複雑・ファジー小説
- Re: What A Traitor! ( No.3 )
- 日時: 2019/01/26 17:22
- 名前: 日向 ◆N.Jt44gz7I (ID: on4ShBGJ)
- 参照: http://www.kakiko.info/upload_bbs3/index.php?mode=image&file=862.jpg
Ⅰ
「ただいま」
室内は蒸し暑いほど暖房が効いていたので、リチャードは肘まで織り込んでいたジャケットの袖を戻し、ある程度皺を伸ばしたのち上着を脱いだ。
セーフハウスの外観は空き家だったこの建築物を格安で買い取った時から変わらない。町の名物となりつつある伝統的な煉瓦造りの壁をそのまま使用しているので、誰からも何一つ怪しまれること無くトーニャスの町並みによく溶け込んでいる。
暖色の煉瓦、その色自体嫌いでは無かった。むしろ住居として適応させた人類の叡智による数術的な橙の並びは言い様もなく美しく感じられ、それでいて栄華を誇ったルネサンス期に齧り付くような泥臭さがある。
しかしその内装は世界遺産登録にまでこぎつけた歴史的な外壁が嘘であるかのように無機質で現代的だった。煉瓦と空間の間に断熱材、コンクリート、防音材で作られた壁の上に白い壁紙を貼ったごくごくシンプルなものだ。
以前この家屋を改築したときに、地元の建設会社の大工の棟梁は作業中に肩をすくめながら、折角の煉瓦をどうして埋め立てるようなことをしたんだ、とこちらに尋ねてきた。
しかし此方の答えにそれほど興味は無かったらしく、問いかけるだけ放り投げて取って付ける用のもっともらしい理由を考える前に作業に戻っていった。
この町には更に異質な筈の異常なまでの防音設備には何故か突っ込まれなかったのが幸いだった。もしかすると防音材の意味も分かっていなかったのかもしれない。金額を上乗せして発注を受けた壁材を、見慣れないマニュアル通りに壁にはめ込んでいく、辺鄙な町の大工にはそれだけでいっぱいいっぱいだったのかもしれない、とも思った。
「遅えんだよ。こんなドクソ田舎でどうやったらそんなに道草食えんだ? 郊外の家畜共と一緒ンなってファックかましてたンじゃねーだろうなオイ 」
リチャードの帰宅早々噛み付いてきたのは、ホセ=マルチネスという青年だった。盛大に舌打ちをかましながらショートブーツを打ち鳴らしてリチャードに近付く。
バスク系メキシコ人である彼はヒスパニックなのだろうが異様に白い肌が目立った。少々キマった目に濃い隈、顔自体は童顔で可愛らしい顔つきをしているのだが、やはり一発で堅気ではないと分かる目つきが問題だった。
ホセは生まれも育ちもメキシコのアカプルコで言葉遣いや素行が少々やんちゃなのもそれが由来なのだろうと思われた。
現在でこそアカプルコは各国のセレブや富裕層から人気なビーチリゾートとして有名になっているが、リゾートから少しでも外れるとそこは万国共通の認識、修羅の国へとその顔つきを変える。特に外国人は強盗やスリの類いは遭遇しないことの方が珍しいが、メキシコでは現金を持ち歩く方が安全だと言われている。それは何故だろうか、それは明快単純でいて歪、襲われたら大人しく金を渡すのが一番の安全策と言われているからだ。
ホセはアカプルコ出身といえども決して富裕層の子ではなく、親の顔も知らないストリートチルドレンの出身である。今の話もリチャードがホセ自身から聞いた話だった。
ホセがどうしてメキシコから遠く離れたイタリアにいるかと尋ねられれば話が長くなってしまうのだが、表向きの理由としては、リチャードと昵懇な間柄であるホセの上司から裏社会のいろはを学んでこいということで彼は半ば強制的にイタリアに送り込まれたのだった。
ホセの歳は21で未成年者を雇用しないという経営方針をとっているリチャードの会社では最も若く、その分血の気も多かった。
「はは、ホセ。心配してくれてたのか、遅くなって済まないな」
「——あ? 今度そんなお花畑言ってみろよ。色男ご自慢のピチャ引き抜いて【装填数∞の連射可ベレッタBM59】ってな店に提げといてやるぜ」
ホセはリチャードの胸ぐらを掴もうと試みたが、ただ彼の厚い胸板を小突くに終わった。何故なら彼らの間には約30センチほどの身長差があったからだ。
160センチそこらしか無い身長、すぐ頭に血が上る性格、どんなにドスを聞かせたとしても少年期のままの声、鋭く尖った犬歯、背伸びして白に染め上げ更に毛先に鮮やかな赤を加えた髪。どんなにホセがリチャードに悪態吐こうが彼にとっては白毛の小型犬がじゃれてくるようにしか思えなかった。考えてみれば年齢だって二回り離れている。ホセに食って掛かられる度に、そういえば世界最小のカリーナなチワワ犬はメキシコ原産だったなあ、なんて考えてしまうほどで。
埋まらない身長差に決まりの悪さを感じたホセは、決まっていつもショートブーツのエッジでリチャードの足を踏むのだった。
「痛!? うぐ……ホセ、他の皆はどうしたんだ?」
「チッ——帰ったよ。テメーが電話に出やがらねーかんな」
踏まれた足の甲を革越しにさすりながら壁掛け時計を見るともう七時前だった。リチャードの会社では定時は六時半に定めているから、成る程皆帰ってしまっている時間だ。リチャードは部屋の奥のソファに深く腰掛けて革靴を脱いで、体重をかけられた箇所を確かめる仕草をしてみせた。
店舗の裏口から建物の中に入るとそこはリチャードの自宅兼事務所だった。一階には一般的な白いオフィスデスクと彼の選んだイタリアの家具ブランドソファが自慢の応接室がある。
オフィスとは縁遠い田舎町にあって外が煉瓦造りである事以外は普通の会社と何一つ変わらない。一つ異様なのが『普通の会社』でも到底見ることが出来ないであろうマシンが隅のほうに鎮座していることだろう。マルチディスプレイの黒いデスクトップパソコンが、たこ足配線で片付けるにはあまりに禍々しいほど様々な機材に繋がれ、まるでコードの海に溺れているように見える。
「お前は待っててくれたのか」
「んな訳ねーだろ、いちいち気色悪いんだよマリコン野郎が。 ディンゴから電話があっただけだボケ」
「ん——ディンゴから? 事務所の方にか? 珍しいな」
「知らねえよ。確かに伝えたからな、オレぁ帰るぜ」
じゃあな、とホセが部屋の裏口に向かって歩き出した瞬間、打ち合わせたかのようにリチャードの携帯が震えた。
特注の超強化ガラスシート越しの液晶に浮かび上がった発信を見ると【Dingo】と表示されており件の男からである事が分かった。
「噂をすれば、な。ディンゴだ」
ホセは相槌の代わりに舌打ちをして、リチャードとは目を合わさずに少し距離のあるオフィスチェアにどすんと腰掛けた。そしてすぐさま底の磨り減った土足をデスクの上に乗せてふんぞり返ったが、精密機械を置いていない場所だから今は見逃してやるか、とリチャードは嘆息した。
リチャードは右手の革手袋を外してから震え続ける携帯の液晶を人差し指で撫で、右耳に端末を押し当てた。刺すような視線と短気なチワワの放つ殺気を背中に感じたため、勿論スピーカーにすることも忘れない。
「ああ、済まない。俺だ」
喰い気味に電話口の相手が応えた。
『——俺だ、じゃねーヨ。さっきから事務所の方に掛け続けてンのに出ねえってえのはどういう了見だァ? お得意様放ってファックキめてやがったンじゃねえよナァ?』
「ホセと同じ事言わないでくれないか。それに、知ってるだろ」
リチャードは、強い南米訛りのある英語を話す男が決して苛立っているわけではなく普段からこういう口調で絡んでくることを知っていた。
まさしく彼がディンゴその人である。
ホセの本社において直属の上司であり、リチャードとは古くから個人的な親交もある。しかし「お得意様」とディンゴは言っていたがリチャードは彼と仕事関連で話したことは一度も無い。せいぜい年に数回の呑みの席で彼の下世話な雑談を聞き流し、中南米の情報を仕入れる程度だった。
彼が言葉を紡ぐ隙間に早口なアナウンス、集団の足音、人々の喧噪が割って入りただでさえ聞き取りにくい彼の英語が更に遠のく。一体どこから掛けているのだろうか、職場でない事は明らかだ。駅のターミナルだろうか。
『今週中にもソッチに向かうからヨォ、何か必要なモンとかあったら言ってくれヤ』
「いいのか? それなら、もう少しでパルタガスが切れそうだから持ってきて欲しいんだ」
『は、ヒリポジャスめが。コッチは真面目なビジネスの話してンだよ』
パルタガスというのはリチャードの好む甘みの強い葉巻で、世界的に有名なコイーバと並ぶ比較的高価なキューバ原産の銘柄だ。トーニャスのような田舎町に拠点を構えていればまずお目にかかる事はないし、品薄になりやすいパルタガスの人気も相まって中々イタリアでは手に入らないのであった。
リチャードは仕事柄多くの言語に触れなければならないが、ホセやディンゴのお陰で辞書に載らないスペイン単語を数多く学ぶことが出来た。彼らは平常にて笑みを浮かべながら他の言語や文化ではあり得ない量の罵詈雑言を早口で捲し立ててくる。南米の民族全般ではなく彼らだけだと願いながら、貶しがコミュニケーションということも身をもって学んだ。皮肉を込めて、生きた言語のシャワーというのはこういうことを言うのだろう、と思った。
「冗談さ。ああ、書類だったな、特に必要ないぞ。契約金の確約と依頼者自身の実態さえ掴めれば。だからお前の場合問題ない」
リチャードの言葉を聞いて、電話向こうのディンゴは人を食ったように笑って言った。
『そりゃ良かっタ。生憎もう少しでお空の上なんでネ。今更何々が必要です、なンて言われても用意出来なかったからヨ』
妙に騒がしいところで電話をしていると思ったが、空港だったらしく合点がいった。
しかしどうにも事情の方は飲み込むことが出来なかった。互いの『仕事』については勿論心得ているが悪友に過ぎないディンゴがどうして今になって、しかも急にトーニャスを訪れるのか。通常の依頼ならばファックスなりメールなり、それこそ電話なりで済ませることが出来たはずだ。トーニャスに会社を建ててからというものの各国のクライアントから数多くの依頼をこなしてきたが、今回の件はどうも胸騒ぎがした。
リチャードは金色の柳眉を顰めてディンゴに尋ねる。
「——なあ一つ聞きたいんだが、今回の仕事というのはお前の【会社】がクライアントか? それともディンゴ、お前自身か?」
『ン、さあナ。着いてからのお楽しみってこったヨ』
それだけ言うと、電話は一方的に切られてしまった。
Ⅰ
- Re: What A Traitor!【第1章Ⅰ更新】 ( No.4 )
- 日時: 2019/01/26 17:33
- 名前: 日向 ◆N.Jt44gz7I (ID: on4ShBGJ)
- 参照: http://www.kakiko.info/upload_bbs3/index.php?mode=image&file=864.jpg
Ⅱ
プロトコルマナーに則った四回のノックの音で、ようやくリチャードは目を覚ました。
「ボス、お目覚めですか」
扉の向こうで耳慣れた男の声がした。リチャードは寝ぼけ眼を擦りながらベッドからのそりと起き上がり、重い足取りで木目が粗いドアの方へ向かう。
彼の自室は事務所の二階部分にあたる広めの一室と屋根裏部屋を改装した場所にあった。裏口から続く階段を上って廊下の突き当たりが彼の部屋だが、会社を作ってから誰も室内に招き入れたことは無い。内装は事務所と同じように白壁を基調とした二部屋の1LDだった。寝室にはキングサイズのベッド以外何も置いていない。
ダイニングキッチンは陽取りの大きな窓のある、しかしこぢんまりとした造りだった。
普段は専ら外食で済ませてしまうのだが、冷やして固めるだけのティラミス、言ってしまえばパスタを茹でて簡単に作れるソースを絡めるだけのカルボナーラ等は彼の得意料理らしい料理であるらしく、昼休憩中に従業員に振る舞うこともあった。
中央にはダイニングテーブルと二客の椅子。しかし向かいにある椅子に座る者はいない。いつもなら眠気覚ましにコーヒーを飲むのでコーヒーメーカーのコンセントは挿しっぱなしだ。
家具は全てイタリアのインテリアブランドのものを好んで置いた。壁紙が白なので、ベッドからクローゼットに至るまでを黒に統一している。これはイタリアンデザイン界の巨匠が手がけた、シャビーシックを謳ったスタンツァを参考にしたものだった。
彼の拘りで玄関そばのシャワールームとトイレは別にしてもらった。例の大工は居間の部屋面積が狭くなってしまうぞ、とまた口をへの字にしていたが、一般的なイタリア人男性と比べても大柄なリチャードには伸び伸びとシャワーを浴びられない方が問題だった。イタリアの水道水は殆どが硬水なので浴槽は必要ないし、おそらく他の家庭のバスルームも同じだろうから、そこは留意せずとも良かった。
ドアの材質は世界的にも銘木と名高いウォルナットだ。勿論リチャードが選んだ材質で、ウォルナットは高価なギター等の楽器のボディに用いられている材木であり、四度のかの打撃音はよく抜け、芸術的に彼の部屋に反響した。しかも木の性質として比重が高く硬い材質であり、亜鉛メッキ鋼板を心鉄としているため並大抵の装備でドアを破られる心配はほぼ無い。
四十路の男の部屋に果たして強固な扉が必要かどうかは議論の余地があるが。しかし彼の【職業】上どうも恨みを買うことが多く、扉を堅固なものにする必要があったのだ。
目覚まし時計や携帯のアラームなどを使ってはみたのだが、このノック無しでどうにも上手く起きられた例しがなかった。
ロックを解除し、チェーンを外し、ドアノブを回して、扉を押すとそこには見慣れた唇を引き結んだ男がいた。
「お早う御座います、ボス。さぞお眠りになられたでしょうね」
「——む。浩文起きてたぞ……」
彼の名前は胡 浩文(フー ハオウェン)といい、リチャードが営む会社の従業員である。
漢族系中国人である彼は、意志の強さを表す太い眉に、険のある光を湛えた瞳を持っていた。
34歳とリチャードより少し若いが彼が出張などで事務所を留守にするとき、あるいはリチャード抜きで社員らが外部に出向くときは、専ら浩文がリーダーシップを取り社員らをまとめてくれたものだった。
そんな彼の性格もあって、リチャードは彼を信頼し、このようについつい甘えてしまうところもあった。ホセとのやり取りでもそうだったが、毅然とした態度で部下と接する事の出来ない自分は人の上に立つ者として向いていないのだろうか、と時々考えることもある。しかしそんな時は決まって浩文が自身のサポートに回ってくれた。朝に弱いリチャードを起こしに来るというサービスは、浩文の業務の中に入っていないのだろうが。
「……信用なりませんね」
彼の几帳面でいて生真面目さを示すような、フレームレスの眼鏡越しの光はリチャードを射貫くようだった。艶やかな黒髪は短く整えられ、眉にかからない前髪は中央で分けられている。黒のスーツを一切の着崩し無く着込んでおり、まさに真面目勤勉なビジネスマンを体現したような男だった。
浩文はわざとらしく咳払いをしながら、自らの腕時計の文字盤を見遣る。リチャードは肩をすくめながら、玄関から見える所にあるダイニングの壁掛け時計を振り返ると、10時を過ぎたところだった。
そして浩文はフレームレスの眼鏡を人差し指で押し上げると、穏やかにリチャードに告げた。
「とりあえずは服を着て下さいませんか。お客様が下でお待ちです」
就寝時、リチャードは服を着て眠れない。
******
全ての準備を整えて、階下へ降りると妙な喧噪が耳を衝いた。南米訛りの強い英語、そして時折混ざる口汚いスペイン語のスラング。浩文の言う【お客様】は先日連絡を受けた、件の男であることは想像に難くなかった。
リチャードは少し事務所のドアを開けると、案の定ソファにふんぞり返る男が目に飛び込んできた。何を言われたのかは分からないが、ホセは眉を吊り上げたまま紅い顔をして、自らの上司であるはずの男の顔を睨んでいる。
「ディンゴ」
「——ン? アー、リッキー。わざわざ来てやったのに手前のお出迎えが無えとはナァ」
褐色の肌、無造作な漆黒の巻き毛、服の上からでも判るしなやかな筋肉を持つ肢体、そして左頬にある袈裟懸け状の大きな傷。
メキシコのアカプルコに拠点を構える巨大麻薬密売組織【アカプルコ・カルテル】の幹部ディンゴ、正にその人であった。
そしてリチャードの経営する会社【トーニャス商会】もまた裏社会に暗躍する犯罪組織の一つである。表向きは地元の猟師向けに弾薬や猟銃を扱う火薬卸売り業者としての顔を持っているが、その実態は金さえ払えばどのような仕事でも代行する闇の代行業者だった。
もともとホセは商会の人間ではなく、カルテルの構成員である。カルテルのとある部署直属の上司であるディンゴによって単身イタリアに飛ばされたのだった。
「よく来てくれたな、メキシコからここまで遠かっただろう」
リチャードはディンゴの対にあたるソファに深く腰を下ろした。浩文に目配せをして、応接室での商談の際、欠かせないブラックコーヒーを用意してもらう。
ディンゴは傍らに控えていたホセの首根っこを捉えて、残った方の手でホセの髪をがしがしと乱暴に撫でた。ホセも必死にディンゴの腕から逃れようと応戦するも圧倒的な体格差の前に、喚くしか策が無かった。残念なことにホセにはディンゴとも約30センチの身長差がある。
暴れるホセを意にも介さず、ディンゴは舌打ちを一つして、リチャードに光の無い三白眼を向けた。
「ペペちゃんから聞いちゃあいたが、本当にド田舎だナァ。ローマの空港から一体どれだけ車を走らせたか分かってンのか? 仕事終わりの娼館は無いしヨ、クソッタレ。オレは羊を犯す趣味は持ち合わせが無えンだ。——っとそんなに邪険にするなヨ、ペペちゃん。これでも一年ぶりに会えて嬉しいんだゼ?」
「ペペちゃん?」
「知らねえのカ、向こうでのホセの愛称だヨ」
「いやそれは分かるが」
「ピンガ!(くそ!) おいディンゴてめえ、その名前で呼ぶんじゃねえ!!」
ようやくディンゴの情熱的な再会の挨拶から解放されたホセは、彼の腕を振り払うと、乱れたヘアセットを直し始めた。ぶつくさ文句を言いながら、耳の横で鮮やかな赤を留めている黒のアメピンを六本全て外して、差し直す。これをもう片方でもう一度。
一方のディンゴは悪戯っぽい笑みを浮かべ、満足げに腕を組んだ。いつもはキーボードの押下音しか響かない事務所だったが、彼ら二人が揃うと全く別の空間に変わったようだった。
「ウチのホセはお前ンとこで上手くやってるカ?」
「ああ、よく働いてくれている。こちらでの仕事の覚えも早いしな」
「そりゃ良かっタ。もう少し熟れたらアカプルコに返してくれよナ」
「——チッ、気色悪いな。オレは極東の見世物パンダじゃねえんだぞ、クソ」
この眼前の男が一体何を依頼しようというのか。あれこれ考えを巡らせているうちに、浩文は恭しい動作で一杯のコーヒーをリチャードの前に置いた。
「ボス、コーヒーです」
「ありがとう、浩文」
浩文は軽く会釈して立ち上がると、背筋を伸ばしてリチャードの傍に控えた。
浩文の淹れたコーヒーを一口含むと、挽きたてのキリマンジャロコーヒーの香ばしい香りが鼻腔を通った。このコーヒーはタンザニア出身の女性社員が勧めてくれたものなのだが、彼女は現在有給をとってフランスへ旅行中だった。
リチャードは陶器のソーサーにカップを置くと、やはり未だホセとじゃれ合っているディンゴに言った。
「娼館は無くとも、美味いテキーラが呑める店は紹介してやるさ。……さてそろそろ商談を進めようか、ディンゴ」
「——ン? アー、そうだナ」
ディンゴはホセを構う為に斜め後ろに向けていた体を、正面に戻した。そして足下のメキシコから持参した黒のアタッシュケースを、二人を挟むガラステーブルに乱暴に置く。
ガツン、と派手に甲高い音がしたのでリチャードは机に傷が付いていないか表面を擦って確かめた。幸い傷は付かなかったが、リチャードは金に縁取られた群青の瞳の険を強めてそれを見咎めた。
「気を付けてくれ。テーブルが割れる」
「いちいち細けえヨ、リッキー。ジジくせえ事言うなっテ、オレ達まだ40だゼ?」
「お前は43じゃないか……」
リチャードへの返事の代わりに、ディンゴは唇を舐め、おもむろにアタッシュケースのロックを解除し始めた。通常二カ所しか施錠箇所の無いケースである筈だが、ディンゴの持参した代物はやけにロック箇所が多かった。
全てのロックを解除し終えたディンゴは一息つくと、入れ物の蓋を開けた。丁度蓋が邪魔でその中身は見えないが、ディンゴは目視で何かを数えている様子だった。時々唸ったりして頭を掻いたりしていたが、暫くすると、ちゃんと揃ってるなと彼の母語で呟いた。ディンゴはケースを180度回し、リチャードらにその中身が見えるようにする。
そこには思わず目を疑うような金額の米ドル紙幣が、その価値を収めておくには余りに小さな入れ物の中で鎮座していた。
「リッキー、前金10万ドルだ。【アカプルコ・カルテル】のソルジャーになれ。【アダムズ・ビル】に牙を突き立てろ」
今度は耳を疑った。
Ⅱ
- Re: What A Traitor!【第1章Ⅲ更新】 ( No.5 )
- 日時: 2019/01/26 17:42
- 名前: 日向 ◆N.Jt44gz7I (ID: on4ShBGJ)
- 参照: http://www.kakiko.info/upload_bbs3/index.php?mode=image&file=863.jpg
Ⅲ
「——カルテルのソルジャーになり、ビルに噛み付け、と?」
部屋の空気が一変したことは誰からも明らかだった。
リチャードが平常のバリトンより一層低い声で呟いたことで、凍て付き、それでいて肌を焦がすような緊張が生まれた。
浩文の覚えている範囲の中、交渉の際にここまで逼迫した状況に陥ることなどなかった。
色欲に溺れて狂人と化した一般人からの私刑代行依頼。下卑た笑みを浮かべる老人からの酒税逃れに依る密輸依頼。自身の過剰攻撃行動から、その仲間にも見捨てられたロマの民による移民排除を推す極右議員への脅迫依頼。経営が立ちゆかなくなった消費者金融会社による後払いでの強請依頼。反社会的勢力と癒着関係にある政治家から、極秘裏に請われた護衛依頼。
思いつく範囲で、どれもこれも一癖ある仕事や依頼人だった記憶があるが、我らがボスの手腕によるものなのか、契約段階で面倒事があった覚えは無かった。
しかし今回はどうだろう。【アカプルコ・カルテル】【アダムズ・ビル】共に裏社会にて知らぬ者はいない巨大組織である。浩文はディンゴの先ほどの発言に対し、言及された組織の大きさゆえ、確かに面食らったがそれ以上にリチャードの反応に驚いた。
リチャードは顔の前で指を組み、眉間に皺を寄せてディンゴを睨み付けている。リチャードがいつも嵌めている革手袋の擦れる音を最後に、全くの無音が事務所の空間を埋め尽くしていた。
対するディンゴもリチャードから目を逸らすことなく、ソファの背凭れに左腕を回した。
今しがた、部下とじゃれ合っていた軟派で陽気な中年の姿など何処にも見当たらない。彼の通り名はディンゴ、彼は裏社会にて畏敬と一種の嘲りをもってして【野犬】と呼ばれている。
——しばし張り詰めた沈黙が流れる、正に一触即発。
ホセも浩文も二人の間に満つ張り詰めた空気に圧倒され、ただ押し黙るしかなかった。
10秒か、1分か、それとも永遠か、時の濃縮された静寂を木製ドアの蝶番の軋む音が打ち破った。
