複雑・ファジー小説
- Re: What A Traitor!【第1章ⅩⅡ更新】 ( No.14 )
- 日時: 2018/06/10 16:36
- 名前: 日向 ◆N.Jt44gz7I (ID: /48JlrDe)
- 参照: http://www.kakiko.info/upload_bbs/index.php?mode=image&file=6145.jpg
ⅩⅡ
ホセ=マルチネスは非常に参っていた。
「さあ、冷めないうちに食べてくれ! ナポリの中でもここはカルボナーラの隠れた名店でな。人でごった返したりもしてないし、雰囲気もなかなか良いところだろう?」
「あ……あー、うん」
「どうした? 遠慮しなくても良いんだぞ、俺の分はもう少し後で持ってきてくれるだろうしな」
ホセが見下ろす先には綺麗に盛り付けられ、ほわほわと湯気を立てるカルボナーラが鎮座していた。
濃厚な鶏卵とチーズクリームで飾られたスパゲッティ=アッラ=カルボナーラ。この店では塩分の多いペコリーノチーズが使われているらしく、老若男女世代問わず人気があるらしい。中央にて多めに振られた黒胡椒が、それらをもたつかせることないようアクセントの役割を果たしている。そして、この薄くスライスされた豚肉の塩漬けこそがこの店の魅力なんだ、と眼前のイタリア人は言っていた。
四十路という年齢と、凡そ業深きその身にはそぐわない無邪気な笑顔でプレートを勧める。何も知らないような顔で微笑みかけるのだ。
朝から何も口にしていなかった空きっ腹の彼にはこれ以上無い御馳走だったが、その薄い胸は焦燥と欺着に締め付けられるばかりだった。
もう誤魔化せない。
「別に……そういうわけじゃねーよ」
彼は下唇を噛んで、犬歯をかち合わせるしかなかった。
******
入店の鈴は小気味良くころころと笑った。
結局、断り切れずに連れてこられてしまったのだ。腹の虫を大きく鳴かせてしまった手前、頑として拒絶すれば逆に怪しまれてしまうだろう。しかし牙を剥いて反撃する気にさえならなかったこともまた事実だった。
先の連絡会と【これまで】の途次、もう【そんな事】しなくても良いのかもしれない、そう思える程で。
サンタルチア港からそう遠くない場所にそれは静かに佇んでいた。港から街の方へ少し歩いて、大通りに入る。そして大通りから小道に抜けて、角を二つ曲がる。その後に相見える急な坂を登った頃にリチャードは顔を綻ばせた。もうここまで来てしまえば海鳥の鳴き声は聞こえなくなる。
しかし、彼の言うようなナポリの隠れた名店などという出で立ちでは決してなかった。蔓が這う煉瓦の外壁、煤けた鎧戸、扉口へと誘う崩れた石畳、赤錆びのせいで店名を解読出来なくなった吊り看板。手入れはそこそこな外観でお世辞にも別段流行っているとは言い難かった。
蒼穹下の清新な午後、そしてシエスタの微睡み漂う街中の甘い雰囲気と相まって気怠げなその暖色はトーニャスの煉瓦路地をどこか想起させる。地中海由来の南風が昼下がりの坂を駆け上り、二人の頬をそよと撫でた。
何の変哲も無いトラットリア、もしかするとネガティヴイメージすら付きかねない外観。だがトマトソースの爽やかな薫風と、暖かな木製燻製香が店舗の出窓から逃げ出しているのを鼻できくと、否応なく食欲はそそられた。
廃棄されたばかりで若干の熱を帯びる肉片より美味しいものがあると知ったのはトーニャスに来てから初めて知ったことだった。町市場で売られている豚肉の燻製やチーズを恐る恐る口に放り込んだ時の感動は凄まじく今でも忘れられない。人々の活気は香辛料、泥と藁が香ばしく彩る景色はありありと瞼の裏に思い出せる。
しかし刹那、暗雲に隠され微笑まない太陽の虚像がホセの脳裡をよぎった。身体に焼き付いた数々の裂創と、味蕾が吐き出す泥の記憶。光っては燃え尽き、消えていく。ホセは下唇を噛み潰し、昏い眩惑を追い払った。
ホセは何故リチャードがこの店を選んだのか不思議でならなかった。
ヴェネツィア金刺繍が如し御髪に映える、紺青の背広と間隙に立つ漆黒。丁寧に磨かれたアルティオリ。平生よりブランド志向であるこの男が、何故このような寂れた大衆食堂を選んだのか。
何となく気になってそれとなく尋ねてみると、リチャードはホセを柔く一瞥してボルサリーノを目深に被り直した。
