複雑・ファジー小説

Re: What A Traitor!【第1章Ⅷ更新】 ( No.10 )
日時: 2018/11/11 21:59
名前: 日向 ◆N.Jt44gz7I (ID: on4ShBGJ)
参照: http://www.kakiko.info/upload_bbs/index.php?mode=image&file=6104.jpg




 リチャードに担がれてからというものの、目的地にすぐ到着した、らしい、という話を聞いた、覚えが今でもある。
 何とも煮え切らない語末、しかし追憶に関して、その箇所は不明瞭であるのだ。海馬を幾らノックしてみても、現在も腹部に深く刻まれた袈裟懸け状の裂創がそれを咎めた。

 担がれて、というのは最初の方こそディンゴはリチャードに肩を貸してもらい、自分の足で歩いていたが、余りもの激痛に次第に誤魔化しが効かなくなり、一歩も動けなくなってしまった為だった。
 司令塔への酸素運搬をサボタージュする足りない血潮、鈍痛で薄れゆく意識と乱れる呼吸で軋む肋骨に何度も跪く。
 最早どうにも制御の効かない身体に、己の血に汚れた犬歯を以てして臍を噛んだ。
 心身が折れそうになるその度に、彼の脇腹に触れないようにそっと、しかし力強く下から肩を持ち上げられる。鋼のような筋肉の安定した土台に全体重を支えられ、否が応にも両足で立たなければならなくなるのだ。
 そして、リチャードは微笑んで気の抜けそうな声で大丈夫かだのほら頑張れだの、まことしみったれた路地裏に似つかわしくない言葉でディンゴをゆるく叱咤した。歯を食い縛り立ち上がれば、声色をあからさまに明るくして此方に笑いかける。
 いちいちうるせえんだよ。
 これまで他者を噛み殺す為に砥いできた犬歯を剥こうにも、喉は渇ききり、腹の筋繊維を自発的に動かすことは叶わない。今は呻く事ですらその傷に深く響き、障った。
 頭上から降ってくるネオンサインと表通りのエンジン音は嘲笑してくるように感ぜられる。
 素性の知れない男におんぶに抱っこでようやくエテ公みてえな二足歩行が可能なザマか。嗚呼死ぬほど情けねえ。これなら死んだ方が幾分かマシだろう。
 唯々この世の全てへの憎悪、その一点のみで、ディンゴは一歩ずつよたつく足を粘つく汚泥へとめり込まさせていた。

 しかしその気力さえもいよいよ尽きようとする。
 何とか騙し騙しもっていた体幹が今度こそ効かなくなり、急に膝の力が抜ける。肺から漏れ出た空気が気管を過ぎ、喉を掠める。決して喉をやられていたわけでは無いが、穴を穿たれていたかのように幽き息が漏れる。白く眩む視界の端に捉えた、彼の腕も間に合わない。行き場のなくなった全体重は前方へ投棄された。
 異臭を放つ汚泥に、半身を打ち付けるがままに。もうどうやってもエンジンはかかってくれなかった。閉まらない口に血液と埃の絡んだ廃油が滲出してくる。一本たりとも動かせない指先から悪寒の浸食が始まる。眼位が定まらない。今度こそ、もうどこにも立ち上がる力は残っていなかった。
 リチャードは何も言わずに一息吐き出して、だらりと力の入らないディンゴの足と肩を抱えると、ヘドロや返り血そして彼の体液に塗れるのも構わず、その広い両肩に彼を担ぎ上げた。

 一拍の後。大きな袈裟懸け状の裂傷が直接布地に触れ、圧迫され、気が触れそうになった。よもや声にならない声で突如襲い来る痛みに吼える。路地裏の鉄骨に飽和反響。しかし切なる咆哮はマットな地べたに引きずり込まれるのみだった。
 衝撃と自重により肋骨が悲鳴を上げ、体内で骨の欠片を零す。四肢の痙攣と眼振が止まらない。乾ききった筈の喉奥から粘性の高い唾液が分泌され続ける。湿りぼやけた極彩色の視界が何度もぐらつく。
 当然の反応、残った胃液を彼の背中へと吐き散らす事となった。
 しかしリチャードは何一つ動じること無く、歩みを止めない。手入れの行き届いた革靴を、淡々と黒く脂ぎったアスファルトへ下ろす。 
 高い位置から揺さぶられる振動に付随する断続的な吐き気、激痛、狂気。理性と痛覚をかなぐり捨てることが出来たらどんなに楽だろうか。
 しかしそれは即ち、手放した筈の記憶への回帰に続く、螺旋状の後悔にも等しかった。
 
 意識はそこで途切れる。

******

 二階以上は廃屋ともつかない、寂れたビルの一階。所々建物の塗装が剥げ、無機質な基礎コンクリートが剥き出しになっている。重たそうな門扉の下からは、乳白色の薄明かりが漏れ出ていた。

