複雑・ファジー小説

Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下 ( No.276 )
日時: 2020/07/04 20:19
名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: as61U3WB)


†第五章†──淋漓たる終焉
第二話『欺瞞』



「……失礼いたします。ジークハルト・バーンズです」

 入室の許可を得ると、ジークハルトは、団長室へと足を踏み入れた。
月明かりさえ射し込まぬ暗い部屋の中で、大きな燭台の明かりだけが、ゆらゆらと光っている。
現宮廷魔導師団長、ヴァレイ・ストンフリーは、ジークハルトを見やると、ここ数年で一気に痩せ衰えた頬を、わずかに緩めた。

「明日も早いというのに、夜更けに呼び立ててすまないな」

「……いいえ。離反者の件でしょう」

 平坦な声で返すと、ヴァレイは静かに頷いた。
示された長椅子に腰を下ろし、執務机を挟んで、二人は向かい合う。
ジークハルトは、小指の先程の小さな女神像を三つ、懐から取り出すと、ヴァレイの前に置いた。

「これは……」

「先日、無断退団で処分対象となった魔導師たちから押収したものです。やはり、新興騎士団とイシュカル教会には、何かしら繋がりがあると見て間違いないでしょう」

「…………」

 ヴァレイの眉間に、深く皺が寄る。
かつて、優れた結界術の使い手として名を挙げた彼の目は、今やすっかり落ち窪み、憔悴しきっている様子であった。

 イシュカル教会とは、創世の時代に大陸を四つに分断し、四種族を隔絶させることで平和をもたらしたとされる女神、イシュカルを信仰する反召喚師派の勢力である。
元は非暴力的な活動を基本とする穏健派で、暴動を起こすような急進派は、鎮圧に時間を要さぬほどの少数であった。
ルーフェンがまだ次期召喚師であった頃に、壊滅させたサンレードも、鎮圧された急進派の一派である。

 しかしながら近年、ルーフェンが、アーベリトへと移ってから、イシュカル教会は、シュベルテにおいて着々と力をつけ始めていた。
主に、リオット族の受け入れや、アーベリトへの王位譲渡に反対していた者たちが、召喚師一族や旧王家に対して不信感を募らせ、入信し始めたのである。
敵対する召喚師が、別の街に移ったことを好機とし、イシュカル教会が増長するところまでは、魔導師団側も予測できていた。
だが、予想外だったのは、旧王家に仕えている世俗騎士団までもが、イシュカル教会と繋がりを持っている可能性が、最近になって示唆されるようになったことであった。
しかも、召喚師一族の管轄である魔導師団の中にまで、教会側に寝返る者が現れ始めたのである。
シュベルテでは、非暴力を掲げている限りでは、宗教の自由を認めている。
しかし、騎士や魔導師など、言わば中立の立場で国を守るべき武装集団が、召喚師一族や旧王家に反駁はんばくし、反権力的な思想を唱え始めたとあれば、話は別である。
まだ水面下での“疑い”段階に過ぎないが、騎士団が反召喚師派に回り、魔導師団までもが分派を始めれば、シュベルテの軍事体制は崩壊するだろう。

 ジークハルトは、淡々と続けた。

「既に、下級魔導師の中にも、団からの離反と新興騎士団への蜂起を呼び掛ける者が出始めています。処分した魔導師たちは、表向き、イシュカル教徒を名乗ってはいませんでしたが、この女神像を所持していたことから、入信者であると判断して間違いないかと。今月で既に、七名が退団しています。我々の目の届かぬところで、大規模な動きが生じているのだとすれば、規律違反を罰しているだけでは、もう抑えきれないでしょう」

「…………」

 ヴァレイは、ぼんやりと女神像を見つめて、しばらく押し黙っていた。
だが、やがて、ため息をつくと、低い声で言った。

Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下 ( No.277 )
日時: 2020/07/06 18:58
名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: 8NNPr/ZQ)


「……表沙汰となって混乱が生じる前に、対処できれば思っていたが、もう限界だな。陛下と召喚師様にも、ご報告をあげるしかあるまい。イシュカル教の追放令を出したところで、事態は一層波立つだけだ。教会が騎士団をも巻き込んで武力を持ったのだとすれば、今更叩く相手として、あまりにも大きすぎる。軍内勢力が二分し、内乱でも起きたら、シュベルテはもはや、今の姿を保てないだろう」

 ヴァレイは、目に苦笑の色を浮かべた。

「皆、すがるものを必要としているのだろうな。数年前までのシュベルテには、常に進取と発展の風が吹いていた。召喚師一族の庇護の下、王都として歩んできた、その誇りと自信。安定した王政と、磐石な軍制……そんなものに囲まれて、これからも、変わらぬ豊かな暮らしを送れると、そう信じて疑わなかった。……それが、今はどうだ。旧王家、カーライル一族は、まるで呪われているかのように次々と不審死を遂げ、王位継承者は、幼いシャルシス様を除いて、全員絶えた。結果的に、成り上がりに過ぎないレーシアス伯に王位が渡り、召喚師様までシュベルテを“棄てた”のだ。召喚師一族が持つような絶大な力は、手元にあれば心強いが、そうでなければ、ただの脅威だ。五百年続いてきた王都の歴史に終止符が打たれ、我々にはもう、何も残っていない。古の時代に平和をもたらした、目に見えぬ神などというものに、皆、すがりたくもなるのだろう。遷都などせずに、シルヴィア様を一時即位させ、シュベンテに王権と召喚師一族を残しておけば、また結果は違ったのやもしれぬが……」

「…………」

 黙っているジークハルトに、ヴァレイは問うた。

「お前も、そうは思わないか」

 目を伏せると、ジークハルトは答えた。

「当然、違った結果にはなっていたでしょう。しかし、すがる対象が、神像か、召喚師一族かの違いだけです。その良し悪しを考えるのは、意味のないことと存じます」

 ヴァレイは、微かに口端を歪めた。

「召喚師一族を、このちっぽけな像と一緒にするとは。なんだ、お前も教会側か」

 揶揄するような口調で言って、ヴァレイは、机上の女神像に触れる。
ジークハルトは、ため息をついた。

「……いえ。ただ、何かにすがることで安心しきっているようでは、どの道、この国の支柱は腐り落ちるでしょう。命なき神像に祈って満足しているよりは、確かな力を有する召喚師一族にすがった方が、まだ延命処置としては有効かもしれません。その結果が、五百年。ただ、そのまま依存し続けたところで、最終的な末路は同じと言えましょう。召喚師一族もまた、人間です。頼るものもなく、一方的にすがられるばかりでは、いずれ限界が来る。それが、“今”だという話です」

 ヴァレイはつかの間、探るような目つきで、ジークハルトを見つめていた。
しかし、ややあって、指先で弄んでいた女神像を置くと、安堵したように表情を緩めた。

「お前は、昔から変わらないな。だが、その発言は、俺以外の前ではするなよ。場合によっては、侮辱の意味でとられるぞ」

「…………」

 黙っていると、ヴァレイは、呆れたように肩をすくめた。
ジークハルトの無愛想さには、もうすっかり慣れきっている様子である。

 ヴァレイは、冷静に物事を見通せる、稀有な魔導師の一人だ。
彼は決して、旧王家や召喚師一族に盲信して、国に仕えているわけではない。
魔導師としてどう在るべきなのかを、常に正しく、見据えていられる人物なのだ。

 そんな彼が、召喚師一族に傾倒したような発言をするなんて、らしくないと思っていたが、おそらくヴァレイは、ジークハルトの真意を確かめるために、心にもない文言を並べ立てただろう。
旧王家が呪われているだの、シルヴィアを一時即位させていれば事態は好転していただの、全てが間違いだとは言えないが、これらは、民の不安が産み出した極端な被害妄想に過ぎない。
しかし、『召喚師がシュベルテを棄てた』という言葉だけは、ヴァレイが預かり知らぬだけで、事実であるように思えた。

Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下 ( No.278 )
日時: 2020/07/08 21:37
名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: 8NNPr/ZQ)



 ジークハルトは、ヴァレイの知らぬルーフェンの横顔を、六年前に見たことがある。
歴史上の召喚師一族は、それこそ神にも等しいような存在として神聖視されてきたが、ジークハルトの見たルーフェンは、自分と然程変わらぬ、ただの少年であった。

 時折、同年代とは思えぬ、冷たい顔を見せることもあったが、その一方で、ルーフェンにとっては、ただの一臣下に過ぎないオーラントが片腕を失くした時には、実子のジークハルト以上に取り乱していた。
存外に子供っぽい奴だ、とも思ったし、同時に、不思議な奴だ、とも思った。
誰もが羨む、地位と力を持っていながら、そんなことは、彼にとってはどうでもいいことのようであった。
それどころか、召喚師であることを突きつけられた時のルーフェンは、まるで、自分を取り囲む鉄格子でも見ているかのような目をするのだ。

 移籍先が同盟下にあるアーベリトとはいえ、召喚師が去れば、シュベルテが混乱することなど、ルーフェンにも予想がついていたはずだ。
それでも尚、去ったということは、言葉通りルーフェンは、シュベルテを棄てたのだろう。
冷静な者であれば、ルーフェンは、遷都した故にアーベリトに移っただけで、それを棄てられたなどと悲観的にとらえるのは、偏った感情論だと考えるだろう。
だが、それすらも、ルーフェンに対して理想を見出だした、楽観的な感情論なのかもしれないと、ジークハルトは時折思うことがあった。
召喚師一族は、確かに絶対的な力を持っているが、だからといって、気高い国の守護者だと決めつけるのは、何かを崇めたい人々の願望だ。
民が思うほど、召喚師一族は高潔な存在ではないし、教会が思うほど、邪悪な存在でもない。
彼らは、ただの人間だ。
拠り所を失った者たちが、神にすがるようになったのと同じように、ルーフェンもまた、すがれる何かを求めて、アーベリトにたどり着いたのだろう。
ジークハルトには、そんな風に見えていた。

 ヴァレイは、椅子の背もたれに身を預けると、口を開いた。

「ジークハルト、お前、宮廷魔導師になって、もう一年経つか。いくつになった」

「……二十一です」

「そうか……若いな」

 ぽつりと呟いて、ヴァレイは嘆息する。
ジークハルトが眉を寄せると、ヴァレイは、その表情を見て、小さく笑った。

「そう睨むな、悪かった。別に馬鹿にしたわけじゃない」

 次いで、笑みを消すと、ヴァレイは真剣な顔つきになった。

「……お前、宮廷魔導師団を背負う覚悟はあるか」

 ジークハルトの目が、微かに見開かれる。
返事を待たずに、ヴァレイは言い募った。

「宮廷魔導師は、言わば国の懐刀だ。君の父上のように、遠征経験を見込まれる場合もあるが、基本的には、旧王家のすぐ側で奉ずることになる。個々の能力も勿論重要だが、何よりも大切なのは、濁らぬ慧眼だ。団を背負うならば、シュベルテという限られた場所においても、常に正しく世の全体像を見ることができねばならない。……お前に、それが出来るか」

「…………」

 ジークハルトは、ヴァレイの顔を見つめたまま、しばらく沈黙していた。
その目を見つめ返しながら、ヴァレイは、静かな声で続けた。

Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下 ( No.279 )
日時: 2020/07/10 20:37
名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: 8NNPr/ZQ)



「……私には、出来なかったよ。結果が今のシュベルテだ。お前は知らぬだろうが、六年前、前王エルディオ様が崩御なされた時から、既に騎士団では、シャルシス殿下の即位を望む声が上がっていた。表向きの理由は、正統な血筋を持つ者が王位継承にはふさわしい、というものであったが、それだけではないだろう。幼子を王座に座らせることで、その後ろ楯となり、政に介入することが、彼らの真の目的だったに違いない。バジレット様も、当然そのことには気づいておられただろうし、公は、シュベルテがそういった政権争いの渦中に置かれることを、何よりも恐れていたからこそ、遷都の道をお選びになったのだ。私も当時は、どのような方法をとったところで苦肉の策でしかないと、事態を見守っていた。遷都が決まったとき、民たちの不満や騎士団の怒りが、旧王家や召喚師一族に向くことも予想はできていたが、見えていたのはそこまでであった。結果が出てからでは何とでも言えるが、あの時から、騎士団の動向に目を光らせておくべきだったのだろうな。水面下で、大義の一致した騎士団と教会が民を巻き込み、その勢力を伸ばすとは、予想できていなかった。今に至るまで、私は一体何をしていたのだろうと、悔やまれるよ」

 ヴァレイは、瞳に苦々しい色を浮かべた。

「騎士団長、レオン・イージウスは狡猾な男だ。野望が打ち砕かれた以上、旧王家に媚びる必要はなくなったし、教会とも結託したというなら尚更、遷都を押し進めた召喚師様のことも恨んでおろう。彼らが今後、どう動くかは分からないが、勢力拡大を成功させた後に、やることといえば一つだ。……何かが起こる前に、イージウス卿は討つべきなのかもしれん」

 ジークハルトは、顔をしかめた。

「しかし……教会を支持する民が多いのも、また事実です。イージウス卿を止めるべきだというご意見には同意ですが、相手が民意を盾にすれば──」

「──分かっている。民意に反すれば、悪になるのはこちらだ。だからお前に、宮廷魔導師団を背負う気はあるか、と問うているのだよ。反召喚師派の掃討に躍起になって、魔導師団自体が暴挙に出ては本末転倒だ。……反逆者を名乗るなら、私一人で十分だろう」

「…………」

 ジークハルトは、再び口を閉じて、ヴァレイのことをじっと見つめていた。
彼は、魔導師団を去るつもりなのかもしれない。
魔導師団との関係を断ってから、単身で反逆の罪を負ってでも、レオン・イージウスを止めようと考えている。
無謀な策だが、誰かがやらねば、それ以外に方法がないとも思えた。
ヴァレイに、自棄になっている様子は見られない。
徐々に崩壊を始めたシュベルテの未来を見通して、その考えに至るしかなかったのだろう。

 ジークハルトは、何かを決意したように、目の光を強めた。

「……もし、本当にそれしか道がないなら、私が団を抜けましょう。ストンフリー団長、貴方は魔導師団に必要です」

 ヴァレイは、首を横に振った。

「いいや、今後の魔導師団に必要なのは、私のような老耄ろうもうした人間ではなく、お前のような若い魔導師だ」

「ですが──」

 反論しようとしたジークハルトの言葉を、ヴァレイは手で制した。
それから、息を吐き出すと、ヴァレイは、もう一度首を振った。

「……もう、この話は終わりにしよう。突然、責任を押し付けるような言い方をして、すまなかったな。私もまだ、具体的な策があるわけではないのだ。まあ、今は気負わず、少し考えておいてくれ」

 穏やかな口調で言ったヴァレイに、ジークハルトは、無言で抗議をした。
今のヴァレイの言葉は、おそらく嘘だ。
彼の心は、既に定まっているように思えた。

 睨むような鋭い視線を投げてくるジークハルトに、ヴァレイは、眉を下げた。

「やはり、今こんな話をするべきではなかったな。明日から、花祭りだ。良くも悪くも、賑やかになるぞ。不遜な輩まで騒ぎ出さぬよう、我々は気を引き締めねばなるまい」

 言いながら、立ち上がると、ヴァレイは部屋の窓を押し開けた。
真夜中の涼やかな秋風が、窓からそよそよと吹き込んでくる。
その風に乗って届く、祭典前の空気に酔った喧騒に、ジークハルトは、しばらく耳を傾けていたのだった。

Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下 ( No.280 )
日時: 2020/07/12 21:08
名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: HhjtY6GF)



 普段は荘厳な空気が漂うシュベルテの街並みも、花祭りが開催される三日間は、華やかな雰囲気に包まれる。
石造の家々には、随所に花飾りが提げられ、大通りでは、色鮮やかな祭衣装に身を包んだ道化師たちが、楽器を吹き鳴らしながら踊っている。
所狭しと建ち並ぶ露店では、振る舞い酒が配られ、あちらこちらから、人々の盛んな呼び込みや笑い声が響いていた。

 花祭りとは、その年一年の収穫を感謝し、そして翌年の豊作を願う、サーフェリアの祭りのことである。
元は農村で行われる祭事であったが、無病息災や商売の成功を祈るなど、そういった意味も込められて、シュベルテでは毎年、大々的に祭典が開かれるのだ。

 城外の広大な庭園においても、招待された貴族たちが集まり、城下に劣らぬ賑わいを見せていた。
庭園の奥に設置された御立ち台には、シュベルテの現領主バジレットと、今年七歳を迎えた孫、シャルシスが着席しており、その下座には、前召喚師であるシルヴィアを始め、騎士団長や魔導師団長、宮廷仕えの重役や賓客たちが、それぞれの身分に従って、宴卓を取り囲んでいる。
運ばれてくる馳走に舌鼓を打ち、庭園中央に置かれた他街からの贈り物を眺めながら、貴族たちは、談笑を楽しむのであった。

 やがて、日が傾き、夕刻の鐘が鳴り響くと、祝宴の場は、打って変わった静けさに包まれた。
席を立ったバジレットが、開式の終わりを告げると共に、シュベルテの永き繁栄を願って、祝詞のりとを読み上げるのである。
本来であれば、召喚師も同席する祈りの儀であったが、病に臥せりがちなバジレットの意向で、昨今は、他街の有権者たちは招かず、祝宴の規模を縮小させている。
故に、遷都してからの花祭りでは、領主バジレットと召喚師代理のシルヴィアで、祈りを捧げることとなっていた。

 人々が、バジレットに注目する中で、警備に回る魔導師たちだけは、庭園全体に意識を巡らせていた。
浮かれた雰囲気に飲まれれば、それだけ隙も生まれやすくなる。
要人警護に当たる以上、いかなる状況下でも、凪いだ湖面の如く、感覚を研ぎ澄ませなければならないのだ。

 不意に、風が吹いて、庭園を彩る花壇の花弁が、ふわりと舞い上がった。
御立ち台のすぐそばに立っていたジークハルトは、その時、微かに目を細めた。
自分でも、何を感じ取ったのかは分からない。
ただ、得体の知れない何かが、湖面に小さく波紋を起こした気がした。

 祝詞をしょうするバジレットと、耳を傾ける人々。
吹き上がる風、舞う花弁、揺れる草木。
異変は見当たらないが、突如として沸いた言い知れぬ予感に、ぞわりと鳥肌が立った。

Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下 ( No.281 )
日時: 2020/07/14 19:59
名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: 8NNPr/ZQ)


 ふと、庭園を囲む木々の一本から、小鳥が飛び立つのが見えた。
ジークハルトは、魔槍ルマニールを発現させると、反射的に、バジレットの前に飛び出した。
向かい側から、ヴァレイが駆け寄ってくるのと、大気が唸るように震えたのは、ほとんど同時であった。

「──伏せろ……!」

 ヴァレイが結界術を展開し、ジークハルトは、咄嗟にバジレットを抱えこんだ。
瞬間、地の底が抜けるような、凄まじい雷鳴が響いてきたかと思うと、突然、目も開けられぬほどの突風が、四方八方から襲いかかってきた。
自然の風ではない。まるで、意思を持って飛び回る風の刃に、全身を嬲られているようであった。

 大地がはがれ、根ごと引き抜かれた木々が、縦横無尽に宙を飛び交う。
背後に聳える城壁は、巨大な獣の爪にえぐられたかのように削れ、飛び散った瓦礫同士は、ぶつかり合い、砕けて、雨のように庭園に降り注いだ。

 一瞬の出来事に、誰一人、悲鳴すら上げられなかった。
ジークハルトは、バジレットを抱えたまま、ルマニールを地に突き刺して踏ん張っていたが、途中で、足場ごと強風に飛ばされ、ヴァレイの結界外に弾き出された。
しかし、それがむしろ、幸運であった。
次の瞬間、崩れた城壁が、まるで土砂のように庭園を押し流したからだ。

 バジレットをかばいながら、なんとかもう一度ルマニールを地面に突き立てると、ジークハルトの身体は、煽られながらも動きを止めた。
やがて、突風が収まると、ジークハルトは咳き込みながら、気絶したバジレットを支えて、よろよろと立ち上がった。
崩壊した城壁の瓦礫が、杭のように何本もそそり立ち、色とりどりの花が咲き乱れていた庭園は、見る影もなく土砂に埋まっている。
近づいていくと、御立ち台のあった場所だけは、被害が少ないことが分かった。
瞬く間に結界を張った、ヴァレイの一瞬の判断が、シャルシスを守ったのだろう。
七歳の小さな少年が、倒れた椅子にしがみついて、喘鳴しながら泣いている。
そのすぐ近くで、ヴァレイは、瓦礫に上半身を押し潰され、絶命していた。

 ジークハルトが側に来ると、シャルシスは、意識を失っているバジレットの身体に、すがるように抱きついた。
シュベルテの領家、カーライル家の二人が、無事に生きていることが、せめてもの救いであった。

 改めて周囲を見渡すと、ちらほらと、生き残った者達が、唸りながら地面を這いずっていた。
その大半が、ジークハルト同様、運良く庭園から弾き出されたか、ヴァレイの結界術に守られた者達である。
それでも、この場にいた半数以上が、瓦礫の下敷きになって、誰とも判別がつかぬ状態で死んでいる様子であった。

 ジークハルトは、急激な眩暈に襲われて、少しの間、片膝をついてうずくまっていた。
突風に襲われた際に、どこかで頭を打っていたらしい。
こめかみに脈打つような鈍痛が走り、額からは、じわじわと血がにじんでいた。

 目を閉じて、浅い呼吸を繰り返していると、不意に、魔導師の一人が、足を引きずりながら近づいてきた。
腹に、折れた木片が突き刺さっている。
シャルシスの側までやって来ると、魔導師は、崩れ落ちるようにその場に手をついた。

「……カーライル公は、気絶しているだけだ」

 ジークハルトが言うと、魔導師の顔に、安堵の色が浮かぶ。
ジークハルトは、歯を食いしばって立ち上がると、魔導師を見た。

「お前、まだ動けるか」

「……はい」

 弱々しく返事をして、魔導師も、腹を押さえながら立ち上がる。
ジークハルトは、ルマニールを握りこむと、バジレットとシャルシスを目で示した。

「二人をお連れして、この場から逃げろ。城下がどうなっているかも分からん。隠れて、安全が確保できたら、状況を確認しろ」

 魔導師は頷くと、バジレットを抱えて、辿々しく歩き出した。
シャルシスも、祖母の袖を握ったまま、魔導師についていく。
三人を見送ると、ジークハルトは、首を巡らせた。
得体の知れぬ攻撃が、まだ終わっていないことは、辺りに満ち始めた奇妙な魔力から、直感的に分かっていた。

Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下 ( No.282 )
日時: 2021/01/05 17:50
名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: r1a3B0XH)

 ジークハルトは、息を吸った。

「自力で動ける者は、這ってでも逃げろ! 戦える者は、今すぐに立て! 次が来るぞ……!」

 叫ぶや否や、感じたこともない邪悪な気配が、足元から立ち上ってきた。
ジークハルトの声に反応した者達が、必死の形相で瓦礫をよじ登り、死体を踏み散らかしながら、わらわらと走り去っていく。
ルマニールを構え直すと、ジークハルトは、目の前を睨み付けた。

 生ぬるい風が、背を撫でるように吹いてくる。
ややあって、巨大な影のようなものが、ぼんやりと目の前に現れた。
どこからかやって来たのではない、突然、煙のように、その場に姿を表したのだ。

 “それ”は、細長い脚を持った蜘蛛に似ていたが、生物とも形容し難い、不確かなものであった。
濃密な魔力の塊、という表現が、一番適しているだろう。
無数の蝿が集って、何かを象ろうとしているような──見たこともない、奇妙な存在であった。

 “それ”の脚が伸びてきた、と思った時には、ジークハルトは、ルマニールを突き出していた。
青光りする鋭利な穂先が、確かな手応えを以て、化け物の脚を切り裂く。
しかし、二分したはずの“それ”は、途端に霧散すると、蝿のように飛び回り、そしてまた集まりながら、今度は鞭のような形状になって、ジークハルトの身体を締め上げようと、勢い良くしなった。

「────っ!」

 本能が、“それ”に触れるなと、警鐘を鳴らしていた。
ジークハルトは、咄嗟にルマニールの発現を解くと、屈んで地を蹴った。
ルマニールは、合成魔術によってジークハルトが生み出した、自在な発現、消失が可能な魔槍なのである。

 素早く伸びてくる脚をくぐって、距離を詰めたジークハルトは、再びルマニールを手に握ると、片足を軸に、全身を捻って、大きく穂先を振った。
ビュンッ、と弧を描いた斬撃が、そのまま幾重にも巻き上がり、巨大な竜巻となって、“それ”を散らす。
周辺の瓦礫や、倒木までも喰らい、巻き込んだ全てを木端微塵に刻むと、ようやく、竜巻は消え去った。

 ジークハルトは、警戒を解くことなく、様子を見ていたが、ふと舌打ちをすると、その場から飛び退いた。
完全に霧散したはずこ“それ”は、しかし、足元に沈殿する魔力の塵となっただけで、生ぬるい風と共に、再集結を始めたからである。

 みるみる元の蜘蛛のような形に戻っていく化け物を脇目に、ジークハルトは、必死に辺りの気配を探った。
一体“それ”が何なのか、どんな魔術を使っているのか、検討もつかなかった。
だが、実体のないものには、術式を施せない。
術式の刻印は、魔術の遠隔行使を可能にする、唯一の手段だ。
それが不可能、ということは、この化け物を操る術者が、すぐ近くにいるということであった。

 視界の端で、何かが光った。
倒木が重なってできた茂みに、何者かが隠れている。
それが、見慣れぬ顔の魔導師であると気づいたとき、ジークハルトは、身を翻して、一直線にそちらへと駆けた。

 男が、茂みから飛び出して、逃げようと踵を返す。
光ったのは、男が腕につけていた腕章であった。

「待て……!」

 背を向けた男に声を張り上げ、ルマニールを振りかぶる。
だが、その時、背後まで迫っていた魔力が消えて、ジークハルトは、違和感に振り返った。
先程まで、ジークハルトを狙っていた化け物が、いつの間にか、進行方向を変えていたのだ。

(生存者が残っていたのか……!)

