複雑・ファジー小説

Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下 ( No.343 )
日時: 2021/01/08 11:33
名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: r1a3B0XH)

†第五章†──淋漓たる終焉
第四話『瓦解』



 サミルの葬儀には、本人の希望で、親交の深かった者たちだけが集められた。

 棺に入れられ、別れ花に囲まれたサミルを見ても、ルーフェンは、不思議と穏やかな気分であった。
分かりやすく“さりげない”風を装って、様子を伺ってくるトワリスとハインツや、揃いも揃って、鼻水を垂らしながら号泣する自警団の者たちを見ている内に、気持ちに整理がついていたのだろう。
トワリスから受け取った、サミルの遺書を読み終わったときも、よぎったのは、少しの寂しさくらいであった。

 葬儀が終わると、ルーフェンは、他街に宛てて文を書いた。
国王サミル・レーシアスが、病により崩御ほうぎょしたこと。
已むを得ず、約定を破ることになってしまうが、取り急ぎ、シャルシスが成人する王位返還の時までは、分権体制に戻したいということ。
そして──。
そこまで書いて、ルーフェンは筆を置いた。
文を締めくくる前に、ルーフェンには、まだやらなければならないことがあったのだ。

 執務室を出ると、外は相変わらずの銀世界であったが、散々降った雪は、もうすっかり止んでいた。
溶け出した雪が、ぽたぽたと屋根から落ちていく。
その音を聞きながら、ルーフェンが向かったのは、物見の東塔であった。

 物見役の一時休息の場として用意されたその部屋は、元々シルヴィアが暮らしていたシュベルテの離宮に比べれば、あまりにも粗末で質素な造りをしていた。
急遽、前召喚師が療養のために住むというので、サミルは、必要なものがあれば用意すると打診したようだったが、結局シルヴィアは、最低限のもの以外何も欲しがらなかったのだろう。
がらんどうの木造の室内には、寝食するための寝台と食卓があるだけだ。
見晴らしの良い窓の外と、揺れる暖炉の炎以外には、変化するものが何もない。
トワリスが訪れなくなってから、シルヴィアは、そんな退屈な部屋で、日がな一日過ごしているようであった。

「……具合は良くなったんですか」

 開けた扉にもたれかかって、何の前触れもなくルーフェンが問うと、シルヴィアは、寝台に座ったまま振り返った。
長い銀髪が揺れて、感情のない眼差しが、ルーフェンを射抜く。
突然押し掛けてきて、許可も取らず入室してきた息子を、シルヴィアは、驚いた様子もなく見つめていた。

 食卓の椅子を引き寄せ、寝台から少し離れた位置に座ると、ルーフェンは口火を切った。

「貴女に、聞きたいことがあります」

「…………」

 返事の代わりに、シルヴィアは微笑を浮かべる。
相変わらず、何故笑っているのかは分からない。
無機質で温度のない、その凄艶せいえんな微笑みを見ていると、途端に嫌悪感が湧いてくるのは、もはや条件反射だ。

 ルーフェンは、少し間を置いてから、口を開いた。

「ご存知かと思いますが、陛下が亡くなりました。シュベルテとの約定を貫くなら、あと数年、形式的に国王を立てないといけません。……貴女の名前が、候補に上がっています」

「…………」

 シルヴィアの目が、じっとルーフェンを見つめる。
視線をそらさず、見つめ返して返事を待っていると、シルヴィアが、ふっと笑みを深めた。

「ああ、そういうこと。私を、繋ぎの王にしようと。……それが、前王の意思なの?」

ルーフェンは、首を振った。

「いいえ。……ただ、シュベルテの現状を鑑みるに、貴女と俺でこの国の根幹を守れば、教会と新興騎士団の動きを抑制できると考えただけです。サミルさんが、実際にそうと言葉を残したわけではありません」

「……でしょうね。レーシアスの人間は、呆れるほど優しいもの」

 物憂げに呟いて、シルヴィアはため息をつく。
ルーフェンは、苛立たしげに先を促した。

「貴女が拒否をするなら、それで構いません。カーライル公と話して、別の王を立てるか、分権して一時王座を空席にするだけです」

「…………」

 シルヴィアは、ふいと目線を反らすと、窓の外を眺めた。
街の屋根々々やねやねに積もった雪が、日光を反射して、きらきらと輝いている。
雪遊びにはもう飽きてしまったのか、子供たちの声は聞こえず、往来には、立ち働く人々の姿だけが目立っていた。

Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下 ( No.344 )
日時: 2020/12/22 19:22
名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: 8NNPr/ZQ)



 外の景色を見たまま、シルヴィアは答えた。

「……無理よ。後々剥奪される王座に、何の意味があるというの。言ったでしょう。渇いて、枯れ果ててしまった人間には、一滴の水もやらない方が、よほど幸せなのよ」

「…………」

 ルーフェンはつかの間、警戒したような面持ちで、シルヴィアのことを睨んでいた。
その答えが、彼女の本心なのかどうか、はっきりと確信できなかったからだ。
一方で、シルヴィアはこれ以上、何も求めてこないだろうと予想していた自分もいた。
言葉通り、この女は、もうすっかり枯れ果ててしまったのだ。

 シルヴィアが、今まで自分のしてきたことを、どう思っているかは分からない。
ルーフェンから奪われたもの、自分が周囲の人間達たちから奪ったもの、それらに対する執着心が、彼女の中でどの程度精算されたのか──そればかりは、きっと本人にしか分からない。
ただ、シュベルテで別れたあの時から、シルヴィアの中にあった感情の炎が、蓋をしたように消えてしまったことは、なんとなくルーフェンも感じていた。

 しばらくしてから、ルーフェンは、冷静に返した。

「……分かりました。それならもう、貴女を政界に引き込むことはしません」

 言いながら、立ち上がって、椅子を食卓に戻す。
次いで、ふと何かを思い出したように手を止めると、ルーフェンは、シルヴィアに向き直った。

「……それから、もう一つ」

 声をかけても、シルヴィアは振り返らない。
その後ろ姿を見つめたまま、躊躇ったように言葉を止めると、ルーフェンは、嘆息して首を振った。

「……いえ。やっぱり、何でもありません。用件は、以上です。……身体の具合が良くなり次第、貴女は、シュベルテに帰ってください」

 突き放すように言って、踵を返す。
すると、その時初めて、シルヴィアがルーフェンの言葉に反応を示した。

 待って、と呼びかけられて、ルーフェンが足を止める。
シルヴィアは、心底不思議そうに尋ねた。

「私のことを、殺さないの……?」

 ルーフェンが、思わず瞠目どうもくする。
振り返ると、シルヴィアが、恐怖も何も感じていないような瞳で、じっとこちらを見ていた。

「貴方は、私のことを憎んでいるでしょう。てっきり、殺しにきたのかと思ったわ。繋ぎの王としての役割も果たせないなら、私には、何の利用価値もない」

「…………」

 その空虚な表情を見て、ルーフェンは、シルヴィアが何を思ってそんなことを問うたのか、理解した。
彼女はもう、死んで、逃れたいのだ。
枯れ果てて尚、その場で踏みつけにされるよりも、早く土の中から根を抜いて、どこかへ消え去りたいと思っている。
ようやく終わりを迎えられると信じて、その時を、ずっと待っていたのだ。

 ルーフェンは、ぐっと拳を握った。
恐ろしいほどの沈黙が、室内を支配する。
ややあって、近付いていったルーフェンが、母の細い首に手をかけると──シルヴィアは、口元に笑みを浮かべて、そっと目を閉じた。

「──……」

 シルヴィアの白い首筋が、どくり、どくりと脈打っている。
指先を震わせて、静かに手を下ろすと、ルーフェンは、唇を開いた。

「……殺しません」

「…………」

 シルヴィアが、ゆっくりとまぶたを開ける。
ルーフェンは、微笑を浮かべた。
いつだったかの、母のように──残酷なほど、美麗に微笑むと、ルーフェンは告げた。

「生きてください。貴女が、今まで切り捨ててきた人達の分まで」

 それだけ言って、再び背を向ける。
大きく瞳を揺らしたシルヴィアを横目に確認すると、扉を開けて、ルーフェンは、部屋から出ていった。

 無慈悲な静寂が、再び室内を包み込む。
閉まった扉の先を見つめて、シルヴィアは、呆然と目を見開くと、やがて、ぽつりと呟いた。

「え……?」

 どこかで、屋根に積もった残雪が、どさりと落ちる音がした。



Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下 ( No.345 )
日時: 2020/12/24 19:06
名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: 8NNPr/ZQ)






  *  *  *



 執務室で、トワリスと共にいたルーフェンは、性急に近付いてきた足音に、ふと顔をあげた。
ほどなくして、扉が叩かれ、顔をひきつらせたロンダートが入室してくる。
包帯で固定された左腕を見せつけながら、ロンダートは、半泣き状態でルーフェンの執務机にかじりついた。

「召喚師様ぁ! 見てくださいよ、この腕! ダナさんに聞いたら、全治一か月だって。シュベルテの門衛に、思いっきりぶん殴られたんです! 最終的には、抜き身で襲いかかってきて、俺もう二度とシュベルテには行きたくないですよ! あいつら、全然話を聞く気ないんですもん……!」

 大声で喚きながら、ロンダートが訴えてくる。
机の横で待機していたトワリスは、その話を聞くと、怪訝そうに顔をしかめた。

「手まで出してきたとなると、いよいよ無視できませんね。その門衛、記章はつけていましたか?」

「ああ、うん。言われた通り見てきたけど、胸元につけてたよ。十字の剣と杖、あとは、真ん中に女の人が描いてあった。それ以外の格好をした武官は、見かけなかったなぁ」

 ロンダートが、ずびずびと鼻をすすりながら答える。
記章のデザインを聞くと、椅子に座っていたルーフェンは、驚いた様子もなく嘆息した。

「やっぱりね。それは、世俗騎士団の記章じゃない」

 トワリスが、眉を寄せる。

「十字の剣と杖、女の人……見たことがありませんね。魔導師団の腕章とも違いますし……。そもそも、私がシュベルテにいた時と配備が変わっていなければ、城の周囲には、結界を保つための魔導師もいるはずなんです。それがいないってことは、警備体制自体が、丸々新興騎士団に乗っ取られている可能性があります」

「可能性もなにも、そういうことだろうね。記章の“女の人”は、大方、彼らが敬愛して止まない女神イシュカル様でしょ」

 ルーフェンが軽い口調で言って、やれやれと肩をすくめる。
トワリスとロンダートは、表情を曇らせると、悩ましげに俯いたのであった。

 サミルの崩御と、バジレットとの謁見希望を申し出る文を、シュベルテに突き返されたのは、これで二回目のことである。
一回目は数名の自警団員に、二回目はハインツとロンダートに向かわせたが、両者共に、門前払いを食らった。
聞けば、城門前の警備兵が、「カーライル公は先の襲撃時の傷が癒えていないため、謁見は出来ない」といって聞かないのだという。
しかし、バジレット・カーライルが意識を取り戻したことは、以前の報告で分かっていることであったし、仮に容態が悪化していたのだとしても、王権を持たない今のシュベルテに、ルーフェンからの使いを拒否する権限はない。
これは、立派な背信行為であった。

 トワリスは、眉をひそめたまま言った。

「私の訓練生時代の知り合いに会えれば、シュベルテ内部の状況も聞けるんですが……。話を聞く限り、新興騎士団とやらの勢力は、城内にも及んでいるようですね。そもそも魔導師団は、今どうなっているんでしょうか」

 真剣なトワリスに対し、ルーフェンは、軽薄な態度で返した。

「言っておくけど、トワは行かせられないよ。話通じないっていうんで、門衛ぶん殴りそうだし」

「なっ、そんな誰彼構わず殴りませんよ!」

「いてっ」

 ルーフェンの頭を叩いて、トワリスが鼻を鳴らす。
いまいち緊張感のない、ルーフェンとトワリスのやりとりに見て、ロンダートは、唇をとがらせた。

「もう、召喚師様が直接行ってきてくださいよ。召喚師一族が来たら、シュベルテの連中も流石にビビって、バジレット様を呼んできてくれるかもしれないでしょ」

 ルーフェンは、片眉を上げた。

「それは構わないけど……。今、俺が空けて平気?」

 ルーフェンの問いに、ロンダートとトワリスが同時に瞬く。
ロンダートは、トワリスと目を見合わせてから、やけに演技がかった口調で答えた。

「嫌だなぁ、召喚師様。自警団を馬鹿にしないでください! 確かに俺達は頭悪いですけど、元々アーベリトは、自警団だけで守ってたんですよ? セントランスとの件も片付いたし、アーベリトには結界も張ってあります。数日くらい召喚師様がいなくたって、全く問題ありませんよ!」
 
 腕を包帯で固定された状態で言われても、なんの説得力もないが、ロンダートは、やけに自信ありげな顔つきでふんぞり返っている。
トワリスは、少し胡散臭そうにロンダートを見たが、意見は彼と同じようだった。

「そうですね。私やハインツもいますし、アーベリトのほうは平気ですよ。実際、召喚師様が行く以外に、方法はないと思いますし……。どちらにせよ、バジレット様のご容態が芳しくない以上、謁見の許可が下りたら、シュベルテに出向くことになるのはこちらです。一応召喚師様は、魔導師団の総括もしてる立場なんですから、その権威回復のためにも、直接本人が行くべきだと思います。責任者として」

 きりっと眉をつり上げて、トワリスが言い切る。
魔導師団の総括といっても、ルーフェンが籍を置いているのはアーベリトなので、一月に一度報告書に目を通すくらいで、ほとんど名ばかりの責任者である。
今の王都はアーベリトで、距離がある以上は仕方がないわけだが、そのせいで、現在の魔導師団に何が起こっているのか、さっぱり分からないのも事実だ。
まるでそのことを、意図せず責めてくるようなトワリスの口調に、ルーフェンは苦笑を浮かべた。

「手厳しいなぁ。まあ、そんなに言うなら、俺が行くけど……」

 言い淀んで、困ったように眉を下げる。
躊躇いがちな物言いに、ロンダートは、ルーフェンの背をばしっと右手で叩いた。

「だーいじょーぶですって! 召喚師様、妙に心配性なとこばっかりサミル先生に似ちゃったんだから。そんなに不安がらないで、俺達のこと信用してください。まあ、どうにもならなかったら、召喚師様を呼び戻しますから」

 サミルの名前に、トワリスがぴくりと反応して、ルーフェンを一瞥する。
しかし、そんなことはあえて気にしていない様子で、ロンダートはにかっと笑ったのであった。

〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下 ( No.346 )
日時: 2020/12/31 23:39
名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: r1a3B0XH)



 護衛も連れず、まるで一般の旅客のような装いでやって来た召喚師を見て、強面こわもての門衛たちは、思わず硬直した。
土地勘のない余所者が、ふらふらと市街地から迷いこんできたのかと思えば、その頭巾の中身が銀髪銀目だったなんて、誰が予想できただろう。

 ルーフェンは、懐かしげにシュベルテの城壁を見上げてから、左右に並ぶ門衛二人に挨拶をした。

「こんにちは。何度かアーベリトの人間が訪ねて来ているかと思うんだけど、その時に対応したのも君達かな?」

 ルーフェンがにこやかに問うと、門衛たちの顔が、さっと強張る。
しかし、引くことはなく、鉄門の前で拒むように槍を交差させると、門衛の一人が言い放った。

「申し訳ございませんが、再三お伝えしている通り、現在入城はお断りしております。召喚師様であろうと、お通しすることはできません。お引き取りください」

 ルーフェンが、微かに目を細める。
嫌な汗を浮かべた門衛たちに、ルーフェンは、柔らかな声で告げた。

「悪いけど、はいそうですかと帰るわけにはいかないんだ。カーライル公に大事な話がある。どうしても駄目かな?」

「どのようなご用件であっても、通してはならないとのご命令です」

「……ふーん」

 気のない返事をしながら、ルーフェンが、不意に指先を鉄門に向け、動かす。
すると、重々しい金属音が響いて、門衛たちは目を剥いた。
鉄門のじょうが、勝手に開いたのだ。

 ルーフェンは、淡々と続けた。

「命令に忠実なのは結構だけど、楯突く相手は考えたほうが良い。君達も、事を荒立てたくはないだろう。通してもらうよ」

 身構えた門衛たちが、焦った顔つきで、ルーフェンを凝視する。
攻撃してくるかとも思ったが、流石に召喚師と揉めるのは、得策ではないと考えたのだろう。
ややあって、構えを解くと、門衛の一人が返した。

「……カーライル公は、先のセントランスによる襲撃で、お怪我をされました。現状、まだ回復には至っておりません。お通ししたとしても、謁見できるような状態ではないのです」

 門衛たちはそう言って、鉄門の前から動こうとしない。
ルーフェンは、わずかに口調を強めた。

「意識は戻ったと聞いてる。公の容態を配慮したいところではあるけど、こちらも急ぎなんだ。謁見という形でなくても、話せる場があればそれで構わない」

「ですから、意識はあっても、話せる状況ではないと申し上げているのです!」

 ルーフェンの言葉に被せるように、門衛が声を荒らげる。
彼らは、一瞬、感情的になったことを後悔した様子で、ルーフェンの顔色を伺ったが、それでも尚、この場を譲る気はないのだろう。
ルーフェンは、頑なな門衛たちの表情を黙って見つめていたが、やがて、ふっと笑みをこぼすと、唇を開いた。

「……なるほど。公は話すことすら出来ない状況……ということは、今この城の実権を握っているのは、旧王家じゃない。君達は、別の誰かの命令で動いているわけだ」

「──……!」

 門衛たちが、はっと息を飲む。
凍りついた二人に、ルーフェンは一歩、近づいた。

「教えてもらおうか。旧王家に代わり、今、君達イシュカル教徒の上に立っているのは、一体誰だ?」

「…………」

 わざと煽るような言い方をすると、途端に、門衛たちの顔つきが変わる。
彼らの目に、分かりやすく怒りと侮蔑の色が浮かぶと、ルーフェンは、内心ほくそ笑んだ。
教会が発足したという彼らは、騎士団を名乗ってはいるが、要は、武装したイシュカル教徒の集団である。
そもそもが、召喚師一族からの支配を忌み嫌う連中なのだから、彼らを扇動することなど、当の本人ルーフェンにとっては、容易いことであった。

 門衛たちが、ぐっと槍を握り直した──その時だった。
不意に、鉄門が引き開けられたかと思うと、奥から、官服を身に纏った小太りの男が現れた。

 数名の護衛騎士を携えたその男は、門衛たちを見遣ると、歪に口元を歪めた。

「どうにも騒がしいと思えば……お前たち、一体なにをしておるのだ」

 男の問いかけに、門衛たちが姿勢を正す。
胸元に拳を当て、敬礼をすると、門衛の一人が答えた。

「──は。申し訳ございません、大司祭様。それが……その、召喚師様が、お越しでして……」

(大司祭……?)

 眉を寄せたルーフェンに一瞥をくれて、門衛たちが言い淀む。
大司祭と呼ばれた男は、ルーフェンに視線を移すと、憎々しげに笑んだ。

「ほう……これはこれは、召喚師様ではございませんか。お久しゅうございます。覚えていらっしゃいますか? 私、以前は王宮にて事務次官を勤めておりました、モルティス・リラードと申します」

「…………」

 丁寧な口調とは裏腹に、頭を下げることもせず、モルティスは挨拶を終える。
事務次官、と聞いて、ルーフェンの脳裏に、微かな記憶が蘇った。
当時、ほとんど関わりはなかったが、モルティス・リラードと言えば、政務次官ガラド・アシュリーと並び、文官を取りまとめていた内の一人であった。

 ルーフェンは、訝しむように眉をあげた。

「……リラード卿、ええ、覚えていますよ。まさか、貴方が教会の関係者だったとは、知りませんでしたけどね。今は、大司祭などと呼ばれているんですか?」

 皮肉るような眼差しを向ければ、モルティスは、露骨に顔をしかめる。
嫌悪感を隠そうともせずに、ルーフェンに背を向けると、モルティスは、門衛二人に道を開けるよう指示した。

「立ち話もなんでしょう。我が騎士団の者が、無礼を働いたようで、大変失礼いたしました。歓迎いたしますよ。どうぞ、城の中へ──……」

Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下 ( No.347 )
日時: 2021/01/01 22:36
名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: r1a3B0XH)

 城内で一等大きな客室に入ると、ルーフェンとモルティスは、向かい合って席についた。
まだ日が高い時刻だというのに、隔離されたように閉めきった客室は、不気味なほど粛然としている。
薄暗い視界の中で、横長の卓に設置された燭台だけが光っており、周囲に並ぶ金銀の調度類が、きらきらとその灯りを反射していた。

 飲物を運んできた侍女を下がらせると、モルティスは、卓の上に二つ、杯を並べて、黒々とした酒を注いだ。
つぎ終わると、銘柄の書かれていない酒瓶を置き、モルティスは、一方の杯を手渡してくる。
ルーフェンは、モルティスが自分の分を一杯、あおるのを確認してから、舌に触れるか触れないかの僅かな量を、口の中に含んで見せた。

「……いかがですかな。これは、黒糖と香草を混ぜた、秘蔵の混成酒なのですが」

「…………」

 一度杯を卓に置くと、モルティスが尋ねてくる。
粘つくような甘味と、微かな苦味を舌の上で転がしながら、ルーフェンは微笑んだ。

「甘すぎるので、私はあまり好きではないですね」

「……おや、それは失敬。残念です」

 モルティスが、わざとらしい口調で答える。
ルーフェンは、ふ、と鼻を鳴らすと、椅子に深く座り直した。

「で、ここまで通して下さったということは、カーライル公には取り次いで頂けるんでしょうね?」

 銀の目を細めて、ルーフェンが問う。
モルティスは、もう一杯酒を呷ると、少し間を置いてから返した。

「先程、本日の公のご容態を宮廷医師に確認するよう、侍女に申し付けました。しかしながら、最近のご様子から拝察するに、やはり謁見は難しいでしょう。僭越ながら、このモルティスめがご用件をお伺いしたく存じますが、いかがでしょうか」

「……へえ、貴方が?」

 嘲笑的に言えば、モルティスの頬の肉が、ぴくりと引きつる。
ルーフェンは、あえて挑発的な声で続けた。

「失礼ですが、リラード卿。貴方は今、シュベルテではどのようなお立場なのですか? この客室に来るまでの間、城内には、魔導師を一人も見かけませんでした。配備されているのは、貴方を大司祭だと崇める兵ばかり。魔導師団と世俗騎士団に代わり、新たに騎士修道会(新興騎士団)なるものが発足していることも、つい先日知りました。私の見ていないところで、随分と勝手に物事が進んでいるようですね。魔導師団を統括している身としては、こうもないがしろにされると、流石に傷つくのですが……一体どういうおつもりなのでしょうか?」

「…………」

 ちらりと視線を投げ掛けると、モルティスの表情が曇る。
しばらくの間、モルティスは黙っていたが、やがて、怒りを抑えるように息を吐くと、すっと頭を下げた。

「出過ぎた発言をいたしました。大変申し訳ございません。ですが、どうか誤解はされませぬよう。我々イシュカル教会は、あくまでシュベルテのため……いえ、サーフェリアのためを想い、動いているのです」

