複雑・ファジー小説
- Re: What A Traitor!【第1章ⅩⅤ更新】 ( No.17 )
- 日時: 2018/08/03 21:04
- 名前: 日向 ◆N.Jt44gz7I (ID: 2mVH7ZuJ)
- 参照: http://www.kakiko.info/upload_bbs3/index.php?mode=image&file=975.jpg
ⅩⅤ
「ホセ、お前どうしたんだ? その傷……」
「ちょっと」
「ちょっとって……そんな訳ないだろ」
マンホールに辿り着いたのは、日も疾うに暮れきった濃紺の時間。
ソファに体を預けて微睡んでいたイドだったが、ホセの姿を見るなり飛び起きた。
腫れ上がった顔面と内出血で紫に滲む瞼、痛々しい切り傷から広がる表皮の裂け目、濡れて生乾きのシャツ。
夕方見送った姿とはまるで違う異形。言わずとも彼の身に何かが起こったことは一目瞭然だった。
ホセはイドの前におぼつかない足取りで進み出ると、目を合わさずに言う。色の籠もらない声と陰を落とし込めた瞳には光が射さない。
「イド。オレ臭くないかな」
「え——臭いって」
あの後は近くの公衆トイレで全てが消えるまで全身を擦った。
薄い皮膚を掻き壊してまで上書きしたかったあの忌まわしい記憶に血が滲む。
傍目から見ればシャワーを浴びることの出来ない貧困層の子供がトイレの水道で水浴びをするという何とも同情を誘う光景。街ゆく小綺麗な大人たちに警察を呼ばれなかっただけマシだろう。
水道の前に立って、口をゆすいでも、喉奥まで水を流し吐き出しても、あのおぞましい感触はどうやっても消えてくれなかった。
そして濁流が一滴となり臓腑へ流れ込んだあの瞬間がフラッシュバックする。
ホセは衝動的に蛇口をひねった。これ以上水流の勢いは増さないのは分かっているのにそれでもひねり続ける。もはや水として体を成さないそれは自身を濡らす衝撃波となって跳ね返った。
その衝撃を下から迎え、体重の増加を顕著に感じるほどの生水を胃に流し込む。水流に押し退けられ膨らむ頬、歯間を過ぎる流水、喉を刺すウォーターカッター。
無理矢理不透明な不定形を腹の底へ押しやった。そして事務的に舌を突き出して、軟口蓋を指二本でぐっと押し込む。
吐き方はイドから教わっていた。腐ったものやカビの生えた食物を誤って食べた時にこうしろと言っていた彼の顔が浮かぶ。こんな使い方をするとは夢にも思っていなかった。
生理的反射に依り腹筋が波打ち、消化器官が震えた。内臓は疲弊しきっていたが情けなく絞られた声と共に淀みなく大量の水を吐き出す。
重力に従って水が地面に墜落した。涙腺から引き絞られた靄で煙る視界、過敏になった聴覚。
地面に打ち付けられた水は蝸牛までも犯したあの濁音に似ているような気がして一層の嫌悪を誘う。
ひとしきり洗浄が終わった後は薄い緑色をした油膜の張った水がだらしなく口から糸を引いて垂れるだけで、固形物はもう出てこなかった。
「別に気にならねえけど……」
イドは二重の意味を込めて訝しげにホセを見る。その眼差しにあてられると刻み込まれた傷が熱を持った。
ホセはイドの返答を受け、彼の顔を見ないままに首肯する。
「そっか」
同時に幾分か救われたような気分にもなった。
恐怖と裂創を植え付けられ、頭から歪んだ欲を引っ被った自分だとしても穢れは残っていないのだと錯覚出来る。
イドは二度瞬きをすると、努めて明るく歯を見せた。
「血は止まってるみたいだし。まあ大丈夫か、傷口が腐らないように気を付けろよ」
「うん」
イドはそう言うとソファからやおら立ち上がり、マンホールの奥の方に向かって歩き出した。
劣化したダンボールと喧しい色をした包装紙を踏み分ける音がコンクリートの壁に一定のノイズと共に反響する。
そして剥き出しの汚水配管に跳ね返ってアタックがぼやけた彼の声がホセの耳に届いた。
「何があったかは聞かないけどさ、シケた面してんなよ。ほら【アレ】やってみるか?」
