複雑・ファジー小説

Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下 ( No.37 )
日時: 2019/12/22 18:05
名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: pRqGJiiJ)

†第三章†──人と獣の少女
第二話『憧憬』



「こらぁーっ! いい加減になさい!」

 高らかなミュゼの怒鳴り声が聞こえたかと思うと、ふいに、何かがルーフェンの腰に突撃してきた。
思わずよろけて、その場に踏みとどまる。
ルーフェンは、腰にすがり付いてきたトワリスを認めると、後から険しい形相で長廊下を走ってきたミュゼを見て、事態を察したように苦笑いした。

「召喚師様! ちょっと、そこのお転婆をどうにかしてくださいな! 全く、風呂に入るだけで、どうしてこんなに時間がかかるんだか!」

 はあはあと息を切らせながら、ふくよかな身体を揺らして、ミュゼが追い付いてくる。
トワリスは、ルーフェンの背後に回って身を隠すと、顔だけ出して、ミュゼを睨みつけた。

「トワリスちゃん、お風呂には入らないと」

 湿った赤褐色の髪を見て、ルーフェンが告げる。
するとトワリスは、不満げな表情を浮かべて、ふるふると首を振った。

「違う! お風呂入ったのに、おばさんが、変な臭い油つけてきたから……!」

「臭い油……?」

 トワリスの言っている意味が分からず、ルーフェンが首をかしげる。
ミュゼは、深々とため息をつくと、ルーフェンに説明をした。

「臭い油だなんて、人聞きの悪い! 女性用の髪油ですよ。さあトワリスちゃん、さっさとこっちにいらっしゃい! そのみっともないぼさぼさの髪、私が綺麗に整えてあげるから」

「いらないっ!」

 ルーフェンの腰に一層しがみついて、トワリスが鼻に皺を寄せる。
唸り声を大きくして、ミュゼを威嚇するトワリスに、ルーフェンは苦笑を深めた。

 トワリスが、サミルの屋敷で暮らすようになって、約一月。
根気強く接し続けたおかげで、ようやく人を噛んだり、威嚇したりすることは少なくなったトワリスであったが、サミルとルーフェン以外の人間には、まだ慣れない様子であった。

 屋敷の家政婦であるミュゼに対しても、その反抗ぶりは顕著で、こうして身辺の世話をミュゼに頼む度に、トワリスは逃走してくる。
ミュゼも、普段は孤児院に勤めているだけあって、子供の扱いには長けているのだが、足の速いトワリスを捕まえるのは、流石に難しいようだった。

 ルーフェンは、トワリスの目線に合わせて屈みこむと、おかしそうに言った。

「ほら、牙剥いちゃ駄目だってば。唸るのも禁止」

 トワリスの唇に人差し指をあてて、落ち着くようになだめる。
トワリスは、ひとまず唸るのをやめたが、それでも警戒した様子で狼の耳を立て、ミュゼを睨んでいた。

 くすくすと笑いながら立ち上がると、ルーフェンは肩をすくめた。

「ミュゼさん、この子、鼻が利くから、香料が入ってるものは嫌みたい。とりあえず、丸洗いするだけにしてあげて」

「そ、そうは言いますけどねえ……」

 訝しげに口ごもって、ミュゼがトワリスを見る。
だが、頑なにルーフェンから離れようとしないトワリスを見て、これ以上問答を続けても埒が明かないと思ったのだろう。
やれやれと首を振ると、ミュゼは嘆息した。

「……分かりました、もう結構です。それなら、明日からは洗うだけにすると約束しますから、もう一度来なさい。まだお薬塗ってないでしょう」

「…………」

 厳しい口調で言われて、トワリスの耳がぴくりと揺れる。
露骨に嫌そうな表情になって、トワリスは、ルーフェンの服をぎゅっと握った。

 お薬、というのは、トワリスの全身に塗布している軟膏のことだ。
獣人の血が入っている故か、驚くほどの速さで回復しているトワリスであったが、画家、オルタ・クレバスに負わされた深い切り傷や火傷跡は、まだまだ癒えていない。
その治療の一つとして、毎日、軟膏を患部に塗っているのだ。

 最初の内は、ダナが治療を行っていたのだが、トワリスは、生まれた年から計算する限り、今年で十二歳である。
獣人は人間より成長が遅いのか、それとも、小柄で痩せているため、そう見えるだけなのか。
トワリスは、八、九歳くらいの少女のような姿をしていたが、それでも、一応は十二歳の娘なのだから、身辺の世話に関しては、女性がやった方が良いだろうという話になり、最近は、治療もミュゼに頼んでいるのだった。

 ルーフェンが軽く背を押すと、トワリスは、渋々といった様子でミュゼの元に行った。

「トワリスちゃん、ミュゼさんのこと、噛んじゃ駄目だよ」

「……噛まないもん」

 ぶすっとした顔つきで答えると、ルーフェンが、面白そうに笑みをこぼす。
それから、最後にミュゼの方を見やると、ルーフェンは手を振って、去っていったのだった。

 ルーフェンの後ろ姿をぼんやりと眺めていると、ミュゼが、肉厚な手でトワリスの手を握り、くいと引っ張ってきた。

「ほら、行くよ」

「…………」

 手を引かれて、来た長廊下を戻っていく。
二人は、一度屋敷の本邸から出ると、裏手にある使用人たちの宿舎へと向かった。

Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下 ( No.38 )
日時: 2018/07/27 19:23
名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: ktklDelg)



 中庭の小道を、引かれるままに歩きながら、すんすんと初夏の風を嗅ぐ。
レーシアス家の中庭は、あまり手入れされていないのか、伸びきった雑草が小道の所々に飛び出していた。
だが、そこから香る青臭さや、湿った土の匂いが、トワリスは嫌いではなかった。

 柔らかな陽光を受けて、朝露を光らせる潅木(かんぼく)の並びを通りすぎると、白壁の小さな宿舎が姿を現した。
レーシアス家に仕える独り身の使用人達は、この宿舎で寝泊まりしている者が大半だ。
トワリスもまた、サミルに引き取られてからは、ここで生活していた。

 といっても、トワリスは使用人ではないので、本来ならば、孤児院に送られるべきなのだろう。
それなのに送られないのは、やはり、獣人混じりであることを懸念されているに違いない。
サミルも、ルーフェンも、「君は獣人の血を引いているから」なんてことは一言も言わなかったし、彼らに限らず、レーシアス家の者は皆優しかった。
けれど、まだ人間らしい生活に慣れていないトワリスを、子供が多くいる孤児院にいきなり入れるのは、流石に不安だと思われているようだった。

 門を潜ろうとすると、ちょうど、夜番を終えたロンダートが、同じく宿舎に入ろうとしているところだった。
ロンダートは、ミュゼとトワリスに気づくと、ぴっと背筋を伸ばした。

「あっ、おはようございます!」

 おはよう、とミュゼが答えて、軽く会釈する。
体格の良いロンダートが、ミュゼに畏まっているのは、なんだか不思議な光景であったが、ミュゼはどうやら、一介の家政婦であるにも拘わらず、レーシアス家においてかなりの権力を持っている人間らしかった。
一見、屈強な自警団の男たちの方が強そうなのだが、この前ミュゼは、「今晩ご飯抜きにするよ!」の一言で、彼らを黙らせていた。
この屋敷で一番地位が高いはずのサミルとルーフェンも、ミュゼが本気で怒り出すと、言うことを聞く場合が多い。
おそらくミュゼは、レーシアス家で最強の生物なのだろう。


Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下 ( No.39 )
日時: 2018/07/30 19:08
名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: ktklDelg)


 まじまじと二人の顔を見上げていると、ロンダートがにやりと笑って、トワリスの顔を覗き込んできた。

「トワリスちゃんも、少し見ない内に、随分可愛らしくなったなぁ! 最初の方は、とんだ野猿だと思ってたけど。……あ、猿じゃなくて、人狼族なんだっけ?」

「…………」

 返事をせず、警戒したように一歩引く。
するとロンダートは、少し困ったように眉を下げた。

「あはは、やっぱり俺は駄目かぁ。サミル先生──じゃなくて、陛下と召喚師様には、べったりなのになぁ」

「まあ、あのお二人は甘いからね」

 嘆息して、ミュゼが諭すように言う。

「でも、トワリスちゃん。いくら優しくしてくれるからといって、陛下や召喚師様に気軽に会いに行ってはいけないよ。あの二人は、お忙しいんだから。サミルさんだの、ルーフェンさんだの、そんな呼び方をするのも駄目。ちゃんと、陛下と召喚師様ってお呼びするの。分かったかい?」

「…………」

「返事は?」

「……はい」

 素直にうなずくと、ミュゼは、ようやく満足したようだった。
そのやりとりを見ながら、けらけらと笑うと、ロンダートが口を開いた。

「いやぁ、でも、実際呼びづらいですよね。アーベリトが正式に王都になって、召喚師様がうちに来てから、もう二月くらい経つけど、俺も、未だにサミル先生のことを陛下って呼ぶのは慣れないですもん。世間がアーベリトを認めてくれたのは嬉しいけど、なんか、サミル先生が遠い存在になっちゃったみたいで、少し寂しいや」

 その言葉に、ミュゼは呆れたように答えた。

「なにを言ってるの。陛下は、即位なさる前から、立派な領主様だったでしょう。十分敬うべきお方でしたよ。ロンダート、あんたもいつまでも浮かれていないで、びしっとしな。特に召喚師様は、シュベルテから来たお方なんだから、アーベリトのゆるーい乗りで話しちゃ失礼よ」

「ははっ、ごもっとも」

 後頭部をぽりぽりと掻きながら、ロンダートは言った。

「召喚師様に関しては、俺ももうちょい、畏まらなきゃなぁって思ってるんですよ。話してみると案外気さくだから、ついこっちも気が緩んじゃうんですけど、あの人は、本当に天才だもん。まだ短期間だけど、一緒に仕事してて、改めてそう思いましたよ。あれで十五歳っていうんだから、恐ろしいよなぁ」

 しみじみと呟いたロンダートに、トワリスは、首を傾げた。

「てんさい……?」

「そう、天才。なんでもできちゃう、すごい人ってことさ。召喚師様に任せておけば、俺達なんていなくても、アーベリトは安泰だなぁって思っちゃうよ」

 苦笑しながら頷いて、ロンダートが答える。
その無責任な発言に、顔をしかめつつ、ミュゼも同調したように頷いた。

「確かに、このアーベリトが財政破綻を切り抜けられたのも、召喚師様とリオット族のお力が大きいしね。やっぱり、召喚師一族っていうのは、私達とは住んでる世界が違うんでしょう」

 盛り上がり始めたロンダートとミュゼの話を聞きながら、トワリスは、ふとルーフェンの姿を思い浮かべた。
雪のような銀の髪と瞳に、陶器のような白い肌。
どこをとっても人形のようで、その精巧さには、冬の湖面の如き冷たさすら感じるのに、いざ目が合うと、彼が浮かべるのは穏和な微笑で──。
あの笑みを思うと、なんだか胸の奥に、じんわりと温かいものが広がるのだった。

(ルーフェンさんって、そんなにすごい人なんだ……)

 息を乱して、地下の独房まで駆けつけてくれた、あの時の光景が蘇る。

 確かにルーフェンは、強くて優しい人なのだと思う。
どこか普通とは違う、神秘的な空気の持ち主だというのも分かる。
だがトワリスは、まだ会って間もないから、実際のところルーフェンがどんな人物なのか、よく分からなかった。

(住んでいる世界が、違う……?)