 顔を上げると、モルティスはルーフェンを見つめた。

「ご存知かとは思いますが、先のセントランスによる襲撃で、シュベルテは崩落寸前まで追い詰められました。死者、負傷者共に多数、今までこの国の根幹を支えていたアシュリー卿やイージウス卿、ストンフリー卿までもが亡くなり、魔導師団も世俗騎士団も、存続不能な状況に陥ってしまいました。ですから、我々教会の人間が、新たにシュベルテの体制を編成しております。今まで城に仕えていた魔導師たちがいないのは、そのためです」

 束の間、二人は見つめあったまま、互いの瞳の奥を探っていた。
だが、唇で弧を描くと、沈黙を破ったのはルーフェンであった。

「……なるほど。確かに、魔導師団と騎士団に代わり、負傷者の救護に当たって下さったのは、イシュカル教会だったと聞いています。我々アーベリトが、セントランスの宣戦布告に対し、迅速に対応できたのも、貴殿方がシュベルテを支えてくれていたおかげでしょう。勝手を責める前に、まず礼を言うべきでした。ありがとうございます」

 打って変わって、穏やかな声で言うと、ルーフェンはモルティスに手を差し出した。

「どうでしょう。これを機に、仲直りしませんか? 昔から、イシュカル教会は召喚師一族の台頭を良く思っておらず、また私達も、そんな貴殿方の意向を一方的に握り潰してきました。ですが、サーフェリアの安寧を願っている、という点では、我々の目指すべきところは同じです。争うのはやめて、共に国のために尽力しようではありませんか」

「…………」

 モルティスは、表情を変えずに、じっとルーフェンの掌を見ていた。
しかし、その手を取ることはしない。
不意に、一気に残った酒を喉に流し込むと、モルティスは、力任せに杯を卓に戻した。

Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下 ( No.348 )
日時: 2021/01/01 22:40
名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: r1a3B0XH)


「……目指すべきところが同じ? 国のため? ふざけるのも大概にして頂きたい。真に国を想っているなら、今すぐ血族ごと消え失せろ。この邪悪な異端者めが……!」

 抑えていたものが溢れたのか、唐突に、モルティスの形相が歪んでいく。
ルーフェンは、少し驚いたように目を見開いてから、くすくすと笑った。

「つれないですね、そこは嘘でもいいから、手を握っておけばいいのに。貴殿方は、どうにも敬虔けいけんすぎていけない」
 
「黙れ、その軽々しい口を閉じろ!」

 憎々しい光を目に宿して、モルティスは、ルーフェンを睨み付ける。
ルーフェンは、差し出していた手を下ろした。

「ま、そう怒らないで下さい。安心しましたよ、本音が聞けて。貴殿方が召喚師一族を忌み嫌っていることは、当然分かっています。ただ、あれだけ王家に牙を剥いていたはずの教会が、現政権を乗っとるような形で城に居座っていたものですから、こちらとしても戸惑ったんです。……ついでに、色々と教えてもらえませんかね。貴殿方は、シュベルテをどうするつもりなんです?」

 モルティスの腫れぼったい目が、鋭く細まる。
気分を落ち着かせるように、何度か呼吸を整えると、モルティスは、低い声で答えた。

「先程申し上げた通りですよ。我々イシュカル教会は、この国のため、シュベルテの体制を一新します。理解の悪い魔導師や騎士共は一掃し、我らが女神イシュカルの名の下、清らかな魂と不屈の意思を持って、このサーフェリアを作り替えるのです」

 ルーフェンは、吐息と共に肩をすくめた。

「女神イシュカル、ね……。この国を分断し、四種族を隔絶させたとかいう、古の神様でしたっけ?」

 モルティスは、食い気味に返事をした。

「ええ、その通りです。イシュカル神は、人間と他種族との関わりを断つことで、サーフェリアの地に蔓延はびこる穢れを払い、我々を守って下さった。異端の力をひけらかし、人々を恐怖で支配する召喚師一族とは、対極に位置する清浄なる神です」

「清浄なる神、ですか……。そりゃあ、随分とご立派なことで」

 言いながら、胸元の女神像を握ったモルティスに、ルーフェンが冷笑する。
不愉快そうに顔をしかめると、モルティスは尋ねた。

「何がおかしいのです?」

「……いや、申し訳ない。これが、清らかで不屈なはずのイシュカル教徒のやり方なのだと思ったら、どうにもおかしくて……」

 モルティスが、眉間に皺を寄せる。
そんな彼の怒りを煽るように、ルーフェンは、客室の各所に視線を巡らせた。

「廊下に三人、天井裏に二人……隣部屋にも、何人かいますね。入城を許したのは、私を殺すためですか?」

 モルティスの顔つきが、一層険しくなる。
ルーフェンは、笑みを深めた。

「一つ忠告しておくと、貴方の駒が私を殺すよりも、私が貴方を殺す方が速いと思いますよ。この距離ならね。……ああ、それとも、そろそろ酒に混ぜた毒が、効き始める予定でしたか?」

 残念、飲んでないんです、と付け加えて、ルーフェンが舌先を出す。
モルティスは、苦虫を噛み潰したような顔で、しばらく黙っていたが、やがて、ふんと鼻を鳴らすと、開き直った様子で背もたれに寄りかかった。

「毒は、毒を以て制するべきだということです。しかし、ご安心を。周囲に控えている兵たちは、あくまで私の護衛です。今、この場で貴方様を殺そうなどと、恐れ多い考えはしておりません。我々イシュカル教会は、神聖なサーフェリア城の御座みざを血で汚すような真似はいたしませぬ。……貴方様が、我々に従って下さる限りは」

 モルティスの口調に、凄むような響きが混ざる。
ルーフェンは、呆れたように返した。

「今、この場では、ね。要は、邪魔せず引っ込んでいろ……ということですね?」

 モルティスは、その問いには答えず、間接的な肯定をした。

「勿論、このような脅し文句が、貴方様に通用するとは思っておりません。召喚師一族の力とやらを、間近で拝見したことはありませんが、それは神にも等しい絶大なものだと聞きます。おそらく、我々が何人の刺客を放とうとも、その力の前では、今までのように蹴散らされて終わってしまうのでしょう。……ですが、いくら我々教会の人間を殺そうとも、根本的な解決が成されないのは、貴方様も同じことです」

「……つまり?」

「今や、教会の考えが民意である、ということですよ」

 モルティスの口元が、不敵に歪む。
笑みを消したルーフェンに、モルティスは続けた。

Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下 ( No.349 )
日時: 2021/01/02 19:26
名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: r1a3B0XH)



「召喚師一族は、その圧倒的な力で、幾度もイシュカル教徒を迫害し、殺戮してきました。その姿に恐怖し、嫌悪を抱いてきたのは、我ら教会の人間だけではないのですよ。加えてルーフェン様、貴方はリオット族などという逆賊に入れ込み、かつての騒擾そうじょうの再来を危惧きぐした民を蔑ろにして、彼らを王都に率いれた。正統なカーライル王家の系譜に、愚かにも参入したレーシアス王に加担し、遷都を強行して、シュベルテを見捨てたのも貴方様です。結果、民もまた、貴方様を見放しました。セントランスの件も、開戦前に退けて見せたルーフェン様に対し、英雄視するどころか、疑念を抱く者が多い始末。このシュベルテを貶めたのが、他でもない“召喚術”だったというのですから、仕方のない結果とも言えますがね。……対立する教会と召喚師一族、民意がどちらに傾いているかは、もうお分かりでしょう」

「…………」

 ルーフェンの瞳に、殺気立った色がよぎる。
モルティスを真っ直ぐに見ると、ルーフェンは、鋭い声で言った。

「……教会の高潔な言い分は、よく分かりました。しかし、どうにも解せませんね。生まれつきの異質さや血統に固執した、貴殿方の排他的な考えには賛同しかねます。現状、反召喚師派の流れを作り出したのは、他でもない教会でしょう? 仕方のない結果、というよりは、露骨な印象操作による結果としか思えません。清らかな魂と不屈の意思を以て……でしたっけ? 随分ときな臭い清浄さをお持ちで」

 モルティスは、嘲笑を浮かべた。

「何故そう否定なさるのです? お言葉ですが、我々の描く未来は、召喚師様ご本人の望みにも近いことだと思いますが」

 ルーフェンが、意味を問うように目を細める
モルティスは、確信めいた口調で尋ねた。

「召喚師一族の在り方に、誰よりも辟易へきえきしているのは、召喚師様ご自身なのではありませんか? だからこそ七年前、ルーフェン様は、アーベリトに移ったものだと思っておりましたが。……少なくとも、シルヴィア様には、我々教会の総意をご理解頂けましたよ」

 ルーフェンが、訝しげに眉を寄せる。
表情にこそ出さなかったが、このモルティスの発言には、動揺せざるを得なかった。
かつて、他でもないルーフェン自身が、召喚師への就任を拒否していたことは、当時、近しかった者しか知るはずのないことであったからだ。

 幼少期、シュベルテの王宮で暮らしていた頃に、モルティスとは口をきいた覚えすらない。
だが、昔のルーフェンの様子を知っているということは、彼は、当時からイシュカル教会に属する人間だったのだろう。
事務次官として身を潜めながら、召喚師一族を廃するその時を、ずっと待っていたのだ。

 イシュカル教会は元々、世間からも、狂信的な集団だという認識しかされていなかった。
しかし、それが今、着実に勢力を伸ばし、召喚師一族に牙を剥いている。
魔導師団や世俗騎士団の失墜しっついを見逃さず、ようやく訪れたこの瞬間に食らいつき、この場で、ルーフェンと対峙たいじしているのだ。

 黙り込んだルーフェンに、モルティスは畳み掛けた。

「武力で押さえつける独裁的な世は、もう時代遅れなのです、ルーフェン様。アーベリトのぬるい思想に染まった貴方様なら、お分かり頂けるのではありませんか? 召喚師一族は、絶対的な守護者などではない。人ならざる力を手にした、邪悪で異端な存在です。そのような人殺しの一族を上に立たせ、血で血を洗うような一方的な恐怖政治を続ければ、いずれこの国は、滅びることになるでしょう。我々人間は、同じように天を仰ぎ、祈りを捧げ、自らの力でこの国の平和を守っていくべきなのです」

「…………」

 モルティスの主張を聞いている間、ルーフェンは、一度も彼から目をそらさなかった。
話が終わった後も、長い間、黙ってモルティスを見ていたが、ややあって、静かな声で言った。

「召喚師一族が、守護者なんて言葉で片付けられるような、潔白な存在でないことは確かです。そんな私たちに傾倒する風潮を、間違っていると批難したくなるお気持ちも分かりますよ。痛いほどにね。……ですが、そこまで見損なわれていたとは心外です。私達が、いつ恐怖政治をしたというのです? 祈るだけで国の平和が保てるというのなら、とっくに召喚師一族は滅んでいるでしょう。私達は、上に立っているのではなく、いつだって“利用される側”だ。貴殿方が、今まで私達を生かしてきたのです。いつの世も、平穏の裏側には、召喚師一族のような存在が必要だから」

 いつの間にか、ルーフェンの声には、積み重なった怒りが混じっていた。
それは、モルティスに対する怒りというよりは、“守護者”という椅子に無理矢理座らせておきながら、今更になって“異端の独裁者”呼ばわりしてくる、シュベルテの民に対するものであった。

 冷静であらねばと思うのに、抑えきれない苛立ちが、思考を支配していく。
言葉がうまく出てこないのは、モルティスの横で、幼い自分が、こちらを指差して人殺しだと罵っていたからであった。

Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下 ( No.350 )
日時: 2021/01/03 19:22
名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: r1a3B0XH)




 モルティスは、冷ややかな口調で返した。

「現在に至るまでの過程や手段など、どうでも良いことなのですよ。ルーフェン様、貴殿がアーベリトに移っていた間に、シュベルテは変わりました。今のサーフェリアにとって、召喚師一族は、災いでしかありませぬ」

 言い終えてから、立ち上がると、モルティスは続けた。

「……最後にもう一度、お伺いしましょう。本日のご用件、このモルティスめにお聞かせください」

「…………」

 ルーフェンは、モルティスの方に視線を上げた。
何も言わず、黙ってモルティスを見つめていたが、やがて、口端を上げ、強気な笑みを浮かべると、吐き捨てるように言った。

「思惑通りに事が運んだからと言って、何か勘違いをしていらっしゃるようですね、リラード卿。貴方に話すことは、何もありませんよ」

 モルティスが、歯を食い縛ったのが分かった。
青筋を浮かべ、その肉厚な手を上げようとすると、周囲で静観していた複数人の気配が、ざわりと蠢く。

 途端に高まる泡立った空気に、ルーフェンが身構えた──その時であった。
不意に、扉が叩かれて、女の声が響いてきた。

「失礼いたします、大司祭様。ご準備が整いました」

「……今行く」

 興を削がれた様子で返事をして、モルティスは、扉の方へと歩いていく。
扉を開けると、外に控えていたのは、薄手の軽装鎧を纏った女騎士であった。
兜を被っているため、顔は見えないが、彼女もイシュカル教徒の一人なのだろう。
胸元には、イシュカル神が描かれた記章をつけていた。

 モルティスは、忌々しそうにルーフェンを睨むと、女騎士に耳打ちをした。

「召喚師様は、アーベリトからの長旅でお疲れだ。お休みの間、不遜な輩が入らぬように守れ」

「承知いたしました」

 女騎士が恭しく礼をすると、モルティスは、そのまま客室を出ていってしまう。
同時に、殺気立っていた気配も消えて、ルーフェンは、練り上げていた魔力を収めた。
辺りに潜んでいた者達は、モルティスと共に、移動したのだろう。
部屋にはルーフェンと、背の高い女騎士だけが残されていた。

 監禁されたも同然の状況に、小さく嘆息して、ルーフェンが椅子から立ち上がると、女騎士が、無遠慮にも近づいてきた。

「……ふぅん、貴方が噂の召喚師様ね」

 品定めするようにルーフェンを見て、女騎士は呟く。
先程までの、事務的な態度とは一転。
妙に馴れ馴れしく距離を詰めてきた女に、ルーフェンは眉を上げた。

「良い噂だといいんだけどね。……君は?」

 尋ねると、女騎士は一歩後ろに下がって、ゆっくりと兜を外した。
すると、持ち上がっていくしころの下から、鮮やかな蒼髪が広がり出てくる。
女は、長い髪をぱさりと掻き上げると、兜を小脇に抱えた。

「初めまして、召喚師様。私はアレクシア・フィオール。覚えておいてちょうだいね」

 そう言って、アレクシアは、艶気つやけのある笑みを浮かべる。
見たこともない、異質で派手な見た目の女に、ルーフェンは瞬いた。

「忘れようと思っても、忘れられなさそうだね。蒼い髪と目なんて、初めて見たよ」

 アレクシアは、わざとらしく首を振った。

「いまいちの反応ね。もうちょっと気の利いた台詞が言えないわけ?」

「……ああ、失礼。忘れられないくらい、綺麗な髪と瞳だねって言うべきだったかな?」

「取って付けたように言ったって駄目よ。どちらにせよ減点だわ」

 あしらうように言って、アレクシアはそっぽを向く。
ルーフェンは、微苦笑を浮かべてから、彼女に向き直った。

Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下 ( No.351 )
日時: 2021/01/04 19:21
名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: r1a3B0XH)




「それで、アレクシアちゃん? 俺に何か用でも?」

「…………」

 横目にルーフェンを見たアレクシアが、一瞬、その蒼色の睫毛を伏せる。
再び近づいてくると、アレクシアは、ルーフェンの耳元で囁いた。

「カーライル公は、王の寝室にいるわ。療養中には違いないけれど、意識ははっきりしている。教会側の主張は嘘よ」

 ルーフェンは、目に鋭い光を浮かべた。

「じゃあ、俺が今から、教会の目を掻い潜ってカーライル公に会いに行く……と言ったら?」

「止めはしないわ。でも、おすすめもしない。公の周辺には、新興騎士団の連中が厳重な警備を敷いている。私達だけではなく、公も身動きが取れない状態なのよ。行くなら、強行突破しか手はないし、仮にカーライル公に会えても、ゆっくり話す時間はないでしょうね」

 試すような口ぶりで、アレクシアが言い募る。
ルーフェンは、話を続けようとしたアレクシアの前に人差し指を出すと、彼女の言葉を制した。

「随分と内情に詳しいみたいだね、君は。先が気になるところだけど、その前に、どうして俺にそんな話をするのか、理由を聞いても?」

 アレクシアは、束の間口を閉じると、ルーフェンの人差し指を、手の甲で払った。
そして、更にもう一歩近づき、密着するようにルーフェンの肩に手を添えると、声を潜めて言った。

「……ふざけた教会の連中から、この城を奪還したいの。貴方の力を借りたいわ。カーライル公への謁見は一旦諦めて、この後、私が指示した場所に行ってくれない?」

 媚びるような、甘ったるい声で言いながら、アレクシアは、ちらりと上目にルーフェンを見る。
ルーフェンは、アレクシアの蒼い瞳を、探るように覗き込んだ。

「その口振りからして、君は教会の人間ではないみたいだね。……でも、すんなりそうだと信じるには、情報が少なすぎるかな」

 にっこりと微笑んで、首に回ったアレクシアの手を、そっと外す。
アレクシアは、途端につまらなさそうな顔になると、ルーフェンから離れた。

「あら、そう。意外に疑り深いのね。だったら、こうすれば信じてくれる?」

 言うなり、アレクシアは、首にかかっていた小さな女神像を、革紐ごと引きちぎった。
勢いよくそれを落とし、とどめとばかりに踏みつけて、ぐりぐりと床に擦り付ける。
足元で粉々になった女神像を見せると、アレクシアは、はっきりと言った。

「生憎私は、神なんて信じてないの。そんな形のないものにすがって、実際に助かった人間がいるのなら、是非会ってみたいものね。……これでどうかしら?」

 高飛車な物言いをしたアレクシアに、ルーフェンが、ぷっと吹き出す。
一頻ひとしきり、くつくつと笑ってから、ルーフェンは肩をすくめた。

「十分だよ。差し詰め君は、教徒のふりをして新興騎士団に紛れ込んだ魔導師……ってところかな。他にも何人かいるんだろう、城を追われた魔導師たちが」

 あっさりと答えたルーフェンに、アレクシアは、細い眉を歪めた。

「いくらなんでも理解が速すぎるわね。貴方、私の正体に気づいていたんじゃない?」

 ルーフェンは、綽々しゃくしゃくと返した。

「最初から気づいていたわけではないよ。ただ、蒼髪の魔導師については聞いたことがあったんだ」

「…………」

 アレクシアが、冷ややかな眼差しをルーフェンに向ける。
それでも態度を変えないルーフェンに、アレクシアはため息をつくと、懐から、地図の覚書を取り出した。

「これ以上の無駄口を叩いて、私の失言を煽ろうたって、そうはいかないわよ。茶番に付き合わせたんだから、貴方もこちらに付き合いなさい」

 言いながら、覚書を握らせる。
ルーフェンが、手中に視線をやって、先を促すと、アレクシアは小声で続けた。

「貴方一人で、この場所に行って。……ここに、生き残った魔導師たちがいるわ」

「……君は?」

「私は、城内で見た教会の動きを、逐一報告するのが役目だもの。今も、モルティスが兵をかき集めて、何かしようとしている。この城を離れることはできないわ」

 アレクシアの瞳に、仄蒼い、不気味な光が灯る。
その光を見ながら、ルーフェンは、彼女の心中を推し量るように問うた。

「……いいの? そんなことまでバラして。見た感じ、現状優勢なのは教会側だ。俺が魔導師団を見捨てて、今聞いたことを全て教会に売ったら、君達はただじゃ済まないだろう」

 意地の悪い質問に、アレクシアが鼻を鳴らす。

「そうね。そうなったら、私達おしまいだわ。全員まとめて、仲良く処刑台送りになるでしょう」

 存外に潔い返し方をされて、ルーフェンはふっと笑った。
しかし、悠々として見えるアレクシアの表情に、一瞬、緊張の色が走ったのを、ルーフェンは見逃さなかった。
彼女たちにも、後はないのだろう。
裏切りの可能性も視野に入れた上で、召喚師に頼る他なかったのだ。

 ルーフェンは、覚書にざっと目を通すと、掌に魔力を込めて、すかさず燃やした。
赤らんで、みるみる縮んだ覚書が、やがて灰になる。
顔をしかめたアレクシアが、何かを言う前に、ルーフェンは口を開いた。

「安心して、物証ぶっしょうは残さない方が良いと思っただけだよ。場所はもう覚えた。君達に協力しよう。立場的にも、俺は魔導師団を建て直さなくちゃいけない」

 ルーフェンは、真剣な顔つきになった。

「上手く行くかは賭けだけど、俺はしばらく、この客室で大人しくしている“てい”のほうが良いだろう。君は扉の前で、リラード卿に言われた通り警備についていた……それでいい。もし、俺の不在を気づかれそうになったら、逃走経路を窓ということにして、開け放っておいて。あるいは、他に良い隠蔽策があるなら、君に任せるよ。出来るね?」

 顔をあげたアレクシアが、目を大きく見開く。
何かを見通すように、蒼い瞳をルーフェンに向けていたアレクシアは、やがて、その唇で弧を描くと、頷いたのであった。

Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下【1月完結予定】 ( No.352 )
日時: 2021/01/05 19:12
名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: r1a3B0XH)



  *  *  *


 サーフェリアの旧王都、シュベルテは、宮殿を頂点に扇状に広がっている街である。
今回、セントランスから襲撃を受けたのは、大通り沿いに家々が立ち並ぶ城下街──王宮周辺を含んだ中央区から北区にかけてであるが、その実、シュベルテの人口の半数以上が集中するのは、大規模な市場が展開される南区であった。

 強固な外郭にぐるりと覆われた南区には、地元の商人だけでなく、各地の行商人が入れ替わり立ち代わりで露店を開いており、物流のかなめである港湾都市ハーフェルンには劣るものの、そこらの宿場町と同等か、それ以上の賑わいを見せていた。
少し外れに入ると、貧民街に通じるので、決して治安が良いとは言えない場所であったが、一方で、王宮の目が届きづらい場所とも言える。
城から追われた魔導師たちの残党が、旧王都内で身を隠すには、うってつけの区画であった。

 ルーフェンが南区に踏み入ると、まず目の前に広がっているのは、野菜や果物、穀類や肉類を扱う市場であった。
露店の前では、盛んな呼び込みが行われ、点在する屋台からは、深鍋でぱちぱちと爆ぜる油の音が鳴り響いている。
しかし、食品市場を抜け、香ばしい香りが届かなくなる裏通りに出ると、そこは、まるで別世界に出たのではないかと思うほど、静かな空気に包まれていた。

 静かと言っても、閑散としているわけではなく、道にはいくつもの露台が並び、毛皮や衣服、装飾品などが売られている。
こうした服飾類を扱う店は、城下にも多く存在するが、南区の通りがこうも粛然しゅくぜんとしているのは、商人たちが、積極的に声をかけることはせず、客を選んでいるからだろう。
露台にかけられた布一枚、店の奥に立てられた衝立ついたて一枚を暴けば、おそらくそこには、非合法に仕入れられた武具や酒、薬品類が置かれている。
ここは、いわゆる闇市であった。