「お早うございます、ボス。——あら、皆さんお揃いでしたのね」
彼女は、ドアノブを閉め切る最後まで丁寧に握り、翡翠色の瞳を細めて微笑んだ。
イスラム教徒女性の伝統衣装のアバヤに身を包んでおり、布の切れ目から覗く褐色の肌と澄んだ緑の瞳でしかその人を判別することは出来なかった。
しかしその声の主は確かに、商会員のファティマ=ムフタールだった。
ファティマは浩文やホセに会釈して、奥の方へ引っ込み、自分の為にコーヒーを淹れ始めた。調子外れの鼻歌が聞こえる。
しかし幾らか天然が入ったファティマの存在は、確実に場の雰囲気を和らげたのだった。
ディンゴは漆黒の闖入者をしばし目で追っていたが、ふと左の引き攣った口角を歪めた。
そして先ほどの殺気を孕む空気など無かったかのように、あっけらかんとして切り出した。
「は、そう怖い顔するンじゃねェヨ、折角の色男が台無しだゼ。——ン、まあ語弊があったナ。カルテル側で【アダムズ・ビル】との抗争に介入しろ、の方が正しイ」
ディンゴはソファに預けた左手をひらひらと振って、嘆息した。
眼前の男の意味する言葉をようやく理解した浩文は、長らくの緊張が解けたことと相まって思わず。
「抗争に介入……」
そう零してしまっていた。
各国から寄せられる一般人、堅気では無い輩などから数多くの依頼をこなしてきたが、確かに反社会勢力同士の抗争に介入したことは無い。
浩文は光の無い三白眼に射竦められていることに気が付いた。
「あ。す、すみません……」
「気にすンなヨ、四つ目の兄ちゃん。奴らはナ、遂に剣線(ソードライン)を越えちまったのサ」
ディンゴが肩に掛かる巻き毛を弄びながら答えると、彼の後ろに控えていたホセが眉間に皺を寄せた。
「あんだよ、ソードラインって」
今まで一人考え込むようにして、沈黙を保っていたリチャードが一つ咳払いをした。
シガーケースを開いて残り少なくなったパルタガスを取り出す。リチャードの仕草から察した浩文は彼の傍らに屈んで、以前より彼から託されていたデュポンライターで火を点けた。来客があるからとガラステーブルから捌けていたクリスタルの灰皿を持ってくるのも忘れてはならない。
少し暖まってきた空間だったが、デュポン特有の冷たく甲高い金属音が天井を衝いた。
「イギリス議会庶民本会議場の床に引かれた2本の赤線の事だ。発言者質問者は踏んでもいけない、越えるのは勿論御法度という暗黙の決まりがあるが——しかし、どういうことだ。それなりの説明責任を果たしてもらわないと、この依頼を受けることは無条件に出来ないぞ。ディンゴ」
リチャードはディンゴをひたと見据え、葉巻を歯と唇で軽く挟み、柔く噛み潰す。
相手からの返答を待つようにして、口腔内に溜めた紫煙をゆっくりと吐き出した。葉巻は紙巻き煙草よりも煙量が多い。視界が白く靄がかかる。
しかしディンゴはしばらく唸った後口をへの字にして、突如としてテーブルに手を付いて、リチャードに噛み付かんばかりに身を乗り出した。
「聞いてくれヨォ、リッキー! クソッタレ……先月はヘロイン畑がやられタ、その上今月の頭にゃ国境沿いのコカインときてやがンだ。——チッ、ビルの連中は尻にブッ飛ぶほどのジョロキアと鉛玉が欲しいようだナァ!?」
彼の豹変振りに呆気にとられたリチャードは、思わず葉巻を取り落としそうになった。
吠えたディンゴが乱暴に腰を下ろすと、ソファのスプリングが軋んだ。
「近年、ビルの連中の手で国境付近のオレたちのシマが荒らされ始めタ。ン、まあ中米でカルテルに向かって唾を吐く命知らずがいンのは、今に始まったことじゃねえけどナ」
ディンゴは黒のネクタイを緩め、腰ポケットから煙草のボックスと鈍色のライター、両方を掴み取る。
「いつものネオンカラーしたライターじゃないんだな」
「首領にもっと良いモン使えって怒られタ、変わンねえだろ、火点けば。つーかてめえ話逸らすんじゃねェヨ。——新参者に好きなようにやられちゃあカルテルの名折れってナ、首領は近々米墨国境の密林で戦争をヤる気満々なのサ。なにしろ【ミリオンダラーの大損害】ダ。10万ドルなんざ屁でも無え、勿論請けンだろ?」
ディンゴはそう吐き捨てて、犬歯で吸口を迎えた。
状況は飲み込めた、しかしボスは何と言うだろうか。浩文はリチャードの横顔を見つめた。
リチャードはパルタガスから零れようとする灰を、透明に輝く灰皿に落とした。
「商会は公平中立を売りにしている。どこかの組の傘下に入って戦争をする気はさらさら無い。だから、ディンゴ、お前の依頼を受けることは出来ない」
再び空気が凍て付くのが分かった。
ディンゴは唇を舐めて、目にかかった長い前髪をゆっくりとかき上げる。
「オイオイ、こんなド田舎まで来てそりゃねーだろうガ。手前はオーストリアが永世中立国ってえのは真に受けるクチか? 違うだろ。【色んなモン】と折り合い付けてンのさ」
「【アダムズ・ビル】と【アカプルコ・カルテル】どちらも俺たちの生きる業界でその名を知らぬ者はいない超巨大組織だ。これからの裏社会を揺るがす戦争に我々商会が入り込む余地は無い。カルテルに肩入れして、今後の契約に差し支えるのは御免被る」
リチャードがそう突き放すと、ディンゴは俯いて肩を震わせた。
彼は笑いだした。
堪えきれずに時折吹き出し、傷跡の目立つ手で顔を覆う。仕舞いには仰け反って大笑いしだした。
異様な彼の振るまいにホセも、浩文も言葉を失った。事務所の奥でコーヒーを飲んでいたファティマも心配そうに此方を見つめる。
ディンゴはしばらく馬鹿笑いした後、ぴたりと天を仰いだまま静止した。
そうして、この場にいた誰もに耳慣れない言葉で何かを呟いてから、リチャードを見下ろすように告げた。
「てんで面白くも無え話だなァ……笑わせんなヨ——【アダムズ・ビル】のパーパの首に一等ピスを引っ掛けてえのはお前だろうが、リッキー?」
Ⅲ
- Re: What A Traitor!【第1章Ⅳ更新】 ( No.6 )
- 日時: 2018/03/08 13:50
- 名前: 日向 ◆N.Jt44gz7I (ID: Ueli3f5k)
- 参照: http://www.kakiko.info/upload_bbs3/index.php?mode=image&file=866.jpg
Ⅳ
トーニャスの夜は早い。
日の入りと共にこの町は眠りにつく。羊飼いは子飼いの群れを小屋に押し込め、農夫は農具をそのままに、出稼ぎに出ていた者は一直線に帰路を辿る。
山から吹くおろし風に、足りない袖で手の甲を隠し、前屈みに歩みを進める人々。
都会のように深夜でもブルーライトの染み出る高層ビルが無ければ、けばけばしく輝くネオンサインなどこの村には無い。極めつけに少し郊外に出れば、街灯すら無いような田舎町だ。
あるのは澄み渡る冷気、綺羅燦然たる満天と、山向こうから遠鳴りする獣の声だけである。
しかし、煉瓦造りの奥深くのまた奥深く、この町唯一の酒場は宵っ張りだった。
看板など出ていないし、一見すると穀物庫と見紛うほどの飾り気の無さで、人の気配も感じられない。しかし酩酊をもたらす蜜の香りに、どうしても人は惹かれるもので、景気は上々らしい。その内情はというと、マスターたった一人で店を切り盛りしているようだ。年若い男店主ではあるが、作る酒の美味さや接客に定評がある。
今夜、知る人ぞ知る隠れ家【BAR:F】は二人の男によって貸し切られていた。
「ククク……リッキー、まさかあーンな安い挑発に乗ってくれるとはナァ?」
褐色の無骨な指がショットグラスを揺らした。
ライムを摘まむ力を込めすぎて果汁が滴るのも気にせず、犬歯で果肉を迎える。
案の定、噛み潰した酸味が彼の引き攣った左頬を濡らした。
「お前の口車に乗せられたわけじゃないさ。単に10万ドルを溝に捨てるのは惜しいと思っただけだ。最近はどうもしょっぱい仕事続きでな……この前は経費込み4万ドルで古美術贋作20点の運搬だった。梱包代にすらならないだろ」
語尾に棘を残して、ワイングラスを傾けた。
グラスに注がれているのは【チェラスオーロ・ディ・ビットリア】と呼ばれる、彼の故郷であるシチリア島でしか造られないワインである。
彼はタンニンは控えめだが果実感のあるこの銘柄を好んで嗜み、シチリアビーチを吹き抜けるような華やかな香りを楽しんだ。
間接照明の暖色灯がグラスを通って屈折し、葡萄酒が揺らめく度に、漣が海底に落とすような陰影を描く。
「ナァおい、リッカルド」
「その名前で呼ばないでくれるか」
カウンターテーブルに備え付けられた椅子一つ開けで並んで座った彼らは、互いに目も合わさずに言葉を交わした。
リッカルド——彼は、久々耳に飛び込んできた音に眉を顰めずにはいられなかった。
この男にいつ零してしまっていたのだろうか、と少し鈍った脳内を一通り探ったが全く記憶に無い。何しろいつも先に悪酔いするのは自分ではなく、この連れの男だったからだ。勿論吐かされた記憶も無い。
一つ飛ばし隣に座る連れの男、ディンゴはテキーラのショットグラスを一気に煽った。
「商会のヤツらは知ってンのか——オメーがビル出身てえのをヨ」
暫し静寂が訪れる。
しかし昼の刺すような沈黙では無かった。互いに引き金に指は掛けておらず、白鞘は収めたまま握っていない。
バーカウンター向こう、仕切りで見えないアイスペールが甲高い音を立てた。
「何だ急に。——誰にも言っていない。伝えるべき理由がどこにも無い」
リチャードは肩にかかった金髪を払って、背に流す。
過去に【アダムズ・ビル】の構成員だったこと、それをファミーリャの商会員全員に秘匿していること。それは事実だった。
【トーニャス商会】の中で互いの過去を詮索するのは暗黙の相互理解の元、禁則である。しかしリチャードは雇用に至る過程で、大まかには全員の経歴を把握している。一応の立場上と、禁則から、自らの過去を尋ねられることなどまずあり得ないが、小狡く言わないつもりではいた。否、ビルにいたことぐらいは吐くだろう。しかしそれ以上は。
ディンゴはただ低く鼻を鳴らして、グラスの縁の岩塩を指ですくい取って舐めた。
しばし空のグラスをぼうっと見つめていると、店主が店の奥から戻ってきた。
「ボス、ディンゴ様、申し訳ありません。セラーの手入れをしておりましたら……グラスが空ですね、何かお作り致しましょうか?」
【BAR:F】のマスター、エフスティグネイ=アハトワ。彼は中華系ロシア人である、ファーストネームが少々長いので、常連客には親しみを込めて、エフと呼ばれている。
エフは糸目を更に細めて、蠱惑的に口角を上げた。
薄暗い店内では分からないが、照明に照らされると薄く緑色に染めた髪の毛がよく映えた。黒く塗られたネイルが艶やかに光っている。エフ自身取り立てて美形というわけでも無かったが、中性的な顔立ち、品を感じる所作や、心得たその言葉遣い全てがバーの空気を妖しく彩り、ひたすら気分を酔わせた。
ディンゴは腕まくりした袖から伸びる両腕に視線をよこした。何故なら、エフの浮かべる柔和な表情には、およそ似合わない豪快なトライバルタトゥーが彫り込まれていたからだ。
そして汗ばむ上腕部にもうっすらと蛇のような、稲光のような、漆黒の紋様が浮かび上がっていることに気付いた。
「アンタも堅気の人間じゃねーのカ」
ディンゴの無粋な質問にも、エフは微笑んで答えた。
「ふふ、ご名答です。以前はモスクワのチェルタノヴォにいました。一般のお客様がいらっしゃる時はきちんとカフスボタンまで留めるのですが、作業中どうも暑くなってしまって……お気に障りましたか」
ディンゴはエフが言い終わらないうちにカウンターに突っ伏して、軽く手を振った。
「いンや、珍しくもねーヨ。それよりもテキーラの追加ダ」
リチャードは倒れ込むディンゴを横目に、エフに目配せをした。
「エフ、彼にあれを出してくれ」
「はい、ボス。ディンゴ様少々お時間頂きます」
エフは首肯すると、再び店舗の奥に引っ込んでいってしまった。
アレって何だヨ、とごねるディンゴにリチャードは目もくれず、煌めく数々のボトルを眺めていた。このバーにはキープしたボトルが何本もあるが、来店するそのたびに新しいイタリアンワインが入ったのだと聞くと、どうにも堪えきれずに、試飲と銘打って、気付けば何本も自分のものにしてしまっている。
想像よりも早くカウンターに戻ってきたエフは、白いラベルの貼られたテキーラの透明な瓶を手にしていた。
その瓶を訝しげに見つめていたディンゴだったが、二度ゆっくり瞬きをすると、カウンターに両手をついて勢いよく起き上がった。
「カスカウィンのタテマドテキーラじゃねーカ!? どうしてこんなド田舎にあるンだ……?」
「ふふ、全世界に約850本しか無いと言われている希少なテキーラでしたね。詳しくはお伝えしかねますが様々なツテを辿って入手致しまして……今お開けしますね。ディンゴ様、チェイサーはどうなさいますか?」
「ア? そんなモンいらねーヨ」
伝統製法であるタテマド製法で作られるテキーラを造る蒸留所は、テキーラの本場メキシコでも一件しか存在しない。
その上日々造られ、熟成を経た後に店頭に並ぶテキーラとは異なり、決められた日にしか釜が開かないのもその希少性を高めている大きな要因である。
待ちきれずに語気を荒げるディンゴを、リチャードは嘆息しながら見咎めた。
確かにディンゴの肝臓は鋼鉄で出来ているかのようで、悪酔いはするものの、彼の二日酔いに悩む姿は見たことが無かった。
しかし養生するに越したことは無い。
「もう俺達も若くないんだぞ……エフ、彼にはコロナビールを頼む。——そういえば今日メアリーは来ていないんだな」
「何しろ平日ですので。まだまだお酒の飲めるお年になられたばかりなので、自重して頂きませんと。流石に毎日いらっしゃるようなら、カルアミルクではなくヤギミルクをお出ししなくてはなりませんね」
メアリーとは、よくこの酒場で出会う女性だった。
女性といっても、未だ化粧の仕上がりや顔立ちは幼く、聞くところによると大学生ということだった。
とにかく情熱的な女性で、その容姿といい一度会ったら忘れることが出来ないのだが、平日の今夜はいないようだ。
「アー美味え! この燻製感がアニェホとも違うナ」
ディンゴは一気に空けたショットグラスをカウンターに叩き付けた。
エフは眉一つ動かさず微笑みを湛えたまま、ディンゴが乱暴に置いたグラスをそっと回収し、ライムと塩を縁に添えた新しいグラスを置いた。
「申し訳ありません、まだお伺いしていませんでしたね。ボスは何になさいますか?」
リチャードは暫く考え込むような仕草を見せた。
衝動的にスピリタスのストレートを、とも言いたくなったが、もはや悪乗りをするような歳でもない。
「ん、ああ……それなら『フレンチコネクション』を頂こうかな」
「はい、畏まりました」
「あンだよ、当てつけカ?」
『フレンチコネクション』というドリンクは、1971年制作された映画が元に創作されたカクテルとされている。
果実感のあるまろやかなブランデーと、イタリアを代表するリキュールであるアマレットから主に作られ、リチャードは『フレンチコネクション』の甘いが硬派な口当たりに癖になった。
映画の大まかな内容としては、ニューヨーク市警の刑事がフランスの麻薬密輸犯罪を追うという物語なのだが、そのことは完全に失念していた、成る程ディンゴが噛み付くのも分かる。
「はは、違うさ。お前まさかもう酔ったのか」
エフはミキシンググラスに氷を入れ、それから水を八分目まで入れてかき混ぜた。こうすると氷が溶けにくい球状になり、ミキシンググラス自体も冷え、美味しく作ることが出来るのだとエフは言っていた。
冷却用の水を捨てる際に付属のストレーナーと呼ばれる蓋で氷が出て行かないようにしてから、グラスを傾ける。
そして、あらかじめ氷で冷やしておいたロックグラスの中身を捨て、飲み口を拭き取った。
エフにとっては何気ない一連の動作が、リチャードにはどうしようもなく美しく感ぜられた。
彼との出会いもまた血腥いものだったな、とアマレットの香りに思いを馳せずにはいられない。
「ンな訳ねえだろ。——リッキー、ペペちゃんの事だけどヨ」
彼の言うペペがホセの事だと結びつけるのにはどうも時間がかかった。
「何だ」
ディンゴはコロナビールに少し口を付けて、何かを考えるように三白眼を右上へ泳がせた。
それから頭をがしがしと掻いて、少々灼けた声で唸る。
再びビールに口を付けると、一気に半分まで飲み干した。
「やっぱアイツはメキシコに連れて行けねーワ」
カクテルは疾うに完成していたが、混ざりあった液体は互いの香りを打ち消し合うように、その香りを霧散させていた。
Ⅳ
- Re: What A Traitor!【第1章Ⅴ更新】 ( No.7 )
- 日時: 2018/06/30 13:14
- 名前: 日向 ◆N.Jt44gz7I (ID: XCi1wD91)
- 参照: http://www.kakiko.info/upload_bbs3/index.php?mode=image&file=867.jpg
Ⅴ
「ンで——結局請けてくれるっつーコトだったンだよナ」
「ああ、間違いない」
昨晩、戯れに数えただけでもテキーラのショットを20杯飲んでいた筈だったが、ディンゴは二日酔いで参っている素振りなど全く見せなかった。
常人ならば泥酔又は昏睡してもおかしくない純摂取量である。
リチャード自身は極端にアルコールに強いわけではない。翌朝に響かない程度に、自らはセーブしつつ嗜んでいる為『フレンチコネクション』から『ゴッドファーザー』を頼んだのみだった。
そして今朝はメキシコに向けて出発する為に改めて、事務所に集っていた。
商会の荒事専門の【執行部】即ち、戦闘員らには昨晩、詳細の一切合切を既に連絡している。
ディンゴはソファに深く体を預け、リチャードと壁際に控えていたファティマの顔を交互に見比べて、一つ欠伸をした。
「そしたらエート……ミス・ムスリム、ちょっと金勘定してくれヤ」
「——彼女の名前はファティマだ。経理担当じゃない、お前と共にメキシコに渡る」
「は、マジでぇ……?」
「ふふっ、本当ですわ」
ファティマは澄んだ翡翠色の瞳を悪戯っぽく細めて、アバヤに覆われた口元に手を遣った。
愉快そうに肩を震わせて鈴のように笑う。
ディンゴには、ファティマからまるでその筋の者が纏う筈の殺気、悪意、血の匂い、硝煙、それらが何一つ感じられなかった。
それらは簡単に消せるものでは無い、少なくとも彼の野犬たる嗅覚をもってして【それ】を感じ取ることのできない者はいなかった。
やたら腰の低い中国産の眼鏡、遙か昔に前線から退いた筈のイタリア人からも【それ】は例外無く、ドス黒く漏れ出ている。
一点の曇りも無い翡翠のみを晒している、敬虔なイスラーム教徒の女が人を殺す事が出来るとは、俄には信じ難かった。
「総務は他にいる、今は帰郷しているがな。経費別でカルテルがもってくれるんだろう? また追って連絡してくれれば、こちらで見積もっておくさ」
トーニャス商会には【執行部】の他に【医療部】と【情報部】が存在する。
執行部はホセ、浩文、ファティマの三人が在籍しているが、その他の部署には一人ずつの在籍だった。
医療部にはリチャードよりも歳上のタンザニア人女性のアマンダ=サベレレ=バヨダ、情報部には同じく中年のインド人男性のシン=ナンビアーがそれぞれ受け持ってくれている。
医療部は文字通り商会員の健康管理や治療が主な業務なのだが、率直に言って激務である。
裏社会の人間は容易く公的な医療機関にかかることは出来ない。身分証明の必要性、個人情報及びカルテが残ることに依る特定、保険が効かない事による高額な医療費請求など、裏稼業で生計を立てていくことに於いて高い障壁が存在する。
医療行為の出来るアマンダあってこそのトーニャス商会だ、とリチャードはいつも言っていた。戦闘の避けられない依頼が入ると、アマンダは憎まれ口を聞かせながら、露骨に嫌な顔をしたものだった。
アマンダは今年で47歳になる。三人の戦闘員を仕事の都度に捌く苦労は計り知れないだろう。だからこそ、仕事の落ち着いた今の時期に半ば無理矢理有給をアマンダに押し付けた。頑固な彼女のことだったから、なかなか素直に受け取ってくれなかったが、今頃はフランス観光を楽しんでくれているだろう。
情報部は経理及び総務も兼ねている部署であり、ここも医療部に負けず劣らず激務に追われる部署だった。
主な業務としては決算経理、ビッグデータ処理、顧客情報の管理、さらにはパスポートの偽造等も行っている。シンは普段は口数の少なく怠惰な人間であったが、デュアルデスクトップの前では饒舌だった。
彼は、自作のマシンに足りないパーツを買い足しに行くのだと、今やIT大国に成長発展した母国へと帰郷している。
トーニャス商会運営には欠かせない二人がトーニャスを離れて1週間と少しになる。しかし、そろそろ帰ってくる頃だろう。
「ン、そんじゃ頼むワ。作戦はまたカルテルの戦闘部隊と合流した時に伝えっカラ、そのつもりでナ」
ディンゴがソファから立ち上がろうとした瞬間、ホセが口を開いた。
「ディンゴ、国境付近で戦争っつったけど本部のアカプルコには行かねえの? オレ、一回本部に寄りたいっつーか——」
ディンゴはホセの言葉が紡ぎ終わる前に、告げた。
「アー、そのコトだけどヨォ。ペペちゃん、オメーはお留守番だ」
俯き、漆黒の巻き毛が遮って、表情は読めない。
「——は?」
ホセは平常大きな目を、更に見開いた。
濃い隈は皮膚の伸張と共に薄れ、小さな瞳孔が揺れる。
「ディンゴと話し合って決めた。ホセ、お前は俺と共にイタリア残留だ」
リチャードが突如生まれた緊張に低く割って入った。
ホセにはリチャードの言葉など全く耳に入らなかった。己が生きる場所と同じ色をした、耳朶の装飾が内耳への侵入を拒んだ。
ホセは暫くぽかんと口を開け、どうしても二の句を継ぐことが出来ずに、しゃがれて乾いた声を喉奥から絞るのみだった。
数回瞬きをして、眉が痙攣する。事態をようやく把握してくれた体は、筋を立てて拳を握りしめる仕草をした。人差指と中指の黒いしがらみが、刹那鈍く光る。
己に仇なす全てを食い千切る筈の牙は、奥歯から軋んで、今にも刃毀れしそうだった。
「い、いや——有り得ないだろ? オイどういうことだよ……説明しろよディンゴ!!」
「ホセ」
ホセはディンゴに噛み付くように詰め寄った。
ディンゴは無感情な三白眼で、彼を見下ろしたまま応えない。
「こんなクソ田舎まで来て助太刀頼むってさ、実は相当やべーんだろ!? オレがメキシコにいた時も小競り合いはあったよな……? でも応援頼むって無かったじゃねーか! あんだよ……畜生……残れって何なんだよ!!」
ホセは犬歯を剥き出して、己の感情を露わにした。
ショートブーツの踵で床を鳴らし、威嚇。自分の上司が腰を落ち着けていたソファの脚を蹴る、安くない感触と僅かな反発。攻撃を加えられた無機物にはくっきりとした足跡が残る。文字通り尊厳を踏みにじる大きな痕には、自身見覚えがあった。
ようやく届いた高かったんだこれ、と自分を異国を縛り付ける男が、数週間前言っていたことが脳裏を掠める。
しかしそうするしか、今しがた宣告された意味を理解することも、噛み砕いて嚥下することもままなかった。
横暴に対していとも容易く傷を許した価値ある無機物を見て、更にホセは収まらなかった。
「てめーだけぬくぬくド田舎で生き存えてカルテルを裏切れってえのか!? ふざけてんじゃねーぞ! オレは商会の人間なんかじゃねえ!! 【アカプルコ・カルテル】のファミリアだッ!!」