 ふいに、目の前を通りすぎた蝶が、花を探してひらひらと舞っている。
ミュゼの手を握ったまま、トワリスは、その様をじっと見つめていたのだった。


 

Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下 ( No.40 )
日時: 2018/08/02 19:32
名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: zc76bp3U)



 治療を終え、ようやくミュゼから解放されると、トワリスは、再び屋敷の本邸へと訪れた。
少し前までは、ずっと寝台の上にいたのだが、今は、身体も十分動かせるようになったので、日中は自由にしている。
日によっては、食事の仕度や洗濯など、ミュゼの家政婦としての仕事を手伝うこともあったが、今日は何も言いつけられなかった。

 自由にしている、といっても、屋敷内をうろついたところでやることがなかったし、知らない人間と関わるのも躊躇われたので、行く場所は限られていた。
大抵、サミルかルーフェン、あるいはダナのところである。
なんとなく彼らを訪ねて、ただじっと、その仕事風景を眺めているだけであったが、それでも、包み込んでくれるような彼らの優しさに触れていると、なんだか安心できるのだった。

(……ルーフェンさんに、会いに行っちゃ駄目かな)

 先程、サミルやルーフェンには、気軽に会いに行くな、とミュゼに言われたことを思い出す。
確かに、ルーフェンたちはいつも忙しそうにしているし、頻繁に会いに行くのは、迷惑だろうかと思うときもあった。
だが、このまま屋敷内を探索していてもつまらないし、別に自分は、仕事の邪魔をしに行く訳ではない。
ただ、一人でいるより、信頼できる誰かと一緒にいたいだけなのだ。

 どうするか迷いながらも、結局トワリスは、図書室に向かっていた。
ルーフェンは大体、昼間は、執務室で事務仕事をしているか、図書室で調べものをしている。
しかし最近は、部屋の行き来をする余裕もないのか、図書室で調べものをしながら、その場で書類と睨み合いをしているのだ。
高確率で彼が図書室にいるということを、トワリスは知っていた。

 長廊下を進み、物音を立てないように、図書室の入り口に近づく。
そして、そっと扉を押し開くと、トワリスはその隙間から室内を覗いた。

 いつもなら、これだけでルーフェンが気づいて、声をかけてきてくれる。
だが今日は、トワリスが図書室に入っても、ルーフェンの声は聞こえてこなかった。

(執務室の方だったかな……)

 予想が外れたか、と踵を返す。
しかし、その時ふと、本棚の奥の机で、ルーフェンが俯いたまま椅子に座っているのを見つけた。
ルーフェンは、書きかけの書類を前に、眠っているようだった。

(寝てたから、私に気づかなかったんだ……)

 起こさないように静かに歩み寄って、ルーフェンの顔を覗き込む。
その顔は、やはり彫刻のように整っていて、微かに漏れる呼吸音でさえ、作り物めいていた。
しかし、よくみれば、その表情の奥には、疲れが滲んでいるようにも見える。
あるいは、長い白銀の睫毛が、目元に濃い陰を落として、それが隈のように見えたせいもあるのかもしれない。

 こんな風にルーフェンが眠っているところを見るなんて、初めてであった。
ルーフェンは、日中は外部に赴いたり、部屋で事務仕事をしているし、夜は、自警団の者たちと行動していたりする。
まだ出会って間もないけれど、ルーフェンがほとんど寝ずに生活していることは、なんとなく分かっていた。

Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下 ( No.41 )
日時: 2018/08/04 19:47
名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: YJQDmsfX)



(なんでもできちゃう、すごい人……)

 ロンダートは、ルーフェンをそう称して、彼に任せればアーベリトは安泰だ、と言っていた。
けれど、天才というものは、寝ずに働き続けても大丈夫なものなのだろうか。

 いつも穏やかに笑っていて、人前では疲れなんて微塵も見せていないように思えるルーフェンだったが、ふとした瞬間に、その表情が翳(かげ)る時がある。
ルーフェンと常に行動を共にしている者は少ないから、気づかれないのかもしれない。
だが、ルーフェンのそばにいることが多くなっていたトワリスは、最近、疲労の滲んだ彼の横顔を見ることが多くなっていた。

 トワリスは、しばらくの間、ルーフェンの寝顔をじっと見つめていた。
しかし、やがて、ルーフェンの向かいの席に腰かけると、積み上がっている書類の一枚を手に取った。

 ルーフェンを疲れさせている原因の一つは、これだ。
処理しても処理しても減らない、この大量の書類。
しかし、手に取ってみたところで、文字の読めないトワリスには、その書類に何が書かれているのか、さっぱり分からなかった。
横にしても、逆さまにしても、それは変わらない。
書類には、眺めていると頭がくらくらしてくるほどの、小さな文字がぎっしり並んでいた。

「……何してるの?」

 突然、ルーフェンに話しかけられて、びくりと目をあげる。
いつの間にか目を覚ましたであろうルーフェンは、眠気を払うように首を回してから、トワリスを見た。

「そんなの、見ても面白くないでしょ?」

 言って、トワリスから書類を取り上げようと、ルーフェンが手を伸ばしてくる。
けれど一瞬だけ、トワリスの様子を伺うように、その手が止まった。
その間に、自分から書類を手渡すと、ルーフェンはそれを受け取ってから、少し嬉しそうにトワリスの頭を撫でた。

 自分より高い位置から手を伸ばされると、思わず警戒してしまう癖は、近頃、ほとんどなくなりつつあった。
奴隷だった頃は、手が伸びてくると、次の瞬間には殴られたり、叩かれたりすることが日常だった。
だから、伸ばされた手には反射的に噛みついていたし、その癖のせいで、ルーフェンの腕を噛み跡だらけにしたこともある。
ルーフェンは、痛いことなどしてこないと理解した後も、その癖はなかなか消えず、しばらくは、手に対する怯えに悩まされたものだ。
もう一生、この癖は治らないのだろう、とさえ思っていたのだが、それでも、毎日優しく接してくれたサミルやルーフェンのおかげで、かなり改善されてきた。
手を握られるくらい、全く気にならなくなったし、頭を撫でられても平気になった。
今でも、急に触られたりすると身構えてしまうことはあったが、あれほど恐ろしかった手というものに、もう嫌悪感はなくなっていた。

Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下 ( No.42 )
日時: 2018/08/08 19:40
名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: zc76bp3U)



「……お仕事、いつ終わるんですか?」

 さっきまで眠っていたのが嘘かのように、きびきびと書類整理を始めたルーフェンに、トワリスは尋ねた。
すると、ルーフェンは困ったように笑んで、冗談っぽく答えた。

「さあ? 俺が聞きたいくらいだね。余計な仕事を増やすシュベルテの連中に、文句でも言ってみようか?」

 ルーフェンは、くすくすと笑っていたが、トワリスは真剣だった。

「これ以上お仕事したら、ル……召喚師様、倒れちゃうと思います」

 強めの口調で言うと、ルーフェンが、少し驚いたように瞬く。
しかしそれは、トワリスが言ったことに対して、というよりは、召喚師様、と呼ばれたことに対して驚いているようだった。
これまでトワリスは、ルーフェンのことを、ルーフェンさん、と呼んでいたのだ。
急に呼び方を変えられて、不思議に思ったらしい。

 そのことを察すると、トワリスは、口の中で答えた。

「えっと……ミュゼおばさんが、ちゃんと、召喚師様って呼ばないと、駄目って言ってたから……」

「ああ、なるほど」

 納得したように頷いて、ルーフェンが肩をすくめる。
机にあった本を数冊持って、椅子から立ち上がると、ルーフェンは言った。

「ミュゼさん、真面目だからね。俺は別に、呼び方とか気にしないし、むしろ、名前で呼ばれる方が新鮮だなと思ってたんだけど。……まあでも、世間体を考えると、もう少しちゃんとした方が良いのかな。アーベリトは、確かに色々と緩いから」

 本棚に本を戻しながら、ルーフェンが苦笑する。
次いで、トワリスの方に振り返ると、ルーフェンは尋ねた。

「トワリスちゃんは、どっちの方が呼びやすい?」

「…………」

 迷った様子で視線を落として、トワリスが黙りこむ。
ややあって、顔をあげると、トワリスは躊躇いがちに答えた。

「……ルーフェンさん、のほうが慣れてたけど、ちゃんとした方が良いなら……召喚師様って呼びます」

「そう?」

 問い返されて、戸惑ったように口ごもる。
ルーフェンは、そんなトワリスの反応を面白がって、ひょいと眉を上げた。

「じゃあ、こうしようか。普段は名前で呼んで、ミュゼさんの前とか、ちゃんとした場では、召喚師の方で呼ぶの」

「……じゃあ、今は、ルーフェンさん?」

「うん、そう」

 ルーフェンは、微かに目を細めると、しーっと人差し指を唇に当てた。

「ばれたら、また怒られちゃうかもしれないから、名前で呼んでることは、秘密だよ?」

「……ひみつ?」

「そう、秘密。周りには言っちゃ駄目ってこと」

「……うん」

 トワリスがこくりと頷くと、ルーフェンは、再びおかしそうに笑って、席に戻ってきた。
それから、羽ペンを手に取ると、またいつものように書類と睨み合いを始める。
文字を目で追っては、何かを書き込み、次の書類を読んでは、また何かを書き込む。
ひたすらその作業を繰り返すルーフェンを、食い入るように見つめていると、ルーフェンは、どこかやりづらそうに眉を下げた。

Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下 ( No.43 )
日時: 2018/08/11 19:12
名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: zc76bp3U)



「……そんなに見つめられたら、俺、穴空いちゃうよ」

「え!?」

 途端、真っ青になったトワリスに、思わずルーフェンが吹き出す。
急いで手を顔の前で振ると、ルーフェンは謝った。

「いや、ごめん。今のは、言葉の綾ってやつだけど。そんなに見つめられたら、落ち着かないよって意味」

「……す、すみません」

 視線をルーフェンから外して、トワリスが俯く。
ルーフェンは、手元の書類を一瞥してから、トワリスのほう見た。

「さっきも書類を見てたけど、なんか気になることでもあるの?」

「…………」

 言葉がうまく見つからないのか、もごもごと口を動かしながら、トワリスは下を向いている。
ルーフェンは、頬杖をつくと、空いている手でペラペラと書類を振って見せた。

「本当、面白いものじゃないよ。ただの報告書だもん」

「報告……?」

 首を傾げて、トワリスが聞き返す。
ルーフェンは首肯すると、持っていた報告書を、処理済みの山に適当に放った。

「シュベルテの魔導師たちが、この地域でこんな事件がありましたよーって報告してくるから、俺はそれを読んで、分かりましたって署名してるんだよ」

「署名、してる……」

 繰り返し呟いて、トワリスは、何やら考え込むように目を伏せた。
それから、ルーフェンの顔をじっと見つめると、口を開いた。

「……名前、書けたら、そのお仕事、私にもできますか?」

 思わぬ質問に、ルーフェンが目を見開く。
少し困ったように笑って、ルーフェンは言った。

「……どう、かな。ただ名前を書くだけ、ってわけでもないから。だけど、トワリスちゃんだって、文字を覚えれば、名前を書いたり、文を読んだりすることは出来るようになるよ。……やってみる?」

「……うん」

 返事をすると、ルーフェンは引き出しから新しい羽ペンを取り出して、トワリスに渡した。
そして、古い処理済みの報告書の中から、適当にいらない用紙を引っ張り出すと、自分の羽ペンを握って、それをインク壺に浸した。

「じゃあ、まずは名前からね」

 言いながら、壺の縁で余計なインクを落とすと、ルーフェンは、さらさらと紙に文字を書き出した。
手の動きに合わせて、紙面に綺麗な黒い線が走る様は、それこそ魔術のようで、トワリスは息をするのも忘れて、じっと眺めていた。

 書き終わると、ルーフェンは、その紙をトワリスに向けた。

「はい。これが、トワリスちゃんの名前ね。左から、ト、ワ、リ、ス」

「名前……」

 しみじみと呟くトワリスに、にこりと笑みを浮かべると、ルーフェンは、別の紙とインク壺を、トワリスの前に置いた。

Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下 ( No.44 )
日時: 2018/08/14 18:17
名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: zc76bp3U)



「真似して、書いてごらん。最初は上手く書けないかもしれないけど、焦らなくていいから」

 こくりと頷いてから、意を決して、羽ペンを握る。
しかし、その瞬間、手の中でばきっと音がして、トワリスは硬直した。
恐る恐る手を開くと、羽ペンは、掌の中で真っ二つに折れていた。