大学時代の行きつけだったんだ。
そう端的に告げる彼の表情は陰って、見えなくて、ホセは言葉を飲み込んだ。
垣間見えたのは、カヴール広場で聞かされた【過去】以前の話だった。裏社会に生きる者は例外無く劣悪な環境に生まれ育った者、という持論のホセは内心その事にも驚かされた。大学という学府の詳細はよく分からないが、金に余裕があって且つ学問的向上心がある者が行くようなところだとは心得ている。
言うまでもなく、彼自身は学校になど縁は無かった。【青空教室】ではいつも灰被れのコンクリートに蛍光スプレーで乱されたスペルと、早口に捲し立てられる猥雑な言葉が溢れていた。母語の読み書きは、食べていく為に16の時分、麻薬の売人へ転身して必死になって覚えたくらいだった。
リチャードが名前を呼び、声を掛ける。ホセは生唾を飲み込んで彼の後に続いた。
店の奥まった四人掛けの席に通されると、リチャードはトレンチコートを柔く畳んでから余った隣の座席にボルサリーノを置いた。
シエスタが終わりかける今の時刻にも他の客は当然いる。皺の深い老夫婦、新聞を読む紳士、忙しなくペンを走らせる青年。しかしそれがかえって長閑な店内によく調和していた。
リチャードは給仕の男にメニュー表を持ってくるよう頼むと、棒立ちのホセに腰を落ち着けるよう促した。最早ここまで来てしまってはどうしようも無いので、ホセはリチャードの斜め前の席に座る。真正面に相対しないようにそこだけは気を配った。
暫くして給仕がメニュー表を持ってくると、リチャードはホセにも見えるようにテーブルを縦断する形でメニューを広げた。
凝ったイタリックが目に飛び込んでくる。ラテン語を源とするイタリア語とスペイン語は互換性が高く、ホセもある程度なら理解できた。成る程看板メニューなだけあってカルボナーラが最初の見開き頁に大きく書かれている。その他にはボロネーゼ、ペスカトーレ、ボンゴレビアンコ、ジェノベーゼなどの馴染み深いスパゲッティの名前を幾つか見つけることが出来た。
リチャードはパスタ料理の書かれた頁を捲り、もう片方の手で後れ毛を耳に掛ける。
「ホセ、お前の誕生日はいつなんだ? そういえば聞いたことがなかったなと思って」
それはあまりにも唐突な問いだった。
「あ? どうでもいいだろ。そんなこと」
声が上擦る。パスタの次頁はピザメニューだった。
「そんなこと、じゃないさ。ファミーリャの誕生日は祝うものだろう? 」
そう言うとリチャードはキッチン近くに控えていた給仕を呼び、カルボナーラを二つ注文した。
先程からこの【ファミーリャ】という呪詛がやたら脳髄を揺さぶって仕様が無い。イタリア語で【家族】を表す血の楔。ホセの母語であるスペイン語の【ファミリア】と音は似ているが、この両者は全く似て非なるものだった。これらの間に沈殿する本質が、全く違うものであることはもう痛いほどに分かっている。
そしてありとあらゆる森羅万象が【此処】と【彼方】では何もかも違った。同時にどんなに牙を研いだとしても噛み砕けない障壁もまた屹立するのだ。
答えねばならないのか。
ホセは液状拘束が緩まった前髪を掻き上げて、背凭れに身を預ける。この舌打ちがどう捉えられているかなんてもう易々と把握できた。
「チッ——ねーよ、誕生日なんか」
己を穿ち得る弾丸は内壁の煉瓦に跳弾した。その時咀嚼音、嚥下音、紙の擦れ、流しの音、窓を叩く風の声、全てが示し合わせたかのように店内に溢れる物音として須臾止む。
ちらと横目にリチャードを窺った。
顕われるは引き結ばれた唇、開かれた瞳孔を囲う円と鈍角の眉は驚愕の記号。分かっていたのに零距離で銃身を突き付けられたような心持ちがした。期待は毒杯、希望はいつも煙に巻かれる。犬歯同士は滑ってしまい刃毀れし、奥歯を強く噛み合わせるしか出来ない。いつもこうだ、埋められない距離、埋まらない距離。やはりどこまでも神とやらに線を引かれる。彼らと自分は【違う】のだ。
乾く目を庇って瞬きをした次の瞬間、視覚の構築する世界は変貌を遂げていた。網膜が受け取る光の乱反射を視認したホセの瞳孔は更に収縮する。
眼前の男は表情筋を緩ませ、瞳に光を湛えていた。
「じゃあ今日にしよう! この時を以て、6月8日はお前のコンプレアンノだ」
