複雑・ファジー小説

Re: What A Traitor!【第1章ⅩⅠ更新】 ( No.13 )
日時: 2018/12/01 01:28
名前: 日向 ◆N.Jt44gz7I (ID: on4ShBGJ)
参照: http://www.kakiko.info/upload_bbs3/index.php?mode=image&file=941.jpg

ⅩⅠ


 かの連絡会の顛末はというと、驚くほど呆気無かった。
 リチャードは全弾撃ちつくしの完全ホールドオープン、後は撃たれるか否かを両手を挙げて待つのみだった。先の通り証拠不揃いの一か八かの異端審問である。一歩間違えれば十字架に磔になっていたのは此方だった。大博打だとは分かっていても【家族】を、自身のファミリアを守るためにはあれしか選択肢は残されていなかったのだ。
 例の科白と暫しの沈黙の後、ジョルジョの護衛と思しき黒服が焦ったように三竦みに割って入り、彼に耳打ちをした。すると彼は短い足を振り子のようにして勢いよく椅子から立ち上がり、上擦った声で金時計を見た。

『おっと時間のようだ、済まないがオレは忙しいんでな。まあまあ今日はここでお開きにしようじゃないか、なあドメニコ。それと——命拾いしたなマルチーズ』

 自らの零した蒸留酒に足を取られ躓き、黒服に両脇から支えられて会場を後にしたのは大層滑稽だった。
 そうして欠けた三竦みにドメニコと唯二人取り残されたリチャード。互いの無言の牽制が空間を占めていたが、ドメニコが先に席を立つとそれも終演を迎えた。付け人が音も立てずに彼へ歩み寄る。
 神の采配によって幾千もの黒い勝利を掴んできた筈の喉はいつの間にか疲弊しきって、ただの風穴へと劣化していた。

『まるで全てを見てきたかのような口振りだな』

 リチャードは遠ざかるドメニコの背中へ向かってそれに応えるように独白した。しかし彼の鼓膜に届ける気など毛頭無い。

『俺の視てきたものが【全て】じゃないさ』

 重厚な扉が彼の為に開かれたのだろう、気圧差で生じた突風が酒帯びの空間へ吹き込んだ。青空の下で遊んでいたはずのつむじかぜは仄暗い牢に幽閉され、リチャードの髪へ不安げに絡みつく。
 そして君主と番犬は一拍子遅い鉄扉の閉音を、再び二人で聞いた。



「なあホセ」
「ん、ホセ?」
「シニョーレ=マルチネス?」

 ホセとリチャードの二人は現在サンタルチア港にいた。引き続きの快晴とナポリに着港しているクルーズ船のフラッグがこの青空に虹を添える。
 リチャードは連絡会以降一言も発さないホセを心配に思って、声を掛けてみるのだが一切返答が無い。短い眉の距離を近くに保ったまま不機嫌そうに唇を尖らせて押し黙って、前を見据えているだけだ。しかしリチャードはどうしても【例の献火】について彼の真意が知りたかった。でもそれを聞くのは今ではない、とりあえず今は彼の言葉が欲しかった。
 彼はゆっくりと一つ瞬きをすると、晴朗な顔でホセを呼んだ。

「ぺぺちゃん……?」

 リチャードは彼の堪忍袋の緒が切れる音を聞いた。彼の狭い瞳孔が外に出てから初めてリチャードを真正面に捉える。

「あんだよさっきからいちいち人の名前呼びやがって! いちいちうるせえンだよアホか!? てめえがな! いつもみてーにな! ポンコツだとな!オレが恥かくんだよ!! 今度それで呼んでみろ……てめーのポジャ引き抜いて卵城に埋めてやっかんな」

 ホセは小さな咆哮の句切りごとにリチャードの分厚い胸板を小突く。
 リチャードは平謝りと苦笑いで彼をなだめようと務めたが、いつもと何一つ変わらない様子の彼にかえって不思議と安堵感を覚えた。
 ホセは舌打ちを一つして犬歯を剥き出したまま、懐からデュポンのライターを取り出すとリチャードにぐいと押し付けた。

「チッ——何がやんちゃなシニョーレだっつーの。胸糞悪いジジイばっかじゃねーか。は、あいつらてめえがビルの元幹部だって聞いた日にゃあ、お上品なスーツの中に一等でけえのをぶちまけるに違いねえな」

 ホセはどこか得意気に鼻を鳴らしてリチャードを横目に伺った。ホセのハードワックスで整えたオールバックは潮風に煽られ、朝と比べて自由を得てきていた。
 サンタルチアのディープブルーはリチャードのサファイアに層一層深い蒼を与える。蒼玉を縁取る金刺繍は地中海を過ぎる日輪に照らされ、ナポリの透明な空気に溶かされた。