虚空を咬んだ後、冷たい汗が左頬を伝ったのを知覚した。
ほんの少し頭が冷えて、壁際にいる商会員の顔あたりに視線をなで付けると、二人とも痛そうな顔をしていた。
盗みにしくじって路地裏で袋叩きに遭ったとき、謂われの無い冤罪で知らない大人に殴られたとき、舌を噛みながら錆びた針で体に穴を穿ったとき。
そんなことの後、決まって自分が晒していた情けない顔になんだかよく似ていた。
しかし己の前に立ちはだかる狂犬は非情で。
いつかと同じ目で強制した。
「Jose,esta una orden.Te quedas aqui.(ホセ、命令だ。ここに残れ)」
狂犬は、自分が一生を掛けて砥いだ牙を根元から噛み砕いて、その破片を吐き出した。
あの日と同じ、肥溜めの方がマシなストリートで初めて遭ったあの日とそっくり同じように、己の非力さと服従心を奥深く植え付けられる。
目が合わせられない。顔を上げられない。汗が溢れてくる。奥歯がかち合わない。手が震える。足が竦む。膝が笑う。地面が崩れる。
なあ、どうしてなんだよ。
「ッ——! Cabran!!(くそったれ!!)」
気が付けば、訳も分からず木製のドアを蹴っ飛ばしていた。
******
浩文が気が付いた時には、もうホセは事務所の中にいなかった。
しかし足形の泥が付いたソファを見ると、まだ彼の憤慨による熱気が部屋の中にこもっているような気がする。平生よりいつ火が点くか分からず、ホセを扱いあぐねていた浩文だったが、あれほどまで感情を剥き出しにした彼を目にしたのは初めてだった。
浩文の隣に控えていたファティマは、目の端にうっすら涙を浮かべて、ただ狼狽えていた。
一瞬彼女と目が合い、その濡れた翡翠に心臓を鷲掴みされたような感覚に陥った。しかしどうにも居たたまれず、視線を逸らすしか術がない。
ファティマと浩文は昨晩リチャードから連絡をもらって、ホセはメキシコに渡らないことを知った。
浩文は、どうして彼らがそのような判断を下したのか考えても詮無い事だと理解している、しかし。
「ボス……」
「大丈夫だ。すぐに戻ってくるさ」
リチャードは眉尻を下げて柔らかく、二人に笑いかけた。
確かにトーニャスに行く宛てなど無かったが、どうにも野暮ったい感情が浩文の胸を占めていた。
ディンゴは手を組んで、上に伸びをして、こちらに向き直る。
先ほど覆っていた黒い重圧は疾うに霧散しており、彼はいつもの軽薄さを湛えた笑みを浮かべた。今ばかりはどこで負ったのかも分からない、左頬の大きな傷痕がただただ目立つ。
そんなディンゴに浩文は戦慄を憶えずにはいられなかった。
「ミラノからリスボンまで飛ンだ後は、船でメキシコまで渡ル。報告連絡相談は大事デスってこったナ、昨日のテキーラが盃ダ」
ディンゴは犬歯を見せて、ゆるく手を振った。
そうしてリチャードに正対する。
「また会おうヤ、リッキー。ペペちゃんのコト頼んだゼ」
それはトーニャスに来て彼が初めて見せた寂寥の顔だった。
ホセの言っていた事はきっと、どれもこれも本当のことなのだろう。
数多の穢れた命の上にあぐらを掻き、棺桶に片足を突っ込んだまま、残飯をかっ喰らう自分たちに、生への執着など今更無い。
浩文とファティマはとても静かで、赤暗い深海へと続く水面を凪ぐだけの、しかし血塗られた戦乱の予感を感じ取った。
リチャードはディンゴをひたと見据えて首肯する。
「ああ。——浩文、ファティマ。【トーニャス商会】の名にかけて必ず依頼の遂行を」
「それと……俺からも命令だ。生きて帰ってこい」
【生きろ】とは何と強い言葉だろうか。
誰からも生を願われた事の無い者にとって、それは麻薬とも知覚為うる拘束具だった。
世間は彼を絶対悪と定め、排除しようとするだろう。
しかし浩文にとってリチャードは、腐りかけた心身を持つ自分を人間たらしめ、肯定してくれた人だった。それは同じ杭を心臓に打ち込まれたファティマも同じだろう。
応は導かれるまでも無い。
「イエス、ボス」
こう応えると、決まって彼は不敵に口角を上げた。
自分たちも彼をボスたらしめるだけの、一つの機構なのかもしれない。だがそんな事はどうでもよかった、実に些末なことだ。【生きろ】を撃ち込まれた、彼の弾丸になる理由に、その事実は十分過ぎた。
ディンゴは前髪を乱雑に掻き上げて、唇を舐める。
「挨拶は済んだカ? ——アー……忘れるところだっタ、おらよ餞別だ、リッキー」
ガラステーブルに衝撃が走る。
「おっと——ん、何だ?」
ディンゴが残していったのは、いつしか強請ったパルタガスのボックスだった。
Ⅴ
- Re: What A Traitor!【第1章Ⅵ更新】 ( No.8 )
- 日時: 2018/06/30 13:16
- 名前: 日向 ◆N.Jt44gz7I (ID: XCi1wD91)
- 参照: http://www.kakiko.info/upload_bbs3/index.php?mode=image&file=891.png
Ⅵ
昨日の一件から、表の店や事務所を尋ねるものなどおらずリチャードは事務所の中で一人、コーヒーを胃へ流し込んでいた。
ホセは飛び出したまま未だ帰ってこない、しかし特段探すようなこともしなかった。腹が空けばすぐにでも戻ってくるだろう、と楽観している。
自分にもあんな時期はあった、もう遠い昔の事ではあるが。
【トーニャス商会】は表向きはトーニャス火薬として名乗り、弾薬や猟銃などの火薬類を卸売りする他、事務所と防音扉で繋がる店頭でも、量は少ないがその類いの品を取り扱っている。
一週間に一度、月曜日だけ表の店を開け、客を待つ。
店舗の内装は、この町馴染みの煉瓦造りをわざと残して、ほどほどに古く、性能を控えめな銃を店頭に並べるようにわざと気を遣った。
そして店を尋ねてくるのは、若い頃イノシシを捕っていたというハンチング帽のよく似合う陽気な老父や、無愛想でいかにも山男然とした猟師だった。しかし店を訪れるそもそもの人数が少なく、客が来さえすれば、ああ今週は客が来た週だったなという認識でしかない。
大抵、店先に出て接客をするのはリチャードだった。
田舎町には眩しすぎる毛色をしたやんちゃな子犬、全身黒ずくめのイスラーム教徒、白衣の黒人、コミュニケーション能力が今ひとつなインド人、など他の商会員では目立ってしまうという理由もあったが、リチャードはただこの長閑な村に住む人々との交流が好きだった。
ただどうしても社長である自らが仕事を詰めなければならない時は、上記に当てはまらない浩文が店に出ることもあったが、それでも無理を言って店頭に立つことが殆どだった。
イノシシに畑を荒らされた事、一頭のヒツジが臨月を迎えた事、隣町はもう少し栄えているのにトーニャスときたら、など村人と何気ない言葉を交わすことで、過ぎゆく戦乱の日々を、一時的に忘れられる。
リチャード自身、【彼】と【とある邂逅】を果たすまではごく普通な一般家庭の生まれに相応しい、陽に当たる世界を歩いていた。
血濡れた硝煙香る下界に堕とされて尚、陽光を欲するか。
ひどく皮肉っぽい感傷に襲われ、彼の手には少々小さいカップのコーヒーを一気に煽った。
その時、数人の気配を感じた。
事務所は防音壁が守る要塞となっているが、ドアだけは彼の好みでウォルナットを用いているので、ドアの取っ手を握る気配と長年培った嗅覚が、何人かの訪問を報せる。戦闘員が誰一人居ない今、事務所襲撃を受けてしまえばひとたまりもないが、幸い敵意を孕んだ緊張は感じられない。
リチャードの第六感は当たりを引いた。
扉が蝶番を軋ませ、よく知る顔を見せる。
「おかえり」
リチャードは破顔させ、彼らを出迎えた。
白衣でなく見慣れない私服を着たアマンダ=サベレレ=バヨダ、相変わらずスフィガータな格好をしたシン=ナンビアー。
アマンダはグレーのトレンチコートを羽織り、そこから健康的に筋肉がほどよく付いた脚がすらりと伸びている。豊かな縮毛で頭頂部にシニヨンを作って、深紅のバンダナで前髪を留めている。赤いハイヒールの踵で事務所のドアマットを突くと、揃いの色でまとめたピアスが揺れた。黒人である彼女の肌にアクセントとなる赤の小物遣いと、グレーのコートを主とする全体の無彩色が中心のカラーバランスが良く映えた。
シンはというと対照的に、深い緑色に黒のチェックが入ったネルソンシャツを、今にもすり切れそうでウオッシュの効き過ぎた安物のシーンズに押し込んでいる。
アーリア系インド人であるシンは、決して女性に見向きもされないような素材を持っている訳では無かったが、人と会う時の身だしなみについてはとかく無頓着だった。
髪も無造作に跳ねたままで、帰省先で一切手入れをしていなかったのか、無精髭も伸び放題である。
彼ももう38歳になる。最低限身なりを整えないと浮浪者に間違われても致し方ない。今日の彼のファッションコーデも、旅に出る直前着ていたものとほぼ同じでは無かろうか。
もう少し服装に気を付けたらどうか、とシンに言ってみるも風に向かって説教をするようで、全く張りの無い生返事をよこしてきた彼は、リチャードの記憶に新しかった。
「アマンダ、シン、久し振りだな。それと——」
そして彼らに挟まれるようにして、俯いて顔を見せようとしない例の子犬、ホセがいたのは意外だった。
アマンダが三人の中で一等早く口を開き、大方を説明する。
「ボスはお変わりないようで。シンとは空港で出会ってね、まあ何ならってことで一緒にバスで帰ってきたのさ。そんで——コイツはバス停の前でくたばってるとこを見つけたんだよ。何してんだいアンタ、まったく」
アマンダはホセの顔を覗き込むようにして、険のある眉を八の字に曲げる。アマンダもまたホセより身長があった。
ホセはほんの少し斜角に顔を上げ、女性であるからなのか、直接触れるまではいかないものの鬱陶しげに、黒いリングが光るその拳で虚空を緩く殴りつける。
リチャードは一瞬だけ隙を見せたホセを見逃さなかった。
乱暴に擦ったのか瞳は真っ赤に充血し、平生より濃かった隈はより一層濃くなっていた。涙の跡もうっすら残っている。
折り合いの付けられない事があれば涙を流す、妙な既視感がリチャードの胸を衝いた。
普段は虚勢と小さな牙を剥き出し他者を吠え立てるホセは、未だ大人になりきれない子供なのだと、彼の様子を見て、リチャードは眉尻を下げずにいられなかった。
「うっせえよ……クソババア」
応も、いつもの威勢の良い小型犬の吠え声ではなく、洟が詰まって消え入りそうな涙声だった。
アマンダはホセが悪態吐くのを意に介する様子も見せず、肩をすくめながら事務所の奥へと歩みを進め、デスクの上に荷物を置いた。
アマンダにホセと共に取り残されたシンは、再び俯いてシャツの袖で強く目をこする隣の小型犬と微笑むリチャードを交互に見て、あからさまに狼狽しつつ言った。
「えっ、あっ、ねえボス、ボクのマシンは大丈夫かな——あっ痛い!? すぐそうやって殴らないでくれよ……」
ホセは顔を上げないまま、シンの脇腹にゆるく拳を入れた。突如受けた理不尽な攻撃にシンが大袈裟に痛がってみせると、ホセは彼を殴りつけた方の手で再び目を擦った。
商会内ではいつもこうだった事を思い出す。
戦闘員の中では一人浮きがちだったホセは、大人しいシンに対し事あるごとに絡んでいた。
彼にとっての故郷は勿論メキシコのアカプルコで、忠誠を示すべき飼い主及び、彼を守る家族は【アカプルコ・カルテル】だ。
果たして商会は取り残された彼の第二の【ファミーリャ】になり得るだろうか。
リチャードは頬杖を付いて、シンとホセの動向を目を細めて見守った。
「うるせえ……見んな。てめえいちいちカレー臭えんだよ」
「え、えっ?」
ホセはそう吐き捨てると、わざと足音を大きく立ててリチャードと遠く離れたデスクチェアに、腰を落ち着けた。
またも取り残されたシンはシャツの袖を交互に嗅ぎ、動揺の色が籠もった瞳でリチャードを見つめる。
「はは、そんなことないぞ、シン。」
リチャードはソファから立ち上がり、シンの肩を抱いて事務所内に招き入れた。
奥の給湯室で、リチャードの飲んでいたのと同じタンザニア産のコーヒーを淹れているアマンダにも聞こえるようにリチャードは声を張る。
「二人とも今日はゆっくり休んで、また時間のある時に土産話でも聞かせてくれ」
大きな溜息を吐いて、アマンダは零した。
「はあ。いつ時間があるか、たまったもんじゃないねえ」
リチャードは苦笑して、そう言ってくれるなよと付け足した。
ディンゴがほんの二日前にトーニャスを訪問し、仕事の話を急に詰めなくてはならなかった為、シンとアマンダには【執行部】の二人がメキシコに発ったこと以外は伝えられていない。しかし聡明な彼女はホセ以外の戦闘員がいないことで、また荒仕事が舞い込んだことを悟ったのだろう。
着色された毛先と同じ色の目をしたホセを村はずれのバス停で見つけたときに、今回は七面倒な一筋縄でいかない仕事なのだろうという事も感じたのかもしれない。
シンを迎え入れてソファの席を譲ったついでに、リチャードはホセの座るチェアへと歩みを進めた。
未だ洟をすすってべそっかきの残滓を漂わす彼を刺激しないように、努めて優しい声で声を掛ける。
チェアの上に土足のまま三角座りをしている彼と、目の高さを合わせるように屈む。
「おかえりホセ。帰ってきたところ早々で悪いんだが、俺と一緒にナポリに——今週末の連絡会に付き添ってくれないか」
リチャードの思わぬ申し出に不安と焦燥を湛えて濡れる瞳が、今日初めて彼を捉えた。
******
当初の予定通りディンゴ、浩文とファティマの三人は、トーニャスからカルテルの運転手付きの車に乗り込み、まずはイタリアのミラノ空港を目指す事となった。
車内は同じようなガタイを持つ普通車よりも狭かったが、それでも運転手を含めて四人で乗るには余裕があった。
ファティマが助手席に座り、ディンゴと浩文が後部座席に座る、という何とも奇妙な絵面が三時間ほど続いたのは致し方ないことだった。
基本的に身分の高い要人は運転手の後ろに乗せるのがマナーとされている。
そして【アダムズ・ビル】だけではない、カルテルに仇なす組織のスナイパーから、ディンゴが狙われる事への対処という点でも後部座席に乗らなければならないといった理由からだった。
ディンゴはいつものおちゃらけた調子で、くつろいでくれなどとのたまっていたが、浩文はとてもそんな気分にはなれず、車内では呼吸すら躊躇うほどだった。
そんな浩文を知ってか知らずかディンゴは煙草を取り出し、頻繁に一服付ける。
彼がリチャードと見えない火花を散らしていた際にはそれどころではなく、分からなかったが、彼が紫煙をくゆらせる度に珈琲の芳香が、狭い車内に充満した。
特徴的な珈琲の香り、そして黒地のパッケージに橙色のロゴから、ウルグアイ産の【アークロイヤル ワイルドカード】を嗜んでいることが判明した。
何故このようなことをと尋ねられれば、自らの経験知識に基づき、煙草の銘柄を推察することぐらいしか、浩文には車内ですることが無かったからだ。
そしてディンゴと運転手がスペイン語で連絡事項を交わしていていた時、浩文とファティマはひどく肩身の狭い思いをした。
同じラテン系言語である為、普段からトーニャスにて耳にするイタリア語とは似通った箇所もあったが、商会内で使われる言語は英語であるため、浩文とファティマの両者ともイタリア語で上手く意思疎通出来ないし、ましてやスペイン語を理解することはかなわなかった。
カルテル側もそれが分かっているのだろうことは理解に難くない。ここは自分たちの範疇だと見せつけられているような気もしたが、それは流石考えすぎだろうか。
街へと続く山道は悪路ではあったが、それなりの装備が整った専用車だったのだろう、いつも感じていたストレスを殆ど無しに山道を抜けた。いつもなら臀部を強打したり、頭を天井に打ち付けたりすることが往々にしてある事に、少々不満を感じていたことは否めない。
生きて帰ってこれたならば、ボスにそれとなく移動用車の買い換えを提案してみよう、と浩文は心に誓った。
都市部に出て、空港へ到着し、飛行機でリスボンへ飛んだ後は早かった。
リスボンはポルトガルの首都で、大西洋に近い都市である。
ここまで一切休み無くぶっ通しで車に乗り、飛行機に乗り、リスボンから大西洋沿岸まで移動する最中に、夜明けを告げる太陽が大西洋沖に顔を覗かせた。
やがて、一隻の中型船が水平線の彼方から八重潮をかき分け、ゆっくりと接岸した。
ディンゴから聞くに、カルテルの持っている船だから心配するなということで、二人は意を決して船へと乗り込んだ。
船内は時計も無く、携帯電話の電波も届かない。
暗く狭い船倉に三人がそれぞれ中央に向くようにして座る。暗闇を微妙に照らすランプの薄明かり、あの光を見つめていると時間の感覚も狂ってくる。
大西洋の横波に揺られ続けてどれほど経っただろうか、という時。
「あの、ディンゴさん」
ファティマが唐突に口を開いた。
ディンゴは頭の後ろに手を組み、目を閉じたまま応える。
「ンー?」
素っ気ないディンゴの態度とは対照的に、ファティマは身を乗り出して翡翠色の瞳を輝かせて言った。
「ボスとはどこでどのようにしてお知り合いになったんです?」
この唐突且つ大胆過ぎる質問に、脇で静観していた浩文は思わず目を見開いた。
「ファ、ファティマさん!?」
ファティマは何がまずいのか分からないといったような、きょとんとした様子で小首をかしげる。
ディンゴは何かを考えているのか、先ほどの姿勢で目を閉じたままだ。浩文はこれから協力せざるを得ない、だがどうにも得体の知れない彼の機嫌を損ねるような事は極力したくなかった。
しかし、浩文の心配などよそに、ファティマは微笑んで続ける。
「この暗くてじめじめした船内ですもの。きっとまだまだ長旅にだってなるでしょうし、何かお話しません? それとも浩文さんは、ボスの交友関係に興味がお有りでないんです?」
「い、いや……そういうわけでは」
リチャードの交友関係と言われると、興味は確かにあった。
形の上ではファティマを咎めてみたものの、謎の多いリチャードの過去を知る男がそこにいいて、それを知る機会が与えられるとなると、楔となり得るその言葉は尻すぼみならざるを得ない。
言い淀む浩文に割って入るように、ディンゴは大きな欠伸を一つした。
「は、別に取って喰いやしねーヨ。ナァ、四つ目の兄ちゃん、つまンねー男はモテねえぞ?」
「——わ!? ちょ、ちょっと何するんですか……?」
ディンゴはにやりと笑うと、ゆっくりと浩文に近付き、ひょいと眼鏡を奪った。
彼の行動に度肝を抜かれた浩文は、数回瞬きをして固まってしまった。ファティマは二人の様子を見て今回の旅の中で、初めて声を出して笑った。
ディンゴはレンズを覗き込んでみたり、眉間に皺を寄せつつ眼鏡を掛けたりして遊ぶ。
浩文は、彼の此方に手を伸ばして眼鏡を取る、その初動が全く分からなかった、否、見失ったわけではない。予備動作が判りにくい上、動きの緩急に恐ろしくキレが付いているのだ。しかし、浩文も長らく一瞬の判断によって生死を左右される鉄火場に立っている人間である。気を張っていない一瞬の虚を突かれたとて、相手の動きを見失うなど日常生活の動作において無かったはずだ。
彼がおもむろに距離を詰めたかと思えば、次の瞬間視界が滲んでいた。
「アー……オレとリッキーが、だろ? 暇潰しに、覚えてる範囲で話してやるヨ。——まあ、そーンなに面白え話でも無えけどナ」
ディンゴは持ち主に返す素振りは見せず、浩文の眼鏡を弄びながら、ファティマと、一つ顔のパーツが欠けてしまったような彼の顔を交互に見合わせ、口角をゆっくりと上げた。
Ⅵ
- Re: What A Traitor!【第1章Ⅶ更新】 ( No.9 )
- 日時: 2018/11/11 22:00
- 名前: 日向 ◆N.Jt44gz7I (ID: on4ShBGJ)
- 参照: http://www.kakiko.info/upload_bbs3/index.php?mode=image&file=898.jpg
Ⅶ
————9年前、メキシコ=メキシコシティ。
「クソッタレ……」
仄暗いメキシコシティの路地裏にて、狂犬は低く唸る。
杜撰な衛生管理の飲食店の廃棄物と、虹色の廃油が混ざり合ったヘドロに塗れるのも構わず、一人の男は壁を背にして倒れ込んだ。
繁華街の喧噪を背に、腹部から溢れ出る大量の血液を手に延ばしては、苦々しく口角を歪める。血を流しすぎたようで、最早立ち上がる余力さえも残っていない。
幸いなことに内臓をやられたわけではなさそうだが腹部の裂傷が酷い。依然として激痛は止まない、どうやってここまで移動出来たのか自分でも不思議なほどだった。脳内麻薬は疾うに切れてしまっている。楽観したとしても、確実に肋骨は折れているだろう。
乾いた血痕を辿って、死の足音がそこまで迫っていることは、回転しない脳味噌だとしても容易に悟る事が出来た。
現在でこそ彼の所属する隊、特殊高火力殲滅部隊【onyx】は少数精鋭の猛者が集い、自分たちの領分である密林戦や機密性の高い隠密活動を主としており、その高い勝率から他の反社会組織からも神格化されている節があるが、当時から戦闘部隊の最上位には属していたもののやはり組織の駒に等しい唯の武力部隊でしかなかった。
場末の若い不良共を少々手懐けてしまえば済むような、取るに足らない仕事が部隊に回ってくることも当然ある。
そのような折、久し振りに単身用の任務が、彼の元に舞い込んだ。
その内容は【アカプルコ・カルテル】の商品を外部に横流し、挙げ句その商品で麻薬パーティーを無断で開き、高額な会費をせしめて私腹を肥やす阿呆の始末と、そいつの隠している残った麻薬の回収という彼にとっては、鴨撃ちにも等しい楽な仕事だった。
当時の彼は、あまつさえ仲間内でも戦闘狂だと呼ばれている程で。
防弾ベストや予備の弾薬マガジン等の嵩張る装備さえも不要と考え、六発装填のハンドガン一挺のみを懐に忍ばせ、ターゲットの潜む廃屋に単騎突入する。
死角である不安定な排水管で二階へとよじ登り、窓を静かに外して侵入する。そこまでは良かった。しかし中はもぬけの殻で、暫し室内を歩き回ってみたが、人の気配はおろか、廃倉庫然とした埃っぽい部屋からは生活感が一切感じられなかった。
違和感に眉を顰める。ハンティングではなく、罠だった。嗚呼【カモ】はオレの方か。
生憎、部屋の外へ繋がる扉を背にしてしまっている、此方が餌場に飛び込んだと脳髄が知覚したときにはもう遅かった。
中毒者特有臭、震わしの咆哮、背後から羽交い締め、重い脂肪の塊が覆い被さる、野郎の滝のような汗がシャツに染みて。
中枢神経からの危険信号を待たずに、反動を付けてブーツの仕込みナイフで後ろを蹴り上げる。存外軽い感触と鈍重な叫喚、そして緩む拘束。強襲してきたバターボールの一体どこを刺したのかは考えたくなかった。
そして扉の向こうから沸いてきた4人の男が彼ににじり寄り、徐々に距離を詰める。彼の夜目は皆一様の落ちくぼんだ瞳、濃い隈、赤い鼻、拭いきれない涎、吹き出物の潰れた肌を捉えた。
二時の方向にて痩身の男が拳銃を構えると、神だの蟲だのと喚きながら彼に向かって発砲する。
だがしかし所詮薬でキマりまくった素人の予備動作と命中精度、彼の目を以てすれば見切るのは容易だった。
火薬に押し出されたヘッドショット狙いの凶弾はやはり逸れ、彼の顎門を喰らおうとする。それを予知し、身を屈めておいた。第六感通り、彼の頭上を烈火のフルメタルジャケットが掠める。
