複雑・ファジー小説

Re: What A Traitor! ( No.1 )
日時: 2018/09/03 18:59
名前: 日向 ◆N.Jt44gz7I (ID: PZ90N.oj)

【Prelude】


「さあ、送ってやれるのはここまでだ。あとは一人で歩いて帰れるな?」

 田舎町には到底似つかわしくない青のブランドスーツに身を包んだ男は屈んで、手を引いていた少年の目線の高さに合わせた。
 少年は涙の跡が残る頬を擦って舌っ足らずに言った。すりむいた膝を庇うように半歩後ろに身を引いてしまっているが。

「Si,Grazie.compare.(うん、おじさんありがとう)」
「Prego.(どういたしまして) 」

 男は眉尻を目一杯下げて少年の柔らかなカーリーヘアを撫でた。
 彼の嵌めている黒革手袋の感触は思ったより無機質で、額に触れるたびにその冷たさ故、眉間に皺を寄せるしかなかった。しかし中の筋張った彼の手のぬくもりは確かに感ぜられた。
 畑仕事をする逞しいぼくのパーパよりももっと背が高い、料理上手なぼくのマンマよりもっと髪が長い、少年は改めて眼前の破顔する男を見て、不思議な感覚に囚われた。

 郊外の自宅兼農場から町中へ家族と一緒に遊びに来たはいいものを、いつの間にか一人はぐれてしまっていたのだ。全く知らない人気の無いような煉瓦の牙城に、わけもわからず泣いていたところに彼は現れた。住人はみな作業着が当たり前な中、スーツを着込んでサングラスを掛けた表情の分からない大男だ、勿論最初は恐ろしくてたまらなかった。
 しかし彼は不慣れな町中の路地に迷い込んだ挙げ句、派手にすっ転んだ自分を手当して町の広場まで連れてきてくれた。マンマは決して知らない大人について行ってはならないと言っていたが、眼前の紳士な彼ならばお咎め無しだろう。
 道中は彼と手を繋いで、たくさん話をしながら、町で一番大きな広場までやってきた。
 自分の家族のこと、最近パーパの仕事を手伝い始めたこと、マンマの一番好きな料理のこと。彼は全て優しく相槌を打ちながら聞いてくれたが、彼自身の事は一切語ろうとしなかった。彼の故郷、家族、仕事、全て笑って誤魔化すだけで肝心なことは何一つ教えてくれない。
 唯一教えてくれたのは年齢だけで、四十歳だと言っていたが、全然そんな風には見えなくて、またはぐらかされたと思った。
 男がその時初めてサングラスを外すと、ブロンズの長髪と同じ金色に縁取られ、吸い込まれそうなほどの彩を放つ淡青色の瞳があった。少年はこんなに優しげな色を湛えた瞳を今まで見たことが無く、思わず生唾を飲み込んだ。
 夕暮れの朱に染まりゆくトーニャスの町風景をサファイアの虹彩に留めて。少年は、宇宙みたいだ、そう思った。

「まだおじさんなんて歳じゃないと思ってたんだがな」
「よんじゅうなんでしょ、おっさんだよ。僕のパーパは自分のことにじゅうごって言ってたよ」
「はは、手厳しい」
「でもね、髪、すごくきれい」

 風が煉瓦造りの入り組んだ路地を橙になって駆け抜けた。男の長く結った髪を巻き上げ、男と少年のあいだに交差する視線の間に躍る。
 トーニャスは山と峡谷に囲まれた盆地地帯である。黄昏どきはいつも斜め上の方から下ろし風が吹いて、人々が家路を急ぐのを邪魔するのだった。
 いつもより勾配のきつい斜陽に照らされたブロンズは朱と金が混ざる絶妙な色合いに輝く。
 少年は口をぽかんと開け、いつか家族旅行で行ったヴェネツィアの地で見た金の刺繍細工を思い出した。無論、その品物の価値など分かるはずもなかったが、パーパは値札をちらと見た途端、変な顔をして舌を出したものだった。
 流れる朱は藍の夜空を引き連れ、静かな街に星を鏤め始める。
 男は、もう少し忘れていたいな、そう思った。

