使って、大袈裟に動いたんです」

 言いながら、もう一度、鼻をすする。
それから、泣き笑いするように顔を歪めると、トワリスは言った。

「召喚師様に、かっこいいところを見せたかったので」

「──……」

 トワリスのこんな顔は、見たことがなかった。
余計なお世話だと憤慨している顔も、不満げに眉間に皺を寄せているところも、緊張した仏頂面も見たことはあったが、どこか彼女らしく、不器用に眉を下げて笑う、こんな表情は、知らなかった。

 今更になって、トワリスの腕を握っていたことに気づいて、ルーフェンは、狼狽えて手を離した。
行き場を失った手が、妙に熱い。
喉がからからで、絞り出した声が、やけに掠れていた。

「いや、えっと……本筋がそれたけど、今のは、哀れみで君をアーベリトに誘ってるわけじゃない、って話ね。実際にアーベリトに来るかどうかは、君に任せるよ。前にも言ったけど、俺やサミルさんへの恩義でアーベリトに来ようと思ってるなら、そんなの気にしないで、本当にやりたいことをやればいいし……」

 何かを誤魔化すかのように、早口で捲し立てる。
ずっと腕に触れてしまっていたので、途中でトワリスに殴られると思ったが、殴られなかった。

 トワリスは、首を横に振った。

「恩義ですよ。……恩義ですけど、それが、私の意思でもあるんです」

 柔らかい声で言って、トワリスが、破顔する。
困ったように笑んだ彼女の表情は、いつもよりあどけなく、無防備に映った。

「召喚師様たちにとっては、助けてきた大勢の内の一人でも、私にとっては、お二人が全てだったんです。だから、召喚師様が望んでくださるなら、今すぐにでもアーベリトに行って、恩返しをしたいです。それが、私の目標で……やりたいことだったんです」
 
 音を立てて揺れる炉の炎が、トワリスの濡れた目を、煌めかせている。
本当にそれで良いのかと、再度問おうとして、やめた。
思い直されても、後戻りできる気がしなかったし、これ以上は何を言っても、トワリスの意思は、揺らがないだろうと思った。

 心臓の音が、やけに近くで聞こえる。
共に過ごしたいなどと望んではいなかったはずなのに、トワリスが自ら、自分の隣を選んでくれたのだと思うと、途端に、息苦しいような喜びが、胸を締め付けてきた。
その気持ちを、認めざるを得なくなったのは、思えば、この瞬間だったのかもしれない。



To be continued....