 慌てて身を戻そうとして、しかし、無数の脚が伸びた先に立っている人物を見ると、ジークハルトは、はっと目を見張った。
迫る化け物に、怯える様子もなく、一人の女が立っている。
前召喚師、シルヴィア・シェイルハートであった。

「──……」

 一瞬、本当に一瞬だけ──。
敵の魔導師を討つことと、シルヴィアの命を、天秤にかけた自分がいた。
この機を見送れば、敵の魔導師は、逃げるか自害するだろう。
そうなれば、この得体の知れない化け物の正体も、この襲撃の真相も、掴めなくなるかもしれない。

 シルヴィアは、召喚師ではない。
言ってしまえば、もうこの国には、不要な存在だ。
ジークハルトの父の片腕を奪い、王位継承者を殺害し、シュベルテを貶めた、魔性の女──。

Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下 ( No.283 )
日時: 2020/07/18 19:04
名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: 8NNPr/ZQ)




「──くそ……っ!」

 唸るように叫ぶと、ジークハルトは、魔力を込めて、矢を放つようにルマニールを投げた。
飛来したルマニールから、再度竜巻が起こり、それに巻き込まれるような形で、化け物の身体が再度霧散する。
その衝撃で、宙に投げ出されたシルヴィアの身体を、跳ねあがって受け止めると、二人は、もつれるようにして地面に転がった。

「おい! 意識があるならさっさと逃げろ!」

 シルヴィアを抱き起こし、揺らしながら声をかける。
しかし彼女は、先程まで立っていたにも拘わらず、ぴくりとも反応しなかった。
最初に瓦礫が降り注いだ際に、背を打ったのか。
右肩から腰にかけて、べったりと血が付着している。
だが、出血量の割に、傷らしい傷は見当たらない。
それでもシルヴィアは、まるで糸の切れた操り人形の如く、ぐったりとしていて、動かなかった。

 シルヴィアを担ごうとしたとき、今まで、脚を伸ばして攻撃していた化け物が、突然、全身をバネのように使って、ジークハルトの方へ突進してきた。
瞬時に地面に刺さっていたルマニールを呼び、化け物を突こうとするも、体勢を整える前に、腕に無数の触手が絡み付いてくる。
触手は、自在に形を変え、やがて人の手の形になると、まるでジークハルトの身体を飲み込もうとするかのように、中心部へと引きずり込んできた。

 肉の焼ける、耳障りな音がして、掴まれたジークハルトの右腕から、ぶすぶすの燻るような煙が上がった。
触れられたところから、皮膚が焼け、腐っていく。
そのことに気づいて、力任せに腕を振ろうとしたが、次々と掴みかかってくる黒い手に、身動きが取れなかった。

 不意に、耳元で、誰かがジークハルトの名を呼んだ。
横を向いたジークハルトは、その声の主を見て、震撼した。
伸びてきた手の一本が、ヴァレイの顔を象って、話しかけてきたのだ。

『殺せ、殺せ』

 蝿に覆われたような顔面で、ヴァレイは、うわ言のように呟く。
気づけば、目の前に、大勢の見知った顔が形を成し、殺せ、殺せと唱えていた。
全員、祝宴の場にいて、命を落としたであろう、貴族や魔導師たちの顔であった。

 泡立つような恐怖が、内から這い上がってきた。
苦痛に歪んだ人々の目が、まるで助けを求めるように、じっとこちらを見つめている。
こんなものは幻だと、頭では分かっていたが、抗えぬ力で闇の中に引き込まれ、全身が怯んで、動けなかった。

 ついに、抵抗しようという気すら失いかけていた、その時。
背後から、白い手が伸びてきたかと思うと、その手が、ヴァレイの顔面を掴む。
──刹那、ジークハルトの目の前で、凝縮した光弾が破裂した。

「────っ!?」

 金を切るような断末魔を上げ、化け物が、ジークハルトから距離をとる。
解放され、地面に叩きつけられたジークハルトは、何事かと顔を上げて、思わず瞠目した。
傍らで、陶器のような白い手を翳したシルヴィアが、ゆらりと立ち上がったからだ。

Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下 ( No.284 )
日時: 2020/07/20 19:19
名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: 8NNPr/ZQ)



 シルヴィアは、横目にジークハルトを一瞥してから、細い指先を二度、三度と、空を切るように動かした。
瞬間、強烈な爆音を伴いながら、実体のない化け物の身体が、光を孕み、立て続けに爆発した。
例の如く、霧散すれば、それを逃がすまいと、シルヴィアが腕を動かす。
すると今度は、飛散していた化け物の身体が、まるで小さな箱の中に押し込められたかのように圧縮され、空中に留まった。
彼女の指先は、大気に漂う魔力の流れを、操っているようであった。

 とどめとばかりに、シルヴィアが腕を振り上げると、巨大な火柱が大気を貫いて、化け物を包み込んだ。
直視できないほどの熱線に、ジークハルトは、思わず顔を背ける。
術者が死んだのか、それとも、二度と再生できぬまでに灼き尽くされたのか。
再び目を上げたときには、化け物の姿は、塵すら残さず消えていた。
 
 辺りが静まり返ると、ジークハルトは、点々と転がる人々の死体を見回した。
それから、ゆっくりと、シルヴィアの方へと視線を移した。

 シルヴィアは、恍惚とした笑みを浮かべていた。
彼女は普段から、薄い笑みを貼り付けて、人形の如く旧王家の側に控えている印象があったが、今浮かべているのは、そんな笑みとは全く違う。
待ち望んでいたものを、ようやく目の当たりにしたような、満ち足りた笑みであった。

「……あれが何か、知っているのか」

 問いかけると、シルヴィアが、ジークハルトの方に振り返った。
銀の瞳の底に、爛々とした光が、輝いている。
皮膚が爛れ、まだぷすぷすと煙を上げている右腕を押さえながら、ジークハルトは、緩慢な動きで立ち上がった。

 シルヴィアは、にんまりと唇で弧を描いた。

「……私も、初めて見たわ。悪魔の成り損ない」

「悪魔の、成り損ない……?」

 思わず目を見開いて、聞き返す。
シルヴィアの言葉は、信じられぬ一方で、妙に腑に落ちた答えでもあった。
あのような醜悪な化け物を産み出す魔術なんて、召喚師一族が用いる悪魔召喚術以外に、考えられなかったからだ。

 ルマニールでの攻撃が一切利かず、ヴァレイの結界術すら物ともしない、あんな化け物は、見たことがなかった。
祭典に備え、この祝宴の場には、宮廷魔導師を始め、幾人もの精鋭魔導師を配置していた。
それにも拘わらず、この有り様である。
自分達が敗北したのは、抗いようのない、召喚師一族絡みの力だったのだと。
そう思って無理矢理納得せねば、気がおかしくなりそうであった。

 ジークハルトは、顔をしかめた。

「……お前、また何か企んでいるんじゃないだろうな」

「…………」

 笑みを深めただけで、シルヴィアは、何も言わなかった。
しかし、その表情を見ただけで、彼女の仕業ではないということは、なんとなく分かった。
そもそも、今回の襲撃にシルヴィアが関与していたなら、彼女まで襲われて、死にかけた理由が分からない。
それに召喚術は、召喚師にしか使えないはずである。
シルヴィアは、ルーフェンに最も近い存在ではあるが、今はもう、召喚師ではないのだ。

 しかし、だからといってルーフェンを疑うのも、筋違いだ。
彼は、シュベルテを良く思ってはいないだろうし、シルヴィアに対して個人的な恨みもあるはずだが、それで襲撃を企てるほど、粗暴で冷静さに欠いた人間ではない。
第一、ルーフェンが召喚術らしき力を使ってシュベルテを襲えば、自分が犯人だと名乗り出ているようなものだ。
考えるならば、召喚師の仕業だと見せかけたい何者か。
もしくは、単純に力を誇示したい何者かの関与を疑うのが妥当だろう。
どちらにせよ、今回の件に、召喚師一族は無関係なように思えた。

 ジークハルトは、息を吐き出すと、シルヴィアに向き直った。

「おい、さっき言っていた、悪魔の成り損ないとか言うのは──」

 なんだ、と尋ねようとしたとき。
不意に、シルヴィアの身体が、ぐらりと傾いた。
咄嗟に左腕を伸ばして、シルヴィアの肩を支えたが、その瞬間、腕にしびれるような痛みが走って、ジークハルトも、がくりと地に膝をついた。
一人分の体重も支えられぬほど、ジークハルトの身体も、疲弊しきっていたのである。

 再び気絶したのか、目を閉じているシルヴィアを横たえると、ジークハルトは、その場に片膝をついたまま、しばらく目眩に耐えていた。
手をついて、何度か立ち上がろうとするも、左腕は細かく震えていて、力が入らない。
右腕に至っては、化け物に触れられた部分から腐敗が進んだのか、全く使い物にならず、少しでも動かすと、崩れ落ちてしまいそうな気がした。

 目の前が、徐々に暗くなっていく。
必死に意識を保とうとしたが、身体が、限界を越えていることを訴えていた。

 バジレットとシャルシスは、無事に逃げられただろうか。
城下にも襲撃が及んでいるならば、今すぐ増援に向かって、被害状況を確かめなければならない。
崩壊した城壁も、すぐに撤去して、庭園に生存者がいないかどうか、改めて確認する必要がある。
動ける者は既に逃げただろうが、瓦礫の下敷きになって動けない者は、まだ必死に息をしながら、助けを待っているかもしれない。
そうでなくても、早く救いだして弔ってやらねば、浮かばれないだろう。
倒れている暇などない。やるべきことは、沢山あるのだ。

(──……)

 どこからか、風に乗って、馬蹄の音が響いてきた。
その音を聞きながら、ジークハルトの意識は、闇の中へと落ちていったのであった。

 

Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下 ( No.285 )
日時: 2021/04/15 12:52
名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: WZc7rJV3)


 闇の中から、ゆっくりと意識を浮上させたジークハルトは、聞き覚えのある女の声で、重い目蓋を持ち上げた。
霞む視界の先で、覗き込んでくる夜色の双眸が、やけに鮮やかに見える。
声を出そうとしたが、喉が貼り付くように痛んで、ジークハルトは、大きく咳き込んだ。

 蒼目蒼髪の女、アレクシアは、小卓に腰掛け、寝台の上で呻いているジークハルトのことを、しばらくじっと眺めていた。
やがて、手元にあった水筒を持って立ち上がると、アレクシアは、その水をジークハルトに飲ませる──のではなく、頭からぶっかけた。
途端、噎せ返ったジークハルトが、頭を動かして、アレクシアを睨む。
アレクシアは、けらけらと笑いながら、再び小卓に座った。

「虫けらみたいにうぞうぞ動いてるから、まさかと思ったけれど、本当に生きていたのね。ついに死んだかと思ってたわ」

「…………」

 一発殴ってやろうかと、上体を起こそうとしたジークハルトであったが、瞬間、胸に鋭い痛みが走って、諦めたように寝台に身を預けた。
処置は既にされていたが、肋骨が何本か折れているのだろう。
呼吸をする度、強ばるような痛みが、身体中を駆け巡った。

「……俺は、どのくらい寝てた」

 掠れた声を、ようやく絞り出す。
アレクシアは、すらりと脚を組んだ。

「三日くらいよ。運が良かったわね。貴方の右腕、壊疽しかかってたのよ。昨日まで、切り落とそうかって話も挙がってたんだから」
 
 そう言われて、ふと、右腕に視線を動かす。
右腕は、分厚く包帯で固定されているのか、力を入れようとしても、指一本動かない。
己の全身から漂う、濃い消毒液の匂いに、ジークハルトは、暗澹あんたんとした気分になった。

 視線を動かせば、見慣れた錦織の壁掛けが目に入る。
どうやら、ジークハルトが寝かされているのは、宮殿内の一室らしい。
他にも、簡易的な寝台に寝かされた男たちが、時折うなされながら、並んで横たわっていた。

 ジークハルトは、目を瞑り、アレクシアに尋ねた。

「……公やシャルシス様は、ご無事か。状況は?」

 アレクシアは、肩をすくめた。

「無事よ、孫のほうはね。バジレットも、年寄りだからどうなるか分からないけれど、昨日、意識を取り戻したらしいわ」

「……そうか」

 ジークハルトが、安堵したように息を吐く。
アレクシアは、細い眉を寄せた。

「祝宴の場で、一体何があったの? 宮廷魔導師団はほぼ壊滅状態、騎士団長レオン・イージウスも、政務次官ガラド・アシュリーも、国内の有力者たちの大半が死んでるわ。出席者の内、生存が確認されているのは、貴方を含めて六人だけよ」

 ジークハルトが、大きく目を見開く。
ひどく動揺した様子で、軋む上体を無理に起き上がらせると、ジークハルトは口調を荒げた。

「馬鹿な! 少なくとも、十数名は逃がしたはずだ! 自力で走れる奴だっていたんだぞ。瓦礫の中をよく探せ、まだ生き残っている奴が──」

「うるさいわね、でかい声で騒がないでちょうだい」

 寝台から身を乗り出そうとしたジークハルトの顔に、アレクシアが、再び水筒の水をかける。
やれやれと首を振ると、アレクシアは腕を組んだ。

「言ったでしょう、“生存が確認されている”のが六人よ。他にも何人か生き残っているかもしれないし、本当に六人だけかもしれない。今、シュベルテ中が大混乱で、正確な情報なんて何も分からないのよ。開式の儀を狙われたのと同時に、城下も襲撃を受けたの。目撃者は全員、口を揃えて、化物に襲われたって証言しているわ。北区がほぼ壊滅、魔導師団の駐屯地と、公立の大病院もやられたわ。おかげで怪我人があぶれてるから、移動が可能な怪我人は、随時アーベリトに送っているの。貴方みたいに死にかけて、移動すら困難な人間は、城を一部解放して作った、仮設の救護室で治療しているわ。それが、この広間よ」

「…………」

 前髪から滴る水滴を払いもせずに、ジークハルトは、呆然と床の一点を見つめていた。
説明を聞いても尚、不可解な点が多すぎて、理解が追い付かなかった。

Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下 ( No.286 )
日時: 2020/07/25 18:49
名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: 8NNPr/ZQ)




 城下に現れた“化物”は、おそらく、宮殿の庭園に現れたものと同じだ。
花祭りの最中は、城下の警備体制も、平素より強化している。
そもそも、並の軍が近づいて来るようなことがあれば、襲撃を受ける以前に気づいて迎え討てたであろうが、仮に、千の敵兵が街中に降って湧いたとしても、シュベルテの訓練された魔導師団と騎士団ならば、即座に対応できただろう。
少なくとも、城下の四分の一と有力者たちを、みすみす失うような結果にはならなかったはずだ。
それだけ、シュベルテの軍部は抜きん出て優秀だし、祭典中の警備体制は厳戒だったと、ジークハルトは自負していた。

 しかし、攻撃も通らぬ化物が、突如現れたとなれば、話は別である。
あの祝宴の場には、シュベルテでも有数の精鋭魔導師が揃っていたが、それでも、守り通せなかった。
本当に一瞬の出来事で、何か一つでも状況が違えば、ジークハルトも生きて目覚めることができなかったかもしれないのだ。

(死んでいたかもしれない、俺が……?)

 ふと、動かぬ右腕を一瞥して、息を飲む。
あの場で瓦礫の下敷きになったり、化物に飲み込まれていれば、死んでいた可能性は十分高かっただろう。
だが、実際はそうならなかった。
ヴァレイとシルヴィアによって、守られたからである。
化物に腕を焼かれ、他にも怪我はしていたが、致命傷を負った感覚はなかった。
しかし、アレクシアの話を聞く限り、重傷者しか運ばれない仮設の救護室で、三日も寝ていたということは、自分は今まで、生死を彷徨うような重体だったのだろう。
そのことが、ジークハルトの中で、妙に引っ掛かった。

 自分一人の話ならば、戦いの中で己の状態を見誤ったのだろうと、そう思い直して完結していた。
だが、あの祝宴の場には、他にも軽傷者がいたはずなのだ。
正確な死亡者数が明らかになっていないとはいえ、もし、本当に六人しか生き残らなかったというなら、あの場で逃げた軽傷者たちも、後に死んだということになる。
軽傷に見えたのが、単なる勘違いだったのか。
それとも、あの化物は、外傷を与える以外の力も持っていたのか。
今、改めて考えてみても、あの化物の正体が分からないし、あんなものが存在して良いのかと、思い出すだけで恐怖が込み上がってきた。

 ジークハルトは、脱力したように、再び寝台に身を預けた。

「……祝宴で何が起きたのかは、俺もさっぱり分からん。城下の状況と、ほとんど同じだ。化物については、シルヴィア・シェイルハートなら、何か知ってるかもしれんが……」

 不意に言葉を切って、ジークハルトは、額に腕を乗せる。
疲労の滲んだ彼の声に、アレクシアも、ため息をついた。

「前召喚師は、今頃アーベリトよ。何か知っているのだとしても、聞き出せるのは先になるでしょうね。彼女はほとんど無傷だったそうだけれど、未だに意識が戻らないみたいだから」

 目を細めて、アレクシアは続けた。

「……まずいことになったわね。花祭りの混雑時に、重要施設と要人を狙って襲撃してくるなんて、明らかに計画的な奇襲だわ。しかも相手は、得体の知れない化物なんて、作り話みたいで笑っちゃう。魔導師団と騎士団が受けた被害は甚大、宮廷魔導師団も大半が死んで、実質上の解体。おまけに、とって代わろうとする勢力が、胡散臭い新興騎士団だって言うんだから、カーライル家の年寄りと坊やが生き残ったところで、何の安心材料にもなりゃしないわ。敵の正体が分からない以上、次がないとも限らないし、シュベルテのお先真っ暗ね。折角正規の魔導師に昇格したところだけど、私、魔導師団を抜けようかしら」

 ジークハルトは、思わず目をあげて、アレクシアを見た。
「新興騎士団……?」と呟けば、彼の言わんとすることは、アレクシアにも通じたらしい。
アレクシアは、皮肉っぽく笑んだ。

「教会を解放して、施療院を一般利用させたり、この城に仮設の救護室を作って、怪我人の治療を行っているのは、イシュカル教会が発足した新興騎士団の連中なのよ。事態が収まってから、のこのこ軍を率いてやってきたくせに、今じゃシュベルテを救った英雄気取りよ? こんな阿呆らしいことないけれど、彼らの言葉を鵜呑みにする馬鹿の多いこと多いこと。まあ、こうなることは予測できていたけどね。今は、頼れる戦力が他にないんだもの。いつまた襲われるか分からない状況下で、この街を牛耳っていた魔導師団が役に立たないとなれば、胡散臭い宗教団体だろうがなんだろうが、支持せざるを得ないのが人ってものでしょ?」

「…………」

 ふと、耳の奥で、馬蹄の音が蘇る。
ジークハルトは、考え込むように眉を寄せると、ぽつりと呟いた。

Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下 ( No.287 )
日時: 2020/07/29 16:50
名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: 8NNPr/ZQ)


「……最初から、それが狙いか? 魔導師団を貶め、自分達が台頭するために、襲撃を……」

 言いかけて、首を振る。

「いや、だとすればイージウス卿まで殺す必要はなかったはずだ。新興騎士団としての地位を確立させるなら、街を半壊させて不特定多数を狙うより、魔導師団の幹部やカーライル家の人間だけを狙ったほうが確実だ。無駄に被害を拡大させた意味が分からない。あるいは、何らかの方法であのような化物まで差し向け、不安を煽り、後々召喚師一族に罪を被せようとしている……? 力を誇示したいだけならば、直に名乗り出てくるだろうが……」

 ぶつぶつと、独り言のように言いながら、ジークハルトは、厳しい表情で宙を睨んでいる。
アレクシアは、片眉をあげた。

「イージウス卿が殺されたからといって、新興騎士団が無関係とは限らないわよ。実権を握っていたのは、おそらく彼ではないもの」

 ジークハルトが、怪訝そうに顔を歪めた。

「……どういう意味だ?」

「さあ、捨てられたんじゃない? 今回の黒幕が、本当に新興騎士団ならね」

 頭を動かしたジークハルトが、アレクシアを凝視する。
アレクシアは、くすりと笑った。

 旧王家によって発足された、レオン・イージウス率いる歴史ある世俗騎士団と、反召喚師派であるイシュカル教会が発足した新興の宗教騎士団は、別物である。
新興騎士団の実体は、未だ掴めていないが、ジークハルトやヴァレイは、両者は水面下で協力関係にあるのだろうと睨んでいた。

 世俗騎士団は、次期国王にシャルシスを望んでいたが、バジレットやルーフェンによるアーベリトへの王位譲渡で、その思惑を阻止された。
一方、イシュカル教会は、リオット族の王都入りや遷都の機に高まった、召喚師一族に対する民の反感を利用し、その勢力を徐々に拡大させてきた。
両者の利害は、カーライル家と召喚師一族の没落を目論んでいる、という点で一致している。
故に手を組み、レオン・イージウスが、勢力拡大のため、民間の宗教団体に過ぎなかったイシュカル教会に新興騎士団の発足という手段をとらせたのだと、宮廷魔導師団は睨んでいたのだ。
しかし、アレクシアの言葉をそのまま受け取るならば、新興騎士団には、主犯格の人間が他にいて、レオンが死んだ今は、実質その者が主導権を握っている、ということになる。

 脚を組み直して、アレクシアは言った。

「だって、イージウス卿は、貴方やストンフリー卿に睨まれていたわけでしょう? その目をかい潜って、教会と連絡をとり続けるなんて、まず無理な話よ。新興騎士団の発足を促したのはイージウス卿かもしれないけれど、イシュカル教徒をまとめあげている人物は、他にいる……そう考えるのが妥当だわ。でもその人物は、軍部には力が及ばない立場だから、イージウス卿の権力を一時的に借りて、教会、すなわち新興騎士団の地位を確固たるものにするべく、密かに動いていた。そして、今回のシュベルテ襲撃を受け、魔導師団の信用が陥落した今を好機と見て、新興騎士団は見事、シュベルテの軍部の中心的存在になったのよ」

 ジークハルトは、周囲の怪我人たちがよく寝入っていることを確認してから、小声で返した。

「……つまり、今回の襲撃は、新興騎士団が支持を勝ち得るために仕組んだことだ、と言いたいのか?」

「さあ? それはどうかしら。はっきりと断言するには、材料が少なすぎるわね。そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。今回の襲撃は、シュベルテの内部勢力とは全く関係のない、第三者によって引き起こされたもので、教会は、それを上手く利用しただけの可能性もあるじゃない?」

 あっさりとそう答えたアレクシアに、ジークハルトは、興味を失った様子で嘆息した。

Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下 ( No.288 )
日時: 2020/07/31 10:47
名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: 8NNPr/ZQ)

 アレクシアは、特殊な透視能力を持っている。
妙に確信めいた口調で、新興騎士団の内情について語るものだから、もしや、襲撃を仕掛けるイシュカル教徒の姿でも視たのかと期待したのだが、どうやら全て、単なる憶測で言っていたらしい。

 ジークハルトの心境を察したのか、おかしそうに口端を上げると、アレクシアは告げた。

「襲撃の件はともかく、イージウス卿の意に反して、新興騎士団を動かしている人間がいることは確かよ。教会のネズミ共が足しげく通う先には、いつも同じ人間がいる。……誰だか知りたい?」

 不意に、アレクシアが寝台に手をついて、顔を覗き込んでくる。
ジークハルトが先を促すと、アレクシアは、耳元まで唇を寄せ、小さく囁いた。

「……モルティス・リラードよ」

 ジークハルトの目に、驚きの色が浮かぶ。
上品に口髭を整えた、小太りの男が脳裏をよぎって、ジークハルトは眉根を寄せた。

 モルティス・リラードは、政務次官ガラドに並び、王宮で事務次官を勤めている男だ。
軍部とはほとんど関わりを持たない男なので、ジークハルトも、顔を見たことがある程度である。
上がった意外な名前に、ジークハルトは、間近にいるアレクシアの顔を、睨むように見た。

「……どういうことだ? あの男が、イシュカル教徒の首魁しゅかいだというのか?」

 アレクシアは、肩をすくめた。

「そこまでは分からないわ。私はただ、視ただけだもの。あの豆狸が一体何を考え、教徒たちとこそこそ話しているのか……これ以上は、推測の域を出ないわね」

「…………」

 開きかけた口を閉じると、ジークハルトは、考え込むように顔をしかめる。
二人は、微かな燭台の光のもとで、しばらく黙り込んでいた。
やがて、ゆっくりとジークハルトから離れると、アレクシアが、唇を開いた。

「ねえ、私と取引しましょうよ」

 突然の提案に、ジークハルトが眉を歪める。
アレクシアは、すっと目を細めた。

「私、新興騎士団に入るわ。最近は魔導師団からも、教会側に寝返る離反者が出てきているのでしょう。その一人になって、内情を探ってくるの。今回の襲撃と教会に、関係があるのかどうか。奴らの狙いが何で、今後どう動くつもりなのか……全て調べて、貴方に教えてあげる。その代わり、私を宮廷魔導師にしてちょうだい」

 身構えていたジークハルトは、アレクシアの言葉に、意外そうに瞠目した。

「……お前、出世なんかに興味があったのか」

「当たり前じゃない。魔導師団って、思いの外つまらないんだもの。このまま下っ端魔導師をやって、世のため人のためーとか妄言を吐き散らして死ぬくらいなら、異端者として街中に隠れ住んでいた方が、まだマシだったと思い直していたところだったのよ。……でも、宮廷魔導師になれるなら、大抵のことは思い通りにできる、地位が手に入るものね」

 それを聞いて、ジークハルトは、呆れたように息を吐いた。
アレクシアという女から、まともな動機が聞けるとは思っていなかったが、まるで当然のように権力が目当てだと言われると、説教する気にもなれない。

Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下 ( No.289 )
日時: 2020/08/03 20:09
名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: 8NNPr/ZQ)





 小さく首を振って、ジークハルトは答えた。

「……生憎だが、俺に取引を持ちかけても無駄だぞ。宮廷魔導師になるのは、そんなに簡単なことじゃない。そもそも俺には選択権がないし、仮に俺がお前を推薦しても、公を始めとする重役たちに功績を認められなければ、宮廷魔導師にはなれない」

「──その重役たちが、今回の襲撃であらかた死んだじゃない」

 ジークハルトの瞳が、微かに揺れる。
長い蒼髪をかきあげて、アレクシアは、不敵に笑った。

「宮廷魔導師になるのは簡単じゃない……そんなことは分かってるわ。だって、功績を認められたところで、媚びることができない反抗的な犬は、切り捨てられるのが落ちだもの。それが今までの、魔導師団の現実……。都合の悪いことはのうのうと隠蔽し、従順な人間しか認めない、意気地無しの口先集団。けれど、その腐敗した魔導師団は、今や崩壊寸前。……言っている意味が、分かる? 新たに魔導師団を立て直すなら、襲撃を受けた“今”が好機だって言ってるの。……貴方がやるのよ」

 アレクシアが、笑みを深める。
ジークハルトは、表情を暗くすると、再度首を振って見せた。

「……俺ではまだ、力不足だ。魔術の腕も、知識も、正しく世を見通せる眼も、俺には備わっていない。魔導師団の建て直しには、勿論尽力するつもりだが、宮廷魔導師団の上に立つには、まだ何もかもが足りない」

 そう返すと、アレクシアは、途端に冷めた目付きになった。

「あら、そう。怖じ気づいた言い訳をするなら、もっと可愛げのある弁解を考えれば? 言っておくけれど、私の言う意気地無し集団の中に、貴方も含まれているのよ。偶然父親が元宮廷魔導師で、たまたま不祥事を起こさなかったから、運良く出世できただけ。魔導師団の腐敗を目の当たりにして、『俺が魔導師団を変える』とか大層なことをほざきながら、今まで傍観してたんだもの。貴方が力不足だなんてことは、重々承知してるわ。それでも気概だけはあって、機会を伺ってるんだと思っていたけれど、まさか本当に口先だけだったってわけ?」

「……黙れ」

「ああ、それとも、今回の件で自信を失くしてしまったのかしら。そうよね、大半が死んで、貴方だけ惨めったらしく生き残ったんだものね。祝宴の場には、能無しの魔導師が一体何人いて、何人守れたの? カーライル公が、無事に目を覚ますといいわね。そうすれば貴方は、老いぼれと子供の二人だけは守れた、英雄になれるかもしれないわよ」

「黙れ」

 口調を強めると、ようやくアレクシアは黙った。
しかし、彼女の顔には、変わらぬ不敵な笑みが浮かんでいる。
アレクシアを睨むと、ジークハルトは、怒気のこもった声で告げた。

「お前がかつて受けた仕打ちを考えれば、魔導師団を責めたくもなるだろう。腐敗した内部を変える必要があるのも、今回の襲撃で俺がろくに立ち回れず、そのくせ惨めに生き残ったのも、否定しようのない事実だ。……だが、本気で国のために命を張った奴等がいることも、また事実だ。大義に殉じた者を侮辱することは、冗談でも許さん」

 低い声音で言いきると、アレクシアは、反省する様子もなく、ふっと鼻を鳴らした。
彼女には、何を言い聞かせたところで、無駄なのだろう。
諦めたようにため息をついてから、ジークハルトは話を戻した。

「……俺はまず、この腕を治さねばならん。俺が戦線に復帰して、魔導師団を建て直すまでの間、新興騎士団が、何の動きも見せないことはないだろう。……情報が必要だ。お前、先程話していたこと、本当にできるのか」

 アレクシアの顔を真っ直ぐに見て、問いかける。
アレクシアは、満足げに口角をあげた。

「それって、取引成立ってこと?」

 ジークハルトは、平然と返した。

「阿呆、不正なんぞ許すか。……だが、もし本当に新興騎士団の思惑を暴き、間諜かんちょうとしての役目を遂げられたなら、お前は宮廷魔導師になっても不自然じゃない、優秀な魔導師だ」

 率直な言葉に、毒気を抜かれた様子で、アレクシアがぱちぱちと瞬く。
ややあって、おかしそうに唇を歪めると、アレクシアは、ジークハルトの顔を覗き込んだ。

「つまりは、成功が絶対条件ってことね。嫌だわ、私は最初からそのつもりだったのに。本当にできるか、なんて、一体誰に聞いてるのよ」

 からかい口調で言いながら、アレクシアは、ジークハルトの頬にぶすぶすと人差し指を突き刺す。
ジークハルトが、鬱陶しそうにアレクシアの手を振り払うと、彼女は、くすくすと笑った。

「貴方が見えないなら、私が貴方の目になってあげる。どんなに遠くのものでも、包み隠されたものでも、全て暴いて、教えてあげる。そして、魔導師団を変えるのよ……貴方と、私で」

 アレクシアはそう言うと、艶然と微笑んだのであった。



 サーフェリア歴、一四九五年。
アーベリトに王位が渡ってから、約六年の月日が経ち、シャルシス・カーライルが齢七を迎えた、この年──。
旧王都シュベルテの街並みを突如半壊させ、その権威を悉く失墜させたこの襲撃は、歴史的にも名を残す惨事となる。

 王位を我が物にしようとしたアーベリトの仕業か、あるいは、魔導師優位の軍制崩壊を望む新興騎士団の策略か。
民間では、様々な憶測が真しやかに囁かれ、一層混乱を極めていく事態となるが、後に、この襲撃の真相を知らされた人々は、かつてないほどの恐怖と絶望に、震え上がることになる。
西方に位置する軍事都市、セントランスが、アーベリト、シュベルテ、ハーフェルンの三街に対し、宣戦布告をしてきたのだ。

 セントランスはかつて、御前でハーフェルン、アーベリトと王権を争い、破れた街である。
シュベルテに次ぐ巨大な軍事都市であり、現在、サーフェリアを統治する三街とは、決裂状態にあった。
彼らは、シュベルテを襲った異形は召喚術によって産み出したものだと明かし、召喚師一族の力を保有できるのは、王都の特権ではないという文言と共に、詔書を送りつけてきた。
襲撃を受ける前であれば、このような世迷言を信じる者は、誰一人いなかっただろう。
しかし、その恫喝は、実際に街を喰った異形を目の当たりにし、魔導師団を失ったシュベルテの人々を震え上がらせるには、十分であった。

 現国王、サミル・レーシアスが敷いた、三街による統治体制が崩れたのは、この瞬間であった。

Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下 ( No.290 )
日時: 2020/08/06 23:03
名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: 8NNPr/ZQ)



  *  *  *


 アーベリトは元々、戦争難民の受け入れなど、初代領主の時代から続けてきた医療援助や慈善活動の功績が認められ、発展してきた街である。
故に、卓越した医療技術を持ち、その三倍以上の面積を持つ旧王都、シュベルテにも劣らぬ施設数、病床数を誇っていたが、それでも、大量の怪我人が流れ込んできたときには、あまりの急場に、事態は逼迫ひっぱくせざるを得なかった。

 突如として、セントランスから三街に下された宣戦布告──。
今までも、地方で小規模な内戦が起これば、アーベリトが対応に動くことはあったが、此度の襲撃は、その比ではない。
少なくとも、トワリスがアーベリトに着任したこの一年間で、三街がこれほどまでの混乱状態に陥ったことはなかった。

 シュベルテは、サーフェリアの中で、最も大規模な軍を持つ都市だ。
もし詔書の内容に偽りがなく、セントランスが召喚術にも等しい何かしらの魔術を用いて、独力でシュベルテに軍部崩壊をもたらしたのだとすれば──。
次に攻め入られた時、遷都後に築いてきた現在の体制は、呆気なく終焉を迎えるだろう。
今の三街には、セントランスに抗う術がない。
人々の間に蔓延るその不安が、アーベリトに混乱を招いている一因でもあった。

 襲撃の知らせを受けて、ルーフェンは、すぐにシュベルテへと向かった。
しかし、いくら召喚師といえど、一度に何百人、何千人単位で移動陣を使用するのは不可能であるため、命に別状はないと判断された怪我人は、輸送用の馬車で随時アーベリトに送られてきた。
一命を取り留めているとはいえ、所狭しと並ぶ寝台が、血と汗にまみれた人々で埋め尽くされる光景は、凄まじいものである。
院内は、たちまち濃い体液の臭いに覆われ、一時も休まず働き詰めている医術師たちが、青い顔をして行き交っている。
表面的な傷だけではなく、心的外傷が深刻な者も多く、軽傷だからと一度治療を保留にされた患者の中には、壁際でしゃがみこみ、ぶつぶつと呟いたり、呻いたりしながら、日がな頭を抱え込んでいる者もいた。

 アーベリトの魔導師や自警団員たちは、物資の運搬や、患者の身元確認に奔走していたが、病院側の手が追い付かなくなってくると、止血などの応急処置にも回った。
受け入れを待つ、待機者たちの対応に回っていたトワリスは、不意に、列の後方から呼ばれて、顔をあげた。

「おい、そこの魔導師! まだ治療は受けられぬのか! 早くしろ!」

 列から飛び出してきた、シュベルテの魔導師らしき男が、トワリスに大声をかけてくる。
我が身可愛さで横暴な行動に出ているだけならば、無視するところだが、男の蒼白な顔を見て、トワリスは立ち上がった。
その男は、自分ではなく、連れの容態を気にしている様子だったからだ。

「急患ですか?」

 駆け寄って尋ねると、男は、トワリスの腕を掴んで、列の中へと戻った。
男が示した先を見れば、床に置かれた担架の上に、人が一人、寝かされている。
薄い敷布が被されていたので、既に死んでいるのかと思ったが、その敷布は、どうやら横たわっている人物の姿を、隠すためのものらしかった。

 男は、周囲の目を気にしながら、小声でトワリスに告げた。

「急ぎ医術師を呼び寄せてくれ。前召喚師様が目を覚まさぬのだ!」

 前召喚師、という言葉に、トワリスは、思わず目を見張った。
男は、蒼白な顔で脂汗を流しており、担架のそばにいる別の魔導師も、緊張した面持ちでトワリスを見つめている。
道理で、一般人に紛れ、素性を隠して列に並んでいたわけだ。
こんなところに前召喚師がいるとなれば、ちょっとした騒ぎになっていただろう。

 トワリスは、担架の近くに屈みこむと、周囲に気取られぬよう、わずかに敷布をめくった。
隙間から、絹糸のような銀髪が見える。
横たわる前召喚師──シルヴィア・シェイルハートの顔は、横から覗きみただけでも分かるほど血の気がなく、微かに呼吸しているという点を除けば、まるで蝋人形のようであった。

(この人……ルーフェンさんの、お母さんってことだよね……?)