甘いな、エクスタシー貪って飛んでる奴に狩られるオレじゃねえ、と地べたで一呼吸つく。
そして右手で懐の拳銃を取り出し反撃に地を蹴ろうとしたその時、眼下で何かが転がるのを視認した。
閃光音響手榴弾、スタングレネード。
物体から迸る刺々しい閃光、それは一瞬にして光の爆裂へと。
咄嗟に閉じた瞼越しに収縮の間に合わなかった瞳孔から網膜を焼かれ、轟轟音に鼓膜を上下左右揺さぶられる。
しかし神経が既に焼き切れたドーピーな亡者共には関係無い。生理現象として硬直した一瞬の虚を突かれ、伸びた巻き毛をあっという間に引き掴まれる。
頭部に走る痛み、肌に降りかかる臭気を纏う汗と涎、頬に衝撃、腹部に膝、締まる頸動脈、腹に触れる冷ややかな凶刃、刹那熱を持つ。
地べたに再び転がされ、靴底の雨が降ってくる。今だけは惨めな防御姿勢を取るしかない。
幸いなことに好機を伺う間に銃口を向けられることは無かった。先の威嚇射撃にしか銃弾は込められていなかったのだ。
所詮、頭のイカれた捨て駒。勝手に錯乱し、銃乱射なんざ起こして大事にするのは飼い主も望んじゃいないだろう事は容易に伺えた。
体中に満ちてくる激痛と、短絡を起こした視覚聴覚を本能の牙に預け、手始めに真正面にいるであろう五月蠅い肉塊をぶち抜いた。
そこから後は彼自身よく覚えていない。
交戦後の興奮による知覚過敏で、闇に漏れ込む表通りのネオンサインや寂れた誘蛾灯すら、光を拒む彼の三白眼には鬱陶しい。
スタングレネードにより視覚は光を拒み、彼の得意だった夜闇は黒く塗りつぶされている。断続的な耳鳴りで聴覚も暫くアテにならないことを思い知る。
男の着ていたものの大部分は凶刃に切り裂かれ、体中至る所から血が滲んでいる。
装備を整えていればもっと軽傷で済んでいただろう。しかし仕事にタラレバは無い。これはオレのミスだ。
先ほどの5人組の中毒者はプロフェッショナルではなかった。さしずめ自分を始末しなければ薬を回さないとでも言われたところなのだろう。しかしそれも逃げる時間稼ぎの捨て駒に過ぎないことは容易に窺えた。
いよいよ呼吸すら面倒になってきた。意識混濁が起きようとしている。硝煙とニコチンに毒された脳漿が追憶を勝手に始めた。
古傷が疼痛が起こす錯覚、肉を削り取られる記憶、口を割られても割らなかった口。
それなりに人生の中には愉快痛快なこともあったのかもしれない、しかし走馬灯の中では一切壇上に上がることは無かった。
そして一瞬ちらつく赤毛の女性の記憶。だがそれも霞がかってしまって、血の足りない頭では彼女は誰なのかも判断が付かなかった。
野犬と呼ばれた自分に、ホモ=サピエンスを人たらしめる心が果たして存在したのか、もう今となっては分からない。
棺桶を前にして、それは些末なことだった。
ここから遙か遠く【野蛮】だった頃もそうだ、あの頃から何一つ変わってはいない。30代も半ばを迎える彼だったが、それしか生きる道を知らなかった。
彼の本能が、闘え、噛み付け、喰らい尽くせと、這々の体で路地裏に敗走した今この時でさえ叫ぶ。
滾り続ける彼の本能は、今も止まる様子一つ見せずに、腹部から赤黒く流れ続けている。
彼の名前はディンゴ。ずっと前、やたら眩しい文明の光が初めて彼の網膜を焼いた時とほぼ同時期、頽れた膝と過敏な脳味噌に野犬の名を刻み込まれた。
9年前、一兵卒でこそなかったが隊長という肩書きは未だ無い。
棺を蛍光色で落書きされた路地壁、別れ花を残飯と化した葉物野菜にするのを認めたその時、甲高い耳鳴りに混じって何者かの足音を捉えた。
誰だ。
静かな息遣い、動物性香水と葉巻の強い匂い、片足が着地する際の振動、狭い路地の音の反響、衣擦れ、靴の種類、纏う硝煙。
そこから導き出された答えは、男。高身長。筋肉質。強い体幹。そして嗅覚が告げる同業者の匂いというオマケ付きだった。
さっきの五人組のように【粉末の商売仲間】の匂いはしない。
通り名の如く野犬のような人生だ。いまさら生への執着など無い。しかし己に仇なす者に最期を蹂躙される事だけは彼自身が許さなかった。拳に力を込め、奥歯を強く噛み合わせて最期の迎撃準備を整える。
しかし、メキシコシティの夜闇を縫って現れたそいつは、ぎらつく殺意など持ち合わせてはいなかった。
「?Que te pasa?(何があった?)」
未だ続く耳鳴りの中でも、はっきりとした輪郭を持つバリトンが頭上から降ってくる。
直に喰らった閃光のお陰で、視界は未だ完全回復していないのでそいつの詳細は分からないが、今のところ此方に危害を加える様子は皆無だった。
ディンゴが応えず黙秘を続けていると、男はその場を離れること無く、続けた。
「?Hablas ingles?(英語は話せるか?)」
しかし感情のこもらない低音。その声色にはどうにも抗い難い、返答を強制させるものがあった。
ディンゴはどうにかして喉の奥から無声音と有声音を綯い交ぜにした呻きを絞り出してみる。
「……No hablo? Entiendes espanol?(……いンや、わかんねえな。スペイン語はどうだ)」
正直、ネイティブの隊員をおちょくる分にも差し支えは無かったが、何しろ今の状態である。英語を脳内で変換して、噛み砕いて理解する、そして再び英語として発話するのにはエネルギーが要る。
しかしスペイン語もまた、ディンゴの母語では無かったが。
使用年数は後者の方が長い。いつも以上に舌は回らないが、それでも英語より体力を使わずに済む。
「Hablo un poco de espanol.(少しなら)」
そいつもおそらくラテン語圏出身なのだろう。少し、とは言い難い流暢なスペイン語で応じた。
降下する衣擦れによって、男が屈んで真正面に正対したことを察する。
「はは、随分とやられたもんだな。この傷じゃ多勢に無勢ってとこか」
虫の息のディンゴを目の前にして、そいつは愉快そうに笑った。しかし嘲笑とはまた違う、旧知の仲にある者同士のじゃれ合いのようなものに近似していた。
徐々に機能を回復しつつある聴覚がこれは耳障りな音だと己に耳打ちし、内に眠る獣が唸りを上げ、枷の嵌められた前足で砂を掻く。
一般人では足を踏み入れもしない路地裏に分け入って、明らかに日の当たる住人ではない血みどろの人間に声を掛ける。やはりマトモな思考回路の奴ではない。一体何が目的だ。
「堅気じゃねえとは思ってたが……てめえどこのモンだ——ッ……!!」
廃油で滑る路地壁を伝って立ち上がろうとするも、腹部の傷口が引き攣って膝が笑ってしまう。震える足を殴りつけて活を入れるが、やはり立っていられず再び汚泥の中へと尻餅を付く。畜生、何て惨めな事だ。
血の乾いた上着に再びじんわりと鮮血が滲む。今はただ声のする真正面を睨み付けるしか出来なかった。
得体の知れない男に生殺与奪の権限を握られ、くたばり方を決められる。それはディンゴにとっては不愉快極まりない事だった。
それでもそいつは飄々として言う。やはり嘲笑の色は混ざっていなかった。
「——っと、幾らあのカルテルの手練とはいえ、手負いの獣にのされる俺じゃないさ。今動くと誇張抜きに死んでしまうぞ? 安心してくれ、今はどこの飼い犬でも無い」
今、こいつはカルテルと言ったのか。
動揺に揺れる瞳孔を視認されたのだろう。正対する目敏い男は一言端的に、腕章だと告げた。
現在は作戦内容の機密性保持の為やその他の理由で廃止されているが、数年前までカルテルの【onyx】に所属する戦闘員は腕章を付ける事を義務づけられていた。 今でも腕章の模様がその体に刻まれている隊員は多い。
ディンゴが左肩に手を遣ると、血が膠のようにこびり付きボロボロになった腕章のざらつく感触は確かにそこにあった。
【onyx】はこれほどまでに認知されるようになったのか。
「は。信じられねえな……」
「仮に俺がどこかの番犬だとして、お前とこうして会話していることすら無駄だろう。ヘッドショットの餞(はなむけ)でこの話は仕舞いさ」
その男は、おどけた調子で銃声の擬音を口にした。成る程、例の追手ならばこうして無駄話をしている暇も無いだろう。もっとこいつを疑ってかかるべきだろうが、正常な判断を下せるほど頭に血が回らない。今この瞬間にも生命は流れ出ている。今しがた塞がり始めた組織を捻じ切り、立ち上がろうとしたのが仇になったか。
そして声の調子、間の取り方、抑揚、そのどこを取っても説得力を感じさせる男だった。場末のチンピラにこんな雰囲気を纏う奴は、ディンゴの知る中ではどこにもいない。どの組織にも所属していないという内容の真偽には毛ほども興味は無かったが、それなりの地位を持つ人間だったのかもしれない。
しかし何一つとして事態は咀嚼嚥下できなかった。
「解せねえ……テメーの目的は何だ」
ディンゴがそう吐き捨てると、男は待ってましたと言わんばかりにぱっと声色を明るくして、微笑みの色を乗せて言った。
「流石に【onyx】の隊員だけあるな。話が早くて助かる、本題に入るまでに死んでしまわないか心配だったんだぜ?」
衣擦れ、そして更に声が近くなる。
その時初めて、ディンゴの薄弱な視覚が男の顔面情報を肉の管制塔に送った。
そいつは白人だった。太く整えられた眉と長い睫毛、高い鼻とどこか蠱惑的な唇。男性的要素と女性的要素とが融解共存し、メキシコシティの掃き溜めの中であっても芸術品のような秀麗さを放っていた。
癖の無い金髪は高い位置で括られ、肩甲骨の辺りでそいつの一挙手一投足に合わせて揺れる。
とりわけ妙だったことは、そいつが夜間にも関わらずサングラスを掛けていることだった。時折、澄んだ蒼瞳がグラスに映り込んだネオンサインの反射光にも劣らない極彩色を放つ。
やはりどこまでも奇妙な男だった。
こいつも厄介な【訳アリ】か。ディンゴは再び奥歯を強く噛み合わせた。
「率直に言うと、恩を売っておきたいと思ったんだ。ここいらを縄張りにする古参ではあるが【アカプルコ・カルテル】は今後もっと大きくなる」
葉巻の薫風が前髪を揺らす。その中でも一等甘ったるいパルタガスの薫りによく似ていた。
「——あンだと……?」
予想していなかった男の返答に、思わず眉間に皺が寄る。
徐々に明瞭になりゆく視界に、男の背後から漏れ出る都市の輝く欠片が乱反射した。
そいつは整った片眉を吊り上げ、口角を上げる。
「お前がどこで生き、何を重んじ、どんな人間であろうと……それはこの際、至極些末などうでも良い事なんだ。この屑籠メキシコシティの中でサタデーナイトフィーバーをやらかしたお前に、偶然出会った。【アカプルコ・カルテル】の【onyx】に所属している——【アダムズ・ビル】に敵対する組織に、な。はは、電柱にピスを引っ掛け散らす礼儀を知らずな野良犬じゃ有るまい、仁義を立てない訳が無いだろう?」
黒い革手袋で、言葉を紡ぐ唇をゆっくりとなぞる。
疲弊しきった脳漿に情報を孕んだ血液の奔流が流れ込む。正常な心身だったならば問答無用で一発くれてやっている程の事を言われているのかもしれない。しかし男の言葉はディンゴの中に何の抵抗なく染み入る。
成る程、こいつはカルテルとのコネクションパイプを欲している。そしてビルとの確執持ちということを匂わせた。第一印象以上に厄介な奴であることは、朧気な意識の中でもはっきりと掴めた。
素性の知れない男について行くことの利と血の渇望を天秤に掛け、そして彼方へ傾く。
「さあ、腕利きの医者を紹介してやろう。立てるか? 俺の名前はリチャード・ガルコだ。どうぞ好きなように呼んでくれシニョーレ」
そう言うと、リチャードと名乗るその男は、やおら立ち上がり黒の革手袋を嵌めた手を此方に差し出した。
今考えても、その手を取る以外に選択肢は無かったのだろうと思う。
「ディンゴでイイ……敬称は好かねェ」
Ⅶ
- Re: What A Traitor!【第1章Ⅷ更新】 ( No.10 )
- 日時: 2018/11/11 21:59
- 名前: 日向 ◆N.Jt44gz7I (ID: on4ShBGJ)
- 参照: http://www.kakiko.info/upload_bbs/index.php?mode=image&file=6104.jpg
Ⅷ
リチャードに担がれてからというものの、目的地にすぐ到着した、らしい、という話を聞いた、覚えが今でもある。
何とも煮え切らない語末、しかし追憶に関して、その箇所は不明瞭であるのだ。海馬を幾らノックしてみても、現在も腹部に深く刻まれた袈裟懸け状の裂創がそれを咎めた。
担がれて、というのは最初の方こそディンゴはリチャードに肩を貸してもらい、自分の足で歩いていたが、余りもの激痛に次第に誤魔化しが効かなくなり、一歩も動けなくなってしまった為だった。
司令塔への酸素運搬をサボタージュする足りない血潮、鈍痛で薄れゆく意識と乱れる呼吸で軋む肋骨に何度も跪く。
最早どうにも制御の効かない身体に、己の血に汚れた犬歯を以てして臍を噛んだ。
心身が折れそうになるその度に、彼の脇腹に触れないようにそっと、しかし力強く下から肩を持ち上げられる。鋼のような筋肉の安定した土台に全体重を支えられ、否が応にも両足で立たなければならなくなるのだ。
そして、リチャードは微笑んで気の抜けそうな声で大丈夫かだのほら頑張れだの、まことしみったれた路地裏に似つかわしくない言葉でディンゴをゆるく叱咤した。歯を食い縛り立ち上がれば、声色をあからさまに明るくして此方に笑いかける。
いちいちうるせえんだよ。
これまで他者を噛み殺す為に砥いできた犬歯を剥こうにも、喉は渇ききり、腹の筋繊維を自発的に動かすことは叶わない。今は呻く事ですらその傷に深く響き、障った。
頭上から降ってくるネオンサインと表通りのエンジン音は嘲笑してくるように感ぜられる。
素性の知れない男におんぶに抱っこでようやくエテ公みてえな二足歩行が可能なザマか。嗚呼死ぬほど情けねえ。これなら死んだ方が幾分かマシだろう。
唯々この世の全てへの憎悪、その一点のみで、ディンゴは一歩ずつよたつく足を粘つく汚泥へとめり込まさせていた。
しかしその気力さえもいよいよ尽きようとする。
何とか騙し騙しもっていた体幹が今度こそ効かなくなり、急に膝の力が抜ける。肺から漏れ出た空気が気管を過ぎ、喉を掠める。決して喉をやられていたわけでは無いが、穴を穿たれていたかのように幽き息が漏れる。白く眩む視界の端に捉えた、彼の腕も間に合わない。行き場のなくなった全体重は前方へ投棄された。
異臭を放つ汚泥に、半身を打ち付けるがままに。もうどうやってもエンジンはかかってくれなかった。閉まらない口に血液と埃の絡んだ廃油が滲出してくる。一本たりとも動かせない指先から悪寒の浸食が始まる。眼位が定まらない。今度こそ、もうどこにも立ち上がる力は残っていなかった。
リチャードは何も言わずに一息吐き出して、だらりと力の入らないディンゴの足と肩を抱えると、ヘドロや返り血そして彼の体液に塗れるのも構わず、その広い両肩に彼を担ぎ上げた。
一拍の後。大きな袈裟懸け状の裂傷が直接布地に触れ、圧迫され、気が触れそうになった。よもや声にならない声で突如襲い来る痛みに吼える。路地裏の鉄骨に飽和反響。しかし切なる咆哮はマットな地べたに引きずり込まれるのみだった。
衝撃と自重により肋骨が悲鳴を上げ、体内で骨の欠片を零す。四肢の痙攣と眼振が止まらない。乾ききった筈の喉奥から粘性の高い唾液が分泌され続ける。湿りぼやけた極彩色の視界が何度もぐらつく。
当然の反応、残った胃液を彼の背中へと吐き散らす事となった。
しかしリチャードは何一つ動じること無く、歩みを止めない。手入れの行き届いた革靴を、淡々と黒く脂ぎったアスファルトへ下ろす。
高い位置から揺さぶられる振動に付随する断続的な吐き気、激痛、狂気。理性と痛覚をかなぐり捨てることが出来たらどんなに楽だろうか。
しかしそれは即ち、手放した筈の記憶への回帰に続く、螺旋状の後悔にも等しかった。
意識はそこで途切れる。
******
二階以上は廃屋ともつかない、寂れたビルの一階。所々建物の塗装が剥げ、無機質な基礎コンクリートが剥き出しになっている。重たそうな門扉の下からは、乳白色の薄明かりが漏れ出ていた。
「Amanda, are you there?(アマンダ、いるか?)」
リチャードは鉄製の扉を勢いよく開け、つとめて明るい声でこの部屋の主に呼びかける。
部屋の内装はごく一般的なオフィスの白壁に灰色の滑らかなフローリングに、大きな金属製の薬品棚と四つのベッド。そして、ほつれた薄いカーテンで申し訳程度に仕切られた向こうには大きな診察台と、椅子が二脚。部屋の奥には別の部屋へと伸びる細い廊下がある。扉一枚を隔てた向こうに簡易的な手術室があることも、一番手前の薬品棚に準無菌室を作れるバルーンが収納されているも勿論知っている。
しかし部屋自体はそれほど広くないので、大きな備品と立ちこめる薬品の刺激臭とバンテージ類の匂いが更に圧迫感を演出した。
白衣の主はリチャードに背を向けて、最奥に設置された薬品棚の整理をしている。白衣の裾から伸びる長い脚、いつも通りの赤いピンヒール。大きなリングピアスに長い縮毛、うなじからのぞく肌色で黒人女性だと判断出来た。
入り口に一番近い蛍光灯が数秒感覚で点滅を繰り返し、汚泥の跳ねた革靴に光の波紋を落とす。
アマンダと呼ばれた主の返答を待たずに、リチャードは失神したディンゴを入り口に一番近いベッドに横たえる。次いで回復姿勢を取らせ、呼吸を確認した。
か細くはあるが自発呼吸はしていた。適切な治療を施せば予断を許さない状況では無さそうだ。否、適切な治療を受けられれば。
そこでようやくアマンダはリチャードに向き直り、苛立ちを隠そうともせずに刺々しい口調で見咎めた。
「Not again, Mr.fuckin'?(またアンタかい?)」
リチャードの青い瞳を光の無い眼で見据え、そしてアマンダは異臭に眉を顰めた。
その異臭は上から出る体液の全てを引っ被った彼の上着と、彼の背負ってきた人間からも漂っていた。そして生乾きの吐瀉物の饐えた臭いが、中でも一段に鼻を衝く。
アマンダが一つ舌打ちをすると、リチャードはわざとらしく肩をすくめて、ジャケットを脱いでみせた。
「つれないな、シニョーラ? 大きなカーネを拾ったんだ。どうだ、看てやってくれないか」
リチャードはディンゴを寝かせたベッドサイドにどすんと腰掛け、アマンダに笑いかける。時折ディンゴと彼女を交互に見遣りながら、彼女の表情を探った。どんな状況、患者であろうと彼女は間違いなく請ける、とリチャードは高をくくっている。
自身にとって【適切】な治療費と引き換えにギャングやマフィア、脱走囚、傭兵、難民等々、例えどんな訳アリの人間であっても秘密厳守で医療行為を行う。当時の彼女はメキシコシティで、闇医者と呼ばれている人間の一人だった。
アマンダは溜息を吐いて、目にかかる前髪を掻き上げると、二度素早く瞬きする。
「チッ、アンタと出会ってからロクな事が無いさね。ったく、勝手にベッドを使うんじゃないよ……。——幾ら出せるんだい?」
アマンダは腕組みをして、吐き捨てるように言う。
リチャードの思惑通り、アマンダはこの話に乗ってくる素振りを此方に示した。未だ動かないディンゴを一瞥し、ざっと見積もり見解を述べてみる。
「裂傷打撲だけだな、見た目ほど酷くない。5万ドル」
「冗談お言いでないよ、他当たんな色惚け男」
アマンダは眉間に皺を寄せ、舌打ちでリチャードに即答した。
乾いた笑いで取り繕い、吊り値方法を再考する。彼女の足下を見たつもりは毛頭無かったが、どうやらこの価格設定では甘かったらしい。
しかし毒を孕んだ言葉とは裏腹にアマンダは、ベッドサイドに寄ってディンゴの腹を視診し始めた。
「ふん、これじゃあ破傷風も気になるね、洗浄が必要だ……ん、アンタ肋骨も折れてんのかい」
アマンダはディンゴの腹を暫し診ていると、おもむろに紫色に腫れた脇腹を指圧した。
しなやかな筋肉にめり込む赤いネイルの鋒、そして患部を押し込む。
瞬間、ディンゴは短く吼え、息を吹き返した。瞳孔が開き血走った目を剥く。痛みに対する脊髄反射か、上体を撥条のように起こした。経年劣化のせいでオフホワイトになったシーツには、大量の汗に乾いた汚れが滲み、また傷口が開いたらしく鮮血が染みていた。
アマンダは険のある瞳でディンゴを牽制しつつ、一歩後ろに下がる。
「えっ、そうなのか? はは、良く喋れてたなぁディンゴ」
そして、リチャードだけが暢気に微笑んだ。何事も無かったように、ベッドサイドに備え付けてあった丸机に頬杖を付いて、彼に向かって、おはようと左手をひらひらと振る。
ディンゴは唸りながら手探りでベッドの柵に手を掛け、俯いて目を覆う。
失神により強制的に充電されたせいか、彼の掴んだ金属錆びが浮いた寝具柵は軋み、褐色の腕には筋が浮いた。
「てめえ……クソッタレ、どこなンだ此処は……」
「うん? 医者のところさ。というか、なんだお前英語話せるんじゃないか」
リチャードは眉を八の字にして唇を尖らせた。ディンゴは未だ柵を握り締め、事態を噛み砕くように座位のままでいる。
そして幼子を宥め賺す(すかす)ような調子で声を掛けた。
「それだけ元気なら大丈夫さ、すぐに良くなるぞ。——っと、そうだ。アマンダ、俺と一緒にイタリアでビジネスをする話はどうなったんだ?」
リチャードはアマンダがいる後方に身体を向けて、ベッドサイドから彼女を見上げた。
右手の革手袋を外し、人差し指と親指で自身の唇をなぞる。目を細め、首を傾げて彼女の表情を伺った。それに付いて肩迄伸びた金髪が揺れる。
アマンダは最初の方こそ追い払うように手の甲を見せたが、どこまでも青く澄んだ瞳にひたと見据えられ、また一つ舌打ちをした。
「寝言は寝てから言いな。何度も言っただろう、あたしゃ誰とも組む気は無い。特に、アンタみたいなビルを崩したいなんてほざくファッキンクレイジーとはね」
アマンダは全てを言い終わる前に背を向け、部屋の奥へと向かった。行き先は給湯室だろう。
彼女と語らうとき、必ずキリマンジャロコーヒーが彼女の片手にあった。立ち上る湯気に挽き立ての豆の香り。お茶を淹れに席を立つ、これを対話が始まる合図と捉えるのは少々身勝手だろうか。
給湯室は手術室へと向かう廊下の脇にある。衛生的に如何なものかとも思ってみたが、この業界に於いて彼女の仕事に関する良くない噂は聞かなかった。問題が生じなければ問題ない、まさしくそうだ。
リチャードはアマンダの白い背中に向けて一人、朗々として笑った。
「はは、また振られてしまったか。まあいいさ、また気が変わったら教えてくれよ、シニョーラ=アマンダ。暫くメキシコシティに留まる用事も出来たしな」
「そうさね。即刻帰って共同募金でも立ち上げな、イタ公」
見えない返答が壁から跳ね返ってくる。
そして次第に濃くなるコーヒーの薫りに胸を躍らせていると、背後で乾いた衣擦れが聞こえた。
吐息混じりに手負いの野犬は言う。
「——ビルに報復だァ……?」
手負いの獣を刺激しないよう、目は合わせない。身体を少しずらし、視線が丁度斜めを陣取るように心得る。
「無理して喋らなくてもいいんだぞ? はは、そうだな。ほんのこの前までパレルモ支部にいたんだ」
「あンだと……?」
「でも言っただろう。今は飼い犬ではないぞ、うん、それは本当だ」
切れかけた蛍光灯を反射する地面に視線を落とす。心なしか点滅する頻度が早くなっているような気がした。
ディンゴはぼろ布のようになった黒のインナーで吐瀉物と血液に汚れた口元を拭い、無声音に色が付いた掠れ声を絞り出した。