 素性がばれぬよう、頭巾を深く被ると、ルーフェンは、通りの一角に建つ、小さな木造の建物に足を踏み入れた。
かつては酒場か何かだったのか、蜘蛛の巣で真っ白になった壁棚には、酒瓶がびっしりと並べられている。
しかし、あとは床に埃を被った卓や椅子、廃材が積み重なっているのみで、外見からも営業している様子はなかったが、中に入れば、それは一目瞭然であった。

 開けた正面扉が、音を立てて閉まると、木製の卓を囲んで、息を潜めるように話していた数人の男達が、一斉にこちらを見た。
男達は、薄汚い外套を纏っていたが、流暢りょうちょうではきはきとした話し方からして、労働者階級の者ではないだろう。
彼らは、ルーフェンが探していた、城を追われた魔導師たちであった。

 魔導師たちは、警戒した様子で腰を浮かせたが、ルーフェンが頭巾をとると、目を剥いて凍りついた。
唯一、微動だにしなかった黒髪の魔導師も、少なからず驚いた様子で、ルーフェンを見上げている。

 ルーフェンは、こつこつと靴底を鳴らして、男たちに近づいていった。

「久しぶり、ジークくん。俺がシュベルテにいた時以来だね」

 そう言って、にこりと微笑めば、魔導師たちが、ルーフェンとジークハルトを交互に見る。
ジークハルトは、元々眉間に寄っていた皺を、更に深くすると、唸るように返した。

「お前、なんでここにいるんだ」

「なんでって……聞いてない? アレクシアちゃんに、ここに行くよう頼まれたんだけど。ほら、蒼い髪の女の子」

「……聞いてない」

 少し間を置いてから、ぴきりも青筋を立てたジークハルトに、他の魔導師たちも、ひくっと口元を引きつらせる。
どうやら、ルーフェンに声をかけたのは、アレクシアの完全なる独断だったようだ。
ルーフェンが王宮に来ていたことなど、魔導師たちは知る由もないので、たまたま宮殿にいたアレクシアが咄嗟の判断を下したのも、仕方のないことだったのかもしれない。
だが、彼らの反応から察するに、アレクシアの勝手は、日常的なもののようであった。

 なんとなく彼らの力関係が想像できて、ルーフェンが一笑する。
しかし、すぐに笑みを消すと、ルーフェンは真面目な顔つきになった。

「まあ、俺的には、現状が聞けて良かったけどね。……この一月ひとつきくらいで、一体何があったの? セントランスの襲撃があった直後は、君たち魔導師が、城から締め出しを食らってることなんてなかったはずだ。教会の勢力が増してることは聞いていたけれど、まさか城を占拠してるなんて思わないだろう」

 言いながら、ルーフェンは、魔導師が勧めてきた椅子に座る。
向かい側に座っていたジークハルトは、苛々した顔で嘆息した。

「何があったのかなんて、そんなの、俺達が知りたいくらいだ。そもそも俺達は、襲撃時に負傷した奴がほとんどで、しばらく仮設の施療院に放り込まれていたんだ。で、ようやく立って歩けるようになったと思った頃に、城を訪ねたらこの有り様だ。魔導師団や世俗騎士団は解体されたことになっているし、カーライル公に謁見しようとしても、教会所属の騎士に拒まれる。何人か武力行使に出た奴もいたが、捕らえられて地下牢行き、悪けりゃさらし首だ。襲撃後の復興を行ったという理由で、街の奴らは新興騎士団を英雄扱いしてやがるし、この現状に耐えかねて、教会側に寝返った魔導師や騎士も多くいる。アレクシアには、そういう奴らに紛れて、城に残るよう指示したんだ」

 そう語ったジークハルトの表情には、色濃い疲れが滲んでいた。
今のジークハルトは、ルーフェンが記憶していた十四の頃よりも、ずっと背丈が伸び、大人びた顔つきをしていたが、それでも、当時よりやつれて、くすんだ瞳をしているように見える。
他の魔導師たちも、心身共に相当疲弊しているのだろう。
傷も治り切らぬ内に、城を追われ、浮浪者のような生活を強いられていたのかもしれない。
皆一様に俯き、生気のない顔をしていた。

Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下【1月完結予定】 ( No.353 )
日時: 2021/01/06 19:24
名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: r1a3B0XH)



 魔導師の一人が、悔しげに唇を噛んだ。

「くそっ、教会の奴ら、一体どういうつもりなんだ。確かに、街を復興させたのは新興騎士団ですが、セントランスの化物と直接戦って、退けたのは俺達なんです! それを、まるで惨敗した役立たずみたいな扱いをしやがって……」

「そうです! イシュカル教徒が出張ってきたのは、戦いが全て終わった後だったんですよ。そのくせ、シュベルテを救った英雄みたいな顔して、街を闊歩かっぽして」

「あいつら、俺達に嫌がらせをしているつもりなんでしょう。俺達魔導師団は、教会が調子付かないように、活動規制の強化や、団からの離反者を処分対象として扱ってきましたから。きっと、それを根に持って……」

 ルーフェンに対して、魔導師たちが、口々に訴えかけてくる。
その一言一言に耳を傾けながら、ルーフェンは、考え込むように顎に手を添えた。

「……想像以上に、事態は深刻だね。前々から思っていたけれど、セントランスの襲撃とイシュカル教会の台頭、この二つのタイミングが、どうにも良すぎるんだ。今のところ、両者に関係があったと考えられる証拠は何もないけど、教会勢力が看過かんかできないほどに勃興ぼっこうしたのは、今回の襲撃がきっかけだ。偶然という言葉で片付けるには、教会の都合が良いように出来すぎている」

 ジークハルトは、同調して頷いた。

「ああ、俺も、セントランスの思惑とは別で、今回の襲撃には、教会が一枚噛んでいると思っている。祭典中に宮殿が襲われた時も、魔導師団の腕章をつけた魔導師を一人、見かけたからな。腕章だけでははっきりと判断がつかんが、おそらくそいつは、教会の手の者なんだろう」

 魔導師が、躊躇いがちに発言した。

「しかし、バーンズ卿がお見かけしたというその魔導師は、セントランスの人間である可能性も高いのではありませんか? あえて偽の腕章をつけ、素性を偽って内部に侵入したのです」

 魔導師の言葉に、ルーフェンが首を振る。

「いや、それは考えづらいだろう。素性を隠して襲撃を行うことが目的だったのなら、後に堂々とセントランスが名前を明かして、宣戦布告してきた説明がつかない。シュベルテを落とす目的で、襲撃を実行したのはセントランスだけど、やはりその水面下で、第三者──つまり教会が関わっていたと推測するのが妥当だね」

 ルーフェンは、静かな声で言い募った。

「教会は、この短期間で街の復興に着手し、民意を勝ち取って、宮殿を占拠するまでに至った。こんなこと、たまたま起きたセントランスによる襲撃を利用して、突発的に動いただけでは成し得ないだろう。こうなることを予見していた、もしくは実際にセントランスに加担して、時間をかけて計画立てていた人間がいるはずだ。……それがおそらく、事務次官、もといイシュカル教会大司祭、モルティス・リラード卿」

「…………」

 室内に、重たい沈黙が降りる。
ジークハルトが何も言わないことを確認すると、魔導師の一人が、すがるようにルーフェンを見た。

「あの、召喚師様……。召喚師様のお力で、なんとか教会を抑え込むことはできないでしょうか。このままでは、城どころか、街を追われてしまいます。カーライル公もご無事かどうか、確かめるすべがありませんし、もう我々には、召喚師様しかおりません。あんな、神に祈るしか能がない連中に熱を上げるなんて、この街は、襲撃以降おかしくなってしまったんです」

 魔導師の悲痛な訴えに、ルーフェンは、困ったように眉を下げた。

「完全に抑え込むことは、もう無理だろうね。民間にも教会の思想が広まっている以上、相手として母体が大きすぎる。……ジークくん、仮にこちらが討って出るとして、何人集められる?」

「……ここにいない奴らも含めて、せいぜい千だろうな」

「でしょう? そもそも魔導師は数が少ないし、世俗騎士団の人間をかき集めるにしても、内密に連絡を取り合って呼び寄せるのでは、時間がかかりすぎる。それに、今この状態で内戦を起こすのは、絶対に避けた方が良いだろう。俺が介入して無理矢理開城させたとしても、街を戦火に巻き込めば、後々反発を食らうのは俺達だ。少数派がこちらになりつつある以上、頭のリラード卿を討てば良いとか、新興騎士団を解散させれば良いとか、その程度では収まらなくなっている。できて、魔導師団を建て直すところまで、だね」

 魔導師たちの顔から、すーっと血の気が引いていく。
もはや、最後の希望も絶たれ、絶望と後悔に胸中を支配されている様子であった。

 今更誰かの責任を問うつもりはないが、せめて、襲撃が起きる前に教会を止められていたなら、事態は大きく違っていたのだろうと思う。
こうして表沙汰になるまで、サミルもルーフェンも、ここまでイシュカル教会が勢力を拡大させていたなんて全く知らなかったし、そのような報告は、一切受けていなかった。
おそらく、魔導師団内にも様々な思惑があって、アーベリトに助けを求めることはしなかったのだろうが、その判断が、命取りになったとも言える。
今でこそ召喚師にすがってきているが、遷都したことを良く思っていない魔導師は多く、彼らの中には、サミルやルーフェンに頼らずとも解決してみせるという、意地のようなものもあったのだろう。
そういった、旧王都民としての誇りやおごりが、今回の事態を招いたのであった。

Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下【1月完結予定】 ( No.354 )
日時: 2021/01/07 18:36
名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: r1a3B0XH)




 ルーフェンは、落ち着いた口調で続けた。

「黒か白か、みたいな極端な考えは、一度やめよう。こうなった以上、どこかで折り合いをつけて、教会の考えも受け入れていくしかない。元々シュベルテには、イシュカル教会に限らず、利他りたの精神……と言えばいいのかな。まあ、そういう祈祷の文化というか、宗教思想は数多くあるんだ。召喚師一族への信仰だって、それに近いしね。つまり、教会が台頭したことの問題は“そこ”じゃない。問題なのは、その考え一辺倒いっぺんとうに染まることだ」

「しかし、それは……っ」

 一瞬、魔導師の一人が、反論したげに口を挟んだ。
だが、すぐに唇を引き結ぶと、謝罪をして、椅子に座り直す。
おそらく、襲撃に関わった疑いのある教会を受け入れるなんて有り得ないと、そう続けたかったのだろう。
しかし、この場でルーフェンに食ってかかるのは、得策でないと思い直したらしい。

 ルーフェンは、あえてその反論には触れず、そのまま言葉を継いだ。

「……王宮でリラード卿と話したとき、彼は、このシュベルテの体制を一新すると話していた。その体制とやらが、どんなものになるのかは分からないけれど、教会本位のものになることだけは阻止しよう。今からでも魔導師団を建て直して、新興騎士団と対立させる形で、その体制の中に組み込むんだ。教会を叩き出すには遅いけど、その侵攻を食い止めるだけなら、まだ間に合うだろう」

 黙って聞いていたジークハルトは、ルーフェンが口を閉じてから、不意に眉を動かした。
話のどこかに、違和感を感じたのだろう。
ルーフェンに制止をかけると、ジークハルトは口を開いた。

「待て、お前、リラード卿と話したのか? 王宮の外ではなく、中で」

「え? ああ、うん。それがどうかした?」

 質問の意図を図りかねて、ルーフェンが問い返す。
しかし、すぐには答えず、ジークハルトは再び沈黙した。
彼自身も、自分が何に引っ掛かったのか、はっきりとは分かっていない様子である。

 少しの逡巡の末、ジークハルトは首を振った。

「……いや、ただ、少し驚いただけだ。ここ数日、教会は徹底して教徒以外の入城を拒んでいたからな。召喚師であるお前を入れるなんて、気まぐれにしては、妙だと思って」

 そのまま語尾を濁したジークハルトに、ルーフェンも、微かに顔をしかめた。
言われてみれば、確かにそうだ。
今の教会にとって、ルーフェンは、最も懐に入れたくない相手と言えよう。
それなのに、門前で一悶着あったとはいえ、モルティス自身がルーフェンを城に引き入れたのは、少し意外であった。

(俺を殺すこと、動向を探ること……目的があるとしたら、やはりその辺りか)

 考えを巡らせながら、ふっと目を細める。
卓の一点を見つめて、ルーフェンは訥々とつとつと返した。

「……多分、追い返すよりも、城の内部に引き入れて、上手くいけば俺を殺そう、くらいのことを考えていたんだろう。実際、毒を盛られたし、周囲には何人も兵が控えている状態だった。あるいは、俺の動向を探る意味もあったんじゃないかな。俺の目的はカーライル公に会うことだったし、手がかりになるようなことは何も言っていないけど……」

 毒、という単語に、魔導師たちがぎょっと目を丸くする。
ジークハルトも、呆れたようにルーフェンを見ると、深々と嘆息した。

「馬鹿が。それで本当に殺されていたら、どうするつもりだったんだ。こんな時に、護衛もつけずにフラフラと出歩きやがって……相変わらず危機感の薄い奴だな」

 ルーフェンは、肩をすくめた。

「嫌だな、そう簡単には殺されないよ。仕方ないだろう、アーベリトを手薄にするわけにいかないし……どうしても、カーライル公と話さなきゃいけないことがあったんだ」

「話さなきゃいけないこと? なんだ、それは」

 尋ねてきたジークハルトに、一瞬、言葉を詰まらせる。
話さなきゃいけないこと──それは、サミルの死と、その後の統治体制についてだ。
だがそれは、魔導師団の人間が相手だからといって、気軽に明かして良いことではない。

Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下【1月完結予定】 ( No.355 )
日時: 2021/01/09 01:43
名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: r1a3B0XH)


 ルーフェンは、ふっと視線を落とした。

「……言えない。少なくとも、複数人の前では」

「…………」

 ジークハルトが、眉根を寄せる。
ルーフェンは、声も表情も穏やかであったが、その奥に秘められた暗いものを感じ取ると、ジークハルトは、魔導師たちに目を移した。

「悪いが、一度外してくれ」

 ジークハルトが一言、そう告げると、魔導師たちは、少し戸惑ったような表情になったが、ややあって、互いに顔を見合わせると、大人しく席を立った。
特に抗議をすることもなく、ルーフェンとジークハルトに礼をして、そそくさと部屋を出ていく。
ルーフェンは、聞き分けの良い彼らの行動を、少し驚いたように見つめていた。

「彼ら、君の言うことは、随分と素直に聞くんだね」

 思わず呟くと、ジークハルトは、妙な顔になった。

「……別に。まあ、解体後に散り散りになった魔導師たちを集めて、取りまとめたのは俺だからな」

「へえ、だから慕われてるんだ」

「茶化すな。単に、生き残った宮廷魔導師が、俺だけだったというだけだ」

「……そっか」

 どこか望洋とした目で、ルーフェンは、魔導師たちが出ていった扉を見つめる。
ジークハルトも、しばらく扉の方を眺めていたが、やがて、腕を組むと、ルーフェンに向き直った。

「……それで、カーライル公と話さなきゃいけないことってのは、一体なんなんだ。アーベリトで、何かあったのか?」

「…………」

 ルーフェンの視線が、ゆっくりとジークハルトに移る。
束の間、ルーフェンは何も言わなかったが、ふと目を伏せると、ぽつりと言った。

「……サミルさんが、亡くなったんだ」

「……は?」

 思わぬことだったのか、ジークハルトが、今までにない動揺の色を見せる。
わずかに身を乗り出すと、ジークハルトは、声を潜めて問うた。

「まさか……殺されたのか」

 ルーフェンは、首を横に振った。

「いいや、病だよ。……ただのね」

「…………」

 そうか、と答えようとして、ジークハルトは口を閉じた。
一言で済ませるべきではないのだろうと思ったが、何か補足しようにも、言葉が出てこない。
結局無言でいると、ルーフェンは、何かを察したように、目に苦笑を浮かべた。

「……つまりさ、教会とのいさかいがなくたって、この国の体制は変えなくちゃいけないんだ。……王が死んだ。今が、その時なんだろう……」

 不意に、瞳に冷たい光を宿すと、ルーフェンは続けた。

「正直、教会がここまで進出してきたのは予想外だったけど、シュベルテの人々がそれを支持してるって言うなら、俺は、それでも構わないと思う。リラード卿のやり方を正しいとは思わないけど、彼らの言い分を、間違いだと否定する気にもなれなかった。……ここからは、カーライル公と話して決めることになるけど、おそらく公は、まだ幼いシャルシス様を、王座につかせようとはしないはずだ。であれば、シャルシス様が成人するまでの残り数年間は、三街分権さんがいぶんけんに戻した方が良い。シュベルテ、ハーフェルン、アーベリトを独立させて、それぞれに統治権を分散させるんだ。そのほうが、再び王位継承権を争って、無理に王を立てようとするよりも、ずっと丸く収まるだろう」

 ジークハルトは、顔つきを険しくした。

「……俺は反対だ。お前が言っているのは、つまり、今後のシュベルテの統治権は教会の奴らに渡す、ということだろう。そんなことが、あってたまるか。あんな妄信的な連中に、国を渡すわけにはいかない」

 ルーフェンは、ジークハルトをまっすぐに見た。

「だから、そのための魔導師団だろう。さっきも言った通り、教会の侵攻を食い止めるだけなら、まだ間に合う。彼らが新興騎士団として剣を捧げるなら、君達は魔導師団として、国全体を支えれば良い。世が教会の思想に傾かないよう、騎士団と魔導師団の二大勢力で、互いに抑制し合いながら、サーフェリアの基盤を守るんだ」

「……本気で言っているのか?」

 底冷えするような低い声で、ジークハルトが尋ねる。
言葉を止めたルーフェンに、ジークハルトは、ぎりっと歯を食い縛った。
先程、反論しようとしてきた魔導師たちよりも、ずっと激しい怒りを孕んだ、憎しみの表情であった。

Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下【1月完結予定】 ( No.356 )
日時: 2021/01/09 18:56
名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: r1a3B0XH)



 ジークハルトは、ルーフェンを睨んだ。

「……大体、お前はどうするつもりなんだ。教会を上に据えるなら、お前はもう、シュベルテには戻ってこられないだろう」

 ルーフェンは、頷いた。

「ああ。……それで良いと思ってる」

 迷いなく答えたルーフェンに、ジークハルトが目を見張る。
もはや、言葉を失った様子のジークハルトに、ルーフェンは、淡々と告げた。

「言っただろう、どこかで折り合いをつけて、教会の考えも受け入れていくしかないって。反召喚師派である教会の考えを受け入れるって言うのは、つまり、そういうことだ。魔導師団の建て直しが叶ったら、俺はもう、シュベルテには戻らない方が良い。君だって、神だの召喚師一族だのに傾倒して生きていくのは、馬鹿馬鹿しいと思うだろう? そもそも、召喚術なんていう人間離れした力は、世の中にあっちゃいけないんだ。少なくとも俺は、子供の頃から、ずっとそう思ってた。……世間もそういう考えになったっていうんなら、その流れに、わざわざ抗う理由はない」

 寂しげに、けれど、どこか吹っ切れたような顔で、ルーフェンは呟いた。
そんな彼の表情を見ながら、ジークハルトは、不意に言った。

「……お前、死ぬ気か」

「…………」

 ルーフェンは、返事をしなかった。
遠い先の景色を見据えるような、その銀の瞳には、ジークハルトも、誰も映っていなかった。

 ややあって、ルーフェンは、独り言のように答えた。

「……サーフェリアの召喚師は、俺の代で、最後にする」

 ジークハルトが、ぐっと手を握る。
突然、卓を拳で勢い良く叩くと、ジークハルトは叫んだ。

「ふざけるな! それでいいわけないだろう……! お前一人が犠牲になって、それで何になる! 今回の襲撃で、シュベルテでは、何万人も死んだんだぞ。今まで国のために戦ってきた奴らや、何の罪もない奴らが、訳も分からないまま、得体の知れない化物に襲われて、呆気なく死んだ! イシュカル教徒共は、そんな襲撃に乗じて俺達を踏みつけ、私欲を優先して、ほくそ笑んでやがるんだ! そんな連中に座を譲って、お前は、本当にそれで良いと思っているのか……!」

「…………」

 日が傾いてきたのだろう。
薄暗かった室内に、蜜色の西日が射し込んでくる。
卓に打ち付けられたジークハルトの右腕は、ひどい火傷を負ったのか、皮膚が赤らみ、歪に引き攣っていた。

 ルーフェンは、一息置くと、ぽつりと呟いた。

「……君も、変わったな」

 ジークハルトの顔が、激情を噛み殺すように歪む。
ルーフェンは、平坦な口調で続けた。

「それは、一体誰のために言っている言葉なの。自分のため? それとも、国のため? ……少なくとも、七年前の君だったら、教会の台頭を許していただろう」

「……七年前だと?」

 ジークハルトの目に、凶暴な光が浮かぶ。
それでも、気後れすることなく、ルーフェンは返した。

「……七年前、王位継承について揉めていた時、君は、世間がそう望んでいるからという理由で、シルヴィアが次期国王になるべきだと言った。俺は反対した。あんな人殺し……しかも、君の父親の片腕を奪ったような女が、王座について良いわけがない。本当にそれでいいのかって。その時に、君がなんて返してきたのか、覚えてない?」

「…………」

「俺は、国に仕える魔導師だから、私情を優先したりしない。国のために動くって、そう言ったんだよ──」

 言い終わる前に、椅子を蹴り上げたジークハルトが、ルーフェンの胸倉に掴みかかった。
古びた椅子が、床に転がって、激しく音を立てる。
表情を変えないルーフェンを、間近で睨み付けると、ジークハルトは低い声で言った。

Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下【1月完結予定】 ( No.357 )
日時: 2021/01/09 18:59
名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: r1a3B0XH)






「だからなんだ。今の俺が、ガキの頃より感情的で、惨めだって言いたいのか!」

「そうじゃない」

 ルーフェンは、すぐに否定をした。

「俺も、教会が国を上に立つことが、正しいとは思わない。でもそれ以上に、召喚師一族に依存する歴史が、続くべきではないと思ってる」

「…………」

「君の考えが変わったように、時が経てば、人の想いは変わる。それに合わせて、国も変わっていく。人は等しく悪で、等しく正義だ。何が本当に正しいかなんて、誰にも分からない。その変化に沿って、流れを掴み取ったものが、その時代の正義になってしまうんだよ」

 ルーフェンは、胸倉を掴むジークハルトの腕を、ぐっと握り返した。

「教会のやり方を、許せない気持ちも分かる。だけど、何かと引き換えに犠牲を払ってきたのは、俺達も同じだ。一度冷静になって、この国の在るべき姿を考えてくれ。今起きているこの変化は、決して悪いものじゃない。教会が召喚師一族を潰し、君たち魔導師団が、道を違わずに国を守れ。それでいい……それがきっと、今の在るべき流れだ」

