複雑・ファジー小説

Re: What A Traitor!【第1章Ⅸ更新】 ( No.11 )
日時: 2018/10/10 19:50
名前: 日向 ◆N.Jt44gz7I (ID: /0vIyg/E)
参照: http://www.kakiko.info/upload_bbs/index.php?mode




————イタリア=ナポリにて。

「は? お前……ビルにいたの?」

 ホセは平生より大きな瞳をぱちくりさせてリチャードを見上げる。今日の快晴を映す、とても澄んだ瞳だった。
 本日のホセの装いはフォーマルなブラックスーツと清潔感を重んじたオールバックである。これら全てはリチャードがホセに先日言い渡したドレスコードだったが、彼は特別抗議するようなこともなく唯浅く首肯しただけだった。普段からファッションに拘りを持っている彼のことだから、確実に噛み付いてくるだろうと思っていた矢先のことだったので拍子抜けしたことは記憶に古くない。
 白に赤が入った派手な髪は多めの整髪料で襟足へと撫でつけられている。猫のように狭い額と短く整えられた眉が露わになっているぶん、ただでさえ童顔な彼はより一層幼く見えた。ホセは21歳の青年だったが、リチャードの目から見ても凡そ成人しているようには見えない。
 ホセはいつも好んで着用している白黒ゼブラ柄のカッターシャツではなく、卸したてのホワイトカラーに黒いネクタイを締めて、同じく漆黒のスーツに身を包んでいる。しかし糊のきいた背広は一切彼の体に馴染もうとせず、完全に服に着られている状態だった。
 そして両の人差し指と中指に黒光りする指輪、二連ネックレス、細身のバングルや多種多様なピアス等の装飾品だけは一つの取りこぼしなく身に着けられている。そのアンバランスさも相まって、どうにも小さな子供が肩を張って大人に近付こうと背伸びしているような印象を与えた。
 少々話は変わるがメキシコ原産世界最小の愛玩犬であるチワワはアップルヘッドと呼ばれる丸みを帯びた特徴的な頭部の形をしており、愛犬家達からチャームポイントだと持て囃されている。丁寧に整えられた彼の現在のヘアスタイルと重なり、リチャードはついついその赤色に手を伸ばしてしまいそうになるのを抑えた。
 流石に怒られるかな、と心の中で苦笑するしかない。

 現在彼らが立っているのはイタリアはナポリ、カヴール広場である。
 トーニャスからナポリに至る道中はバス、特急列車や地下鉄を幾つも乗り継いでやってきた。トーニャスがあるイタリアの北端から地中海沿岸中南部のナポリまでは随分時間が掛かる。商会が持つ移動用車はあるものの大仰な装甲や防弾装備がナポリの街中では妙に目立ってしまい、公共交通機関を使わざるを得なかったのだ。
 山間の農村部を長距離移動バスで駆け抜けて、初めて満員電車を体験したホセは何度も人混みに流されてしまいそうになった。それ故、雑踏の中でも一際背の高い男を頼りにするしかなかったのである。癪ではあったが、時々気付かれないようにリチャードのトレンチコートの裾を指先で掴んでは離すこともあった。知らない人間と肩が触れあう度に、ホセは何度悪態吐いたか分からない。
 カヴール地下鉄駅から近いこの広場だったが、観光客らがごった返しているというわけでもない。元々観光名所と呼ばれるには世界遺産や他の建造物に圧倒され過ぎており、国立博物館へ向かう人々が通り道として広場を過ぎるか、地元住民が木陰のベンチでシエスタをとっている程度である。その上夕刻を過ぎてしまうと、お世辞にも治安は良いとは言えない場所になる。 
しかし晴れ渡る青空に地中海から運ばれる潮風、そしてどこか南国風情漂う緑の植え込み。リチャードは【かの時代】よりこの場所が嫌いではなかった。

「ああそうだ! ふふ、これでも一応上の人間だったんだぞ?」

 ホセの新鮮な反応を受けて、リチャードは微笑みつつ人差し指を唇に押し当てる。
 今日の彼もいつもとは少し違う出で立ちだった。いつもならば高い位置できつめに結われている金髪は、項部分にて布製の髪紐でゆったりと括られている。そのせいか平生よりも一層長く感じられ、地中海の風がふわりと巻き上げた金糸にホセは思わず目を奪われた。目深に被った白いボルサリーノと金縁のサングラスが、どこまでも青い瞳に影を落とす。本日はスーツも彼のお気に入りである濃青色のジャケットと黒いカッターシャツではなく、ホセと揃いのフォーマルスーツを着用している。
 それでもこの着熟しの中、黒い革手袋を頑なに外そうとしないのは少し違和感が残った。