コンプレアンノ。それが表す言葉の意味は分かった。しかしそれを口にする【意味】はどうしても分からなかった。何故か、生み堕とされてからというもののコンプレアニョスには尽く縁が無かった。
胸焼けを誘うような甘ったるい単語を反芻。予期せぬフルメタルジャケットにホセは牙を剥く。そうしなければならなかった、そうすることしか出来なかった。
「は? い、 いや、意味分からねえって……てめーな、マジで何言って——」
「皆、無いんだ。誕生日が」
紛う事なき純銀の弾丸。一弾指、左胸に撃ち込まれ、息を呑む。
不可視の弾丸は心臓に触れる。瞬間空洞を穿たれ、その隙間を埋めるように銃弾は崩壊して染み入った。殴られたときよりも蹴られたときよりも叩かれたときよりも肉を削がれたときよりも痛かった。
RIPバレットが永久空洞を作り、抉る。
その返答に解を見出せない阿呆の振りはもう出来なかった。
だから、と彼は続ける。
「Buon compleanno,Jose(誕生日おめでとう、ホセ)」
そして、いまに至る。
「嫌いなものとか入ってるか?」
「違えよ」
違う。
そんな事じゃない。
ホセは食べ方を知らなかった。
そしてずっとずっとその事がどうしようもなく惨めだった。
フォークの正しい使い方なんて知らない。どっちの手に何を持てばいいのだろう。右手は何本の指で銀食器を支えれば良いのか、そして左手はどこに落ち着ければ良いのか。
今まで決して口に入れるのが嫌で食べなかった訳ではない。決まり切っている、食べられなかっただけだ。
一度も食事を共にしたことが無いのはその為。週末の昼には気付かれないようにいつもオフィスを抜け出した。それでも時に肩に掛かる手を払って、いらねえと牙を剥いて、思い付く限りの暴言で塗り固めて。窓から美味しそうな匂いと業態知らずの暖かな笑い声を背中で知覚し、薄い胸を更に磨り減らした。埋められなかったのは身長差でも出身でも無い。オレ自身と商会にある明確な境界線だった。
寂しい。
それを認めるのはどうしても時間がかかった。
アカプルコからトーニャスに飛ばされ、そこで出会ったのは同じ裏稼業の人間。しかし彼らは自分の出来ないことが沢山出来て、自分の持ってないものも沢山持っていた。遂には唯一の心の拠り所だった本家からはイタリア残留を宣告された。もうどこにもお前の居場所は無い、と突き付けられているようで。いらねえのはオレの方か、とあの日行く宛ても無い癖に扉を蹴って飛び出した。
それだけじゃない、初めて己の境遇を嘆き喚いたのもあのときだった。どうして満足に食事も共に出来ないんだろう、何故オレは路上での生活しか知らないのだろう。諦観が溢れて止まらなかった。アマンダとシンに見つけられたときは内心焦ったけど、きっとあのままじゃ帰れなかったから。だからこそ今まで拒んできたおかえりの声は驚く程すとんと心に落ちて、オレはその晩また瞼を腫らした。
あいつがオレを連絡会に連れて行ったのも人がいないから単にオレを選んだだけだろうが、それでも良かった。
火やるから貸して、そんな簡単なことすら言えない。相反する【信じろ】という言葉。不格好なあの踏襲は一途な祈りだった。
地を舐め野犬に跪いた記憶は燃焼光を上げる。
「Grazie.(ありがとう)」
リチャードは給仕に微笑む。どうやら彼のカルボナーラが席に運ばれてきたらしい。
先に食べるぞ、とそれはぐるぐる混濁する意識の中でもはっきり聞こえた。上手く応えられたかは記憶に無い。
彼は熟れた手付きで右手にフォークを持った。そのまま事も無げに器用にスパゲッティを巻き取るのを呆然と眺める。口に運び、咀嚼。そしてイタリア語で美味しいと言った。
顕現するはやはり流麗、しかしその全てがやけに緩慢な動作だった。へえ、そうやって食べるのか、初めて知った、とおよそ見当違いな感想が大脳で唯揺らめく。
へえ、【そうやって食べる】のか。
——と、此処で全てに気付いた。寧ろ気付かない訳にはいかなかった。
今日ここまでに在った意味を持つ全てが心臓に転墜し、超速で脳髄に送られる。殴られたような衝撃。噛み合わせの悪い牙で必死に衝動を抑え付ける。
目頭が熱くなって、咽頭が激しく痛んだ。