マンホール奥から戻ってきたイドはおどけた仕草で口元に右手を遣り、そして深呼吸する。一瞬にして彼の頬に浮き出る恍惚の色と虚ろに融ける虹彩の輪郭。
ホセは痛む喉を上下させ、生唾を飲み込む。
彼の左手には小振りのアルミ缶と皺の寄ったビニール袋が握られていた。
彼の言う【アレ】とは有機溶剤の吸引である。
最近になってイドも手を出したらしく、髄液を揺らすような刺激臭を纏ったままマンホールに帰ってくることも多かった。流石に10歳に満たない子供達と通気性の悪いマンホールで吸引することはなかったが、最初は勿論ショックを隠しきれなかった。
脳を焼かれ廃人同然になった大人達、そして薬に溺れて大人になりきれなかった仲間達をホセは腐るほど見てきた。
イドも彼らと同じような末路を辿るのだろうか。臭気にあてられぐるぐると中枢神経に酔いが回る。ホセはこれまで泥を噛んで共に生き延びてきた彼の堕落だけはどうしても見たくなかった。
この地獄にあっても導きをもたらしてくれる気高い彼に救いを見出したかったのだ。しかしそれは叶わなかった。
どんな人間だとしても最期はこの路地に殺される。神も伝道者モーゼもこの世界にはどこにもいないし、淀んだ瘴気と薬瓶の亡骸ばかりだ。結局のところ金と暴力が支配者なのだから。
そして羽音の絶えない楽園にシンナーと吸引具があることにもひどく動揺した。自分が知らなかっただけでイドはもうシンナーを手放すことが出来なくなっているのだろうか。
もう何も考えたくなかった。
一過性の麻痺が残る顔面の筋肉を操作し、口角を歪める。
上手く笑えているだろうか。
「あー。ううん、いいや」
ホセは有機溶剤やドラッグの類いには手を出さないことを今よりずっと幼い頃から決めていた。
決して好奇心が無かったわけでもなかったし、薬物を体に入れることが仲間と認められる第一種のライセンスになっていた風潮があったことも否めない。
しかし薬物を拒むことは人間として生きられなかったヒトのなれの果てを見せつけるストリートへ捧げる一種の復讐であるとさえも考えていた。
体液が滞留して重たくなった瞼を押し上げたならば、地面に強く打ち付けられた眼窩が軋んで骨片を零しそうになる。
ホセはここで初めてイドの顔を見た。
「ん、そうか」
幸運なことに彼の顔に怒りや失望の色は張り付いていなかった。
ホセはゆっくりと瞬きをし、鼻から深く息を吐き出す。今イドに拒絶されればそれこそ【生きてはいけない】のだ。
だが安堵したのも束の間、彼は次にズボンのポケットを探った。
「それじゃ煙草はどうだ? ケースごと落ちてた」
自然な動作で差し出されるソフトケースに瞳孔と汗腺が開く。
手を出そうとしないホセにイドは返答を待たずケースとライターをぐいと押し付けた。そうして押し付けられるがまま受け取ってしまう。
刹那、皺の寄ったビニールの感触に全身が強張るのが分かった。
煙草。
あの匂い。
嗅細胞が一斉にどよめいて嗅覚に紐付けられた先刻の惨劇が蘇る。
有害で燻される路地裏、顔の中心に振り下ろされる拳、膂力にひしゃげる鼻梁、迫るアルコールの呼気、そしてアンモニア臭に塗り潰される五感。
脳を占める阿鼻叫喚に耐えるように奥歯を噛み締める。それでもフラッシュバックする羞悪に犬歯がかち合わず硬い音が頭蓋骨にひたすら響いた。
痛い、酷い、惨い、嫌だ。なんでいまこんな、こんな。
「ホセ。ホセ? なあおい、どうした?」
イドの声で一気に現実へと引き戻され、息を呑む
「——ッ! な、なんでもない!」
「でも顔色悪いぞ」
現れた煙たい幻覚をマンホールに満ちる慣れ親しんだ毒気で何とか押し流した。
しかしイドは訝しげにホセを見つめる。ここで彼にバレるわけにはいかなかった。勿論心配かけたくなかったというのもあったが今はただただ口に出すことすら悍ましい、その一点のみだった。
イドの視線を取り繕うように煙草を一本取り出し、ライターを右手に持ち替える。