 半信半疑で男たちの話を聞いていたが、この銀髪を見れば、彼らの言葉が真実であることは一目瞭然だ。
男の一人が、青白い顔で言った。

「襲撃のあった城の庭園で、倒れていらっしゃったのだ。目立った傷はないが、二日経ってもお目覚めにならない。もしかすると、頭を強く打ち付けたのやもしれぬ」

 トワリスは、改めてシルヴィアの細い手首をとると、脈があることを確かめた。
衣服が血で汚れてはいるが、男たちの言う通り、シルヴィアに特別な外傷はないし、呼吸も脈も正常である。
重症で意識不明になっているというよりは、深い眠りに落ちているように見えた。

 トワリスは、急ぎ自警団員にその場を任せると、立ち上がった。

「街中の病院は一杯で、入院の必要がない軽傷者しか診られないような状態です。移動陣で、城館に向かいましょう。受け入れ可能かどうか、陛下にも伺ってみます」

 言いながら、移動陣の描かれた用紙を懐から取り出す。

 シュベルテの緊急事態を受けて、一時的にアーベリトを全面解放してはいるが、怪我人に紛れて、不遜な輩が入り込んでくる可能性は十分にある。
現在はルーフェンが不在だし、尚更、不用意に外部の人間を城館に招き入れたくはない。
しかし、倒れているのは、他でもない前召喚師だ。
頭を打っているかもしれない状態で、今更シュベルテの病院に戻れとは言えないし、アーベリトで受け入れる他ないだろう。

 移動陣と聞いて、魔導師の男は、動揺を示した。

「お前、移動陣が使えるのか。我々は使用経験がないのだ」

「私一人で大丈夫です。アーベリト内でのみ、召喚師様の魔力を拝借して使えます。あまり行使したくはありませんが、非常時なので、やむを得ません」

 早口で答えて、移動陣を床に敷く。
不安げな男二人に、シルヴィアの担架を寄せるように頼むと、トワリスは、移動陣に手を翳したのであった。

Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下 ( No.291 )
日時: 2020/08/10 17:52
名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: 8NNPr/ZQ)


 国王サミルに事情を説明すると、シルヴィア、および二名の魔導師の入城が認められた。
トワリスがシルヴィアの名を出すと、サミルはひどく驚いた様子であったが、シュベルテの襲撃時の状況を、魔導師たちから聞き出したいという気持ちもあったのだろう。
二つ返事で頷くと、サミルは城館でシルヴィアを保護し、同行していた魔導師を一名を付き添わせて、もう一名は、御前に招いたのであった。

 白亜の壁が四方を覆う、質朴な謁見の間に魔導師を通すと、サミルは、トワリスの他に、サイとハインツ、そして、アーベリトの総括を勤める、ロンダートら数人の自警団員と官僚たちを呼び寄せた。
シュベルテ襲撃の情報は、いきなり世間に公表するよりも、ひとまず限られた人数で共有したほうが、混乱を避けられるとの考えがあってのことだろう。
つづれ織りの壁掛けを背後に、サミルが王座につくと、中年の魔導師は、絨毯に膝をついて頭を下げた。

「国王陛下の寛大な御心に、深く感謝申し上げます。私は、中央隊所属のゲルナー・ハイデスと申します」

 固い口調で進言し、ゲルナーは平伏する。
サミルは頷くと、穏やかに返した。

「顔をあげてください。シュベルテの惨状については、聞いています。前召喚師様をお守りし、よくぞアーベリトまで来てくれました。シルヴィア様は、この城館で治療させています。回復するまでの間、こちらも手を尽くしましょう」

「──は。ありがとうございます」

 顔をあげるように言ったが、ゲルナーは、頭を下げたままであった。
言葉を次ごうとしているのか、更に深く、額を床につけるようにして伏せると、ゲルナーは続けた。

「……畏れながら、重ねてお願い申し上げます。ご容態に拘わらず、当面の間、前召喚師様のアーベリトでのご滞在をお許し頂けないでしょうか」

サミルが、驚いたように目を見開く。
話を聞いていた重鎮たちも、この申し出には、疑問を抱いたのだろう。
広間がざわりと揺らいで、各々怪訝に眉を潜めた。

 そもそも、召喚師一族であるシルヴィアが、アーベリトまで運ばれてきたこと自体が、不自然だったのだ。
アーベリトを頼って来る怪我人の数を見る限り、シュベルテの医療機関が逼迫状態であることは明白であるが、だからといって、シルヴィアのような優先して治療すべき要人すら受け入れないというのは、本来考えられないことだ。
実際、アーベリトに流れてくるのは、一般人ばかりで、それも、馬車での長旅に耐えられる程度の、重軽傷者が大半である。
外傷が目立たなかったとはいえ、いつ命を落とすとも分からぬシルヴィアを、意識不明の状態で運んでくるなど、よほどの理由があるに違いなかった。

「……シュベルテで、何が起きているのですか?」

 神妙な面持ちでサミルが問うと、ゲルナーは、ようやく顔を上げる。
口に出すのを躊躇っているのか、わずかに視線を彷徨わせると、ゲルナーは、口を開いた。

「ここ数年の間、前召喚師様は、何度もお命を狙われているのです。差し向けられた刺客の素性は明らかになっておりませんが、おそらくは、イシュカル教会の急進派の者です。セントランスによる此度の襲撃で、我々魔導師団は、甚大な被害を受けました。結果、今シュベルテを取り仕切っておりますのは、教会によって発足された新興騎士団の者たちです。彼らは穏健派を名乗ってはおりますが、召喚師一族を疎ましく思っていることに変わりはございませぬ。また、由々しき問題なのは、旧王家に仕えていた世俗騎士団までもが、教会側に寝返りつつあるということです。現状、騎士団長レオン・イージウス卿、宮廷魔導師団長ヴァレイ・ストンフリー卿らを始めとする幹部陣が亡くなり、総指令部は実質解体状態となっております。公は未だ動けるような状態になく、現状、シュベルテを守っている新興騎士団、つまりはイシュカル教会を支持する民は増えていく一方です。故に、このまま前召喚師様をシュベルテに残すのは危険だと判断し、アーベリトまで参った次第でございます」

 ゲルナーの額に、じっとりと汗が滲んでいる。
サミルは、苦々しい表情になった。

Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下 ( No.292 )
日時: 2020/08/13 21:09
名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: 8NNPr/ZQ)



「……なるほど、事情は分かりました。しかし、なぜもっと早くに報告を上げて下さらなかったのです? イシュカル教会の存在は勿論把握していましたが、彼らが騎士団を発足したことも、シルヴィア様の暗殺を企てるまでに至っていることも、今、初めて耳にしました。もし彼らが、今回の混乱に乗じて、シュベルテの軍部を掌握するまでに勢力を伸ばすつもりなら、見過ごすことはできません。もっと早くに手を打つべきでした」

 ゲルナーは、再び額を床につけた。

「お許しください。今までは、我ら魔導師団のみで制圧できていたのです。セントランスからの襲撃さえ、なければ……」

 怒りと悔しさを抑え込んだような声で、ゲルナーが言う。
そのとき、文官の一人が、すっと手を上げた。
発言の許可を得て、一歩前に出ると、文官はゲルナーを見た。

「此度のセントランスによる宣戦布告と、新興騎士団の台頭に、繋がりがある可能性はござらんか? 貴公の話をお聞きする限りでは、セントランスの襲撃のおかげで、イシュカル教会が勢い付いた、とも解釈できますが」

 ゲルナーは顔を上げると、弱々しく首を振った。

「申し訳ございません、明言はできませぬ。我々も当初、今回の襲撃は、教会が目論んだものではないかと疑っておりました。しかしながら、後日セントランスより宣戦布告が成され、少なくとも教会が主力でないことは、明らかになりました。教会の独力では、我ら魔導師団を壊滅させることなど不可能であること。また、今回の襲撃によって、新興騎士団内の権力者の一人であったと予想されるイージウス卿が、亡くなっていること。これらの事実を鑑みれば、教会が首謀である可能性は低いかと存じます。ですが、だからといって、必ずしも関係がないと否定することはできませぬ。花祭りの最中を狙った襲撃は、計画的なものでした。内通者がいないとも限りません」

 ゲルナーの曖昧な答えに、文官は、苛立たしげに顔をしかめた。

「……重大なことですぞ。もし、セントランスと教会に繋がりがあり、そのことを貴公ら中央魔導師団が、見落としているのだとすれば……事態は一層深刻です。我らの敵は、セントランスだけではないということになるのです」

 文官の言葉に、広間が静まり返った。
自分達が立たされている窮地を、改めて、はっきりと目の当たりにしたのだ。

 アーベリトとハーフェルンは、セントランスに勝る兵力など持っていない。
軍事の要であったシュベルテが壊滅状態に追いやられ、その上、未だ反乱分子を抱えているのだとすれば、召喚師一族を頼る以外に、勝機はないだろう。

 臣下たちが騒然とする中、畳み掛けようと口を開いた文官を、サミルが制した。
渋々引き下がった文官を一瞥し、蒼白なゲルナーの顔を見つめると、サミルは、落ち着いた声で言った。

「ひとまず今は、セントランスとどう対するかを考えましょう。内通する勢力がいるにせよ、いないにせよ、彼らの狙いが私たちを討つことならば、先の襲撃時に、街ごと焼き払われていてもおかしくありませんでした。しかし、そうならなかったということは、セントランス側にも限界がある、もしくは現時点では恫喝に留めた理由があるのでしょう。宣戦布告の詔書にもある通り、目的はあくまで王権の奪取なのかもしれません。であれば、まだ交渉の余地はあります」

 サミルの発言に、シュベルテから引き入れられた文官たちが、難色を示した。
彼らは、遷都後にアーベリトへとやってきた官僚たちであったが、この数年間で、サミルの性格を理解している。
文官の一人が手を上げて、厳しい眼差しをサミルに向けた。

「恐れながら、陛下、一体何を交渉なさるというのですか。彼奴らは、シュベルテに甚大な被害をもたらしただけでなく、開戦の日に、二月後の『追悼儀礼の日』を指定してきたのです。先王の七度目の命日に開戦などと、これは明らかな侮辱ではございませんか! 交渉の場など設けたところで、何を要求されるかは明白です。どうか、開戦のご決断を!」

 興奮した様子で、声を裏返す文官に、サミルは、静かに告げた。

「挑発に乗って争えば、それこそセントランスの思う壺でしょう。下手に出るつもりはありませんが、実際こちらが不利な状況です。相手側に分がある以上、安易に開戦に踏み切っては、犠牲が増えるだけです。交渉することで平和的に済むならば、それに越したことはありません」

 サミルの言葉に、広間がざわついた。
国王自ら、自陣が劣勢であることを認めるのかと、批難の声が上がる。
日頃から、保守的とも取れるサミルの政策に疑念を抱いていた者達の不満が、この場で爆発したのであった。

Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下 ( No.293 )
日時: 2020/08/15 19:47
名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: 8NNPr/ZQ)



 トワリスら魔導師と共に、下座でやりとりを聞いていたロンダートは、ハインツの後ろに隠れるように下がると、げんなりした表情で言った。

「なんだか、とんでもないことになってきたなぁ。開戦開戦って、戦うのはお前達じゃないだろうに……」

 ぶつぶつと文句をこぼしながら、ロンダートは、向かいで騒ぎ立てる文官たちを見る。
トワリスは、ため息混じりに答えた。

「でも、現状だと開戦が避けられないというのは、事実ですよね。平和的解決が一番とは言え、セントランスが王権を狙っているなら、その要求を飲むわけにはいきませんし。……ただ、陛下の言う通り、このまま真っ向からぶつかるには、まだ不安要素が多すぎる気がします。私、シュベルテの魔導師団が呆気なくやられたっていうのが、未だに信じられないんです」

 トワリスが言うと、隣にいたサイが、深刻な顔つきで頷いた。

「同感です。花祭りの最中だったということは、普段よりも警備は強化されていたはずですし、俄には信じがたいですね。詔書に、召喚術の行使を仄めかすような文面まで記載されていたと聞くので、その真偽も気になります」

 ロンダートが、顔をしかめた。

「そりゃあ、嘘に決まってるよ。だって召喚術は、召喚師一族にしか使えないはずなんだから。俺、魔術には詳しくないけど、召喚術って、召喚師様にしか読めない、なんとかって文字を使うんだろう?」

「──ええ。魔語、ですね」

 答えてから、サイは考え込むように、視線を床に落とした。

 通常、術式に使用されるのは古語であるが、召喚術の行使に必要なのは、魔語と呼ばれる、特別な言語であった。
召喚師一族は、まるで前世の記憶に刻み込まれているかの如く、生まれ落ちた瞬間から、魔語を読解できるのだという。
それが真実なのかは分からないし、今までに、魔語を習得しようとした研究者がいたかどうかも定かではないが、元々召喚術は、人が触れてはならない、神聖なものだという認識が強かった。
故に魔語は、召喚師一族だけが扱う、秘匿言語とされていたのだ。

 サイは、指を顎に添えると、淡々と続けた。

「一般の魔導師が召喚術を使おうなんて、そもそも方法の検討がつきませんし、私も単なる脅しだとは思います。しかし、宮廷魔導師団まで壊滅状態に追い込まれたとなると……信憑性が増してきますよね。あり得ない話ではありません。何百年も前のことですが、セントランスは、王都だった街です。その当時、召喚師一族がセントランスにいて、召喚術の行使方法に関する何かしらの記録を残していたのだとすれば、それを解き明かす者が出てもおかしくはないでしょう」

 ハインツの腕にしがみついて、ロンダートが、顔を青くする。
サイは、腕を掴まれてびくついたハインツのほうを見た。

「リオット族だって、地の魔術に長けた一族だと言われていますが、だからといって、リオット族以外の人間が、地の魔術を使えないというわけではありません。同様に、召喚術の使用条件が、実は血筋ではなく魔語の習得にあって、それを満たす者が、召喚師一族以外にも現れたのだとすれば……。まあ、こんなのは、私の憶測に過ぎませんが」

 これ以上は考えても無駄だと見切りをつけたのか、サイは肩をすくめると、口を閉ざした。
セントランスが召喚術の使用を仄めかしてきたことは、確かに、突き止めるべき重要事項ではあるが、問題の本質はそこではない。
召喚術であろうと、なかろうと、セントランスに、シュベルテを追い詰めるほどの力があることは、紛れもない真実なのだ。

 わずかに声を潜めて、トワリスが言った。

「内通者の存在も、気になりますよね。もし襲撃を手引きした者がいるなら、シュベルテが不意を突かれたのも頷けます。先程出た話では、内通者に関しては保留になりましたけど、もし本当にセントランスと繋がっている勢力がいるなら、早く炙り出さないとまずいですよ。いくら敵方を警戒したって、身内に裏切り者がいるんじゃ、こちらの情報は筒抜けになっているでしょうから」

 トワリスの発言に、ロンダートが眉を寄せた。

「内通者がいるんだとしたら、新興騎士団とやらを発足した教会の連中じゃないのか? さっき、話題にも上がってただろう。実際、今回の襲撃で、魔導師団は痛手を被って、教会は得をしたわけだし」

「ああ、はい。それは、そうなんですけど……。ただ、シュベルテで暮らしたことがあれば分かると思うんですけど、教会って、軍部の組織ではないので、大した情報は持ってないはずなんですよ。だから、台頭したことで注目を浴びてはいるけど、必ずしも教会が内通勢力とは限らないんじゃないかなって」

Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下 ( No.294 )
日時: 2020/08/17 19:59
名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: 8NNPr/ZQ)



 トワリスが呟くと、ロンダートの顔色が、一層悪くなった。
くるくると周囲を見回してから、ロンダートが、震え声で言う。

「ちょっ、待って、トワリスちゃん。それって、内通者がどこに潜んでるか分からないってこと? そんな、こ、怖いこと言わないでくれ……。どうするんだよ、アーベリトに紛れてたら……」

 怯えるロンダートに、サイが補足をした。

「確かに、内通者が教会側の人間だと決めつけるのは、早計かもしれませんね。でも、シュベルテの人間であることは確かだと思いますよ」

「……そうなんですか?」

 トワリスが聞き返すと、サイは頷いた。

「考えてみてください。教会以上に、アーベリトやハーフェルンは、シュベルテの情報を持っていません。内通者がいたとして、その人物は、セントランスに様々な情報を売ったはずです。例えば、城を覆う結界の解除方法や、警備の配置、最適な侵入経路なんかが考えられますよね。でもこれって、全てシュベルテの人間──しかも、限られた軍部の人間しか知らない情報ですよね。となると、魔導師団に所属している、もしくは、魔導師団の動きを把握できるような権力を持った者にしか、内通者は勤まらないはずです」

「あ、そっか……それは、確かにそうですね」

 納得した様子で返事をしたトワリスに、サイは小声で言い募った。

「はっきり言ってしまうと、最も疑わしいのは、新興騎士団の発足に関与したとされる、世俗騎士団長、レオン・イージウス卿ですよね。彼なら、情報を握っているどころか、内部操作も可能な立場でした」

 ロンダートが、首をかしげる。

「だけど、イージウス卿は、今回の襲撃で亡くなっただろう?」

「──ええ。だからこそ怪しいんです」

 顔をしかめたロンダートとトワリスに、サイは向き直った。

「計画的かつ、出来すぎた襲撃です。内通者がいたかもしれない、なんて誰もが予想するでしょう。もし、内通者が捕まって、逆に情報を引き出されることになったら、セントランス的には面白くないはずです。セントランスと教会、そしてイージウス卿の関係について、詳しいことは分かりません。ですが、新興騎士団の勢力拡大を目論んだイージウス卿が、セントランスの王位簒奪に協力した後、最終的には用済みだと裏切られ処分された……なんて筋書きを考えると、辻褄が合うんです」

「…………」

 ロンダートとトワリスの顔が、更に険しくなる。
ハインツも、口を出そうとはしなかったが、事態は理解しているようで、鉄仮面の奥の表情を、微かに強張らせていた。

 押し黙ってしまった三人を見やって、サイは、微かに口調を軽くした。

「もちろん、可能性の話ですよ。私の予想に過ぎませんし、そもそも、内通者なんていないかもしれません。ただ、襲撃の周到さから考えて、内通者いたとしても、特定は困難でしょうね。証拠が残っているとは思えませんし、少なくとも、アーベリトにいる我々では、その痕跡を探ることすら出来ません。だから陛下も、今はセントランスと直接対峙することを考えるべきだ、と仰ったんじゃないでしょうか」

 言いながら、王座のサミルへと視線を移す。
それから、サイはふっと目を細めた。

 サミルに対する抗議の声は未だ止まず、文官たちは、もはや発言の許可を求めることもなく、口々に不満を申し立てている。
その一つ一つを往なしながらも、頑として開戦の宣言を出そうとはしないサミルに、文官たちは、苛立ちを募らせている様子であった。

Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下 ( No.295 )
日時: 2020/08/20 19:18
名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: 8NNPr/ZQ)



「こちらにはまだ、召喚師様がいらっしゃいますし、シュベルテにも、ハーフェルンにも、戦力は残っております。機を逸すれば、我々はセントランスの属領とも成りかねませぬ!」

 文官の主張に、やはり、サミルは首を縦には振らなかった。

「セントランスに下ろうという訳ではありません。故郷であるシュベルテを攻められ、耐えられない貴殿方の気持ちも分かります。ですが、機を図った上で、争うならば言葉を交わしてからでも良いでしょうと言っているのです。ハーフェルンとシュベルテに残っている魔導師たちは、動かしません。その場に残して、守りに徹してもらいましょう」

「しかし──」

 食い下がろうとした文官たちを手で制すると、サミルは、揺らがぬ眼差しで臣下たちを見据えた。

「これ以上話すことはありません。ハイデスさん、シュベルテに関するご報告をありがとうございました。部屋を用意させますので、お連れの方と一緒に休むと良いでしょう。それから、ロンダートくん。自警団のほうでシュベルテに行き、負傷者の保護が済み次第、ルーフェンに戻るよう伝えて下さい。新興騎士団が今のシュベルテを取り仕切っているなら、召喚師が滞在するのは危険です」

「あっ、はい! 承りました!」

 突然名を呼ばれ、ロンダートが、慌てて敬礼をする。
緊張した面持ちで控えていたゲルナーも、安堵したように表情を和らげると、その場で再度頭を下げた。

 まだ何か言いたげな面々を無視して、サミルは、静かな声で言った。

「何か進展があれば、また召集をかけます。各自持ち場に下がってください」



 臣下たちが謁見の間を出ていくと、嵐が過ぎ去った後のように、広間は静かになった。
トワリスは、サイやハインツ、ロンダートに別れを告げると、一人、サミルの元に残った。
シルヴィアのことで、サミルに報告したいことがあったのだ。

 サミルは、王座の手摺に肘をつき、手で目を覆ったまま、しばらく沈黙していた。
その細い腕が、微かに震えている。
疲労が滲んだ様子に、いつ声をかけようかと躊躇していると、サミルのほうからトワリスに気づいて、話しかけてきた。

「……ああ、シルヴィア様のことでしたね。すみません、少しぼーっとしていて」

 言いながら、サミルは王座から立ち上がると、下座に突っ立っているトワリスの前までやってきた。
先程まで見せていた意思の強さが、まるで嘘だったかのように、サミルの顔には精気がない。
トワリスは、心配そうに尋ねた。

「大丈夫ですか? 顔色が悪いですよ」

 サミルは、目尻の皺を寄せて微笑んだ。

「大丈夫ですよ。最近あまり寝ていないので、そのせいでしょう。年を取ると、すぐに疲れてしまっていけませんね」

 軽い口調で言って、肩をとんとん、と叩いて見せる。
トワリスはつかの間、返事に困った様子で口ごもっていたが、ややあって、懐から書類を取ると、話を切り出した。

「これ、頼まれていた、シュベルテからの来院者の一覧です。それから、前召喚師様のことは、言われた通り、医務室ではなく東塔の休憩室に案内しました。今はお付きの魔導師と、ダナさんたちが看てくださってます。外傷はなさそうだから、著しい魔力の欠乏で気を失っているだけじゃないかって」

「……そうですか、ありがとう」

 返事をしてすぐに、サミルは書類を受け取ったが、直後、その手からばさばさと書類が滑り落ちた。
トワリスが、咄嗟に何枚かを受け止めたが、サミルは、それらを拾い上げようともせずに、驚いた顔つきで自分の手を見つめている。
残りの数枚を拾い、まとめてサミルの手に持たせると、その手は確かに書類を掴んだが、まだ小刻みに震えていた。

Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下 ( No.296 )
日時: 2020/08/22 19:27
名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: 8NNPr/ZQ)


 トワリスは、眉を下げてサミルの顔を覗き込んだ後、打って変わった、厳しい表情になった。

「サミルさん、やっぱり休んだほうがいいです。疲れてるんですよ。あとのことは、私たちに任せてください」

「え、ええ。そうですね……」

 サミルは、戸惑ったように返事をした。
思えば、シュベルテ襲撃の知らせを受けてから、サミルが休んでいる姿を目にしていない。
年齢のせいだとサミルは言うが、昼夜寝ずに働き詰めづめていては、年齢に関係なく倒れてしまうだろう。

 今度こそ、書類をしっかりと握ると、サミルは曖昧な笑みを浮かべた。

「では、お言葉に甘えて、少し休んできます。自室にいますので、何かあったら呼んでください。……ついでに、もう一つ、頼み事をしても良いですか?」

「はい、何でしょう」

 トワリスが問い返すと、サミルは、一度目線を動かして、口ごもった。
少しの間、何かを考え込んで黙っていたが、やがて、後悔したように息を吐くと、首を横に振った。

「……すみません、やっぱり何でもありません。忘れて下さい」

 そう言われて、トワリスは顔をしかめた。
彼女の勘繰るような目に、サミルは苦笑した。

「ああ、いえ、違いますよ。本当に、重要なことというわけではなくて。……ただ、シルヴィア様のことを、気に掛けておいてほしいのです」

 トワリスは、わずかに首を傾げた。

「気に掛ける? でも、ダナさんたちは、命に別状はないだろうって言ってましたよ」

「ええ、そう、そうなのですが……それでも、油断はできませんので。ほら、頭を打った可能性があると言っていたでしょう。そんな状況で、馬車に揺られてアーベリトまで来たわけですし、今は目に見えなくても、脳出血なんかを起こしていたら、一大事ですから」

 珍しく、煮え切らない態度のサミルに、トワリスは眉を寄せた。
シルヴィアが目を覚まさない以上、安心できないというのは勿論分かるが、そんなことを言われても、トワリスは医術師ではないので、様子を見るくらいしかできない。
おそらくサミルは、何かを隠しているのだろうと思ったが、わざわざそれを詮索するのも躊躇われた。

トワリスは、一拍おいて頷いた。

「分かりました。お付きの魔導師二人も、明日にはシュベルテに戻ると言っていたので、以降は私が前召喚師様の様子を見ますね。病院のほうには、サイさんがついてますし、ハインツもようやく壊さずに寝台を運べるようになったので、私が多少抜けても、現場は大丈夫だと思います」

 冗談っぽく言うと、サミルは、微かに笑んで、トワリスの頭を撫でた。
優しい手つきが、跳ねた癖毛を撫で付けていく。
アーベリトに来てから、この一年で、トワリスの髪は、肩につくほどに伸びた。
髪を伸ばすと、一層癖毛が目立ってくるし、そろそろ結べる長さになってきたので、近々後ろで一つにまとめようと思っていた。

 トワリスは、しばらくの間、されるがままに頭を撫でられていたが、ふと、サミルを見上げると、ついでを装って尋ねた。

「……前召喚師様のこと、東塔で治療するんですか? あそこは、基本的に物見役しか出入りしないので、中央の医務室のほうが良いと思いますけど……」

 ふと、サミルの手が止まる。
どこか緊張している様子のトワリスを見て、サミルは、あっさりと答えた。

「はい、そのままで。静かなほうが、シルヴィア様も気が休まると思いますから」

 遠回しに理由を問うたつもりであったが、サミルは、核心には触れなかった。
穏やかな表情を変えることなく、もう一度だけ、トワリスの頭を撫でると、サミルは、震えの収まった手を下ろしたのであった。

Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下 ( No.297 )
日時: 2020/08/24 18:46
名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: 8NNPr/ZQ)


 シルヴィアが目を覚ましたのは、それから二日後のことであった。
起きた直後は、口数が少なかったが、トワリスが状況を説明すると、次第に意識の混濁がなくなっていったらしい。
その日の内には、はっきりと会話を交わせるようになっていた。