「…………」

 動かなくなったトワリスに、ルーフェンがぷっと笑う。
再び新しい羽ペンをトワリスに渡すと、ルーフェンは優しい口調で言った。

「ちょっと強く握りすぎかな。そんなに力まなくても、文字は書けるから」

 ごめんなさい、と一言謝罪して、今度は、やんわりと羽ペンを握る。
そして、インク壺にペン先を浸すと、ルーフェンの真似をして、縁で余分なインクを落とした。
だが、いざ書こうとすると、ぼたっと紙面にインクが垂れる。
落ちたインクの水溜まりは、あっという間に広がって、紙を真っ黒に汚してしまった。

 それでも諦めず、ルーフェンが書いてくれた手本を見ながら、一生懸命羽ペンを動かす。
しかし、ペンは紙面でつっかかってうまく動かないし、書いた文字はじわじわとにじんで、文字というよりは、なんだか気味の悪い模様のような代物が出来上がった。
次は、インクをあまりつけずに試してみたが、そうしたら文字は掠れるし、おまけに大きさもばらばらで、不揃いだ。
何度やっても、ルーフェンのような綺麗な黒い線が書けないので、だんだん悲しくなってきた。

 ルーフェンは、事務仕事を再開しながら、しばらくは、悪戦苦闘するトワリスを眺めていた。
しかし、徐々にトワリスの目に涙がたまってくると、苦笑しながら席を立った。

「焦らなくて大丈夫だってば。今日が初めてなんだし」

 トワリスの後ろに回って、ルーフェンが背後から手を伸ばす。
羽ペンを握るトワリスの手に、自分の手を重ねると、ルーフェンはペン先の動きを導いた。

「ペンを握るときも、書くときも、もっと軽い力でいいよ。こうやって、紙面を撫でるみたいに書くんだ」

「…………」

 説明を飲み込もうとしているのに、ルーフェンに手を握られた途端、急に緊張してきて、心臓がどくどくと脈打ち出した。
必死に集中しなければ、と思うのだが、一回り大きい、ひんやりとしたルーフェンの手の感触が気になって、それどころではない。
匂いや声が近くて、振り向いたらぶつかってしまうくらい、すぐ後ろにルーフェンがいる。
今までは、そんなこと気にならなかったのに、いざ意識し出すと、突然胸の中が落ち着かなくなってしまった。

「……トワリスちゃん? 聞いてる?」

 いきなりルーフェンに顔を覗き込まれて、かっと頬に血が昇る。
羽ペンを持ったまま、勢いよく椅子から飛び退くと、トワリスは床に転げ落ちた。

「だ、大丈夫?」

 トワリスの突然の行動に驚いて、ルーフェンが瞠目する。
トワリスは、慌てて立ち上がると、ルーフェンから目をそらしたまま、小さな声で言った。

「あ、あの……もう、いいです」

「え?」

 聞こえなかったのか、ルーフェンが問い返して、一歩近づいてくる。
トワリスは、素早く机上の書き損じた紙と、ルーフェンが書いてくれた手本を取ると、それを胸に抱いて、か細い声で続けた。

「お仕事の、邪魔になっちゃいますし、いいです……。名前、書けるようになるまで、一人で練習します……」

 それだけ言うと、まるで逃げるように図書室から走り出す。
ルーフェンは、ぽかんとしてその様を見ていたが、出ていったトワリスを、追いかけることはしなかった。
というより、追いかけたところで、捕まえるのは至難の業だろう。
手のかかる妹を抱えたような気分で、ルーフェンは、肩をすくめたのだった。

Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下 ( No.45 )
日時: 2018/08/17 19:02
名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: zc76bp3U)



 図書室を後にしたトワリスは、人目につかない宿舎に戻ろうと、吹き抜けの長廊下を駆けていた。
文字を教えてほしい、と頼んだのは自分だが、せめて名前くらいは、整った文字で書けるようになるまで、ルーフェンの元に戻りたくなかった。
下手くそな文字を見られるのは恥ずかしかったし、あんな風に近くで教えられていたら、緊張で心臓が口から飛び出してしまう。

 長廊下の角に差し掛かったとき、前から歩いてきた人影に気づくと、トワリスは慌てて足を止めた。
やって来たのは、サミルとダナである。
サミルは、飛び出してきたトワリスを咄嗟に受け止めようとして、しかし、彼女が上手く立ち止まったのを認めると、ほっと息を吐いた。

「おやおや、どうしたんです。そんなに真っ黒な姿で」

 言われて初めて、自分の全身を見てみる。
今まで気づかなかったが、トワリスの腕や服には、所々インクが付着していた。
まだ乾いていない、書き損じの紙を抱き締めて走ってきたため、いつの間にか、インクが服に移ってしまったようだ。

 サミルは屈みこむと、袖でトワリスの腕についたインクを拭って、苦笑した。

「文字の練習をしていたんですか?」

 トワリスが持っている用紙を見て、サミルが問いかけてくる。
頷いた後、紙を差し出すと、トワリスは尋ねた。

「……サミルさんも、文字、書けますか?」

「ええ、書けますよ」

 朗らかに答えたサミルに、トワリスが表情を明るくする。
サミルも文字を書けるなら、他の者達の名前の綴りも、今ここで教えてもらおうと考え付いたのだ。
折角練習するのだから、自分の名前だけではなくて、ルーフェンやサミルの名前も書けるようになりたい。

 しかし、トワリスがお願いをする前に、走り寄ってきた使用人の一人が、サミルに声をかけた。

「失礼いたします、陛下。セントランスから、目通りを願いたいと言う者が」

「ああ、はい。分かりました……」

 振り返って、サミルが立ち上がる。
サミルは、申し訳なさそうに眉を下げると、トワリスの肩にぽんと手を置いた。

「すみません、また今度お話しましょう。名前、書けるようになったら、是非見せてくださいね」

「……はい」

 差し出した紙を引っ込めて、トワリスが首肯する。
サミルは、ダナとトワリスをそれぞれ見やってから、使用人を連れ立って、早々に歩いていってしまった。

Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下 ( No.46 )
日時: 2018/08/19 18:59
名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: zc76bp3U)


 不満げに眉を寄せて、サミルを見送っていると、苦笑したダナが、トワリスの近くに寄ってきた。

「どれ、トワリス嬢。文字ならわしが教えてあげよう。それとも、サミル坊にしか頼めないお願いでもあったかい?」

「…………」

 黙ったまま、じーっとダナの顔を見上げる。
少ししてから、ふるふると首を横に振ると、トワリスはダナの袖をくいっと握った。

「……ダナさんも、文字、書ける? ルーフェンさんとか、サミルさんとか、ダナさんの名前の書き方も、教えてほしいです」

 ダナは、微笑ましそうに顔を緩ませて、頷いた。

「ああ、良いとも」

 懐から手帳と鉛筆を取り出して、ダナがルーフェンたちの名前を書いてくれる。
その字は、ルーフェンのものとはまた違う、勢いのある特徴的な字であったが、その闊達(かったつ)さが、なんともダナらしいと思えた。

「ほれ、こっちがサミル坊。こっちが、召喚師様の名前、最後がわしの名前じゃよ」

 破られた手帳の用紙を受け取って、三人の名前をまじまじと見つめる。
サミル・レーシアス、ルーフェン・シェイルハート、ダナ・ガートン。
三人とも姓があるので、トワリスの名前よりも、ずっと多くの文字が並んでいる。

 小さくため息をつくと、トワリスは不安げに呟いた。

「私、文字、書けるようになるかな……」

 ほほほ、と笑って、ダナが答える。

「なーに、読み書きなんてのは、慣れじゃよ。きっとすぐに書けるようになるさ」

「……でも、さっき図書室で練習したけど、全然上手に書けませんでした」

 唇を尖らせて、トワリスは俯いた。

「折角ルーフェンさんが教えてくれたのに、なんか……急に緊張してきて、胸がばくばくして、集中できなかったから……。私、文字書くの、向いてないのかなって……」

「…………」

 つかの間沈黙して、ダナが瞬く。
やがて、ぶほっと吹き出すと、ダナはトワリスの髪をわしゃわしゃとかき混ぜた。

「そうかそうか、トワリス嬢は、おませさんだのう。……いや、十二というと、そういう年頃か」

 訝しげに眉を潜めて、トワリスが首を傾げる。
ダナは、何でもない、という風にもう一度笑った。

「じゃが確かに、無理矢理早く覚えようとしても、つまらんだろう。わしが子供の頃なんかは、絵本を読みながら覚えとったがの」

「絵本?」

「そう。子供向けの物語だよ」

 ダナは、懐かしそうに目を細めた。

「わしが子供の頃の話だから、もう何十年も前の話になってしまうが、『創世伝記』という絵本が流行っておってな。『導き蝶(ユリ・ファルア)』と呼ばれる不思議な蝶を引き連れた男が、暗雲立ち込める終わりの世を旅し、やがて、地の底に眠る再生の竜を呼び覚まし、世界を救う、という……まあ、今思えばありきたりな物語なんじゃが、当時の子供たちは夢中になって読んだものだよ。わしもその一人だったからのう、続きが気になって読む内に、いつの間にか文字なんて覚えておったわい」

「…………」

 嬉しそうに語るダナを眺めながら、トワリスは、ルーフェンが扱っていた難しそうな書類の文字列を思い浮かべた。
別に絵本に興味がないわけではないが、子供向けの物語なんて読んでいても、きっとあの書類は読めるようにならないだろう。

Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下 ( No.47 )
日時: 2018/08/21 19:41
名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: zc76bp3U)


 不満げに眉を寄せると、トワリスは言った。

「……でも私は、絵本なんかより、もっと難しい文章も、早く読み書きできるようになりたいです」

 意図を問うように、ダナが眉を上げる。
トワリスは、ダナを見つめて、袖を握る手に力を込めた。

「私、ルーフェンさんや、サミルさんのお仕事、お手伝いしたい」

 ダナの目が、微かに大きくなる。
トワリスは、サミルが去っていった方向に視線を動かした。

「皆が二人のことを頼りにしていて、きっと、ルーフェンさんやサミルさんは、本当にすごい人たちなのだと思います。でも、なんだか最近、とっても疲れた顔してる……。私、二人に助けてもらったから、どうやったら恩返しできるか、ずっと考えていました。でも今の私じゃ、何も出来ないから、まずは、早く読み書きできるようになって……ルーフェンさんのお仕事、お手伝いしたいんです」

「…………」

 ダナは、しばらく黙って、トワリスのことを見つめていた。
だが、少し悲しそうに眉を下げると、しゃがみこんで、トワリスと目線を合わせた。

「……お前さんは、よく見てるのう」

 言ってから、一度言葉を止める。
ダナは、少し迷ったように口ごもってから、再度唇を開いた。

「……サミル坊はな。今でこそ古参の医師だが、昔っから、緊張するとすぐ腹を壊すような若造だった。召喚師様も、まだほんの十五歳じゃ。いかに突出した才能を持っていようとも、たった二人で支えきれるほど、国の中心なんてもんは、軽くない」

 小さく嘆息して、ダナは続けた。

「それでも、アーベリトを王都にしたのは、二人が選んだ道じゃ。自分達で選んだのだから、多少は無理もするじゃろうて。わしらは、その無理が祟らんように、しっかり見ていてやろうな」

「……うん」

 自分のやろうとしていることが認められた気がして、トワリスは、心なしか顔つきを明るくした。
何も出来ない奴隷身分だった自分が、国を背負って立つルーフェンたちを手助けしようなんて、おこがましいと否定されるかもしれないと思っていたからだ。

 確かに、ミュゼやロンダートが言うように、自分とルーフェンたちとでは、住む世界が違うのかもしれない。
でも、だからといって、何の力にもなれないわけではないはずである。

 ぽんぽんとダナに頭を撫でられて、トワリスは、嬉しそうに目を細めたのだった。

Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下 ( No.48 )
日時: 2018/08/23 19:49
名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: Dbh764Xm)



  *  *  *


 夏から秋になる頃には、トワリスもレーシアス家に馴染み、ほとんどの使用人たちと顔見知りになっていた。

 王都となり、かつてないほどの賑わいを見せるようになったアーベリト。
王宮と呼ぶにはふさわしくない、小さなレーシアス家の屋敷には、トワリスが来た頃よりもずっと多くの人間が出入りするようになっていたが、それでも、深刻な人手不足は相変わらずであった。
アーベリトには、政に精通する者が少なく、武力面でも、小規模な自警団が存在するだけなのである。