「……っ」

 ジークハルトは、うなった。
ルーフェンの胸倉を、力任せに締め上げ、しかし、すんでのところで突き放すと、足元の椅子に、行き場のない怒りをぶつけた。
蹴り飛ばされた椅子が、軋むような音を立てて折れ、取れた足の一本が、床を滑るようにして転がってくる。
ジークハルトは、長い間、荒く息をしながらその残骸を見つめていたが、やがて、力なく首を振ると、悔しげに呟いた。

「……俺じゃ、駄目なんだよ」

 ルーフェンの目が、微かに見開かれる。
卓に手をつき、もう一度首を振ると、ジークハルトは、複雑な面持ちでルーフェンを見た。

「魔導師団を建て直して、教会に対抗することはできるかもしれない。だが、それだけだ。人心を動かすほどの強さと影響力が、俺にはない」

 声を震わせて、ジークハルトは俯いた。

「……いくら特別な力を持っているからと言って、召喚師一族にばかりすがるなんて、馬鹿げた風潮だと思う。……思うが、やはりお前は必要なんだ、ルーフェン。力を持たない人間は、何か頼れるものがないと、いとも簡単に不安に押し潰される。お前がシュベルテから去って、人々は腹いせにお前を批難しながら、次の依存先として、この世界を分断した女神様とやらを選んだ。その教会と敵対し、何の後ろ楯もなくなった魔導師団が戦い続けるには、その女神に匹敵するほどの、依存先が必要になるだろう。……俺は、それにはなれない」

 ジークハルトが口を閉じると、室内は、重々しい静寂に包まれた。
手に入らないものを前に、俺では駄目だと言って、結局目をそらす。
そうして、後ずさった朧気な少年の姿が、目の奥にちらついているような気がした。

 ルーフェンは、何かを思い出すように睫毛を伏せていたが、ややあって、顔をあげると、ジークハルトに尋ねた。

「……君は、もしも手に入るなら、召喚師一族の力がほしい……?」

 ジークハルトの瞳が、微かに揺れる。
一拍置いてから、ジークハルトは、はっと乾いた笑みをこぼした。

「……それは、新手の嫌味か何かか」

 冗談めかしたジークハルトを、ルーフェンは、透かすような目で見つめる。
すっと息を吸うと、ルーフェンは、ため息混じりに返した。

「君が思ってるほど、召喚術は、特別なものじゃない」

 言われている意味が分からず、ジークハルトが、眉を寄せる。
ルーフェンは、ふいと目をそらすと、束の間沈黙していたが、ややあって、再びジークハルトのほうに視線を戻すと、小さく微笑んだ。

Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下【1月完結予定】 ( No.358 )
日時: 2021/01/10 19:06
名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: r1a3B0XH)



「……ここで話していても、結論は出ないな。お互い、頭を冷やした方が良い。俺が今後どうしていくかよりも、目下もっかの問題は、教会の目的と、彼らをどう制御していくかだ」

「──待て、話はまだ終わっていないだろう。召喚術が特別ではないって、どういう意味だ? 今回の襲撃時に現れた化物と、何か関係があるのか。お前は一体、何を知っている?」

 半ば強引に話題をすり替えたルーフェンに、ジークハルトは、納得がいかないといった様子で食い下がった。
しかし、ルーフェンは答えようとしない。
ジークハルトは、苛立たしげに捲し立てた。
 
「お前の母親が──シルヴィアが、化物を見て、あれは“悪魔のなり損ない”だと言った。その意味、お前なら分かるか。セントランスが使ったのは、本当に召喚術だったとでも言うのか」

 口を挟む隙を与えず、ジークハルトは、ルーフェンを問い詰める。

「いいか、これはお前だけの問題じゃないんだ。セントランスの襲撃に教会が関わっていたのだとしたら、あの化物についての手がかりも、教会の次の動きを予測する鍵になるだろう。カーライル公もシルヴィアも、リラード卿の手中に落ちている今、魔導師団側には、もうお前しかいないんだ。知っていることがあるなら、隠し立てせずに言え」

 逃がさないとでも言わんばかりに、ジークハルトが肩を掴む。
するとルーフェンが、何かに反応して、弾かれたように顔を上げた。

「シルヴィアも、リラード卿の手中……? あの女は今、アーベリトにいるはずだ」

 信じられぬものを見るような目で、ルーフェンが、ジークハルトを凝視する。
ジークハルトは、訝しげに返した。

「アーベリトに……?」

 まるで、何も知らなかったとでもいうような、ジークハルトの口ぶり。
ルーフェンは、嫌な汗がこめかみを伝うのを感じた。

「君たち魔導師団が、送りつけてきたんだろう。今のシュベルテでは、教会が目を光らせているから、前召喚師は、アーベリトに避難した方がいいだろうって」

 ジークハルトの顔色が、さっと変わる。
厳しい表情になると、ジークハルトは首を振った。

「俺は聞いてない。直接シルヴィアの所在を調べたわけではないが、てっきり襲撃後に、王宮に匿われているものだと思っていた。少なくとも、俺が知る範囲では、シルヴィアに魔導師をつけて、アーベリトに送ったりなんぞしていない」

「…………」

 冷たい氷の刃を、首筋に、突き付けられたような気がした。

 シルヴィアと共にアーベリトに来た魔導師たちは、確かに、正規の魔導師団の腕章をつけていた。
一人は、名をゲルナー・ハイデスと言ったか。
しかし、名は偽名を使われていたら当てにならないし、腕章だって、魔導師団から寝返った教会関係者だったら、正規の物を入手できていてもおかしくない。
まさか、あの時点で、彼はサイ・ロザリエスと繋がりを持っていたりしたのだろうか。
そんなことを今更考えても、もう真実は確かめようがない──。

 唐突に押し寄せてきた嫌な予感に、指先が細かく震え出すのを、ルーフェンは、他人事のように見つめていた。

(何か……何か、見落としている……? 城を占拠して、教会は、次に何をするつもりだ……。俺は、どうして城に引き入れられた……?)

 どくり、どくりと、鼓動が速まっていく。
そうして、セントランスや教会とのやりとりに思考を巡らせていた時。
不意に、ルーフェンの脳裏に、モルティスの声が蘇った。

『召喚師一族の在り方に、誰よりも辟易へきえきしているのは、召喚師様ご自身なのではありませんか?』

『……少なくとも、シルヴィア様には、我々教会の総意をご理解頂けましたよ──……』

 ルーフェンは、ひゅっと息を飲んだ。
次いで、ジークハルトの手を振り払うと、突然部屋を飛び出した。

「──あっ、おい……!」

 驚いたジークハルトが、咄嗟に追いかける。
だが、脇目も振らずに走っていったルーフェンは、あっという間に、市場通りの雑踏に紛れてしまった。
どこに行くつもりなのかは分からないが、アーベリトに戻るにしても、それ以外の場所に向かうにしても、ルーフェンなら、一度どこぞの移動陣を経由するはずだ。
それならば、ある程度の道筋は予想できるが、身を隠している状況で、混み合った夕暮れの市場通りを掻き分けていくのは、どうにも躊躇われた。

 追うか追うまいか迷って、建物を出たところで足を止めると、何事かと寄ってきた魔導師が、ジークハルトに声をかけてきた。

「えっ、あの……何かあったんですか?」

「分からん。あいつ、急に話の途中で飛び出していきやがった」

 口早に答えて、思わず舌打ちをする。
そもそも、一体何を焦って出ていったのだろうと考えていると、別の魔導師が、小走りでやってきて、ジークハルトに封書を差し出してきた。

「バーンズ卿、お取り込み中のところ、失礼いたします。こちら……少し早いですが、いつもの報告書かと」

「……ああ」

 頷いて受け取り、些か乱暴な手付きで、差出人不明の封書を開ける。
それは、王宮に潜入しているアレクシアからの、定期連絡であった。

 ルーフェンが駆けていった方向を気にしながらも、中に入っていた手紙を開くと、ジークハルトは、その内容に素早く目を通す。
そして、瞠目し、思わず絶句した。
いつもより荒い、走り書きされたその手紙には、新興騎士団が、アーベリトに向けて進軍しているという旨が記されていたのだ。

「こ、これって……!」

 横から覗き込んでいた魔導師たちの顔が、さっと青ざめる。
ジークハルトは、封書を懐に押し込むと、市場通りに駆け出したのであった。

Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下【1月完結予定】 ( No.359 )
日時: 2021/01/11 19:24
名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: r1a3B0XH)


  *  *  *



 雪掻き用のスコップを納屋にしまうと、トワリスは、よどんだ灰色の空を見上げた。
かじかんだ指先に吐息をかければ、ふわりと空気が白濁する。
サミルの崩御から数日が経ち、残雪を掻く余裕ができた日は、久々であった。

 雪掻きを終え、分厚い毛織りの上着と帽子を脱ぐと、トワリスは、城館内へと戻った。
普段は外の警備をしていることが多いが、今日の外回りは、全て自警団員達に任せている。
というのも、ルーフェンがシュベルテに行っており、アーベリトにいないので、城館付近に結界維持のための魔導師が残る必要があったのだ。

 今までも、ルーフェンが何日かアーベリトを空けることはあったが、サミルが亡くなってからの不在は、初めてのことであった。
不在といっても、彼は自分が留守にすることを躊躇っているようだったので、一日、二日で帰ってくるつもりだろう。
それでも、サミルが逝去したことも相まって、アーベリトを支えてきた二人がいないと、城館内の雰囲気が、どんよりと曇っているような気がした。

 吹き抜けの長廊下を渡っていると、物見塔の窓が開いていることに気づいて、トワリスは、ふと足を止めた。
物見の東塔は、中庭を抜けた先に建っており、今は、シルヴィアが一時滞在している場所だ。
普段から、中庭近くを通る度に、ちらりと様子を伺っていたが、窓が開いているところは、今まで一度も見たことがなかった。

(……まあ、たまには空気を入れ換えないと、それこそ息が詰まっちゃうもんね)

 こっそりと物見塔に近づき、窓を見上げる。
当然高くに位置しているので、中の様子は全く伺えなかったが、窓が開いているということは、シルヴィアは、窓辺で外の景色でも眺めているのだろう。
いつも、実は無人なのではないかと疑うほど静かだったので、彼女の生活の気配が感じられると、なんとなく安心できた。

 ロンダートと共に、ルーフェンにシュベルテに行くよう頼んだ時。
ロンダートは、サミルやルーフェンがいない分、自分達がアーベリトを守るのだと意気込んでいたが、トワリスには、別の思惑もあった。
勿論、セントランスとの一件が片付いた今なら、彼がいなくても問題ないだろうと判断したのも事実だし、何より、閉鎖されているらしいシュベルテの宮殿に入るならば、立場的に召喚師が適任だろうと思ったのが、主な理由である。
だが、その一方で、ルーフェンがいない間に、シルヴィアの様子を確認してみようかと、密かに企んでいたのであった。

 シルヴィアとは、中庭でルーフェンに引き離されたあの日以来、結局一度も会っていない。
セントランスとのこともあったし、サミルが体調を崩した辺りからは特に、忙しくて顔を出す時間がなかったのだ。
それに、ルーフェンの目がある内は、やはり動きづらかった。
当初、シルヴィアを物見塔に幽閉したルーフェンは、まるで囚人でも見張るかのように、母親の動向を監視していたからだ。

 何か事情があるのは、二人の様子を見てすぐに分かったし、部外者であるトワリスには、口を挟む権利などないだろう。
しかし、心のどこかでは、母親にあんな仕打ちをするなんてと、シルヴィアを哀れに思う気持ちがあったのだった。

(会いに行ったのがばれたら、ルーフェンさん、やっぱり怒るかな……)

 迷ったような足取りで、トワリスは、物見塔の入口付近をうろついた。

 無断で会いに行けば、ルーフェンは怒るというより、心配してくるのだろう。
初めてルーフェンとシルヴィアが対峙するところを見たときも、彼の顔に浮かんでいたのは、怒りというより、強い警戒の色であった。
珍しく取り乱して、「シルヴィアに関わるな」と忠告してきた姿を思うと、やはり、ルーフェンに黙って会いに行くのは、申し訳ない気がしてしまう。

 それでも、行動に移してみようかと思ったのは、サミルが亡くなってから、ルーフェンの彼女に対する警戒心が、少し緩まったように見えたからだ。
自然と緩まったというより、あえて、意識的に緩めようとしているように見えた。
きっと、サミルに何か言われたのだろう。
あれだけ母親を敬遠していたルーフェンが、一度だけ、シルヴィアに会いに行っていたことをトワリスは知っていたし、今回、躊躇いつつもアーベリトを留守にしたのだって、きっとその表れである。
実際、この数月すうげつ、シルヴィアは驚くほど従順にルーフェンに従い、文句を言うこともなく、ひっそりと物見塔で暮らしている。
ルーフェンが警戒していることなど、何も起こっていなかったし、これから起こるとも思えなかった。

 だからといって、別にトワリスは、無理に二人を近づけようとは考えていない。
ただ、ルーフェン自身が、母親との距離を測りかねている様子だったので、必要なら介入しよう、くらいの気持ちであった。
二人とも、心の奥底では何を考えているのか分かりづらい。そこだけは、よく似た親子だと思う。
だから、もしもルーフェンが、本心とは裏腹に、思うようにシルヴィアと話せていないのだとしたら──。
あるいは、シルヴィアが、現状をひどく憂いているのだとしたら──。
本音を見せない二人の橋渡しくらいは、しても良いのかもしれないと思っていた。

Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下【1月完結予定】 ( No.360 )
日時: 2021/01/13 12:10
名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: r1a3B0XH)

(いや、でもシルヴィア様に会いに行くなら、表向きの理由があったほうがいいよね。いきなり突撃したら、絶対怪しまれるし……。適当に理由をつけて、給仕役を変わってもらえば、その流れで、世間話に持ち込んでも不自然じゃないかな……)

 悶々と作戦を考えながら、再び、灰色の空を見上げる。
今は、朝食を届けるには遅いが、昼食を勧めるには早い時間だ。

 出直すか、と踵を返して、物見塔から離れようとした──その時だった。
ふと目に入った光景に、トワリスはぎょっとした。
開け放たれた窓から、シルヴィアが、身を乗り出していたのだ。

「えっ!?」

 思わず大声を出してしまい、慌てて口をつぐむ。
幸いなことに、シルヴィアが、トワリスに気づいた様子はない。
いや、この場合は、気づいてくれたほうが良かったのか。
シルヴィアの身体は、外の景色を鑑賞しているだけとは思えないほど、大きく前のめりになっていた。

「ちょっ、え、え、ま……っ」

 混乱したトワリスの口から、意味のない声が断片的に飛び出す。
高い窓から乗り出して、シルヴィアは、一体何をするつもりなのか。
いつぞや仕えていた、なにがしの令嬢のように、庭の木の実が欲しいなんてことはないだろう。
それともまさか、息子からの無情な監禁生活に嫌気がさし、大胆にも脱走を図ろうとしているのだろうか。
あるいは──。

 最悪の予想が脳裏を過って、全身に力が入る。
そうしてついに、シルヴィアが、窓枠に足をかけた時。

「──はっ、早まっちゃいけませんっ!」

 脳内で結論付けるより先に、トワリスは駆け出し、声高に叫んでいたのだった。



 侍女に頼んで、作りたての乳粥を用意してもらうと、トワリスは、それを盆に乗せて、物見塔の一室へと入った。
最低限の生活用品しか揃っていない、殺風景な室内は、先程まで窓を開けっぱなしにしていたせいか、ひんやりとしていて肌寒い。
窓の外を眺めているシルヴィアは、上半身を起こして、寝台の上に座っていた。

「……あの、これ、良かったら食べてください。早めの昼食です」

 寝台近くに食卓を寄せ、その上に、乳粥と匙を並べる。
だが、シルヴィアから返事はなく、それどころか、こちらを見向きもしない。
トワリスは、気まずそうに椅子に座ると、シルヴィアの顔色を伺ったのであった。

 先程、何故か窓から身を乗り出していたシルヴィアは、トワリスが絶叫して止めたおかげか、結局飛び降りなかった。
その後、凄まじい速さで階段を駆け上がり、物見塔の部屋に転がり込んだトワリスが、シルヴィアを窓から引きずり戻して、現在に至る。

 どうして窓から飛び降りようとしていたのか、なんて、理由は聞いていない。
もし、自殺しようと思っていた、なんて答えられたら、一体どうすれば良いのか分からないからだ。
脱走するつもりだった、なんて答えられても、反応には困るが。

 微動だにしないシルヴィアを、トワリスは、しばらく黙って見つめていた。
だが、このままではらちがあかないので、食卓に置いていた匙を差し出すと、躊躇いがちに言った。

「……侍女から聞きました。最近、ほとんどお食事なさってないって。……食べないと、力が出ませんよ」

「…………」

 シルヴィアから、返事はない。
以前、毎日のように会っていた時も、彼女は物静かで、反応が薄いことは度々あった。
しかし、一対一で話しかけているというのに、こうも無視され続けると、流石に腹が立ってくる。

 トワリスは、意地になって、今度は匙と粥を盆ごと突き出した。

「言っておきますが、毒なんて入ってませんよ。なんなら、私が毒味したって構いません。だからほら、温かいうちに食べてください」

「…………」

 粥から立ち上る湯気と共に、ほの甘い乳の匂いが、鼻腔をくすぐる。
香りが感じられらほど、近くまで粥を持ってきているのに、それでもシルヴィアは、何も答えなかった。

 トワリスは、諦めたように盆を食卓に戻すと、ため息混じりに尋ねた。

「私が来たの、ご迷惑でしたか? ……一人のほうがいいっていうなら、帰りますけど……」

 でも、お粥は食べてくださいね、と付け加えて、睨むようにシルヴィアを見る。
すると、その時になって、ようやくシルヴィアが唇を開いた。

「……貴女、どうしてまた来たの。私には、もう関わらないほうがいいんじゃない?」

 長い睫毛を伏せて、シルヴィアは、トワリスを一瞥する。
もう関わらないほうがいい、というのは、ルーフェンがいる手前、そうしたほうがいいと言っているのだろうか。

 トワリスは、むすっとした顔で答えた。

「……そう言われましても、窓から飛び降りようとしてる方がいたら、止めるのは当たり前でしょう。それでもって、数日ほとんど食べてないなんて言われたら、無理にでも食べさせなきゃって思いますよ。失礼ですが、アーベリトには療養しにいらっしゃってるんですから、そこは従って頂かないと」

 思いきって強気な発言をすると、シルヴィアは、再び窓の外に視線をやって、押し黙ってしまった。
東の物見塔からは、街の東区全体が見渡せるが、今日はどんよりと曇っているので、あまり見晴らしが良い状態とは言えない。
シルヴィアが機嫌を損ねたのか、それとも全く気にしていないのかすら分からず、トワリスは、困ったように肩を落とした。

Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下【1月完結予定】 ( No.361 )
日時: 2021/01/13 22:17
名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: r1a3B0XH)


 はぁ、とため息をつくと、トワリスは尋ねた。

「……シルヴィア様、ここでの生活は、お嫌ですか?」

 今度は、反応があった。
シルヴィアは、ちらりと目だけ動かして、トワリスを見た。

「……何故?」

 トワリスは、言葉を間違わないように、慎重に答えた。

「いや……だって、さっき塔から出たそうでしたし……。ずっとここにいるのは、やっぱり退屈かな、と」

「…………」

「あの、良かったら、また散歩に行きませんか? 私の勘違いでなかったら、シルヴィア様は、中庭を気に入っていたでしょう。まあ、今は冬なので、寒いし、花も咲いていませんが……気分転換にはなると思いますよ。勿論、無理にという訳ではありませんが、何か我慢していることがあるなら、仰ってください。ルーフェンさんのことなら、私が説得しますから」

 努めて明るい口調に切り替えると、シルヴィアは、ゆっくりとトワリスのほうに振り向いた。
思わず椅子に座り直して、トワリスは、その銀の瞳を見つめ返す。
数日ほとんど食べていないと聞いていたが、シルヴィアにやつれた様子はなく、改めて見ても、精巧な人形の如き佇まいをしていた。

 感情のない、無機質な瞳で、シルヴィアが言った。

「……貴女は、ルーフェンのことを名前で呼ぶのね」

 思わぬところを指摘されて、あっと口を閉じる。
大人数で話しているときや、公の場では、ルーフェンのことを召喚師呼びするようにしていたが、ハインツやサミルの前では普通に“ルーフェン”と呼ぶ時もあったので、うっかり癖で名前呼びしてしまった。

 慌てて謝罪すると、トワリスは縮こまった。

「も、申し訳ありません……失礼な呼び方をしてしまって。でも、ご本人がそう呼ばれたいって仰っていたので。多分、日頃よく一緒にいる私達に役職名で呼ばれるのは、寂しい感じがするんだと思います」

 一瞬、無礼だと批難されるかと思ったが、シルヴィアに、そんな意図はないようであった。
ふっと目を伏せると、シルヴィアは、しみじみとした様子で言った。

「そう……あの子、そんなことを言うの。自分の名前は、嫌っているかと思っていたわ」

「……そうなんですか?」

「ええ。……だって、私がつけたんですもの。いにしえの言葉で、“奪うもの”という意味よ。あまり良い名前じゃないでしょう」

 瞠目して、トワリスは絶句した。
子供の名前に、古語から引用してきた意味や願いを込めるのは、ちまたではよくあることだ。
トワリスの名前にも、母親に直接聞いたわけではないが、“紅葉した木の葉”という意味があるんじゃないかと、ルーフェンに教えてもらったことがある。
しかし、そんな彼の名前に“奪うもの”なんて意味があったことは、全く知らなかった。

 シルヴィアは、微かに声を低めた。

「……あの子がいけないのよ。私から、全て奪ったんだもの。ルーフェンのせいで、私は召喚師の座から引きずり下ろさた。力も地位もない、そんな私を、見てくれる者は誰もいないのに……」

「…………」

 束の間、シルヴィアの言っていることが理解できず、トワリスは呆然としていた。
喉がひりつくように乾いて、うまく息が吸えない。
やっと絞り出した声は、ひどく掠れていた。

「……ま、待ってください。どういうことですか? だからお二人は、その……仲が悪いんですか?」

 もはや、言葉が正しいかとか、言い回しが失礼じゃないかとか、そんなことを気にしている余裕はない。
トワリスが問うと、シルヴィアは、虚ろな表情で答えた。

「ルーフェンが、私を嫌うのは……」

 少し間を置いて、シルヴィアは続けた。

「私が、あの子を捨てたからでしょう」

「…………」

 雨が降ってきたのだろう。
小さな雨粒が、窓を叩く音が聞こえ始めた。

 不意に、シルヴィアが腹をさすった。

「奪われる前に、さっさと手放そうと思って……ルーフェンを産んだ後に、侍女に頼んで近くの貧村に捨てさせたの。そうしたら、あの子の父親が、血相変えて私に怒鳴ったのよ。『どうしてそんなことをしたんだ、貴女は母親だろう』って。……私が、いつ母親になりたいなんて言ったのよ。悲しくなって、その人のこと、殺しちゃった……」