 眠っていたときも、目を覚ましてからも、シルヴィアは人形のようであった。
彼女は、既に四十を越えているはずであったが、ルーフェンの母親どころか、姉だと言われてもおかしくないほど若々しく、美しかった。
それ故に、精巧な作り物のように見えるのかと思っていたが、その実、無機質に見える一番の理由は、表情の変化が乏しいことだろう。
彼女は当然話せるし、食事もとるし、立って歩くこともできる。
だが、いつも薄く微笑んでいるだけで、感情の変化が見えづらいのだ。
シルヴィアを盗み見たロンダートが、ぞっとするほどルーフェンに似ていると興奮したように話していたが、纏う空気感は、全く違うとトワリスは思っていた。

 様子を見に行けば、シルヴィアは、いつも穏やかな笑みで迎えてくれる。
そんな時間が、トワリスは嫌いではなかったが、彼女と話していると、まるでひっそりと佇む木立と対しているような、不思議な気分になるのであった。

 ダナの診断通り、命に別状はなかったので、シルヴィアは、すぐに出歩けるまでに回復した。
回復後も、サミルからは、出来るだけシルヴィアを安静にさせるように、と言いつけられていたが、体力が戻っているのに部屋にこもりきりでは、息が詰まってしまうだろう。
いつの間にか、毎日昼頃に、シルヴィアを城館の中庭に連れ出すことが、トワリスの日課になっていた。

 城館内とはいえ、シルヴィアを息抜きに外出させていることを報告すると、サミルは、珍しく芳しくない反応を見せた。
しかし、連れ出したところで、シルヴィアは基本的に、長い間ぼうっと街並みを眺めたり、庭の草木を見つめているだけである。
そうして時折、思い出したようにトワリスを振り返っては、ぽつぽつと言葉を交わすだけだ。
安静は保たれているし、部屋にずっと押し込められている方が具合が悪くなるだろうと返すと、サミルは、渋々納得してくれた様子であった。

 城館の中庭は、シュベルテやハーフェルンのものに比べればずっと小さく、特別貴重な草花が植えられているわけでもない。
それでもシルヴィアは、いつも庭の長椅子に座って、物珍しそうに花壇の草花を眺めていた。
他にも、表玄関へと続く庭園や、城館の背後に建つ高台にも連れていこうと思っていたが、日によってシルヴィアは、一人で出歩いてまで、中庭に訪れるようになった。
中庭が気に入ったのか問うと、シルヴィアは、自分でも不思議そうに答えた。

「……そうね。思えば、こうしてちゃんと、花や木を見たことはなかったかもしれないわ」

 シルヴィアは目を伏せると、再び足元の花壇へと視線を落としたのだった。

 風で薄雲が流れ、秋の乾いた陽射しが、二人の全身に降り注いだ。
強い光に照らされて、シルヴィアの白銀の睫毛が、くっきりと目の下に影を落としている。
腰まで伸びた豊かな銀髪は、風に靡いて揺れる度、日の下できらきらと光っていた。

Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下 ( No.298 )
日時: 2020/08/27 18:46
名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: 8NNPr/ZQ)



 花壇を見つめたまま、シルヴィアが、不意に呟いた。

「……花は、とても哀れね。生まれてから、ずっと同じ場所に根付いて、そのまま枯れ果てていくなんて」

 抑揚のない、平淡な口調。
シルヴィアは、喋っている間も花から視線を外さなかったが、その目には、別のものが映っているように見えた。
言葉の真意が伺えず、トワリスは、戸惑ったように唇を開いた。

「……そうでしょうか。花を見て哀れだとか、あんまり考えたことありませんでした」

「…………」

 それきり、シルヴィアが黙ってしまったので、トワリスは焦った。
もしかしたら、嘘でもいいから同調すべきだったのかもしれない。
思ってもないことを言うのは、トワリスにとっては至難の業であったが、なんとか頭を巡らせると、言葉を付け足した。

「あっ……でも、確かにずっと同じ場所に埋まっているのは、退屈かもしれませんね。私の同僚で、ハインツっていう魔導師がいるんですけど、彼は草花が好きみたいで、よく空き時間に庭師の方を手伝って、花の植え替えとかしてるんです。そうやって、時間をかけて向き合っていると、花の気持ちとか、分かるようになるんでしょうか。……実は私、人が咲かせたような立派な花って、あまり得意じゃないんです。なんか、匂いがきつい種類が多い気がして……。人より鼻が利くから、そう思うだけなのかもしれませんが……」

 慌てて捲し立てていると、シルヴィアが、やっとトワリスの方を見た。
透き通った銀の瞳に射抜かれて、思わずどきりとする。
この数日間、シルヴィアの外出時には、必ずといっていいほどトワリスが付き添っていたが、こんな風にじっと見つめられたのは、初めてであった。

 今更になって、ようやくトワリスが獣人混じりであることを認識したのか。
シルヴィアは、トワリスの耳を一瞥すると、静かに言い放った。

「ああ、そう……貴女も哀れね。こんな国に、独りきりで産まれて」

「え……」

 予期せぬ言葉を投げつけられて、思わず目を見開く。
シルヴィアの望洋とした瞳には、獣人混じりを揶揄するような、嘲笑の色は浮かんでいない。
ただ純粋に、トワリスの境遇を哀れんでいるだけなのだろうが、それでも、わざわざ口に出して言われると、やるせない気持ちになった。

 トワリスは、むっとして返した。

「……お言葉ですが、私はこの国に産まれて、自分が可哀想だとは思ってないですよ。獣人の血が混じってるだけで、私は人間です。まあ、普通の人間だと言い張るには、足が速いし鼻も利くけど、それはもう、自分の特技みたいなものだと思っているので」

 言い切ってから、うっかり反論してしまったと、トワリスは、恐る恐るシルヴィアの様子を伺った。
怒られるか、呆れられるか、あるいは相手にされないか。
そのどれかを予想していたが、シルヴィアは、少し驚いたような顔で、トワリスを見つめていた。
動かなかった人形の顔が、初めて表情を浮かべたようであった。

 黙ったまま立ち上がると、シルヴィアは、トワリスに向かい合った。

「いいえ、貴女は哀れだわ。今まで、沢山つらい思いをしてきたでしょう。たった独りで、好奇の目に曝され、虐げられ、周囲の人間を恨めしく思ってきたはず。そして、こんな世に自分を産み落とした無責任な母親を、心の底から憎んでいるでしょう」

 まるで決めつけるような物言いに、トワリスの表情が曇る。
しかし、胸の内に沸き上がってきたのは、怒りよりも困惑の方が大きかった。
今まで、さしてトワリスに興味を示さなかったシルヴィアが、突然食い下がってきたので、どう対すれば良いか分からなかったのだ。

Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下 ( No.299 )
日時: 2020/08/29 18:56
名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: 8NNPr/ZQ)




 せり上がってきた言葉を一度飲み込んでから、トワリスは、控えめに言った。

「……あの、何が仰りたいんですか? 私、母を憎んだことなんて、一度もありません。サーフェリアに流れ着いたことも、私を身籠ったことも、きっと事情があってのことだから、無責任だと思ったこともないです」

「その事情を、実際にお母様から聞いたの……?」

 痛いところを探られて、トワリスは押し黙った。
シルヴィアは、まるで幼子のように小首を傾げ、トワリスを見つめている。
その仕草や声音から、悪意は感じ取れない。
だが、シルヴィアと会話をしていると、冷たい氷の刃を胸に挿し込まれているような気分になった。

 トワリスは、母がどのように自分を産み落としたのか、ほとんど知らない。
人伝に聞いたり、サミルやルーフェンが調べてくれたおかげで、奴隷商に囚われていた獣人だった、ということは分かっていたが、それ以上の情報は何も持っていなかった。
だから、実際に母から経緯を聞いたのか、と尋ねられると、もう何も言い返せない。
もしかしたら、母は本当に無責任な性格で、産まれたトワリスを鬱陶しく思って手放したのかもしれないのだ。

 沈黙の末、苛立たしげに首を振ると、トワリスは答えた。

「もう、この話はいいじゃないですか。確かに真実は知りませんし、私と母は死に別れたので、会話した記憶どころか、顔すら分かりません。でも、私が母のことを信じたいから、それでいいんです」

 シルヴィアは、目を細めた。

「なぜ? 記憶もないのに、どうして信じようなんて思うの?」

 畳み掛けるように問われて、ますます困惑する。
シルヴィアは、トワリスに何を言わせたいのだろう。
無責任な母親が憎い。混血として生まれてつらい、自分は孤独で哀れだ──と悲嘆に暮れれば、満足するのだろうか。
シルヴィアの意図が、全く見えなかった。

 トワリスは、困った様子でシルヴィアと向かい合った。

「どうしてって……産まれて初めて、無条件ですがれるのが親じゃないですか。子供は、親を信じていたいし、好きでいたいものでしょう」

 言ってから、顔を見つめると、シルヴィアの瞳に、ふっと暗い影が差した。
その沈んだ銀と目が合った瞬間、トワリスは、その場に縫い止められたかの如く、動けなくなった。
感じたのは、身の芯まで凍てつくような恐怖。
白銀の双眸が、トワリスを心の奥まで絡め取らんと、並んで鎮座していた。

 青白い指先が、そっとトワリスの首筋に触れる。
そのあまりの冷たさに、トワリスが後ずさろうとした、その時──。

「トワ!」

 鋭いルーフェンの声が、トワリスを縫い止めていた糸を絶ち切った。
背後からトワリスの腕を引くと、ルーフェンが二人の間に割って入る。
そうして、トワリスをかばうように立つと、ルーフェンは、シルヴィアをきつく睨みつけた。

「……お前、どうしてここにいるんだ」

 唸るような低い声に、思わずトワリスまで身をすくめる。
咄嗟に見上げたルーフェンの横顔には、見たこともない、獰猛な色が浮かんでいた。

 シルヴィアは、夢から覚めたように目を見開くと、ルーフェンの顔を凝視した。
その瞳に、先程までの影はない。
むしろ、日が差したような明るい光を目に宿すと、シルヴィアは、穏和な微笑を浮かべた。

「まあ……ルーフェン、大きくなって。七年ぶりかしら」

 言いながら、シルヴィアが、ゆっくりと近づいてくる。
対してルーフェンは、瞋恚(しんい)のこもった眼差しを向けて、忌々しそうに告げた。

「アーベリトまで来て、今度は何をするつもりだ。今すぐ出ていけ」

 無感情なルーフェンの声が、葉擦れの音と共に響く。
しかし、シルヴィアは怯むことなく手を伸ばすと、ルーフェンの頬にそっと触れた。

「そんなこと言わないで。……ねえ、もっとよく顔を見せて」

「──触るな……!」

 瞬間、ルーフェンが、勢いよくシルヴィアの手を払いのけた。
衝撃で突き飛ばされたシルヴィアの肢体が、地に打ち付けられて、華奢な腰から後方に崩れる。
手をついた際に、地面で擦ったのだろう。
シルヴィアの掌からは、うっすらと血が滲んでいた。

Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下 ( No.300 )
日時: 2020/09/01 18:14
名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: 8NNPr/ZQ)


「な、なにしてるんですか!」

 流石に黙っていられないと、ルーフェンを押し退けて飛び出すと、トワリスは、シルヴィアの元へと駆け寄った。
いつになく動揺しているルーフェンの様子も気になるが、どんな理由があろうと、息子が母親に暴力を振るって良いわけがない。
ルーフェンは、シルヴィアよりも背丈があるし、力だってあるのだ。
一方のシルヴィアは、まだ病み上がりの身だし、そうでなくても、打ち所が悪ければ大怪我に繋がっていたかもしれない。

 トワリスは、シルヴィアを抱き起こすと、ルーフェンを見た。

「シルヴィア様は、シュベルテでの襲撃に巻き込まれて、アーベリトまで治療のために運ばれてきたんですよ」

 非難の意味も込めて言ったが、ルーフェンの態度は変わらなかった。
顔を一層強張らせ、殺気立った視線をシルヴィアに向けている。
ややあって、トワリスの方を見ると、ルーフェンは口を開いた。

「……トワ、こっちに来て」

 鋭さの中に、哀願の響きが混じったような声で言われて、トワリスは戸惑った。
再会を喜ぶ母を突き飛ばすなんて、どんな理由があったって、許されることではない。
しかし、今のルーフェンには、支えてやらねば崩れてしまいそうな、不安定な表情が見え隠れしていた。

 どうすべきか迷っていると、不意に、シルヴィアの薄い唇が、にんまりと弧を描いた。
今までの、淡白で穏やかな笑みとは違う。
不気味で、冷ややかな微笑であった。

 トワリスの耳元に唇を近づけると、シルヴィアは、そっと囁いた。

「……私たちの邪魔、しないで」

 先程、一瞬だけ感じた寒気がぶり返して、トワリスは、咄嗟にシルヴィアから距離をとった。
心臓が、激しく脈打ち出す。
シルヴィアは、トワリスの手を借りることなく、緩やかな所作で立ち上がった。

「……お部屋に戻るわ。数日間、相手をしてくれてありがとう」

 銀の髪を揺らして笑みを深めると、シルヴィアは、トワリスを見た。
擦ったはずの彼女の手に、もう血は滲んでいない。
次いで、シルヴィアはルーフェンを見た。

「もう二度と会えないと思っていたから、久々に顔が見られて、嬉しかったわ。私の処遇は、陛下とご相談して、どうぞご自由に」

「…………」

 ルーフェンは答えなかったが、シルヴィアは、それだけ言って満足したのか、ふわりと髪を翻して踵を返した。
遠ざかっていく背中をきつく睨みながら、ルーフェンは、じっと押し黙っている。
トワリスが傍らに立つと、ようやく我に返ったのか、ルーフェンは、シルヴィアから視線を外した。

「……大丈夫? 何かされてない?」

 心なしか、語尾を震わせて、ルーフェンが問いかけてくる。
トワリスは、ふるふると首を振った。

「別に、なにも。……気分転換になるかと思って、中庭にご案内してただけですよ」

 努めて平然と答えると、強張っていたルーフェンの顔に、微かに安堵の色が浮かんだ。
本当は、まだ心臓が激しく脈打っていたが、シルヴィアに対して感じた恐怖を、今のルーフェンに打ち明ける気にはならなかった。
邪魔をしないで、と囁かれたあの時、シルヴィアは、確かに笑っていた。
口調も表情も穏やかで、何かをされたわけでもないのに、どうしてあの時、背筋に震えが走ったのか──。
寒気の理由が、トワリスには分からなかった。

Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下 ( No.301 )
日時: 2020/09/04 18:49
名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: 8NNPr/ZQ)



 トワリスは、上目にルーフェンを見上げた。

「あの……何か、あったんですか?」

「…………」

 ルーフェンが、視線だけを投げ掛けてくる。
聞くべきではないのかもしれないと思いながら、トワリスは、躊躇いがちに唇を開いた。

「いや……その、シルヴィア様と。あんまり、仲が良くないのかなと……」

 尻すぼみになっていく自分の声を聞きながら、トワリスはうつむいた。
なんとなく、ルーフェンの顔を見てはいけないような気がしたのだ。

 お互いに黙っていると、不意に、ルーフェンがトワリスの腕を掴んだ。
驚いて顔をあげれば、ルーフェンが、こちらを見つめている。
こんなにも沈痛な面持ちをしたルーフェンを、トワリスは、一度も見たことがなかった。

「あの人には……絶対に関わらないで」

 腕を掴む手に、わずかに力がこもる。

「え……でも、サミルさんが」

「いいから、俺の言うことを聞いて」

 いつにない真剣な口調で言われて、トワリスは、頷くしかなかった。
こちらを見つめる銀色の双眸が、色を変えて、ゆらゆらと揺蕩っている。
近くで見ると、改めて、シルヴィアとルーフェンは似ていなかった。

 トワリスは、こくっと息を飲んだ。

「わ、わかりました。……でも、本当に、何もなかったんですよ。むしろ、その……シルヴィア様は、優しかったです。ちょっと不思議な方だなとは思うことはありましたけど、綺麗で、いつも笑ってて……見てると、こっちまで穏やかな気持ちになれると言いますか……」

 必死に言葉を探して言い募ると、ルーフェンは、ふと表情を消した。
見えなくなったシルヴィアの背を一瞥してから、ルーフェンは、睫毛を伏せた。

「……そうかな、気色悪いだろう。いつも薄ら笑ってて……」

 冷たく放たれたその言葉に、トワリスの胸が、ずきりと痛む。
シルヴィアの笑みを、温度のない無機質なものだと感じる気持ちは、先程までのやりとりで、トワリスにも少し分かった。
しかし、彼女はルーフェンの母親だ。
理由あって不仲なのかもしれないが、仮にも母親を、悪く言われたくはないだろう。
そう思って、トワリスは、シルヴィアの擁護をしたつもりであったが、どうやらそれは、不要だったらしい。
ルーフェンがシルヴィアに向けたのは、軽蔑──それだけであった。

 シルヴィアは、ルーフェンと会うのは七年ぶりだと言っていた。
つまり、遷都をしてルーフェンがアーベリトに移ってからは、一度も顔を合わせていなかったのだろう。
二人の間にある溝を、トワリスは知らない。
だから、口出しなどできるはずもなかったが、折角母親が生きていて、足を伸ばせば会える距離に存在しているのに、あえて遠ざけるなんて、トワリスには勿体ないことのように思えた。

Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下 ( No.302 )
日時: 2020/09/07 19:34
名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: 8NNPr/ZQ)





 ルーフェンはしばらく、冷ややかな眼差しで、去っていったシルヴィアの面影を追っていた。
だが、不意に、自分が今、どんな顔をしているのか思い至ったのだろう。
はっとトワリスの方を見ると、慌てて手の力を緩めた。

「ごめん……なんでもないんだ。ありがとう、母を気に掛けてくれて」

 柔らかい声で言われて、トワリスは、ほっとしたように肩の力を抜いた。
やっと、いつものルーフェンが戻ってきてくれた気がしたのだ。
一方で、申し訳なさも感じていた。
ルーフェンが“あの人”ではなく“母”と言い換えたのは、おそらくトワリスを気遣ってのことだろうと分かっていたからだ。

 トワリスは、まごついた。

「い、いえ……私こそ、よく知りもしないのに、余計なことを言ってすみません。お、親子と言っても……いろいろ、あるんですよね、きっと」

「……やっぱり、何か言われた?」

 ルーフェンに鋭く切り込まれて、咄嗟にぶんぶんと首を振る。
今の自分の発言こそ、余計だったかもしれない。
ルーフェンはつかの間、探るような目でトワリスを見ていたが、ややあって、小さく息を吐くと、肩をすくめた。

「本当に、なんでもないんだよ。……ただ、母と俺はやっぱり似ているから、もう関わりたくないだけ」

 似ている、という言葉と、関わりたくない、という言葉が結び付かず、トワリスは首を傾げた。
皆が言うほど、シルヴィアとルーフェンが似ているとは思わなかったが、やはり血は繋がっているので、ふと目を伏せた時の顔立ちなんかは確かに面影がある。
しかし、それがなぜ関わりたくないことに繋がるのか、トワリスには理解できなかった。

 意味を問うように見上げると、ルーフェンは、一拍おいてから眉を下げた。

「……俺、子供の頃は、死んでも召喚師にはなりたくないと思ってたんだよね」

 突然切り出されて、トワリスが目を丸くする。
ルーフェンは、冗談っぽく続けた。

「でも、なりたくないって言ったところで、そんなの認められるわけないだろう? シュベルテから逃げ出して、どこか遠くに行こうか、とか……色々考えたけど、召喚師一族として生まれた時点で、もう避けられないことだったんだ」

 トワリスは、神妙な面持ちでうつむいた。

「そ、それは……確かに、難しいですね。シュベルテから出るだけじゃ見つかるでしょうから、本気で逃げるなら、少なくとも、魔導師団の管轄外の地域には出ないといけません。というか、まずはその目立つ髪と目をどうにかしないと」

 ぶつぶつと呟きながら、トワリスは眉間に皺を寄せる。
思いの外──否、期待通りでもあったが、想像以上に真剣に悩み始めたトワリスに、ルーフェンは苦笑を浮かべた。

「そこは肯定的なんだ? トワのことだから、文句垂れてないで覚悟を決めろとか、男なら腰を据えて働け、とか言ってくるかと思った」

「なんですか、その勝手なイメージは……」

 トワリスは、不満げに口をとがらせた。

「自分で志望したならともかく、生まれは選べないでしょう。召喚師をやめるって言われたら、国としては困りますけど、本気で嫌だったんなら仕方ありません。とりあえず、相談には乗ってたと思いますよ、私も、ハインツも。……あ、でもルーフェンさんが召喚師になってなかったら、私とハインツはここにいなかったか……」

 どちらにせよ、子供の頃の話なら、まだ私達は会ってすらいなかったですよね。
そう付け加えて、トワリスは、再び眉を寄せる。

 召喚師以外の道など、選べるわけがなかった。
それは、ルーフェンが一番よく分かっていたし、トワリスも、過ぎた仮定の話だからこそ、こんな風に気軽に答えているのだろう。
それでも、当たり前のように拒絶を受け入れ、共に考えてくれているトワリスに、ルーフェンは微笑んだ。

「そうやって、一緒に悩んでくれる人が、母にはいなかったんだろうね。いたのかもしれないけど、気づかなかった。……そういう、可哀想な人なんだよ」

 トワリスの目が、ゆっくりと見開かれる。
ルーフェンは、少し困ったように笑みを深めた。

 風に揺れる銀髪が、日の下できらきらと輝いている。
目を伏せ、花を哀れんでいたシルヴィアの姿が、トワリスの脳裏にはくっきりと焼き付いていた。

Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下 ( No.303 )
日時: 2020/10/24 23:16
名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: 8NNPr/ZQ)

 中庭でトワリスと別れると、ルーフェンは、サミルのいる書庫へと向かった。
シルヴィアとトワリスのことを見かけたのは、シュベルテから帰還し、その報告に上がる道中での出来事だったのだ。

 書庫に足を踏み入れると、古い紙とインクの匂いが鼻をつく。
本棚が延々と連なる光景は、帰還後久々に見る懐かしいものであったが、今日ばかりはまるで目に入らない。
ルーフェンは、奥まった場所に位置する文机で、書類に埋もれているサミルを見つけると、足早に近づいていった。

「──ああ、ルーフェン。良かった、無事に帰って来られたみたいで……」

 接近するルーフェンに気づくと、サミルが席を立ち、和やかに微笑む。
しかし、出迎えの言葉には一切反応せず、乱暴な所作で机に手をつくと、ルーフェンは口を開いた。

「なんであの人をアーベリトに入れたんですか」

 抑揚のない、怒りを抑え込んだ口調で言って、ルーフェンがサミルを見る。
サミルは一瞬、目を見開いて硬直したが、“あの人”がシルヴィアのことを指すのだと気づくと、真剣な表情になった。

「……療養のためです。シルヴィア様は、先の襲撃が原因で、何日も気を失っておられたのですよ」

「シュベルテで治療しろと、突き返せば良かったじゃないですか」

 吐き捨てるように言ったルーフェンに、サミルは眉を下げた。

「突き返すだなんて……そういうわけにはいかないでしょう。魔導師団の方が、シルヴィア様の身を案じて、遥々連れてきて下さったんです。シュベルテでは、イシュカル教会の動きが活発化しているために、身体を休めるならば、アーベリトのほうが安全だろうと。……君も、シュベルテの現状を見てきたのではありませんか?」

「そんなこと、俺の知ったことじゃありません。前召喚師の身の安全なんて、もうどうだっていいでしょう。今の召喚師は、俺なんですよ!」

 横目にサミルを睨み付けると、ルーフェンが声を荒らげる。
サミルはたじろいだ様子で、つかの間沈黙していたが、やがて、ルーフェンの肩に手を置くと、静かな声で言った。

「……ええ、そうです。今の召喚師は、ルーフェン、君なんですよ。それなのに、何を怯える必要があると言うのですか。シルヴィア様には、もう何も出来ないでしょう」

「…………」

 微かに睫毛を震わせて、ルーフェンがサミルを見つめる。
そのまま、ゆるゆると息を吐き出すと、ルーフェンは文机にもたれかかった。

「……分かってますよ。分かってますけど、理解できません。サミルさんは、自分の兄を殺した女と、このアーベリト、どっちが大切なんですか」

 感情を押し殺したような声で、ルーフェンが問いかける。
サミルは、うつむくルーフェンの背に手を移すと、穏やかに答えた。

「立場を考えずに言ってしまえば、私は、アーベリトが一番大切ですよ。その中に、勿論君も入っています。だからこそ、本当は後悔していたのです。……七年前、遷都が決まった際に、君とシルヴィア様を引き離してしまったことを」

「は……?」

 驚いたように顔をあげて、ルーフェンが目を見張る。
サミルは、微かに目を伏せた。

Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下 ( No.304 )
日時: 2020/09/12 18:56
名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: 8NNPr/ZQ)



「シルヴィア様のなさってきたことを、許すつもりはありません。ただ、シュベルテに彼女を一人で残してしまったこと……本当は、君も気がかりだったのではありませんか? シルヴィア様は、君にとって、血の繋がったたった一人の家族でしょう」

 シュベルテを去った七年前、サミルがシルヴィアに、共にアーベリトに来ないか、と声をかけていた時のことを思い出す。
サミルは、孤独なシルヴィアに手を差し伸べるつもりで、あんなことを言ったのかと思っていた。
しかしあれは、母を想っているであろう、ルーフェンのためにとった行動だったというのだろうか。

 ルーフェンは、不快そうに眉を歪めた。

「血が繋がっているから、なんだって言うんです? 俺が、今でもあの女に家族らしい絆を求めていて、心の底では、ずっと気に掛けていたと……本気でそう思っているんですか?」

 意図せず、責めるような口調になったが、サミルは否定しなかった。

「君が、シルヴィア様に対して抱いている気持ちが、家族に対する情なのか、哀れみなのか……はたまた、別の何かなのか。それは、私の口から出しては、単なる押し付けになってしまうでしょう」

 ルーフェンの背を、ゆっくりとさすっていた手を止めると、サミルは、悲しげに答えた。

「……けれど、どんな想いであれ、君はずっと、お母様のことを気に掛けているように見えていましたよ」

「…………」

 開きかけた口を閉じて、ルーフェンが押し黙る。
サミルの言葉を反芻していると、かつて、シルヴィアとその侍女、アリアの手紙を見てしまった時の記憶が、脳裏に蘇った。

 当時、十四だったルーフェンは、王座を狙うシルヴィアの没落を、一心に願っていた。
しかし、親交のあった元宮廷魔導師、オーラントが偶然見つけてきた母と侍女の手紙を見て、ひどく衝撃を受けた。
感情など持ち合わせていないのだろうと思っていた母が、もらった手紙を後生大事に保存しているなんて、予想外だったからだ。
思えば、ルーフェンのシルヴィアに対する見方が変わったのは、あの時だったのだろう。
忌み嫌っていた母の本来の姿を、初めて直視したような気分になった。

 あと一歩踏み込めば、シルヴィアとの関係に、なにかしら変化が起きていたかもしれない。
だが、ルーフェンはあえて踵を返した。
母の真意など考えたところで、現在のシルヴィア・シェイルハートが、何人もの命を貶めた人間であることに変わりはないからだ。
最終的に、ルーフェンはアーベリトを選んで、サミルもまた、ルーフェンを選んだ。
ルーフェンは、自分の母を嫌忌し、関わりを持たぬままで在りたかったのだ。

 ルーフェンは、乾いた笑みをこぼした。

「……あるとすれば、同情ですよ。確かに、可哀想な人だとは思います。でも、それだけです。俺は、あの女がどうなるかよりも、アーベリトの方が大事です。サミルさんたちがいてくれれば、それで……」

 呟くように言うと、サミルの顔が、ますます悲しげに歪む。
サミルは、弱々しい声で告げた。

「……ルーフェン。君が昔から、アーベリトを守ろうと頑張ってくれていることは、よく知っています。……でも、永遠に続く時間は、ないんですよ」

 ルーフェンの瞳が、微かに揺れる。
言葉を続けようとしたサミルを、ルーフェンは遮った。

「──つまり、あと数年もすれば、アーベリトは王権を手放して、俺もシュベルテに戻らなくちゃいけない。だから、今の内に母親と仲直りでもしておけ……ってことですか?」

 サミルの顔が、さっと青ざめる。
慌てて首を振ると、サミルは否定した。

「違います、そういう意味ではなくて──」

「何が違うんです? 事実でしょう。カーライル王家が復興したら、召喚師一族も王都に戻ることになる」

「それは……そうですが、私が言いたいのは、そういうことでは──」

 その時、不意に、書庫の引戸が叩かれた。
お互いに、口を開こうとしていたサミルとルーフェンは、同時に口をつぐむ。
しん、と静まり返った書庫の中で、一拍置いて、どうぞ、とサミルが声をかけると、扉を開けて入室してきたのは、サイであった。

Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下 ( No.305 )
日時: 2020/09/14 19:01
名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: 8NNPr/ZQ)



「失礼いたします、サイ・ロザリエスです。陛下、こちらにいらっしゃったのですね。召喚師様におかれましては、シュベルテからのご帰還早々に、大変申し訳ありませんが、お二人にご相談したいことがございます。今、お時間よろしいでしょうか?」

 恭しく頭を下げたサイに対し、サミルとルーフェンは、視線を合わせる。
二人の間に流れる、重々しい空気感を感じ取ったのだろう。
サイは、あ、と声をこぼした。

「もしかして……お話の途中でしたか? 出直したほうがよろしければ、また後程伺います」

「……いや、構わないよ」

 再び礼をし、下がろうとしたサイを、ルーフェンが呼び止める。
サミルは、進言の許可をしてサイに頷きかけてから、ルーフェンに対し、小声で囁いた。

「……また今度、時間をください。話したいことがあります。シルヴィア様には、物見の東塔にお部屋をご用意しています。私はもちろん、トワリスにも様子を気にかけるよう、お願いしていますから……しばらくは、このまま滞在させるつもりです」