 必要最低限の人材は、シュベルテやハーフェルンからも引き入れたが、それ以上の介入を、ルーフェンは決して認めていなかった。
他所では、未だアーベリトの台頭を良く思っていない者が多く、また、イシュカル教徒の不穏な動きも活発化していたからだ。

 リオット族の地位を向上させ、アーベリトを王都としたルーフェンの強引な政策は、称賛を得る一方で、反感を買っているのも確かであった。
その動きは、特にシュベルテで顕著であり、アーベリトや召喚師への不信感を募らせていく者は、水面下で増えているようであった。

 シュベルテやハーフェルンとは、協力体制をとっているとはいえ、このような状況下で、外部の者を引き入れたくない。
そんなルーフェンの考えを、レーシアス家の者達は理解していたし、サミルやルーフェンの決定に、反論する者はいなかった。
しかし、独力で国の基盤となっていくには、やはりアーベリトの人間たちだけでは、力不足なのであった。

 目まぐるしく過ぎていく日々の中で、トワリスも、レーシアス家の一員として、忙しない生活を送っていた。
朝早くに起きて、ミュゼと共に屋敷内の家事全般を行うのが、最近のトワリスの仕事だ。
最初は、家事なんかより、直接サミルやルーフェンの仕事を手伝いたいと思っていたが、“家事なんか”という認識が、そもそも間違っていることに気づいた。
ミュゼを含む使用人たちが、身の回りの世話をしなければ、おそらくルーフェンたちは死ぬだろう、というくらい、彼らには生活力がなかったのである。

 身分からして家事なんてしたことがないとか、時間がないことも原因の一つであろうが、特にルーフェンは、放っておくと食事も忘れるし、しょっちゅう積み重なった本の中で寝ている。
折角片付けてあげた部屋を、たった一晩で元通りにされた時は、流石に腹が立ったものだ。
屋敷の者達は、「召喚師様はお忙しいから仕方がない」と苦笑していたが、トワリスは、納得がいかなかった。
サミルや自警団の者達は、徹夜ばかりしている点を除けば、まだまともな生活を送っていた。
しかし、ルーフェンに関しては、本当にひどかったのである。

 とはいえ、一方的に世話になっているだけだった自分が、役に立てていることは嬉しかった。
ただ、偉くてすごい人なのだろう、としか認識していなかったルーフェンが、実は生活能力が皆無だったと知って、少し安心したような気もする。
それに、働くことで屋敷の者たちが褒めてくれると、今まで経験したことがない、やりがいというものを感じたのだった。

 朝から晩まで働いて、沢山の仕事を覚えていく内に、いつしか、奴隷だった頃の記憶は、トワリスの中で薄くなっていった。
それでも、夢見の悪い夜には、当時の鮮烈な痛みが蘇ることがある。
背中に残る奴隷印と同様に、その痛みを完全に消し去ることはできないのだろうし、今でも、真っ暗な空間にいるのは苦手だ。
耐え難い恐怖に襲われて、声を押し殺し、寝台の中で泣くこともあった。
長い時間泣いて、それでも寝付けないときは、サミルやルーフェンに会いに行くと、自然と気分が晴れる。
彼らは、トワリスが来れば、泣いていた理由など尋ねず、ただ気が紛れるようにと、様々な話を聞かせてくれたのだった。

Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下 ( No.49 )
日時: 2018/08/25 19:15
名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: zc76bp3U)


 空いた時間に勉強していく内に、文字の読み書きや、計算もできるようになった。
普段、ルーフェンが調べものをするときに使うような分厚い本は、知らない単語ばかり出てくるので、まだ読めなかったが、ダナが貸してくれた絵本はもうすらすらと読めるようになったし、他にも、街道に並ぶ店が何を売っているのか、いくらで売っているのか、そんなことも分かるようになった。

 最初は、ただ模様が記されているだけのように見えた魔導書だって、簡単なものなら、理解できるようになった。
獣人の血が入っている故か、自分には少しの魔力しか備わっていない。
そう分かった後でも、世の万物を掌上で操る魔術の世界には、心動かされた。

 半獣人の子供がレーシアス家にいるらしい、という噂は、既に街全体に広がっていて、時々ルーフェンやダナについて屋敷を出ると、道行く人に注目されることもあった。
皆、トワリスの狼の耳を見ると、興味津々といった様子で声をかけてきたが、それは決して侮蔑の眼差しなどではなかったので、怖いとは思わなかった。

 それにトワリスは、街に下りるのが好きだった。
文字が読めるようになってからは、店先の看板を眺めるだけでも面白かったし、人混みは苦手だったが、人々の楽しげな雰囲気に触れるのは、嫌ではなかったのだ。
露店に並ぶ綺麗な装飾品や、繊細な刺繍が施された服にも、興味を引かれた。
欲しいわけではなかったので、気づかれないように、こっそり横目で眺めるだけであったが、それでも十分、幸せな気持ちになれたのだった。

 そんなトワリスの穏やかな毎日に、翳りが差したのは、朱色に染まった木立の葉が、はらはらと落ち始めた時期であった。

 夜もどっぷりと更けた頃、不意に目が覚めたトワリスは、水を飲もうと寝台から出た。
水甕(みずがめ)は、使用人たち共有の洗い場にある。
トワリスは、宮棚にある手燭を持つと、寝室を出て、洗い場のある一階へと向かった。

 普段は見慣れた通路、部屋でも、夜の闇に沈むと、なんとも不気味に感じるものである。
トワリスは、足早に廊下を抜けると、洗い場へと入って、柄杓(ひしゃく)で水甕の水をすくって飲んだ。

 この時期の水は、つーんと歯が痺れてしまうくらい冷たい。
冬になれば、もしかしたら貯め水なんて、あっという間に凍ってしまうかもしれない。
そんなことを考えながら、トワリスは、そっと水甕の蓋を閉じた。

 ──その時だった。
不意に、どこからか、何かがどさりと倒れるような音がした。
硬いもの同士がぶつかるような、無機質な音ではない。
どこか生々しく、そして、耳の良いトワリスでなければ、聞き逃してしまいそうなほど微かな音だ。

 思わずびくりと肩を震わせて、トワリスは顔をあげた。
真夜中であろうとも、夜番の自警団員たちは、屋敷を見回っている。
だから、物音がするくらい、珍しいことではなかったのだが、それでも、何か嫌な予感を覚えたのは、濃い血臭が鼻をついたからだろう。

 恐る恐る洗い場を出て、物音がした方へと、廊下を歩いていく。
やがて、宿舎の玄関口まで来ると、トワリスは、自警団員の男が床に倒れているのを見つけた。
うつ伏せになっていたので、はっきりと誰なのかは伺えない。
だが、レーシアス家に仕える自警団員である以上、顔くらいは見たことがあるはずだ。

 きっと、先程の音は、この男が倒れたときの音だろう。

「お、おじさん……?」

 小さく声をかけてみるも、男はぴくりとも反応しない。
呑気に寝ている訳ではないことくらい、男から発せられる濃厚な死の臭いで、すぐに分かった。

「どうしたの……? 大丈夫、ですか……?」

 手燭を床に置き、ゆっくりと手を伸ばして、男の肩に触れる。
揺すろうとして、しかし、手に生暖かい液体が付着した瞬間、トワリスは腰を抜かした。

 ──血だ。
男は、肩口から腰にかけて、背を斬られていたのである。

Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下 ( No.50 )
日時: 2018/08/27 18:31
名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: Bf..vpS5)



 背筋が、すうっと冷たくなった。
自分の手にべったりとこびりついた鮮血に、トワリスの身体が、がたがたと震え始める。
死んで捨てられた奴隷なら、見たことがあった。
けれど、こんなにも近くで、死んで間もない人間を見たのは初めてだ。

 混乱する頭を整理する間もなく、扉の脇から、誰かが廊下に踏み入ってきた。
口元を布で覆った、全身黒装束の男だ。

 男は、硬直してへたり込んでいるトワリスを見ると、 持っていた刃を、トワリスの喉元に突きつけた。

「……サミル・レーシアスはどこだ」

「…………」

 首の皮が裂けて、ぷくりと血が垂れる。
動くことも、口を開くこともできず、トワリスは、ただ速くなっていく自分の呼吸音を聞いていた。

 押し当てられた刃に、一瞬、昔に戻ったのかと思った。
自分はまだ、あの暗い独房の中で、痛みに怯えながら生活しているのではないか。
ルーフェンやサミルと出会ったのは、本当は、夢の中の出来事だったのではないか。

 答えがないことに苛立ったのか、男が、刃を振り上げる。
その瞬間、トワリスの心は、闇の中に引きずり込まれた。
目をぎゅっと閉じて、その場に伏せる。
消えつつあった恐怖の記憶が、濁流のように押し寄せて、トワリスは完全に動けなくなった。
一度怖いと思うと、身体がすくんで、もう逃げようという気すらなくなってしまう。

「──トワリスちゃん!」

 トワリスの硬直を解いたのは、切迫したミュゼの声だった。
同時に、鍋蓋を持ったミュゼが、凄まじい勢いで男に突進してくる。
男は、大柄なミュゼに突撃されて、一瞬怯んだようだったが、それでも、ミュゼは一介の家政婦に過ぎず、一方男は、武術の心得がある人間だ。

 男は、あっという間にミュゼを押し返すと、後方に転んだ彼女に向けて、刃を構えた。

「おばさん……!」

 咄嗟に起き上がって、トワリスが叫ぶ。
このままでは、自分をかばったせいで、ミュゼが殺されてしまう。
刃を振りかざした男を見て、トワリスの中で、恐怖よりも、どうにかしなくてはという思いが先行した。

 刃を見て、駆け出す。
恐ろしくて、今まで目をそらしてきたものは、よく見れば、目で捕らえられる速さだった。

(私の方が、速い……!)

 地を蹴ると、トワリスは男に飛びかかった。
刃が振り下ろされるよりも速く、その腕にしがみついて、親指の付け根に噛みつく。
人間離れしたトワリスの動きに、男は思わず呻き声を漏らすと、大きく手を振って、トワリスを殴り飛ばした。

「────っ!」

 流石に力負けして、床に叩きつけられる。
背中を打ち付けた拍子に、嫌な咳が込み上げてきて、トワリスは思わず身を縮めた。
起きなければ、と思ったが、視界がぐらぐらと歪んで、上手く立てなかった。

Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下 ( No.51 )
日時: 2018/08/30 19:21
名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: Bf..vpS5)


 先にトワリスを仕留めようと考えたのか、刃を向けて、男が近づいてくる。
しかし、その次の瞬間。
長廊下の奥から、慌ただしく足音が聞こえてきたかと思うと、今度は、駆けてきたロンダートが、男に斬りかかった。

 咄嗟に反応した男が、後ろに跳びずさって、ロンダートの剣を避ける。
刹那、ロンダートが緊急事態を知らせるための非常笛を吹くと、階上がざわざわと騒がしくなり始めた。
騒ぎを聞き付けて、使用人たちが起き出したのだ。

 大人数が集まってきては、流石に分が悪いと思ったのだろう。
男が踵を返して、宿舎から素早く走り出た。
ロンダートは、それを追おうとして、しかし、足を止めると、トワリスたちの方に戻ってきた。

「二人とも、大丈夫ですか!」

 剣を納めて、ロンダートがミュゼを抱き起こす。
ミュゼは、腰を擦りながら立ち上がると、トワリスの方に歩いてきた。

「ええ、大丈夫、大丈夫……。私は、腰を打っただけよ。トワリスちゃんは?」

「……平気、です」

 なんとか自力で立って、頷く。
ロンダートは、次いで、倒れた自警団員の脈を取りながら、 信じられない、といった顔つきで言った。

「なんなんだ、あいつ……。自警団員を殺してまで侵入してくるなんて、こんなこと、今までのアーベリトには、なかった……」

 怯えた様子で、ミュゼもぎゅっと手を握る。

「お手洗いに降りて来たら、トワリスちゃんが襲われていたから、咄嗟に出ていっちゃったけど……あれは、ただの強盗ってわけでもなさそうだったわ。剣以外にも、沢山の小刀を腰に提げていたもの。殺し目的じゃなきゃ、あんな格好はしないはず……」

