複雑・ファジー小説

Re: What A Traitor! ( No.3 )
日時: 2019/01/26 17:22
名前: 日向 ◆N.Jt44gz7I (ID: on4ShBGJ)
参照: http://www.kakiko.info/upload_bbs3/index.php?mode=image&file=862.jpg



「ただいま」

 室内は蒸し暑いほど暖房が効いていたので、リチャードは肘まで織り込んでいたジャケットの袖を戻し、ある程度皺を伸ばしたのち上着を脱いだ。
 セーフハウスの外観は空き家だったこの建築物を格安で買い取った時から変わらない。町の名物となりつつある伝統的な煉瓦造りの壁をそのまま使用しているので、誰からも何一つ怪しまれること無くトーニャスの町並みによく溶け込んでいる。
 暖色の煉瓦、その色自体嫌いでは無かった。むしろ住居として適応させた人類の叡智による数術的な橙の並びは言い様もなく美しく感じられ、それでいて栄華を誇ったルネサンス期に齧り付くような泥臭さがある。
 しかしその内装は世界遺産登録にまでこぎつけた歴史的な外壁が嘘であるかのように無機質で現代的だった。煉瓦と空間の間に断熱材、コンクリート、防音材で作られた壁の上に白い壁紙を貼ったごくごくシンプルなものだ。
 以前この家屋を改築したときに、地元の建設会社の大工の棟梁は作業中に肩をすくめながら、折角の煉瓦をどうして埋め立てるようなことをしたんだ、とこちらに尋ねてきた。
 しかし此方の答えにそれほど興味は無かったらしく、問いかけるだけ放り投げて取って付ける用のもっともらしい理由を考える前に作業に戻っていった。
 この町には更に異質な筈の異常なまでの防音設備には何故か突っ込まれなかったのが幸いだった。もしかすると防音材の意味も分かっていなかったのかもしれない。金額を上乗せして発注を受けた壁材を、見慣れないマニュアル通りに壁にはめ込んでいく、辺鄙な町の大工にはそれだけでいっぱいいっぱいだったのかもしれない、とも思った。

「遅えんだよ。こんなドクソ田舎でどうやったらそんなに道草食えんだ? 郊外の家畜共と一緒ンなってファックかましてたンじゃねーだろうなオイ 」

 リチャードの帰宅早々噛み付いてきたのは、ホセ=マルチネスという青年だった。盛大に舌打ちをかましながらショートブーツを打ち鳴らしてリチャードに近付く。
 バスク系メキシコ人である彼はヒスパニックなのだろうが異様に白い肌が目立った。少々キマった目に濃い隈、顔自体は童顔で可愛らしい顔つきをしているのだが、やはり一発で堅気ではないと分かる目つきが問題だった。
 ホセは生まれも育ちもメキシコのアカプルコで言葉遣いや素行が少々やんちゃなのもそれが由来なのだろうと思われた。
 現在でこそアカプルコは各国のセレブや富裕層から人気なビーチリゾートとして有名になっているが、リゾートから少しでも外れるとそこは万国共通の認識、修羅の国へとその顔つきを変える。特に外国人は強盗やスリの類いは遭遇しないことの方が珍しいが、メキシコでは現金を持ち歩く方が安全だと言われている。それは何故だろうか、それは明快単純でいて歪、襲われたら大人しく金を渡すのが一番の安全策と言われているからだ。
 ホセはアカプルコ出身といえども決して富裕層の子ではなく、親の顔も知らないストリートチルドレンの出身である。今の話もリチャードがホセ自身から聞いた話だった。
 ホセがどうしてメキシコから遠く離れたイタリアにいるかと尋ねられれば話が長くなってしまうのだが、表向きの理由としては、リチャードと昵懇な間柄であるホセの上司から裏社会のいろはを学んでこいということで彼は半ば強制的にイタリアに送り込まれたのだった。
 ホセの歳は21で未成年者を雇用しないという経営方針をとっているリチャードの会社では最も若く、その分血の気も多かった。

「はは、ホセ。心配してくれてたのか、遅くなって済まないな」
「——あ? 今度そんなお花畑言ってみろよ。色男ロメオご自慢のピチャ引き抜いて【装填数∞の連射可ベレッタBM59】ってな店に提げといてやるぜ」

 ホセはリチャードの胸ぐらを掴もうと試みたが、ただ彼の厚い胸板を小突くに終わった。何故なら彼らの間には約30センチほどの身長差があったからだ。
 160センチそこらしか無い身長、すぐ頭に血が上る性格、どんなにドスを聞かせたとしても少年期のままの声、鋭く尖った犬歯、背伸びして白に染め上げ更に毛先に鮮やかな赤を加えた髪。どんなにホセがリチャードに悪態吐こうが彼にとっては白毛の小型犬がじゃれてくるようにしか思えなかった。考えてみれば年齢だって二回り離れている。ホセに食って掛かられる度に、そういえば世界最小のカリーナなチワワ犬はメキシコ原産だったなあ、なんて考えてしまうほどで。
 埋まらない身長差に決まりの悪さを感じたホセは、決まっていつもショートブーツのエッジでリチャードの足を踏むのだった。