緑色の透明なオイルライターは三回目の打ち石でようやく火球を吐き出した。そしてホセは眩惑の残り香からくる筋肉の痙攣を何とか誤魔化しながら、火を煙草のフィルターに擦り付ける。
二秒後赤熱する先端部から白煙が立ち上る。それは災厄をもたらした男の後ろ姿からくゆる紫煙と重なった。
いつまでもこうしているわけにはいかない。こうして呆けている間にも煙草の先端部は灰に帰っている。
ホセは意を決して吸い口を犬歯で迎えた。
乾いた紙に前歯が触れ、骨伝導で奇怪な音を聞く。それを振り切るかのように苦虫を噛み潰したような顔で吸い口を噛み潰した。
「——!?」
予想以上に重い衝撃が脳を殴りつける。速攻の頭痛と鼻を抜ける黒い刺激。傷だらけの口内に奔る縦横無尽の裂創を埋め立てるかのように粘るタールが取り付く。
不味い。まさにその一言に限った。
肺胞から延びる血管を通って内臓を黒く染め上げる感触。あんなに苦しい思いをして綺麗にしたのに黒い記憶は再度臓腑に滲みだしてくる。
その拍子に肺一杯に煙を吸い込んでしまい、むせ返った。
異物を排斥する防衛機構。咳き込む勢いで咥えていた煙草も地面に落としてしまった。
もういい。そのまま焼け付いて消えようとしない傷も外に追い出してくれ。
窒息寸前、酸素の足りない頭で願う。
「ごめ、ちょっとオレ、だめかも、ん、いいや、返す」
ホセは俯いたままソフトケースとライターをイドに差し出した。
ゴミ溜めから覗く灰色の床に未だ火種が燻る煙草を靴の裏ですり潰す。
気管の襞に煤が残っているようで苦みが取れない。喉が切れるかというほどに咳き込んでも黒い苦みは解消されなかった。
「大丈夫か? 悪いな」
イドはホセの手から煙草を掴み取ると、くしゃっとズボンの尻ポケットにねじ込んだ。
箱から取り出した当初から比べて約三分の二の長さに縮こまった煙草を見ながらホセは力無く呟いた。
「ううん。ごめん。一本、無駄にして」
イドは俯くホセの背中をさすってやりながら笑った。
「気にすんなよ。ええと、そしたらセルベッサはどうだ?」
イドは室内隅に立っている茶色の酒瓶を親指で指し示した。
セルベッサとはスペイン語でビールのことである。
ホセの前に立ちはだかるのはまたしてもそれらを彷彿とさせるモノだった。本当は一刻も早く奥に引っ込んで眠ってしまいたかったが、リーダーの完全な善意であるため無碍には出来ない。
「まあ嫌なことあったならさ、うん、呑んで忘れろよ」
イドは荒っぽく背中をさすっていた手で彼の肩を軽く叩く。
断る選択肢など元より存在しなかった。シンナーと煙草、二度も断ってしまったから今度こそ受け取らねばならない。
違法薬物でも有害な煙でもない。酒なら何とかなるだろう。路上に生きる者ならば老いも若きも皆美味そうな顔をして飲んでいたことも覚えている。
「そうだね。イドがそう言うなら……飲んでみようかな」
浴びせかけられる歪んだ欲と穢れた酒精が脳裡を掠めたが口角を上げておく。
無理に作った表情のせいで未だ硬化していなかった瘡蓋が切れ、鮮血が薄く滲んだ。
「なんだ。お前飲酒も初めてなのか、えっと12歳だろ?」
酒瓶を取ってきたイドはホセの真正面にあたるゴミ山の上に腰を据えた。
「たぶん」
12歳にして薬物、煙草、酒すらも手を出したことのないホセはアカプルコのストリートにおいて珍しいケースだった。
成長するにつれて皆何かしらのイリーガルに手を出し、自ら破滅の道を辿っていく。しかしストリートだけではない、メキシコ全土において混沌を極める政府の決めた年齢制限などあって無いようなものだった。
元より不健全な嗜好品に対して確固たる拒絶意思は持っていた。体質として喫煙を受け入れられないのはたった今知ったのだが。
だから酒も自分がどこまで飲めるのか知らない。
イドは栓を抜いてホセの前に瓶を置いた。
「ほら飲んでみろよ」
開栓した瞬間からアルコールの匂いがマンホールに薄く立ち籠めた。