「…………」

 三人の間に、沈黙が流れる。
トワリスは、ミュゼとロンダートの暗い表情を 見ながら、先程の男の言動を思い出していた。
そして、はっと顔をあげると、口を開いた。

「本邸……本邸に、行ってるかも……」

 ロンダートたちの視線が、トワリスに向く。
トワリスは、強張った顔でロンダートにすがり付くと、早口で言った。

「さっきの男の人、サミル・レーシアスはどこだって、そう聞いてきたんです! もしかしたら、サミルさんのこと、狙ってるのかも……!」

 ロンダートの顔が、さっと青くなった。
剣の柄を握ると、ロンダートは、二人に背を向けた。

「とにかく、ミュゼさんとトワリスちゃんは、宿舎に残っていてください! 鍵を閉めて、他の使用人たちも絶対に外に出ないように! あいつは、自警団でどうにかします!」

 同じく蒼白な顔つきで頷くミュゼを尻目に、ロンダートが、外へと駆け出していく。
だが、そんなロンダートを追い越して、トワリスも宿舎の外に飛び出した。

 慌てて呼び止めてくるミュゼの声を無視して、本邸の方に走り出す。
戦うことはできなくても、鼻の利く自分なら、誰よりも早くサミルのことを見つけられるはずだ。
あの黒装束の男よりも先に、サミルを見つけ、身の安全を確保できれば、きっと最悪の事態は免れる。

 もし、宿舎にこもって守られている間に、サミルが殺されてしまったら──。
そう思うと、いてもたってもいられなかった。

 宿舎と本邸を繋ぐ灌木の並びを抜けると、トワリスは、吹き抜けの長廊下に踏み入れた。
このまま廊下を突っ切って、角を曲がれば、サミルの部屋にたどり着く。
何事もなければ、サミルはそこにいるはずであった。

Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下 ( No.52 )
日時: 2018/09/01 21:00
名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: zc76bp3U)




 厚い雲が月を覆う、不気味な夜だった。
ざわざわと鳴る葉擦れの音を聞きながら、トワリスは、ひたすらに走った。
しかし、廊下を出て、角を曲がる直前、トワリスは足を止めた。

 唸るような風が吹いて、流れた雲の隙間から、細い月が顔を出す。
その薄い月明かりに照らされて、目前に広がる庭園は、どこか幻想的に浮かび上がっていた。

 草地は月光に縁取られ、柔らかな光を帯びていたが、そこに鞠のように転がる男達の死体は、血に汚れて沈んでいる。
ただ、その中に佇むルーフェンの銀糸だけが、異様なほど美しく、ゆらゆらと揺らめいていた。

「…………」

 トワリスは、浅く呼吸しながら、呆然と立ち尽くすことしかできなかった。

 ルーフェンを取り囲むように、男が四人、草地に倒れている。
その内の一人は、先程宿舎で、トワリスたちを襲った男であった。

 かろうじて息があったのか、ふと宙を掻くように、男の一人が手を伸ばす。
それに気づくと、すっと目を細めたルーフェンが、口を開いた。

「……もう一度、聞こうか。あんたたち、どこから来た?」

 聞いたこともないような、鋭い声。
ルーフェンは、まるでトワリスのことなど見えていないかのように、じっと這いつくばる男を見下ろしていた。

 男は、しばらくの間、無言ではくはくと口を動かしていた。
それが、話そうとしているのではなく、舌を噛みきろうとしているのだと気づくと、ルーフェンは、男が提げていた剣を取って、何の躊躇いもなく、振り下ろした。

「────っ!」

 肉を貫く嫌な音がして、男の喉から、血のあぶくが噴き出す。
必死に胸部に突き刺さった刃を掴みながら、男はびくびくと痙攣していたが、やがて、ルーフェンが剣を引き抜くと、糸が切れたように絶命した。

 途端、強烈な金臭さと恐怖が押し寄せてきて、トワリスは口をおさえた。
そうでもしなければ、吐きそうだった。

 目の前にいるのは、トワリスの知っているルーフェンではなかった。
纏っている空気も、声も、まるでいつもとは別人だ。
返り血を浴びても、表情一つ変えないルーフェンの暗い瞳には、殺戮を楽しんでいるような、狂気的な色さえ滲んでいるように見えた。

「──ルーフェン!」

 不意に、サミルの声が響いてくる。
長廊下の角から、慌てた様子のサミルとダナが走ってくると、一瞬、我に返ったように、ルーフェンの目に光が戻った。

「サミルさん……」

 垣間見えた凶暴な影は失せ、ルーフェンが呟く。
サミルは、眼前に広がる凄絶な光景に、一瞬、たじろいで立ち止まったが、ルーフェンを一瞥して、それからトワリスの方を見ると、ほっと息を吐いた。

「良かった、無事でしたか……」

 怪我がないか確かめるように、トワリスの腕に触れて、サミルがルーフェンに向き直る。
ルーフェンは、そんなサミルを見つめて、散らばる骸(むくろ)の中心に立ったままでいた。

Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下 ( No.53 )
日時: 2018/09/04 19:04
名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: zc76bp3U)




 ややあって、必死にトワリスを追いかけてきたらしいロンダートが、息を切らしながら合流した。

「いっ、今、どういう状況ですか……!」

 おそらく、全員が事態を飲み込めていない中で、自然と、視線がルーフェンに集まる。
ルーフェンは、目を伏せてから、足元で息絶えている男たちを示した。

「……サミルさんを狙った、襲撃です。どこから来たのか吐かせようとしたんですが、口を割りませんでした」

 淡々と告げて、持っていた剣を、その場に捨てる。
剣は、持ち主の男の死体から、のろのろと流れ出る血の海に落ちて、どす黒く染まっていった。

 サミルは、眉を寄せると、ゆっくりとルーフェンに近づいていった。

「大丈夫なんですか……?」

 サミルの問いかけに、ルーフェンが頷く。

「……はい、もう心配ないと思います。幸い、この屋敷で働いている人達は全員顔見知りだし、残党が潜んでいたとしても、すぐに見つかる。このあと、一度屋敷の人達を集めましょう。もし不審な奴がいたら、すぐに俺が始末して──」

「──そうではなくて……!」

 ルーフェンの肩を掴んで、サミルが声を荒げる。
言葉を止めたルーフェンに、サミルは、悲しそうに目元を歪めた。

「君は、大丈夫なんですか……?」

「…………」

 ルーフェンの目が、微かに見開かれる。
驚いたのか、しばらくそのまま黙っていたが、やがて、微かに俯くと、ルーフェンはくすくすと笑い出した。

「やだな、俺が負けると思ったんですか? こんな奴等、殺すのは簡単だ。侵入に気づいてさえいれば、もっと早く片付けられた」

 サミルが、顔つきを厳しくする。
一瞬、元に戻ったかのように思われたルーフェンの瞳は、興奮した獣のように、爛々と光っていた。

 口調こそ普段通りだが、やはり、ルーフェンの様子がおかしい。
サミルも、ダナも、ロンダートも、訝しげに眉を潜めて、ルーフェンのことを見つめている。
ルーフェンに対する得体の知れない恐怖を感じていたのは、トワリスだけではないようであった。

「召喚術を、使ったんでしょう……?」

 ルーフェンの表情を伺いながら、サミルが、緊張した面持ちで尋ねる。
ルーフェンは、だからなんだ、とでも言いたげに、男達の死体を見下ろして、ほくそ笑んだ。

「使いましたが、使うまでもなかった。こいつら、どうせシュベルテかセントランス辺りの、野良魔導師かなんかでしょう。こんな雑魚、気にする価値もない」

「…………」

 場の雰囲気が凍りついて、誰もが言葉を失う。
いつものルーフェンなら、こんなことは絶対に言わないはずだ。
残虐な空気を纏った今のルーフェンには、声をかけることすら躊躇われた。

Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下 ( No.54 )
日時: 2018/09/18 05:15
名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: zc76bp3U)


 沈黙を破ったのは、ロンダートだった。

「……雑魚って言いますけど、宿舎を見張っていた自警団員は……。俺の、仲間は……一人、殺されました」

 声を震わせながら、ロンダートは言った。

「俺達は、アーベリトを守る自警団だ。だから、こんなの言い訳にしかならないのかもしれないけど……。俺達は、全員、召喚師様みたいに強いわけじゃない。魔術だって使えない奴等が多いし、最近は、ずっと休みもなく警備についてて、皆、疲れてる。アーベリトが王都になって嬉しいし、陛下や、召喚師様のことを、支えたい気持ちはあります。……でも、身体が追い付かない。すみません……限界なんです、俺たちの力量じゃ」

「…………」

 ロンダートの言葉を、ルーフェンは、しばらく無表情で聞いていた。
冷たく鋭利な銀の瞳に射抜かれて、ロンダートの全身に、じっとりと嫌な汗が流れる。
しかし、ゆっくりと息を吐いたルーフェンが、目を閉じ、再び開けると、その瞳の色は、元の落ち着いた色に戻っていた。

「……ごめん。今のは、俺の失言だった。王都という地位を奪取した以上、必ずその台座を崩そうと狙ってくる輩が出てくる。でも、そんな事態に、アーベリトの人達は慣れていない。今回、侵入者に気づけなかったのは、俺の落ち度でもあります。犠牲が出ていたなら、尚更……」

 ルーフェンの肯定的な言葉に、緊張が切れたように、ロンダートが身体の強張りを解く。
だが、そんなことには一切気づいていない様子で、ルーフェンは言い募った。

「屋敷に、俺が結界を張ります。そうすれば、人の出入りを完全に把握できる。今回みたいなことは、二度と起こさせない」

「…………」

 ルーフェンの提案に、しかし、サミルは頷かなかった。
ロンダートと同じく、ルーフェンの雰囲気が戻ったことに安堵していたサミルだったが、少しの逡巡の末、真剣な表情になった。

「……いいえ。シュベルテに、応援を頼みましょう。魔導師の派遣をお願いすれば、私達の負担も、少しは軽くなるはずです。こういった犠牲者が出るような事態が起こりうるのだという自覚が、私にも足りませんでした」

 ルーフェンが、はっと顔をあげる。
サミルに詰め寄ると、ルーフェンは強い口調で言った。

「そんなことしたら、危険です! シュベルテには、アーベリトが王権を握ったことを妬む奴等が大勢いる。その中から人を招き入れようなんて、わざわざ敵を懐に入れるようなものです!」

 サミルは、もう一度首を振って、諭すように返した。

「ルーフェンの言い分も、分かります。ですが、現状の人手不足を見過ごすわけにもいきません。このままでは、アーベリトが疲弊していくだけです」

「俺がどうにかします……!」

 食い気味に言って、ルーフェンはサミルを見つめた。

「シュベルテの力なんか借りなくても、俺が、アーベリトを守ります。自警団の分も、不足な面は全て、俺が、なんとかします」

「…………」

 何を言えば良いのか迷った様子で、サミルが押し黙る。
苦しげに眉を寄せ、ルーフェンの肩に置いた両手に力を込めると、サミルは弱々しく言った。

「……この数月、君には、色んな面でアーベリトを支えてもらっています。でも、全てを背負い込もうなどと思わないでほしい。私は、君の負担も減らしたいのですよ。アーベリトを守るためとはいえ、こんな、こんな……人殺しのような真似を、させたくはないのです」

 足元の死体を一瞥してから、ルーフェンの頬についた返り血を、サミルが親指で拭う。
ルーフェンは、つかの間苦々しい顔つきになって、言葉を止めていたが、やがて、顔を背けると、吐き捨てるように告げた。

「別に……もう、慣れました」

 瞬間、サミルの顔が、さっと強張る。
聞きたくなかった一言を、ついに突きつけられてしまった。
そんな表情であった。

Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下 ( No.55 )
日時: 2018/09/09 15:43
名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: 7dCZkirZ)



「……慣れたって、なにを言ってるのですか」

 動揺した様子で、一歩離れると、サミルはきつい口調で言った。

「こんなことに、慣れてはいけません。以前、言ったではありませんか! 殺しを良しと思うことだけは、あってはならない。人の死を悼む気持ちは、絶対に忘れてはなりません、と」