「ナァ、そいつぁやっぱり新進気鋭の【みんなのパーパ】で正解か……? クソッタレめ。笑わせンな、腹が捩れちまうヨ。てめーの残機が無限として、カイク渇望の最後の審判を迎える日の方が近えナ……オレのポジャ賭けたっていいゼ……?」
彼は時々噎せ返りながら、しかし不敵に笑った。猜疑、揶揄、畏怖、嘲笑、愚弄どれが本当だろうか。否、恐らく全てを含有しているのだろう。
ディンゴは横目に彼の表情を瞥見したが、やはり柔らかく微笑を湛えるその表情からは何も読み取れなかった。
リチャードは光の波紋が絶えず拡大縮小する床を見つめたまま回答を寄越す。
「そうか? 俺は至って大真面目だぞ?」
一人ごち、屈託の無い笑顔でその時初めてディンゴの瞳と相対した。光の無い三白眼と、透き通ったサファイアが交錯する。
ディンゴはあからさまに顔を顰めると、荒れ放題の後頭部をがしがしと掻いた。
この男はあの【アダムズ・ビル】とまともにやり合おうとしているのか、頭がおかしいに違いない、とその時は唯そう思った。前頭葉に飛び切り良いのをもらったか、薬で飛んでいるかの二択としか思えない。
「——テメエ本当に狂ってやがンな……」
「狂ってるんだよ、そいつは」
突如、声の闖入者とコーヒーの強い薫り。唯一といっても良い程のまともな嗅覚に豆の香りが嗅細胞を刺す。
マグカップを片手に持った白衣の黒人女性は、二人と少し離れた椅子に腰を落ち着けた。
ディンゴはほぼ悄然として、何の意味も無くアマンダの姿を目で追っていたが、はっと己に立ち返り吐き捨てた。
「は、頭沸いてんカてめえはヨォ……。付き合ってらンねえ……オレぁ帰るゼ。治療費は自費でもつ。【礼儀知らずな野良犬】じゃねえからナ、バックレたりしねえヨ……ッ——!!」
柵を引き掴み立ち上がろうと試みたが、再び筆舌に尽くしがたい激痛が彼を襲った。
汚れきったシーツに赤黒い血がぽたぽたと滴り落ちる。それを視認したとしても、彼は止まらなかった。
リチャードを押しのけようとするも、激痛に苛まれて力の込めようが無い腕では、筋肉質な彼の体は動かなかった。
「おいおい、その傷じゃ無理だろ」
「うっせえナ、道開けろヨ……」
ディンゴは渾身を以てしてハリボテの牙を剥いた。虚勢を張らねば、この座位を保つことでさえも耐えられはしない。肩で息をする。圧倒的に血が足りない。仮にここで医院を飛び出したとして結末など決まっているのにな、と半ば諦観していた。
リチャードは血走った獣の瞳を再度見据える。彼を押しのけようとした肩に置かれた手は多量出血によって震えが止まらない。
一息。そしてこの状況下、否、全てに於いて有り得ないことを、その唇で紡いだ。
「いや、待ってくれ。俺たちもうアミーゴだろう?」
「——ア……?」
今思い返しても、一番間抜けな顔を奴に晒したのはその時だったように思える。
アミーゴ。それはスペイン語で友達、友人を表す言葉だった。
血錆びがこびり付いた脳味噌で意味をもう一度再確認する。これまで意味用法を間違えて学習し、使用していた可能性が出てきた。しかし悲しくもそれは有り得なかった、それほどまでに唐突で阿呆らしく、馬鹿げていて、毒気を抜かれるには十分過ぎた。
黒いんだが白いんだが分からない女医のいる方向から、飲み物にむせ返って止まらない咳払いを聞く。
サタデーナイトフィーバーをキメていたのはお前の方だろうと、今では笑い話に出来るのが救いか。
リチャードは長い睫毛を伏せて、暫く考え込んだ素振りの後に人差し指を立てた。
「歯に衣着せない物言い、あとは意外と素直なところとかな、うん、気に入ったんだ! お前の人間性に興味は無いと言ったな、あれは前言撤回しよう。友達になってくれ」
これまでの美術品に類いする微笑などでは無い、リチャードは歯を見せて邪気の無い笑みを浮かべる。
平生より虹彩部分の小さかった三白眼は更に小さくなり、点を穿つのみで。
あまりにも拍子抜け。文字通り開いた口が塞がらず、呆気にとられる。全てを喰らえと低く囁いていた本能はすっかり萎えてしまい、ベッドにへたりと座り込むしか無かった。
「お花畑なヤツだナァ……? 寝首掻くような真似してみろヨ、首と胴をセパレイトにしてやンぞ……」
「そんな事しないから安心して眠ってくれ。あっ今のはR.I.Pじゃないぞ? はは、邪推してくれるな」
何一つ笑えないジョークを一つ残し、脳内お花畑は柔らかくディンゴの背中を叩いた。
回らない頭、うざったい妙ちきりんな男に、そして唐突な眠気。もう何も考えることは出来なかった。
ビルと彼の関係、カルテルとのパイプを欲する理由、彼は何を目的にしているのか、何も分からない。しかし今だけは何も考えたくなかった。
とりあえずの休眠を、それだけでいい。身の振り方は後で考えれば良いだろう。
「チッ、いちいちうぜえヤツだな……。——テキーラ奢れヨ」
そう言うと彼はリチャードに背を向けて横になった。
物理的に表情を読み取れない野犬に向かってもう一度微笑んで、ベッドサイドから立ち上がる。それでもやはりガタのきている安息地は、金属の軋む音を響かせるのだった。
「この通りに良い雰囲気のスペインバルがあるんだ。腹の傷が治ったらそこへ行こう」
Ⅷ
- Re: What A Traitor!【第1章Ⅸ更新】 ( No.11 )
- 日時: 2018/10/10 19:50
- 名前: 日向 ◆N.Jt44gz7I (ID: /0vIyg/E)
- 参照: http://www.kakiko.info/upload_bbs/index.php?mode
Ⅸ
————イタリア=ナポリにて。
「は? お前……ビルにいたの?」
ホセは平生より大きな瞳をぱちくりさせてリチャードを見上げる。今日の快晴を映す、とても澄んだ瞳だった。
本日のホセの装いはフォーマルなブラックスーツと清潔感を重んじたオールバックである。これら全てはリチャードがホセに先日言い渡したドレスコードだったが、彼は特別抗議するようなこともなく唯浅く首肯しただけだった。普段からファッションに拘りを持っている彼のことだから、確実に噛み付いてくるだろうと思っていた矢先のことだったので拍子抜けしたことは記憶に古くない。
白に赤が入った派手な髪は多めの整髪料で襟足へと撫でつけられている。猫のように狭い額と短く整えられた眉が露わになっているぶん、ただでさえ童顔な彼はより一層幼く見えた。ホセは21歳の青年だったが、リチャードの目から見ても凡そ成人しているようには見えない。
ホセはいつも好んで着用している白黒ゼブラ柄のカッターシャツではなく、卸したてのホワイトカラーに黒いネクタイを締めて、同じく漆黒のスーツに身を包んでいる。しかし糊のきいた背広は一切彼の体に馴染もうとせず、完全に服に着られている状態だった。
そして両の人差し指と中指に黒光りする指輪、二連ネックレス、細身のバングルや多種多様なピアス等の装飾品だけは一つの取りこぼしなく身に着けられている。そのアンバランスさも相まって、どうにも小さな子供が肩を張って大人に近付こうと背伸びしているような印象を与えた。
少々話は変わるがメキシコ原産世界最小の愛玩犬であるチワワはアップルヘッドと呼ばれる丸みを帯びた特徴的な頭部の形をしており、愛犬家達からチャームポイントだと持て囃されている。丁寧に整えられた彼の現在のヘアスタイルと重なり、リチャードはついついその赤色に手を伸ばしてしまいそうになるのを抑えた。
流石に怒られるかな、と心の中で苦笑するしかない。
現在彼らが立っているのはイタリアはナポリ、カヴール広場である。
トーニャスからナポリに至る道中はバス、特急列車や地下鉄を幾つも乗り継いでやってきた。トーニャスがあるイタリアの北端から地中海沿岸中南部のナポリまでは随分時間が掛かる。商会が持つ移動用車はあるものの大仰な装甲や防弾装備がナポリの街中では妙に目立ってしまい、公共交通機関を使わざるを得なかったのだ。
山間の農村部を長距離移動バスで駆け抜けて、初めて満員電車を体験したホセは何度も人混みに流されてしまいそうになった。それ故、雑踏の中でも一際背の高い男を頼りにするしかなかったのである。癪ではあったが、時々気付かれないようにリチャードのトレンチコートの裾を指先で掴んでは離すこともあった。知らない人間と肩が触れあう度に、ホセは何度悪態吐いたか分からない。
カヴール地下鉄駅から近いこの広場だったが、観光客らがごった返しているというわけでもない。元々観光名所と呼ばれるには世界遺産や他の建造物に圧倒され過ぎており、国立博物館へ向かう人々が通り道として広場を過ぎるか、地元住民が木陰のベンチでシエスタをとっている程度である。その上夕刻を過ぎてしまうと、お世辞にも治安は良いとは言えない場所になる。
しかし晴れ渡る青空に地中海から運ばれる潮風、そしてどこか南国風情漂う緑の植え込み。リチャードは【かの時代】よりこの場所が嫌いではなかった。
「ああそうだ! ふふ、これでも一応上の人間だったんだぞ?」
ホセの新鮮な反応を受けて、リチャードは微笑みつつ人差し指を唇に押し当てる。
今日の彼もいつもとは少し違う出で立ちだった。いつもならば高い位置できつめに結われている金髪は、項部分にて布製の髪紐でゆったりと括られている。そのせいか平生よりも一層長く感じられ、地中海の風がふわりと巻き上げた金糸にホセは思わず目を奪われた。目深に被った白いボルサリーノと金縁のサングラスが、どこまでも青い瞳に影を落とす。本日はスーツも彼のお気に入りである濃青色のジャケットと黒いカッターシャツではなく、ホセと揃いのフォーマルスーツを着用している。
それでもこの着熟しの中、黒い革手袋を頑なに外そうとしないのは少し違和感が残った。
「ッ——!? ふ、ふうん。あっそ」
ホセは諸々の動揺を振り切るように、ぶっきらぼうに会話を切り上げてそっぽを向いてしまう。
実はリチャードも道中ホセとの間をもたせようと悩み抜いた末、ディンゴとの出会いの物語を彼に語っていたのだった。九年前に死に損なっていたディンゴを助けた事、そして【アダムズ・ビル】パレルモ支部の幹部だった事。しかし例え現時点で【ここまで】話したとしても特別今後の針路に差し支えることは有り得ないし、このように些細なこと迄は隠し通すことは出来なかったように思う。
今のホセにディンゴの話をするのは気が引けたが、存外に反応は悪くなく、時折ゆっくり瞬きをしながら黙って此方の話に耳を傾けてくれていた。
しかし同時刻メキシコ湾海上にてディンゴが核心に迫る過去を深く抉り取り、商会員両名に向けて掲げている事など予想だにしてなかっただろうが。
リチャードはホセの斜め後ろから距離を詰めると上半身をくの字に折って、彼と目線の高さを合わせて彼方を指差した。濃紺を透かし晴れ渡る青を背景に、白い荘厳が顕現していた事にホセは初めて気付く。
「——ホセ、見えるか? 少し遠くに、うん、あの白い建物だ。あれがナポリの守護聖人サン=ジェンナーロを奉っているナポリ大聖堂。そしてここからじゃ見えないが……サンタルチア港の方には卵城があるんだ。ノルマン人の魔術師がこの城を作るときに『この卵が割れるときにナポリも滅びる』という呪いをかけた事に由来するそうでな。可愛い名前だろう?」
リチャードは横目にちらとホセの表情を伺う。
「わ——すっげ……」
リチャードは柔く微笑み、ホセはしまったと口元を抑えて表情を強張らせた。
そんな彼の肩を二度叩き、リチャードは朗々と笑う。
「そうだろうそうだろう! なあホセ、ナポリに来たことは無いのか?」
リチャードに顔を覗き込まれ、逃げ場の無くなったホセは歯切れ悪く答えた。いつもなら遮ってくれた筈の赤は残念ながら現在後ろに逃げてしまっている。
「あるにはあっけど……飛行機だの車だの、移動続きでンなもん見る暇ねーし」
「はは、そうか。疲れて寝ちゃってたんだな!」
「うっせえな悪いかよバーカ!!」
爽やかな笑顔を浮かべて図星を突くリチャードに、ホセは牙を剥かざるを得なかった。
初めての飛行機は空の上というのに有り得ないほど揺れたし、離発着時には耳が痛いしで疲れない方がイカれてる、と決して口にはしないが短い眉を吊り上げる。
リチャードはホセが見せる犬歯など意にも介さず、サングラスの奥にある瞳を細めた。
「でもアカプルコも世界有数の保養地だろう? あの陽光射し込む白浜、輝く紺碧の海を一度この目で見てみたいんだ」
そして再びホセを見遣る。
しかし先ほどの激昂など嘘であったかのように、彼の瞳は寂寥の色をとっぷりと湛えていた。少し俯きがちに。そして睫毛が影を落とす。流れるような一連の動作はスローモーションにて移ろい、植え込みの長身樹の木漏れ日が不規則に虹彩のハイライトを奪う。
そして小さな唇が消え入りそうな声で言葉を紡いだ。余りにも小さな口跡、いつもの犬歯は唇に隠れて見えなかった。
「別に。もう覚えてねーし。——そんな綺麗なとこ……オレは知らねえよ」
ホセは洟をすするように、一つ鼻を鳴らした。
深耽に満ちた瞳、少し角度の緩い眉、引き結んだ唇。初めて目にする彼の憂いにリチャードはどうしても二の句を継げなかった。
そして暫しの沈黙と膠着を経て、ホセは突如身を翻しリチャードの懐に入った。
「おい、ライター貸せ」
唐突なホセの言動にリチャードは思わず肩を強張らせた。
「——えっ!? な、なんでだ。火が点けられないじゃないか……」
「うっせーな四の五の言わずに早く出せよ。気が付けばモクふかしやがって……あんだよ、オレへのあてつけか? いちいちくっせえんだよ。没収だ、没収。」
ホセはリチャードのネクタイを掴まんばかりの勢いで捲し立てる。
先のしおらしさは一体何処へ消えてしまったのか。リチャードは苦笑いを浮かべて生命線を何とか取り繕おうと図ったがそれも空しく、ホセは矛を収めようとする気配すら見せない。
結局は彼の威勢に押し負けて、トレンチコートの懐から大人しくデュポンを取り出すしかなかった。
「そんなに言わなくても……なあ、会合が終わったらちゃんと返してくれよ……?」
「あ? オレだってこんなモン持ちたくもねーよ」
ホセはリチャードの手から素早くデュポンを奪い取ると、乱暴にジャケットの懐に突っ込んだ。デュポンを求める空しく虚空を掻く。ホセは暫く考え込むような素振りを見せた後、上目遣いで躊躇うように切り出した。連絡会に付いてきて欲しいと伝えたあの日と全く同じ目だった。
「——あのさ、連絡会って何すんの」
リチャードは嗚呼と記憶を掘り返すように右上へと視線を泳がせた。黒革で唇をなぞり、言葉を選ぶ。
「今まで月に一度、浩文と一週間ほど外出することがあっただろう。少しばかりやんちゃなシニョーレたちとお茶会をするのさ」
リチャードはぴんと人差し指を立てて、極めてにこやかに言い放った。それに反してホセは眉間に皺を寄せ、表情を曇らせる。
「やんちゃな、って……誰だよそいつら」
刹那、カヴール広場に風が吹き込んだ。飆は落葉と彼の髪を再び巻き上げ、彼らの視線交錯を分断する。枝葉を揺すられ、地に堕とすのは点滅する木漏れ日。
「輓近【アダムズ・ビル】の靴を舐めた奴らと、な——さあ行こうか、ホセ。今日に限ってシエスタは適応外なんだ」
******
——同時刻、メキシコ湾海上にて。
「ボスが【アダムズ・ビル】の構成員だった……?」
浩文は脂汗を額に浮かべて、誰に言うでもなく悄然と呟く。
船倉の中はいつの間にか湿気と熱気が立ち籠めていた。丁度太陽がメキシコ湾の真上に来る時間帯なのだろう。直射日光に焼かれた甲板の熱が船倉に伝導していた。サウナと化したのは唯一外界と繋がるハッチが鉄製なのもあるだろう、重い蓋周辺の空間が心なしか陽炎が如く揺らぐように感ぜられる。
滝のように顎を伝って滴り落ちる汗。彼の流汗は絶え間なくスーツの黒いスラックスに落ちて、更に黒々しく染み込んだ。狭く暑苦しい船内であるからか、否、それだけではないだろう。
長い時間、視界不明瞭な中で不規則な海流に三半規管を上下左右揺さぶられていた。心許ないランプから漏れ出る油臭さも相まって、きっと中枢神経群にもその余波は現れているのだろうと思った。降って沸いた情報量に疲弊しているのか頭が痛い、ぐるぐると目の前が渦巻いた。
【アダムズ・ビル】は今回の依頼において、商会にとっての明確な敵であると言い換えても良い。
出生や過去に関して、相互干渉しないのが商会内における暗黙の律格だった。それ故、誰一人としてボスであるリチャード=ガルコの詳しい経歴について何一つ知らない。スウェーデン系移民の血を引くマルタ系シチリアン、40歳、男。やっとの事で脳味噌から引き出せた確かな情報はそれくらいか、全くもって笑えてくる程だ。
だからこそ眼前の片言英語を話す男のもたらした廣報は、浩文とファティマの両名の度肝を抜くには十分過ぎた。
ボスがあのビルの出身という事実。そして、【アダムズ・ビル】の崩壊を目論んでいること。
先程からやたらと喉が渇く。汗も止まらない。しかしこんなに蒸し暑いというのに当てもなく握った拳は震えているのか。
浩文は唯ひたすらどこまでも続く深淵に立たされた心持ちだった。触れてはいけない禁忌にべったりと手垢を付けたような、虎の尾を踏んだような、内臓が凝り固まる厭な予感が彼の胸中を占める。
そしてボスは平生ならば即決で承諾するような商談をもっともらしい理由を付け、渋った。その事はビルを抜けた理由、そして報復に値する何かと関係するのだろうか。
否、俺は何を言っているのか、しない筈が無いだろう。
【何】が彼を報復へと駆り立てたのか。【何故】ビルから身を引いたのか。【何時】までビルの人間だったのか。ありとあらゆる疑問詞が浩文の脳内を支配した。
9年前というと【アダムズ・ビル】と呼ばれる組織は、勢いこそあったもののそれほど規模が大きくなかった事を記憶している。しかし今では各国のマフィアを吸収買収懐柔し、肥え太りきった世界有数の反社会的組織である。
そんな組織に報復など果たして可能なのか。浩文は奥歯を強く噛み合わせながら、かつてのディンゴと同じ猜疑を抱いた。
ファティマも口元に手をやり、一言も発せずにいる。アバヤに覆われた表情の全容を伺うことは困難であったが、彼女の眉とその翡翠は明らかに動揺の色を湛えていた。
二人の反応に対しディンゴは愉快そうに口角を歪めて、左手をひらひらと振ってみせた。
「クク、アイツ本当にオマエらに言ってなかったとはナァ?……アー、嘘は吐いちゃいねえ、吐く必要が何処にもねえからナ。オレと出会った時にゃもう一匹狼だったみてえだがヨ」
ディンゴは今の今迄弄んでいた眼鏡を、持ち主の胸元に押し付けた。
すっかり腑抜けてしまった浩文は取り落としそうになりつつも、力の入らない両手で目を受け取る。習慣で何も考えずに眼鏡を掛けると、彼の指紋で視界は白く煙っていた。二人が邂逅を果たした血塗れたあの日のように。浩文は何となくレンズを拭うことが出来ずに、湿ったスラックスの上にて手を遊ばせる事しか出来なかった。
ディンゴは再び元の位置に腰を落ち着けて、左手でネクタイを緩める。誠実実直という人間性からはおよそかけ離れた人物ではあったが、普段から服装だけは着崩さずにしっかりネクタイを締めていた。ボタンを外すことはおろか袖を捲る所も、彼がトーニャスにいる三四日のあいだ一度も目にしたことが無い。
そうしてボタンを上から一つ、二つと外していく。その時初めて、浩文はディンゴが装飾品の類いを身に着けていることに気付いた。先端に小振りな石が結わえられている革紐を首から提げている。その石はどこまでも光を拒絶しきった色で、しかしどこまでも澄んだ光沢を湛えていた。それなりに多方面に博識な浩文であったが、天然石の事についてはおよそ門外漢にも等しく、今は引き下がる他無い。
彼の汗ばんだ胸板にはボタンを数個外しただけでも分かってしまう、抉り取られたような袈裟懸け状の裂創が何本も奔っていた。濡れた漆黒の巻毛は首筋や鎖骨一帯に張り付き、引き攣った筋繊維に従って汗が伝う。
当時負った傷も未だに残っているのだろうかと、無遠慮だとは分かっていたが浩文はどうしても彼の傷から目が離せなかった。
「だからボスは今回の依頼も承諾しかねていたのでしょうか」
浩文は彼の傷と例の石を見つめながら、ぼんやりと問いかける。
彼の視線に気付いているのか否か、ディンゴは鎖骨をゆっくりとなぞった後人差し指で革紐を張ってみせた。
「ン……さてどうかねェ?」
ランプの仄明かりに、胸元の石が鈍く反射する。
彼の話が終わった後、初めてファティマがおずおず口を開いた。
「でもどうして……一体何が理由でビルから離脱したのでしょうか」
「——その答えはアイツの口から直接聞きナ。ま、簡単に【その時】は来ねえと思うガな」
ディンゴが唇を舐めると示し合わせたかのように、やたら慌ただしい足音の後、ハッチが鈍い音を立てて真っ直ぐな陽光を通した。
直射日光に暖められた生ぬるい潮風と共に荒々しい語気のスペイン語が唾と共に頭上に降りかかる。相変わらずそれらの解読は出来ない。
ディンゴは間延びした声でクルー達に応えると、今しがたやり取りした旨を投げ、やおら立ち上がって伸びを一つした。
「おら立てヤ、もうそろそろ着港する時間らしい。上陸したらまずは【オレの部隊】を紹介してやるヨ」
ハッチへと伸びる錆びた梯子に手と脚を掛けようとしたその刹那。ディンゴは何かを思い出したように、胸ポケットから髪紐を取り出して慣れた手付きでその巻き毛を括った。
いつもは癖の強い長髪で隠れていた項と左頬の裂創が、その時初めて露わになる。汗の滴る歴戦の傷跡が目立つ首筋。引き攣った左頬は耳にまで達していた。
深く傷の残る其の横顔に、最早平生の軽薄さなど微塵も無い。
南米を統べ、組織に仇なす森羅万象をその爪牙を以て跪かせる【特殊高火力戦闘部隊「onyx」】その頂点に君臨する者、その人であった。
Ⅸ
- Re: What A Traitor!【第1章Ⅹ更新】 ( No.12 )
- 日時: 2018/05/27 14:13
- 名前: 日向 ◆N.Jt44gz7I (ID: .A9ocBGM)
- 参照: http://www.kakiko.info/upload_bbs3/index.php?mode=image&file=930.jpg
Ⅹ
ナポリ郊外バーストリートの深奥、そこが今回の舞台だった。
破顔する太陽と晴れ渡る蒼穹の目下、夥しい数の黒服と明度の低い高級車が狭い路地にひしめき合い、相反する無彩色を醸成している。そして本日路地裏の心臓となった建物周囲は武装した黒服らによって守られ、黴臭い酒場は一城の要塞へとその姿を変えていた。有象無象の手にはショットガンやライフルの小銃、懐には拳銃。銘々の黒光りする得物を見て、毎度のこと大袈裟では無いかとリチャードは嘆息した。ホセは広場より満員電車の中よりも幾らか緊張した面持ちで顕現した目的地を見据え、半歩後ろを付いてきている。しかしその歩みは依然として力強かった。
二人の足下にて敷き詰められた暖色煉瓦は無機質なコンクリートへと、いつの間にか其の様相を変えていた。瞬間スタックヒールの接地が甲高く移ろい、一段と大きく路地裏に反響する。此方に気付いた黒服の一人が訝しげに片眉を吊り上げた後、素早く銃を下ろしてリチャードらを恭しく出迎えた。
ようこそ、此方でチェックを、とマニュアル通りの案内にルール通りに従う。
建物入り口まで進み出るよう言われると、両手を挙げたままに金属探知機に掛けられる。そして胸元で警告音。リチャードは慣れた手付きで護身用のベレッタを第三者組織の黒服に預ける。彼の後ろでホセも同じくチェックを受けていたようで、不服そうな顔を隠そうともせずに懐の拳銃とフォールディングナイフを渡していた。