「俺はもうビルの人間じゃあないさ。今日は肝が冷えた、もうあんな綱渡りは御免だな。浩文とファティマが無事だと良いが——」

 言いかけて、リチャードは少し後悔した。
 ホセは自分の【家族】であると共に唯一の拠り所だった本家が面する窮地を前に、直属の上司からイタリア残留を言い渡されたのだ。こればかりは【戦力外通告】即ち【捨てられた】と思っていても仕方が無い。
 自分が蚊帳の外に追いやられた問題を再び掘り起こすべきでは無かったな、とリチャードは頬を掻いてホセに掛けるべき言葉で脳内検索をかける。
 しかしホセはリチャードと同じく水平線へと視線を投げて、苦々しく笑ったのだった。眉は鈍角を作り、青い風に揺れる前髪。
 未だ斜陽になりきれない日輪が彼の横顔にセピアの陰影を作る。例の、濡れた瞳だった。

「ああ……そーだな」

 リチャードはこの表情を前にして未だに対処法を見つけられないでいた。不可侵の深淵を覗く、その代償は如何程なのか。
 そして突如として、リチャードは一度も食事を共にしたことが無かった事を思い出した。休日は商会員らに手製のパスタやティラミスを振る舞うことも多々あったが、その席にいつもホセの姿は無かった。 
 二の句はこれしか考えられなかった。

「そうだホセ、お腹空かないか?」

 リチャードは黒革に包まれた人差し指をぴんと張ってホセに微笑む。相反してホセは瞼を擦って、唇を尖らせた。

「別に、何か物食う気分じゃねーし。だいたいあんな空気の悪いとこに長居すりゃ気分も悪くなるっつーの——」

 それを遮って腹の虫が大きく鳴き、ホセの顔は一気に紅潮する。それが出港直前のクルーズ汽笛と奇跡的に重なり、リチャードは堪らず噴き出してしまった。

「ふふっ、この近くになかなか雰囲気の良いトラットリアがあるんだ! 少々遅い時間にはなってしまったが、そこでランチにしよう」

******

 あれから一時間もしないうちに、カルテルの船はメキシコ湾沿岸にある寂れた小さな町に着港した。
 光を乱反射して輝く澄んだ青と深い緑が占める手つかずの自然、南国と形容するに相応しいパノラマがそこには広がっている。
 トーニャスも山々に囲まれた自然豊かな土地であったが、生えている植物も空気の香りもまるで違う。干された藁束の香ばしい匂いと肥沃な泥の湿気に正対する爽やかな潮風。しかし、一番の相違点は太陽だった。商会本部は厚い雲を捕らえやすい山間部にあるので、見上げるのはいつも曇り空だったことを記憶している。雨も多く、日照時間は比較的少ない。トーニャスにいた時よりもずっと陽気なそれに、いつもより近くでつむじを焼かれているような気さえする。
 異様に長い釣り竿や錆びた小舟らは、黒ずくめの来訪者に怯えるように木造廃墟入り口から此方を伺っていた。それらの背後には鬱蒼と生い茂る森と苔むした丘陵。潤沢な湿度を内包するジャングルに船倉とはまた違った熱線が、彼らを真上からじりじりと焦がした。しかし高らかに笑う太陽とそのともがらの歓迎は決して不快なものではない。
 鋭角に射し込む陽光、憎たらしいほどの快晴と前髪を揺らす潮風に、浩文はレンズの奥で目を細める他無かった。いっそのことスーツジャケットを脱いでしまおうかとも考えたが、それはやめた。どれだけ【破り捨てた】としても消えることない【青龍】の刻印が彼を引き留める。どこまでも青過ぎるメキシコ湾の蒼穹を見上げて、仮初めの涼を感じるように努めた。ボタンに掛けようとした手は暫し虚空に彷徨わせた後、元通り体側に下ろした。
 船から降りる瞬間、ファティマの頭部を覆う黒いニカブが首元から透明な風を孕んでふわりと膨れた。どこまでも光を掴んで離そうとしない足引きのアバヤがたなびき、空と山の境界に一点の黒を滲ませる。
 上陸直前、元々は活気溢れ地元住民らの喧噪で賑わう漁港だったとディンゴから聞いたが、いざメキシコの地に降りると真っ昼間というのに人の姿は何処にも見られなかった。決して大きくは無いが、人々の息遣いや生活感が未だ残る漁港。何故かとディンゴに尋ねると、マフィアの抗争の為だと彼は一言端的に告げた。 
 メキシコは決して安寧とした土地とは言えないが、とりわけ国境付近は治安が悪い。
 今でこそ【アカプルコ・カルテル】が南米一帯の麻薬カルテルを統合し、製造から流通に至るまでの一切を管理しているが、一昔前まではこの湾岸一帯も流血が絶えない土地だったという。マフィアやギャングに類いする者たちは自らが信ずる血の掟や信条のもと、民間人を巻き込んで抗争を繰り広げることは滅多に無い。しかし麻薬カルテルは違う。組織に仇なし、行く手を塞ぐ者は女子供であろうと慈悲など無い。カルテルに噛み付いた人間には身体が許容し得るありとあらゆる苦痛や責め苦を与え【見せしめ】とする。ディンゴから聞く話によると、カルテル協定を周辺組織と網羅する以前の2000年代は酷かったという。修羅の国メキシコ、その悪名は地元警察組織に片頭痛をもたらした。上がらない検挙率、蔓延する殺人や遺体損壊。そこでカルテルはその状況を利用し【アカプルコ・カルテル】は警察組織や政財界と強固なコネクションを創り上げたという。元々南米全土を統合する気でいたカルテルにとっては都合が良かった。警察や政治家らと設立当時より脈々と受け継がれる太いパイプの存在と、現在の地位に君臨する【アカプルコ・カルテル】。カルテルは必要悪として秩序を創造し、公的機関は麻薬の拡散を黙殺する。
 必要悪。これまで己の生きてきた道を鑑みると、その単辞は巨大質量を以て浩文の内臓の奥底深くに黒く沈殿した。 