「良しだなんて思ってません。だけどこれは、誰かがやらなくちゃいけないことだ!」

 言い放って、サミルに向き直る。
ルーフェンは、ぐっと拳を握った。

「……サミルさんは、甘いんだよ。その甘さが、きっと沢山の人を救ってきて、今のアーベリトを作ってる。俺だって、そんなアーベリトの雰囲気が、好きです。……でも、それだけじゃ駄目なんだ。この先もずっと、今のアーベリトで在り続けるなら、それを阻むものを、誰かが斬り捨てなきゃいけない。……その役は、俺が適任だと思う」

「…………」

「シュベルテは、色んな思惑が交錯している街だ。協力関係を結んでいるからといって、裏切られないとは断言できないし、領主であるバジレットの権力が、必ずしも臣下に及んでいるとも限らない。シルヴィアだって、また何か仕掛けてくるかもしれない。……俺は、ずっとシュベルテにいたから、分かるんだ。あの街は、簡単に信用しちゃいけない……。サミルさんが人を信じ、助けることでアーベリトを形作るなら、俺は、人を疑い、斬り捨てることで、アーベリトを守ります。召喚師には、それを成せるだけの、絶対的な力がある」

 ルーフェンの物言いに圧倒された様子で、サミルが口を閉じる。
決して、シュベルテで燻っていた頃のように、召喚師の責務に縛られて言っているわけではない。
ルーフェンは、自らの意思で、アーベリトの影の部分になろうとしている。

 サミルは、額に手を当てると、消え入りそうな声で返した。

「そのような、悲しいこと……。私は、頷けません。シュベルテで、日に日に弱っていく貴方を、私は助けたかった。だから、ルーフェンをアーベリトに呼んだんですよ。君にそんな辛い役目を負わせるために、アーベリトを王都にした訳じゃない」

 ルーフェンは、静かに返した。

「……悲しいことでもないし、辛い役目だとも思ってません。アーベリトを守れるなら、俺は、なんだってやります」

 大きくなったサミルの目を、ルーフェンは見つめ返した。

「俺は、こうなることを、覚悟していました。アーベリトを王都にしたときから……いや、それよりも前から、ずっと……。だって、俺とサミルさんが選んだのは、そういう道だから」

「…………」

 ルーフェンはしばらく、悲しげに歪むサミルの顔を、じっと眺めていた。
しかし、やがて、ふいと目をそらすと、サミルに背を向けた。

「……残党がいないか、見てきます」

 それだけ言って、ルーフェンは足早に去っていく。
長廊下の角を曲がって、ルーフェンの姿が見えなくなると、サミルは、大きく息を吐いた。

「私も、分かっています。分かっていますが……」

 独り言のように呟いて、苦しそうに目を閉じる。
そんなサミルの肩に手を置いて、ダナが口を開いた。

「サミル坊、おぬしも疲れとるんだろう。こんな襲撃があった後じゃ。明日も忙しくなるだろうし、少し休んできたほうがいい」

「…………」

 サミルとダナのやりとりを眺めながら、トワリスは、その場に立っていることしかできなかった。
ぼんやりとした月明かりが照らす中、ロンダートは、呆然と転がる死体を見つめている。

 どこかで、見えない亀裂が入る音を、トワリスは聞いたような気がした。

Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下 ( No.56 )
日時: 2018/09/11 19:00
名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: zc76bp3U)




 犠牲者一人という小規模なものではあったが、レーシアス家への襲撃は、アーベリトの人々にとって衝撃的な事件となった。
国王、サミル・レーシアスを狙った暗殺未遂──。
この知らせは、瞬く間に街中に広がり、王都になってから沸き立っていたアーベリトの人々に、冷水を浴びせたのだった。

 レーシアス家でも、以前のような活気はなくなってしまった。
一層任務に打ち込むようになった、と言えば聞こえはいいが、自警団員たちの雰囲気が、ぴりぴりするようになったし、サミルとルーフェンも、あまり話さなくなった。
二人とも、前々から仕事に追われて、話す時間が多かったわけではない。
それでも、屋敷内ですれ違った時なんかは、楽しそうに会話していたのに、今はもう、気まずそうに一言二言交わすだけになっていた。

 そんな中でも、トワリスが会いに行けば、ルーフェンはいつも通り優しかった。
最初は、変わらぬ態度に安堵したものだったが、だんだん、その優しさが作っているもののように感じられて、ふと悲しくなることがあった。
だって、サミルとの間に亀裂が入った上、アーベリト全体の雰囲気も悪くなったのだ。
こんな状況にいたら、ルーフェンとて、穏やかに笑っていられるはずがない。
それなのにルーフェンは、いつも優しく、前と同じ態度で接してくれる。
いっそ、不平不満でもぶつけてくれたら良いのに、ルーフェンは、全く心の内を見せない。
そんな彼と話していると、自分は全く頼られていないのだと実感してしまって、寂しくなった。
結局、ルーフェンにとってトワリスは、哀れな境遇から救いだした、少女の一人に過ぎないのだろう。

 疲れに良いだろうと、ミュゼと作った焼菓子を持っていった時も、ルーフェンの態度は、普段通りだった。

「トワリスちゃん、どんどんお料理上手になってくね。ありがとう」

 そう言って、ルーフェンは、美味しそうに焼菓子を食べてくれる。
以前なら、それだけでトワリスも幸せな気持ちになったが、本当は、ルーフェンは別のことを考えているのかもしれない。
そう思うと、純粋に喜べなくなった。

 トワリスは、図書室の指定席になりつつある、ルーフェンの向かいの椅子に座った。
そして、特に口を開くこともなく、黙って、事務仕事をするルーフェンのことを眺めていた。

 ルーフェンは、また報告書に目を通しているのだろう。
用紙の署名欄に、素早く自分の名前を書いている。

 ルーフェンの字は、教本に載っているような、丁寧で整った文字ではなかったが、滑らかで流暢なものだった。
少なくともトワリスは、それが綺麗だと思えたし、ルーフェンの文字を手本に練習ばかりしていたので、なんとなく、トワリスの書く字も、ルーフェンのものに似るようになった。

 今なら、文字の読み書きも出来るようになったから、読んで署名するだけの作業なら、本当に手伝えるかもしれない。
──なんて、そんなに簡単な仕事ではないのだということも、トワリスは理解できるようになっていた。

 物思いに耽っていると、気づかぬ間に、難しい顔になっていたらしい。
ふと顔をあげたルーフェンが、話しかけてきた。

「どうしたの? 何かあった?」

「……え」

 ルーフェンに見つめられて、思わず俯く。
最近、なぜかルーフェンと目を合わせられなくなっているのも、悩みの一つだったが、今はそんなことは二の次だ。

 トワリスは、しばらく迷った様子で黙っていたが、やがて、微かに顔をあげると、意を決して尋ねた。

「……ルーフェンさん、サミルさんと、仲直りしないんですか?」

 襲撃があってから、数日間。
ずっと触れづらかった話題に触れて、緊張しながら返事を待つ。
しかしルーフェンは、小さく鼻を鳴らしただけで、思いの外あっさりと返してきた。

「仲直りもなにも、別に喧嘩なんてしてないよ。お互い時間が合わなくて、話せてないだけ」

「……でも……」

 反論しようとするが、上手く言葉が見つからない。
ルーフェンは、少しの間、トワリスの言葉を待っていたようだったが、彼女が完全に口を閉じると、再び事務作業に戻った。

Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下 ( No.57 )
日時: 2018/09/26 22:25
名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: zc76bp3U)


 こういうときのルーフェンは、どことなく、相手に有無を言わせぬような、近寄りがたい空気を纏っている。
別に、黙れと怒鳴るわけでもなく、むしろ、纏う空気自体は柔らかい。
それなのに、触れようとすれば、するりと指の間をすり抜けてしまって──。
なんとなく、それ以上は踏み込むなと牽制されているようだった。

(……私の、役立たず)

 和やかなアーベリトに戻したいのに、何もできない。
サミルやルーフェンの力になりたいのに、どうすれば良いのか分からない。
そもそも、自分が手を出そうとしていること自体が、間違っているのだろうか。
そんな風に思い始めると、自然と目の前がぼやけてきて、涙がこぼれ始めた。

 突然ぽろぽろと泣き出したトワリスに、ルーフェンが、ぎょっとする。
手を伸ばし、涙を親指で拭うと、ルーフェンは渋々といった様子で問うた。

「……俺と、サミルさんのこと?」

 こくりと頷けば、ルーフェンが困ったように眉を下げる。
やはり、ルーフェンとしても、この話題には触れられたくなかったのだろう。
やりづらそうに目線をそらすと、はぁっと息を吐いた。

「……俺たちのせいで、気まずい思いをしていたなら、ごめんね。でも、本当に喧嘩してるとか、そういうのじゃないから。ちょっと意見が食い違ってるだけ」

「シュベルテの魔導師達に、アーベリトに来てもらうかどうかって話ですか?」

「……まあ、そう」

 答えてから、ルーフェンは、真面目な表情になった。

「サミルさんの意見も理解できるけど、やっぱり俺は、シュベルテや他の街を、安易に信じようという気にはなれない。今回の襲撃だって、アーベリトを狙っている勢力があるからこそ、起きたことなんだ。サミルさんは頭の良い人だし、そう簡単に利用されたり、騙されたりはしないと思う。だけど、人一倍お人好しなのは確かだし、すぐに無茶をするから、いつ誰があの優しさにつけ込んで来るか、分かったもんじゃない。下手に動いてアーベリトを危険に晒すくらいなら、俺が守り抜いた方が確実だ」

 堅い声音でそう言いながら、ルーフェンは目を伏せた。
トワリスは、ごしごしと袖で涙を拭ってから、小さな声で返した。

「……多分、サミルさんも、同じこと考えてるんだと思います。ルーフェンさん、すぐに無茶をするから、負担をかけさせちゃいけないって」

「…………」

 わずかに視線を動かしてから、トワリスに向き直る。
ルーフェンは、微苦笑をこぼすと、肩をすくめた。

「……そうなんだろうね。だから、サミルさんはお人好しなんだよ。そんな甘さ、俺には必要ないのに。だって俺は召喚師で、守ることが使命なんだから」 

「……使命?」

「そう。……召喚師は、国の守護者だから」

 まるで、自分に言い聞かせるように言って、ルーフェンは、再度目線を落とした。
近くを見ているのに、どこか遠くを見据えているような、銀色の瞳。
トワリスは、そんなルーフェンの茫漠とした目を見ながら、ぽつりと言った。

「国を守るのが召喚師の使命なら、ルーフェンさんのことは、誰が守るんですか……?」

 一瞬、ルーフェンの動きが止まる。
呆気にとられた様子で瞬くと、ルーフェンは、聞き返した。

「守るって、誰を? ……召喚師を?」

「うん」

 首肯した途端、ルーフェンが吹き出して、けらけらと笑い始めた。
何故笑われたのか分からず、首を傾げる。
深刻な雰囲気が一転──ルーフェンは、しばらく笑った後、ふうと息を吐くと、答えた。

「召喚師は、守らなくていいんだよ。強い力を持ってるからこそ、国の守護者なんだから」

「そうなんですか?」

 トワリスは、納得のいかなさそうな面持ちで、眉を寄せた。

「……でも、いくら強い力を持っていたとしても、一人で国を守るのは、無理だと思います。だって、この国には……いえ、アーベリト一つをとっても、沢山の人が住んでるんですよ。それをたった一人で守り切ろうなんて、誰にも出来ないと思う」

 言ってから、失礼な発言をしてしまっただろうかと、慌てて口をつぐむ。
だが、そんなことは気にしていない様子で、ルーフェンは苦笑いした。

Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下 ( No.58 )
日時: 2019/06/18 10:52
名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: NRm3D0Z6)

「そうだね。でも、普通はそんな風には思わないんだよ。魔導師団があって、騎士団があって、召喚師一族は、その上に立つ者だ。強大で絶対的な守護者……それが、世間の認識だ。俺も、守れとはよく言われるけど、召喚師を守ろうなんて話は、今、初めて聞いたよ」