 ゆっくりと、シルヴィアが顔をあげる。
こちらを見た彼女の唇には、ぞっとするほど冷たい、氷のような微笑が刻まれていた。

 硬直するトワリスの手を、温度のない指でそっと握ると、シルヴィアは言い募った。

「皆ひどいのよ。最初は、優しく近づいてくるの。貴女みたいに、つらいことはありませんかって言いながら。でも、結局誰も、助けてくれなかったわ。それどころか、寄ってたかって、私から色々なものを奪っていくのよ。……だから、皆殺しちゃった。エルディオ様も、その周りを飛んでる羽虫たちも、ルイスも、リュートもアレイドも……」

 身の底から、ぞくぞくとした悪寒が這い上がってくる。
エルディオとは、前王の名であり、ルイスとリュート、そしてアレイドは、シルヴィアの息子、つまりルーフェンの兄弟たちの名だ。
彼らが亡くなっていることは、トワリスも知識として知っていたが、確か死因は、馬車の転落事故によるものだったはずである。
──まさか、その事故は、故意に起こされたものだったのだろうか。
そして、その黒幕がシルヴィアであることを、ルーフェンは知っているのではないか。

 自分でも分かるくらいに血の気が引いて、指先が震え出す。
浅く息を吸いながら、それでもトワリスは、シルヴィアから目を反らさなかった。

Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下【1月完結予定】 ( No.362 )
日時: 2021/01/14 19:57
名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: r1a3B0XH)



 シルヴィアは、トワリスの頬をするりと撫でた。

「きっと皆、私のことを憎んでいるでしょう。……最近、声が聞こえるの。地獄の底から、私を呼ぶ声。手招きをして、お前も来いって言ってるのよ。だから私、行かなくちゃ……」

 言葉とは裏腹に、どこか幸せそうに微笑むと、シルヴィアは呟いた。
同時に、その銀の目から、涙が一筋こぼれ落ちる。

 トワリスは、徐々に目を見開いた。

「……後悔、してるんですか? 殺したこと……」

 瞬かぬ目で、シルヴィアは、トワリスを凝視している。
月光を溶かしこんだような、その美しい双眸に視線を吸い込まれていると、ややあって、シルヴィアの指が、トワリスの首筋をなぞった。

 ふと、冷ややかな指先が、首の皮膚に食い込む。
その瞬間、トワリスが我に返るよりも速く、シルヴィアが寝台から身を起こして、トワリスに覆い被さってきた。

「──……っ!」

 咄嗟に椅子を蹴倒して、後ずさったトワリスは、しかし、その凄まじい勢いに力負けして、シルヴィアに押し倒された。
床に頭と背を打ち付け、目から火が出る。
抵抗する間もなく、女性とは思えない力で首を絞められて、トワリスは呼吸を詰まらせた。

「……貴女を殺したら、ルーフェンは、私を殺す気になるのかしら……」

 呟きと共に、シルヴィアの目からこぼれた涙が、ぱた、ぱた、とトワリスの頬に落ちた。
しかし、喉を押し出されるような、強烈な痛みの前では、そんな些細な刺激は無意味である。
意識が飛ぶ寸前──トワリスは、首まで伸びたシルヴィアの腕を掴むと、大きく身を捩って、横合いから彼女を蹴り飛ばした。

 みしっ、と華奢な振動が脚に伝わってきて、吹っ飛んだシルヴィアが、地面に転がり落ちる。
トワリスは、急いで体勢を整えようとしたが、すぐには起き上がれず、しばらく背を丸めてうずくまっていた。

 詰まってしまった喉が、なんとか肺に空気を取り込もうと、激しく咳き込む。
大きく胸を上下させながら、ようやく立ち上がると、食卓の近くで、シルヴィアも喘鳴ぜんめいしていた。
力加減をせずに蹴り飛ばしたから、肋骨あたりが、折れてしまったかもしれない。

 トワリスが、警戒したように動向を伺っていると、不意に、シルヴィアが、何かをぶつぶつと詠唱し始めた。
身構えるのと同時に、シルヴィアの背後に、ぼんやりと淡く光る、巨大な砂時計が現れる。
見たこともない、聞いたこともない魔術であった。

 まるで蜃気楼のように現れた砂時計は、くるりと半転すると、白銀の砂をさらさらと逆流させていく。
ややあって、溶けるように砂時計が消えると、シルヴィアは、ゆらりと身体を起こした。
トワリスが蹴りを入れた脇腹あたりを、痛がる様子はない。

 シルヴィアは、喉の奥でくつくつと笑った。

「……アレイドを産んだ、二十二の時に、自分に魔術をかけたのよ。ずっとこのまま、美しくいられるようにって。そうすれば、代替わりして、私が召喚師でなくなっても、皆は私をみてくれると思ったから。おかげでね、私は年を取らないし、怪我をしてもすぐに治るのよ。術が解けるその時まで、私はずっと、若い姿のまま……」

 恍惚と息を吐いて、シルヴィアは、己の肩を抱き寄せる。
手足が冷たく痺れ、全身が強ばっていくのを感じながら、トワリスは唇を震わせた。

「若い姿のまま、って……身体の時間を、巻き戻してるってことですか……? 何、言って……だってそんなの、禁忌魔術じゃ……」

 呟いてから、もはや彼女の前では、愚問なのかもしれないと言葉を切る。
思い返せば、シルヴィアの不自然な点は、今までにもあった。
シュベルテから運ばれてきた時、衣服についていた血の量の割に、身体に怪我は見当たらなかったし、ルーフェンに突き飛ばされた時も、擦りむいたはずの掌の傷が、気づいた時には治っていた。
どれもこれも、ことわりから外れた魔術が原因だと考えると、説明がつく。

Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下【1月完結予定】 ( No.363 )
日時: 2021/01/14 20:00
名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: r1a3B0XH)


 立ち尽くすトワリスを見て、シルヴィアは、涙を流して笑った。

「昔はね、これでいいと思っていたのよ。でも、もう疲れてしまったから……今は、早くエルディオ様のところにいきたいの。なのに、ルーフェンったら、私に生きてくださいって言うのよ。あの子なら、私のことを殺してくれると思っていたのに……」

 緩慢な動きで、シルヴィアが立ち上がる。
絹糸のような銀髪を揺らしながら、彼女は、トワリスに近づいてきた。

「ねえ、どうしたら良いと思う……? 貴女や、このアーベリトの人達を殺したら、ルーフェンも、私のことを殺す気になるかしら」

 言いながら、シルヴィアが、陶器のような白い腕を伸ばしてくる。
数歩後ずさると、トワリスのかかとが、壁にぶち当たった。

 どくり、どくりと、心臓が耳元にあるのではないかと錯覚するほど、鼓動が大きく聞こえる。
やがて、再び首筋に触れようとしたシルヴィアの手を、トワリスは、勢い良く掴みあげた。
声は出なかったが、それは、はっきりとした抵抗であった。

 シルヴィアが、わずかに驚いた様子で、目を大きくする。
その目を見て、トワリスは、ぐっと歯を食い縛った。
自分が、シルヴィアに対して抱いている感情が、怒りなのか、哀れみなのか、それとも恐怖なのか──。
今、どんな顔をしてシルヴィアと対峙しているのかすら、よく分からなかった。

 腕を掴まれたまま、シルヴィアは、眉を下げて微笑んだ。

「……私ね、教会と賭けをしているの。私が死ぬか、それとも、私が召喚術の才を取り戻して、ルーフェンが死ぬかの賭け。私は、私が死ぬ方に賭けているわ」

 細められたシルヴィアの瞳に、不気味な影が落ちる。
それを見た瞬間、しまった、と思ったが、既に遅い。
その時にはもう、トワリスは、シルヴィアから目をそらすことも、逃げることも出来なくなっていた。

 鼻先が触れるほど顔を近づけると、シルヴィアは続けた。

「教会の狙いは、私たちを争わせて共倒れさせるか、あるいは、アーベリト自体を落とすことなのでしょう。……酷いわよね、私たちは、見世物なんかじゃないのに。だから、最初はそんな賭け、乗る気はなかったのよ。でも、ルーフェンまで私を見てくれなくなったんだと思ったら、なんだか、どうでもよくなっちゃった……。あの子だけは、私を忘れず、殺すその瞬間まで、一心にこちらを見て恨んでくれると思ったのに……。結局、憎しみも哀しみも、忘れられないのは、私だけなんだわ。これじゃあ私、最期まで独りぼっちじゃない。誰にも気づかれず、ひっそり死ぬなんて、そんなの嫌よ」

 後頭部にそっと手を差し入れて、シルヴィアは、トワリスと抱きしめた。
そして、耳元に唇を寄せると、シルヴィアは囁いた。

「この賭けは、私の勝ちよ。きっとルーフェンが、私を殺してくれる。だからお願い、邪魔をしないで……?」

 月明かりさえ差し込まぬ、暗い湖底のような、冷たい声──。
その言葉を最後に、トワリスの意識は、闇に落ちたのであった。

Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下【1月完結予定】 ( No.364 )
日時: 2021/01/15 19:51
名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: r1a3B0XH)



 つん、と染みるような消毒液の匂いで、トワリスは目を覚ました。
すぐ近くで、忙しない足音と人の声が聞こえる。
トワリスは、それらの喧騒を聞きながら、しばらくぼんやりとしていたが、不意に、見慣れた鉄仮面がこちらをのぞき込んできたことに気づくと、はっと目を見開いた。

「……ハインツ?」

 名前を呼んで身を起こすと、突然、鈍い痛みが後頭部に走った。
思わず呻けば、ハインツが、慌てたように手を上げて、トワリスの肩を押さえてくる。
まだ横になっていたほうが良いと促されて、視線を巡らせると、トワリスは、床に敷かれた布の上に寝かされていたようであった。

 心配そうなハインツを制し、立ち上がると、トワリスは、目の前に広がっている光景に、言葉を失った。
見渡す限り一面、二、三百人近い血にまみれた人々が、トワリスと同じように、床に寝かされていたのだ。

 改めて周囲を見回すと、ここは、中央区の大病院の中のようであった。
しかし、揃っていたはずの設備や寝台は跡形もなく、怪我人の手当てに駆けずり回っているのも、医術師ではなく、たった十数人の自警団員たちだ。
四方の分厚い壁はひび割れ、支柱を失った天井が、大きく傾いている。
倒壊した瓦礫に塞がれ、暖炉も使えなくなったのだろう。
真冬だと言うのに、この大勢の怪我人たちを暖めるのは、大広間の中心に石を積んで作られただけの、即席の炉一つだけであった。

 血の滲んだ布を巻かれ、虚ろな目で横たわっている人々は、大半が、もう手遅れの状態であった。
呻く余力がある者は少ない方で、ほとんどが、失血で青白い顔になり、かろうじて呼吸だけを繰り返している。
中には、建物の下敷きになったのか、下半身がほとんど潰れて、生きているのか、死んでいるのかすら分からない者もいた。

 生死の境を彷徨う彼らの顔を見ながら、呆然と立ち尽くしていると、ふと、トワリスは、足元に薄く光る曲線が走っていることに気づいた。
最初は、床の模様か何かだと思ったが、そうではない。
微かに魔力を放つそれは、どうやら、建物の床からはみ出るほどの、巨大な魔法陣のようであった。

(この魔法陣、使われているのが古語じゃない。まさか……)

 シルヴィアの顔が脳裏によぎって、ぞくりと悪寒が走る。
しゃがみこんで、魔法陣に触れようとしたところで、不意に、近づいてきた自警団員に、声をかけられた。

「トワリスちゃん、目が覚めたんだな」

「ロンダートさん……」

 この寒さの中で、汗だくになったロンダートが、力なく笑う。
トワリスは、ロンダートを見てから、寄ってきたハインツのほうにも視線をやった。

「あの、一体何が……。私、どれくらい眠っていたんでしょうか」

 ずきずきと痛む頭を押さえて、トワリスが尋ねる。
思い出せる記憶は、シルヴィアに抱き締められた、あの一瞬で最後だ。

Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下【1月完結予定】 ( No.365 )
日時: 2021/01/18 17:48
名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: r1a3B0XH)

 ロンダートは、安堵したように息を吐いた。

「トワリスちゃんが寝てたのは、一刻(二時間ほど)くらいだよ。物見塔の近くで倒れてたって、ハインツが連れてきたんだ。でも、大事ないようで、本当に良かった。ぱっと見、怪我はないようだったけど、打ち所が悪くて目を覚まさなかったら、どうしようかと思って不安で泣きそうだったんだ……。……ハインツが」

 トワリスの傍らで、ぴくりとハインツが肩を震わせる。
苦笑してから、真剣な顔つきになると、ロンダートは続けた。

「何が起こったのかは、俺たちもさっぱりだよ。ただ、急に地面が揺れて……おかげで、外はひどい有り様だ。とりあえず、この大病院はかろうじて無事だったから、動ける自警団員で手分けして、怪我人を集めてるんだ。城館もほとんど原型を留めてないし、もう、街はめちゃくちゃだよ。とてもじゃないが、自然に起こった地震とは思えない……」

 いつものおちゃらけた雰囲気からは想像もつかない、苦々しい口調で言って、ロンダートは俯く。
彼も、足元の魔法陣の存在には、気づいているのだろう。
魔法陣を一瞥して、ロンダートは更に言い募った。

「なあ、トワリスちゃん、この魔法陣、一体なんなんだ? 俺たちは魔術のことは分からないから、目が覚めたら、トワリスちゃんに聞こうと思ってたんだ。地震が起こったあとに、気づいたら地面に浮かんでいたんだが、どうもアーベリト全体を覆うくらい大きいみたいでさ」

 トワリスは、目に驚愕の色を滲ませた。

「アーベリト全体!? そんな、街を丸ごと覆うほど巨大な魔法陣なんて……」

「……やっぱり、異常なんだな」

「はい。そんな大きな魔法陣、見たことも聞いたこともありません」

 改めて魔法陣を見つめて、トワリスは、悔しげに唇を噛んだ。

「でも……ごめんなさい。はっきりと、この魔法陣がどんなものなのかは、私には分かりません。今朝はこんなものありませんでしたから、地震が起きたことに関係しているのは確かだと思います。でも、術を発動し終わってるなら、もう魔法陣は消えるはずなんです。なのに消えてないってことは、地震を起こす以外にも、別の効力を持っている可能性が高いです。それに……」

 言葉を続けようとして、トワリスは、一度口を閉じた。
巨大すぎて、一面見るだけでは判断しづらいが、この魔法陣に使われている文字は、おそらく古語ではなく魔語である。
つまり、地震とやらが本当にこの魔法陣によって人為的に起こされたものなら、おそらく、犯人はシルヴィアだろう。
トワリスと一緒にいた時の言動からしても、そうとしか考えられなかった。

 ただ一つ、不可解なのは、シルヴィアに召喚術が使えるのか、という点であった。
魔語を使っているということは、この魔法陣は、召喚術発動のためのものである。
しかし、シルヴィアはあくまで先代であり、魔語の解読はできても、召喚術の才はもう持っていないはずなのだ。
かといって、シュベルテにいるルーフェンが、アーベリトに魔法陣を敷いたとも考えづらいし、その辺りの疑問点を含めると、ロンダートたちに、確信めいた答えを言うのは躊躇われた。

 トワリスが返事に迷っていると、別の自警団員たち数人が、ロンダートの名を呼びながら駆け寄ってきた。

「ロンダートさん、消毒液、ある分だけ運んできたんですけど、ほとんどの薬瓶割れちゃってて……」

 振り返ると、ロンダートは、てきぱきと指示を出した。

「あー……じゃあ、あれだ! 強めの酒を持ってきて、代用するんだ。外の救助に行ってる奴らにも伝えよう。人の捜索ついでに何ヵ所か回って、割れてない瓶があったらとりあえず持ってくるように。それから布も、なくなる前に西区の施療院からもらってくるんだ」

「は、はい!」

 声を揃えて返事をすると、自警団員たちは、各々散っていく。
ロンダートは、トワリスのほうに向き直ると、口早に告げた。

「とにかく、この魔法陣は、よく分からんけど危険かもしれないってことだよな。一応言っておくと、動けない怪我人は、この大病院に運んできてるんだけど、自力で動けそうな人は、全員東区の孤児院のほうに誘導してるんだ。ほらあそこ、少し街から外れたところにあるだろう。だからあの孤児院は、魔法陣の上に位置してなかったんだ。なんとなく、このまんま魔法陣の上にいるのはまずい気がしてたからさ」

 ロンダートの英断に、トワリスは頷きを返した。
東区の孤児院は、トワリスが出たところでもあるので、場所はよく知っている。

 それから、と言葉を次いで、ロンダートは言った。

「召喚師様に気づいてもらえるように、移動陣があるリラの森のほうにも行ってみたんだけど、あの辺り一帯、土砂崩れで完全に塞がってて使えなかった。それと、出払っちゃってるかもしれないけど、馬を使うなら、病院の裏手に繋いであるから。念のため伝えておく! それじゃあ、俺はこれで」
 
 それだけ捲し立てると、ロンダートも、急ぎ足で去っていく。
その後ろ姿を見送ると、トワリスも、すぐさま自分が寝ていた場所に戻り、その脇に並べられていた、双剣と外套をとった。
しっかりと状況把握ができたわけではないが、今は、ぼうっとしている場合ではないのだ。

 外套を羽織ると、トワリスはハインツを見た。

「私のこと、運んでくれてありがとう。もう大丈夫だから、私たちも外に救助に行こう」

 ついでに、シルヴィアを探し出して、この魔法陣のことを聞き出さねばならない。
トワリスの言葉に、ハインツが頷き、二人は、早速大病院の外へと向かったのであった。

Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下【1月完結予定】 ( No.366 )
日時: 2021/01/17 19:41
名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: r1a3B0XH)


 大病院の出口扉を開けると、真っ先に吹き込んできたのは、冷たい雨の匂いであった。
朝方に降り始めた霧雨が、今も尚降り続いているのだろう。
雨にけぶるアーベリトの街は、白いもやの中にひっそりと沈んでいた。

 雨避けに頭巾を被り、外に踏み出すと、薄い影のようだった街の様相が、徐々に靄から浮かび上がってきた。
それは、今朝まで眺めていたアーベリトの街並みとは、まるで違う。
白亜の家々が建ち並んでいた通りには、崩れた建物の残骸が小山のように連なり、その下で、無惨にも押し潰された死体の血臭が、あちらこちらから漂っていた。

 雨が降っていたことが、不幸中の幸いだったのだろう。
空気の乾燥した冬、暖炉に火を灯している家も多い中で、このような家屋の倒壊が起これば、きっと火事になっていたはずだ。
遠目に何ヵ所か、煙が上がっているところも見えたが、人々が焼け出されるまでに至らなかったのは、石造りの家が多いことと、雨が降っていたお陰であった。

 喉の奥にせり上がってきたものを堪えると、代わりに、目頭が熱くなった。
何故こんなことになってしまったのか、嘆いている暇などない。
口ぶりからして、どの道シルヴィアは、アーベリトを落とそうと決めていたのだろう。
それでも、自分があの時、彼女に会いに行っていなければ、こうはならなかったかもしれないという後悔が、トワリスの頭に過っていた。

「そうだ、リリアナ……」

 不意に、居候先の友人の顔が脳裏にひらめいて、トワリスは顔をあげた。
リリアナとカイル、そしてロクベルの三人は、無事だろうか。
ざっと見た限り、大病院の中にはいなさそうだったから、孤児院の方に避難しているか、まだ救助を待っているかもしれない。
──最悪の想定は、したくなかった。

 トワリスは、ハインツを連れ立って、歯を食い縛りながら、瓦礫の山中を抜けていった。
進み始めた時は、濃い土煙の臭いと死臭で息ができず、不気味な空気が耳元で唸っていたが、時間が経つ内に、感覚が狂ってきたらしい。
いつの間にか、鼻も耳も麻痺して、いつも聞いていた市場通りの賑やかな声が、遠くから響いてきているような気がした。

 リリアナたちの店が建っていたあたりに近づくと、誰かが、激しく泣きじゃくる声が聞こえてきた。
馴染みのあるその声に、心音が速くなる。
耳を頼りに駆けていくと、半壊して道まで崩れた屋根の近くに、リリアナとカイルがいた。
幸いにも彼女たちは、庭の方に出ていたのだろう。
店の倒壊に、運良く巻き込まれずに済んだようであった。

 先に救助に向かっていた自警団員の男が、地面にうずくまって泣くリリアナに、しきりに声をかけている。
カイルは、リリアナの横に座り込んで、呆然と瓦礫の山を見つめていた。

「リリアナ! 良かった、無事だったんだね……!」

 声をかけて、リリアナのそばにしゃがみこむ。
するとリリアナは、涙でぐしゃぐしゃになった顔をあげて、トワリスの足にすがりついてきた。

「トワリス! トワリス、お願い! おばさんを助けて……!」

 リリアナが指差した方を見て、トワリスは息を詰めた。
瓦礫の隙間から、見覚えのある指輪を嵌めた、腕が一本生えている。
崩落してきた屋根の、下敷きになったのだろう。
潰された頭部から、雨に溶けて流れ出る血の赤が、やけに鮮やかに見えた。
リリアナの叔母、ロクベルの遺体に間違いなかった。

 ハインツが、屋根を持ち上げようと伸ばした手を、自警団員の男が止めた。
男は、暗い顔で首を振って、今は遺体を見せるべきではないだろうと訴えてくる。
リリアナは、トワリスに抱きつくと、その腹に顔を擦り付けた。

「もう嫌だよぉ……っ、どうしておばさんまで。なんで皆、私の前からいなくなっちゃうの……っ」

 嗚咽を漏らしながら、リリアナが呟く。
彼女は過去に、火事で両親を亡くし、アーベリトの孤児院までやってきたところを、叔母のロクベルに引き取られている。
この壮絶な状況下で、昔のことが記憶に蘇っているようであった。

 リリアナから離れると、トワリスは、近くに倒れていた車椅子を起こした。
車輪が歪んではいるが、まだ使えそうだ。
トワリスは、半ば強引にリリアナを担ぎ、車椅子に座らせながら言った。

「まだカイルがいるよ。とにかく今は、東区の孤児院に避難して。動ける人は、皆そこにいるから」

 がたつく車椅子を通りに押し出せば、自警団員の男が、「自分が連れていきます」と名乗り出る。
トワリスは頷いて、今度は、へたりこんでいるカイルの肩を掴んだ。

「カイル、立って。リリアナのこと、お願いね」

 言いながら、脇に手を差し入れて立たせると、カイルは、ぼんやりとトワリスを見つめた。
泣いてはいなかったが、カイルの目にいつもの勝ち気さは見られず、憔悴しきったような、くすんだ色をしている。
唇を噛みしめ、カイルは黙っていたが、やがて、こくりと頷くと、車椅子を押す自警団員に着いていったのだった。


Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下【1月完結予定】 ( No.367 )
日時: 2021/01/18 19:13
名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: r1a3B0XH)



 移動を促された避難民たちが、疎らに孤児院がある丘の方に登っていくのを見ながら、トワリスとハインツも、街中を巡って生存者を探した。
身内の死を受け入れられず、混乱して怯えきった人々を家から引き剥がすのは、容易な作業ではなかった。
疲れも忘れ、霧雨で模糊もことする中を駆けずり回っている内に、気付けば、日が暮れ始める時刻になっていた。