「ッ——!? ふ、ふうん。あっそ」
 
 ホセは諸々の動揺を振り切るように、ぶっきらぼうに会話を切り上げてそっぽを向いてしまう。
 実はリチャードも道中ホセとの間をもたせようと悩み抜いた末、ディンゴとの出会いの物語を彼に語っていたのだった。九年前に死に損なっていたディンゴを助けた事、そして【アダムズ・ビル】パレルモ支部の幹部だった事。しかし例え現時点で【ここまで】話したとしても特別今後の針路に差し支えることは有り得ないし、このように些細なこと迄は隠し通すことは出来なかったように思う。 
 今のホセにディンゴの話をするのは気が引けたが、存外に反応は悪くなく、時折ゆっくり瞬きをしながら黙って此方の話に耳を傾けてくれていた。
 しかし同時刻メキシコ湾海上にてディンゴが核心に迫る過去を深く抉り取り、商会員両名に向けて掲げている事など予想だにしてなかっただろうが。
 リチャードはホセの斜め後ろから距離を詰めると上半身をくの字に折って、彼と目線の高さを合わせて彼方を指差した。濃紺を透かし晴れ渡る青を背景に、白い荘厳が顕現していた事にホセは初めて気付く。

「——ホセ、見えるか? 少し遠くに、うん、あの白い建物だ。あれがナポリの守護聖人サン=ジェンナーロを奉っているナポリ大聖堂。そしてここからじゃ見えないが……サンタルチア港の方には卵城カステルデッローボがあるんだ。ノルマン人の魔術師がこの城を作るときに『この卵が割れるときにナポリも滅びる』という呪いをかけた事に由来するそうでな。可愛い名前だろう?」

 リチャードは横目にちらとホセの表情を伺う。

「わ——すっげ……」

 リチャードは柔く微笑み、ホセはしまったと口元を抑えて表情を強張らせた。
 そんな彼の肩を二度叩き、リチャードは朗々と笑う。

「そうだろうそうだろう! なあホセ、ナポリに来たことは無いのか?」

 リチャードに顔を覗き込まれ、逃げ場の無くなったホセは歯切れ悪く答えた。いつもなら遮ってくれた筈の赤は残念ながら現在後ろに逃げてしまっている。 

「あるにはあっけど……飛行機だの車だの、移動続きでンなもん見る暇ねーし」
「はは、そうか。疲れて寝ちゃってたんだな!」
「うっせえな悪いかよバーカ!!」

 爽やかな笑顔を浮かべて図星を突くリチャードに、ホセは牙を剥かざるを得なかった。
 初めての飛行機は空の上というのに有り得ないほど揺れたし、離発着時には耳が痛いしで疲れない方がイカれてる、と決して口にはしないが短い眉を吊り上げる。
 リチャードはホセが見せる犬歯など意にも介さず、サングラスの奥にある瞳を細めた。

「でもアカプルコも世界有数の保養地だろう? あの陽光射し込む白浜、輝く紺碧の海を一度この目で見てみたいんだ」

 そして再びホセを見遣る。
 しかし先ほどの激昂など嘘であったかのように、彼の瞳は寂寥の色をとっぷりと湛えていた。少し俯きがちに。そして睫毛が影を落とす。流れるような一連の動作はスローモーションにて移ろい、植え込みの長身樹の木漏れ日が不規則に虹彩のハイライトを奪う。
 そして小さな唇が消え入りそうな声で言葉を紡いだ。余りにも小さな口跡、いつもの犬歯は唇に隠れて見えなかった。

「別に。もう覚えてねーし。——そんな綺麗なとこ……オレは知らねえよ」

 ホセは洟をすするように、一つ鼻を鳴らした。
 深耽に満ちた瞳、少し角度の緩い眉、引き結んだ唇。初めて目にする彼の憂いにリチャードはどうしても二の句を継げなかった。
 そして暫しの沈黙と膠着を経て、ホセは突如身を翻しリチャードの懐に入った。

「おい、ライター貸せ」

 唐突なホセの言動にリチャードは思わず肩を強張らせた。

「——えっ!? な、なんでだ。火が点けられないじゃないか……」
「うっせーな四の五の言わずに早く出せよ。気が付けばモクふかしやがって……あんだよ、オレへのあてつけか? いちいちくっせえんだよ。没収だ、没収。」