 柔らかい口調だが、意見を変える気はないと、確かな主張が込められた言い方であった。
ルーフェンは、微かに息を吐くと、同じく小声で答えた。

「……分かりました。でも、サミルさんたちは、あの女に関わらないで下さい」

 短く答えて、ルーフェンは、サイのほうに視線を移す。
サイは、躊躇いがちに本棚の並ぶ通路を抜けると、サミルとルーフェンの前に跪いた。

「お邪魔をしてしまい、大変申し訳ございません。お話は、よろしかったのですか?」

「うん。別に、大したことじゃないから。……で、相談って?」

 先程までの重い空気を感じさせない、軽い口調でルーフェンが尋ねる。
一方のサミルは、まだ緊張感を引きずっているのか、やや面持ちが硬い。
普段はにこやかなサミルの表情が、遠目でも分かるほど強ばっていたのだ。
決して“大したことではない”ようには見えなかったが、ルーフェンの態度を見る限り、これ以上は触れぬ方が良いのだろう。

 サイは、余計な詮索はすまいと唇を引き結ぶと、本題に移った。

「ご相談と言うのは、セントランスの件です。怪我人はシュベルテとアーベリトで分担し、あらかた病院に収容し終えましたが、人命救助と復旧にばかり、時間をかけているわけには参りません。セントランスが指定してきた『追悼儀礼の日』まで、あと一月半ほどです。陛下のご意向通り、近々、セントランスには交渉の申し入れをすることになるかと存じますが……その、城館内では、やはりセントランスは応じないだろう、という見方が強いようです。一度、シュベルテの被害状況も鑑みて、召喚師様のお考えもお聞かせ頂けないでしょうか」

 言いながら、サイは、懐から擦りきれた紙束を取り出した。
サイ自身でまとめて、書き記したものなのだろう。
その紙束には、今回の襲撃によるシュベルテでの被害状況や、セントランスからの宣戦布告の詔書内容などが、事細かに記録されていた。

 再び席に着いたサミルを一瞥すると、ルーフェンは、あっけらかんと返した。

「お考えも何も、陛下が交渉の場を設けるって言うなら、俺はそれに従うよ。今のシュベルテは、とても戦力換算できるような状態じゃないし、かといって、残るアーベリトとハーフェルンじゃ、セントランス相手に開戦すれば無傷ではいられない。宣戦布告に応じるのは、最終手段にしたいところだね」

 無傷ではいられないどころか、確実に敗北するだろう。
──とは口に出さなかったが、あまりにも平然としているルーフェンに、サイは戸惑いを隠せなかった。
セントランスの脅威に晒され、いつこの平穏が崩れ去るのだろうという恐怖心から、王都を含む三街の民たちは、皆、眠れぬ夜を過ごしている。
セントランスが絶対的優位に立っている現状では、交渉の余地などなく、開戦したところで勝機はない。
しかし、セントランスの要求を飲み、王権を捧げて支配下に入れば、それこそアーベリト側の未来が潰えることは分かりきっているだろう。

Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下 ( No.306 )
日時: 2020/09/17 19:22
名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: 8NNPr/ZQ)


 神妙な顔つきのサイに、サミルは落ち着いた声で言った。

「皆さんのご意見は尤もですし、セントランスの領主であるアルヴァン候の性格を考えても、話し合いで解決する、というのはなかなか難しいでしょう。しかし、先日の会議でもお話した通り、私は決して、投槍になっているわけではありません。どう転んでも三街を守り抜けるよう、手を打つつもりです。既に、セントランスに宛てた親書は認めてあります。この親書が返送されるか否かで、開戦に踏み切るかどうかを決定します。ですから、それまでは、交渉の申し入れを受け入れさせることに、賭けたいと思っています」

 手元にあった、厳重に封のされた書簡を、サミルが目で示す。
国王自筆の署名が入ったそれを見て、サイは、訝しげに眉を寄せた。

「……受け入れさせる、というと、何か策がおありなのでしょうか?」

 答えようとしたサミルを、ルーフェンが視線で制する。
ルーフェンは、肩をすくめて答えた。

「具体的なことは、まだなんにも。サイくん、だっけ。……どうすればいいと思う?」

 ここで問い返されるとは思わず、サイは、ぱちぱちと目を瞬かせた。
ルーフェンは、一見微笑んでいたが、見ようによっては、挑発的な色を瞳に浮かべているようにも見えた。

 考え込んでうつむくと、サイは唇を開いた。

「……二案あります。一つは、我々と争わず、協力関係にあったほうが、セントランスにも利があると説得することです。シュベルテと関係を結ぶことは言わずもがな、ハーフェルンの持つ、他街との強い繋がりや交易路、そしてアーベリトの持つ医療技術には、金や領地には変えられぬ価値があると存じます。セントランスを懐に入れる是非は問われましょうが、もし、アルヴァン候が三街の持つ価値に注目して下されば、ひとまず、争いの道は避けられるかもしれません」

 サミルが、小さく首を振った。

「それは……残念ながら、七年前に既に試みたことです。シュベルテから王権を譲り受ける際に、セントランスにも私達と協力関係を結ぶよう声をかけたのですが、一蹴されて終わってしまいました。アルヴァン候は、なかなかに頭の堅いお方で……」

 苦々しく嘆息したサミルに、ルーフェンも、肩を怒らせて王都選定の場から出ていったセントランスの領主、バスカ・アルヴァンの姿を思い出した。
厳正な決闘を行い、次期国王を決定するべきだと主張していた彼は、アーベリトへの遷都が決まった瞬間に、腹を立てて謁見の間から出ていってしまったのだ。
今回の宣戦布告も、当時の蟠(わだかま)りが大いに関係しているはずだ。
再度和解を求めたところで、それをセントランスが受け入れることはないだろう。

 なるほど、と呟いてから、サイは、二つ目の案を出した。

「では、一か八か、こちらも脅しに出るというのはいかがでしょうか。セントランスが戦にこだわっているのは、歴史的な土地柄もありますが、必ず勝てるという確証があるからこそです。その勝機を奪って、弱みに付け入れば、交渉に応じる可能性が出てきます。……はっきり申し上げましょう、セントランスがシュベルテの襲撃時に使ったとされる異形の召喚術。あれを封じられるならば、活路は見出だせるかと」 

 サイの発言に、室内の空気が変わる。
ルーフェンは、唇で弧を描くと、跪くサイの前に屈んで、目線を合わせた。

Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下 ( No.307 )
日時: 2020/09/19 18:38
名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: 8NNPr/ZQ)



「いいね、それ。召喚師一族の力を保有したとかなんとか、見え透いたほらを吹かれて、俺も不愉快だったんだ」

「と、言いますと……やはり、シュベルテを襲ったのは、召喚術由来の力ではないのですか……?」

「サイくんは、召喚術だったと思うの?」

 再び問い返されて、サイは、困ったように口ごもる。
逡巡の末、ルーフェンに向き直ると、サイは慎重に言葉を選んだ。

「決して、召喚師様のお力を軽んじるつもりはないのですが……正直、あり得ない話ではない、と考えておりました。セントランスは、過去に王権を持っていた都市でもありますから、何かしら召喚師一族に関する情報を持っていても、不思議ではありません。ただ、私は実際に、シュベルテを襲った異形を見たわけではありませんし、本物の召喚術を拝見したこともありません。悪魔というものが、一体どんな姿形をしているのか。魔語がどういった規則性を持った言語で、どれほどの効力と発現力を持ったものなのか……何一つ知りません。ですから、召喚師様が召喚術ではない、と仰るならば、きっとそうなのでしょう」

 ルーフェンは黙ったまま、しばらくサイの目を見つめていた。
だが、やがて立ち上がり、手近な本棚に背を預けると、小さく吐息をついた。

「俺も、異形とやらをこの目で見た訳じゃないけど、報告を聞く限りじゃ、召喚術でないのは確かだよ。仮に“召喚術を使えるのは召喚師一族だけ”っていう前提がひっくり返って、悪魔を従えた人間が他にいたのだとしても、召喚術は、並の人間一人分の魔力量で扱えるものじゃない。花祭りの場に、何人くらいのセントランスの魔術師が紛れていたのかは知らないけど、あの警戒の中じゃ、大勢入り込むのは難しいだろう。少なくとも、あの場で儀式的に大勢で召喚術を完成させることは、絶対に不可能だ」

 言い切ったルーフェンに、サイは眉を寄せた。

「しかし……遠隔から行使していたのであれば、必ずしも不可能とは言いきれないのではありませんか? 魔力供給を行う魔導師たちを他の場所に待機させ、召喚術の術式を彫った別の魔導師を、シュベルテに送り込むのです。そうすれば、火付け役の一名が潜入するだけでも、理論上行使は可能になるでしょう」

 サイの指摘に、ルーフェンは眉を上げた。

「……まあ、最後まで聞いて。理由は、他にもあるんだ。第一、召喚術なんて大層な名前がついているから、異形が出てくるような想像をされたのかもしれないけど、悪魔っていうのは本来“可視化された状態で呼び出したりしないんだよ”」

「え……?」

 サイが、驚きの声をこぼす。
ルーフェンは、淡々と言い募った。

「火や水でも、金属でも、そこに無いものを発現させる魔術っていうのは、大概ややこしいでしょ。その原理と一緒だよ。召喚師は、悪魔を召喚する時、“自分の身体を媒体に使うんだ”。そうすれば、悪魔を可視化させる余分な魔力を使うこと無く、術を行使することができる。つまり、化け物を呼び出して街を襲わせる、なんていう魔術自体が、召喚術でない証拠なんだよ。悪魔を見たことがない、平凡な魔導師たちの妄想に過ぎないってわけ。仮に召喚術を『膨大な魔力を消費する、魔語を用いた憑依術』だと定義するなら、今回の襲撃で用いられた術には、何一つ当てはまらないし、改めて考えてみても、“召喚術を使えるのは召喚師一族だけ”っていう前提が、覆せるとは思えない。……それに、もし、本物の召喚術だったんなら、宣戦布告なんて回りくどい真似をしなくても、最初からシュベルテごと吹っ飛ばすことだって出来ただろうしね」

 目を細めて、ルーフェンが微かに笑う。
強張った顔つきで話を聞いていたサイは、ルーフェンが口を閉じたあとも、額に汗を浮かべて沈黙していた。

Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下 ( No.308 )
日時: 2020/09/23 13:35
名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: 8NNPr/ZQ)


 長い間、サイは、険しい顔つきで自分の掌を見つめていたが、ややあって、姿勢を正すと、静かな声で尋ねた。

「そもそも、悪魔とは、一体なんなのでしょうか……。魔語に関しても、それほどまでに読解が難しいものなのですか?」

 ルーフェンは、肩をすくめた。

「さあ? 悪魔の正体に関しては、俺も教えてほしいくらいだね。魔語についても、おそらく古語由来……いや、古語が魔語由来と言うべきか。とにかく、なんとなく規則性がある言語だっていうのは推測できるんだけど、それ以上は何も分からない。一つ言えるとすれば、魔語は無限にあるから、召喚師一族以外の人間が読解するのは、骨が折れるだろうってことかな」

「無限にある……? どういうことですか?」

「魔語は表語文字なんだよ」

「表語文字……」

 サイが、興味深そうに繰り返す。
ルーフェンは、変わらぬ笑みを浮かべたまま、ゆっくりと頷いた。

 表語文字とは、一文字で意味を成す言語のことを指す。
元は絵に起源を持つとされ、会話に用いるための言語というよりは、事物を表すための記号や絵文字、と表現した方が近いだろう。
対して、特定の順序で並べたり、規則性に乗っ取って発音をすることで意味を成す言語を表音文字といい、一般的にサーフェリア内で使われる言語や、魔術に使われる古語は、こちらにあたる。

 ルーフェンは、ふと腕を上げると、指先を宙で動かした。
すると、その軌跡が光の帯となって残り、小さな魔法陣のような記号──魔語を形成していく。

 空に無数の魔語を書き終えたところで、ルーフェンは、その一つ一つを示していった。

「例えば、これは一文字で調和、次が対立、その隣が虚言を意味する魔語だよ。つまり、言葉の数だけ魔語は存在するってこと。召喚師一族は、初見でも意味が分かるけど、普通の魔導師にはただの記号にしか見えない。仮に、規則性や文法を見つけたとしても、無限にあることを考えると、一から読み解こうとなんて途方もないだろう?」

 ごくりと息を飲んで、サイは、光の帯を凝視している。
初めて目の当たりにする魔語に、こめかみの血管が、どくどくと音を立てていた。

 ルーフェンが魔語を消すと、サイは、我に返ったように口を開いた。

「……分かりました。では、召喚師様の仰ることをまとめますと、召喚術というのは、一般の魔導師一人分の魔力量では到底扱えず、そもそも、今回シュベルテを襲ったセントランスの魔術は、悪魔を身に宿す、という召喚術の定義には根本から当てはまらない。また、召喚術に使用される魔語は、謎に包まれた部分が多く、研究する者がいない現在では読解することはほぼ不可能。以上の点から“召喚術を使えるのは召喚師一族だけ”という前提が覆ることはない、と……」

「そういうこと」

 場に似合わぬ軽薄な声音で、ルーフェンが答える。
サイの言葉は的確で、表情もいたって落ち着いているように見えたが、彼の手がわずかに震えていることに、ルーフェンは気づいていた。

 サイは、床に額をつけた。

「……ありがとうございます、今のお話を聞いて、安心いたしました。それだけ否定材料があれば、セントランスに脅しをかけるには、十分そうですね」

 次いで、頭を上げると、サイはサミルのほうに向き直った。

「陛下、お願いがございます。私に、セントランスへの親書を届ける役目を、お任せ頂けないでしょうか」

 ルーフェンとサミルが、一瞬、目を見合わせる。
サイは、膝に置いた拳を、白くなるほど握りしめた。

「十日……いえ、七日ください。その間に、入院している者たちから、異形の目撃証言を集め、シュベルテを襲った“召喚術もどき”の正体を、私が明らかにいたします。そして、セントランスに親書を届けた際に、詔書に書かれていた召喚術が偽物であったことを指摘した上で、陛下との交渉の場を設けて頂けないか、伺ってみましょう」

 サイの真剣な眼差しが、サミルの視線と交差する。
サミルは、すぐには返事をしなかったが、答えは既に決まっている様子であった。

「……非常に危険な任です。セントランスの出方次第では、無事にアーベリトに戻って来られるか分かりません。……それでも、やって頂けますか?」

「はい。覚悟の上です」

 間髪入れずに、サイは迷いなく答える。
躊躇いの色が見え隠れするサミルから、一切目をそらさずに、サイは続けた。

「出過ぎた真似とは存じますが、自身の守護も固める必要がある今、召喚師様がアーベリトをお空けになるのは、得策ではありません。どうか、私にお任せください。アーベリトの魔導師として、必ずやり遂げてみせます」

Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下 ( No.309 )
日時: 2021/01/10 22:32
名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: r1a3B0XH)


  *  *  *



「──トワリス……!」

 焦ったようなハインツの声で、トワリスは、はっと我に返った。
ハインツの頑健な拳が、唸りをあげて、眼前に迫ってくる。
咄嗟に双剣を交差させ、その拳を受けたトワリスであったが、しかし、真っ向から食らった重々しい衝撃に、こらえきれず、背中から草地に倒れた。

 弾けとんだ剣が一本、甲高い音を立てながら、頭上に舞い上がる。
痺れたような痛みが骨まで響き、思わず呻き声をあげると、ハインツが、蒼白になって、仰向けのトワリスをのぞきこんだ。

「だっ、大丈夫……?」

 おろおろと視線を彷徨わせながら、ハインツが、問いかけてくる。
トワリスは、両腕に異常がないか確かめると、ゆっくり立ち上がった。

「……ごめん、ぼーっとしてた」

「い、いや、俺が、力加減、間違えた、かも……」

 胸元でもじもじと指先を絡ませながら、ハインツが項垂れる。
地に突き刺さった双剣の片割れを回収すると、トワリスは、呆れたように肩をすくめた。

「稽古の時は、力加減しなくていいって何度も言ってるじゃないか。今のは、集中してなかった私が悪いんだよ」

「で、でも……最近、トワリス、疲れてる、みたいだし……」

 躊躇いがちに俯いて、ハインツが口ごもる。
一瞬、むっと眉を寄せたトワリスであったが、否定はできなかった。
ここのところ、通常の業務に集中できていない自覚はあったのだ。

 黙っていると、今までは気にならなかった葉擦れの音や、噴水の水面が揺れる音が、やけに大きく聞こえる。
微かな風が耳元をかすると、脳裏で、豊かな銀髪が翻った。

 深くため息をつくと、トワリスは、噴水の石囲に腰かけた。

「……ハインツ。ルーフェンさんが、どうしてシルヴィア様を遠ざけようとするのか、知ってる?」

「…………」

 ハインツが、不思議そうに首を傾げる。
この様子では、ルーフェンとシルヴィアの間に溝があることすら、ハインツは知らないようだ。
トワリスは、足を動かしながら目を伏せると、再度嘆息した。

 ルーフェンから、シルヴィアに近づくなと警告を受けて、数日が経った。
あれ以来トワリスは、約束通り、シルヴィアと関わらずにいる。
だが、一度だけ、様子が気になって物見の塔に足を向けてみると、彼女は、閉めきった室内で、窓も開けずに過ごしているようであった。
母子の間に、何か特別な事情があったとして、トワリスに口出しをする権利はない。
しかし、たった一人で部屋に閉じ込め、監視をするだけで外部との接触を絶つなんて、療養とは名ばかりの、まるで軟禁ではないか。
そんな思いがわき上がる度に、動けぬ花を哀れんでいたシルヴィアの横顔が、何度も頭の中に蘇るのだ。

 黙って俯いていると、返事に困ったハインツが、そっとトワリスの顔色を伺ってきた。
いつもなら、休んでいる暇などないと言い張って、息切れするような厳しさで剣術やら体術やらを教えてくれるトワリスだが、最近はずっと、この調子で萎れている。
数瞬、どうすべきか迷った末に、トワリスの隣にちょこんと座ると、ハインツは口を開いた。

「わ、分からない、けど……あんまり、仲は良くない、のかも。ルーフェンから、お、お母さんの話、聞いたこと、ない……」

「…………」

 ふと顔を上げたトワリスが、ハインツを横目で見る。
ややあって、目線を前に向けると、トワリスは、吹き抜けの廊下の方をぼんやりと眺めた。

「毎日でなくてもいいから、シルヴィア様を外に出してあげられないかな。ほら、セントランスがシュベルテを襲撃した時の状況を聞くとか、そういう理由があれば、ルーフェンさんも許してくれるかもしれないし……。あるいは、サミルさんのほうを説得するとか。何にせよ、今のままじゃ、あまりにも──……」

 言いかけて、口を閉じる。
トワリスは、しばらくの間、思い詰めた表情で閉口していたが、やがて、考えを振り払うように首を振ると、石囲から立ち上がった。

「……やっぱり、なんでもない。無関係の私が、首を突っ込むことじゃないよね。今はセントランスとの揉め事で、それどころじゃないわけだし、仕事に集中しないと」

 自分に言い聞かせるように呟いて、トワリスは、ぐっと拳を握る。
現状、最優先すべきなのは、セントランスへの対抗策を練ることである。
そう意気込んでおかねば、あっという間に、頭の中をシルヴィアに支配されそうであった。

Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下 ( No.310 )
日時: 2020/09/25 19:45
名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: 8NNPr/ZQ)



 口には出さなかったが、トワリスの抱える懐疑心は、ハインツにも理解できるような気がした。
実際、サミルとルーフェンのシルヴィアに対する反応は、彼ららしからぬ点が多いのだ。

 トワリスの話を聞く限り、シルヴィアは、それほど容態が悪いわけでもなさそうだ。
それなのに彼女は、物見の塔で一人、囚人の如く幽閉されている。
最初は、人目に触れると騒ぎになってしまうため、一時的に塔に身柄を移したのかと思っていたが、シュベルテからルーフェンが戻ってきて以降、その厳重な隔離ぶりに拍車がかかった。
この露骨な遠ざけ方を見れば、誰だって、ルーフェンとシルヴィアの間には、何かあるのではないかと勘繰り始めるだろう。

 ルーフェンは、掴み所のない性格故に、長年隣にいても、その心の奥深くまでは見せてくれたことがない。
そんな彼が、シルヴィアに対して、周囲にも分かりやすいくらいの嫌悪感を示したことは驚きだったし、塔に閉じ込めるなんていう所業を、サミルが黙認したことも意外であった。

 結局ルーフェンは、帰ってきてから一度も、シルヴィアに会いに行っていない。
仮にも母親で、要人であるシルヴィアへの誠意の感じられない扱い方には、疑念を抱かざるを得ないのであった。

 立ち上がったトワリスが、誰かに声をかけたので、ハインツは顔をあげた。
吹き抜けの長廊下を、前が見えぬほど大量の魔導書を抱えたサイが、よたよたと歩いている。
手を貸そうと腰をあげたハインツより速く、トワリスが、サイに近づいていった。

「大丈夫ですか? 手伝いますよ」

 そう言って、サイが抱える魔導書の半分を、トワリスが取り上げる。
目の前が開けてから、ようやく話しかけられていることを理解したようなサイの顔を見て、トワリスはぎょっとした。
彼の頬はげっそりと痩け、目の下には、色濃い隈が浮き出ていたからだ。

「サイさん……どうしたんですか。ここ最近見ないと思ったら、ひどい顔色してますよ。ちゃんと食べてないでしょう」

 トワリスが眉を下げると、サイは、いまいち分かっていないような顔で、へらっと笑った。

「あ……ちょっと、色々と立て込んでしまって。大丈夫、大丈夫ですよ。この間、水は飲んだので」

「この間って……いつの話ですか」

 思わず嘆息して、顔をしかめる。
サイの呆けたような態度に、既視感を覚えて、トワリスは肩をすくめた。

 サイは、まだ魔導師の訓練生だった頃にも、昼夜問わず魔導書を読み耽って、栄養失調で倒れたことがある。
たまたま訪ねたトワリスが、運良く発見したから良かったものの、あのまま放置されていたら、どうなっていたか分からない。
サイは、一度夢中になって根を詰めると、周りが見えなくなる質なのだ。

 自分が持っていた魔導書をハインツに渡し、サイが抱えていた残りまで奪い取ると、トワリスは、厳しい口調で言った。

「これ、どこまで運べばいいんですか? 私たちがやっておくので、サイさんは、ご飯食べて寝てきて下さい」

「……へ!? いや、それは悪いですよ!」

 突然目が覚めたように瞠目して、サイが、魔導書を取り返そうと手を伸ばす。
その手を難なく避けると、トワリスは、睨むようにサイを見上げた。

「体調管理も、大事な仕事の内ですよ。倒れる前に、休んできてください。魔導書の運搬くらい、私とハインツでやれば、すぐに終わりますから」

「で、ですが……トワリスさんたちも、午後から病院のほうに巡回にいかないとならないでしょう。忙しいのに、申し訳ないですよ」

「平気です。私、雑念を払うために、今は仕事に集中したい気分なので」

「ざ、雑念……? いや、とにかく、お気持ちは有り難いのですが、これは私がやらないと意味がないんです!」

 珍しく、強く主張してきたサイに、トワリスが動きを止める。
訝しげに視線を向けると、サイは、辿々しく口を開いた。

「その……陛下と召喚師様から、セントランスへ親書を届ける役目を仰せつかっているんです。五日後、賭けにはなりますが、宣戦撤回の交渉に応じてもらえるよう、アルヴァン候を説得……というか、恐喝します。そのために、セントランスがシュベルテの襲撃時に使った魔術について、情報を集めていて……」

 サイの言葉に、トワリスとハインツが、顔を見合わせる。
ややあって、大きく目を見開くと、トワリスは驚嘆の声をあげた。

「親書って……えっ、交渉申入の件ですか? 届けるって、サイさんが一人で? 私たち、そんなこと一言も聞いてませんよ!」

 声を荒らげて、トワリスが詰め寄ってくる。
サイは、一瞬焦ったような顔になると、及び腰で答えた。

「え、えっと……すみません。隠していたわけではないのですが、あまり言いふらすことでもないかと思いまして……。ほら、アーベリト内でも、開戦すべきだという声が多く上がっているじゃないですか。ですから、現段階では、内密に事を進めた方が、色々と穏便に収まるかな、と……」

 言いながら、サイの視線が、すーっと横に反れていく。
トワリスは、そんな彼の顔を疑わしげに見つめていたが、やがて、持っていた魔導書をサイに突き返すと、確信めいた口調で問い質した。

「召喚師様に、私たちには言わない方がいいって言われたんですね?」

「えっ」

 サイの眉が、ぎくりと動く。
その反応に確証を得ると、トワリスは、怒り顔で踵を返した。

「ちょっ、ちょっと待ってください、トワリスさん! 違うんです、この件は、私が陛下と召喚師様に頼んで──」

「ハインツは、サイさんのこと手伝ってあげて!」

 慌てて引き留めてきたサイを無視して、トワリスは、ハインツに指示を飛ばす。
狼狽える男二人を置いて、トワリスは、ルーフェンの執務室へと向かったのであった。

Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下 ( No.311 )
日時: 2020/09/28 19:00
名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: 8NNPr/ZQ)



「サイさんを一人でセントランスに行かせようなんて、一体どういうつもりなんですか!」

 執務室に突撃し、ルーフェンの真正面に座ると、トワリスは、開口一番にそう告げた。
ルーフェンは、広々とした長椅子で寛ぎながら、何やら手紙の封を切って、中身を眺めている。
目前の長机には、書類が広げられていたが、それらは単なる古い報告書の束のようで、セントランスと関係があるようには思えない。
サイに危険な任を押し付けたくせに、ルーフェン自身は、全くもって緊張感のない様子である。

「んー? どういうつもりって? 親書は近々届ける予定だったし、その役目をサイくんが買って出てくれたから、お願いしただけだよ」

 トワリスのほうには目もくれず、手紙をいじりながら、ルーフェンが答える。
あまりにも気のない返事に、トワリスは、思わず身を乗り出した。

「だからって……! どうして私やハインツに、事前に知らせてくれなかったんですか? まだ開戦には至っていないというだけで、セントランスとは、実質敵対関係なんですよ。それなのに一人で向かわせるなんて、考えられません」

 勢いよく顔を近づけると、ようやくルーフェンが、トワリスの方を見た。
しかし、一瞥をくれただけで、すぐに手紙へと視線を戻してしまう。
何がおかしいのか、くすくす笑うと、ルーフェンは肩をすくめた。

「そうは言っても、大人数で押し掛けたって、警戒されるだけだよ。争う気はないっていう意思表示に行くんだから、なるべく無防備な状態で行かないと」

「無防備にも程がありますよ! サイさんを一人で行かせるなら、私も着いていきます。二人くらいだったら、敵意があるようには見えないでしょう?」

「えー、でもトワって馬鹿正直だから、交渉とか向いてなさそうだしなぁ」

「ぅ……」

 ぐっと言葉を詰まらせて、トワリスが押し黙る。
確かに、アーベリトの命運を賭けた交渉取付の場で、確かな爪痕を残せるほど、トワリスは弁が立たない。
そういう意味では、頭の切れるサイを使者として選んだのは、英断と言えよう。

 それでも、納得できない様子で顔をしかめると、トワリスは言い募った。

「だったら……私でなくてもいいです。とにかく、誰かしら付き添わせてください。短期間で交渉材料を集めて、敵地に乗り込むんですよ。サイさん一人に押し付けるのは、どう考えても危険だし、無理があるじゃないですか。サイさん、さっきだって、何日も寝ていないような顔で、ふらふらしながら魔導書運んでたんです」

「うーん……とはいっても、アーベリトのほうを手薄にするわけにはいかないしなぁ」

 トワリスの必死の説得も虚しく、ルーフェンは、尚も生返事を寄越してくる。
我慢できなくなって、更に前のめりになると、トワリスは声を荒らげた。

「もう! ちゃんと話を聞いてください! こっちは真剣なんですよ! なんなんですか、手紙ばっか見てへらへらと……!」

 言いながら、ルーフェンが持っている手紙を、強引に取り上げる。
すると、嗅いだことのある薔薇の香りが、ふわりと鼻腔をくすぐった。
手紙に染み込んでいたらしい、その甘やかな香りは、かつて、トワリスが仕えていたハーフェルン領主の一人娘、ロゼッタ・マルカンの香水の匂いである。
執筆中の移り香というよりは、あえて手紙に香り付けしたような、濃厚な匂いであった。

Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下 ( No.312 )
日時: 2020/10/10 18:42
名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: 8NNPr/ZQ)

 つかの間、動きを止め、手紙とルーフェンを交互に見ると、トワリスは、訝しげに目を細めた。

「……これ、ロゼッタ様からの手紙ですよね?」

 ルーフェンが、眉をあげる。

「うん、よく分かったね」

「匂いで分かります」

 感心した様子のルーフェンに対し、トワリスは、冷ややかな口調で答える。
一度落ち着こうと、ゆっくり息を吐くと、トワリスは、身を戻して長椅子に座り直した。

「……良いご身分ですね。王都の緊急時に、婚約者からの手紙を読んで、呑気ににやついていたわけですか」

 刺々しいトワリスの言葉に、ルーフェンは苦笑した。

「やだなぁ、そんな楽しい内容の手紙じゃないよ。今、シュベルテの魔導師団が動ける状態じゃないから、ハーフェルンの守りをどうするか、って話」

「ふーん……」

「……妬いてるの?」

「そう見えるんだとしたら、ルーフェンさんの頭は手遅れだと思います」

「辛辣だね」

 言いながら、ルーフェンはからからと笑う。
トワリスは、じっとりとした視線を投げ掛けながら、次いで、机の上の書類を手に取った。

「これは、魔導師団からの報告書ですか?」

 見慣れた魔導師団の印を確認してから、ぱらぱらと何枚か捲ってみる。
ルーフェンは、あっけらかんと答えた。

「そうそう、ちょっと古いけどね。俺のことが書いてあるんだよ」

 内容に目を通すと、ルーフェンの言う通り、書類は全て、召喚師に関する記録であった。
史実に残っている歴代の召喚師の名前から、現職のルーフェンが行ってきた施策まで、事細かに記載されている。
中には、ルーフェンが急進派のイシュカル教徒集団を陥落させた時のことや、南方のノーラデュースへ行き、リオット族を引き入れた時のことなど、現役の魔導師でも、その場にいなければ知り得ないようなことまで記されていた。