 怪我人を大病院へと運んでいる内に、トワリスは、ふと奇妙なことに気づいた。
見つけた生存者の内、そのほとんどが、声も出せぬほどの瀕死状態か、リリアナたちのように、運良く難を免れた軽傷者のどちらかだったのである。
逆に言えば、重傷者がおらず、一見命に関わるような怪我を負っていない者でも、まるで生命力を吸いとられてしまったかのように、衰弱しきっていたのだ。

 一人、また一人と怪我人を床に並べていくと、その違和感は、やがて底知れぬ不安へと変わっていった。
そもそも、地震が起こったのは昼前で、大半の人々が外出する時間帯だったにも拘わらず、怪我人が多すぎるのだ。
建物の倒壊に巻き込まれたというのは結果的なことであって、人々を襲ったのは、もっと別の“何か”ではないかという疑問が、トワリスの中で湧いていた。
もっと早くに、気づくべきだったかもしれない。
きっと全てが、偶然などではないのだ。

 何度目かの往復をして、再び大病院から出たところで、トワリスは、不意に足を止めた。

「……ハインツ。ごめん、私、やっぱりシルヴィア様を探しに行ってもいいかな。怪我人の救助が最優先なのは勿論なんだけど、なんだか嫌な予感がするんだ」

 同じく立ち止まったハインツが、トワリスの方を見る。
足元の魔法陣に視線を落とすと、トワリスは言った。

「この魔法陣……多分、シルヴィア様が敷いたものだと思うんだ。実は私、倒れる直前まで、シルヴィア様と会ってたんだけど、その時に、『アーベリトの人たちを殺す』みたいなことを言われて……。だから、その……確証があるわけじゃないんだけど……」

「……地震、シルヴィア様、起こしたって、こと?」

 トワリスが濁した言葉を、ハインツが形にする。
トワリスは、一拍置いてから、神妙な面持ちで頷いた。

「……そう。だって、色々考えてたんだけど、おかしな点がありすぎるだろう。実質被害は家屋の倒壊と土砂崩れだけなのに、いくらなんでも怪我人が多すぎる。それも、負傷具合はそれぞれなのに、無理矢理意識を混濁させられているような……妙な怪我人が。どうも、これで終わると思えないんだ。早くこの魔法陣の上から、全員避難しないといけない気がする」

「それは、そう、だけど……でも、あの人数、どうやって」

「……うん、無理なのは分かってる。だから、まずはシルヴィア様を見つけて──」

 トワリスが続けようとした、その時だった。
不意に、大病院の入り口にある呼び鈴が鳴り始めたかと思うと、突然、地面がぐんっと浮き上がった。
先の地震で割れていた石畳の破片が、一斉に踊り出し、足元がぐらぐらと波打ち始める。
とても立っていられなくなって、トワリスとハインツは、思わず地面に這いつくばった。

Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下【1月完結予定】 ( No.368 )
日時: 2021/01/19 22:19
名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: r1a3B0XH)

 石同士がぶつかり合うような音を立てて、大病院の壁にひびが走った。
周囲に並ぶ瓦礫の山が、横揺れにならされて、がらがらと崩れていく。
ようやく地の震えが収まった頃、トワリスとハインツは顔をあげたが、視界が土煙に覆われて何も見えず、二人はしばらく、そのまま動けなかった。

 鈍く光る魔法陣を目前に、地面に手をついていたトワリスは、ふと、肌が粟立つような殺気を感じて、即座に立ち上がった。
風に流される砂埃に混じって、冷気のような魔力を感じる。
それは、大病院のほうから溢れ、一定方向に向かって、吸い出されるように流れていった。

 土煙の向こうで、何かが光った。
──と思うや否や、トワリスは、反射的に横に跳んでいた。
直後、トワリスのいた場所に、身長ほどもある巨大な鎌が振り下ろされて、地面に突き刺さる。
周囲を見れば、その鎌は複数あり、ハインツの足元の地面を削り、傾げた大病院の壁をも切り裂いていた。

「お、おい、一体なんだっていうんだ……」

 大病院の扉を蹴破って、ロンダートを先頭に、自警団員たちが外へと出てきた。
舞い上がる砂埃を手で払いながら、彼らは前を見て、凍りついた。
収まり始めた土煙の先に、鎌の如き爪を六本持った、さそりのような生物が現れていたからだ。

 蠍といっても、はさみのような触肢や、毒針を仕込んだ尾節はない。
固い外骨格に覆われているのは、胸部から生えた脚のみで、短い胴体は、何かの幼虫のような、柔らかい体表をしている。
それは、まるで不完全な脱皮を遂げたかのような、奇怪な生物であった。

 唖然とする一同を前に、化物は、空振った爪を地面から抜いた。
ばらばらと土くれが飛んで、一度引っ込んだ脚が持ち上がり、そして、再び振り下ろされる。
トワリスたちは避けたが、迎え撃とうとした数名の自警団員たちは、そろって抜刀した。
しかし、爪は剣を物ともせずに叩き折り、彼らごと切り裂いていく。
地面に食い込んだ爪が、持ち上がった後には、左右に真っ二つになった自警団員たちの死体が、血を噴き出しながら転がっていた。

 すくみ上がった残りの自警団員たちが、腰を抜かしてへたり込む。
耐えられぬほどの恐怖に、トワリスも、自身の手先が強張っていくのを感じていた。
目の前で、何が起こっているのか分からない。
脳が、理解することを拒否しているようだった。

「……俺達で、化物の気を引いて……病院から引き離そう」

 ふと、トワリスの隣に並んだロンダートが、剣を構えながら言った。
柄を握る左手が、小さく震えている。
彼は右腕を骨折しているので、左手でしか剣が握れないのだ。
──そう思った途端、水で打たれたように、頭の中が冷静になった。

 自警団員たちは、戦いの訓練を積んだ者達だが、魔術も使えない、普通の人間である。
背後には、怪我人たちを集めた大病院が建っていて、今はルーフェンもいない。
自分が、彼らを守らねばと思った。

 すっと息を吸うと、トワリスは、双剣を構えた。

「……引き付け役、私がやります。ロンダートさんたちは、病院の方を守ってください」

 言うや、ロンダートが止める間もなく、トワリスは、脚に魔力を込めて、化物目掛けて突進した。
鋭利な爪が次々と迫ってくるが、目を凝らして動きをとらえれば、そう速くはない。
無数の爪が、轟音を立てて地面に振り下ろされたが、それらは全て、風のように抜けていったトワリスの残像を刺し貫いただけであった。

 脚の間を縫って、化物の腹の下に滑り込んだトワリスは、その胸部に双剣を突き刺すと、そのまま思い切り地を蹴った。
肉を貫いた双剣が、化物の胸から腹にかけて進み、一直線にその身体を裂いていく。
尾部を切り捨て、トワリスが腹の下から抜け出すと、化物は背をのけ反らせてさお立ちになり、傷口からどす黒い体液をぶちまけた。

(胴体なら剣が通る……!)

 身を翻して踵を地につけると、トワリスは足を地面の上で滑らせて、駆け抜けた勢いを殺した。
先程、自警団員たちの剣を叩き切ったことから察するに、外骨格で覆われた脚と爪は硬いが、胴体は見た目通り柔らかいようだ。
間髪入れずに体勢を整えると、トワリスは、双剣を構え直した。

Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下【1月完結予定】 ( No.369 )
日時: 2021/01/19 21:53
名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: r1a3B0XH)



 予想外だったのは、化物が、攻撃されたにも拘わらず、トワリスに関心を示さなかったことであった。
さお立ちになった化物は、トワリスには見向きもせずに、またしても大病院のほうを狙って脚を振り上げる。
トワリスは、すぐさま駆け戻ったが、爪の動きを止める方法は、何も思い付いていなかった。

 胴体を裂かれたとは思えぬ化物の動きに、自警団員たちは、死を覚悟した。
だが、その爪が、彼らに届くことはなかった。
突然、地面が盛り上がり、そこから槍の如く突き出した岩が、化物の身体を持ち上げたからだ。
ハインツによる、地の魔術であった。

 大病院の前に立ちはだかったハインツは、宙に突き上げられた化物の脚を二本、引っ掴んで両脇に抱えると、爪部分を地に突き刺し、のし掛かるように体重をかけた。
次いで、足を踏み鳴らせば、更に岩の槍が出現して、化物の胴体を上へ、上へと押し上げる。
上への力に反し、凄まじい圧力で脚を下に引かれて、化物の脚の関節から、ぶちぶちと筋の切れる音が鳴り響いた。
ハインツは、このまま化物の脚をもぎ取るつもりなのだ。

 鳥肌が立つような咆哮を上がったかと思うと、不意に、化物の背中をガパッと裂けて、その奥から、円状に並ぶ歯があらわになった。
何事かと一同が目を見張った瞬間、背中に現れた口から、無数の触手が飛び出してきた。
触手は、鞭のようにしなって、一斉にハインツに襲いかかる。
咄嗟に避けようとしたハインツは、しかし、化物の上空に舞い上がった影を見つけると、その場に踏み止まった。

「──ハインツ! そのままでいて!」

 天高く、双剣が閃き、トワリスの声が落ちてくる。
化物の頭上へ跳び上がったトワリスは、落下する勢いを生かし、触手めがけて、目にも止まらぬ速さで剣を振るった。

 微塵になった触手が、体液の雨と共に、ぼたぼたと飛散する。
同時に、化物の身体が、岩の槍によって大きくね飛ばされ、ついに、前肢二本が、付け根から千切れた。
地が震えるような叫びを上げ、残った脚をばたつかせながら、化物が後転する。
周囲の瓦礫を巻き込みながら、轟音を立ててひっくり返ると、やがて、化物は動かなくなった。

 大病院の屋根から跳んで、宙で一転すると、トワリスは、ハインツのそばに着地した。
化物の体液に混じって、大量の鮮血が地面に飛び散っている。
立っているのは、ロンダートたち数名とハインツだけで、その他の十人近い自警団員たちは、深傷ふかでを負って倒れ伏しているか、既に血と砂にまみれて事切れていた。

 ロンダートは、しばらくの間、化物の死骸を呆然と見つめていたが、ややあって、我に返ると、懐から酒の入った瓶を取り出した。
自分の団服の裾を切り裂き、酒を染み込ませると、それをまだ息のある団員たちの傷口に、きつく巻いていく。
立ったまま、放心状態に陥っていた自警団員たちにロンダートが声をかけると、彼らも、焦った様子で手当てを始めた。

 同じように、自警団員たちを手伝い始めたトワリスは、作業をしながら、ハインツとロンダートに言った。

「応急処置が終わったら、動かせそうな怪我人は、全員魔法陣の外に運び出しましょう。また地震が起きたら、今度こそ病院が倒壊するかもしれませんし、次に何が起こるかも分かりません」

 ロンダートは、顔をしかめた。

「やっぱり、地震やあの化物と、この魔法陣は関係があるのか?」

「あると思います。さっき、二度目の地震が起きたとき、魔法陣が光って、病院のほうから流れ出るような魔力を感じました。化物が現れる魔術なんて、検討もつきませんが……」

 言いながら、トワリスは、止血を施した自警団員を背負った。
──その時だった。

 不意に、足元から殺気が膨れ上がり、一同は、目を見開いたまま硬直した。
魔法陣が鈍く光って、突如、浮き上がった魔語が、伸びたつたのように身体に巻きついてくる。
立っている人間にも、事切れている人間にも関係なく、全身に付着した魔語は、刺青のように皮膚に刻まれていった。

 

Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下【1月完結予定】 ( No.370 )
日時: 2021/01/20 19:58
名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: r1a3B0XH)



「ひっ、な、なんだこれ……!」

 狼狽ろうばいした自警団員たちは、持っていたものを捨てると、全身に刻まれた魔語を無茶苦茶に掻きむしった。
しかし、血がにじむまで皮膚を引っ掻いても、魔語が消えることはない。
それどころか、魔語が染み付いた部分が、徐々に痛み出したので、場の空気は一層混乱を極めた。
まるで、魔語が皮膚を刺して、吸血しているような、身を絞られるような痛みであった。

 覚えのある、凍てつくような魔力が、地を這い出るようにして湧き上がってくる。
大病院や、負傷した自警団員たちから、滲むように溢れ出た魔力──否、この場合は、生命力とでも言うべきなのだろうか。
それらが、吸い寄せられるように化物の死骸へと集まっていく様を、トワリスは、息をするのも忘れて凝視していた。

 死んだはずの化物が、ぴくっと脚を動かす。
次の瞬間、背負っていた自警団員の身体から、すうっと体温が引いていって、トワリスは喫驚きっきょうした。
つい先程まで、確かに息をしていたはずの自警団員が、蝋人形のよう白く強張って、絶命していたのだ。

 ハインツがもぎ取って、捨て置いていた化物の脚や、散っていた体液までもが、砂のように形を変えて、化物の方へと吸い寄せられていった。
不気味な風を帯び、方々ほうぼうから集めた魔力を吸収して、化物は、傷ついた身体を再生させていく。
その姿を目の当たりにして、トワリスは、ロンダートに「化物が現れる魔術なんて検討もつかない」と言ったことを後悔した。
検討がつかないなんてことはない。トワリスは、この魔術をとっくの昔から知っていた。
トワリスだけではなく、皆が知っている魔術であり、正直なところ、シルヴィアが関わっているという時点で、そうではないかと予想はしていた。
ただ、使えないと“思い込んでいた”から、頭の中で決定付けていなかっただけで──これは、他ならぬ、召喚術なのだ。

 トワリスは、息絶えた自警団員を背から下ろすと、ゆっくりと地面に寝かせた。
思えば、シュベルテがセントランスから襲撃を受けた時と、今のアーベリトでは、状況が酷似している。
トワリスは報告書を読んだだけなので、シュベルテ襲撃の様子を、実際に目の当たりにしたわけではない。
だが、確かシュベルテでも、傷の具合に関係なく、異様な数の人間が死んでいた。
単純に考えて、弱った人間からのほうが魔力を吸いとりやすいのであれば、被害状況以上に死傷者が多いことも、何故か重傷者がいないことにも、説明がつく。
シュベルテでも、アーベリトでも、運良く無傷、もしくは軽傷だった者は生き残った。
一方で、重傷を負った者は、化物を発現させるための養分にされて、著しく衰弱し、最終的には死亡してしまったのだ。

 更に言えば、トワリスは、数月すうげつ前のセントランスでも、似たような魔術を目の当たりにしている。
あの時は、サイ・ロザリエスという魔語を読解した術者と、にえとなる瀕死状態の魔導師たち、これらの条件が揃っていた。
きっと、今は亡きサイは、調べていく内に、召喚術の発動条件に辿り着いてしまったのだ。
シュベルテでの襲撃を手引きした時は、魔語の解読ができていなかったために、不完全な召喚術しか行使できなかった。
セントランスでは、ルーフェンに逆に利用され、大勢の魔導師を死傷させたが、結果的にその魔導師たちを贄として、サイは、最期にもう一度だけ、召喚術を試みた。
結末としては、完成一歩手前で、その負荷に耐えられず、サイは亡くなった。
それでもあれは、ほとんど本物に近い召喚術だったのだろう。

(ルーフェンさんは、このことに気づいていたんだ……)

 ぐっと拳を握ると、トワリスは、再び化物と対峙した。

 吸魂術きゅうこんじゅつという、いわゆる命を操る禁忌魔術を、聞いたことがある。
召喚術とは、もしかしたら、吸魂術の応用のようなものなのかもしれない。
召喚師一族は、生まれもっての魔力量の多さから、単独で術を行使できる。
だが、魔力量の少ない普通の人間が、悪魔を一から作り出し、召喚するには、大勢の人間を犠牲にして、魔力を奪う必要があるのだろう。

 今まで秘匿ひとくとされてきた、謎多き術──。
必要なのは、召喚師一族の血筋というより、多量の魔力と、隠語としての役割を果たしてきた、魔語と呼ばれる言語の存在なのだ。

Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下【1月完結予定】 ( No.371 )
日時: 2021/01/21 19:44
名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: r1a3B0XH)



 トワリスは、勢い良く抜刀した。

「ロンダートさん! 今すぐ怪我人を魔法陣の外に運び出して下さい! その間の時間は、私とハインツで稼ぎます」

 はっと顔をあげた全員が、トワリスを見る。
もがれたはずの脚を生やし、裂かれた腹部まで、硬い外骨格で覆われ始めた化物を一瞥して、ロンダートが言った。

「まっ、待ってくれ、無理だ! とても運びきれる人数じゃないし、まだ瓦礫の下にも生きた人達がいるかもしれない。トワリスちゃんたちだって、あんな化物相手に危険だ。置いていけるわけないだろう!」

 トワリスは、首を振った。

「でもこのままじゃ、私達全員死にます! おそらくあの化物は、召喚術によって生まれた悪魔なんです。ここで戦ったところで、私達から魔力を吸い取って、いくらでも回復します。言わばこの魔法陣が、生け贄を捧げるための皿で、生け贄は私達です。今、シュベルテが襲撃された時と同じようなことが、アーベリトでも起こっているんです」

 ロンダートは、大きく目を見開いた。

「あっ、悪魔!? 悪魔って、あの悪魔か? でも、シュベルテで使われたのが召喚術だったというのは、セントランスの出任せだろう? それに報告じゃ、シュベルテに出たのは、もっとモヤモヤした、なんていうか、実体のない幽霊みたいなやつだったって……」

「セントランスが使った悪魔は、不完全な、思念の集合体みたいなものだったんだと思います。あれを召喚術擬もどきと表現するなら、目の前の化物は、ほとんど完全に近い召喚術によって生まれたものです。私達じゃ太刀打ちできません」

 早口で捲し立てれば、ロンダートの顔に、ますます焦燥の色が浮かぶ。
その時、隣にいた自警団員の一人が、ふと口を開いた。

「あの、これって、魔法陣から出たら解決するものなんでしょうか? この身体の文字……これ、全員包帯めくって確認したわけじゃないけど、院内の怪我人の身体にも刻まれてるんです。もしかして俺達、このままじゃ……」

 怯えた声で言って、自警団員は、トワリスを見つめてくる。
思わず息を飲むと、トワリスも、自分の身体に刻まれた魔語に視線をやった。

 自警団員の言う通り、この魔語は、贄となる人間の印みたいなものだろう。
先程まではなかったから、あの化物を再生させるにあたり、魔法陣の上にいた人間を贄として捕捉した、といったところだろうか。
魔法陣とは独立して、直接身体に刻まれているあたり、術式としては、呪詛に近い。
そう考えると、確かに、魔法陣の上から出ただけでは、回避できない可能性が高かった。
術を解く方法が、魔法陣の領域外に出ることなら、今になって、わざわざ術式を発動させた意味はないからだ。
あとは、化物が現れる前に領域外、つまり、孤児院に避難した者たちに、この術式が刻まれていないことを祈るばかりである。

 トワリスの沈黙から、事態を察したのだろう。
自警団員たちは、顔面蒼白になった。

「そんな……じゃあ俺達は、一体どうすれば」

「要は、あの化物は、何度攻撃しても、俺達の命を食って生き返るってことだろう? そんなの、どうしようもないじゃないか」

 瞳に絶望と諦めの色を浮かべて、自警団員たちは、口々に呟く。
トワリスは咄嗟に、まだ自分の推論に過ぎないことを伝えようとしたが、その瞬間、毛が逆立つような殺気を感じて、素早く臨戦態勢に入った。

 ついに、全ての脚を取り戻した化物が、もがきながら起き上がって、トワリスたちの方へと突進してきた。
すかさず前に出たハインツが、空を切るように手を動かす。
すると、蹴散らされた瓦礫が、意思を持ったかのように宙で翻り、矢の如き勢いで化物に突き刺さった。
しかし、体表を抉ったのは僅かで、ほとんどの瓦礫が、化物にぶち当たっただけで弾かれてしまう。
元は柔らかな皮膚に覆われていた胴体が、再生後に変化し、今や、強固な外骨格に包まれていたのだ。

「ハインツ! 関節の隙間を狙って!」

 叫んでから、地を蹴って距離を詰めると、トワリスは、化物の爪を避けて跳び上がり、その背に乗って、脚の付け根部分に剣を突き立てた。
がつんっ、と途中で刃が引っ掛かり、うまく刺さらない。
思いの外、関節同士の隙間が狭く、剣を振り切ることができなかったのだ。

 トワリスは、舌打ちをすると、化物の脚を踏みつけて、すぐに剣を引き抜いた。
だが、その僅かな間に、化物の背中から伸びてきた触手が、トワリスに襲いかかる。
即座に反応したトワリスは、揺れ動く化物の上で一気に踏み込むと、強く剣を握り、刀身に魔力を込めた。

 刃から、うねる蛇の如く炎が噴き出すと、触手は、一瞬怯んだような動きを見せた。
その隙を見逃さず、前に乗り出すと、トワリスは、振り向き様に触手の束を斬り払う。
一閃、斬撃を炎が追いかけて、次の瞬間、触手の根本がぼっと燃え上がった。

 身をぶるぶると震わせた化物が、地面に背を擦り付けるようにして、大きく全身をよじる。
触手に着火した炎は、あっという間に消えたが、化物が火を忌避したのは明らかであった。

Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下【1月完結予定】 ( No.372 )
日時: 2021/01/21 19:49
名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: r1a3B0XH)



 振り落とされたトワリスは、地面に叩きつけられたが、頭を守るように身を丸めて横転すると、すぐに起き上がった。
化物が火を嫌うならば、再生する間も与えず、全身燃やし尽くしてやりたいところだが、トワリスの魔力量では、それほどの火力を維持できない。
身体や剣に魔力を集中させて、攻撃するしかなかった。

 次の一手に出ようとしたトワリスは、剣を構え直した瞬間、化物の姿を見て瞠目した。
根本から燃やしたはずの触手が、凄まじい勢いで再生し、元の長さに戻ったからだ。

 身体に刻まれた魔語が、吸い付くような痛みを伴って、再び鈍く光る。
怪我人や弱った自警団員たちから生命力を奪って、化物は、瞬く間に回復した。
見間違いなどではない。トワリスの推論が、証明されてしまったと、全員が認めざるを得なかった。

 しかも、先程に比べ、再生に要する時間が、桁違いに短くなっている。
これは、トワリスたちにとっては、致命的なことであった。
回復に時間がかかるならば、再生する前に何らかの方法でとどめを刺せたかもしれないが、こうも瞬時に回復されては、攻撃したところで、こちらの魔力が搾取されていくだけだ。
つまり、トワリスたちの攻撃は、間接的に、魔語が彫られた者たちに向いているようなものなのである。

 攻めに迷いが生じたトワリスは、振り上がった爪に対し、一瞬反応が遅れた。
しまった、と思う間もなく、目の前に、死の気配が迫ってくる。
だが、化物の爪がトワリスを引き裂く寸前に、横から走ってきたハインツが、彼女の身体を突き飛ばした。