 暫く歩くと、ジャングル入り口の脇に大きな迷彩テントが幾つも張られているのを発見した。
 森に溶け込む軍用パップテント、その中心を陣取る本拠地は奥行き面積ともに小さめの家屋ほどあるだろう。生ける神話と評される部隊を目の前にして、否応なく心臓は早鐘を打つ。
 二人は生唾を飲み込み、ディンゴに先導される形で恐る恐るテントの中に入った。



「【トーニャス商会】の胡浩文とファティマ=ムフタールだ。まあ……さしずめ共に今回の作戦に参加する【仲間】ってコトになるナ。出来る奴は英語で対応しろ、オレもこっからの総指揮は英語で執ル。は、お前ら間違っても噛み付くンじゃねーぞ」

 どっと巻き起こる笑い声がテントの支柱を揺さぶった。
 今のはもしかして気の利いたジョークだったんだろうか、と紹介の為に前に立たされた浩文は咄嗟に作り笑いを浮かべる。
 それほど自身の思い描いていた【特殊高火力殲滅部隊『onyx』】と【彼ら】はあまりにも似つかなかったのだ。
 取り留めの無い会話を楽しみ、軽口を叩き合い、そして笑い合う。彼らが裏社会にて暗躍する神話だとは未だに信じられない。
 ディンゴに連れられて中に入った時もそうだった。罵詈雑言、出会い頭の投石や銃口を向けられることすら覚悟していた。他を寄せ付けない徹底的な排他性を持った冷徹なプロフェッショナル集団、豪毅な猛者共の戦列という先入観。しかし【現実】は、自分たちの横を通り過ぎる浩文とファティマを一瞥したのみで隣に座る隊員と再び【世間話】に興じる中年の男たち。スペイン語の意味は分からないが、彼らの言動からは拒絶や抗拒など何一つ感じ取れなかった。
 【逸話】の通りの極限状態を生き抜いてきた人間が醸成する雰囲気では無かった。
 状況をいまいち噛み砕けないまま棒立ちでいると、ひしめき合う隊員の中から立ち上がった一人の男が、浩文とファティマ両名の元へと歩み寄った。

「【onyx】副隊長、キューバ出身のロバートだ。君たちの世話役を頼まれていてね、気軽にボブとでも呼んでくれ。首領と隊長から話は通っている、短い間だが宜しくな」
 
 禿頭とくとうの偉丈夫。ロバートはその字面と正に合致する容姿をしていた。
 スキンヘッドに不釣り合いな程の剛毅な眉、迷彩服の上からでも分かる分厚い筋肉、よく通る芯のある声、強い意志の光を宿すヘーゼルカラーの瞳。そして腕まくりした肌に刻まれた歴戦を物語る幾多もの創痍。外柔内剛の豪傑、ロバートは浩文に向かってにこやかに手を差し出した。
 浩文は眼鏡の奥の瞳を丸くして、ロバートの手を柔らかく握り返す。

「よ、宜しくお願いします……」

 節くれ立った太い指と短く硬い爪、そして傷を重ねるその都度再生してきた皮膚はまるで巌のようだった。
 ロバートはもう一度浩文に微笑みかけると、ファティマの方へ向き直り同様に握手を求めた。

「あ……私は」

 ファティマは眉を八の字にして、黒に包まれた手を抱いた。怯えたように軽く俯き、上目遣いにロバートの表情を伺う。シャリーアにおいてムスリムの女性は男性に触れることは出来ないのだ。
 ロバートは一瞬弱ったような顔で片眉を吊り上げたが、すぐさま合点がいったように頷くと豪快に笑いながら手を下ろした。