 トワリスはしばらく、静かに報告書を読んでいたが、やがて、目をあげると、胡散臭そうに尋ねた。

「……で、大事な報告書であることには間違いないですが、これは、セントランスの件と何か関係があるんですか?」

「いや? 直接は関係ないよ。ただ、俺かっこいいなぁと思って見返してただけ」

「…………」

 もはや言葉も出ない、といった様子で、トワリスが呆れ顔になる。
無言で書類と手紙を机に戻すと、トワリスは、すっと席を立った。

「もういいです。サミルさんに、直接言いに行きます」

「ちょっと待って。冗談だよ、本気にしないで」

 そのまま執務室を出ていこうとすると、ルーフェンが、間髪入れずに呼び止めてくる。
笑いを噛み殺したような、真剣味のない彼の表情には、反省の色など全く見えない。
それでも、目が合うと手招きをしてきたルーフェンに、大きく嘆息すると、トワリスは再び長椅子に腰を下ろした。

「……で、何の話だっけ?」

「サイさん一人をセントランスに送り込むのは反対だって話です!」

 能天気なルーフェンの問いに、トワリスが、食い気味に答える。
いよいよ殴りかかってきそうなトワリスに、ルーフェンは、ようやく姿勢を正した。

「そんなに怒らないで。まあ、トワの言うことも分かるよ。敵地に単身乗り込むわけだから、身の安全は保証できない。でもそんなことは、いつ攻め込まれるか分からないアーベリトにいたって同じことだろう? なんにせよ、交戦を避けるために、交渉申入の親書は誰かが届けなきゃいけない。俺は、サイくんが適役かなーと思ったけど、トワはそう思わない?」

「それは……」

 意地の悪い聞き方をされて、トワリスは、思わず言い淀んだ。
ここで頷けば、意図せずサイを貶すことになってしまう。
トワリスは、しかめっ面で首を振った。

「……私だって、サイさんが適役だとは思います。サイさんは、すごい魔導師です。訓練生だった頃から、誰よりも頭が良くて……。分厚い魔導書の内容も、一回読んだだけで隅々まで覚えちゃうし、洞察力とか、判断力も的確です。それでいて、傲らないので、皆が彼は才能のある人だって認めていました。でも、だからこそ──……」

 そこまで言って、トワリスは口をつぐんだ。
うっかり、ルーフェンに言うつもりではなかったことまで、こぼしてしまいそうになったからだ。

Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下 ( No.313 )
日時: 2020/10/13 18:59
名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: 8NNPr/ZQ)



 サイがいくら有能でも、敵地に一人で向かうのは危険である。
一人よりは、二人で行った方が生きて帰れる可能性は高まるわけだから、親書を届けるならば、トワリスも同行したい。
この言い分も、確かに本心であった。
だが、トワリスには、それ以上に懸念していることがあったのだ。

 サイは、セントランスが用いた異形の召喚術を暴き、親書を届ける役目を、自ら買って出たと言う。
そうして今、寝食も忘れ、やつれるまで魔導書を読み耽っている。
そこまでする彼の原動力が、アーベリトを想う心ならば良いのだが、なんとなく、トワリスはそう思えなかった。
おそらく、彼を動かしているのは、召喚術という未知への探求心──。
勉強熱心で根気強い、なんて言えば聞こえは良いが、その異様な執着心は、数年前のサイの姿を彷彿とさせるのであった。

 以前にもサイは、死体を継ぎ接いで作られた魔導人形、ラフェリオンを構成する禁忌魔術に魅入られて、同じように魔導書を読み耽っていたことがある。
トワリスは、自分たちが手を出して良いことではないと止めたが、サイは耳を傾けず、それどころか、禁忌魔術は素晴らしい、色々な可能性を秘めているのだと訴えてきた。

 アーベリトでサイと再会してから、約一年。
サイは変わらず優しく、頼りになる同輩で、あれ以来、禁忌魔術に固執しているような姿は、一度も見ていなかった。
故に今回、サイがどういうつもりで、親書を届ける役目を引き受けたのかは分からないし、確かな根拠がない以上、この疑念を、サミルやルーフェンに打ち明ける気はない。
それでもトワリスは、身の内にある不信感を、完全に拭い去ることはできなかった。

 禁忌魔術の次は、召喚術に執着し始めたのではないか、とか、だとすれば、サイを止められる人間が側にいた方が良いのではないか、とか、そんな不安が全て、トワリスの杞憂であったなら、それで良いだろう。
ただ、今でも狂気を孕んだサイの瞳が、ふとした拍子に脳裏によみがえる。
禁忌魔術に魅了されたサイの姿は、トワリスにとって、それだけ衝撃的で、恐ろしかったのだ。

「──だからこそ、嫌な予感がする?」

 ふと、ルーフェンに問われて、トワリスは瞠目した。
まるで、心を見透かされたような質問だったからだ。

 トワリスは、努めて平静を装いながら、口を開いた。

「……心配なんです。セントランスに行くことも、例の術に関して調べることも、一人じゃ荷が重いでしょう。誰かがやらなきゃいけないっていうのは分かりますが、サイさん一人に押し付けるべきじゃありません。人殺しの異形を召喚する術なんて、明らかに危険な魔術じゃないですか。……もし、禁忌魔術だったりしたら、どうするんですか」

 はっきりとした口調で述べて、ルーフェンをまっすぐに見つめる。
あくまでトワリスは、サイの身を案じているだけだと言い張ったつもりであったが、それでルーフェンを欺ける気はしなかった。

 ルーフェンの探るような視線に、思わず肩に力が入る。
顔を背ければ、それこそ心中を見通されてしまいそうだったので、トワリスは、ルーフェンから目をそらさなかった。

Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下 ( No.314 )
日時: 2020/11/01 05:12
名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: 8NNPr/ZQ)


 しばらくの間、二人は無言で見つめていたが、ややあって、ルーフェンは目を伏せると、口元に薄い笑みを浮かべた。

「……禁忌魔術って、なんなんだろうね。危険な魔術と、そうじゃない魔術の境って何?」

「え……」

 虚をつかれて、トワリスが瞬く。
一拍置いてから、微かにうつむくと、トワリスは眉を寄せた。

「禁忌魔術は……『時を操る魔術』と、『命を操る魔術』です。大規模な術故に使ったときの代償が大きいから、最悪、術者が死に至ることもあり得る、危険な魔術だと……」

 咄嗟のことに、教本通りの解答しか出てこない。
他にどう答えれば良いのか、考えていると、矢庭にルーフェンが、掌をトワリスの前に出した。
すると、光の帯が手中で魔法陣を描き、次いで、弾かれたような勢いで、水の塊が形成されていく。
水塊は震え、やがて、冷気を纏って氷の結晶と化すと、ルーフェンの掌上に鎮座した。

「……例えば、空気中の水を凍らせたとして、その氷を溶かす方法は、幾通りもあるだろう。熱魔法で溶かしてもいいし、あまり知られたやり方ではないけれど、魔法陣自体を反転させて逆の作用をさせてもいい。……あるいは、時間を巻き戻したって、氷は水に戻る」

 言いながら、掌を返して魔法陣を反転させると、途端に氷は水となり、机上にこぼれ落ちる前に、泡立って蒸発した。
舞い上がった水蒸気が、ルーフェンの指の隙間を抜けて、大気に溶けていく。
見ているだけでは、ルーフェンがどの方法で氷を溶かしたのか、分からなかった。

 腕を戻し、長椅子に背を預けると、ルーフェンは言った。

「少量の氷を溶かすくらい、魔術をかじった人間なら、誰でも簡単に出来る。その方法が、熱魔法でも、禁忌魔術でも、ね。……多分、その魔術が危険か否かなんて、明確な線引きは存在しないんだ。魔術は、扱い方さえ知っていれば、どれも簡単に使えてしまう。けれど裏を返せば、どれも危険になり得る。場合によっては、大きな代償が必要なものも、簡単に使えるから怖いんだろう」

「…………」

 簡単だから、怖い──。
その言葉には、核心をつく響きがあった。

 トワリスも、まだ孤児院にいた頃、リリアナの脚を治したい一心で、禁忌魔術を使ってしまったことがある。
当時は、魔導師団に入ってもいなかったので、禁忌魔術だなんて言葉すら知らないような、ただの無知な子供であった。
それにも拘わらず、無意識に、禁忌魔術を使えてしまったのだ。

 禁忌魔術は、その危険性から、関与する一切が禁止された特別なものだという認識が強い。
日常では触れることのない、古の時代の禁術。
世間一般では耳にもしないような、幻の存在とすら思われがちである。
しかし、実際のところはどうだろう。
触れまいと遠ざけてきた結果、魔導師であるトワリスですら、禁忌魔術についてはほとんど知らない。
ただ、本能的に危険な匂いがするから、目をそらしてきたようなものなのだ。

 ルーフェンの言葉の意味を考えているうちに、首を細い糸で絞められているような、妙な息苦しさが襲ってきた。
もしかしたら、禁忌魔術と一般の魔術に、明確な差などないのだろうか。
氷を水にするのも、瞬間的に別の場所に移動するのも、時間を巻き戻す、時間を縮めると捉えれば、どちらも禁忌魔術である。
案外、禁忌魔術というものは、身近に佇む影のような存在なのかもしれない。
それこそ、獣人混じり故に魔力が少なく、知識もない十二のトワリスが、無意識に手を出してしまえるような──。
そう思うと、今まで見ていたものが、形を変えて見えるようになった気がした。

 ルーフェンは何故、こんな話をしたのか。
現時点で、一体どこまで知っているのか。
問うように視線を投げ掛けると、ルーフェンは、あ、と声をこぼした。

「そんなことより、さっき匂いでロゼッタちゃんの手紙だって気づいたんだよね? トワの鼻って、どれくらいまでかぎ分けられるの?」

「……はい?」

 突然の話題転換に、ぴくりと片眉を上げる。
ルーフェンは、何事もなかったかのような飄々とした態度で、言い募った。

「ほら、手紙の練香ねりこうなんて、時間が経てばほとんど分からないでしょ。でも、トワなら分かるのかなぁって思って」

 ルーフェンが、ロゼッタからの手紙をひらひらと振って見せる。
トワリスは、怪訝そうに眉を潜めてから、諦めた様子で肩をすくめた。

「……さあ。普通の人間の嗅覚が分からないので、私の鼻がどれくらい利くのかも、なんとも言えませんが。とりあえず、その手紙からは、だいぶきつい匂いがしますよ」

「へえ、そうなんだー」

 間の抜けたような返事をして、ルーフェンは、ロゼッタからの手紙を見つめている。
苛々した顔つきでルーフェンを睨むと、トワリスは話の先を促した。

「あの、手紙の匂いと先程の禁忌魔術の話に、何の関係があるんですか? こんなところで、意味のない雑談に花を咲かせている時間はないのですが」

 怒気を含んだ声で言うと、ルーフェンは、困ったように眉を下げた。

「まあ、そんなにぴりぴりしないで。関係はないけど、意味がないわけじゃない。場合によっては、やっぱりサイくんに着いていってもらおうと思って」

 その言葉に、トワリスの顔色が変わる。
背筋を伸ばしたトワリスに、くすくす笑うと、ルーフェンは目を細めた。

「トワの勘と鼻の良さを見込んで、ちょっと頼みたいことがあるんだけど」

Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下 ( No.315 )
日時: 2020/10/20 19:39
名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: 8NNPr/ZQ)



  *  *  *


 初冬の鋭い空気に、耳鳴りがする。
サイとトワリスが、セントランスにたどり着いたのは、国境付近の移動陣を発ってから、四日目の夕刻であった。

 西方の大都市、セントランス──。
シュベルテには及ばないものの、ハーフェルンに並ぶ広大な領土を持ち、かつてはサーフェリアの王都としても栄えた、歴史ある軍事都市である。
分厚い石壁の家々が聳え立つ光景は、しかし、同じく石造建築が主なアーベリトの雰囲気とは程遠く、頑強で、粗野な印象を受ける。
冬晴れの空を突く煙突からは、ゆらゆらと黒煙が立ち上り、冷たい風が吹く度に、随所に掲げられた軍旗がはためいていた。

 街を東西に分断する大通りには、疎らに商店が並んでおり、都市の規模の割には、市場は閑散としていた。
品揃えも豊富とは言えず、そもそも、この街には、商人が少ないのだろう。
道行く人々の中には、帯剣した武人らしき男たちが多く見られた。

 外套の頭巾を目深に被り、大通りを進みながら、トワリスは、ふと傍らを歩くサイを見た。

「……サイさん。この通りを抜ければ、アルヴァン候の屋敷です。本当に、別行動でなくて大丈夫ですか?」

 何度も成された議論を、確認のために問うと、サイは、前を見つめながら答えた。

「はい。……見たところ、屋敷の周囲には二重の外郭が巡らされています。別々で行動したところで、万が一の事態に、一方が助けに入れるほど柔な警備体制ではないのでしょう」

「……分かりました」

 短い応酬が終わった後も、トワリスは、サイの様子を横目にうかがっていた。
己の行動次第で、開戦するか否かが決まるかもしれない──その重責に、彼も緊張しているのだろう。
サイは、終始街並みに目を配りながら、硬い表情で歩いていた。

 親書を渡す任に、トワリスも同行すると伝えた時、サイは、喜んでいたように見えた。
正直なところ、反対されると思っていたのだが、むしろ、心強いと安堵していたくらいである。
その時の、朗らかなサイの表情が、脳裏に浮かんでは消えていた。

 しばらく二人は、黙ったまま、領主邸へと歩を進めていった。
市街を抜け、更に人通りのない一本道を歩いていくと、やがて、目の前に、高い石組みの塀が現れる。
巨大な鉄門の奥から、複数の馬蹄の音が響いてくるアルヴァン邸には、戦前のような、殺伐とした空気が漂っていた。

 一度、トワリスと顔を見合わせてから、サイが長杖で鉄門を叩くと、ややあって、奥から声が聞こえてきた。

「何者か」

 隙のない、野太い男の声。
サイは、息を吸ってから、凛とした口調で答えた。

「突然失礼いたします。王都アーベリトから参りました、使いの者です。アルヴァン候にお目にかかりたいのですが、お取り次ぎ頂けないでしょうか」

 一瞬、門の向こう側で、ざわめきが起きた。
外郭の中には、複数の門衛がいるのだろう。
サイとトワリスを入れるべきかどうか、相談しているようであったが、何を話しているのかは、トワリスの耳でもはっきりとは聞こえなかった。

 長い時間が経ってから、ようやく鉄門が開かれたかと思うと、中から、三人の武装した男たちが出てきた。
細身のサイと比べると、一回り以上も大きく見える、屈強な男たちである。
彼らは、まるで威圧するようにトワリスたちを囲むと、低い声で言った。

「候は今、どなたともお会いにならない。お引き取りを」

 サイは、頭巾をとると、一歩も引かずに返した。

「我々は、停戦の申入をするために伺ったのです。陛下は、貴殿方セントランスとの争いを望んでおりません。どうか、アルヴァン候にこのことをお伝え下さい。そして、お目通りの機会を、何卒」

「……それが国王のご意志だと、信ずる証拠は」

「私達は、シュベルテの魔導師団に属する、アーベリト直轄の魔導師です。勅令で動き、陛下からの親書も預かっております。……恐れながら、アルヴァン候に拒否権はありません」

「…………」

 サイが魔導師の証である腕章と、王印の入った親書を見せると、門衛たちの目が、怪訝そうに細まった。
互いに顔を見合わせて確認を取りながら、門衛たちは、サイとトワリスのことを精察している。
少し間を置いて、一人が、サイの前に手を出した。

「失礼ですが、親書をこちらで改めさせて頂きたい」

「…………」

 サイは、つかの間躊躇ったが、小さく息を吐くと、親書を差し出した。
領主であるバスカ・アルヴァンに直接渡したかったが、ここで拒んで門前払いを食らっては、どの道、親書をバスカの元へと届けることはできなくなってしまう。
サイが親書を門衛に手渡す様子を、トワリスは、食い入るように見つめていた。

 親書を広げ、そして、王印を確かめると、門衛たちは、渋々鉄門への道を開けた。
内心面白くはないが、勅令で動いているという証拠を出されては、これ以上の口出しはできない、といったところだろう。
二人がかりで押して、ようやく動き始めた鉄門は、重々しい音を立てながら、ゆっくりと開いた。

Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下 ( No.316 )
日時: 2020/11/08 00:08
名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: 8NNPr/ZQ)


 門を潜ると、サイとトワリスは、内郭へと伸びる石畳の上を歩き始めた。
その周囲を固めるように、三人の門衛たちが、囲んで着いてくる。
夕闇に沈む視界の中で、外壁に設置された篝火だけが、煌々と明るく燃えていた。

 内郭の門に近づくと、不意に、前を歩いていた門衛が振り返った。

「ここから先は、武器の持ち込みが厳禁となります」

 そう言って、門衛が装備を解くようにと指示を出してくる。
たった二人とはいえ、敵を懐に入れるわけだから、当然の要求とも言えるだろう。
しかし、剣帯から双剣を抜こうとしたトワリスは、意に反して、柄を握る手に力を込めた。
ほとんど同時に、サイが長杖を構える。
──瞬間、背後から斬りかかってきた門衛の一振を、トワリスは、咄嗟に抜刀して受け止めた。

 重量のある一撃が上からのしかかり、威力では劣る双剣の片割れが、ぎりぎりと嫌な金属音を立てる。
剣が折れぬよう、わずかに刃の向きを変えて押し返すと、門衛は、驚いた様子で目を見張った。

 トワリスと背中合わせになると、サイは、門衛二人と対峙した。

「何のつもりですか。私達が陛下のご命令で動いていることは、先程もご説明したはずです。貴殿方も、アルヴァン候に仕える身なら、主の許可無しに他街の人間を傷つければ、どうなるかくらい分かるでしょう。これは立派な、国に対する背反行為です。今ここで私達を殺しても、争いの火種に油を注ぐことにしかなりませんよ」

 門衛は、一切表情を変えずに、淡々と返した。

「これがセントランスの総意──侯のご意思ととって頂いて構いません。元より、我々は三街を根絶やしにし、レーシアス家の時代に終止符を打つつもりです。油を注ぐことになるならば、それで結構」

 サイは、眉根を寄せた。

「──では、何故宣戦布告をし、開戦までに猶予を設けたのですか? 最初から三街を潰すことが目的だったのなら、シュベルテを襲撃したその足で、アーベリトやハーフェルンに向かえば良かったではありませんか。しかし、貴殿方はそうしなかった。あえて時間を置いたんです。これを、私は交渉の余地ありと見ていたのですが……違いますか?」

「…………」

 サイのこめかみに、脂汗が浮き出る。
これは、賭けであった。
本当に交渉の余地があるかどうかなど、実際のところは、分からなかったのだ。

 わずかに目を細めた門衛たちの、微々たる表情の変化も見逃すまいと、サイは、慎重に言葉を選んだ。

「それとも、他に時間をかけなければならない、事情があったのでしょうか。……例えば、シュベルテに対して使った、あの異形の魔術。詔書には、召喚術だ、などと書かれていましたが、違いますよね。実際は、かなり無理をして使ったのではありませんか? 強力な術を使うなら、当然、それに見合った代償が必要です。貴殿方は、さも我々を追い詰めたかのように振る舞っておられますが、その実、頼みの“召喚術もどき”を連続で使うことができず、宣戦布告という形をとって、時間を空けざるを得なかったんです」

 あえて挑発するような口調で、サイが言い募る。
門衛と剣を交差させ、拮抗した状態で、トワリスも、サイの言葉を注意深く聞いていた。

 もし、セントランスの望みが“王位だけ”ならば、苦渋の決断として、争いを避ける道はあっただろう。
要は、アーベリト側が、早々に敗北を認めれば良いのだ。
満身創痍のシュベルテと、ろくな戦力を持たないアーベリトとハーフェルン。
この三街を相手に、たとえ勝利を確信していたとしても、戦わずして王位と地を手に入れられるならば、セントランスにとって、これ以上に有益なことはないのである。

 しかし、当然アーベリトは、易々と王権を手放す気などない。
そんなことをして、セントランスの支配下に入れば、それこそ凄惨な結末を迎えることになることは、分かりきっているからだ。
そしておそらく、セントランスの狙いも、王位だけというわけではない。
セントランスは過去に、王都の座をシュベルテに奪われた歴史があり、また、七年前の王位選定の場では、ハーフェルンと言い争った末に、突如現れたアーベリトに王権を拐われている。
そういった怨みから、三街に報復を考えているのだとしたら、やはり、交渉の余地はない。

──であれば、もう、話し合いに持ち込む方法は一つだ。
セントランス同様、こちらも脅しに出るのだ。
言わば、ハッタリである。
三街は劣勢ではないと鎌をかけ、もし、セントランスが余裕を失えば、それを好機と対等の交渉へと持ち込むことができる。
それがアーベリト側にできる、無血解決のための最後の足掻きであり、サイが負っている役目であった。

Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下 ( No.317 )
日時: 2020/11/07 15:16
名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: 8NNPr/ZQ)

 サイは、一言一言を、強調するように言った。

「どうか、剣を下ろしてください。ここで私達を殺しても、何の益にもなりませんよ。シュベルテを落としたことで、優位に立ったと思っているのかもしれませんが、私達は、貴殿方の使った力が、召喚術でないことくらい分かっています。なんなら、セントランスがシュベルテを落とすために使った“からくり”を、今ここで、私がお見せしても構いません」

「…………」

 剣先を向けたまま、門衛たちは、サイを見据えている。
サイは、落ち着いた声で言い募った。

「もう一度言います。剣を下ろしてください。……陛下は、開戦を望んでおられませんが、そのために、貴殿方に膝を折る気はありません。我々は、あくまで対等な立場での話し合いをご提案しています。アルヴァン候の御前で、その親書をよくご覧になってください。判断は、それからでも遅くないでしょう。決して、貴殿方にとって、損な話ばかりが書いてあるわけではありませんから」

 門衛たちは、尚も黙り込んで、長い間、考えあぐねている様子であった。
だが、やがて一人が目配せをすると、門衛たちはそろって納刀した。

 場に満ちた殺気が引いてから、サイとトワリスも、ようやく構えを解く。
門衛は、睨むような眼差しで二人を見ると、口を開いた。

「……どうぞ、ご無礼をお許しください。ですが、候への目通りを願うならば、まず我々に従ってもらいましょう。ご承知頂ければ、屋敷をご案内します」

 威圧的な門衛の視線を受け、一瞬、躊躇ったように目を細める。
サイとトワリスは、互いに視線を合わせてから、小さく頷いたのだった。



 そう都合よく、セントランスとの交渉に持ち込めるとは端から思っていなかったが、屋敷に踏み入って早々、地下牢に案内された時は、サイもトワリスも、流石にため息をつかざるを得なかった。
拘束されることは覚悟していたし、むしろ、手枷を嵌められただけで、それ以上の危害は加えられなかったので、状況としては良い方だろう。
だが、サミルの名を出しても、領主であるバスカ・アルヴァンに目通りできなかったのは、予想外であった。
想定では、すぐに追い返されてアーベリトに帰るか、目通りが叶えばバスカに交渉の約束を取り付けられるか、その二択だったのだ。
追い返されるわけでもなく、かといって、バスカに会えるわけでもない。
ただただ、地下牢で時間を浪費することになったのは、正直痛手であった。

 石壁に囲まれた地下牢は薄暗く、唯一の光源は、壁に掛けられた松明の灯りのみである。
普段はあまり使われていない場所なのか、時折巡回に来る番兵の足音よりも、闇の中で蠢く鼠や、虫たちの気配のほうが濃い。
鉄格子の向こうに浮かぶ、ぼんやりとした松明の火影も、冷たい鉄錆の匂いも、トワリスには、嫌なほど懐かしいものであった。

「……すみません、うまく取り入ることができなくて。アルヴァン候にお会いすることはできると思っていたのですが、まさか、こうも聞く耳持たずの状態だとは……」

 固い石畳に座り、サイは、項垂れた様子で呟く。
少し離れた位置に座って、手枷を見つめていたトワリスは、サイに視線を移すと、ゆるゆると首を振った。

「仕方ないです。私は、むしろうまくいった方だと思いますよ。場合によっては、すぐに斬り捨てられていてもおかしくなかったですし、捕まるにしても、手足の一本や二本、使い物にならなくなっていたかもしれません。こうして無傷で保護されているということは、きっと、サイさんの言葉が何かしら“突っかかり”になったんだと思います。それだけでも、私たちが遣わされた意味はあると言えるんじゃないでしょうか。本当にセントランスが開戦一辺倒の考えなら、私たちを生かして受け入れる理由なんて、全くありませんからね」

「それは、そうですが……」

 辿々しく答えたサイの顔には、分かりやすいほどの落胆の色が浮かんでいた。
セントランスが使った“召喚術もどき”を、寝る間も惜しんで調べあげていた彼には、バスカ・アルヴァンを丸め込むための切り札が、まだまだ沢山あったはずだ。
しかし、肝心のバスカに謁見できないのであれば、それも無駄になってしまう。
門衛は、待てばバスカに会えるようなことを言っていたが、それが真実かどうかは定かではない。
今、こうして無為な時間を過ごしていることは、サイにしてみれば、努力が全て水の泡になったような結果なのだろう。

Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下 ( No.318 )
日時: 2020/11/07 18:40
名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: 8NNPr/ZQ)


 サイは、弱々しく嘆息した。

「……今は、門衛の言葉が真実であることを祈って、アルヴァン候への謁見の機会を待つしかありませんね。あの場で引き返していれば、それこそ候に会えることはなかったでしょうし、私達の選択が正しかったと信じて、賭けるしかありません。いきなり地下牢にぶちこまれた時点で、望みは薄いかもしれませんが……」

 萎れた花のように俯いて、サイは、ぶつぶつと独り言をこぼす。
対してトワリスは、慌てる様子もなく、淡々とした口調で返した。

「捕まってから、もう半日以上は経っていますから、今更、私達だけで候に謁見できることはないと思います。ただ拘束されているだけの現状を鑑みるに、私達は、セントランスにとっての大事な人質、捕虜といったところでしょう。もしかしたらアルヴァン候は、私達を捕らえたことを出しに、アーベリトに揺さぶりをかけるつもりなのかもしれません。……そうなったらそうなったで、交渉に持ち込めたようなものですから、結果的にはいいんじゃないでしょうか」

「い、いい……?」

 サイは、表情をひきつらせた。

「いや、全然良くないですよ。私達の役目は、陛下からの親書を届けて、停戦交渉の場を取り付けてもらえるよう、アルヴァン候を説得、ないし脅すことだったんです。それなのに、逆に揺さぶりをかけられるようじゃ、私達、ただ足手まといじゃないですか。せめて、荷物を取り上げられていなければ、脱出用の移動陣も使えたんですが……」

 トワリスは、冷静に答えた。

「確かに、穏便に交渉の場を取り付けることが一番の目的ではありましたが、そう簡単に行くだなんて、誰も思っていませんよ。説得が叶わない今、私達に出来ることは、開戦日まで籠城するつもりであろう、アルヴァン候を召喚師様の前に引きずり出すことです。たとえ恐喝されることになっても、アルヴァン候と召喚師様が対峙できれば、結果的に話し合いの場が成立します。まあ、平和的なものにはならないと思いますが……それでも、セントランスの真意が分からないまま、軍を率いて争い、被害が拡大するような事態は防げるかもしれません。サイさんも、そのための人質になることを覚悟して、この屋敷に入ったんじゃないんですか?」

「ぅ……」

 罰が悪そうに目を反らして、サイは、言葉を詰まらせる。
ややあって、諦めたように肩を落とすと、サイは口を開いた。

「……ええ、そうですね。端から失敗が想定されていたのは、なんとなく感じていましたよ。ある意味、予定通りの展開です。……それでも、不安なものは不安なんです。あの門衛たちが、私達の訪問を、どう湾曲してアルヴァン候に伝えているか分かりません。伝わった情報次第で、アルヴァン候が、陛下や召喚師様にどんな脅しを突きつけるのかも、全く想像がつきません。セントランスは、争うことで権威を保ってきたような街です。そんな街と相対するには、アーベリトは優しすぎる。陛下も召喚師様も、聡明な方々ですから、一対一で向き合える場さえ作れれば、脅しになど屈しないと信じています。……ですが、出来ることなら、この私が、アーベリトの守り手として、大きく貢献したかったんです」

──なんて、出過ぎた真似でしょうか。
そう付け加えて、サイは眉を下げる。
トワリスは、黙々とサイの話を聞いていたが、やがて、目を伏せると、覇気のない声で尋ねた。

「……サイさんは、どうしてアーベリトのために、そんなに頑張っているんですか」

「え……?」

 意図の読めない質問に、サイがぱちぱちと瞬く。
目を合わせようとしないトワリスに、サイは、不思議そうに首をかしげた。

Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下 ( No.319 )
日時: 2020/11/10 19:31
名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: 8NNPr/ZQ)