「俺の大切な人がね、綺麗だ、と言ってくれたんだ」
「たいせつな人? そうなんだ。あのね、僕もそう思う」
「ありがとう、バンビーノ」

 男は少年の頬に軽く惜別のキスをした。少年はくすぐったそうに肩を震わせて笑い、男にじゃれつくようにしてハグをした。
手を繋いで歩いただけでは分からなかったオリエンタルベースの香水、まだ仄かに残る整髪料と、大人の煙の匂い、初めて触れる香りは少年の未発達な器官には情報過多で、少しふらつきそうになる程だった。しかし決して不快なものではない。
 少年は男の腕の中で、再三訊いたことを今一度尋ねる。

「ねえ、おじさん、おしごとは何してるの? さっき教えてくれなかったじゃん」

 男は切れ長の瞳を更に細めて黒革に包まれた長い指を、むしろ女性的とも思える紅い唇に柔く押し当てた。

「内緒。なんたってボスだからな」
「なにそれ! 教えてくれないならもういいもん」
「そうやってむくれてくれるなよ。カリーナなお顔が台無しだぜ、バンビーノ。ほら聞こえるかい? あの声、君のマンマじゃないのか」

 遠くからぼんやり聞こえてくる女性の声は、先ほど訊いた少年の名前を呼んでいた。涙と焦燥が滲んだ叫び声で、男は少年の周囲が愛に溢れていることを伺い知った。
 少年は先ほどと表情を一変させ、茶色の丸い瞳を更に丸くした。口角と眉が上がり、頬も紅潮してくる。

「マンマだ!」
「そうか、良かったな。さあ、帰りはマンマをエスコートしてあげるんだぞ。元気でな」
「——うん、おじさんもね!」

 そう言うと少年は広場の端で一度だけ此方を振り返って、飛び跳ねながら手を振る。しかしその姿は、疾うに暮れきった夕闇の中へ溶けていった。
 男は暫くとっぷりと路地に満ちた闇を見つめていたが、思い出したように背を向け広場を後にした。
 そして背中越しに一等大きな泣き声を聞く。このぶんじゃ家までのエスコートは無理だな、とにやついて一人ごちた。
 五歳じゃ無理もないか、まだまだ泣き虫な時分だろう、とも。



 入り組んだ路地は多いが、小さな田舎町だ。
 しかしこの町が世界遺産登録されそうになったと聞いたときは大層肝が冷えた。これではセーフハウスの意味が無い、と。
 だが結局それは杞憂に終わった。肝心の煉瓦路地面積が狭過ぎるのと、此処の煉瓦を観光しに訪れるくらいならフィレンツェに人は行きたがるだろうというわけで、その話はあっけなくお流れになった。
 歩き慣れた煉瓦造りの道を左に曲がってしまえば、事務所という名の現実が待っている。わざと歩みを緩めてもみたが、盆地に吹き込む夜風は山々からの冷気を孕んで男の項を撫でた。
 何しろこの世の地獄が待っているのは変わらない。男はジャケットの腰ポケットからパルタガスを取り出し、銀の重いライターで火を付けた。蓋裏の化粧板がかち合い、甲高く、それでいて重厚に反響した。
 事務所から光が漏れているのを視認すると、最初の紫煙を吐き出し、誰に言うでも無く呟く。
 
「——ああ、仕事な。俺の職業は、悪党ってところか」

 日が暮れる前から携帯がジャケットの内ポケットでひっきり無しに震えていた。
 一度目の電話からマナーモードに切り替えていたのは決して少年に虚像を重ねていたわけではないのだ、と自分に言い聞かせた。そうでもしないと懐に忍ばせている重たいモノの不味い方を、こめかみに押し当ててしまいそうになる。
 男は左手薬指の腹を革越しに親指で引っ掻いて、自分をこの世に留める確かな枷を確認し、水のように緩い衝動を掻き消した。
 早く帰ってくるように、と催促の電話とメールが数十件入っていることに気付き、男は苦笑するしかなかった。

【Prelude】