「ん? ああそうか! これは失礼したな、気を悪くしないでくれ。ええと……そうだ、ファティマさん。男ばかりで暮らしにくいこととは思うが、生きて仲間の元へ帰るまでの辛抱だ。宜しくな」
「お気遣い感謝しますわ! こちらこそ宜しくお願いします!」

 ファティマは表情をぱっと明るくして、ロバートに応えた。
 異なる宗教文化にも寛容で、ファティマが説明せずとも理解し得た。成る程この隊の中でも信頼され、その地位に就いている訳だ。
 ロバートが二人に着座を促すと、腕を組んで控えていたディンゴが前方中央に進み出た。二人は隊員らの波をかき分け、混じ入って後方端のシートに腰を落ち着ける。

「まあ早速だガ……今回の対【アダムズ・ビル】米墨国境戦争についての作戦会議を始めル」

 鶴の一声、否、野犬の寡言が亜空間へと塗り替えた。
 これまでテントに溢れていた音が一瞬で消えたのだ。暖色の消失。呼吸音さえ許されない切迫、メッシュ素材の衣擦れ音だけが防弾防音繊維に柔く吸着する。
 太陽光が燦々と降り注いでくるメキシコ湾岸に屹立する密閉性の高い容れ物、そんな中など暑いに決まっている。拭っても拭っても玉のような汗が滝のように噴き出し、体は水分を欲する、筈だった。
 張り詰めた亜空間は氷河を湛えた。凍て付く二酸化炭素の境界線は二人を刺す。

「アメリカに送っタ潜入部隊によると、三日後の早朝——21日払暁、ココの……国境付近ジャングル識別番号Aのドラッグプランテーションに焼き払いが仕掛けられるらしイ。警護を終えてオレたち【onyx】とカルテルのソルジャーが交代するこの一週間で決着を付けるおつもりだったンだと」
 
 ディンゴは国境付近の詳細な地図と鳥瞰図、最後に衛星写真の三つをホワイトボードに貼り目的地を指した。どうやら今回の作戦の要であるプランテーションは街中から比較的近い場所にあるようだ。
 そして彼は引き攣った左頬を吊り上げた。

「ヤツラの攻撃を待つ道理なンぞ無い。コッチからぶっ放してやれ」

 ホワイトボードの余白に黒マーカーで追加情報を書き込んでいく。緯度経度方角距離と時折綯い交じるは数字とアルファベットの混合コード。癖のある字だが解読する云々には至らない。
 一通り情報修飾が終わったところでディンゴはボードに背を向けた。 

「だが——あンの【子犬】が言ってたコトも間違いじゃねえ……。率直に言っテ、今回でビルのくるみ割り人形を殲滅するのは不可能ダ」

 平生よりも低い声で端的に告げる。彼の言う【子犬】には心当たりがあった。一週間程前に商会を飛び出してからというものの彼についての情報連絡は皆無で、今どこで何をしているのかも分からない。どうせ今も社長を困らせているのだろうと、浩文は呆れ返ると共に一欠片の郷愁を覚え嘆息した。
 色濃くなる無音としじま。しかしそれを割る者がいた。

「た、隊長——!」
 
 副隊長のロバート。彼は眉間に皺を寄せて立ち上がった。士気を高めるべき作戦会議で敗色を仄めかすなど言語道断だ、と言いたげな面持ちで。しかしそれだけ逼迫した状況にあることはカルテルに明るくない浩文とファティマでさえ歴然だった。
 しかしディンゴは鋭利な三白眼でそれを制す。

「ボブ、手前が一番分かってンだろうガ。ナパームの詰まったランチバスケット持ってピクニックと洒落込むのは訳ねえ。だがヨ、ココにはどうしても覆せねえ人数差が生まれちまう。今回動員されるビルの歩兵は300人、それに対して【onyx】は総員30名……ッと、32名だったナ?」

 ディンゴは人差し指の腹で唇をなぞり、後方に腰を落ち着けている浩文とファティマに目配せをした。

「そう躍起になって野郎共の汚え尻なンざ追い回さなくたっていいンだヨ。【onyx】はそんなに阿呆じゃねえからナァ……テメエのリビドーなんざ捨て置け、お上の利益が最優先ダ。これ以上プランテーションで【あぶり】をさせねえように、今は退かせれば良イ」

 野犬は首元の革紐をなぞり、漆黒の縞瑪瑙を指先で弄ぶ。三つの地図と隊員らの顔を見比べ、そして息を深く吐き出すと唇を舐めた。

「一つだけ方法がある。オレ達【アカプルコ・カルテル】にしか出来ねェ勝ち方が、ナ——」

 三日後黎明、戦乱は静かに鎌首を擡げる。


ⅩⅠ