震える手でフォークを持つ。この震えがばれてはいないだろうか、だがしかしそれもどうでもよくなっていた。同じ金属でも鉄塊と円錐の鉛とは全然違って、手に馴染まない。
次に不器用にパスタを巻き取る、こんな事よりスピンコックの方が幾分楽だと思った。間違ってはいないかと内心に秘め、恐る恐る口に運ぶ。
やはりイタリアで食べる初めてのものは総じて外れが無かった。
「美味しい」
長い時間を経て、ようやく言えた言葉。
「うん。美味しいな」
そして、応えてくれた。
*
「なあ、おい。なんつーの、ここ」
「ん?」
「この店の名前聞いてんだろうがよ。……何て言うの」
一呼吸。南風にそよぐ睫毛は何を指すのか。
「【Ricordo】という店だ」
******
店を後にしてからは何処へ行くあてもなく、また導かれるようにサンタルチア港に戻ってきてしまっていた。
道中は一言も交わさずに。急坂を下り、角を二つ曲がって、小道に抜ける。そうして大通りに出れば、家路を辿る海鳥が疾手のように頭上を掠めるのを視認出来た。
港に辿り着くと、燃え盛る斜陽はいよいよ水平線の彼方に飲み込まれようとしていた。丁度二人が出くわしたのは、汽笛を上げる鯨が聖母の手を離れようとするその瞬間。旅人と見送りを繋ぐペーパーテープが名残惜しそうに伸び、そして水溶性の未練は断ち切れる。色彩豊かな別れが事切れる度に人々の歓声が上がった。手を振り、振り返し、そして焔が如しティレニア海へと遠のく。
ホセは汽笛の余韻に身を委ねて白い鯨波をぼんやり眺めていたが、リチャードの呼吸に呼応するように瞬きを一つした。
「ホセ。俺は……お前のことを少し勘違いしていたのかもしれない」
「あ? 何改まってんだよ、気持ちわりーな」
道行きの際に常時付き纏っていた居心地の悪さなど疾うに感じなくない。そして、ホセの導き出した【真理】は正解だった。
波止場の欄干に背を預けて、リチャードはボルサリーノのブリムに手を掛ける。
「お前がどんな人間か。何を見てきて今のお前があるのか。——そしてどう生きてきたか、俺は何一つ向き合ってこなかった」
そうしてリチャードは彼に正対する。朱色渦巻く遠景と鋭利な癖してやたら近景を占めるサファイアが、訳の分からない印象派絵画を思わせた。
今までの事だって全て【そう】だった。唯一神に祈りを捧げてようやく漂着した居場所を奪われ、裏切られたも同然。子犬はその小さな牙を砥ぐしかなかった。何故か、それしか知らなかったから。この唇で次に何を紡げば良いか、安全牌の選択肢などもう何処にも残っていない。
刹那、波紋に手を引かれた海風が二人の間隙に躍った。それはリチャードの長い髪を巻き上げ、両者の視線交錯を遮る。煌めく金刺繍は艶やかに脆弱な整髪料を香らせた。
夕凪に戻るまでには随分と時間を要したように思う。しかしほんの一瞬だったかもしれない、刻一刻と移ろいゆく無窮の天と雲は時間感覚を静かに狂わせる。
しかし、ホセの笑声を聞いて我を取り戻したのははっきりと知覚出来た。そしてとうとう抑えきれずに体をくの字に折って、噴き出す。今度はリチャードと真逆の方向を向いて肩を震わせ始めた。
彼の予期せぬ反応にリチャードは唯々拍子抜けする思いだった。
それはきっとリチャードが彼の笑顔を目にしたのはこれが初めてだったからで。そしてそれはきっと恥ずべき事だったのかもしれない、とも思った。
ホセはリチャードに背を向けたまま、呟く。目の端に溜まった涙を拭うような仕草も見せた。
「ひひっ……あー面白え。あんだよ、お互いの過去に手垢付けんのは【ファミーリャ】の御法度じゃねーのか?」
リチャードは今度こそ何も答えなかった。
押し寄せる波のさざめきだけが響く港と、ウミネコの対旋律。潮風は間もなく群青の夜と明星を引き連れて港に駆け寄ってくるだろう。
ホセはリチャードにゆっくり向き直ると、片眉を不器用に吊り上げて唇を尖らせてみせた。
「ま、てめーからも聞いちまったしな。この業界に生きるモンとして貸し借りは作りたくねーし」
赤い宇宙に黄昏を拾う風に、悠久が吹き渡る。短い睫毛が落とす影は層一層濃くなった。昏色を閉じ込めたままの瞳に最後の陽光が射し込み、そして輝く。
彼はぎこちなく口角を上げて、鋭い犬歯を全て見せた。
「なあ、どっから話そうか————ボス?」
ⅩⅡ