「どうしてって……そんなの、アーベリトに仕える魔導師だからですよ。確かに、トワリスさんやハインツさんに比べれば、アーベリトに対する思い入れみたいなものが、私には少ないのかもしれません。でも、アーベリトに住む皆さんの優しさとか、穏やかな雰囲気が好きですし、それらが脅かされるというなら、この命に代えても、守りたいと思っています。……トワリスさんだって、そうでしょう?」

 問い返せば、トワリスの睫毛が、微かに震える。
周囲が薄暗いので、はっきりとした表情の機微までは伺えない。
だが、見てとれるトワリスの動揺に気づくと、サイは、狼狽えたように身を乗り出した。

「え、トワリスさん、大丈夫ですか……? いや、こんな状況ですから、大丈夫ではないと思うんですけど……」

「…………」

 トワリスが、すん、と鼻をすする音が響く。
硬直すると、サイは、慌てた様子で捲し立てた。

「え、あの、すみません。さっきから、私ばかり取り乱してしまって……。不安がったってしょうがないですし、人質である以上は命の保証をされているわけですから、トワリスさんの言う通り、これで良しとするべきですよね。一旦落ち着いて、セントランスの出方を見ましょう」

 柔らかい口調で言い聞かせながら、サイは、気遣わしげにトワリスの顔を覗き込む。
トワリスは、返事をしなかった。
だが、しばらくして、何かをこらえるように口元を歪めると、サイに向き直った。

「……こうやって二人で話していると、訓練生だった頃のことを思い出しますね。どちらかというと、いつも突っ走ってしまうのは私の方で、サイさんは、どんな時も落ち着いていて、冷静で、的確でした。……だから、慌てるなんて、サイさんらしくありません。なんだか、わざと焦っているようにも見えます」

 脈絡のない話題に、サイが、大きく目を見開く。
トワリスの顔をじっと見てから、サイは、戸惑ったように目を反らした。

「あ、はは……そんな、買いかぶりすぎですよ。私は、トワリスさんが思うほど、出来る魔導師じゃありません。本当はいつだって、失敗したらどうしようとか、焦って見誤ったらどうしようとか、不安で一杯ですよ。人間ですから」

「…………」

 肩をすくめたサイに、トワリスも、曖昧な笑みを返す。
小さく吐息をつくと、トワリスは、昔を懐かしむように目を細めた。

「……サイさん、初めて話した時のこと、覚えてますか。卒業試験で、アレクシアとサイさんと、私で組もうってことになって。でも、最初は全然上手くいきませんでしたよね。寮部屋でアレクシアにアーベリトのことを貶されて、私が怒って、組むのやめるって口論になって……。見かねたサイさんが仲裁してくれなかったら、私、卒業試験をちゃんと受けられたかどうかすら分かりません」

 思いがけない言葉だったのか、サイが、再び目を瞬かせる。
しかし、すぐに表情を緩めると、深く頷いた。

「もちろん、覚えていますよ。なんというか……アレクシアさんは色々と強烈な方でしたから、私も終始振り回されっぱなしでした。あれから、もう一年以上経つんですね。懐かしいです。……でも、なぜ今その話を?」

 不意に尋ねると、トワリスは顔をあげた。
つかの間、言葉に迷った様子であったが、やがて、伏せた目で遠くを見つめると、静かに答えた。

「……いいえ。ただ、感謝を伝えておきたかったんです。サイさんが、努力家だって褒めてくれたとき、私、とても嬉しかったんですよ。訓練生の頃の私は、それこそ焦ってばかりで、沢山空回って、同期の中でも一際浮いた存在だったので……。サイさんが、私のことを見て、ずっと話してみたかったんだって言ってくれたとき、自分のやってきたことを、対等な相手に認めてもらえたような気持ちになりました。だから、あの時は、恥ずかしくてお礼も言えなかったんですけど……私ならアーベリトに行けるって、サイさんがそう言ってくれて、本当に、本当に嬉しかったんです」

 それだけ言うと、トワリスはサイに視線を移して、笑みを浮かべた。
今にも泣き出してしまいそうな、ひどく寂しげな笑みであった。
 

Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下 ( No.320 )
日時: 2020/11/15 19:08
名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: 8NNPr/ZQ)


  *  *  *



 出迎えの侍従たちに案内されて、ルーフェンとハインツは、アルヴァン邸の謁見の間へと向かった。
広間に続く大扉の前には、番兵たちが、頭を下げることもなく、威圧するように立っている。
彼らの不快そうな視線に対し、にこやかに応ずると、ルーフェンたちは、広間へと踏み入ったのであった。

 椅子を用意しようと動いた侍従に、立ったままで良いと遠慮をすると、二人は、中央に伸びる青い敷物の上を進んだ。
広間の奥に設置された、床から数段高くなった首座には、セントランスの領主、バスカ・アルヴァンが鎮座している。
周囲には、百名近い魔導師たちが、長杖を携え林立りんりつしており、その中には、後ろ手に拘束されるサイとトワリスの姿もあった。

 ルーフェンは、正装用のローブを靡かせ、広間の中ほどまで歩み出ると、やがて、立ち止まった。
その背に隠れるようにして、ハインツも足を止める。
壁の如く佇立ちょりつする魔導師たちを見渡して、それから首座を見上げると、ルーフェンは口を開いた。

「ご招待頂いたので参りましたが、あまり歓迎はされていないようですね。お久しぶりです、アルヴァン侯。七年前、シュベルテの宮殿でお会いした時以来ですか」

 悠々とした口調のルーフェンに、バスカは、その太い眉を歪める。
鈍く光る頑強な鉄鎧を纏い、まるで戦場を前にしたような鋭い眼光でルーフェンを睨むと、バスカは、刺々しく返した。

「このような出で立ちで、誠に申し訳ございません。無礼とは存じましたが、どうかご容赦を。……まさか、入り込んだ鼠二匹の名を出しただけで、本当に召喚師様ご本人がいらっしゃるとは、思いもしなかったものですから」

 バスカが、捕らえられたサイとトワリスを目で示す。
ルーフェンは、肩をすくめた。

「部下想いで優しいって言ってもらえます? ほら、ご存知の通り、アーベリトにとって魔導師は貴重ですから、そう易々と手放したくはないんですよ。久々に、貴方ともお話したかったですしね」

 緊張感のないルーフェンの物言いに、ますますバスカの顔が歪む。
バスカは、忌々しげに舌打ちをした。

「……なるほど、初めから狙いはそれか。小癪なガキめが……」

 ルーフェンは、眉をあげた。

「はは、小癪? 貴方には言われたくないですね。親書を届けただけの、善良なアーベリトの魔導師を人質にとるなんて、それこそ小癪な手ってもんでしょう。とりあえず、こうして私たちはセントランスまでやって来たわけですから、そこの二人、返してもらえます? 格式高いアルヴァン侯爵様なら、約束は守ってくれますよね?」

「…………」

 挑発するようなルーフェンの口調に、バスカがぴきぴきと青筋を立てる。
怒りの衝動をなんとか飲み下すと、バスカは、サイを捕らえている兵に合図を送った。

 後ろから小突かれるような形で、前へと押し出されたサイが、乱暴に手枷を外され、ルーフェンたちの元へと戻される。
同じように、解放されるかと思われたトワリスであったが、しかし、ふと手を上げると、バスカは兵を止めた。

「……先ず、一人お返ししましょう。我々は、レーシアス王と召喚師様、お二人で来るようにとお伝えしたはず。我が邸に醜悪なリオット族を連れ込むとは、お話が違いますな」

 言いながら、バスカがハインツを指差すと、ハインツは、びくりと縮こまった。
ゆっくりとルーフェンたちに歩み寄ったサイは、緊張した面持ちで、トワリスのほうを見つめている。
一方、セントランスの兵に捕らわれたままのトワリスは、さして動揺の色も見せず、抵抗する様子もなかった。

Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下 ( No.321 )
日時: 2020/11/19 18:55
名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: 8NNPr/ZQ)


 ルーフェンは、腰に手を当てると、困ったようにバスカを見上げた。

「勘弁してくださいよ。正式な交渉の場を設けて下さるなら、陛下と私、二人でセントランスに伺うつもりでした。でも、そちらが寄越してきた返事は、『捕らえた魔導師たちを殺されたくなければ、着の身着のまま来い』だなんていう脅迫文ですよ? 素直に全文了承するわけないじゃないですか。貴方たちが大暴れしたお陰で、今、こっちは混乱してるんです。そんな状況で、物騒な脅迫状のために、王が王都から離れるわけにはいきません。二人で来い、という言い分は聞き入れたんですから、大目に見てください」

 言い募ってから、ルーフェンは、やれやれと首を振った。

「……というか私は、こうして貴方達と言い争う気なんてないんですけどね。こちらとしては、もっと穏便な方法を希望します。陛下からの親書、ちゃんと読んでくれました?」

「はて、どうでしたかな。命乞いの書状、とでも言った方がよろしいのでは」

 鼻で笑って、バスカが言い捨てる。
片眉を上げたルーフェンに、バスカは、少し余裕を取り戻した様子で続けた。

「まあ、どうしてもと仰るならば、アーベリトの望む“穏便な方法”とやらをとっても構いませんよ。我々も、無抵抗の相手を嬲るほど、悪趣味ではございませぬ。もちろん、アーベリトが条件を飲んで下されば……の話ですが」

「……へぇ、それはそれは、ありがたいですね。で、その条件とは?」

「聞かずともお分かりでしょう。七年前、貴殿方がカーライル家から簒奪さんだつした王位です」

 目元を歪ませ、バスカは、凄むような口調で答える。
ルーフェンは、わざとらしく嘆息した。

「やっぱりそうですか。いやぁ、困りましたね。他のご提案だったら検討できたと思うんですが、王位ばっかりは譲れません」

 バスカが、わずかに目を細める。

「……何故です? 数年後には、アーベリトはシュベルテに王位を返還するのでしょう。どちらにせよ手放すなら、今や崩壊間近のシュベルテに返還するより、我々セントランスに託したほうが、サーフェリアの為にもなるとは思いませぬか?」

「はは、シュベルテを追い詰めたのは貴方たちなのに、随分な言いようですね。お断りしますよ。王位返還の約定は、他ならないシュベルテと交わしたものです。それに、アルヴァン侯は、私達のことがお嫌いでしょう? 貴方に統治権なんて握らせたら、絶対アーベリトやハーフェルンも落とされるじゃないですか。そんなの嫌ですもん」

 緊張感のない声で言って、ルーフェンは、へらへらと笑みを浮かべる。
その綽々しゃくしゃくとした物言いが気に入らないのか、バスカは、奥歯をぎりぎりと鳴らした。

 うーん、と考える素振りを見せながら、ルーフェンは、バスカに向き直った。

「何か、他の条件で妥協してもらえませんかね? シュベルテのことがあるので、お互い、今更仲直りしましょうって気分にはならないでしょうが……。仮にも私、召喚師なので、国の平和のために、できれば暴力的な解決はしたくないんですよね。ああ、そうだ、南大陸の鉱床くらいなら差し上げられますよ。あとは、今後良い取引をしてもらえるよう、ハーフェルンに口利きしても構いません。といっても、貴方はマルカン侯と仲良くするつもりなんて、毛頭ないかもしれませんが──」

 その時だった。
突然バスカが、首座の肘置きを、拳で強く打った。
広間全体に打撃音が響いて、置物の如く整列していたセントランスの魔導師たちも、思わず肩を震わせる。

 バスカは、しばらく黙ってルーフェンを見下ろしていたが、やがて、太い眉を吊り上げると、怒りを押し殺したような震え声で告げた。

「いい加減、その無駄によく回る口を閉じろ。我々は、呑気に話し合っているわけではない。勘違いをしないでもらおうか。これは交渉などではなく、一方的な蹂躙じゅうりん、そして脅迫なのだ。いいか、貴様らに与えられた選択肢は二つ──大人しく王位を譲るか、この場で殺されるかだ……!」

 血走った目を光らせ、バスカは、眼光鋭くルーフェンを睨む。
あまりの剣幕に、人々が息を飲む中、ルーフェンは、尚も軽薄な態度を崩さなかった。

「脅迫、ねぇ……正直、意外ですよ。好戦的な性格なのは存じ上げていましたが、貴方はもっと、正々堂々とした方なのかと思っていました。七年前は、やれ決闘だのなんだのと騒いでいたのに、王都に選定されなくてひねくれたんですか? それとも、こういう陰湿なやり方を、誰かが貴方に吹き込んだとか?」

「口を閉じろと言っているだろう! 自分たちの置かれている立場が、まだ分からないようだな……!」

 怒鳴りながら立ち上がると、バスカは、掲げた右腕を大きく振り下ろした。
すると、右翼の魔導師達が、寸分違わぬ動きで長杖を振り、その先端をルーフェンたちに向ける。

──次の瞬間。
眼球をく熱線が宙に集い、その形状を視認する間もなく、勢い良く弾けた。
矢の如き光の射線が、唸りをあげ、石床さえも削りながら、ルーフェンたち目掛けて飛んでいく。

 雷鳴のような音が、耳をつんざいた。
白く染まった視界に、自分が目を閉じているのか、開けているのかも分からない。
しかし、衝撃に備えてうずくまったサイが、状況を探りながら身体を起こすと、己はどうやら、五体満足のようであった。
恐る恐る顔をあげれば、ルーフェンとサイの前に、岩壁のような巨躯きょく──ハインツが立っている。
三人を射貫くはずであった熱線は、ハインツの手中で抑え込まれ、形を失うと、その魔力を散らせたようであった。

Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下 ( No.322 )
日時: 2020/11/21 19:50
名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: 8NNPr/ZQ)

 ハインツの掌から、しゅうしゅうと煙が上がっている。
といっても、岩肌のように硬く変化したハインツの腕には、火傷とも呼べないような、うっすらとした赤みが残っているだけだ。
つかの間、ハインツは、少し驚いた様子で掌を見つめていたが、やがて、ふぅふぅと腕に息を吹きかけると、何事もなかったかのように、ルーフェンの傍らに戻った。

 上等な敷物が、熱気で焦げ、元の深青色など跡形もなく変色して、足下で燻っている。
狙ったはずのルーフェンとハインツが、傷一つなく立っていることが分かると、バスカは、忌々しげに顔をしかめた。

 煙たそうに咳をすると、ルーフェンは、呆れたように口を開いた。

「室内ではやめましょうよ、屋敷ごと吹っ飛ばすつもりですか? 言っておきますが、こちらにも勝算はあるんです。のこのこと二人で来たのは、まあ、二人でも大丈夫だろうと思ったからですよ」

 ルーフェンの言葉に、バスカの顔色が赤くなる。
まだ年若い召喚師の、人を食ったような視線と物言いが、バスカは、昔から腹立たしくて仕方なかった。

 一瞬、七年前の王都選定の場で、サミル・レーシアスが王権を勝ち取った時の記憶が、バスカの脳裏に蘇った。
耄碌もうろくした王太妃、バジレットの無機質な声と、誇りなど微塵も感じられぬハーフェルンの領主、クラークの媚びて上擦った声。
無害な聖人を気取りながら、狡猾こうかつにも王座を奪ったサミルの穏やかな表情も気に食わなかったが、それ以上に脳裏にこびりついているのは、年端もいかない召喚師の、人を見透かしたような眼差しであった。

 まるで盤上ばんじょうこまでも見下ろしているかのような、昔と変わらぬ銀色の瞳。
その目を見ただけで、バスカの中に、狂暴な怒りが噴き上がってきた。

「黙れ、黙れ黙れ──っ!」

 怒鳴り散らして、周囲に控える全ての魔導師に指示を飛ばすと、一糸乱れぬ動きで、再び長杖が動き出す。
統制のとれた魔導師たちが、同時に詠唱を始めると、一定の調子で紡がれていた呪文は、やがて歌のように波立つ音となり、広間に反響した。

 ややあって、足下に巨大な魔法陣が展開すると、サイは目を見張った。
ただの魔法陣ではない──それは、召喚師一族しか解読できないはずの、魔語が刻まれた魔法陣だった。

「召喚師様、お下がりください! この陣──侯はシュベルテで使った異形の術を使うつもりです!」

 咄嗟にルーフェンの腕を掴むと、サイは叫んだ。

 元々セントランスは、大規模な騎馬隊を持つことで恐れられる軍事都市である。
少人数で詠唱が必要な分、機動力に欠ける魔術戦よりも、訓練された騎兵による陸上戦を得意とするはずだ。
そのバスカが、わざわざ魔導師だけを並べて待ち構えていた時点で、嫌な予感はしていたのだ。

 禍々しい魔力が、陽炎かげろうのようにゆらゆらと沸き上がり、退路を塞いでいく。
徐々に鈍く光り出した魔法陣を見て、ハインツは戸惑ったようにルーフェンを見たが、二人とも、その場から動こうとはしなかった。

 なぜ逃げないのかと、問う時間もない。
焦ったサイが、せめて魔法陣の上からは退かねばと、ルーフェンの腕を強く引く。
しかし、悠然たる召喚師は、横目にサイを見ただけで、やはり微動だにしない。
──否、サイは、人一人を動かせるほどの力で、腕を引くことが出来なかったのだ。

「──……!」

 不意に、全身から力が抜ける。
突如、血飛沫ちしぶきをあげた自分の両腕が、熟れ切った果肉の如く崩れ落ちていくのを、サイは、呆然と見ていた。

 視界が揺らいで、気づけばサイは、冷たい石床に倒れ込んでいた。
もはや原型を留めていない前腕が、かろうじて肘に繋がった状態で、目の前に落ちている。
腕に自ら描いた魔語が、火傷のように皮膚にこびりついて、そこから、のろのろと血がにじみ出ていた。

 床に展開していた魔法陣が、その効力を失って消える。
刹那、紡がれていた詠唱が途絶え、代わりに、押し寄せるような断末魔が響き渡った。
術を発動させるため、長杖を翳していた魔導師たちが、一斉にその陣形を崩す。
必死に腕をまくり、そこに描かれた、焼き付くような魔語を削り取ろうと、彼らは皮膚を掻きむしり、激痛を訴えながら、次々と倒れていく。

 サイと同様、原型を保てなくなった血まみれの腕を押さえながら、魔導師たちは、身を蝕む恐怖におののいた。
突如起きた身体の異変に、喚き、逃げ惑いながら、やがて、走り回る力さえも失うと、地面に突っ伏す。
びくびくとのたうつ魔導師たちの肢体が、山のように積み重なっていく光景を、バスカも、サイも、ただ見つめていることしかできなかった。

 ついに、辺りが静かになったとき。
頭上から、くすくすと笑い声が落ちてきた。
我に返ったサイが目を動せば、ぞっとするほど澄んだ銀色と、視線が交差する。

「……残念、少し詰めが甘かったかな、サイくん」

「え……」

 濃い血の塊と共に、微かな呟きが、サイの口から溢れ出す。
ルーフェンは、静かに嗤って、サイを見下ろしていた。

Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下 ( No.323 )
日時: 2020/11/24 09:03
名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: 8NNPr/ZQ)


「な……なにを、言って──」

 咄嗟に反論しようとすると、背中に重い衝撃がのし掛かってきて、サイは、ぐっと息を詰まらせた。
肋骨が、ぎしぎしと嫌な音を立てる。
ハインツが、サイの動きを封じようと、肩と背に手を置き、体重をかけてきたのだ。

 悲痛なうめき声をあげると、ハインツは慌てて力を緩めたが、その場から退こうとはしない。
ルーフェンは、ハインツにそのままでいるよう告げてから、場に似合わぬ爽やかな口調で続けた。

「今更すっとぼけなくていいよ。君のせいで、何万人も死んでる。シュベルテを売り、召喚術の情報をセントランスに流した間者は君だろう。サイ・ロザリエス」

「……ち、ちがいます! 何を、仰っているんですか……!」

 上体を反って声を絞り出せば、再びハインツに体重をかけられて、サイは苦しげに声を漏らす。
ルーフェンは、魔語が刻まれたサイの腕を、ゆっくりとなぞるように見た。

「違う? その腕を見れば、一目瞭然だろう。君だけが解放されて、俺たちに近づいてきた辺り、他ならぬサイくん自身も発動条件の一人だったわけだ。セントランスご自慢のエセ召喚術には、どうも発動場所に“核”となる魔導師が必要らしいからね。シュベルテが襲撃された時も、魔力供給に必要な魔導師の他に、現場に一人、それらしき魔導師が目撃されている。……ね、どうです、アルヴァン侯。私の読み、当たってます?」

 言いながら振り返ると、ルーフェンは、今度はバスカのほうに視線を移した。
バスカは、倒れ伏す魔導師たちに囲まれて、言葉もなく立ち尽くしている。
石床の上で血を吐き、懸命に呼吸する魔導師たちは、まだ絶命していないようであったが、予想外の反撃を受けた動揺は、思考が回らぬほどに激しかった。

「…………」

 “あの術”が、必ずしも成功するとは、バスカも思っていなかった。
それに、魔導師たちが生きているならば、まだ敗北したわけではない。
広間の外にも、まだ多くの兵たちが控えている。
それでも、得体の知れぬ策に嵌められた恐怖は、バスカを地に縛り、動けないように縫い止めていた。

 バスカが答えずにいると、ルーフェンが、白々しく問い質してきた。

「んー、声がよく聞こえませんね。少し遠いので、もっと近くでお話しましょうか」

「……っ」

 にっこりと笑って、ルーフェンが首を傾ける。
歯を食い縛ったバスカは、兵を呼ぼうと口を開いたが、すんでのところで、思い止まった。

 ルーフェンが、一体どんな罠を巡らせているのか、まだ分からないままである。
召喚術を使ったようには見えなかったが、サイを含めた大勢の魔導師を、一瞬で血の海に沈めたのだ。
この広間全体に、何かしらの魔術をかけているのだとすれば、兵を呼んだところで、先程の二の舞になるだろう。

 次の動きをルーフェンに悟られぬよう、素早く大剣を引き抜くと、バスカは身を翻した。
打つ手は、他にも残っている。
歯を剥き出して笑い、もう一人の人質──トワリスに剣を突きつけようとしたバスカは、しかし、その場で標的を失って、たたらを踏んだ。
すぐ傍で拘束していたはずのトワリスが、いつの間にか、忽然と姿を消していたのだ。

 彼女を捕らえていた兵が、兜の外れた状態で倒れ、白目を剥いて気絶している。

──しまった、と思ったときには、もう遅い。
横合いから、懐に飛び込んできたトワリスの速さに反応できず、バスカが咄嗟に振った大剣は、虚しく空を斬った。
斬りかかった勢いで、前屈みになる。
その一瞬の隙に、鋭く突き上がってきたトワリスの蹴りが、バスカの顎に入った。

 ガチンッ、と噛み合った歯が折れて、バスカが後ろに仰け反る。
衝撃で大剣を取り落としたバスカは、口を押さえて、思わずうずくまった。
鼻と口から溢れた鮮血が、指の間から、ぽたぽたと滴り落ちてくる。
すぐに体勢を整えようとしたバスカであったが、背後から大剣を突きつけられると、やむを得ず動きを止めた。

「──従ってください。抵抗すれば、首を落とします」

 バスカから奪った大剣を、喉元にぐっと押し付けると、トワリスは短く囁いた。
兵から鍵を奪って、自力で手枷を外したのだろう。
トワリスの両腕は、既に拘束が解かれていた。

Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下 ( No.324 )
日時: 2020/11/25 20:01
名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: 8NNPr/ZQ)


 トワリスに立たされ、進むように促されると、バスカは、荒く息を吐きながら歩き出した。
ルーフェンたちの目前までやって来ると、バスカの肩越しに、サイとトワリスと目が合う。
サイは、トワリスを見つめて、顔を歪めた。

「トワリスさん……」

 か細く名を呼べば、一瞬、トワリスの目に躊躇いの色が走る。
バスカに剣を突きつけたまま、トワリスはしばらく黙っていたが、ややあって、深呼吸すると、ゆるゆると首を振った。

「ごめんなさい……サイさん。でも、貴方の他に考えられないんです。以前、ご自分で言っていましたよね? セントランスに内通する裏切り者がいるなら、それは、シュベルテの内部事情もよく知っている人間だろう、って」

 サイは、勢いよく否定した。

「ちがっ、違いますよ! シュベルテの内情に詳しい人間なら、他にも、沢山いるじゃないですか……! 何故、私だと──」

「では、セントランスに到着した日、門衛に何を渡したんですか? あれは、サミルさんから預かった親書ではありませんよね?」

「──!」

 口調を強めたトワリスに、サイの目が、大きく見開かれる。
硬直したサイから視線をそらさず、トワリスは、悲しみと怒りが混ざったような、複雑な表情を浮かべていた。

 訪れた沈黙に、ルーフェンが口を挟んだ。

「彼女は鼻が利くんだよ。本物の親書には、微かに匂い付けしてたんだ。中身をすり換えたり、加えたりしていればすぐに分かる。……召喚術の真似事だけでは限界を感じて、俺に探りを入れていただろう。大方、親書と偽って君が渡したのは、より精度の高い召喚術の真似の仕方ってところかな」

「…………」

 唇をはくはくと開閉させながら、サイは、すがるようにバスカを見た。
バスカは、今までにないほどの厳しい顔つきで、サイを睨み付けている。

 怯えたように下を向いたサイが、尚も繰り返した言葉は、聞き取れぬほどに弱々しいものであった。

「ち……違います。信じてください……」

 譫言うわごとのようなそれには、もはや論駁ろんばくの意思すら感じられない。
拍子抜けした様子で肩をすくめると、ルーフェンは、やれやれと嘆息した。

「往生際が悪いなぁ。第一、信じていないのは君の方だろう? 君は、最初からずーっと、俺のことを疑っていた。俺が『召喚術は召喚師一族しか使えない』と言えば、一般の魔導師でも使える方法を見出だそうとしていたし、『召喚術は悪魔を身に宿す方法しかない』と言えば、大勢の魔導師を使って、異形を具現化させる方法を探した。その結果が、これだよ」

 改めて室内を見回して、ルーフェンは、広がる惨状を指し示す。
もはや、顔をあげようともしなくなったサイに、ルーフェンは構わず言い募った。

「俺のどの言葉が嘘で、どの言葉が本当だったかは、ある程度調べれば分かっただろう? 何年か前の魔導師団の報告書を遡れば、俺がノーラデュースでフォルネウスを可視化させた記録なんて簡単に見つかる。『召喚術は悪魔を身に宿す方法しかない』なんていうのは、真っ赤な嘘だ」

「…………」

「俺の嘘を暴けば暴くほど、召喚術を使える可能性に近づいていく。君は嬉々として、俺の発言の矛盾点を探り、糸口を掴みとったわけだ。いやぁ、すごいよね。俺が提示した魔語を一瞬で記憶して、その法則性まで導いちゃったんだから。びっくりしたよ、サイくんって本当に賢いみたい」

 魔語、という単語に反応して、サイが、ようやく頭をあげる。
微かな光を目に浮かべると、サイは、震えた声で言った。

「そう……そうです。魔語は、私が……私自身の力で導き出したんです。莫大な魔力を元に、術式を魔語に置換し出力、発現する。それが、召喚術でしょう? 私の推論は正しい。使えるはずなんです。これだけの魔導師がいて、魔語による言語化が出来ているなら、使えるはずです。……私は、間違っていない」

 その言葉こそが、自白になっているというのに、サイは、繰り返し繰り返し、自分は間違っていないのだと呟いた。
誰に対して反論するでもなく、ただ、脳内に構築した術式を再計算しながら、他ならぬ自分自身と葛藤している。

Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下 ( No.325 )
日時: 2020/11/27 19:16
名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: 8NNPr/ZQ)




 ルーフェンは屈みこんで、視線の定まっていない、虚ろなサイの目を覗き込んだ。

「だからさ、そこが甘かったって言ってるんだよ」

 サイの瞳が、大きく揺れる。
ルーフェンは、目を細めて、淡々と続けた。

「頭の良いサイくんは、俺のことは疑っても、自分の優秀さは信じていたわけだ。俺の嘘を見破ることで、召喚術の発動条件を調べあげ、俺が提示した魔語からその法則性まで理解して、短期間で習得した。そうして“自力”でたどり着いた真実には、流石に疑いの余地がない。自分で探り出した答えなのだから、疑おうという思考にすらならない。誰だってそうだろう?」

「…………」

「君が独自で大成させた召喚術は、シュベルテで使ったような、単なる思念の集合体を操るだけの擬物まがいものじゃない。限りなく本物に近い、実体の悪魔を召喚できる“はず”だった。それをさっき、初めて披露しようとしたんだろう。召喚術で召喚師を殺そうなんて、なかなかに皮肉の利いた洒落だね。わざわざ召喚術の存在を仄めかせて、意地悪く宣戦布告してきただけあるよ。アルヴァン侯に悪知恵を吹き込んだのも、全部君なんじゃない?」

 サイのことを皮肉だと揶揄やゆしながら、それ以上の当てこすりを口にして、ルーフェンの唇は弧を描く。
そんな彼の顔を見つめたまま、サイは、回らなくなった頭で、必死に現状を打破できる糸口を探していた。
今、ここで思考を放棄してはならない。
考えることをやめれば、それこそルーフェンの思う壺だ。
この召喚師は、あえてなぶるような言い方をして、サイを追い詰め、動揺させて、話の主導権を掴み取ろうとしているのだ。

 ふと、サイの耳元に顔を寄せると、ルーフェンは囁いた。

「……いいかい? 召喚術なんてものに、軽々しく手を出すな。君が手繰り寄せた糸に、その先はない。俺が見せて、君が習得したと思っていた魔語は、ただの鏡文字だ。本物に似せただけの、偽物にすぎないんだよ」