リチャードはサングラスをトレンチコートの衣嚢に仕舞う。彼は虹彩のメラニン色素が少なく日光に過敏な為に、晴天時の外出にサングラスが欠かせなかった。しかしこの先待ち受けるは【口喧しい闇】である。一縷の光明を手繰り寄せねば、この連絡会と銘打った深淵に勝機は見出せない。目の前を遮るものなど、もう不必要だった。
全てのチェックを受けた後、二人は蝶番が重々しく軋む音を共に聞いた。
牙城内部は案の定、暗かった。高度数のアルコールと煙草の匂いが彼らの足下へ擦り寄る。急激な視界明度の変化により現在視力は無いに等しく、その分鋭敏になった嗅覚と圧覚は殴打されるが如く刺激された。そして、一拍遅れて瘴気を蒼天下へ吐き出す重厚な閉音がもう後戻り出来ないことを、冷酷に告げる。
目が慣れてくると、先程と同じような黒服らが壁際に控えているのに気が付いた。それほど大きくはない室内に10人程度。しかし外にいた人間とは明らかに異なる雰囲気を纏っている事は容易に察知し得た。舐めるように全身を品定めし威圧する双眸、そして明確な殺気が彼らの肌の表面を焦がした。
仄暗い空間に低彩度の間接照明が揺らめき、陰影を幾重にも作った。黒い肉壁を横目に部屋中央に向かって歩みを進めると、例のアルコールと煙草が綯い交じった異香は強くなる。リチャードは背後でホセが息苦しそうに咳き込む音を聞いた。
そしてヒールは一定の拍子を保ったまま小気味良い音を鳴らし、ようやく本日の賓客と相見えた。
空間最奥に三席。
向かって左にてドメニコ=カストランテ。イタリア全土の禁輸を取り仕切りナポリの密輸王と呼ばれる、紳士然とした初老の男である。
中央にてヴィニシモ=ジョルジョ。イタリアでは売春禁止法が定められているが、彼はその法の目を掻い潜り会員制の裏風俗サービスを経営して巨万の富を得ているという。でっぷりと腹の出た彼はリチャードを見るなり下卑た笑みを浮かべた。
「——よぉロメオ。遅れてくるとは、随分と良い御身分だな? おい見ろドメニコ、どうやらこのデカいマルチーズは礼節というモノを知らんらしい」
ジョルジョは口髭を右手で弄びながら、高い位置から象のような脚をテーブルに振り下ろした。その衝撃により飲み残しが煌めくグラスと酒瓶が飛び跳ね、転がり、墜下。茶色の酒瓶は派手な音を立てて割れ、グラスの内容物は虹色に飛び散った。ジョルジョは椅子にふんぞり返り、鼻を鳴らす。
リチャードは以前よりこの男の相手が不得意だった。
紳士とは程遠い振る舞い、美意識の欠片も無い体型、粗野な言動。その全てがジョルジョを敬遠する要因となっている。
リチャードはボルサリーノを左手に、右端のソファに浅く腰掛けながらジョルジョに回答した。
「——ああ、14時開始でしたな。純金のモデルノは計時もお早いようで?」
リチャードの返杯を受け、ジョルジョの顔から余裕ぶった笑みが消える。彼は金時計輝く左手を中空に遊ばせ、低い声で呻る。
「……口の利き方に気ィ使えよマルチーズ」
こめかみに青筋に浮かべたジョルジョをドメニコは一瞥し、静かに問うた。
「付け人の中国人はどうしたんだね?」
「彼は出張にて出払っておりますので。本日はその代わりの者が私の傍に控えています」
リチャードはドメニコをひたと見据えて答える。それを聞いた彼はふむと首肯し、皺の多い手を組むだけでそれ以上は何も言わなかった。
密輸王ドメニコ、やはりジョルジョとは貫禄も気韻も格が違った。彼が顧問を務めていた密輸組織は古来よりナポリに拠点を構え、その類い希なる商才と組織自体の質の高さからイタリア全土をその手に掌握し、支配してきた。裏社会におけるドメニコの采配と武勇伝には事欠かない。ビルが西欧に進出してくるまでは、確かに彼の組織がラテンヨーロッパ有数の巨大勢力だった筈だ。且つ最後までビルには吸収されまいと闘っていた事も記憶に古くない。リチャードはこの誉れ高きナポリの雄、ドメニコ=カストランテなる男がそう簡単に【アダムズ・ビル】の軍門に降ったとはどうしても思えなかった。
リチャードがビルにいたことはドメニコ、ジョルジョの両名とも把握していない。幹部だった、とは言ったものの【パレルモ支部のボスに昇進して直ぐにビルから離脱した】という理由付きだからだ。
そしてその前提でこの連絡会を乗り切らねばならない事は、極めて大きな困難となってリチャードの肩にのし掛かった。本日の議題はどうせ視えている。どんなにボロを出そうがこの場で即刻どうこうされる可能性は極めて低い。しかし如何に商会の経済的リスクを減らし、そして如何に自身の保身を図るかが本日の彼のタスクだった。こんなところで終止を迎えて良い訳が無い。
「チッ……その青臭いガキがかぁ? 【トーニャス商会】の人員不足も相当だな」
「ッ——!?」
ジョルジョは後ろに控えるホセを一瞥して、嘲笑するように鼻を鳴らした。
ホセは拳を震わせ、歯を食い縛り顔を俯かせ必死に抑えている。それはかち合うバングルとリングの金属音が此方まで聞こえてきそうな程で。
どんなことがあっても椅子に座る者の目を見てはいけない、これもナポリ出発前に彼に申し付けた事だった。平生より気の短い彼のことだ。連絡会に来る道中含めて慣れない服装、場所、雰囲気に相当神経を磨り減らしているに違いない。
彼は未だ年相応の青年であるのだ。此処で何か言葉を掛けたとしても、いつものように彼の神経を逆撫でする結果に終わるかもしれない。だがそれでもやらねばならない事があるのだ。
否、彼の為だと偽善をかます余裕など無い。今はどうしても己にこの場を凌ぎきる呪詛を打たねばならなかった。
眉間に皺を寄せ拳を握り締めるホセに、リチャードはそっと目配せをした。ホセも視線に気付く。そして存外素直に歩み寄ってきた。自分と同じ整髪料の芳香、手入れし過ぎた短い眉にあどけなさの残る唇。
傍に寄った刹那、耳打ちをした。
「Not a problem at all.Trust me,Jose(何も問題無い。ホセ、俺を信じろ)」
信じろ、か。
虚勢を張って命令形を使ってはみたものの、所詮は相手の出方次第でどうとでも転がされる。何しろ二対一の完全なるアウェイだ。どれだけ保身に回っても【無傷】とはいかないだろう。我ながらよくも薄っぺらい事を嘯いたものだ、と嘆息してゆっくりとホセの顔を見上げる。
また、今まで見たことの無い顔をしていた。
踵を返して後方へ戻る刹那に垣間見えた傷ついたような、泣きそうな、胸を衝かれたような表情。それはディンゴからイタリア残留を宣告されてから、時折彼が見せるようになった表情とよく似ていた。
一瞬たじろぐリチャードだったがこの戦場は待ってはくれない。
「内緒話は宜しくねえなあ」
ジョルジョの地の底から響くような声色でリチャードは一気に現実に引き戻された。
彼は相変わらずの癖か、右手の親指と人差指で口髭を弄っている。リチャードは改めて小さく息を吐いた。
余計な思考を挟むな、どう展開すれば有利に場を作れるか考えろ、ジョルジョは逆上せやすい分まだ御しやすい。取り繕え、活路を見出せ。
「は、これは誠に申し訳御座いません。英語です、シニョーレ=ジョルジョ。不得意で在らせられましたかな?」
「何だと——?」
計画通りだ、乗ってきた。【本題】が来る前に何とか場を攪乱し、核心を突く準備を整わせなければ良い。いつもなら本題に入るまでまだ時間はある筈だ、引き延ばせ、見失わせろ。
「御二方、漫談はそれ位にしてくれるかね。——さて、議題は分かっているだろう。勿論【アカプルコ・カルテル】の動きについてだ」
しかし無情にも審判の喇叭は吹かれてしまった。彼らを出し抜くにはあまりにドメニコの存在が大きかった。彼は場を知っている、小手先の交渉人心掌握術など無意味だ。
ジョルジョも平静を取り戻したらしく卑俗な笑みを浮かべ、ここぞとばかりに追及してくる。
「てめえら商会がカルテルと組んでるってのはここらでも有名な話でなあ。まあ……あんだけ図体のでかい組織だから、否が応でも情報は入ってくるんだ。それこそ【否が応】でもな」
何とか解を捻出する。この期に及んでカルテルとの関係性を取り繕うことはむしろ自殺行為だろう。
「ええ。否定は致しません、否定する【理由】すら私どもにはありませんゆえ。連絡会発足当時から申し上げている通り、商会は中立を謳う組織です。如何なる組織とも利害の一致の末に取引こそすれど、共同歩調をとることは無い。それは即ち、私どもがカルテルと取引に及んでいたとして【貴殿らに咎められる理合いにも無い】ということです」
「おいおい。取っ替え引っ替えすんのはトロイアだけにしとけよ。種馬宜しく手前の後始末が出来なくなる前にな」
下品な男だ、とリチャードは再度ジョルジョを軽蔑した。その仕事ぶりも普段の言動について何一つ賛同するどころか尊敬に値する箇所など見つかりやしない。つい睨め付けてしまいそうになるのを理性で押さえ付けた。
相反してドメニコは冷淡に、そして的確に核心へと距離を詰める。
「しかしね——もはや黙認するわけにもいかないんだよ、商会の」
どうしたものかとリチャードは歯噛みするしかなかった。平生ならば情報交換で終わる粗略な連絡会だった筈だが、今日はやけに食い下がってくる。米墨国境戦争に派兵したのはもう割れているということなのだろうか、いや流石彼らの情報網を以てしてもそれは無いだろう。先程のような回りくどい言い方をしなくても、最初に突き付ければいいだけの話だ、そこは安心して良い。
忘れかけていた焦燥が大手を振って遠くから駆け寄ってくる。何かこの場を切り抜ける良い方法は、と脳味噌を回転させようとするもエンジンが全く掛かってくれなかった。それは何故か、いつも人間と対話するときには欠かさなかったパルタガスの紫煙が無かったからだ。
リチャードは無意識のうちに葉巻に手を伸ばしてしまっていた。
いつものルーティン通りに唇で柔く挟み、デュポンを探る。いつもの衣嚢に硬さを感じない違和感。
気付いたときにはもう遅かった。
そうだ、ホセに預けてしまっていたのだ。知覚した刹那、リチャードは爪先から血の気が引くのを感じた。奥歯を強く噛み合わせると、所在ない葉巻も圧力で軋んだ。
さしずめ始原の人類様に仇をなす大馬鹿間抜けのエテ公か、傑作だな。畜生あの時渡さなければ、とホセへの憎悪もその時脳裡をよぎったのかもしれない。しかしもう疲弊しきった中枢神経は物を考えてはくれなかった。
もう次の行動を選ぶ選択肢すら出てこない事への諦観が脊髄から這い上がる。
一弾指、暗闇にて馴染み深い整髪料が香った。それは葉巻を咥えていても強く、有り得ないほどの薫風で。
目の前を掠める白と赤の影。それは急降下して、衣擦れの収束と共に落ち着く。
そして数分の間もなく、化粧板がかち合う心地よい反響が低い天井を衝いた。
俄には信じ難かった。しかし顔に当たる薄灯りと、口内に満ちるパルタガスの味は真実を告げる。
彼は他組織の眼前で【俺に跪いて忠誠を誓った】のだ。あの時あの場で【あの野犬】にさえしなかった事を、だ。
ホセの選びとった自己犠牲と奉仕。【それ】が成す意味を理解した時、脊髄に残る諦観は椎間板へ押しやられ、痛い程に脳髄を揺さぶった。全神経がさっさと麻薬を出せと視床下部に指令を喚き散らす。
俺はどうやらホセ=マルチネスという男を見くびっていたらしい。
そうか、端っからこれを狙っていたんだな。全てお前の計算尽くで掌の上。何て見上げた奴だ。成る程愛玩犬と言ったこともあったか、馬鹿も休み休み言え。訂正させろよ、奴はとんでもなく理性的且つ獰猛な【番犬】だった。
胸が熱い、年甲斐も無く武者震いが止まらない。不意に笑みが零れそうになるのを唇を噛んで堪えていると、マンマの味より親しい鉄錆の味が口内に広がった。俺は今どんな顔をしているのだろうな、きっとひどい間抜け面を晒している。あいつらに漏れ出ていなければ良いが、いやしかし、これは駄目だろう。否だ【こんな事】を我慢出来る奴がいて堪るか。
彼の手により染み渡るニコチンとパルタガスの馨香は、麻薬が如く甘ったるく脳を犯す。煙脂の染み込んだ髄液は沸騰する。
お前はどんな思いで、どんな顔をして俺に頭を垂れたんだ。なあ、教えてくれよ。その献火にどんな祈りを捧げたんだ。
【ファミリア】から【ファミーリャ】への転遷。毒棘を有す外殻を受容し、彼は自身の牙で噛み砕き嚥下した。小さな体では背負いきれない幾重の苦悩がそこにはあっただろう。嗚呼、何て皮肉なもんだろうな。
良いだろう良いだろう、英断の代価にお前の望む終焉をやる。どれが良いんだ、幾億通りから選べ。
身命を賭して自分の【家族】を護るのが【お前のボス】ってものだろう。
俺自身の保身なぞ知ったこっちゃねえ。肉も切らせて骨も裁て、最後にお前の血が此処に流れていなけりゃ【意味】が無いんだ。
「——時に、シニョーレ。昨今、偽ユーロ札の流通が急増していることをご存じでしょうか?」
「プータじゃねえんだ。論点をずらすんじゃねえよ」
偽ユーロ札、その単語がジョルジョの鼓膜に届いた須臾に彼は瞼を痙攣させた。
喰い気味の返答がジョルジョを穿ち得た銃弾だったことを確信する。彼は空のグラスにウイスキーを注いで一気に煽った。あまりに狼狽した手付きだったもので、テーブルに飛沫が千発跳弾する。相変わらず感情を支配するのが蕪雑な奴だ、どうしてこのような人間が人の上に立っているのか不思議でしょうがない。
リチャードはドメニコの片眉の角度が急になるのも見逃さなかった。
「【勅令】には無い筈です。——ああ、何故お前が知っているか、そんな顔をしていらっしゃいますね? 【あれだけ図体のでかい組織ならば、否が応でも情報は入ってくる】んですよ。それこそ【人員不足の深刻な商会】にも、ね」
リチャードはジョルジョに柔く笑いかける。偽ユーロ札の蔓延、これは唯の憶測でしかない一つの大博打に過ぎなかった。不発が恐ろしく、どうしても出せなかった切り札。しかしヴィーナスはリチャードにキスをした。
元来【アダムズ・ビル】とは米ドル偽札密造を主産業としていた団体である。今でこそモノカルチャーではなく細分化が図られ、組織を形成しているが偽造紙幣が現在も大きな収入源となっているのは変わらない。
そして昨今、ビルは懐柔吸収した組織に印刷機を貸与し世界各国で米ドル紙幣を大量に印刷させているという話を耳にした事があった。
ここで幾つもの手掛かりを元に理論を組み立てる。異様な数の偽ユーロ札の流通、ビルに最後まで抵抗した密輸王の存在、ここから導き出せる仮定は一つしかない。
それは彼らが親に唾を吐き、偽ユーロ札を独自ルートで製造している事実だった。
「何が言いたい」
先刻よりしわがれた声でドメニコが呟いた。
リチャードはパルタガスの紫煙を喉奥で寸止めし、口内で転がし、一挙吐き出す。
肘掛けの一部分が灰皿になっている事などその時は露知らず。パルタガスの腹を柔く擽り、床に灰を零した。
「【アダムズ・ビル】は貴男方が思うよりずっと狡猾で、恐ろしく、貪欲だ。私は【何の因縁】か、それを【痛いほど知っている】のです。さて、シニョーレ……アダムの堕とした林檎を囓ったが最期、楽園から永久に追放されてしまうかもしれませんな——?」
Ⅹ
- Re: What A Traitor!【第1章ⅩⅠ更新】 ( No.13 )
- 日時: 2018/12/01 01:28
- 名前: 日向 ◆N.Jt44gz7I (ID: on4ShBGJ)
- 参照: http://www.kakiko.info/upload_bbs3/index.php?mode=image&file=941.jpg
ⅩⅠ
かの連絡会の顛末はというと、驚くほど呆気無かった。
リチャードは全弾撃ちつくしの完全ホールドオープン、後は撃たれるか否かを両手を挙げて待つのみだった。先の通り証拠不揃いの一か八かの異端審問である。一歩間違えれば十字架に磔になっていたのは此方だった。大博打だとは分かっていても【家族】を、自身のファミリアを守るためにはあれしか選択肢は残されていなかったのだ。
例の科白と暫しの沈黙の後、ジョルジョの護衛と思しき黒服が焦ったように三竦みに割って入り、彼に耳打ちをした。すると彼は短い足を振り子のようにして勢いよく椅子から立ち上がり、上擦った声で金時計を見た。
『おっと時間のようだ、済まないがオレは忙しいんでな。まあまあ今日はここでお開きにしようじゃないか、なあドメニコ。それと——命拾いしたなマルチーズ』
自らの零した蒸留酒に足を取られ躓き、黒服に両脇から支えられて会場を後にしたのは大層滑稽だった。
そうして欠けた三竦みにドメニコと唯二人取り残されたリチャード。互いの無言の牽制が空間を占めていたが、ドメニコが先に席を立つとそれも終演を迎えた。付け人が音も立てずに彼へ歩み寄る。
神の采配によって幾千もの黒い勝利を掴んできた筈の喉はいつの間にか疲弊しきって、ただの風穴へと劣化していた。
『まるで全てを見てきたかのような口振りだな』
リチャードは遠ざかるドメニコの背中へ向かってそれに応えるように独白した。しかし彼の鼓膜に届ける気など毛頭無い。
『俺の視てきたものが【全て】じゃないさ』
重厚な扉が彼の為に開かれたのだろう、気圧差で生じた突風が酒帯びの空間へ吹き込んだ。青空の下で遊んでいたはずの飆は仄暗い牢に幽閉され、リチャードの髪へ不安げに絡みつく。
そして君主と番犬は一拍子遅い鉄扉の閉音を、再び二人で聞いた。
「なあホセ」
「ん、ホセ?」
「シニョーレ=マルチネス?」
ホセとリチャードの二人は現在サンタルチア港にいた。引き続きの快晴とナポリに着港しているクルーズ船のフラッグがこの青空に虹を添える。
リチャードは連絡会以降一言も発さないホセを心配に思って、声を掛けてみるのだが一切返答が無い。短い眉の距離を近くに保ったまま不機嫌そうに唇を尖らせて押し黙って、前を見据えているだけだ。しかしリチャードはどうしても【例の献火】について彼の真意が知りたかった。でもそれを聞くのは今ではない、とりあえず今は彼の言葉が欲しかった。
彼はゆっくりと一つ瞬きをすると、晴朗な顔でホセを呼んだ。
「ぺぺちゃん……?」
リチャードは彼の堪忍袋の緒が切れる音を聞いた。彼の狭い瞳孔が外に出てから初めてリチャードを真正面に捉える。
「あんだよさっきからいちいち人の名前呼びやがって! いちいちうるせえンだよアホか!? てめえがな! いつもみてーにな! ポンコツだとな!オレが恥かくんだよ!! 今度それで呼んでみろ……てめーのポジャ引き抜いて卵城に埋めてやっかんな」
ホセは小さな咆哮の句切りごとにリチャードの分厚い胸板を小突く。
リチャードは平謝りと苦笑いで彼をなだめようと務めたが、いつもと何一つ変わらない様子の彼にかえって不思議と安堵感を覚えた。
ホセは舌打ちを一つして犬歯を剥き出したまま、懐からデュポンのライターを取り出すとリチャードにぐいと押し付けた。
「チッ——何がやんちゃなシニョーレだっつーの。胸糞悪いジジイばっかじゃねーか。は、あいつらてめえがビルの元幹部だって聞いた日にゃあ、お上品なスーツの中に一等でけえのをぶちまけるに違いねえな」
ホセはどこか得意気に鼻を鳴らしてリチャードを横目に伺った。ホセのハードワックスで整えたオールバックは潮風に煽られ、朝と比べて自由を得てきていた。
サンタルチアのディープブルーはリチャードのサファイアに層一層深い蒼を与える。蒼玉を縁取る金刺繍は地中海を過ぎる日輪に照らされ、ナポリの透明な空気に溶かされた。
「俺はもうビルの人間じゃあないさ。今日は肝が冷えた、もうあんな綱渡りは御免だな。浩文とファティマが無事だと良いが——」
言いかけて、リチャードは少し後悔した。
ホセは自分の【家族】であると共に唯一の拠り所だった本家が面する窮地を前に、直属の上司からイタリア残留を言い渡されたのだ。こればかりは【戦力外通告】即ち【捨てられた】と思っていても仕方が無い。
自分が蚊帳の外に追いやられた問題を再び掘り起こすべきでは無かったな、とリチャードは頬を掻いてホセに掛けるべき言葉で脳内検索をかける。
しかしホセはリチャードと同じく水平線へと視線を投げて、苦々しく笑ったのだった。眉は鈍角を作り、青い風に揺れる前髪。
未だ斜陽になりきれない日輪が彼の横顔にセピアの陰影を作る。例の、濡れた瞳だった。
「ああ……そーだな」
リチャードはこの表情を前にして未だに対処法を見つけられないでいた。不可侵の深淵を覗く、その代償は如何程なのか。
そして突如として、リチャードは一度も食事を共にしたことが無かった事を思い出した。休日は商会員らに手製のパスタやティラミスを振る舞うことも多々あったが、その席にいつもホセの姿は無かった。
二の句はこれしか考えられなかった。
「そうだホセ、お腹空かないか?」
リチャードは黒革に包まれた人差し指をぴんと張ってホセに微笑む。相反してホセは瞼を擦って、唇を尖らせた。
「別に、何か物食う気分じゃねーし。だいたいあんな空気の悪いとこに長居すりゃ気分も悪くなるっつーの——」
それを遮って腹の虫が大きく鳴き、ホセの顔は一気に紅潮する。それが出港直前のクルーズ汽笛と奇跡的に重なり、リチャードは堪らず噴き出してしまった。
「ふふっ、この近くになかなか雰囲気の良いトラットリアがあるんだ! 少々遅い時間にはなってしまったが、そこでランチにしよう」
******
あれから一時間もしないうちに、カルテルの船はメキシコ湾沿岸にある寂れた小さな町に着港した。
光を乱反射して輝く澄んだ青と深い緑が占める手つかずの自然、南国と形容するに相応しいパノラマがそこには広がっている。
トーニャスも山々に囲まれた自然豊かな土地であったが、生えている植物も空気の香りもまるで違う。干された藁束の香ばしい匂いと肥沃な泥の湿気に正対する爽やかな潮風。しかし、一番の相違点は太陽だった。商会本部は厚い雲を捕らえやすい山間部にあるので、見上げるのはいつも曇り空だったことを記憶している。雨も多く、日照時間は比較的少ない。トーニャスにいた時よりもずっと陽気なそれに、いつもより近くでつむじを焼かれているような気さえする。
異様に長い釣り竿や錆びた小舟らは、黒ずくめの来訪者に怯えるように木造廃墟入り口から此方を伺っていた。それらの背後には鬱蒼と生い茂る森と苔むした丘陵。潤沢な湿度を内包するジャングルに船倉とはまた違った熱線が、彼らを真上からじりじりと焦がした。しかし高らかに笑う太陽とその輩の歓迎は決して不快なものではない。
鋭角に射し込む陽光、憎たらしいほどの快晴と前髪を揺らす潮風に、浩文はレンズの奥で目を細める他無かった。いっそのことスーツジャケットを脱いでしまおうかとも考えたが、それはやめた。どれだけ【破り捨てた】としても消えることない【青龍】の刻印が彼を引き留める。どこまでも青過ぎるメキシコ湾の蒼穹を見上げて、仮初めの涼を感じるように努めた。ボタンに掛けようとした手は暫し虚空に彷徨わせた後、元通り体側に下ろした。
船から降りる瞬間、ファティマの頭部を覆う黒いニカブが首元から透明な風を孕んでふわりと膨れた。どこまでも光を掴んで離そうとしない足引きのアバヤがたなびき、空と山の境界に一点の黒を滲ませる。
上陸直前、元々は活気溢れ地元住民らの喧噪で賑わう漁港だったとディンゴから聞いたが、いざメキシコの地に降りると真っ昼間というのに人の姿は何処にも見られなかった。決して大きくは無いが、人々の息遣いや生活感が未だ残る漁港。何故かとディンゴに尋ねると、マフィアの抗争の為だと彼は一言端的に告げた。