 どこか冗談めかして言ってから、ルーフェンは、静かに続けた。

「ただね、本当は俺も、国を守るなんて、どうすればいいか分からないんだ。そもそも、俺自身、サーフェリアのために命を懸けようだなんて思ってない。──それでも」

 言葉を継いで、ルーフェンは、トワリスを見つめた。

「……それでも、このアーベリトの平穏だけは、崩したくない。ある人が、サーフェリアの召喚師は人殺しだと言っていたけれど、それが、守ることに繋がるなら、そうなったって構わない。それだけアーベリトは、俺にとって大切な街だし、唯一の場所なんだ。この数月で、改めてそう感じた。俺は、アーベリトのためなら、何にでもなれる」

「…………」

 人殺し、という言葉が、数日前のルーフェンを想起させた。
屋敷に侵入した暗殺者たちを、いとも簡単に、まるで虫でも踏み潰すかのように、殺してしまったルーフェン。
結果的に、サミルの命は守られたのだから、あれで良かったのだと思う。
だが、あの時のルーフェンの残虐な瞳を思い出す度、トワリスの心には、底知れない恐怖が沸き上がってくるのだった。

 アーベリトを守りたいのだと、そう語るルーフェンの表情は、存外穏やかだった。
しかし、何にでもなれる、という言葉が、なんだか危なげで、不安定な響きを孕んでいるようにも思えた。

 トワリスは、ぎゅっと唇を噛んでから、か細い声で言った。

「……私も、この街には、感謝しています。暖かくて、優しくて、素敵な街だと思う……。でも私は、それ以上に、サミルさんや、ルーフェンさんのことが好きです。だから、二人が変わっていってしまうことの方が、嫌です」

 トワリスは、ルーフェンの目を、まっすぐに見つめた。

「襲撃者たちを殺してしまったときの、ルーフェンさんは、なんだか別人みたいで、すごく怖かった……」

 ルーフェンの瞳が、微かに動く。
もしかしたら、本人には自覚がなかったのかもしれない。
一瞬だけ、動揺したように見えたルーフェンだったが、嘆息すると、すぐにいつもの穏やかな表情に戻ってしまった。

「そりゃあ、あんな場面を見せられたら、怖いよね。ごめんね」

「…………」

 ──誤魔化された。
優しい言葉で一線引かれて、もうこれ以上は、踏み込んで来るなと告げられる。
トワリスは、口を開こうとして、閉じると、そのまま俯いて、何も言えなくなってしまった。

 脳裏に再び、血の海の真ん中に立つ、ルーフェンの姿が蘇る。
残虐で、冷酷で、狂気的な銀色──。
確かに、あの夜のルーフェンは、全くの別人のような目をしていた。

 トワリスの表情が、怯えたように強張っていくのを密かに見ながら、ルーフェンは、黒変した左腕に、袖越しに爪を立てたのだった。

Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下 ( No.59 )
日時: 2018/09/19 19:04
名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: q9W3Aa/j)




 胸の中に、漠然とした不安のしこりを抱えたまま、トワリスは、また一日、また一日と、レーシアス家での慌ただしい日々を過ごしていった。
結局、日が経つにつれて、サミルとルーフェンの間にあった確執も、薄れていったように思えたし、襲撃があってから、騒然としたアーベリトの雰囲気も、徐々に穏やかでのんびりとしたものに戻っていった。
それでも、トワリスは思うのだ。
不穏な影の足音は、着実に、この頃からアーベリトに忍び寄っていたのだろう、と。

 サミルやルーフェンに救われ、アーベリトに身を置いたことは、トワリスにとって人生最大の転機であり、また、幸運であった。
その後の自分の選択にも、後悔はないし、きっと、もしもう一度人生をやり直したのだとしても、トワリスは、同じ道を歩むのだと思う。

 ただ、襲撃されたあの夜から、確かに感じていたこの不安、そして恐れは、決して勘違いなどではなかった。
トワリスは、何年もあとになって、そのことを強く感じるのだった。



 日向の庭園に、何本もの竿受けを立て、そこに物干し竿を引っ掛けると、ミュゼは、洗ったばかりの洗濯物を、手早く干していった。
布地が薄いものは、ぱんぱんと手で叩いて、皺を伸ばしてから竿にかける。
簡単な作業だが、両腕一杯の大きな籠五つ分の洗濯物を干さなければならないので、見かけ以上の重労働だ。
しかも、日が出ているとはいえ、冬を目前にした今の時期は、湿った洗濯物を長時間触っていると、手がかじかんできて、ろくに動かせなくなる。
ミュゼを手伝って、トワリスも素早く籠を運んでくると、早速作業に取りかかったのだった。

 やがて、ほとんどの洗濯物を干し終えた頃。
残りの洗濯物を確認すると、ミュゼは、とんとんと肩を叩きながら、言った。

「トワリスちゃん、まだ干しきれないから、もう一本、物干し竿をとってきてちょうだい」

「分かりました」

 頷いてから、腰を伸ばして立ち上がる。
そのまま、物置小屋まで駆けていこうとしたトワリスは、しかし、屋敷の裏で、サミルと見知らぬ誰かが話しているところを見つけると、立ち止まった。
レーシアス家の使用人ではない、見たことのない中年の男だった。

(誰だろう……?)

 サミルと親しげに話していることから、怪しい人物ではないのだろう。
こんな裏庭で、何を話しているのか気になって、立ったまま二人を見つめていると、こちらに気づいたらしいサミルが、にこりと笑った。

「ああ、トワリス、ちょうど良かった。今、少しこちらに来られますか?」

「えっ……」

 まさか自分が呼ばれるとは思わず、困ってミュゼの方に振り返る。
頼まれごとをされていた最中だったので、どうすべきか迷ったトワリスであったが、ミュゼは、サミルと中年の男に気づくと、何かを察したように、曖昧な笑みを浮かべた。

「あ、ああ……トワリスちゃん、行ってらっしゃい。あとは、私がやっておくから」

「でも……」

「大丈夫よ。あと残り少しだから」

 そう言って、籠に残った洗濯物を示してから、ミュゼが頷く。
急にぎこちなくなった彼女の態度に、疑問を覚えながらも、トワリスは、仕方なくサミルの元へと向かったのだった。

Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下 ( No.60 )
日時: 2018/09/22 19:10
名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: q9W3Aa/j)



 裏庭から離れ、見知らぬ男と共にトワリスが通されたのは、サミルの自室であった。
サミルに座るように促され、長椅子に腰かける。
トワリスの向かいに座った男は、柔和な笑みを浮かべて、手を差し出してきた。

「はじめまして、トワリスちゃん。私はテイラー・シグロスと言います」

「……はじめまして」

 ひとまず手は出さずに、軽く頭だけ下げて、挨拶をする。
テイラーは、警戒心剥き出しのトワリスに、気分を害した様子もなく、苦笑を浮かべると、大人しく手を引っ込めた。

 サミルは、テイラーの隣に腰を下ろした。

「テイラーさんは、東区の孤児院の責任者です。今日は、お話があって来てもらいました」

「…………」

 孤児院、という言葉に、なんとなく話の予想がついてしまう。
道理で、ミュゼもあのようなぎこちない態度をとったわけだ。

 表情を曇らせたトワリスに、サミルは、穏やかに告げた。

「来月から、トワリスには、東区の孤児院に移ってもらおうと思っています。アーベリトでの生活にも慣れてきたようですし、何より、このままこの屋敷にいるのは、危険です。いつ、また私を狙って、何者かが襲撃してくるかも分かりません」

 サミルに次いで、テイラーも口を開いた。

「最初は寂しいと思うかもしれませんが、孤児院は、この屋敷からそう遠くはありません。それに、孤児院には、トワリスちゃんと同じ年くらいの子供たちが沢山います。きっと楽しいと思いますよ」

「…………」

 トワリスは、わずかに俯いたまま、何も答えなかった。
しばらく黙って、何かを堪えるようにぎゅっと唇を引き結んでいたが、やがて、小さな声で呟いた。

「……私は、この屋敷には、いりませんか?」

 サミルとテイラーが、微かに瞠目する。
サミルは、そんなつもりで言っているのではないと分かっていたが、他に言葉が見つからなかった。

「……私、沢山働きます。お屋敷の家政婦のお仕事は、ほとんど覚えました。教えてもらえれば、他のお仕事も頑張ります。だから、ここにいたいです」

 トワリスは、サミルと視線を合わせようとしなかった。
我が儘を言っているから、きっとサミルは、困っているに違いない。
そう思うと、サミルの顔を見るのが怖かった。

 サミルは、席を立つと、トワリスの両手を握った。

「いらないだなんて、そんなこと思っていません。トワリスはいつも、一生懸命屋敷の仕事を手伝ってくれていたので、本当に助かりました。ミュゼさんもね、感心していたんですよ。でもね、慌ただしいレーシアス家で、そんな生活を送らせていることについても、私は、少し気がかりだったんです。孤児院に行けば、色んな子供たちと関わって、遊んで、今よりもずっと年相応の暮らしができるでしょう。その方が、君のためになると思うんです」

「…………」

 それでも、頷こうという気にはならなかった。
テイラーはとても穏やかそうな男に見えたし、別に、孤児院自体が嫌なわけではない。
ただ、サミルやルーフェンと離れたくない気持ちのほうが、遥かに強かったのだ。

Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下 ( No.61 )
日時: 2018/09/26 18:41
名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: gK3tU2qa)



 もう一度、レーシアス家にいさせてほしいとお願いしようとして、けれど、トワリスは口を閉じた。
サミルは優しいから、どうしてもここにいたいと駄々をこねれば、もしかしたら聞いてくれるかもしれない。
しかし、サミルを困らせてまでこの屋敷に残って、それで本当に良いのだろうか。

 トワリスは、サミルやルーフェンをはじめ、レーシアス家の者達のことが好きだった。
だからこそ、言うことを聞くべきなのではないか。
感謝している人達に対して、聞き分けのない子供のように、嫌だ嫌だと騒ぐのは、なんだかみっともないように思えた。

「……少し、考えさせてください」

 長い沈黙の末、トワリスは、返事をした。
そう答えるのが、精一杯だった。

 サミルは、どこか申し訳なさそうに眉を下げ、言葉を探している。
そんな気まずい空気を察したのか、テイラーは、あえて明るい声音で言った。

「まあ、いきなり孤児院に移れと言われても、トワリスちゃんだって驚いてしまうでしょう。大丈夫、急いでいるわけではありませんし。ね、陛下」

 トワリスとサミルに笑いかけて、テイラーは長椅子から立ち上がった。
そして、持ってきた荷物を手早くまとめると、小さく頭を下げた。

「また、日を改めて伺いますね」



 再びミュゼと合流し、その日一日の仕事を終わらせると、夕飯を食べてから、トワリスは図書室に向かった。
夜の図書室には、ルーフェンも、誰もいない。
それがわかっていて、トワリスは図書室に来た。
自室に戻っても良かったのだが、使用人たちが多く暮らしている宿舎では、どうにも騒がしくて落ち着かない。
今は、なんとなく、一人で静かな場所にいたかったのだ。

 持ってきた手燭を翳せば、柔らかな光が、並ぶ本の背表紙を撫でた。
何気なくその炎を見つめながら、トワリスは、呟くように唱えた。

「其は空虚に非ず、我が眷属なり。主の名は、トワリス──……」

 瞬間、手燭の炎が、鳥の形を象って燃え上がる。
自由を得たことを喜ぶかのように、宙を滑空した炎の鳥は、ややあって、頭上で散ると、眩い火の粉となって、雪のようにトワリスに降り注いだ。
トワリスが、初めてルーフェンに教えてもらった魔術であり、そして、一番に覚えた魔術だ。

(きれい……)

 この魔術を教えてもらって、もうどれくらい時が経っただろう。
確か、ルーフェンに出会ったのが、初夏の頃であったから、もう半年も経過しているのか。
そう思うと、長いようで短かったアーベリトでの日々が、沸々と頭に浮かんできたのだった。

Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下 ( No.62 )
日時: 2018/09/30 18:10
名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: zc76bp3U)