「Amanda, are you there?(アマンダ、いるか?)」

 リチャードは鉄製の扉を勢いよく開け、つとめて明るい声でこの部屋の主に呼びかける。
 部屋の内装はごく一般的なオフィスの白壁に灰色の滑らかなフローリングに、大きな金属製の薬品棚と四つのベッド。そして、ほつれた薄いカーテンで申し訳程度に仕切られた向こうには大きな診察台と、椅子が二脚。部屋の奥には別の部屋へと伸びる細い廊下がある。扉一枚を隔てた向こうに簡易的な手術室があることも、一番手前の薬品棚に準無菌室を作れるバルーンが収納されているも勿論知っている。
 しかし部屋自体はそれほど広くないので、大きな備品と立ちこめる薬品の刺激臭とバンテージ類の匂いが更に圧迫感を演出した。
 白衣の主はリチャードに背を向けて、最奥に設置された薬品棚の整理をしている。白衣の裾から伸びる長い脚、いつも通りの赤いピンヒール。大きなリングピアスに長い縮毛、うなじからのぞく肌色で黒人女性だと判断出来た。
 入り口に一番近い蛍光灯が数秒感覚で点滅を繰り返し、汚泥の跳ねた革靴に光の波紋を落とす。
 アマンダと呼ばれた主の返答を待たずに、リチャードは失神したディンゴを入り口に一番近いベッドに横たえる。次いで回復姿勢を取らせ、呼吸を確認した。
 か細くはあるが自発呼吸はしていた。適切な治療を施せば予断を許さない状況では無さそうだ。否、適切な治療を受けられれば。
 そこでようやくアマンダはリチャードに向き直り、苛立ちを隠そうともせずに刺々しい口調で見咎めた。

「Not again, Mr.fuckin'?(またアンタかい?)」

 リチャードの青い瞳を光の無い眼で見据え、そしてアマンダは異臭に眉を顰めた。
 その異臭は上から出る体液の全てを引っ被った彼の上着と、彼の背負ってきた人間からも漂っていた。そして生乾きの吐瀉物の饐えた臭いが、中でも一段に鼻を衝く。
 アマンダが一つ舌打ちをすると、リチャードはわざとらしく肩をすくめて、ジャケットを脱いでみせた。

「つれないな、シニョーラ? 大きなカーネを拾ったんだ。どうだ、看てやってくれないか」

 リチャードはディンゴを寝かせたベッドサイドにどすんと腰掛け、アマンダに笑いかける。時折ディンゴと彼女を交互に見遣りながら、彼女の表情を探った。どんな状況、患者であろうと彼女は間違いなく請ける、とリチャードは高をくくっている。
 自身にとって【適切】な治療費と引き換えにギャングやマフィア、脱走囚、傭兵、難民等々、例えどんな訳アリの人間であっても秘密厳守で医療行為を行う。当時の彼女はメキシコシティで、闇医者と呼ばれている人間の一人だった。
 アマンダは溜息を吐いて、目にかかる前髪を掻き上げると、二度素早く瞬きする。

「チッ、アンタと出会ってからロクな事が無いさね。ったく、勝手にベッドを使うんじゃないよ……。——幾ら出せるんだい?」

 アマンダは腕組みをして、吐き捨てるように言う。
 リチャードの思惑通り、アマンダはこの話に乗ってくる素振りを此方に示した。未だ動かないディンゴを一瞥し、ざっと見積もり見解を述べてみる。

「裂傷打撲だけだな、見た目ほど酷くない。5万ドル」
「冗談お言いでないよ、他当たんな色惚け男」

 アマンダは眉間に皺を寄せ、舌打ちでリチャードに即答した。
 乾いた笑いで取り繕い、吊り値方法を再考する。彼女の足下を見たつもりは毛頭無かったが、どうやらこの価格設定では甘かったらしい。
 しかし毒を孕んだ言葉とは裏腹にアマンダは、ベッドサイドに寄ってディンゴの腹を視診し始めた。

「ふん、これじゃあ破傷風も気になるね、洗浄が必要だ……ん、アンタ肋骨も折れてんのかい」

 アマンダはディンゴの腹を暫し診ていると、おもむろに紫色に腫れた脇腹を指圧した。
 しなやかな筋肉にめり込む赤いネイルのきっさき、そして患部を押し込む。
 瞬間、ディンゴは短く吼え、息を吹き返した。瞳孔が開き血走った目を剥く。痛みに対する脊髄反射か、上体を撥条ばねのように起こした。経年劣化のせいでオフホワイトになったシーツには、大量の汗に乾いた汚れが滲み、また傷口が開いたらしく鮮血が染みていた。
 アマンダは険のある瞳でディンゴを牽制しつつ、一歩後ろに下がる。