「────っ!」

 ハインツの背中から、ぱっと血が噴き出す。
しかしハインツは、痛みなど感じていない様子で、化物の脚を抱え込むと、思い切り、関節部分を逆に折り曲げた。

 大木を叩き折ったかのような音が鳴り響き、化物の身体が傾く。
それは、化物が回復するまでの、ほんの少しの時間であったが、その隙にトワリスは、ロンダートに助け起こされた。

「トワリスちゃん! 大丈夫か!」

 なんとか頷いて、立ち上がる。
ロンダートは、トワリスに意識があることを確認すると、ひとまず安堵したように頷いて、続けた。

「あの化物、やっぱり俺達の命を食って再生してるんだな。食い物がある限り、何度でも蘇るし、回復する」

「……はい。せめて、この術式さえなければ、魔法陣の外に出ることで状況は変わったと思うんですが……」

 無意識に、腕に刻まれた魔語に爪を立てて、トワリスは返事をした。
つぷりと血が滴って、ようやく手を離す。
落ち着いた声音に反し、トワリスも、内心ひどく混乱していた。
何せ、打つ手が全くないのだ。
化物を相手にしていては、自分達が消耗していく一方だし、シルヴィアを探すにしても、ハインツと自警団員を残していくわけにはいかない。
そもそも、シルヴィアがどこにいるのかも、検討がつかなかった。

 不意に、ぎりっと歯を食い縛ると、ロンダートが独り言のように言った。

「……大丈夫、大丈夫だ。トワリスちゃんもハインツも、まだ若いのに、こんなに強いんだから……何とかなる。守るんだ、せめて、孤児院に避難した人達は」

 そして、何かを決意したように目を見開くと、ロンダートは、トワリスをまっすぐに見た。

「もう少しだけ、時間稼ぎを頼めるか。すぐに戻る!」

 そう口速に言って、ロンダートは、他の自警団員たちを引き連れ、大病院の方に駆けていく。
無理だと言っていたが、一か八か、動けそうな怪我人だけでも、魔法陣の外に運び出すつもりなのだろう。
大病院に寝かされていた人々は、元々が衰弱しきっていた上に、化物に生命力を奪われて、助かる見込みのある者はいないように見えた。
それに、術式が刻まれているなら、魔法陣の領域外に出したって、おそらく意味はない。
けれど、ロンダートは、こんな絶望的な状況では、もう微かな可能性に賭けるしかないと思い直したのかもしれない。
実際、他にできることは、何もないのだ。
それならばトワリスも、時間稼ぎに徹しようと、覚悟を決めるしかなかった。

Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下【1月完結予定】 ( No.373 )
日時: 2021/01/22 20:22
名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: r1a3B0XH)



 化物を傷つけず、自分達も致命傷を負わないように渡り合うのは、想像以上に過酷なことであった。
空を切って襲いかかってくる鎌のような爪と、鞭のようにしなる触手を避け、時には弾きながら、走り続ける。
実際にはほんの一瞬でも、トワリスとハインツにとっては、永遠の時間のように感じられた。
一つの動作をする度に、枷のようにまとわりつく疲労が、全身に蓄積されていく。
少しでも気を抜いたら、命を落とすかもしれない。
その緊張感だけが、トワリスとハインツの手足を動かし続けていたのであった。

 化物の懐に潜り込んで、脚の動きを抑え込んでいたハインツは、不意に、触手に腕をとられて、地面に引きずり落とされた。
倒れたハインツを狙って、鋭く研ぎ澄まされた爪が、振り下ろされる。
身を硬くしたハインツだったが、しかし、その爪が、自身の肉体を貫くことはなかった。
素早く割り込んできたトワリスが、双剣を交差させて、爪を受け止めたのだ。

 耐えきれぬ重さがのし掛かってきて、トワリスは、思わず膝をついた。
このままでは剣が折れると確信して、わずかに刃の向きを変えると、爪の軌道を地面へと反らす。
思惑通り、爪は地面に深々と突き刺さったが、次の瞬間、身体に巻き付いてきた触手が、弓なりにしなって、二人は絡めとられたまま、凄まじい勢いで吹っ飛ばされた。

 ハインツは、咄嗟にトワリスの身体を守るように抱き寄せたが、あまりの速さに、受け身をとる余裕がなかった。
積み上がった瓦礫の山に、背中から突っ込んで、後頭部に脳が揺れるような衝撃が走る。
ハインツは、すぐに立ち上がろうとしたが、目を開いても、視界がぼんやりと暗く、手足がうまく動かなかった。

「──ハインツ!」

 崩れて降ってきた瓦礫を押し退け、ハインツの腕から抜け出すと、トワリスは、慌てて彼の頬を軽く叩いた。
頭を強く打って、意識が朦朧もうろうとしているのだろう。
指先が微かに動いているが、仮面越しに見た目の焦点が合っておらず、気を失いかけている様子であった。

 化物の標的をハインツから外そうと、瓦礫の山から跳び出したトワリスは、しかし、地面に着地した途端、足がもつれて、その場で体勢を崩した。
よく見ると、右の太股から膝にかけて、深い切り傷ができている。
爪を受け流した時か、触手に吹っ飛ばされた時に、裂かれたのだろうか。
痛みは感じていなかったが、思うように力が入らず、身体が限界を訴えているようだった。

 立てずにいると、伸びてきた触手が、トワリスの足を絡めとった。
弧を描くように、ぐんっと身体が吊り上げられる。
化物は、このままトワリスを地面に叩きつけて、殺す気なのだろう。
ハインツは気絶で済んだが、トワリスでは、受け身をとったところで、どうなるかなど想像に容易い。
トワリスは、必死に剣を振ろうとしたが、足に力が入らないせいで、触手が間合いに入らなかった。

 ぎゅっと目を瞑って、死を覚悟した時。
地面に落とされると思っていたトワリスは、突然、空中に投げ出されて、はっと目を見開いた。
不意に、眼下を通りすぎた火の玉が、化物の背中の口に放り込まれていく。
不快そうに頭を振り、触手を震わせた化物は、背中の火を消そうと、身体をのけ反らせて暴れ回った。

「今だ! 火を嫌がっているぞ! 火をつけるんだ!」

 ロンダートを含む、生き残っていた六人の自警団員たちが、松明たいまつを片手に走ってきて、化物を取り囲む。
彼らは、油を詰めた瓶や、火の玉──油を染み込ませた布を石に巻き、着火させたものを化物に投げつけると、襲ってきた脚や触手に松明を押し当て、一気に燃え上がらせた。

 落下したトワリスは、宙で身を翻し、地面で横転して衝撃を逃すと、なんとか顔だけをあげた。
ロンダートたちが、松明を振りながら、化物を大病院のほうに誘導していく。
怪我人たちは、もう避難させたのだろうか。
歯を食い縛りながら、懸命に化物と対峙する彼らの顔には、色濃い恐怖が滲んでいたが、先刻のような、諦めの表情は浮かんでいなかった。
 
「怯むな、戦え! 戦え! 俺達がアーベリトを守るんだ!」

 団員たちを鼓舞しながら、ロンダートが叫んだ。

「汚い奴隷のガキに、居場所をくれたのは誰だ! 盗みしか知らなかったろくでなしに、生き方を教えてくれたのは誰だ! サミル先生だ! 救われた命、今、ここで使わないでどうする……!」

 ロンダートに応えるように、叫び声をあげながら、自警団員たちは、必死になって松明を振った。
付かず離れずの距離で、火を押し当ててくる団員たちに、化物は、蝿でも払うかのように、何度も何度も触手を振り回した。
自警団員たちは、時折迫ってくる爪さえもなしながら、徐々に、徐々に、大病院の方へと進んでいく。
炎を嫌っているのもあったが、化物も、餌が豊富な大病院へと近づきたいようであった。

Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下【1月完結予定】 ( No.374 )
日時: 2021/01/22 20:25
名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: r1a3B0XH)



 やがて、大病院の目の前まで来ると、ロンダート以外の自警団員たちが、持っていた松明を、槍のように化物に投げつけた。
燃え盛る炎が、油まみれの体表に着火して、みるみる広がっていく。
化物が、苦しげに身体をくねらせ、炎を消そうと大病院に突撃した、その時──。

 トワリスは、ようやく、自警団員たちの狙いに気づいた。

「ロンダートさん……っ!」

 喉を震わせ、大声で呼ぶと、一瞬、振り返ったロンダートと目が合った。
ロンダートは、いつもの調子でにっと笑うと、そのまま大病院の中に踏み込み、松明を投げ捨てる。
痛む脚を擦り、どうにかしてトワリスが立ち上がろうとした、その、次の瞬間。

 突然、視界が白んだかと思うと、一拍遅れて、耳をつんざくような爆発音が鳴り響いた。
化物ごと、大病院が炎上し、もくもくと黒煙の柱が立ち上る。
自然発火の勢いではなかった。

 つん、とした消毒液の匂いと、酒の匂いが漂ってきて、トワリスはその場にへたり込んだ。
ロンダートたちは、助かる見込みがないと判断した怪我人たちを、避難させてなどいなかった。
化物の糧となることを防ぐために、用意していた消毒液や酒を撒いて、建物ごと燃やしたのだ。自分達を、囮に使って。

 声にならない悲鳴をあげると、化物は、火だるまになってのたうち回った。
無茶苦茶に触手を動かし、周囲の瓦礫を手当たり次第に蹴散らしていくが、ついに、触手や脚が焼け落ち始めると、じたばたと痙攣するだけのさなぎのようになった。

 糧としていた人間がほとんど死んだためか、化物が、瞬時に身体を再生させることはなかった。
それでも、少しずつ、少しずつ、燃えただれた体表を回復させようとしている。
まだ、大病院の中に、生きている人間がいるのだ。

 トワリスは、剣を支えに立ち上がると、右足を引きずりながら、よろよろと大病院に近づいていった。
あと数歩といったところで、肺がひりつくような熱気に当てられ、思わず後ずさる。
大きく傾いた建物を包み込み、激しく踊るように揺れている炎が、苦しみ、悶えている人の姿にも見えた。

 灰色の空を仰ぐと、トワリスは、肌が湿るような、微かな雨を感じた。
霧と変わらない、煙のような雨では、燃え盛る炎を消すことなどできない。
消したところで、どうなるというのか。
化物の食い物にされ、他に助かる道がないから、ロンダートは、逃げ延びた避難民のために、化物諸共消え去る選択をしたのだ。

 ずるずると地面を擦るような音が聞こえて、振り返ると、トワリスのすぐ傍まで、化物が這い擦ってきていた。
炎は消えていたが、全身が煙をあげて燻り、脚や尾の一部は炭化している。
それでも、まだ再生しようとしているのか、ぎちぎちと鋏角きょうかくを蠢かせて、トワリスのことを見ていた。

 剣を構えようとしたトワリスは、その時初めて、自分が酸欠を起こしていることに気づいた。
知らず知らずの内に、煙を吸っていたのだろう。
呼吸をすると、喉が刺されるように痛んで、目の前がぐらっと揺らいだ。

 トワリスが動けずにいると、不意に、足音が近づいてきて、人影が化物に突進した。──ハインツだ。
重々しい音と共に、化物が横倒しになり、しかし、その衝撃で、ハインツも地面に弾き跳ばされた。
背中の切り傷から、のろのろと血が溢れている。
トワリスは、目眩で倒れそうなところを踏み留まると、剣を両手で一本に持ち替え、渾身の魔力を込めた。

 この化物には、もう再生するための糧がない。
ハインツも、トワリスも、これ以上は限界だ。
一撃で仕留められるかどうかは分からなかったが、やるしかなかった。

 炎を灯した剣を、大きく振りかぶろうとした、その時だった。
突然、雲が不気味な光を孕んだかと思うと、視界が点滅して、雷鳴がとどろいた。

「────っ!」

 青白い閃光が目をき、トワリスとハインツは、反射的に腕で顔を覆った。
雷撃は一度ならず、二度、三度とほとばしり、見る間に化物を塵に変えていく。
間近で稲妻が大気を渡り、まるで生きた心地がしなかったが、魔力の膜にくるまれるようにして守られていたトワリスとハインツは、痛みも熱さも感じていなかった。

Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下【1月完結予定】 ( No.375 )
日時: 2021/01/23 20:22
名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: r1a3B0XH)



 どのくらいうずくまっていたのか。
ふと、名前を呼ばれて、トワリスは目を見開いた。
見慣れた銀髪が視界に入って、身体の芯がほぐれるような、安堵感が湧いてくる。
ルーフェンは、トワリスの右脚と、ハインツの背の傷に止血を施すと、言葉もなく、辺りの惨状を見回した。

 もはや見知った面影はない。
一面、瓦礫の海と化したアーベリトを見渡し、それから、足元の魔法陣を見る。
誕生と死滅、再生と破壊、呪詛の魔語が延々と書き連ねられたそれらの術式を見れば、一体誰がこんなことをしたのか、ここで何があったのかは、なんとなく読み取れた。

 次いで、未だ燃え盛る大病院のほうを見やると、座り込んでいるトワリスが、涙を押し殺したように言った。

「……ごめんなさい。シュベルテと、同じことが起きたんです。化物が出て、そいつが、魔力を得て回復してしまって。それで、ロンダートさんたちが……」

 訥々とつとつと溢して、ぐっと唇を噛む。
ハインツは立ち上がると、ルーフェンをすがるように見た。

「……お願い、火、消して。まだ、生きているかも……」

 そう言ったハインツの手が、細かに震えている。

 ルーフェンは、再び炎に視線を移すと、しばらくの間、静かに黙っていた。
だが、ややあって、ルーフェンが手をかざすと、大病院を包んでいた炎は、収まるどころか、爆発して、更に燃え上がった。

 うだるような熱風が髪をなぶり、トワリスとハインツは、思わず顔を背ける。
傾いたまま、なんとか持ちこたえていた大病院の屋根は、ついに、炎に飲まれ、ひしゃげて倒壊した。

 トワリスとハインツが、ぞっとしたような面持ちでルーフェンを見ると、彼は、平坦な声で告げた。

「……ごめん。こうなったら、もうどうしようもないんだ。……本当に、ごめん」

 謝罪を繰り返したルーフェンの表情は、座っていたトワリスからは、よく見えなかった。
ただ、大病院が黒く焼け爛れた残骸となり、崩れ去っていく様を、ルーフェンは、じっと見つめていた。

「……ルーフェンさん」

 不意に、トワリスが口を開いた。
やっぱり、召喚術のことを知っていたんですか、と尋ねようとしたとき。
誰かが、背後から声をかけてきた。

「ああ、可哀想に……。死んでしまったのね……」

 ルーフェンたちが、はっと振り返ると、気配もなくそこに佇んでいたのは、シルヴィア・シェイルハート──その人であった。

 美しい銀髪をなびかせ、たおやかに歩み寄って、大輪の花の如き佇まいでそこに立つ。
シルヴィアは、煌々こうこうと燃える炎を前に、ふと、灰と化した化物のむくろを見ると、ゆっくりと、その両腕を広げた。

「形を成すのは、まだ早かったのね。苦しかったでしょうに……。でも大丈夫、貴方は何にでもなれるのよ。さあ、こちらにおいで、おいで……」

 一体シルヴィアが何を言っているのか分からず、トワリスたちは、眉を潜めた。
しかし、問う間もなく、目の前で起きたことに、絶句することになる。
化物の骸が溶け出し、黒々とした液体になると、それが、赤子の泣き声を発しながら、シルヴィアに向かって這い出したのだ。

 それは最初、陸に打ち上げられたオタマジャクシのような姿で、地面をうねるようにして這っていた。
だが、やがて、イモリのように四肢を生やし、最終的には、人間の赤子のような形に変わると、シルヴィアの足元に辿り着いた。

「さあ、こっちに来て。可愛い、可愛い私の子……。ふふ、貴方の名前は何にしようかしら」

 シルヴィアは膝をつくと、しゃくりあげる子供のようなそれを、愛おしそうに抱き締めた。

「そうね……アガレス。貴方の名前は、アガレスにしましょう。私たちは代々、一番目のバアルを継いでいるから、貴方は、二番目のアガレスよ」

 言いながら、とんとんと子供の背を叩いて、シルヴィアは、あやすように耳元で囁いた。

「もう泣かないで、大丈夫よ。ほら、よく集中して、感覚を研ぎ澄ませるの。この魔法陣の上には、まだ沢山の人間がいるわ。死にかけて、弱った人間がちょうどいいわね」

 シルヴィアの言葉に呼応するかのように、足元の魔法陣が鈍く光って、あの凍てついた魔力が、街中からシルヴィアの元へ集まってくる。
同時に、身体に刻まれた魔語が、再び痛みを伴って、トワリスとハインツは呻き声をあげた。

Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下【1月完結予定】 ( No.376 )
日時: 2021/01/30 10:13
名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: r1a3B0XH)

 ルーフェンは、はっと表情を強張らせると、シルヴィアを睨み付けた。

「この期に及んで、なんのつもりだ。……お前がやったのか、全て」

 唸るような声で言って、ルーフェンが殺気立つ。
シルヴィアは、銀の目を細めて、にっこりと笑った。

「そうよ、私がやったの。……でも駄目ね。悪魔を作ったのは初めてだったから、少し加減を間違えたみたい。どうも、意識を失っていない人間は、肉体と魂の結び付きが強すぎて、うまく力を奪えないようなのよ。死んだ人間は元より、魂が既に肉体から離れてしまっているし……。贄の選定を、死にかけて、魂と肉体が分離しかかっている人間に限定したら、街一つ分じゃ、大した量にはならなかったわね」

 言いながら、シルヴィアが手をかざすと、トワリスとハインツの身体に刻まれた魔語が、ふっと薄くなって消えた。
瀕死でもない二人からは、大した力を奪えないため、用済みということなのだろうか。
しかし、アーベリトの人々を犠牲にし、魔力を吸収して肥大した悪魔は、赤子の姿から徐々に成長し、やがて、立ち上がると、屈んだシルヴィアと同じくらいの背丈になった。
 
 泥人形のようだった悪魔は、やがて、茶髪の少年の姿になると、ゆっくりと振り返った。
ルーフェンの瞳が、微かに揺れる。
シルヴィアは、満足そうに微笑むと、悪魔の頬に口づけた。

「ふふ、懐かしいわ。形がとれるだけ、セントランスよりは上手くやれたみたい。……覚えているかしら、貴方の弟のアレイドよ。兄弟の中じゃ、一番よく話していたでしょう?」

「…………」

 ルーフェンは、無意識に息を詰めて、今は亡き弟の姿をした悪魔を見つめていた。
悪魔もまた、こちらを見つめていたが、その光のない目には、ルーフェンなど映っていない。
ルーフェンは、乾いた笑みを浮かべた。

「……だからなんだ。自分で殺した息子を、今更生き返らせようとでも言うのか。それとも、似た泥人形を傍に置いて、可哀想な自分を慰めようって?」

 悪意の満ちた言い方に、束の間、シルヴィアの顔から笑みが消える。
だが、すぐにいつも通りの冷たい微笑に戻ると、シルヴィアは立ち上がった。

「そんなこと言わないで、ルーフェン。私はただ、最期に召喚師としての力を取り戻したかっただけ。貴方が力を返してくれないのなら、私が新たに、使役悪魔を作るしかないと思ったの。……それで、折角なら、獣や人間離れした姿をじゃなくて、馴染みのある形を取らせた方が良いでしょう……?」

 そう呟いて、シルヴィアが悪魔の背に触れると、悪魔は、再び形の定まらない泥人形となり、次いで、背の高い男の姿をとった。
それを見て、今度はトワリスとハインツが、動揺の色を見せる。
悪魔が象ったのは、ロンダートを初めとする、自警団員たちの姿だったのだ。

 トワリスは、唇を震わせると、思わず叫んだ。

「待ってください! 貴女たちの言う悪魔って、死にかけた人間から魂を無理矢理引き剥がして、それを集めた存在だってことですか? そんなことして、ルーフェンさんと争って、一体何になるって言うんですか! 私達が、貴女に何をしたって言うんですか! ロンダートさんや、アーベリトの人達を返してください……!」

 感情の高ぶりと共に、思いがけず、涙が溢れた。
怒りや悲しみ、様々な激情がない交ぜになった瞳で睨んできたトワリスに、シルヴィアは、淡々と答えた。

「悪魔というのは、理から外れた人間の成れの果て……みたいなものよ。こんなことを始めたのは、召喚師一族の始祖でしょうから、私も、詳しい経緯は知らないわ。でも、使った魂は、元の器に戻したところで、二度と元通りにはならない。それが代償よ。貴方たちが言う禁忌魔術というのは、何かを取り戻すために、何かを失う魔術だもの」

 滔々とうとうと語られた真実を、ルーフェンだけが、顔色を変えずに聞いていた。
ルーフェンは、ただ黙って、怒りと嫌悪の眼差しをシルヴィアに向けている。
その表情を見て、トワリスは、シルヴィアの言ったことはら嘘ではないのだろうと思った。

 禁忌魔術の代償となったものは、もう戻らない。
無我夢中で闘っていたため、はっきりと意識していなかったが、先程までトワリスとハインツが攻撃していた化物は、アーベリトの人々の魂そのものだったのだ。
そう思うと、腹の底から震えが走った。

 ルーフェンに向き直ると、シルヴィアは、口を開いた。

「私のことが、憎いでしょう。恨めしくて、殺したくて、堪らないでしょう。……だから、もうおしまい」

 人形のように佇んでいた悪魔が、ふっと大気に溶けて、シルヴィアの中に宿る。
身構えたルーフェンに、唇で弧を描くと、シルヴィアは唱えた。

「──汝、完成と闘争を司る地獄の公爵よ。従順として求めに応じ、可視の姿となれ……。……アガレス」

Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下【1月完結予定】 ( No.377 )
日時: 2021/01/24 19:26
名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: r1a3B0XH)



 シルヴィアから、突風のように魔力が迸ったのと、ルーフェンが結界を張ったのは、ほとんど同時だった。
地鳴りが響いて、ルーフェンたちが立っている場所を避けるように、地面に亀裂が入る。
結界外で巻き起こった暴風に、周囲の瓦礫や木々がぎ倒され、互いにぶつかり合って、亀裂の下に雪崩れ落ちていった。

 揺らめく人影のように、シルヴィアの傍に発現した悪魔は、ややあって、有翼の巨大なトカゲのような姿になると、結界に食らいついた。
咄嗟にルーフェンが手を動かすと、結界が雷撃を帯び、弾かれた悪魔が、液状になって飛び散る。
しかし悪魔は、びりびりと振動する結界にへばりつき、無数の手を伸ばすと、ルーフェンたちを包むように広がった。

 どう助太刀すれば良いのか分からず、剣を握ったまま硬直していたトワリスは、ふと、何かに呼ばれたような気がして、視線を巡らせた。
覆い被さる悪魔の体表が、沸騰したように泡立ち、弾け、ぼこぼこと波立っている。
その泡が、人の顔を象って、トワリスに言った。

──殺せ、殺せ……!