 ホセはリチャードのネクタイを掴まんばかりの勢いで捲し立てる。
 先のしおらしさは一体何処へ消えてしまったのか。リチャードは苦笑いを浮かべて生命線を何とか取り繕おうと図ったがそれも空しく、ホセは矛を収めようとする気配すら見せない。
 結局は彼の威勢に押し負けて、トレンチコートの懐から大人しくデュポンを取り出すしかなかった。

「そんなに言わなくても……なあ、会合が終わったらちゃんと返してくれよ……?」
「あ? オレだってこんなモン持ちたくもねーよ」

 ホセはリチャードの手から素早くデュポンを奪い取ると、乱暴にジャケットの懐に突っ込んだ。デュポンを求める空しく虚空を掻く。ホセは暫く考え込むような素振りを見せた後、上目遣いで躊躇うように切り出した。連絡会に付いてきて欲しいと伝えたあの日と全く同じ目だった。

「——あのさ、連絡会って何すんの」

 リチャードは嗚呼と記憶を掘り返すように右上へと視線を泳がせた。黒革で唇をなぞり、言葉を選ぶ。

「今まで月に一度、浩文と一週間ほど外出することがあっただろう。少しばかりやんちゃなシニョーレたちとお茶会をするのさ」

 リチャードはぴんと人差し指を立てて、極めてにこやかに言い放った。それに反してホセは眉間に皺を寄せ、表情を曇らせる。

「やんちゃな、って……誰だよそいつら」

 刹那、カヴール広場に風が吹き込んだ。飆は落葉と彼の髪を再び巻き上げ、彼らの視線交錯を分断する。枝葉を揺すられ、地に堕とすのは点滅する木漏れ日。

「輓近【アダムズ・ビル】の靴を舐めた奴らと、な——さあ行こうか、ホセ。今日に限ってシエスタは適応外なんだ」

******

 ——同時刻、メキシコ湾海上にて。

「ボスが【アダムズ・ビル】の構成員だった……?」

 浩文は脂汗を額に浮かべて、誰に言うでもなく悄然と呟く。
 船倉の中はいつの間にか湿気と熱気が立ち籠めていた。丁度太陽がメキシコ湾の真上に来る時間帯なのだろう。直射日光に焼かれた甲板の熱が船倉に伝導していた。サウナと化したのは唯一外界と繋がるハッチが鉄製なのもあるだろう、重い蓋周辺の空間が心なしか陽炎が如く揺らぐように感ぜられる。
 滝のように顎を伝って滴り落ちる汗。彼の流汗は絶え間なくスーツの黒いスラックスに落ちて、更に黒々しく染み込んだ。狭く暑苦しい船内であるからか、否、それだけではないだろう。
 長い時間、視界不明瞭な中で不規則な海流に三半規管を上下左右揺さぶられていた。心許ないランプから漏れ出る油臭さも相まって、きっと中枢神経群にもその余波は現れているのだろうと思った。降って沸いた情報量に疲弊しているのか頭が痛い、ぐるぐると目の前が渦巻いた。
 【アダムズ・ビル】は今回の依頼において、商会にとっての明確な敵であると言い換えても良い。
 出生や過去に関して、相互干渉しないのが商会内における暗黙の律格だった。それ故、誰一人としてボスであるリチャード=ガルコの詳しい経歴について何一つ知らない。スウェーデン系移民の血を引くマルタ系シチリアン、40歳、男。やっとの事で脳味噌から引き出せた確かな情報はそれくらいか、全くもって笑えてくる程だ。
 だからこそ眼前の片言英語を話す男のもたらした廣報は、浩文とファティマの両名の度肝を抜くには十分過ぎた。
 ボスがあのビルの出身という事実。そして、【アダムズ・ビル】の崩壊を目論んでいること。
 先程からやたらと喉が渇く。汗も止まらない。しかしこんなに蒸し暑いというのに当てもなく握った拳は震えているのか。
 浩文は唯ひたすらどこまでも続く深淵に立たされた心持ちだった。触れてはいけない禁忌にべったりと手垢を付けたような、虎の尾を踏んだような、内臓が凝り固まる厭な予感が彼の胸中を占める。 
 そしてボスは平生ならば即決で承諾するような商談をもっともらしい理由を付け、渋った。その事はビルを抜けた理由、そして報復に値する何かと関係するのだろうか。
 否、俺は何を言っているのか、しない筈が無いだろう。
 【何】が彼を報復へと駆り立てたのか。【何故】ビルから身を引いたのか。【何時】までビルの人間だったのか。ありとあらゆる疑問詞が浩文の脳内を支配した。
  9年前というと【アダムズ・ビル】と呼ばれる組織は、勢いこそあったもののそれほど規模が大きくなかった事を記憶している。しかし今では各国のマフィアを吸収買収懐柔し、肥え太りきった世界有数の反社会的組織である。
 そんな組織に報復など果たして可能なのか。浩文は奥歯を強く噛み合わせながら、かつてのディンゴと同じ猜疑を抱いた。
 ファティマも口元に手をやり、一言も発せずにいる。アバヤに覆われた表情の全容を伺うことは困難であったが、彼女の眉とその翡翠は明らかに動揺の色を湛えていた。
 二人の反応に対しディンゴは愉快そうに口角を歪めて、左手をひらひらと振ってみせた。