「痛!? うぐ……ホセ、他の皆はどうしたんだ?」
「チッ——帰ったよ。テメーが電話に出やがらねーかんな」

 踏まれた足の甲を革越しにさすりながら壁掛け時計を見るともう七時前だった。リチャードの会社では定時は六時半に定めているから、成る程皆帰ってしまっている時間だ。リチャードは部屋の奥のソファに深く腰掛けて革靴を脱いで、体重をかけられた箇所を確かめる仕草をしてみせた。
 店舗の裏口から建物の中に入るとそこはリチャードの自宅兼事務所だった。一階には一般的な白いオフィスデスクと彼の選んだイタリアの家具ブランドソファが自慢の応接室がある。
 オフィスとは縁遠い田舎町にあって外が煉瓦造りである事以外は普通の会社と何一つ変わらない。一つ異様なのが『普通の会社』でも到底見ることが出来ないであろうマシンが隅のほうに鎮座していることだろう。マルチディスプレイの黒いデスクトップパソコンが、たこ足配線で片付けるにはあまりに禍々しいほど様々な機材に繋がれ、まるでコードの海に溺れているように見える。
 
「お前は待っててくれたのか」
「んな訳ねーだろ、いちいち気色悪いんだよマリコン野郎が。 ディンゴから電話があっただけだボケ」
「ん——ディンゴから? 事務所の方にか? 珍しいな」
「知らねえよ。確かに伝えたからな、オレぁ帰るぜ」

じゃあな、とホセが部屋の裏口に向かって歩き出した瞬間、打ち合わせたかのようにリチャードの携帯が震えた。
 特注の超強化ガラスシート越しの液晶に浮かび上がった発信を見ると【Dingo】と表示されており件の男からである事が分かった。

「噂をすれば、な。ディンゴだ」

 ホセは相槌の代わりに舌打ちをして、リチャードとは目を合わさずに少し距離のあるオフィスチェアにどすんと腰掛けた。そしてすぐさま底の磨り減った土足をデスクの上に乗せてふんぞり返ったが、精密機械を置いていない場所だから今は見逃してやるか、とリチャードは嘆息した。
 リチャードは右手の革手袋を外してから震え続ける携帯の液晶を人差し指で撫で、右耳に端末を押し当てた。刺すような視線と短気なチワワの放つ殺気を背中に感じたため、勿論スピーカーにすることも忘れない。

「ああ、済まない。俺だ」

 喰い気味に電話口の相手が応えた。

『——俺だ、じゃねーヨ。さっきから事務所の方に掛け続けてンのに出ねえってえのはどういう了見だァ? お得意様放ってファックキめてやがったンじゃねえよナァ?』
「ホセと同じ事言わないでくれないか。それに、知ってるだろ」

 リチャードは、強い南米訛りのある英語を話す男が決して苛立っているわけではなく普段からこういう口調で絡んでくることを知っていた。
 まさしく彼がディンゴその人である。
 ホセの本社において直属の上司であり、リチャードとは古くから個人的な親交もある。しかし「お得意様」とディンゴは言っていたがリチャードは彼と仕事関連で話したことは一度も無い。せいぜい年に数回の呑みの席で彼の下世話な雑談を聞き流し、中南米の情報を仕入れる程度だった。 
 彼が言葉を紡ぐ隙間に早口なアナウンス、集団の足音、人々の喧噪が割って入りただでさえ聞き取りにくい彼の英語が更に遠のく。一体どこから掛けているのだろうか、職場でない事は明らかだ。駅のターミナルだろうか。

『今週中にもソッチに向かうからヨォ、何か必要なモンとかあったら言ってくれヤ』
「いいのか? それなら、もう少しでパルタガスが切れそうだから持ってきて欲しいんだ」
『は、ヒリポジャスめが。コッチは真面目なビジネスの話してンだよ』

 パルタガスというのはリチャードの好む甘みの強い葉巻で、世界的に有名なコイーバと並ぶ比較的高価なキューバ原産の銘柄だ。トーニャスのような田舎町に拠点を構えていればまずお目にかかる事はないし、品薄になりやすいパルタガスの人気も相まって中々イタリアでは手に入らないのであった。
 リチャードは仕事柄多くの言語に触れなければならないが、ホセやディンゴのお陰で辞書に載らないスペイン単語を数多く学ぶことが出来た。彼らは平常にて笑みを浮かべながら他の言語や文化ではあり得ない量の罵詈雑言を早口で捲し立ててくる。南米の民族全般ではなく彼らだけだと願いながら、貶しがコミュニケーションということも身をもって学んだ。皮肉を込めて、生きた言語のシャワーというのはこういうことを言うのだろう、と思った。

「冗談さ。ああ、書類だったな、特に必要ないぞ。契約金の確約と依頼者自身の実態さえ掴めれば。だからお前の場合問題ない」

 リチャードの言葉を聞いて、電話向こうのディンゴは人を食ったように笑って言った。

『そりゃ良かっタ。生憎もう少しでお空の上なんでネ。今更何々が必要です、なンて言われても用意出来なかったからヨ』

 妙に騒がしいところで電話をしていると思ったが、空港だったらしく合点がいった。
 しかしどうにも事情の方は飲み込むことが出来なかった。互いの『仕事』については勿論心得ているが悪友に過ぎないディンゴがどうして今になって、しかも急にトーニャスを訪れるのか。通常の依頼ならばファックスなりメールなり、それこそ電話なりで済ませることが出来たはずだ。トーニャスに会社を建ててからというものの各国のクライアントから数多くの依頼をこなしてきたが、今回の件はどうも胸騒ぎがした。
 リチャードは金色の柳眉を顰めてディンゴに尋ねる。

「——なあ一つ聞きたいんだが、今回の仕事というのはお前の【会社】がクライアントか? それともディンゴ、お前自身か?」
『ン、さあナ。着いてからのお楽しみってこったヨ』

 それだけ言うと、電話は一方的に切られてしまった。