 本棚に寄りかかり、きらきらと舞う火の粉を眺めていると、ふいに、扉の方から足音が聞こえてきた。
図書室に入ってきたルーフェンは、トワリスの横に並ぶと、同じように、本棚に背を預けた。

「……魔術、上手になったね。才能あるんじゃない?」

 くすくすと笑って、ルーフェンが言う。
こんな夜更けに、ルーフェンがやって来たことに驚いていると、理由を問う前に、返事が返ってきた。

「トワリスちゃん、図書室が好きみたいだから、多分ここにいると思ったんだ。どうしたの? ミュゼさんが心配してたよ。宿舎に帰ってこないって」

「…………」

 図書室が好き、というよりは、ルーフェンが図書室にいることが多いから、通う頻度が高くなっていただけなのだが、わざわざ訂正するのも恥ずかしいので、黙っておく。
答えないでいると、ルーフェンは苦笑して、尋ねてきた。

「孤児院に行くのは、そんなに嫌?」

「…………」

 無意識にむっとした顔になって、下を向く。
トワリスが孤児院に移る話を、ルーフェンも知っているだろうということは、予想していた。
ミュゼだって知っていたのだ。
多分この話は、サミルの周りの者達の間で、以前から話題に出ていたことなのだろう。
今日まで知らなかったのは、自分だけだったのだと思うと、なんだか悲しくなった。

 別に、だからといって、サミルたちを薄情だとは思っていない。
皆、トワリスのことを考えて、提案してくれているのだ。
サミルの言葉通り、孤児院の方が年相応の暮らしができるだろうし、レーシアス家の屋敷にいては、また襲撃を受けるような事態だって考えられる。
だから、トワリスのために、孤児院に移れと言っているのだ。
分かっていた。
分かってはいたが、それでも、トワリスを屋敷に残そうとしてくれる者が、一人もいなかったのだと思うと、自分はレーシアス家にとって、必ずしも必要な存在ではないのだと突きつけられているようで、無性に寂しくなった。

 トワリスが黙ったままなので、ルーフェンも、しばらくは口を閉じて、宙を見つめていた。
しかし、やがて、ふとその場に腰を下ろすと、トワリスにも座るように言って、ルーフェンは唇を開いた。

「最近まで、アーベリトじゃなくて、シュベルテが王都だったのは知ってる?」

 脈絡のない質問に、首をかしげる。
とりあえず頷くと、ルーフェンはそのまま続けた。

「俺は召喚師一族だから、当然、王都だったシュベルテにいたんだけど、八歳の頃、わけあって、ほんの少しだけ、アーベリトにいたことがあったんだ」

 見上げると、ルーフェンも、トワリスの方を向いた。

「サミルさんの人柄に触れて、俺は、これから先も、ずっとアーベリトにいられればいいのにって思った。でもね、ある日、言われたんだ。君のお母さん、つまり当時の召喚師は、シュベルテにいるから、君も王宮に住まなきゃいけないんだって」

 懐かしそうに目を伏せて、ルーフェンは言い募った。

「正直、すごく嫌だったよ。王宮での暮らしなんて想像もできなかったし、何度、働くからレーシアス家に置いてくださいって、お願いしようと思ったか知れない。でも、出来なかった。我が儘を言うのは許されなさそうな状況だったし、働くって言っても、俺は何にもできない子供だったからね。言う通りに従って、王宮に行くしかなかったんだ」

 今の自分と酷似した状況に、興味がわいたのだろう。
トワリスは、ルーフェンの表情を伺いながら、尋ねた。

「王宮は、どうだったんですか?」

「そりゃーもう、最悪だったよ」

 真剣な顔つきのトワリスに対し、ルーフェンが、あっけらかんと答える。
身ぶり手振りまでつけて、ルーフェンは、ふざけた調子で答えた。

Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下 ( No.63 )
日時: 2018/10/03 18:39
名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: wC6kuYOD)


「無責任で、押し付けがましくて、腹の底が読めない大人ばっかり。だから、徹底的に反抗したよ。何があっても、召喚師なんかになるもんかと思っていたし、召喚師になるために勉強しろって言われても、大半の講義はすっぽかしてた。誰の言うことも聞かず、自室や図書室に引きこもってた時期もあったかな」

「ルーフェンさん、そんなことしてたんですか……」

 びっくりして瞠目すると、ルーフェンは、からからと笑った。

「他にも、色々やったよ。当時、勅命が下りた時しか使っちゃいけないとされてた移動陣を、勝手に使ったり、王族である兄を、そそのかして利用したこともある。無断で荷馬車に乗り込んで、遥か遠い南方の地まで、リオット族に会いに冒険をしたこともあった。あのときは、次期召喚師が行方不明になったっていうんで、王宮中、大騒ぎになったらしいよ。俺のことをよく気にかけてくれていた、こわーい政務次官がいるんだけど、彼が過労死したら、間違いなく原因は俺だろうね」

「…………」

 驚きを通り越して、呆れ顔になる。
隣で絶句しているトワリスに、くすくすと笑って、それから、再び前を見ると、ルーフェンは、一転して静かな声で言った。

「シュベルテにいた頃は、とにかく何もかもに反発していたし、先のことを想像するのも、怖くて嫌だったんだ。ある程度諦めがついた時には、自分は、一生シュベルテで、召喚師として生きていく運命なんだろうなぁって、そう思ってた。……でも、結局今は、巡り巡って、サミルさんのいるこのアーベリトに行き着いてるんだから、不思議だね」

 目を閉じ、開くと、ルーフェンは、再びトワリスの方を見つめた。

「きっと、そういうものなんだよ。生まれも、期間も関係なく、自分が故郷だと思うなら、そこが故郷なんだ。君も俺と同じで、普通とは違うから、人より変わった人生を歩むことになるかもしれない。今後、孤児院に限らず、どこに行くことになるかも分からない。もしかしたら、シュベルテや、もっと遠く……それこそ、二度と帰れない、なんて思うような、遠い場所に行くことだってあるかもしれない。それでもね、どこにいたって、何をしていたって、トワリスちゃんが望むなら、君の故郷は、アーベリトなんじゃないかな」

 トワリスは、ルーフェンを見つめたまま、少しの間黙っていた。
それから、どこか寂しそうに微笑むと、トワリスは言った。

「……だったら、私の故郷は、アーベリトじゃなくて、ルーフェンさんとサミルさんがいるところです」

 思いがけない返事だったのか、ルーフェンが目を大きくして、ぱちぱちと瞬く。
一瞬、視線をそらした後、少し照れたように肩をすくめると、ルーフェンは言った。

「それなら、いつかまた会えるよ。……なーんて、たかだか孤児院に行くだけで、大袈裟かな?」

「……大袈裟?」

 聞き返してきたトワリスに、ルーフェンは、いたずらっぽく笑った。

「大袈裟、でしょ? 孤児院なんて、すぐそこだもん。窓から見えちゃうよ」

 そう言って、窓の外を示せば、トワリスも、そちらに視線を移した。
夜闇に沈む、白亜の街並みの奥に、小さな青い屋根が見える。
間近で見れば、そこらの民家よりは大きいであろう、横長の煙突屋根──あれが、東区の孤児院の目印だ。

 拍子抜けしたような顔で、ルーフェンを見ると、トワリスは尋ねた。

「歩いて……どれくらい?」

「半刻もかかんないよ。トワリスちゃんの脚の速さなら、一瞬かも」

 からかうような口ぶりで言って、ルーフェンが、眉をあげる。
そう言われてみると、確かに、大したことがないように思えてきた。
考えてみれば、奴隷だった頃、ハーフェルンやシュベルテにいたこともあったのだ。
あの頃は、離れたくない場所も、相手もいなかったから、何とも思わなかったが、距離で言えば、同じアーベリトの中の孤児院に移るくらい、ちっぽけなことなのかもしれない。

Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編)下 ( No.64 )
日時: 2018/10/08 21:07
名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: wC6kuYOD)



 急に気持ちが軽くなって、トワリスは、思わず息を漏らした。
多分ルーフェンは、自分を勇気付けに来てくれたのだ。
その言葉が、たとえトワリスを引き留めてくれるものではなかったのだとしても。
普段、あまり己のことを語らないルーフェンが、自分の話をしてまで、勇気づけてくれた。
そのことが、とても嬉しかった。

 それに本当は、サミルから孤児院に行くように告げられる前から、こんな日が来ることは予感していた。
ずっと、心の奥底では、別れを覚悟していたのかもしれない。
ほんの数月前までは、考えもしなかった世の仕組みを勉強し、理解するにつれ、嫌でも気づいてしまったのだ。
結局のところ、ミュゼやロンダートの言っていた通り、サミルやルーフェンと自分では、住む世界が違うのである。

 どんなに親しく、等身大で接してくれても、しょせん自分は、サーフェリアに迷いこんだ獣人混じりに過ぎず、対して、サミルとルーフェンは、この国の王であり、召喚師だ。
釣り合わない──この表現が、一番しっくりくる。
もし、本当にこの二人と一緒にいたいと願うなら、二人に釣り合う身分にならなければならない。
泣き虫で、役立たずなまま、それでもサミルやルーフェンと共にいたいなんて、そんなのは、身勝手な子供の我が儘であり、甘えだ。

(……私にだって、出来ることは、沢山ある)

 今のアーベリトにとって──サミルやルーフェンにとって、必要なもの。
それに、なることができたら──。
そんな思いが、すとんと、トワリスの中に落ちてきた。

「……ルーフェンさん」

 トワリスは、口を開いた。

「この図書室にある魔導書、私に、何冊か貸してくれませんか? いつか、必ず返すので」

 打って変わった、はっきりとした口調で尋ねる。
ルーフェンは、何故突然そんなことを聞かれたのか分からない、といった様子で、図書室を見回した。

「まあ、ここには、大した魔導書もないし、構わないと思うけど」

「……ありがとうございます」

 立ち上がって、トワリスは、ルーフェンに向き直った。
そして、小さく息を吸うと、落ち着いた声で言った。

「本音を言うと、孤児院に行くのは、嫌です。私、これからも、サミルさんやルーフェンさんといたい……」

 声が、微かに震えているのを自覚しながら、トワリスは、必死に熱いものを飲み込んだ。
だって、これを言ったら、孤児院に行くことを受け入れてしまうことになる。

 本当は、言いたくなくて、けれど、心を奮い立たせると、トワリスは告げた。

「──だから……もし、私が、サミルさんやルーフェンさんにとって、必要な人間になれたら……。また、レーシアス家に、置いてくれますか……?」

 ルーフェンの目が、微かに見開かれる。

 たった一人、襲撃者たちを骸の中に立っていたルーフェンの姿を思い出しながら。
トワリスは、その目をまっすぐに見つめて、言った。

「私、魔導師になります」

 銀色の瞳に、驚愕の色が滲む。
トワリスの出した答えが、予想外のものだったのだろう。
ルーフェンは、戸惑った様子で聞き返した。

「ちょっと、待って……魔導師って、魔導師団に入るってこと? シュベルテの?」

「はい」

 トワリスは、力強く頷いた。

「勉強して、強くなって、アーベリトを守れる魔導師になります。そうしたら、召喚師一族の……ルーフェンさんの、力になれます」

「…………」

 言葉を失った様子で、ルーフェンは、黙り込んでいる。
ルーフェンのその表情が、肯定だったのか、否定だったのかは分からない。
しかし、トワリスの決意は、強かった。

「サミルさんも、言ってくれましたよね。獣人の血を引いているからといって、隠れるように暮らすのは、とても悲しいことだって。もう私は自由の身なんだから、堂々と生きてほしいって。……だから、私、二人の優しさに甘えて、ここで暮らすんじゃなくて、サミルさんたちにとって必要な人間になって、堂々とアーベリトに帰ってきます」

 自然と熱の入った声で、トワリスが告げる。

「絶対に、絶対に、帰ってきます。だから、そうしたら、私のこと、認めてください」

 静かな迫力に満ちた光が、トワリスの目の奥底で閃く。
ルーフェンは、そんな彼女の瞳に浮かぶ強い光を、しばらくの間、見つめていたのだった。



To be continued....