メキシコは決して安寧とした土地とは言えないが、とりわけ国境付近は治安が悪い。
今でこそ【アカプルコ・カルテル】が南米一帯の麻薬カルテルを統合し、製造から流通に至るまでの一切を管理しているが、一昔前まではこの湾岸一帯も流血が絶えない土地だったという。マフィアやギャングに類いする者たちは自らが信ずる血の掟や信条のもと、民間人を巻き込んで抗争を繰り広げることは滅多に無い。しかし麻薬カルテルは違う。組織に仇なし、行く手を塞ぐ者は女子供であろうと慈悲など無い。カルテルに噛み付いた人間には身体が許容し得るありとあらゆる苦痛や責め苦を与え【見せしめ】とする。ディンゴから聞く話によると、カルテル協定を周辺組織と網羅する以前の2000年代は酷かったという。修羅の国メキシコ、その悪名は地元警察組織に片頭痛をもたらした。上がらない検挙率、蔓延する殺人や遺体損壊。そこでカルテルはその状況を利用し【アカプルコ・カルテル】は警察組織や政財界と強固なコネクションを創り上げたという。元々南米全土を統合する気でいたカルテルにとっては都合が良かった。警察や政治家らと設立当時より脈々と受け継がれる太いパイプの存在と、現在の地位に君臨する【アカプルコ・カルテル】。カルテルは必要悪として秩序を創造し、公的機関は麻薬の拡散を黙殺する。
必要悪。これまで己の生きてきた道を鑑みると、その単辞は巨大質量を以て浩文の内臓の奥底深くに黒く沈殿した。
暫く歩くと、ジャングル入り口の脇に大きな迷彩テントが幾つも張られているのを発見した。
森に溶け込む軍用パップテント、その中心を陣取る本拠地は奥行き面積ともに小さめの家屋ほどあるだろう。生ける神話と評される部隊を目の前にして、否応なく心臓は早鐘を打つ。
二人は生唾を飲み込み、ディンゴに先導される形で恐る恐るテントの中に入った。
「【トーニャス商会】の胡浩文とファティマ=ムフタールだ。まあ……さしずめ共に今回の作戦に参加する【仲間】ってコトになるナ。出来る奴は英語で対応しろ、オレもこっからの総指揮は英語で執ル。は、お前ら間違っても噛み付くンじゃねーぞ」
どっと巻き起こる笑い声がテントの支柱を揺さぶった。
今のはもしかして気の利いたジョークだったんだろうか、と紹介の為に前に立たされた浩文は咄嗟に作り笑いを浮かべる。
それほど自身の思い描いていた【特殊高火力殲滅部隊『onyx』】と【彼ら】はあまりにも似つかなかったのだ。
取り留めの無い会話を楽しみ、軽口を叩き合い、そして笑い合う。彼らが裏社会にて暗躍する神話だとは未だに信じられない。
ディンゴに連れられて中に入った時もそうだった。罵詈雑言、出会い頭の投石や銃口を向けられることすら覚悟していた。他を寄せ付けない徹底的な排他性を持った冷徹なプロフェッショナル集団、豪毅な猛者共の戦列という先入観。しかし【現実】は、自分たちの横を通り過ぎる浩文とファティマを一瞥したのみで隣に座る隊員と再び【世間話】に興じる中年の男たち。スペイン語の意味は分からないが、彼らの言動からは拒絶や抗拒など何一つ感じ取れなかった。
【逸話】の通りの極限状態を生き抜いてきた人間が醸成する雰囲気では無かった。
状況をいまいち噛み砕けないまま棒立ちでいると、ひしめき合う隊員の中から立ち上がった一人の男が、浩文とファティマ両名の元へと歩み寄った。
「【onyx】副隊長、キューバ出身のロバートだ。君たちの世話役を頼まれていてね、気軽にボブとでも呼んでくれ。首領と隊長から話は通っている、短い間だが宜しくな」
禿頭の偉丈夫。ロバートはその字面と正に合致する容姿をしていた。
スキンヘッドに不釣り合いな程の剛毅な眉、迷彩服の上からでも分かる分厚い筋肉、よく通る芯のある声、強い意志の光を宿すヘーゼルカラーの瞳。そして腕まくりした肌に刻まれた歴戦を物語る幾多もの創痍。外柔内剛の豪傑、ロバートは浩文に向かってにこやかに手を差し出した。
浩文は眼鏡の奥の瞳を丸くして、ロバートの手を柔らかく握り返す。
「よ、宜しくお願いします……」
節くれ立った太い指と短く硬い爪、そして傷を重ねるその都度再生してきた皮膚はまるで巌のようだった。
ロバートはもう一度浩文に微笑みかけると、ファティマの方へ向き直り同様に握手を求めた。
「あ……私は」
ファティマは眉を八の字にして、黒に包まれた手を抱いた。怯えたように軽く俯き、上目遣いにロバートの表情を伺う。シャリーアにおいてムスリムの女性は男性に触れることは出来ないのだ。
ロバートは一瞬弱ったような顔で片眉を吊り上げたが、すぐさま合点がいったように頷くと豪快に笑いながら手を下ろした。
「ん? ああそうか! これは失礼したな、気を悪くしないでくれ。ええと……そうだ、ファティマさん。男ばかりで暮らしにくいこととは思うが、生きて仲間の元へ帰るまでの辛抱だ。宜しくな」
「お気遣い感謝しますわ! こちらこそ宜しくお願いします!」
ファティマは表情をぱっと明るくして、ロバートに応えた。
異なる宗教文化にも寛容で、ファティマが説明せずとも理解し得た。成る程この隊の中でも信頼され、その地位に就いている訳だ。
ロバートが二人に着座を促すと、腕を組んで控えていたディンゴが前方中央に進み出た。二人は隊員らの波をかき分け、混じ入って後方端のシートに腰を落ち着ける。
「まあ早速だガ……今回の対【アダムズ・ビル】米墨国境戦争についての作戦会議を始めル」
鶴の一声、否、野犬の寡言が亜空間へと塗り替えた。
これまでテントに溢れていた音が一瞬で消えたのだ。暖色の消失。呼吸音さえ許されない切迫、メッシュ素材の衣擦れ音だけが防弾防音繊維に柔く吸着する。
太陽光が燦々と降り注いでくるメキシコ湾岸に屹立する密閉性の高い容れ物、そんな中など暑いに決まっている。拭っても拭っても玉のような汗が滝のように噴き出し、体は水分を欲する、筈だった。
張り詰めた亜空間は氷河を湛えた。凍て付く二酸化炭素の境界線は二人を刺す。
「アメリカに送っタ潜入部隊によると、三日後の早朝——21日払暁、ココの……国境付近ジャングル識別番号Aのドラッグプランテーションに焼き払いが仕掛けられるらしイ。警護を終えてオレたち【onyx】とカルテルのソルジャーが交代するこの一週間で決着を付けるおつもりだったンだと」
ディンゴは国境付近の詳細な地図と鳥瞰図、最後に衛星写真の三つをホワイトボードに貼り目的地を指した。どうやら今回の作戦の要であるプランテーションは街中から比較的近い場所にあるようだ。
そして彼は引き攣った左頬を吊り上げた。
「ヤツラの攻撃を待つ道理なンぞ無い。コッチからぶっ放してやれ」
ホワイトボードの余白に黒マーカーで追加情報を書き込んでいく。緯度経度方角距離と時折綯い交じるは数字とアルファベットの混合コード。癖のある字だが解読する云々には至らない。
一通り情報修飾が終わったところでディンゴはボードに背を向けた。
「だが——あンの【子犬】が言ってたコトも間違いじゃねえ……。率直に言っテ、今回でビルのくるみ割り人形を殲滅するのは不可能ダ」
平生よりも低い声で端的に告げる。彼の言う【子犬】には心当たりがあった。一週間程前に商会を飛び出してからというものの彼についての情報連絡は皆無で、今どこで何をしているのかも分からない。どうせ今も社長を困らせているのだろうと、浩文は呆れ返ると共に一欠片の郷愁を覚え嘆息した。
色濃くなる無音と黙。しかしそれを割る者がいた。
「た、隊長——!」
副隊長のロバート。彼は眉間に皺を寄せて立ち上がった。士気を高めるべき作戦会議で敗色を仄めかすなど言語道断だ、と言いたげな面持ちで。しかしそれだけ逼迫した状況にあることはカルテルに明るくない浩文とファティマでさえ歴然だった。
しかしディンゴは鋭利な三白眼でそれを制す。
「ボブ、手前が一番分かってンだろうガ。ナパームの詰まったランチバスケット持ってピクニックと洒落込むのは訳ねえ。だがヨ、ココにはどうしても覆せねえ人数差が生まれちまう。今回動員されるビルの歩兵は300人、それに対して【onyx】は総員30名……ッと、32名だったナ?」
ディンゴは人差し指の腹で唇をなぞり、後方に腰を落ち着けている浩文とファティマに目配せをした。
「そう躍起になって野郎共の汚え尻なンざ追い回さなくたっていいンだヨ。【onyx】はそんなに阿呆じゃねえからナァ……テメエのリビドーなんざ捨て置け、お上の利益が最優先ダ。これ以上プランテーションで【あぶり】をさせねえように、今は退かせれば良イ」
野犬は首元の革紐をなぞり、漆黒の縞瑪瑙を指先で弄ぶ。三つの地図と隊員らの顔を見比べ、そして息を深く吐き出すと唇を舐めた。
「一つだけ方法がある。オレ達【アカプルコ・カルテル】にしか出来ねェ勝ち方が、ナ——」
三日後黎明、戦乱は静かに鎌首を擡げる。
ⅩⅠ
- Re: What A Traitor!【第1章ⅩⅡ更新】 ( No.14 )
- 日時: 2018/06/10 16:36
- 名前: 日向 ◆N.Jt44gz7I (ID: /48JlrDe)
- 参照: http://www.kakiko.info/upload_bbs/index.php?mode=image&file=6145.jpg
ⅩⅡ
ホセ=マルチネスは非常に参っていた。
「さあ、冷めないうちに食べてくれ! ナポリの中でもここはカルボナーラの隠れた名店でな。人でごった返したりもしてないし、雰囲気もなかなか良いところだろう?」
「あ……あー、うん」
「どうした? 遠慮しなくても良いんだぞ、俺の分はもう少し後で持ってきてくれるだろうしな」
ホセが見下ろす先には綺麗に盛り付けられ、ほわほわと湯気を立てるカルボナーラが鎮座していた。
濃厚な鶏卵とチーズクリームで飾られたスパゲッティ=アッラ=カルボナーラ。この店では塩分の多いペコリーノチーズが使われているらしく、老若男女世代問わず人気があるらしい。中央にて多めに振られた黒胡椒が、それらをもたつかせることないようアクセントの役割を果たしている。そして、この薄くスライスされた豚肉の塩漬けこそがこの店の魅力なんだ、と眼前のイタリア人は言っていた。
四十路という年齢と、凡そ業深きその身にはそぐわない無邪気な笑顔でプレートを勧める。何も知らないような顔で微笑みかけるのだ。
朝から何も口にしていなかった空きっ腹の彼にはこれ以上無い御馳走だったが、その薄い胸は焦燥と欺着に締め付けられるばかりだった。
もう誤魔化せない。
「別に……そういうわけじゃねーよ」
彼は下唇を噛んで、犬歯をかち合わせるしかなかった。
******
入店の鈴は小気味良くころころと笑った。
結局、断り切れずに連れてこられてしまったのだ。腹の虫を大きく鳴かせてしまった手前、頑として拒絶すれば逆に怪しまれてしまうだろう。しかし牙を剥いて反撃する気にさえならなかったこともまた事実だった。
先の連絡会と【これまで】の途次、もう【そんな事】しなくても良いのかもしれない、そう思える程で。
サンタルチア港からそう遠くない場所にそれは静かに佇んでいた。港から街の方へ少し歩いて、大通りに入る。そして大通りから小道に抜けて、角を二つ曲がる。その後に相見える急な坂を登った頃にリチャードは顔を綻ばせた。もうここまで来てしまえば海鳥の鳴き声は聞こえなくなる。
しかし、彼の言うようなナポリの隠れた名店などという出で立ちでは決してなかった。蔓が這う煉瓦の外壁、煤けた鎧戸、扉口へと誘う崩れた石畳、赤錆びのせいで店名を解読出来なくなった吊り看板。手入れはそこそこな外観でお世辞にも別段流行っているとは言い難かった。
蒼穹下の清新な午後、そしてシエスタの微睡み漂う街中の甘い雰囲気と相まって気怠げなその暖色はトーニャスの煉瓦路地をどこか想起させる。地中海由来の南風が昼下がりの坂を駆け上り、二人の頬をそよと撫でた。
何の変哲も無いトラットリア、もしかするとネガティヴイメージすら付きかねない外観。だがトマトソースの爽やかな薫風と、暖かな木製燻製香が店舗の出窓から逃げ出しているのを鼻できくと、否応なく食欲はそそられた。
廃棄されたばかりで若干の熱を帯びる肉片より美味しいものがあると知ったのはトーニャスに来てから初めて知ったことだった。町市場で売られている豚肉の燻製やチーズを恐る恐る口に放り込んだ時の感動は凄まじく今でも忘れられない。人々の活気は香辛料、泥と藁が香ばしく彩る景色はありありと瞼の裏に思い出せる。
しかし刹那、暗雲に隠され微笑まない太陽の虚像がホセの脳裡をよぎった。身体に焼き付いた数々の裂創と、味蕾が吐き出す泥の記憶。光っては燃え尽き、消えていく。ホセは下唇を噛み潰し、昏い眩惑を追い払った。
ホセは何故リチャードがこの店を選んだのか不思議でならなかった。
ヴェネツィア金刺繍が如し御髪に映える、紺青の背広と間隙に立つ漆黒。丁寧に磨かれたアルティオリ。平生よりブランド志向であるこの男が、何故このような寂れた大衆食堂を選んだのか。
何となく気になってそれとなく尋ねてみると、リチャードはホセを柔く一瞥してボルサリーノを目深に被り直した。
大学時代の行きつけだったんだ。
そう端的に告げる彼の表情は陰って、見えなくて、ホセは言葉を飲み込んだ。
垣間見えたのは、カヴール広場で聞かされた【過去】以前の話だった。裏社会に生きる者は例外無く劣悪な環境に生まれ育った者、という持論のホセは内心その事にも驚かされた。大学という学府の詳細はよく分からないが、金に余裕があって且つ学問的向上心がある者が行くようなところだとは心得ている。
言うまでもなく、彼自身は学校になど縁は無かった。【青空教室】ではいつも灰被れのコンクリートに蛍光スプレーで乱されたスペルと、早口に捲し立てられる猥雑な言葉が溢れていた。母語の読み書きは、食べていく為に16の時分、麻薬の売人へ転身して必死になって覚えたくらいだった。
リチャードが名前を呼び、声を掛ける。ホセは生唾を飲み込んで彼の後に続いた。
店の奥まった四人掛けの席に通されると、リチャードはトレンチコートを柔く畳んでから余った隣の座席にボルサリーノを置いた。
シエスタが終わりかける今の時刻にも他の客は当然いる。皺の深い老夫婦、新聞を読む紳士、忙しなくペンを走らせる青年。しかしそれがかえって長閑な店内によく調和していた。
リチャードは給仕の男にメニュー表を持ってくるよう頼むと、棒立ちのホセに腰を落ち着けるよう促した。最早ここまで来てしまってはどうしようも無いので、ホセはリチャードの斜め前の席に座る。真正面に相対しないようにそこだけは気を配った。
暫くして給仕がメニュー表を持ってくると、リチャードはホセにも見えるようにテーブルを縦断する形でメニューを広げた。
凝ったイタリックが目に飛び込んでくる。ラテン語を源とするイタリア語とスペイン語は互換性が高く、ホセもある程度なら理解できた。成る程看板メニューなだけあってカルボナーラが最初の見開き頁に大きく書かれている。その他にはボロネーゼ、ペスカトーレ、ボンゴレビアンコ、ジェノベーゼなどの馴染み深いスパゲッティの名前を幾つか見つけることが出来た。
リチャードはパスタ料理の書かれた頁を捲り、もう片方の手で後れ毛を耳に掛ける。
「ホセ、お前の誕生日はいつなんだ? そういえば聞いたことがなかったなと思って」
それはあまりにも唐突な問いだった。
「あ? どうでもいいだろ。そんなこと」
声が上擦る。パスタの次頁はピザメニューだった。
「そんなこと、じゃないさ。ファミーリャの誕生日は祝うものだろう? 」
そう言うとリチャードはキッチン近くに控えていた給仕を呼び、カルボナーラを二つ注文した。
先程からこの【ファミーリャ】という呪詛がやたら脳髄を揺さぶって仕様が無い。イタリア語で【家族】を表す血の楔。ホセの母語であるスペイン語の【ファミリア】と音は似ているが、この両者は全く似て非なるものだった。これらの間に沈殿する本質が、全く違うものであることはもう痛いほどに分かっている。
そしてありとあらゆる森羅万象が【此処】と【彼方】では何もかも違った。同時にどんなに牙を研いだとしても噛み砕けない障壁もまた屹立するのだ。
答えねばならないのか。
ホセは液状拘束が緩まった前髪を掻き上げて、背凭れに身を預ける。この舌打ちがどう捉えられているかなんてもう易々と把握できた。
「チッ——ねーよ、誕生日なんか」
己を穿ち得る弾丸は内壁の煉瓦に跳弾した。その時咀嚼音、嚥下音、紙の擦れ、流しの音、窓を叩く風の声、全てが示し合わせたかのように店内に溢れる物音として須臾止む。
ちらと横目にリチャードを窺った。
顕われるは引き結ばれた唇、開かれた瞳孔を囲う円と鈍角の眉は驚愕の記号。分かっていたのに零距離で銃身を突き付けられたような心持ちがした。期待は毒杯、希望はいつも煙に巻かれる。犬歯同士は滑ってしまい刃毀れし、奥歯を強く噛み合わせるしか出来ない。いつもこうだ、埋められない距離、埋まらない距離。やはりどこまでも神とやらに線を引かれる。彼らと自分は【違う】のだ。
乾く目を庇って瞬きをした次の瞬間、視覚の構築する世界は変貌を遂げていた。網膜が受け取る光の乱反射を視認したホセの瞳孔は更に収縮する。
眼前の男は表情筋を緩ませ、瞳に光を湛えていた。
「じゃあ今日にしよう! この時を以て、6月8日はお前のコンプレアンノだ」
コンプレアンノ。それが表す言葉の意味は分かった。しかしそれを口にする【意味】はどうしても分からなかった。何故か、生み堕とされてからというもののコンプレアニョスには尽く縁が無かった。
胸焼けを誘うような甘ったるい単語を反芻。予期せぬフルメタルジャケットにホセは牙を剥く。そうしなければならなかった、そうすることしか出来なかった。
「は? い、 いや、意味分からねえって……てめーな、マジで何言って——」
「皆、無いんだ。誕生日が」
紛う事なき純銀の弾丸。一弾指、左胸に撃ち込まれ、息を呑む。
不可視の弾丸は心臓に触れる。瞬間空洞を穿たれ、その隙間を埋めるように銃弾は崩壊して染み入った。殴られたときよりも蹴られたときよりも叩かれたときよりも肉を削がれたときよりも痛かった。
RIPバレットが永久空洞を作り、抉る。
その返答に解を見出せない阿呆の振りはもう出来なかった。
だから、と彼は続ける。
「Buon compleanno,Jose(誕生日おめでとう、ホセ)」
そして、いまに至る。
「嫌いなものとか入ってるか?」
「違えよ」
違う。
そんな事じゃない。
ホセは食べ方を知らなかった。
そしてずっとずっとその事がどうしようもなく惨めだった。
フォークの正しい使い方なんて知らない。どっちの手に何を持てばいいのだろう。右手は何本の指で銀食器を支えれば良いのか、そして左手はどこに落ち着ければ良いのか。
今まで決して口に入れるのが嫌で食べなかった訳ではない。決まり切っている、食べられなかっただけだ。
一度も食事を共にしたことが無いのはその為。週末の昼には気付かれないようにいつもオフィスを抜け出した。それでも時に肩に掛かる手を払って、いらねえと牙を剥いて、思い付く限りの暴言で塗り固めて。窓から美味しそうな匂いと業態知らずの暖かな笑い声を背中で知覚し、薄い胸を更に磨り減らした。埋められなかったのは身長差でも出身でも無い。オレ自身と商会にある明確な境界線だった。
寂しい。
それを認めるのはどうしても時間がかかった。
アカプルコからトーニャスに飛ばされ、そこで出会ったのは同じ裏稼業の人間。しかし彼らは自分の出来ないことが沢山出来て、自分の持ってないものも沢山持っていた。遂には唯一の心の拠り所だった本家からはイタリア残留を宣告された。もうどこにもお前の居場所は無い、と突き付けられているようで。いらねえのはオレの方か、とあの日行く宛ても無い癖に扉を蹴って飛び出した。
それだけじゃない、初めて己の境遇を嘆き喚いたのもあのときだった。どうして満足に食事も共に出来ないんだろう、何故オレは路上での生活しか知らないのだろう。諦観が溢れて止まらなかった。アマンダとシンに見つけられたときは内心焦ったけど、きっとあのままじゃ帰れなかったから。だからこそ今まで拒んできたおかえりの声は驚く程すとんと心に落ちて、オレはその晩また瞼を腫らした。
あいつがオレを連絡会に連れて行ったのも人がいないから単にオレを選んだだけだろうが、それでも良かった。
火やるから貸して、そんな簡単なことすら言えない。相反する【信じろ】という言葉。不格好なあの踏襲は一途な祈りだった。
地を舐め野犬に跪いた記憶は燃焼光を上げる。
「Grazie.(ありがとう)」
リチャードは給仕に微笑む。どうやら彼のカルボナーラが席に運ばれてきたらしい。
先に食べるぞ、とそれはぐるぐる混濁する意識の中でもはっきり聞こえた。上手く応えられたかは記憶に無い。
彼は熟れた手付きで右手にフォークを持った。そのまま事も無げに器用にスパゲッティを巻き取るのを呆然と眺める。口に運び、咀嚼。そしてイタリア語で美味しいと言った。
顕現するはやはり流麗、しかしその全てがやけに緩慢な動作だった。へえ、そうやって食べるのか、初めて知った、とおよそ見当違いな感想が大脳で唯揺らめく。
へえ、【そうやって食べる】のか。
——と、此処で全てに気付いた。寧ろ気付かない訳にはいかなかった。
今日ここまでに在った意味を持つ全てが心臓に転墜し、超速で脳髄に送られる。殴られたような衝撃。噛み合わせの悪い牙で必死に衝動を抑え付ける。
目頭が熱くなって、咽頭が激しく痛んだ。
震える手でフォークを持つ。この震えがばれてはいないだろうか、だがしかしそれもどうでもよくなっていた。同じ金属でも鉄塊と円錐の鉛とは全然違って、手に馴染まない。
次に不器用にパスタを巻き取る、こんな事よりスピンコックの方が幾分楽だと思った。間違ってはいないかと内心に秘め、恐る恐る口に運ぶ。
やはりイタリアで食べる初めてのものは総じて外れが無かった。
「美味しい」
長い時間を経て、ようやく言えた言葉。
「うん。美味しいな」
そして、応えてくれた。
*
「なあ、おい。なんつーの、ここ」
「ん?」
「この店の名前聞いてんだろうがよ。……何て言うの」
一呼吸。南風にそよぐ睫毛は何を指すのか。
「【Ricordo】という店だ」
******
店を後にしてからは何処へ行くあてもなく、また導かれるようにサンタルチア港に戻ってきてしまっていた。
道中は一言も交わさずに。急坂を下り、角を二つ曲がって、小道に抜ける。そうして大通りに出れば、家路を辿る海鳥が疾手のように頭上を掠めるのを視認出来た。
港に辿り着くと、燃え盛る斜陽はいよいよ水平線の彼方に飲み込まれようとしていた。丁度二人が出くわしたのは、汽笛を上げる鯨が聖母の手を離れようとするその瞬間。旅人と見送りを繋ぐペーパーテープが名残惜しそうに伸び、そして水溶性の未練は断ち切れる。色彩豊かな別れが事切れる度に人々の歓声が上がった。手を振り、振り返し、そして焔が如しティレニア海へと遠のく。
ホセは汽笛の余韻に身を委ねて白い鯨波をぼんやり眺めていたが、リチャードの呼吸に呼応するように瞬きを一つした。
「ホセ。俺は……お前のことを少し勘違いしていたのかもしれない」
「あ? 何改まってんだよ、気持ちわりーな」
道行きの際に常時付き纏っていた居心地の悪さなど疾うに感じなくない。そして、ホセの導き出した【真理】は正解だった。
波止場の欄干に背を預けて、リチャードはボルサリーノのブリムに手を掛ける。
「お前がどんな人間か。何を見てきて今のお前があるのか。——そしてどう生きてきたか、俺は何一つ向き合ってこなかった」