「クク、アイツ本当にオマエらに言ってなかったとはナァ?……アー、嘘は吐いちゃいねえ、吐く必要が何処にもねえからナ。オレと出会った時にゃもう一匹狼だったみてえだがヨ」

 ディンゴは今の今迄弄んでいた眼鏡を、持ち主の胸元に押し付けた。
 すっかり腑抜けてしまった浩文は取り落としそうになりつつも、力の入らない両手で目を受け取る。習慣で何も考えずに眼鏡を掛けると、彼の指紋で視界は白く煙っていた。二人が邂逅を果たした血塗れたあの日のように。浩文は何となくレンズを拭うことが出来ずに、湿ったスラックスの上にて手を遊ばせる事しか出来なかった。
 ディンゴは再び元の位置に腰を落ち着けて、左手でネクタイを緩める。誠実実直という人間性からはおよそかけ離れた人物ではあったが、普段から服装だけは着崩さずにしっかりネクタイを締めていた。ボタンを外すことはおろか袖を捲る所も、彼がトーニャスにいる三四日のあいだ一度も目にしたことが無い。
 そうしてボタンを上から一つ、二つと外していく。その時初めて、浩文はディンゴが装飾品の類いを身に着けていることに気付いた。先端に小振りな石が結わえられている革紐を首から提げている。その石はどこまでも光を拒絶しきった色で、しかしどこまでも澄んだ光沢を湛えていた。それなりに多方面に博識な浩文であったが、天然石の事についてはおよそ門外漢にも等しく、今は引き下がる他無い。
 彼の汗ばんだ胸板にはボタンを数個外しただけでも分かってしまう、抉り取られたような袈裟懸け状の裂創が何本も奔っていた。濡れた漆黒の巻毛は首筋や鎖骨一帯に張り付き、引き攣った筋繊維に従って汗が伝う。
 当時負った傷も未だに残っているのだろうかと、無遠慮だとは分かっていたが浩文はどうしても彼の傷から目が離せなかった。

「だからボスは今回の依頼も承諾しかねていたのでしょうか」

 浩文は彼の傷と例の石を見つめながら、ぼんやりと問いかける。
 彼の視線に気付いているのか否か、ディンゴは鎖骨をゆっくりとなぞった後人差し指で革紐を張ってみせた。

「ン……さてどうかねェ?」

 ランプの仄明かりに、胸元の石が鈍く反射する。
 彼の話が終わった後、初めてファティマがおずおず口を開いた。

「でもどうして……一体何が理由でビルから離脱したのでしょうか」
「——その答えはアイツの口から直接聞きナ。ま、簡単に【その時】は来ねえと思うガな」

 ディンゴが唇を舐めると示し合わせたかのように、やたら慌ただしい足音の後、ハッチが鈍い音を立てて真っ直ぐな陽光を通した。
 直射日光に暖められた生ぬるい潮風と共に荒々しい語気のスペイン語が唾と共に頭上に降りかかる。相変わらずそれらの解読は出来ない。
 ディンゴは間延びした声でクルー達に応えると、今しがたやり取りした旨を投げ、やおら立ち上がって伸びを一つした。

「おら立てヤ、もうそろそろ着港する時間らしい。上陸したらまずは【オレの部隊】を紹介してやるヨ」

 ハッチへと伸びる錆びた梯子に手と脚を掛けようとしたその刹那。ディンゴは何かを思い出したように、胸ポケットから髪紐を取り出して慣れた手付きでその巻き毛を括った。
 いつもは癖の強い長髪で隠れていた項と左頬の裂創が、その時初めて露わになる。汗の滴る歴戦の傷跡が目立つ首筋。引き攣った左頬は耳にまで達していた。
 深く傷の残る其の横顔に、最早平生の軽薄さなど微塵も無い。
 南米を統べ、組織に仇なす森羅万象をその爪牙を以て跪かせる【特殊高火力戦闘部隊「onyx」】その頂点に君臨する者、その人であった。