 浮き上がった顔が、恨めしそうにトワリスを責め立てる。
苦悶の表情で喘ぎながら、憎悪の眼差しで、こちらをじっと見つめている。
それらが全て、この悪魔に吸収された者たちなのだと思った途端、身体を絡め取られたかのように、動けなくなった。
剣を持つ手が強張って、もう握れないし、斬れない。
もしかしたら、この顔一つ一つが、正真正銘、アーベリトの人々の魂かもしれないのだ。

 トワリスとハインツが、吸い寄せられるように悪魔の目を見ていることに気づくと、ルーフェンは叫んだ。

「見るな! 声も聞いちゃ駄目だ!」

 肩を震わせた二人の目に、はっと光が戻る。
ルーフェンは、トワリスから片剣をとると、それを逆手に持ち替え、悪魔の目に突き刺した。

 縮み上がった悪魔が、耳障りな断末魔を発する。
刃に伝わせ、ルーフェンが一気に魔力を放出させると、今度こそ悪魔は霧散した。
間髪いれずに結界を解き、短く詠唱すれば、飛散した悪魔を追撃して、立て続けに稲妻が閃く。
弾かれ、撹拌かくはんされ、もはや、形を保てなくなった悪魔であったが、すぐに周辺から魔力を吸収し出すと、散った身体を寄せ合って、再生し始めた。

 何度攻撃したところで、魔法陣上ににえとなる人魂がある限り、この生まれたての悪魔は消えない。
何もかも、もう元には戻らない。
その現実を突きつけられた時、不意に、時の流れが緩やかになった。

 激しい魔力のぶつかり合いで、大気が振動している。
その中で、ふと、視界に入ったシルヴィアの顔を見て、ルーフェンは、自分がやらなければならないことを悟った。

 ルーフェンは、つかの間目を閉じて、開いた。
再度剣に魔力を込めれば、剣が粘土細工のように変形し、鉄杖へと変わる。
その杖を、一気に横に振ると、次の瞬間、灼熱の炎が辺り一面を飲み込んだ。

 霧に包まれていた街が、燃え盛る炎の海に沈んでいく。
吹き荒れていた嵐が止み、全ての音が、炎の音に吸い込まれて消えていった。

「まあ……皆、殺してしまったのね」

 不意に、シルヴィアが、少し驚いたように呟いた。
トワリスとハインツも、目前で起きていることが信じられぬ様子で、ルーフェンのことを見つめている。
何故、とは問えなかった。理由は分かっていたからだ。
ただ、一瞬でその選択を果たしてしまったルーフェンに、どうしても、理解が追い付いていなかった。

 糧を失った悪魔が、泥のように地面にわだかまっている。
沸き上がった泡が、見知った顔になって、ルーフェンに歪んだ目を向けた。
ルーフェンは、この目をよく知っている。
幼かった頃、身の内に巣食う悪魔に意識を取り込まれると、いつも、暗がりから、この目がルーフェンを見ていた。
苦痛を訴え、嘆き悲しみ、ルーフェンに贖罪しょくざいを求める人々の目だ。

 悪魔のほうに杖を向けると、ルーフェンは言った。

「──来い」

 一斉に目を剥くと、悪魔は、ルーフェンに襲いかかった。
邪悪な気を纏い、放物線を描きながら飛び上がって、掴みかかるように、無数の手を伸ばしてくる。
その手が、いつだったかの、差し伸べられた手と重なって、ふと、今までの思い出が蘇ってきた。

 目まぐるしくも、穏やかだったサミルとの日々。
倒壊した建物の隙間から見つかった、半獣人の少女と、最初は街中を歩いただけで卒倒しかけていた、リオット族の少年。
二人を招き入れたとき、現役を引退して、屋敷で暇を持て余していた医術師連中は、いよいよ色物揃いになったなぁと、案外すんなり事態を受け入れていた。
ちょっとした魔術を見せただけで、すごいすごいと興奮し、陽気に笑っていたアーベリトの人々。
何度言っても、勝手に王室や執務室に入ってくる自警団の者たちに、当時、屋敷勤めだった家政婦たちは、いつも憤慨していた──。

 すぐ目の前まで、悪魔が迫っている。
歯を食い縛ると、ルーフェンは目を背けた。

(……ごめん)

 どこかで、遠雷のような音が鳴り響いた。

Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下【1月完結予定】 ( No.378 )
日時: 2021/01/25 21:10
名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: r1a3B0XH)



  *  *  *



 移動陣でアーベリトに向かったであろうルーフェンを追って、ジークハルトも、シュベルテから飛び出した。
アレクシアから、新興騎士団がアーベリトに向かっているという密書を受けて、一刻以上が経過している。
これが計画的な進軍で、今朝方には出発していたのだとすれば、行軍と言えど、既にアーベリトに到着していてもおかしくない頃であった。

 アーベリトに隣接する森に入ったところで、ジークハルトは、ふと馬を止めた。
近くの茂みに身を隠し、耳を澄ませると、風に乗って、複数の馬蹄の音が聞こえてくる。
戦を仕掛けるほどの大軍ではなさそうだが、アーベリトのように、兵力の少ない街の意表を突くには、十分な数だろう。
ジークハルトは、馬にまたがると、その脇腹を蹴って、山道を駆けたのであった。

 肌を湿らす霧雨は、森を抜ける頃には、みぞれ混じりの冷たい雨に変わっていた。
雨避けの外套を羽織り、馬を駆る速度を上げれば、アーベリトの街並みが近づいてくる。
その時になって、ジークハルトは、漂う奇妙な静けさに気づいた。

 濡れそぼる草木や、石の匂いに混じって、異様な焦げ臭さが鼻をつく。
立ち昇る黒煙が見え始め、やがて、その光景が目に飛び込んでくると、ジークハルトは息を飲んだ。

 このようなむごい光景を見るのは、これで二度目であった。
アーベリトが、そこだけ切り取られたかのように陥没し、炎に包まれている。
雨のお陰か、鎮火している箇所もあったが、既に灰燼かいじんと化した街並みが、尚も炎にめられている様は、地獄以外の何ものでもなかった。

 倒壊した家々の残骸を飛び越え、ある程度進むと、馬が火を怖がって、進まなくなった。
ジークハルトは手綱を引き、一歩引いて様子を見ていたが、少しして、落ち着かない馬を森の近くに繋ぐと、火が回っていない場所を選んで街中を走った。

 アーベリトに入った時から、尋常ではない、強大な魔力を感じていた。
その残滓ざんしを辿り、一際黒煙が上がっている場所に行き着くと、そこは、今まで通ってきたどこよりも、凄惨な有り様であった。
大規模な建物が建っていたのか、黒焦げになった瓦礫が、広範囲に散乱している。
既に火は消えていたが、その瓦礫に埋もれるような形で、消し炭と化した遺体が、折り重なるようにして倒れていた。

 延々と続く死体の山が、ようやく途切れたその先に、探していた人物が立っていた。
ジークハルトは瞠目し、よろけるようにして前に出ると、陰雨いんうの中で佇むルーフェンを見つめた。
彼の足元には、シルヴィアが倒れている。
青白い手指は微動だにせず、血と水溜に沈んだ銀髪が、雨に打たれて、ゆらゆらと揺れていた。

「……殺したのか」

 ジークハルトが問いかけると、ルーフェンの近くにいた二人が、はっと顔を上げた。
一人は、見覚えのある半獣人の女魔導師、もう一人は、見知らぬリオット族の大男であった。
ルーフェンは、顔をあげずに、シルヴィアを見下ろしたまま答えた。

「……まだ死んでない。魔力が減って、弱ってるだけだ。すぐに回復する。……この女、一体いくつ自分に禁忌魔術をかけてるんだか」

 憎々しげに吐き捨てて、容赦なく鉄杖を振り上げたルーフェンの手を、ジークハルトは、咄嗟に掴んで止めた。

「やめろ! どうせ、もう分かっているんだろう。今、新興騎士団がこの街に向かっている。奴らの狙いの一つは、召喚師一族だ。お前とその母親が共倒れでもしたら、それこそ教会の思う壺だぞ」

 ルーフェンは、ジークハルトの手を振り払った。

「そんなことどうだっていい。この女が、アーベリトを陥れたのは事実だ」

「だとしても、裁くのは、拘束してシュベルテに連れ帰ってからで良いだろう! 教会とシルヴィアが繋がっていた可能性もある。全て吐かせて、教会の不正を明るみにしてから処断するべきだ」

「そんなの、拷問したって吐くわけないだろう。いいから放っておいてくれ! いい加減、この女とは決別したいんだ」

 再び振り上がったルーフェンの手を、ジークハルトが止める。
その瞬間、銀の瞳に鋭い光が浮び、ルーフェンは、思い切りジークハルトを蹴り飛ばした。
水しぶきを跳ね上げて、ジークハルトが地面に転倒する。
だが、ルーフェンがシルヴィアに手を伸ばすよりも速く立て直すと、今度はジークハルトがルーフェンを殴り飛ばした。

Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下【1月完結予定】 ( No.379 )
日時: 2021/01/25 21:15
名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: r1a3B0XH)



 放心して、地面に座り込んでいたトワリスは、二人が揉み合っている様を見ている内に、荒立っていた思考が凪いでいくのを感じていた。
改めて周囲を見回し、片剣を支えに立つと、トワリスは、二人を引き離すように間に入った。

「二人とも、ちょっと落ち着いてください!」

 ルーフェンとジークハルトが、動きを止める。
トワリスは、ルーフェンを見上げた。

「ルーフェンさん、聞いてください。街がこうなる前に、シルヴィア様が、教会と賭けをした、って言っていたんです。だから、バーンズさんの言ってることは、確かだと思います。教会が来る前に、シルヴィア様を連れて、シュベルテに行きましょう。それから、孤児院のほうに避難した人達がいます。その人達が、無事かどうかも確かめにいかないと……」

 気が鎮まるように、トワリスは、努めて冷静な口調で言ったが、ルーフェンの憎しみが灯った瞳は、全く変わらない。
アーベリトに駆けつけた時から、ずっと押し殺してきた怒りが、今、せきを切って溢れているようであった。

 強く握りしめた拳を震わせて、ルーフェンは返した。

「どうしてトワは、この女をかばうんだよ。君の母親と、こいつは違う。勝手に君の理想像を押し付けて、結論付けないでくれ。この女は、人間の命なんてなんとも思ってない、危険な人殺しなんだ」

 トワリスは、首を横に振った。

「庇ってなんていません。確かに、ルーフェンさんに黙って勝手に会ったり、話したりはしました。そのことについては、謝ります。でも、私情でどちらかに偏っているつもりはありません。考えてみてください。今、シルヴィア様を手にかけたとして、この場に来た人がアーベリトの状況を見たら、どう思いますか。こんな……こんな、街を丸ごと破壊するなんて、普通の人間に出来るはずがないんですから、真っ先にルーフェンさんが疑われます。まして、最初に目にしたのがイシュカル教徒だったら、どう吹聴されるか分かりません。シルヴィア様に、公の場で自白してもらいましょう。その上で、厳正に処罰されるべきです。そうすれば、ルーフェンさんが疑われることだってないはずです」

「…………」

 ルーフェンは、わずかに目を見開くと、トワリスを見た。
真っ直ぐにこちらを見つめ返してくるトワリスに対し、乾いた笑みを浮かべると、ルーフェンは呟いた。

「……それでいいんだよ、俺が疑われなくちゃいけない。事実、最終的にアーベリトを燃やしたのは俺だ。召喚術を始め、強大な力は、召喚師にしか扱えない。世間はそういう“認識”であるべきなんだ」

「……どういうことですか?」

 訝しげに眉を寄せて、トワリスが尋ねる。
ルーフェンは、首を振ると、トワリスから目をそらした。

「いい。……君たちも、本来なら知るべきことじゃない」

「なんですか。そんな言い方じゃ、納得できませ──」

「──頼むから、邪魔をしないでくれ!」

 トワリスの言葉を遮って、ルーフェンが声を荒らげた。
びくっと肩を震わせて、トワリスが黙り込む。
ルーフェンは、憎悪の眼差しでシルヴィアを睨んだ。

「大体君達は、この女の恐ろしさが分かっていないから、そんな悠長なことを言っていられるんだ! 何度も殺そうと思ってたのに、先伸ばしにして……結局、犠牲が増えただけだった。こんなことになるなら、もっと早くに殺しておくべきだったんだ……」

 言うや、杖に魔力を込めたルーフェンを、ジークハルトが止めようと、手を伸ばした。
しかし、それよりも先に、ハインツが飛び付いてきて、ルーフェンを押し倒す。
凄まじい力で地面に叩きつけられたルーフェンは、咄嗟にハインツを押し返そうとしたが、ふと、その表情を見て、思わず言葉を失った。

 雨に混じって、ルーフェンの胸元に、ぽつぽつと雫が落ちる。
鉄仮面の奥から、溢れるほどの涙を流して、ハインツは呟いた。

「ル、ルーフェンが、言った。俺たちに……。憎しみ合う、のは、間違ってる、って」

「…………」

「七年前……ルーフェンが、言った」

 耳元で、そう繰り返しながら、ハインツは泣いていた。
それは、七年前のノーラデュースにて、憎み合い、殺し合いを繰り返し続ける魔導師とリオット族達に、ルーフェンが言った台詞であった。

 震える大きな手が、力加減を間違わぬよう、肩にすがりついてくる。
仄暗い道を行く、そんな自分を、ハインツは必死に引き留めようとしているのだ。
その思いを感じた瞬間、ルーフェンの喉に、熱いものが込み上げてきた。

 暗澹あんたんとした曇り空から、絶え間なく雨が降っている。
その冷たさが、肌に触れて、頭の中にも染み込んでいくようであった。

Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下【1月完結予定】 ( No.380 )
日時: 2021/01/26 19:46
名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: r1a3B0XH)




 ややあって、ルーフェンが口を開こうとしたとき。
不意に、馬蹄の音が響いてきて、一同はそちらに振り返った。

 白くもやのかかった森の方から、鎧を着込んだ兵士たちが、列を成して姿を表した。
数は二百いるか、いないかといったところだろう。
先頭を歩く騎馬兵の記章は、イシュカル教会のものであった。

 みるみる近づいてくる兵たちの顔ぶれを見て、ジークハルトは、舌打ちをした。
見知った顔が、数多く並んでいたからだ。
おそらく、今回の行軍では、世俗騎士団や魔導師団からの離反者を中心に、送り込んできたのだろう。
つまり彼らは、イシュカル神を信仰している者達というよりは、召喚師一族に疑念を抱いたり、城を追われて困窮したという理由で、教会側に寝返った者達である。
元は、ジークハルトらと共に戦っていた、騎士や魔導師であったということを考えると、実に胸糞の悪い編成部隊であった。

 先駆けの騎士たちと目が合うと、ジークハルトが前に出た。

「止まれ、止まれ! 騎士修道会が、アーベリトまで何用か」

 兵士達の行軍が、距離をとった位置で、ジークハルトと向かい合う形で止まる。
騎士の一人が、馬上から答えた。

「バーンズ殿、行方を眩ませていた貴殿こそ、何故この場にいるのか。我々は、アーベリト襲撃の知らせを聞き、シュベルテより馳せ参じたまで」

 ジークハルトは、魔槍ルマニールを発現させると、その穂先を兵士達に向けた。

「襲撃の知らせを聞いて、馳せ参じただと? アーベリトの崩落を仕組んだのは、お前達教会の人間だろう。シルヴィア・シェイルハートに、一体何を吹き込んだ?」

 騎士の男は、倒れ伏すシルヴィアを一瞥して、鼻で笑った。

「言いがかりはやめて頂きたい。我らは全知全能の女神、イシュカルに仕える使徒である。そのような穢れた一族の女と接触し、言葉を交わしたことなど一度もない」

「しらばっくれるな! お前達の魂胆は分かっている。シュベルテ襲撃の段階から、裏でこそこそと根回ししやがって……お前らの神というやつは、随分と狡猾なんだな。笑わせてくれる」

「なんだと! 貴様、これ以上の侮辱は許さぬぞ……!」

 憤慨した先駆けの騎士たちが、抜刀して、攻撃をしかけようと馬の腹を蹴る。
だが、次の瞬間、前進しかけた馬の足元を狙って、煌々と炎の帯が走った。

 それは、ルーフェンによる幻術の炎であったが、動揺を誘うには十分であった。
怯えた馬がいななき、前肢を跳ね上げて、さお立ちになる。
炎が収まると、勢い良く振り落とされた騎士の男達は、翻って走り去った馬を尻目に、忌々しげにルーフェンを睨んだ。

 ハインツを押し退け、ジークハルトの隣に並ぶと、ルーフェンは小声で言った。

「まともに相手にするな。教会とあの女の間に何かやり取りがあったとして、彼らがそれを明かすわけがないし、アーベリトを襲ったのは、あくまでシルヴィアの意思だ」

 確認を取るように視線を移せば、ルーフェンと目が合ったトワリスが、気まずそうに俯く。
ジークハルトは、騎士の男達に穂先を向けたまま、ルーフェンを横目に睨んだ。

「襲撃に関しては、後で詳しく聞く。お前はしゃしゃり出てくるな。教会は、召喚師側に罪を擦り付ける気だぞ」

「実際そうなんだから、返す言葉もない」

 ジークハルトの制止を無視して、ルーフェンは、騎士たちに向き直った。
騎士たちが剣を構えて、さっと顔を強張らせる。
ルーフェンは、淡々とした声で言った。

「手荒なことをして申し訳ない。そちらに交戦の意思がないのであれば、私も攻撃する気はない。剣を納めてくれ」

 騎士たちは、剣を納めなかった。
鋭い視線をルーフェンに向けたまま、前列の騎士が答える。

「攻撃する気はない? しようがない、の間違いではないか。我々は、七年もの間、哀れにも召喚師一族にたぶらかされてきたアーベリトの民を救いに来た。こちらは二百人、対してそちらは四人である。貴殿は、ご自身の立場が分かっておいでか」

 ルーフェンは、冷笑を浮かべた。

「それはこちらの台詞だ。今朝方、シュベルテに出向いて、大司祭であるリラード卿と話をした。貴方達はその時に、私の不在を知って、アーベリトに軍を仕向けたのだろう。見ぬ間に教会が政権を握っていることにも驚いたが、城に居座る以上、貴方達の振る舞いがシュベルテの総意だ。今、ここで剣を向ければ、シュベルテは、七年前に三街で結んだ協定を反故ほごにしたということになる。それが分かっているのか」

 騎士は、表情を歪めた。

「根も葉もないことを! 我々はあくまで、救済に来たのだ。このアーベリトの惨状、貴様ら召喚師一族が、異端の術を使って引き起こしたものであろう。ルーフェン殿、貴殿は十四年前にも、村を一つ壊滅させ、その後も我々教徒に対し迫害を繰り返し、リオット族などという蛮族まで引き入れ、守るべき自国の民の尊厳を侵してきた。それだけでは飽き足らず、ついには自身で築き上げたアーベリトまで手にかけ、滅ぼしたのだ」

 ルーフェンは、目を細めた。

「アーベリトを手にかけたのが、召喚師一族だというのは事実だ。だが、こちらにも事情というものがある。私を拘束するなり、処罰なりしたいというなら、抵抗はしない。ただし、その前に、シュベルテのカーライル公と話をさせてほしい。公と話し合った上で、生き残ったアーベリトの人間に一切手を出さないと約束するなら、私は貴方達に従う。要求に応ずる気はあるか」

Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下【1月完結予定】 ( No.381 )
日時: 2021/01/26 19:50
名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: r1a3B0XH)





 騎士は、剣を振って見せると、嘲笑するように叫んだ。

「罪を認めたな、外道め! ならばこの場で死ね! 我ら修道騎士会が、直々に断罪してくれよう!」

「──質問に答えろ! 要求に応ずる気はあるのか、ないのか! もう一度言う、そちらに交戦の意思がないのであれば、私も攻撃する気はない!」

「ならば繰り返そう! 我々は女神イシュカルの名の下、悪魔に身をやつす召喚師一族に、制裁を下すため参った! 消えろ、邪悪な異端の一族めが……!」

 先陣を切った騎士の合図で、一斉に、隊が動き出した。
地を踏み荒し、水飛沫をあげ、前方の騎士たちが盾を構えて迫ってくる。
後方の魔導師たちは、杖を高く掲げると、魔力を高め、詠唱を始めた。

 覚悟を決め、魔槍を構えて踏み込もうとしたジークハルトを、ルーフェンは手で制した。
前に出て、振り返ると、ルーフェンはジークハルトを見つめた。

「……見ていろ」

 静かな声で、告げる。
冴え冴えとした銀の瞳に、揺るがぬ光が灯った。

「──見ていろ。これが、召喚師一族だ」

 前を向くと、ルーフェンは、近づいてくる騎士たちを見据えた。
運命に従って生きるならば、越えてはならない最後の一線が、目の前に示されていた。

 目を閉じ、そして開くと、ルーフェンは唱えた。

「汝、支配と復讐を司る地獄の王よ。従順として求めに応じ、我が身に宿れ! バアル……!」

 それは、本当に一瞬の、一方的な虐殺であった。
今まで見てきた、どんな魔術よりも残酷で、恐ろしい。
目の前が光って、凄まじい魔力の波を感じたと思った瞬間には、もう何も見えなくなっていたし、聞こえなくなっていた。

 どれほど時間が経ったのか。
思い出したかのように息を吸ったジークハルトは、途切れそうになった意識を手繰り寄せて、なんとか目を開けようとした。
痙攣しているまぶたを、無理矢理に持ち上げると、徐々に感覚が戻ってきたのか、雨音がぼんやりと聞こえてくる。
トワリスとハインツも、同じ状況なのだろう。
意識はあるようだったが、うまく立ち上がれない様子であった。

 嗅覚が戻ってくると、吐き気を催すような刺激臭が、鼻から喉を刺して、激しく咳き込んだ。
黒煙が揺らぐ中で、ルーフェンが一人、佇んでいる。
向かってきた騎士たちを探し、視線を巡らせて、ジークハルトは戦慄せんりつした。
彼らは、影のように地面に焼き付いて、もう跡形もなかったのだ。
ただ、ルーフェンが故意に狙いを外したのか、範囲外だった後方の魔導師たちだけが、数名生き残り、その場にへたりこんでいた。

 ルーフェンは、ぶるぶると震えている魔導師たちに歩み寄ると、平坦な声で言った。

「今、見たことを、シュベルテに戻って伝えるといい。聞いたことも、感じたことも、全て……」

 魔導師の男が、ルーフェンの方を見上げた。
見えているのか、いないのか分からない、定まらぬ目をしていたが、その瞳には、確かな恐怖と憎悪が滲んでいた。

「こ、ころせ……」

 ほとんどうめき声に近い、掠れた小さな声で、魔導師は呟く。
しかし、その声を聞きながら、ルーフェンはきびすを返した。

 これ以上、殺す理由はなかった。
向けられた刃もなく、守るものもなくなれば、これ以上は、殺す理由など──。
 
 ジークハルトだけが、じっとルーフェンを見ていた。
そんな彼を見やってから、ルーフェンは、アーベリトの街並みを見渡した。

 雨が、地に染み込んだ死臭を洗い流し、風が、揺らめく黒煙を吹き散らしていく。
国王が崩御して、数日が経ったこの日──王都アーベリトも、跡を追うようにして消え去った。

 雨音しか聞こえない、その静かな世界には、ルーフェンが守ろうとしていたものは、もう残っていなかった。



To be continued....