空気を意識すると途端に息苦しくなる。煙草ほどでは無いもののアルコールが皮膚や粘膜に纏わり付くことを考えると上手く呼吸が出来なくなった。
茶褐色の瓶だから中身は見えないがきっとアレと同じような色をしているのだろう、とも思ってしまう。その色といい路傍によく転がっている薬瓶がそのまま大きくなったような怪物みたいだ、とも思った。
先刻刻み付けられた醜悪はどこまでもぴったりくっついて離れてくれない。目の前に屹立する瓶はとても大きく重たそうだった。
一つ深呼吸をして両手で瓶を持つ。同世代に比べて体つきがよくない彼は手も小さかった。
「Gracias(ありがとう).」
マンホールの熱気に蒸かされた瓶は濡れていた。
飲み口に唇を固く押し当てて、恐る恐る傾ける。引き結んだ唇に生ぬるい液体が触れるのを認識すると少しずつその縛りを解いていく。
発泡性の液体は唇の皮を溶かすような甘痒い痛みを伴った。
口内に流れ込んだ液体は傷をなぞって、その裂け目を小さなナイフで何度も刺す。気泡が発生しては傷の中で弾けて肉を融かす。
満ちていくじんわりとした痛み、これは煙草の比では無かった。
更に行き場無く舌の上で転がしていても甘くなるどころか苦みばかりが増していき、飲み込むタイミングを完全に見失ってしまう。
救いを求めるように視線を彷徨わせると、相対するイドと目が合った。気付き微笑む彼、いよいよ吐き出すわけにもいかなかった。
熱を持った液体を奥に留めて一気に舌を押し下げる。形容しがたい不快感の後、鬱金色のセルベッサは疲弊しきった喉を焼きながら胃に滑り落ちた。
ホセは緩慢な動作で瓶を地面に置いて、暫く呻いた後に無声音を引き絞った。
「あー……きついよこれ」
ホセが再び苦しげに俯くのと同時に、イドは瓶を片手でさらってしまうとそのまま一気に煽った。
大きく喉を上下させて嚥下音を響かせる。
そしてホセの顔を覗き込んで、額に張り付いて水っぽい前髪を掻き上げてやるとイドはまた笑った。
「あれ、お前顔真っ赤だぞ。まさかセルベッサで酔っちまったのか?」
全く自覚は無かったがいよいよ酒も駄目らしい。
「倒れられたらしょうがないしよ、セルベッサも止めとくか」
そう言われると体が火照ってくるような気がする。埋め込まれた裂創が炎症を起こしているだけかもしれないが。
側頭部で小さく頭痛が芽吹く。多くの刺激に触れ過ぎたせいか吐き気が再度戻ってくる。
ホセは瓶を持って奥に引っ込むイドの背中に向かって今出せる最大限で精一杯の声を出した。
「イド……あの、ごめん、なさ」
出した、つもりだったが一体何に謝っているのか自分でも分からず着陸点を失った言葉は尻すぼみになった。
シンナーを断ったことか、煙草を吐いてしまったことか、それとも酒すらも飲めない不甲斐ない自分に対してか。
消え入りそうな声の謝罪はイドの耳に入らなかったのか返答が無かった。
壁のコンクリートに繰り返し跳ね返り、拡散。絡み合う汚水配管に音波が衝突し、霧散。
嗜好品はストリートチルドレンが持つべき第一種のライセンスだ、と隣の路地で暮らす洟垂れが先日そんなことを言っていたのを思い出した。
マンホールが昏く胎動する。
もしかしてオレはスラムで足掻く悪ガキにすらなれないのか。
このままでは唯の半端者だ。勿論父の顔も母の顔も知らない、その生死も、即ち己の出自も。
このストリートにさえも居場所がなくなったならどうすれば良いのだろうか。己を見失い、仲間からも生きることを許されなくなったら。
ここが地球最後の楽園なのだと嘯いて、同じ傷を抱える者と垂れる膿を舐め合い正気を保つ日々。
ホセにはいつかエデンが崩壊する審判の日がやってくるような気がしてならなかった。
「……エバ」
愛しい人の名が口を継いで出る。しかし彼女の名を呼んだとしても決して彼女に届くことはない。
そうしてホセはそのとき初めてエバの姿がないことに気が付いたのだった。
ⅩⅤ