 張っていた糸が、ぷつりと切れる音がした。
青ざめていくサイの顔を、ルーフェンが、細めた目の端で見る。

「……術式の逆展開。言っている意味が、分かるだろう? 魔法陣を反転させれば、効果が逆転するのと同じように、魔語も反転させれば、反対の効力を持つようになる。君が知らずに腕に刻んだ魔語は、君の意図とは全く逆の働きをしたんだよ、サイくん」

 忘れていた腕の痛みが、じくじくと這い上がってくる。
皮膚に焼き付き、根を生やして食い破った宿り木のようなその紋を、ルーフェンは、一つ一つ、時間をかけて示していった。

「多量の魔力を集め、異形を実体化させるために、君が魔導師たちの腕に刻むよう指示した魔語は、見たところ三文字──翻訳すると、『集結』『形成』『奉奠ほうてん』。つまり、君が実際に刻印したのは、それと逆の意味を持つ『四散』『破壊』『搾取』……といったところかな」

「……は、……っ」

 吐息混じりの声が、震える。
ルーフェンは、ふ、と口元を綻ばせた。

「──そう、『破壊』。文字通り、君たちの腕は四散し、破壊され、そして搾取された。これは、召喚術なんかじゃない、ただの“呪詛”だ。魔語擬まごもどきを用いた呪詛なんて、俺も使ったことはないけれど、一般では解読不能な文字を使っているだけに、解除は難しいんじゃないかな。このまま放置すれば、みんな死ぬ。……君がやったんだよ。シュベルテの人間だけじゃない。君を信頼し、尽力したセントランスの魔導師たち、その全員を。……他でもない、君が、殺したんだ」

 ひゅ、と喉の奥が鳴って、濃い死臭が、胃の中からせり上がってくる。
焦点の合わない目を見開き、いよいよ蒼白になったサイの顔を一瞥すると、ルーフェンは、立ち上がって、バスカのほうに向き直った。

「──さて、状況が変わったので、改めて話し合いましょうか。アルヴァン侯」

 トワリスに大剣を突きつけられたまま、バスカが、ぎくりと表情を強張らせる。
ルーフェンは、美麗に微笑むと、冷ややかな眼差しを向けた。

「ああ、失礼。言い方を間違えました。これは交渉などではなく、一方的な蹂躙じゅうりん、そして脅迫です。……勘違いしないでくださいね?」

Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下 ( No.326 )
日時: 2020/11/29 20:34
名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: 8NNPr/ZQ)



 バスカは、血走った目で、ルーフェンを凝視した。
怒りとも憎しみともつかぬ、制御しきれない激情が、その瞳の奥で煮えたぎっている。

 バスカは、一呼吸置くと、ルーフェンではなく、サイのほうを睥睨へいげいした。

「……っ、本っ当に役に立たないな! お前はぁっ!!」

 サイは俯いたまま、ぴくりとも動かない。
糸の切れた操り人形に向かって、バスカは、喉が裂けんばかりの大声で怒鳴った。

「この馬鹿め! 恩知らずが! お前は私の言う通りに、黙って従っておれば良かったのだ……! 出来損ないのクズ、ゴミめが……っ!!」

「…………」

 まるで理性を失った獣の如く、ふうふうと息を荒らげながら、バスカはサイに殴りかかろうと動く。
トワリスが、咄嗟に脇に腕を差し入れ、大剣を突きつけて止めたが、バスカの勢いは、全く留まらなかった。

 刃が首の皮に食い込んでいくのも構わず、バスカは、サイの方へと身を乗り出していく。
見かねたルーフェンが、皮一枚、傷の入った首に手を添えると、バスカは、ようやく罵倒を止めた。

「少し落ち着いて下さい。この場で首が落ちても良いんですか? 今、アルヴァン侯と話しているのは、この私ですよ」

「……っ」

 狂暴な眼差しをルーフェンに移して、苛立たしげに、ぎりぎりと歯を食い縛る。
バスカは、しばらく憤怒の形相で黙っていたが、束の間目を閉じ、息を吸うと、幾分か呼吸を整えた。

「……貴様らの望みは、なんだ。セントランスの降伏か」

 ルーフェンは、手を下ろすと、満足げに眉をあげた。

「まあ、平たく言えばそうですね。まずはセントランスの軍部解体と、三街への不干渉を誓ってもらいましょうか。……それからアルヴァン侯、貴方には、シュベルテに来て頂きます。……ああ、逃げようとか考えないで下さいね。屋敷の兵にも、そのまま待機命令を出しておいてください。この場に大勢押し掛けられても面倒ですから、呼ぼうとした時点で、貴方諸共全員殺します」

 背後で、サイが息を飲む気配があったが、ルーフェンは振り返らなかった。
バスカがシュベルテに送られること──それはすなわち、“見せしめ”を意味している。
その末路など、言わずとも全員が理解していた。

 ぎらぎらと光っていたバスカの目から、ふと、感情が消えた。
代わりに、底冷えするような、研ぎ澄まされた武人の双眸が、ルーフェンを見据える。
──その、次の瞬間。

 突然、突き付けられた刃を片手で掴むと、バスカが、振り向き様に、トワリスの顔面めがけて殴りかかった。
咄嗟に上体を反らして拳を避け、トワリスは、掴まれた大剣を振り抜こうとする。
しかし、刃の食い込んだ肉厚な手からは、血が飛び散るだけで、斬り捨てることは叶わない。
まるで、痛みを感じていないような、凄まじい握力であった。

「──トワ!」

 再び拳を振り上げたバスカに、応戦しようと身を低くしたトワリスであったが、ルーフェンに名を呼ばれると、すぐさま大剣から手を引いた。
後方へ二転し距離をとって、トワリスは、ルーフェンの側へと着地する。
大剣を取り戻したバスカは、血の滴る右手を使って、難なく体勢を整えた。

 ルーフェンは、小さくため息をついた。

「……これは、交渉決裂ってことですかね。といっても、貴方に拒否権はないので、頷かないなら実力行使に出ますが」

「……──するな」

 バスカが、何かを呟く。
ルーフェンが眉をひそめると、バスカは、頬の筋肉を引き攣らせ、声を張り上げた。

「──私を愚弄するな! 我がセントランスを、愚弄するな……!!」

 言うや、バスカは、自身の腹に大剣を突き立てた。
一気に傷口を横に広げれば、鉄鎧の隙間から、大量の鮮血が噴き出す。
瞠目したルーフェンたちを睨むと、膝をついたバスカは、途切れ途切れに言葉を紡いだ。

「……私は、誇り高き、西方の……っ。穢れ、呪われた、貴様ら一族に、下るつもりなど、ない。五百年前、王権を、奪われた、あの時から……我らの道は、別たれ、た……っ」

 ごぼっ、と嫌な咳をすると、バスカは吐血し、そのまま崩れ落ちた。
滾々こんこんとして広がる血だまりが、石床を浸食していく。
訪れた静寂に、鉄鎧が激突する金属音だけが、虚しく響き渡った。

Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下 ( No.327 )
日時: 2020/12/01 18:31
名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: 8NNPr/ZQ)



「……は? 死んだ……?」

 不意に、サイが唇を開く。
一同が視線を移すと、サイは、呆然とした面持ちで、バスカの死体を見つめていた。

「そんな……嘘だ、父上。本当に、死んだんですか……?」

 無感情な掠れ声で、サイは、バスカに向かって問い続ける。
何度も何度も、答えぬ亡骸に声をかけ、ややあって、その目から涙を溢れさせると、サイは、震えながら叫んだ。

「……ふ、ふざけるな! 父上、なんで、そんな……! 貴方が死んだら、私は一体、どうしたらいいんですか……!」

 ハインツの下で藻掻き、這い出ることが出来ないと悟ると、サイは、額を床につけて泣き出した。
ハインツが、狼狽えたようにルーフェンを見る。
嘆息したルーフェンが、ハインツにサイの拘束を解くように告げると、それと同時に、トワリスが動いた。

 解放されたサイの前に立ち、ぐっと拳を握ると、トワリスは、静かに尋ねた。

「……サイさん、どうしてこんなことをしたんですか。理由があったなら、教えてください。でないと、私たちは、貴方を罪人として殺さなければなりません」

 打たれたように顔をあげ、サイが、トワリスに目を向ける。
そして、驚いたように息を飲んだ。
冷静な口調とは裏腹に、トワリスは、ひどく悲しげな表情を浮かべていたからだ。

 いさめるように声をかけてきたルーフェンを無視して、トワリスは、サイの前に膝をついた。

「……アルヴァン侯は、貴方のお父さんだったんですよね。だから、拒絶できなかったんですか? セントランスのために、シュベルテを落とすように父親に言われて……。実際サイさんには、それを成し遂げるだけの力があったから、逆らえなかった」

「…………」

 サイは、波立った胸中が凪いでいくのを感じながら、トワリスを見つめていた。

 ルーフェンが言っていたことは、ほとんど事実だ。
サイは、シュベルテの情報をセンスランスに売り、先の襲撃を助長した。
自らが考案した異形の召喚術をバスカに提言し、それが不完全であることを悟ると、ルーフェンに探りを入れ、そこから導き出した本物に近い召喚術の行使方法を、親書に紛れ込ませてセントランスに伝えたのだ。

 結果的に、大勢の人間が死んだ。
指揮をしていたのは、領主バスカ・アルヴァンだが、彼に従い、間接的に甚大な被害をもたらしたのは、サイ・ロザリエスという一人の魔導師である。
罪の全てをバスカに着せるなら、シュベルテの民に見せしめるのは、バスカの首一つで良いのかもしれない。
しかし、ルーフェンは、サイを生かしはしないだろう。
ルーフェンは、そうするべき立場にある。
敵になるならば、微塵の脅威も見逃す理由はないのだ。

 口を開きながらも、うまく言葉が出てこないサイに、トワリスは言い募った。

「もう、絶対に、召喚術には手を出さないと誓ってください。禁忌魔術も同様です。その可能性を追求するために、うっかり寝食も忘れて没頭してしまうくらい、サイさんが魔術を好きなんだってことは、私もよく知っています。……でも、危険なものは、危険なんです。ハルゴン氏の魔導人形の件も、今回の件も、結末は悲惨なものにしかならなかったじゃないですか。きっと、純粋な知識欲で手を出して良いものじゃないです。お願いですから、約束してください。そして、アーベリトに帰って……罪を償ってください」

 トワリスの声が、微かに震えている。
その声を聞いている内に、サイの喉に、熱いものが込み上がってきた。

 贖罪しょくざいの意を並べ立てたところで、サイが三街の人間に受け入れられることはないだろう。
そんなことは、トワリスとて理解しているはずだ。
それでも尚、彼女は、サイに逃げ道を作ろうとしている。
そう思うと、視界がぼやけて、息が苦しくなった。

 サイは、緩く首を振った。

「……違います。違うんですよ、トワリスさん。……やはり貴女は、私のことを買い被りすぎている」

 喉の奥から絞り出すようにして、サイが呟く。
その声色には、どこか優しい響きも織り混ざっていた。

「私は確かに、魔術が好きです。でも、魔術そのものは、別にどうだっていいんです。……ただ、私の価値がそこにしかなかったから、魔術が好きなんですよ」

「え……?」

 トワリスの眉根が、意味を問うように寄せられる。
サイは、浅く呼吸を繰り返しながら、辿々しく答えた。

「……養子なんです、私。……少しだけ、人より速く読み書きができるようになって、魔術の覚えも良かったから、そこを評価されて、養父ちちに──アルヴァン家に引き取られました。……それだけです。本当に、私には、それだけなんです……」

 ぽつりぽつりと、涙がこぼれ落ちる。
サイは、顔をあげると、歪んで見えないバスカの死体を、ぼんやりと眺めた。

「……ずっと、養父の言う通りに生きてきました。脅されたとか、逆らえなかったとか、そういうわけじゃありません。そうする以外に、私は生き方を知らないんです。……さっきの、私に対する養父の怒鳴り声、トワリスさんも聞いていたでしょう? ああやって、昔から、クズだの、ゴミだの、役立たずだの言われているとね。人間は、だんだん、何も考えられなくなってくるんですよ。自分に自信がなくなって、意思もなくなって……最終的には、誰かに言われないと、何もできない、私のような人間が出来上がっていくんです」

 サイは、微かに目を伏せた。

「養父に言われて……シュベルテの内情を諜報ちょうほうするために、魔導師団に入りました。……そこには、いろんな人がいましたよ。国を守りたいという、正義感から入団した人。遠く遥々上京して、家柄を背負い入団した人。中には、肉親の眼を奪われて、その復讐をするために入団した人や、自分を救ってくれた、アーベリトに恩返しをするために入団した人もいました。……そういう人達を見ていて、私は、自分がいかに空っぽな人間なのかを思い知ったんです」

 トワリスの目が、徐々に見開かれる。
小さく吐息を溢すと、サイは、泣き笑いを浮かべた。

Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下 ( No.328 )
日時: 2020/12/03 19:09
名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: 8NNPr/ZQ)



「……地下牢で、どうしてアーベリトのためにそんなに頑張るのかと、そう問いましたね」

「……はい」

 虚ろだった目に、わずかな光が灯る。
サイは、もはや原型を留めていない真っ赤な手を、トワリスに伸ばした。

「あの時私は、アーベリトに仕えているから、と答えましたが、そんなのは嘘です。……私は、頑張っていません。ただ、養父に言われたことを、必死にやっていただけなんです。養父に言われたから、アーベリトに入り込み、養父に言われたから……シュベルテを討ち滅ぼせるような魔術を、ずっと探していました。言われたことを成せるなら、禁忌魔術にも、喜んで手を出そうと思っていました」

 サイの腕が、トワリスの肩に、ことりと力なく当たる。
もはや感覚などなく、思ったように動かすことも出来ないのだろう。
サイは、ふらふらと腕を動かしながら、ややあって、探るようにトワリスの頬に触れた。

「……トワリスさん。貴女に、ずっと憧れていました。どうして、いつもそんなに頑張っているんですか。……どうやったら、そんなに頑張ろうと思えるものに、出会えるんですか……」

「…………」

 頬から離れた指が、ゆっくりと下って、トワリスの首筋をなぞる。
無意識に、彼女の喉元を捉えて、サイは、吐息と共に呟いた。

「羨ましくて、眩しくて……いっそ、憎いとすら思いますよ……」

 そうして、サイの指に、ぐっと力がこもった時──。
横合いから、近づいてきたルーフェンに腹を蹴り飛ばされて、サイは、抵抗することもできずに転がった。

「──……っぐ」

 治まっていた吐き気が再度催し、ごぼごぼと咳き込む。
咳の衝撃が骨にまで響き、軋むような激痛が全身に走ると、サイは、背を丸めてうめいた。

「……悪いけど、どんな事情があろうと、君が取り返しのつかないことをしたのは事実だ。見逃すつもりはないよ」

 笑みを消したルーフェンが、平坦な口調で言い放つ。
サイは、起き上がることもできずに、仰向けになった。

「それは、そうでしょうね。分かっています。私も、許してほしいだなんて、言うつもりはありません。……最期まで、貴方たちと戦います」

 ルーフェンが、嘲るように答える。

「戦う? その身体で、一体どうやって。アルヴァン侯からろくな扱いを受けていなかった割に、随分と忠義に厚いんだね」

 サイは、乾いた笑みを溢した。

「……はは。だからこそ、ですよ。私みたいな、惨めな人間は、一度すがったものから、なかなか離れられないんです。いざ失うと、もうどうしたら良いのか、分からない。……理解できないでしょう、召喚師様。貴方のように、生まれつき、力にも地位にも恵まれた人間には、きっと、想像もつかないんだ」

「…………」

 ルーフェンは、返事をしなかった。
一瞬口を閉じてから、何かを言いかけたが、その前に、トワリスが立ち上がった。

 頬についたサイの血を拭うと、トワリスは、落ち着いた声で尋ねた。

「貴方の故郷は……何があっても、このセントランスなんですね。サイさん」

 微かに瞠目して、サイは、トワリスに視線を移す。
そのままサイは、しばらくトワリスのほうを眺めていたが、やがて、目元を緩めると、一言「……はい」と答えた。

 トワリスは、身を翻すと、倒れているバスカの方へと歩いていった。
まだ熱を帯びた死体から、突き立った大剣を引き抜いて、再びサイの元へと足を向ける。
ルーフェンとハインツが、その様子を、驚いたように見ていた。

(……私が、サイさんを殺す)

 トワリスは、剣を握る手に力を込めた。
鼓動が速くなり、嫌な汗がにじむ。
大きく息を吸い込めば、鼻の奥が、つんと痛んだ。

 今、サイのことを一番殺したくないと考えているのは、きっとトワリスである。
だからこそ、自分がやらなくてはいけないと思った。
サイがセントランスに従属するというなら、彼は、アーベリトにとっての敵だ。
仇なす敵を討つ──そこに、感情を挟んではいけないのだ。

 このまま見守れば、おそらくルーフェンが、サイのことを殺すだろう。
それではいけない。アーベリトを守るべき魔導師として、今、ここで目を反らしては、絶対にいけない。
ただ見届けるだけでは、魔導師になる前、孤児としてレーシアス邸に住んでいた頃と、同じになってしまう。

 歯を食い縛って、トワリスは、刃先をサイに向けた。
彼の表情に、緊張が走る。
サイは、地を這ってでも、攻撃を避けねばと思ったが、その度に身体に激痛が走って、尚も動けずにいた。

Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下 ( No.329 )
日時: 2020/12/05 18:57
名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: 8NNPr/ZQ)



 垂直に振り下ろされた刃先を、サイは、まなじりを割いて見ていた。
何かしらの爪痕を残さねばと、血液が、脳内を急速に駆け巡っている。
その一方で、諦めに近い疲労感が、重い鎖のように全身に絡み付いていた。

(死ぬのか、このまま……)

 ふと、そんな思いが込み上げてくる。
まだ自分は、何も成し遂げていない。
成し遂げたいと思う、“何か”すら見つかっていない。
ただ、バスカに従い、言われるままに生きてきた。
そんな中身のない、木偶でくのような人生が、本当にこのまま、何事もなかったかのように終わるのか──。

(……死にたくない)

 背筋を、ざわめきが走った。
それは、理屈と言うより本能に近い、純粋な、生への渇望であった。

(死にたくない……!)

 胸に刃先が食い込んで、サイが、思わず目を閉じたとき──。
不意に、奇妙なことが起きた。
覚悟していた痛みが来ず、ゆっくりと目を開けると、剣を振り下ろしたトワリスが、石像のように硬直している。
トワリスだけではない。
ルーフェンも、ハインツも、この場にいる全てのものが、時を吸い取られたかの如く、動きを止めていた。

『……何がしたい?』

 耳元で、何かが呟いて、サイは、はっと身を強張らせた。
動かないトワリスの下から這い出て、手足の感覚を確かめるように、よろよろと立ち上がる。
衣服についた血の染みはそのままであったが、気づけば、腕に負っていた傷は、跡形もなく消え去っていた。

「だ、誰だ……」

 警戒したように問いかけながら、辺りを見回すと、背後に、もう一人自分が立っていた。
サイの顔から、さぁっと血の気が引いていく。
向かい合って立つ自分は、薄い笑みを唇に浮かべて、じっとこちらを見つめていた。

『……お前は、何がしたいんだ』

「…………」

 再度尋ねられて、思わず一歩、後ずさる。
しかし、不思議と恐怖は感じていなかった。
目の前で起きていることが理解できず、混乱してはいたが、やがて、沸き上がってきたのは、未知への好奇心と、浮き足立った興奮。
そして、血のたぎるような、一つの予感であった。

 手を伸ばすと、その手をとったもう一人のサイは、大気に溶けるようにして消えていった。
同時に、見たことのない文字が、白熱した脳内に浮び上がる。
それが何なのか、認識した瞬間、サイの予感は、確信に変わった。

 濃厚な死の匂いが、足元から立ち上ってくる。
血だまりに沈む養父、そして、積み重なった魔導師たちの身体から発せられるその匂いは、鼻腔から全身にみ渡って、サイの飢えを満たしていった。

 大きく息を吸うと、サイは、頭に浮かんだ“魔語”を唱えた。

「──汝、嫉妬と猜疑を司る地獄の総統よ。従順として求めに応じ、我が身に宿れ……!」

 弾けるような、甘美な高まりが、サイの身体を突き抜けた。
刹那、時間が動き出すと共に、耳が痛むほどの静けさが掻き消え、広間に音が戻った。

 サイが、ふっと天を仰ぐ。
──瞬間。傍らを熱波が擦り抜けた、と感じるや否や、ハインツのすぐ後ろの石壁が切り裂かれ、轟音を立てて、広間の天井が傾いた。

「────!?」

 ぱらぱらと天井から石材の欠片が降り注ぎ、続け様に放たれた熱が、一波、二波と辺りをいていく。
サイが放った熱波は、養父を裂き、ついに息耐えた魔導師たちをも微塵にして、飛び散った血肉さえ、一瞬で焼き焦がした。

Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下 ( No.330 )
日時: 2020/12/06 19:11
名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: 8NNPr/ZQ)



 はっと顔を上げたルーフェンとトワリスは、突如迫ってきた熱波を、考えるより先に、左右に跳んで避けた。
状況が読めない、理解できない。
一突き入れたはずのサイが、いつの間にか、傷の治癒した状態で立ち上がり、奇妙な攻撃を繰り出しているのだ。

 断続的に襲い来る熱の刃は、火の粉を散らし、白煙を巻き上げながら、広間を縦横無尽に滑空していく。
厄介なのは、避ければ避けるほど、その熱波が広間を破壊していくことであった。
広間自体が倒壊すれば、ルーフェンもトワリスもハインツも、サイだって、無事では済まされないだろう。
無茶苦茶な攻撃を繰り返すサイは、そんなことも分からないほど、我を忘れているようであった。

 一転して避け、片足を軸に力強く踏み込むと、トワリスは、大剣を握り直した。
迫ってくる熱の刃に向かって、間合いを詰めると、下から一気に斬り上げる。
斬った──と確信したのも束の間、手の皮が焼けるような痛みを感じて、トワリスは、慌てて大剣を捨てた。
凄まじい熱量が、刃から手に直接伝わってきたのだ。
分裂し、軌道の反れた熱波が、トワリスの頬をかすって、石壁に激突する。
取り落とした大剣は、うっすらと赤みを帯び、高熱を孕んでいて、とてもではないが、握れる状態ではなかった。

 サイは笑った。おかしくておかしくて、仕方がなかった。
今まで、己を組み強いてきた者たちが、傷つき、疲弊しながら逃げ惑っている。
その様を見ていると、愉快で、滑稽で、笑いが止まらなくなった。
まるで、自分ではない何かに、身体の主導権を握られているような感覚。
もはや、まともな思考は回っていない。
それでも、絶対的、圧倒的な力を手に入れたこの快楽の波に、サイは、何の躊躇いもなく身を委ねていた。

 ハインツの肩口から、血が飛び散るのを見ると、ルーフェンは小さく舌打ちをした。
傷は浅いが、ハインツは攻撃の速さに反応できてない。
トワリスは上手く回避しているが、いずれ体力の限界は来るだろう。

 サイの狂気じみた笑い声が、広間を震わせている。
一体サイに何があったのか、見極める必要があった。
人が変わったような愉悦ゆえつの表情と、抑えきれない殺戮さつりく衝動。
その既視感のあるサイの言動に、一つの最悪な可能性が浮上してくる。
そう、何の予備動作もなく傷を回復させたことも、詠唱なしに強烈な熱魔法を撃ち続けていることも、普通の魔術では、到底成し得ないわざなのだ。
ただ一つ──本物の召喚術を除いては。

 ルーフェンは、凍てつく氷の障壁で、複数の熱波をまとめて防ぎ切ると、その僅かな隙に、サイの方へと駆け出した。

 セントランスに、召喚術と見せかけた呪詛を行使させるため、ルーフェンは、サイにあらゆる情報を吹き込んでいる。
そして、“魔語への翻訳”と“多量の魔力”をそろえることで、召喚術を行使できる、という偽の真実を、自ら導き出させることでサイを誘導し、結果、セントランスを貶めた。
だが、それらの情報全ての真相を、ルーフェンは知っているわけではない。

 そもそも、召喚術や悪魔といったものは、かなり不確定な要素が多く、謎だらけの存在だ。
魔語の解読、多量の魔力行使、悪魔という存在への干渉──これらの条件を満たせるのが、召喚師一族のみであるが故に、“召喚術は召喚師にしか使えない”と結論付けているだけに過ぎない。

 とはいえ、それが真実だ。
実際、召喚術は召喚師にしか使えない。
揺るがない事実があって、その歴史を背景に、人々は皆、“そういう認識”でいる。
だが、今のサイを見ていると、これは“確固たる先入観”に過ぎないのではないか、という疑問が、ふとルーフェンの中に湧いてきたのであった。

Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下 ( No.331 )
日時: 2020/12/06 19:14
名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: 8NNPr/ZQ)





 サイの目が、ルーフェンを捉える。
憎々しげに顔を歪めたサイが、再び熱波を放つより速く、ルーフェンは、魔力を練り上げた。

 一瞬、視界が暗転して、サイは人事不省じんじふせいに陥る。
ややあって、四方で仄白い閃光が駆け抜けたかと思うと、雷轟らいごうが響いて、凄まじい衝撃がサイを襲った。

「────……っ!」

 ほとばしった雷撃が、咄嗟に張った結界をも破壊して、サイを縛り上げ、破裂した。
黒煙を吐き出しながらもんどり打ったサイが、声にならない絶叫をあげ、びくびくと痙攣して倒れ伏す。

 その光景を、トワリスとハインツは、愕然がくぜんと見つめていた。
あの雷撃を食らっておいて、まだ形を保っているサイが、人間とは思えなかったのだ。

 サイと一定の距離を保ったまま、ルーフェンは、訝しげに尋ねた。

「……君は誰だ? サイ・ロザリエスじゃないだろう」

 頭を巡らせたサイが、ルーフェンを見上げる。
まだ痙攣の治まらない手足を動かし、ゆっくりと立ち上がると、サイは、眉根を寄せた。

「……はっ、何を言っているんですか。私は、サイ・ロザリエスですよ」

「…………」

 ルーフェンの目が、探るように細まる。
その目を見ている内に、浮かれた興奮が冷めてきて、サイは、不快そうに鼻にしわを寄せた。

 この召喚師は、一体何を言っているのだろうか。
先程までルーフェンたちを追い込み、ねじ伏せていたのは、他ならないサイ自身だ。
誰だ、なんて、問うてくる意味が分からない。

 いつもの調子でふざけているのかと思ったが、ルーフェンは、尚も真剣な目てきでこちらを見つめている。
その白銀の瞳が、月明かりのように心に入り込むと、不意に、記憶の底に眠っていた忌々しい光景が、脳裏に蘇ったような気がした。

 目前に立つ、正統な《召喚師つくりて》の一族。
冴え冴えとした銀の髪、全てを見通すような瞳。
月光を透かす白皙はくせきと、対して鮮やかな緋色の耳飾り──。
それらを見ていると、身を貫くような憤怒が、腹の底から突き上げてくる。
唐突に呼び起こされたその怒りの記憶は、サイにとって、身に覚えのないものであった。

 サイが、苛立たしげに歯軋りを始めると、ルーフェンは、表情を変えた。
そして、一拍置いてから、わずかに唇を歪めると、何かを試すような口ぶりで言った。

「……そう。まあ、答えたくないなら、それで構わないよ。それにしたって、随分と悔しそうじゃないか。……それもそうか。あれだけ攻撃して、俺たち三人、一人も殺せなかったわけだから。あの程度じゃ、俺たちは殺せないよ」

 途端、サイの瞳孔が、牙を剥く獣のように縮まる。
目をぎろぎろと動かし、サイは、ハインツとトワリス、そして最後に、ルーフェンを睨んだ。

「なんだと? 無様に逃げ惑って、怯えていたくせに……!」

 サイのものとは思えない、地を這うような低い声。
その怒り様を見て、ルーフェンは、内心ほくそ笑んだ。

「怯える? まさか。君が考えなしに魔術を使うから、この広間が崩れるんじゃないかと心配になっただけだよ。見くびるな。こっちはまだ、召喚術すら使っていない」

「この……っ!」

 異様に光る目をルーフェンに向けると、サイは、苛立たしげに頭を掻きむしり、絶叫した。
見たこともないサイの姿に、トワリスが、思わず身を乗り出す。
それを手で制すると、ルーフェンは、見守るように目で示した。

(殺す、殺す殺す、殺す……っ!)

 強い怒りが、腹の底からせり上がってきて、サイは、無茶苦茶に髪をかき混ぜた。
感情的になればなるほど、身を食われるような痛みが走り、皮膚の色が、浅黒く変色していく。
それと同時に、得たことのない絶大な魔力がみなぎってきて、サイは、全身をぶるぶると震わせた。

 やがて、張り詰めた怒りが、頂点に達した時──。
膨らみ切ったものが、音を立てて弾けた。
鮮血が耳まで詰まり、鼻の奥に、鉄の臭いが迫ってくる。
眼球が押し出されるような内圧に、思わず口を開けると、喉元まで逆流してきた血液が、ごぷりと吐き出された。

「────……かはっ!」

 膨張しきった魔力が弾けて、静かに引いていく。
地面に崩れ落ち、微動だにしなくなったサイは、もう、息をしていなかった。

 死がべる静寂の中で、何かが、ルーフェンの耳元で囁いた。
固く閉ざされていた扉の隙間から、手招きをして、ルーフェンを此方へといざなっている。

 何か物思いをしているルーフェンを一瞥してから、トワリスは、魂の抜けたサイの遺体を見つめた。
強烈な死の臭いが鼻にこびりついて、頭の中が、ぼんやりとしている。
寄ってきたハインツが、手の火傷は大丈夫かと心配そうに尋ねてきたが、そう問われるまで、トワリスは、手の痛みすら感じていなかった。




To be continued....