「えっ、そうなのか? はは、良く喋れてたなぁディンゴ」

 そして、リチャードだけが暢気に微笑んだ。何事も無かったように、ベッドサイドに備え付けてあった丸机に頬杖を付いて、彼に向かって、おはようと左手をひらひらと振る。
 ディンゴは唸りながら手探りでベッドの柵に手を掛け、俯いて目を覆う。
 失神により強制的に充電されたせいか、彼の掴んだ金属錆びが浮いた寝具柵は軋み、褐色の腕には筋が浮いた。

「てめえ……クソッタレ、どこなンだ此処は……」
「うん? 医者のところさ。というか、なんだお前英語話せるんじゃないか」

 リチャードは眉を八の字にして唇を尖らせた。ディンゴは未だ柵を握り締め、事態を噛み砕くように座位のままでいる。
 そして幼子を宥め賺す(すかす)ような調子で声を掛けた。

「それだけ元気なら大丈夫さ、すぐに良くなるぞ。——っと、そうだ。アマンダ、俺と一緒にイタリアでビジネスをする話はどうなったんだ?」

 リチャードはアマンダがいる後方に身体を向けて、ベッドサイドから彼女を見上げた。
 右手の革手袋を外し、人差し指と親指で自身の唇をなぞる。目を細め、首を傾げて彼女の表情を伺った。それに付いて肩迄伸びた金髪が揺れる。
 アマンダは最初の方こそ追い払うように手の甲を見せたが、どこまでも青く澄んだ瞳にひたと見据えられ、また一つ舌打ちをした。

「寝言は寝てから言いな。何度も言っただろう、あたしゃ誰とも組む気は無い。特に、アンタみたいなビルを崩したいなんてほざくファッキンクレイジーとはね」

 アマンダは全てを言い終わる前に背を向け、部屋の奥へと向かった。行き先は給湯室だろう。
 彼女と語らうとき、必ずキリマンジャロコーヒーが彼女の片手にあった。立ち上る湯気に挽き立ての豆の香り。お茶を淹れに席を立つ、これを対話が始まる合図と捉えるのは少々身勝手だろうか。
 給湯室は手術室へと向かう廊下の脇にある。衛生的に如何なものかとも思ってみたが、この業界に於いて彼女の仕事に関する良くない噂は聞かなかった。問題が生じなければ問題ない、まさしくそうだ。
 リチャードはアマンダの白い背中に向けて一人、朗々として笑った。

「はは、また振られてしまったか。まあいいさ、また気が変わったら教えてくれよ、シニョーラ=アマンダ。暫くメキシコシティに留まる用事も出来たしな」
「そうさね。即刻帰って共同募金でも立ち上げな、イタ公」

 見えない返答が壁から跳ね返ってくる。
 そして次第に濃くなるコーヒーの薫りに胸を躍らせていると、背後で乾いた衣擦れが聞こえた。
 吐息混じりに手負いの野犬は言う。

「——ビルに報復だァ……?」

 手負いの獣を刺激しないよう、目は合わせない。身体を少しずらし、視線が丁度斜めを陣取るように心得る。

「無理して喋らなくてもいいんだぞ? はは、そうだな。ほんのこの前までパレルモ支部にいたんだ」
「あンだと……?」
「でも言っただろう。今は飼い犬ではないぞ、うん、それは本当だ」

 切れかけた蛍光灯を反射する地面に視線を落とす。心なしか点滅する頻度が早くなっているような気がした。
 ディンゴはぼろ布のようになった黒のインナーで吐瀉物と血液に汚れた口元を拭い、無声音に色が付いた掠れ声を絞り出した。

「ナァ、そいつぁやっぱり新進気鋭の【みんなのパーパ】で正解か……? クソッタレめ。笑わせンな、腹が捩れちまうヨ。てめーの残機が無限として、カイク渇望の最後の審判を迎える日の方が近えナ……オレのポジャ賭けたっていいゼ……?」

 彼は時々噎せ返りながら、しかし不敵に笑った。猜疑、揶揄、畏怖、嘲笑、愚弄どれが本当だろうか。否、恐らく全てを含有しているのだろう。
 ディンゴは横目に彼の表情を瞥見したが、やはり柔らかく微笑を湛えるその表情からは何も読み取れなかった。
 リチャードは光の波紋が絶えず拡大縮小する床を見つめたまま回答を寄越す。

「そうか? 俺は至って大真面目だぞ?」

 一人ごち、屈託の無い笑顔でその時初めてディンゴの瞳と相対した。光の無い三白眼と、透き通ったサファイアが交錯する。
 ディンゴはあからさまに顔を顰めると、荒れ放題の後頭部をがしがしと掻いた。
 この男はあの【アダムズ・ビル】とまともにやり合おうとしているのか、頭がおかしいに違いない、とその時は唯そう思った。前頭葉に飛び切り良いのをもらったか、薬で飛んでいるかの二択としか思えない。

「——テメエ本当に狂ってやがンな……」
「狂ってるんだよ、そいつは」

 突如、声の闖入者とコーヒーの強い薫り。唯一といっても良い程のまともな嗅覚に豆の香りが嗅細胞を刺す。
 マグカップを片手に持った白衣の黒人女性は、二人と少し離れた椅子に腰を落ち着けた。 
 ディンゴはほぼ悄然として、何の意味も無くアマンダの姿を目で追っていたが、はっと己に立ち返り吐き捨てた。

「は、頭沸いてんカてめえはヨォ……。付き合ってらンねえ……オレぁ帰るゼ。治療費は自費でもつ。【礼儀知らずな野良犬】じゃねえからナ、バックレたりしねえヨ……ッ——!!」

 柵を引き掴み立ち上がろうと試みたが、再び筆舌に尽くしがたい激痛が彼を襲った。
 汚れきったシーツに赤黒い血がぽたぽたと滴り落ちる。それを視認したとしても、彼は止まらなかった。
 リチャードを押しのけようとするも、激痛に苛まれて力の込めようが無い腕では、筋肉質な彼の体は動かなかった。

「おいおい、その傷じゃ無理だろ」
「うっせえナ、道開けろヨ……」

 ディンゴは渾身を以てしてハリボテの牙を剥いた。虚勢を張らねば、この座位を保つことでさえも耐えられはしない。肩で息をする。圧倒的に血が足りない。仮にここで医院を飛び出したとして結末など決まっているのにな、と半ば諦観していた。
 リチャードは血走った獣の瞳を再度見据える。彼を押しのけようとした肩に置かれた手は多量出血によって震えが止まらない。

 一息。そしてこの状況下、否、全てに於いて有り得ないことを、その唇で紡いだ。

「いや、待ってくれ。俺たちもうアミーゴだろう?」
「——ア……?」

 今思い返しても、一番間抜けな顔を奴に晒したのはその時だったように思える。
 アミーゴ。それはスペイン語で友達、友人を表す言葉だった。
 血錆びがこびり付いた脳味噌で意味をもう一度再確認する。これまで意味用法を間違えて学習し、使用していた可能性が出てきた。しかし悲しくもそれは有り得なかった、それほどまでに唐突で阿呆らしく、馬鹿げていて、毒気を抜かれるには十分過ぎた。
 黒いんだが白いんだが分からない女医のいる方向から、飲み物にむせ返って止まらない咳払いを聞く。
 サタデーナイトフィーバーをキメていたのはお前の方だろうと、今では笑い話に出来るのが救いか。 
 リチャードは長い睫毛を伏せて、暫く考え込んだ素振りの後に人差し指を立てた。

「歯に衣着せない物言い、あとは意外と素直なところとかな、うん、気に入ったんだ! お前の人間性に興味は無いと言ったな、あれは前言撤回しよう。友達になってくれ」

 これまでの美術品に類いする微笑などでは無い、リチャードは歯を見せて邪気の無い笑みを浮かべる。
 平生より虹彩部分の小さかった三白眼は更に小さくなり、点を穿つのみで。
 あまりにも拍子抜け。文字通り開いた口が塞がらず、呆気にとられる。全てを喰らえと低く囁いていた本能はすっかり萎えてしまい、ベッドにへたりと座り込むしか無かった。

「お花畑なヤツだナァ……? 寝首掻くような真似してみろヨ、首と胴をセパレイトにしてやンぞ……」
「そんな事しないから安心して眠ってくれ。あっ今のはR.I.Pじゃないぞ? はは、邪推してくれるな」

 何一つ笑えないジョークを一つ残し、脳内お花畑は柔らかくディンゴの背中を叩いた。
 回らない頭、うざったい妙ちきりんな男に、そして唐突な眠気。もう何も考えることは出来なかった。
 ビルと彼の関係、カルテルとのパイプを欲する理由、彼は何を目的にしているのか、何も分からない。しかし今だけは何も考えたくなかった。
 とりあえずの休眠を、それだけでいい。身の振り方は後で考えれば良いだろう。

「チッ、いちいちうぜえヤツだな……。——テキーラ奢れヨ」

 そう言うと彼はリチャードに背を向けて横になった。
 物理的に表情を読み取れない野犬に向かってもう一度微笑んで、ベッドサイドから立ち上がる。それでもやはりガタのきている安息地は、金属の軋む音を響かせるのだった。

「この通りに良い雰囲気のスペインバルがあるんだ。腹の傷が治ったらそこへ行こう」