そうしてリチャードは彼に正対する。朱色渦巻く遠景と鋭利な癖してやたら近景を占めるサファイアが、訳の分からない印象派絵画を思わせた。
今までの事だって全て【そう】だった。唯一神に祈りを捧げてようやく漂着した居場所を奪われ、裏切られたも同然。子犬はその小さな牙を砥ぐしかなかった。何故か、それしか知らなかったから。この唇で次に何を紡げば良いか、安全牌の選択肢などもう何処にも残っていない。
刹那、波紋に手を引かれた海風が二人の間隙に躍った。それはリチャードの長い髪を巻き上げ、両者の視線交錯を遮る。煌めく金刺繍は艶やかに脆弱な整髪料を香らせた。
夕凪に戻るまでには随分と時間を要したように思う。しかしほんの一瞬だったかもしれない、刻一刻と移ろいゆく無窮の天と雲は時間感覚を静かに狂わせる。
しかし、ホセの笑声を聞いて我を取り戻したのははっきりと知覚出来た。そしてとうとう抑えきれずに体をくの字に折って、噴き出す。今度はリチャードと真逆の方向を向いて肩を震わせ始めた。
彼の予期せぬ反応にリチャードは唯々拍子抜けする思いだった。
それはきっとリチャードが彼の笑顔を目にしたのはこれが初めてだったからで。そしてそれはきっと恥ずべき事だったのかもしれない、とも思った。
ホセはリチャードに背を向けたまま、呟く。目の端に溜まった涙を拭うような仕草も見せた。
「ひひっ……あー面白え。あんだよ、お互いの過去に手垢付けんのは【ファミーリャ】の御法度じゃねーのか?」
リチャードは今度こそ何も答えなかった。
押し寄せる波のさざめきだけが響く港と、ウミネコの対旋律。潮風は間もなく群青の夜と明星を引き連れて港に駆け寄ってくるだろう。
ホセはリチャードにゆっくり向き直ると、片眉を不器用に吊り上げて唇を尖らせてみせた。
「ま、てめーからも聞いちまったしな。この業界に生きるモンとして貸し借りは作りたくねーし」
赤い宇宙に黄昏を拾う風に、悠久が吹き渡る。短い睫毛が落とす影は層一層濃くなった。昏色を閉じ込めたままの瞳に最後の陽光が射し込み、そして輝く。
彼はぎこちなく口角を上げて、鋭い犬歯を全て見せた。
「なあ、どっから話そうか————ボス?」
ⅩⅡ
- Re: What A Traitor!【第1章ⅩⅡ更新】 ( No.15 )
- 日時: 2018/07/03 00:46
- 名前: 日向 ◆N.Jt44gz7I (ID: XCi1wD91)
- 参照: http://www.kakiko.info/upload_bbs3/index.php?mode=image&file=958.jpg
ⅩⅢ
————21年前、メキシコ=アカプルコ。
メキシコはアカプルコ。
貿易商と観光業に依る観光都市として栄え、各国の要人らを初めとする富裕層の五感を悦ばせる。
太陽と大地の境目をとっぷりと埋めるウルトラマリンブルーは艶なり。風吹けば濫立する椰子がラテンの熱をひたすら煽る。星を鏤めた濃紺の帳を背景に、富める紳士淑女は夜毎美酒を片手に遊戯した。
最近開通したハイウェイでは様々な高級車がエンジンを噴かす。笑う太陽にあてられた金属光沢はまるで厚化粧のように思えた。
海上リゾートが有名なのは勿論のこと、アカプルコは白いビルやホテルが多い。青と白が織りなす爽やかなツートンカラーは人々をより一層深い非日常へと連れ去った。
真昼は白浜と競う建築物のスペクトル乱反射。玉蟲色をしたサングラスの下に広がるマスカラアイシャドウは何ミリリットルか。日暮れにて情熱の球体スカーレットは鴎の歌に送られる。綺羅燦然絢爛豪華を極めるメキシコの宝石は決して輝きを失わないのだ。
目下のすっかり漂白されてしまったアカプルコを見下ろして、青年は一人歯軋りをした。
何事にも裏はあるものだ。と、これは誰の言葉だっただろうか。
風光明媚なランドスケープも、少し郊外に出てしまえば地獄の入り口へとその顔つきを一瞬のうちに変える。
どれだけ砂浜に陽光が降り注ごうとも山間部には気付けば暗雲が立ち籠めていた。鈍重な鉛色をしたどん詰まりの空、海浜に広がる蒼穹の皺寄せを喰うのはいつもの事だった。急激且つ無理な都市化は確実に沿岸部と山間部の経済格差を広げていた。
ここに正義など無い。縋りついて助ける神もいない。あるのは暴力と麻薬、そして貧困だけだった。
爛れた性の匂いに色付けられたむせ返るような硝煙とドラッグの刺激臭が路地に満ち、それは凝縮された後にどす黒い廃液となってアカプルコに生きる彼らの血を汚した。
路上に力なく横たわるホームレスには蝿が集り、生ゴミが辺りに散乱している。散乱した衣類と数日前の新聞。衛生状態は劣悪、ゴミと排水の臭いが路上に漏れ出ており文字通りその環境は酸鼻を極めた。瓦礫の上を毒虫が這い、濡れそぼったドブネズミがその上に足跡を付ける。危険信号を示すシンナーの黄色い袋が湿った風に転がされ、銅線枝垂れる電柱に張り付いた。
幼子の泣き叫ぶ声と年増女の罵声を遠く聞く。そして肉の殴打音。
壁から剥がれた蛍光スプレーの粒子が舞っているような気がして、青年はその不快感から瘴気を追い出そうと試みた。しかし乾いた咳を三回しても何も変わらない。この街自体が腐っていることなど産み落とされた時から自明の事だった。
犯罪の跋扈する悪の吹き溜まり、死せる腐肉の掃き溜め。これがアカプルコのもう一つの顔だった。
そしてそのようなストリートで生き抜こうとする者達が存在した。彼らは外野から【ストリートチルドレン】と区別される人種だった。
露天商や行商等のインフォーマル産業が沿岸部にて急成長を遂げたフォーマル産業に吸収されなかった為、ストリートチルドレンやホームレスが増えてしまったと表向きではそう言われている。社会保障の欠如と不安定就労、そして児童虐待や薬物犯罪の温床。治安維持の為、と時には暴力に依る排除の対象にもなっていた。
肉親がいるが養育放棄からグループに入る者、家庭の収入を助けるため相互扶助関係を結んでいる者など一口にストリートチルドレンと言っても俗に言う浮浪児だけで構成されている訳ではない。
安い労働力として買い叩かれ、庇護の代わりに肉親から性的奉仕を求められる日常。少な過ぎる収入は元締めに搾取され、残りは薬物に消える。
夕暮れ、彼らは帰路に着く。屎尿の悪臭満ちる蛆湧きのマンホールが彼らの唯一つのエデンだった。雨風を凌げるのは勿論の事、アカプルコの強烈な日差しさえも遮ってくれた。しかし夏は籠もる熱と湿気から熱射病に倒れて帰らぬ人となる仲間もいる、去年も一人亡くなった。だがあの鋼鉄の窖を離れる選択肢は彼らに用意されてなどいない。絶え間なく降り注ぐ不当な暴力と世界の理不尽から守ってくれる堅固なシェルターにも等しかった。
娼館からは醜女の甘えかかるような嬌声が灰の十字路に反響する。荒い息と態とらしい善がり声が昼夜関わらず響き渡った。このストリートでは女性に安定した職など与えられず、エイズや性感染症の危険性と隣り合わせで日銭を稼ぐしか生きる道はない。生命とは何か、ヒトが人たる尊厳の剥奪が此処にはあった。
アンモニア臭漂うユートピアへと少年少女はひた歩く。今日の収穫は露店商から盗んできた小振りな果実四つと牛乳二パックだ。これを皆で分ける。性別年齢体格を考慮してリーダーが平等に行き渡るようにするのだ。
暫時甲高く大袈裟な絶叫と、奥歯で噛み殺された唸り声が絡み合って二階の窓から、目の前に降ってくる。
一人の少年がふと視線を地面に遣ると、娼館の立て看板の陰にぼろ布に包まった【何か】を見つけた。
黒い肉片と悪露が絡んで膠のようになった粗末な繊維。青白く小さな腕が助けを求めるように力なく虚空を掻くのを見た。
少年は息を呑む。
生きた人間の赤ん坊で間違いなかった。
「イド、やめとけ」
リーダー格の青年からイドと呼ばれた少年は赤子の前で立ち止まったまま動かない。
少年は名をイダルゴといった。齢六つにしてストリートチルドレンのグループに属している。塵を被った髪と対照に意志の強い光を宿す瞳。無論彼らの中では最も幼く、庇護される立場にある。肉親は母親が一人いるのみで、彼女もまた娼婦として働いていた。自宅で客を取り、その日を生きる。イドは生まれてこの方暖かな母性に触れた覚えがなかった。家で待つのは、獣のように快楽に喘ぐ雌の顔をした女だった。彼女の腕の中にいるのは自分ではなく毎夜顔の違う男。彼女の乳房に触れ、その先端を口に含むのは自分ではなく、羽振りの良い不特定多数の男。
彼の父親は客から伴侶へと昇華した中年男だった。父と笑い合った記憶はおろか、もう顔すらも覚えていなかった。4年前に出稼ぎの為に米国へ渡ったが以来音信不通となっている。養育放棄だった。自分で歩けるようになって自身を取り巻く世界を知覚したとき、路上で暮らす【彼ら】の門を叩くのにそう時間はかからなかった。
イドは泣かない赤子を見下ろし、無意識に手を伸ばそうとする。
黒血を吸った布きれから覗くのは青黒い臍の緒。赤子の顔にも血がこびり付き、この世に生まれ落ちたその直後路上に捨て置かれたことは想像に難くなかった。
メキシコの主要宗教はキリスト教である。そしてカトリックに堕胎は許されない。赤子の母親は避妊すら出来ない環境に置かれ、育てる力も無く、父親すら不詳で頼れる人もいなかったのだろう。破水の不安と闘いながらも自身が生きる為に反り立つ欲を喉奥まで咥える。ドル紙幣で頬を叩かれ喉を鳴らす刹那、腹を内側から蹴られる。膨れた下腹部と大きな葛藤。
否、何の感慨も抱かなかったかもしれない。
「イド」
青年は無感情に二度目を告げる。
イドは青年を振り返って、舌っ足らずに口ごもった。
「でも。このままじゃ死んじゃうよ、ジョム」
グループリーダーである青年の名はジョムといった。齢は今年で18になる。このストリートで今日まで生き抜き、十字路の掟を知り尽くしている者の一人だった。
イドを見下ろし、昏色の声で低く諭す。
「人ひとりをグループに入れるということはお前の食べる分だって減るんだ、分かってんのか。しかも腐りかけのゴミ溜めから拾ってくるもんじゃ駄目なんだよ、リスクを犯してミルク手に入れなきゃいけない。お前がそのガキの面倒を見るってえのか? 無理に決まってる」
彼の言葉を受けて、イドは力無く俯いた。
彼らだけではなく、このストリートでは生活に余裕のある集団は存在しない。ましてや摂食や排泄も一人で満足に出来ない赤子を引き取るなど自殺行為にも等しかった。命を賭して露店から食べ物を盗み、足りないときは屑籠を漁り、暴力を覚悟して物を乞う生活で命を繋いでいる彼らにはお荷物でしかない。
人口集中は破綻を招く、言外の意味などまだ把握しきれない幼いイドは上目遣いにジョムを見た。彼らもまた純白に隔絶されたアカプルコの、メキシコの縮図だった。
「でも」
「デモもストもねーよクソッタレ。イド、無理なもんは無理なんだ、置いていけ」
歯切れの悪いイドにジョムは語気を荒げる。しかしイドは押し黙って今度こそ彼の瞳を見つめ返した。
イドは娼館の裏に捨て置かれた赤子に自身を重ねていた。このまま放っておけば死は避けられない。夜が更ければ肋骨の浮いた野良犬が赤子の額に涎を垂らすだろう。払暁には音も無く柔肌を切り裂き、軟骨は凶牙の前にこじ開けられる。命が内包する鉄臭い水分を啜る音と共に次の朝が来るのだ。
二人の後ろに控えていた坊主頭の少年がおずおずとジョムに声を掛けた。
「ジョム、もう日が暮れる。露店のジジイ、ここまでは追っかけてこねーとは思うけど……そろそろ行かなきゃ。みんなもきっと腹空かせてる」
ジョムは坊主頭の少年の言葉に首肯し依然として動こうとしないイドの手を取ろうとした。
しかしその瞬間、夕刻の静寂はぴりりと破かれた。突如としてくぐもった声が十字路に大きく跳ね返る。声の主は坊主頭の少年に背負われていた小さな女の子だった。
少女は自身を背負っている少年の肩やら頭を少々乱暴に叩いて、下ろすように乞うた。少年はジョムとアイコンタクトをとった後に苦笑しながら屈む。
自由の身となった幼女はよたよたとジョムに歩み寄って、彼の腕に抱きついた。そして彼の手を引き掴んで煤に塗れた掌に彼女の細い指を押し当てる。
幼い少女は鼻息を荒くして、時々声を漏らしながらもジョムの掌を柔く引っ掻き続けた。
(でも、ジョムも、反対されました、あなたの仲間から。しかしあなたは拾ってくれた、わたしとイドを。ジョムのおかげでわたしは出来ています、生きること。だから——)
語順の滅茶苦茶な拙いアルファベットをひた連ねる。公教育を受けていないため上手く文字を綴れない。次の言葉が上手く出てこず焦ったようにジョムの掌をとんとんと叩く。
ジョムは嘆息しながら手をゆっくり引っ込めて、少女の柔らかい髪を撫でた。
「エバ」
栗色の長い睫毛に澄んだ大きな瞳。煤けた粗末なワンピース。ジョムの口唇の動きから自分の名前を呼ばれたことを読み取り、少女は笑った。
エバはイドと同い年の、聾唖の少女だった。
彼女もまたこのストリートで生まれ育ち、貧窮に喘ぎながらも両親と彼女の三人家族で助け合いながら暮らしていた。父親は街中の清掃業、母親はエバと共に靴磨きを。
しかしエバに聴覚障害があることが分かると少女の両親は途端に蒸発してしまった。家の内壁に使われている崩れた煉瓦を山に捨ててくるという仕事を頼まれ、数時間かけて家に帰るともぬけの殻になっていたのだ。現在もエバは両親の所在を知らない。労働力の無い【不要な子供】とみなされると捨て置かれる事もまたこのストリートの尋常である。お前は無価値の出来損ないだと言外に突き付けられ、愛する家族に裏切られた彼女の精神状態を推し量ることなど到底不可能だった。
そうして心神共に衰弱しきった状態で三日三晩一人で町外れを歩いていたところをジョムたちのグループに保護されたのだった。当時は発話は疎か聞き取ることが難しいエバを迎える事にグループの中でも賛否両論が巻き起こった。しかしジョムが心神を喪失したエバに寄り添い、字を教えた。一方でグループメンバーに説得を続けた。その結果として今がある。
エバは睫毛と同じ栗色の瞳を輝かせてもう一度ジョムに笑いかけた。小首を傾げながら小さな手で彼の腕を左右に振る。
ジョムは頭をがしがしと掻いて、誰に問うでもなく投げかけた。
「おい、先月グループ抜けたのは誰だっけか」
「えっと……ホセ=アルボルノスが18になったから街に出て、あと、うん、女が居た筈だ。名前は、ええと」
坊主頭の少年が応えた。口元に手を遣ってうんうんと唸る。
するとイドが間髪入れずに答えた。
「カミラ=マルチネスだよ、ボクは覚えてる」
そうかとジョムは端的に言うと、赤ん坊のぼろ布を解いて体を確認した。嬰児は男児だった。
体を拭かれた形跡は無い。しかし鱗のように乾いた血液に覆われているものの目立った外傷は無く、極端に痩せている訳でもない。
その時初めて赤子は鈍く小さな声を上げ、そして笑った。
エンジェルスマイル。それは目も見えない耳も聞こえない生後間もなく五感を扱えない嬰児が時折見せる笑みを表す。天使の微笑みとも形容されるこの新生児微笑は防衛本能に依る表情筋の反応と結論づけられているが、赤子の綻んだ顔は彼らに特別な意味と福音をもたらした。
ジョムはぼろ布を丁寧に元通りに巻き直した。
「そうだったな。じゃあこいつの名前は、ホセ=マルチネスだ」
ジョムはイドの頭を二度軽く叩いた。
そしてとっぷりと暮れた赤銅色を背に受けて、彼は一人エデンに向かって歩き出す。待てよジョム、と坊主頭の少年が彼の後ろに着いた。
山間部にしては珍しく晴れ渡った空だった。モーブに薄く色づいたちぎれ雲が還る太陽の為に路を開ける。鯨波を湛える潮騒がここまで聞こえてくる気がした。叢雲を掻い潜った斜陽が射し込み、彼らの輪郭を明るくなぞる。
エバはイドの服の裾を所在なさげに掴んで、彼と共に赤ん坊の前に進み出た。
「ホセ」
イドは新たに仲間と認められた赤ん坊を抱き上げて、そっと彼の名を呼んだ。
ⅩⅢ
- Re: What A Traitor!【第1章ⅩⅣ更新】 ( No.16 )
- 日時: 2018/07/08 11:23
- 名前: 日向 ◆N.Jt44gz7I (ID: XCi1wD91)
- 参照: http://www.kakiko.info/upload_bbs3/index.php?mode=image&file=963.jpg
ⅩⅣ
————10年前、ホセ=マルチネス12歳。
路地に捨て置かれていた赤子のホセ=マルチネスが拾われてから優に12年もの月日が経っていた。厚い雲の向こうで沿岸を照らす太陽が傾きつつある午後、昔と変わらないアカプルコの裏。
ホセは12歳の少年に成長し、アカプルコの裏路地で仲間達と共に逞しく生き抜いていた。ストリートで与えられた名前と日に日に増える傷を抱え、彼は自らの二本足でこの生まれ育った地獄に立っている。
しかし表舞台でもメキシコ国会一党独裁政治の崩壊や麻薬マフィアの暗躍など新たな問題が勃発し、国内の情勢は回復の兆しを見せるどころか一層苛烈を極めていた。
ホセは乳児期に満足な栄養を摂ることが出来なかった為に、栄養失調が蔓延するこのストリートの中にあってもやはり彼は一等小柄だった。しかし腕っ節は強く仲間内や他グループとの衝突があっても喧嘩は負け無しでそのうえ刃物の扱いも上手く、今ではグループの中で中心的な存在となっていた。そして年少者には優しく、徒にその力を行使しない姿勢も高く評価されている。
ジョムは疾うの昔にグループから退き、現在はアカプルコ市街地の建設現場で働いていると風の噂に聞いた。ホセも18歳になりグループリーダーを務めるようになったイドと彼を陰から支える同期のエバと共にストリートに生きている。
現在は彼らの居住区であるマンホールの中で各々休息をとっていた。相変わらず不衛生でもはや何が源なのか判別不可能な異臭を放つ空間ではあったが、彼らにとって安住の地であることには違いなかった。
ホセは地べたに腰を落ち着け、イドは拾った三日前の新聞を読み、エバは二人と少し離れた場所で髪を梳いている。彼らより年少の者は外で遊び回っているらしく今その姿は見えなかった。
今日は朝市にて店仕舞いの隙を狙って集団で食物を盗み、少ないながらも成果を得ることが出来た。しかし昔とは違って公的組織である警察権力は無法地帯だったこのストリートでもその力を段々と増してきており、食べ物を得られる手段だった窃盗も週にそう何度も行えることではなくなってきている。自然淘汰か人的淘汰かはたまた酔狂な保護活動か、ストリートにいる浮浪児も明らかにその数が減ってきていた。
ホセは一つ伸びをして徐ろに立ち上がり、そして外の明かりが漏れ出る方向へゆっくりと歩き出す。粗大ゴミの中から拾ってきた煤けたソファに座るイドはホセに声を掛けた。
「ん? どうした、ホセ」
イドの言葉にホセは立ち止まり、腹を擦りながら少し笑って答えた。
薄っぺらい衣擦れの音、粗末な生地の黒いシャツに皺が寄る。
「んーやっぱりお腹空いちゃってさ。なんか探してくる」
どんなに体格が小さかろうが貧しい環境にあろうが、彼は食べ盛りの少年に違いなかった。配分された残飯や盗みで手に出来る食べ物で到底満ち足りる筈も無い。
先刻の正午、イドはホセが仲間内で一番小さな女の子に自分の配給分のパンを密かに分け与えていたのを知っていた。今までもそういう事は何度かあったが、イドがそれを指摘すると彼は顔を赤くして否定した。ホセは自身の善行にはやたら弱気で、妙な所で格好付ける節があった。それが結局自身の首を締める結果になったとしてもそれを止めることはない。
彼はこれから何かを探してくると言っていたが、富裕層の食べ残しを求めて街郊外でゴミ漁りをするのが精々関の山だろう。ゴミ漁りは空腹を満たすため仕方無くやることだ、誰も好きでやっているわけではない。小蠅が飛び回る屑籠をひっくり返し、汚泥の溜まった地面に膝を付き、四つん這いになり誰が堕としたかも分からない食べ残しに頭を突っ込む。ホセは共に生き抜いてきた仲間の前でもそれを決してしようとしなかった。
唯今日を生きることに形振り(なりふり)構っていられない筈なのに彼は頑なにその生き方を曲げようとしない。おそらくこれからも、いつになっても、何があっても。
それを痛い程分かっているイドはただ首肯した。
「そうか、遅くなりすぎるなよ。あと今日は警戒が強くなってるかもしれないからそれにも気を付けてくれ」
頻繁に朝市やそういった類いの大きな催行に合わせて盗みを働くと、大人達の警戒は無論強くなってしまう。
ホセは決して頭の悪い少年ではなかったが、時折見せる沸点の急降下や一度狙った獲物への執着の強さからイドは懸念を抱いていた。
「うん」
ホセは短く応を返すと今度こそ外へ出ようと歩みを進めた。だがその瞬間駆け寄ってきたエバがホセの腕に手を伸した。
彼は驚いたような顔つきで手を引っ込めようとしたが、なんとも呆気なく彼女の細腕に絡め取られてしまう。ホセは所在なく手を預けて頬を掻いた。
そして12年前とは違う滑らかな手付きでホセの掌に柔く筆跡を残す。
(私は心配。大丈夫?)
栗色の長い睫毛に縁取られた瞳孔と近く相対した。同じ位置のぶつかる視線。彼女の呼吸音が直接鼓膜を揺する。
そうして最後のクエスチョンマークが打たれた後、ゆっくりと指が離れる。彼の心臓は震えて小さく跳ねた。
「だ、大丈夫だよ……ありがとう」
近頃はエバと居るとどうにも落ち着かなかった。
意思疎通の為に取られた手は熱を持ち、彼女の爪がこそばゆく掌を引っ掻く度に愛おしさが込み上げた。そうして呆けているとエバは「ちゃんと分かっているの?」と頬を膨らませ上目遣いにホセを見る。
彼女が絡めた腕と爪先の軌跡だけがやたらと熱を持った。これまでは家族としてイドと同様に彼女を愛していたが、最近はどうしようもなく動悸がして胸が痛い。今もこの心臓の鼓動が彼女に聞こえていないかそれだけが気がかりだった。
あの少女は灰の十字路にあっても輝きを失わない18歳の美しい女性に成長していた。
ものを言えないぶん力が籠もる彼女の栗色の瞳に見つめられると、つい言葉に詰まってしまう。仲間とコミュニケーションを取るために彼女は人の唇の動きを読む。その美しい瞳は動きを逃すまいと読唇に努めるのだ。ホセはあの真っ直ぐな瞳に弱かった。
この感情を定義付ける術を持たず、好意と呼ぶにはあまりにも幼く青い。それは触れれば溶けてしまいそうなほどの淡い淡い恋心だった。
「それじゃあ行ってくる。なるべく遅くならないようにするから」
******
そうしてホセは一人、アカプルコの裏と表の境目にあたる路地にやって来た。今日はアカプルコ全域で曇りらしく沿岸部にも暗雲が立ち籠めている。潮騒こそここまでは聞こえてこないが時折太平洋から吹き込む湿った風を頬に感じた。路地を縫う潮風と重たい鉛色の空を受けて、体はうだるような湿気に包まれている。黒いシャツは大気中の水分を吸って零である明度と彩度をより一層落とし込めていた。
夕方には雨が降るだろうか、早く帰らないといけないな。
この【境界線】は彼らが生活するストリートから少々離れたところにあり、飲食店が軒を連ねている大通りの一つ山側にある。しかしいくら沿岸部に近いとは言っても所詮裏は裏でしかない。壁には悪童共がネオンカラーとスラングで自己顕示を施し、フィルターが噛み潰された煙草の吸い殻が至るところに落ちている。ぬかるんだ汚泥と犯罪とドープスを孕んだ裏路地と何一つ変わらない。
リゾートからも近いボーダーラインでさえこのザマだ。いくら表向きを見目麗しいビル群で漂白と除菌を重ねたとしてもこの街の本質は変わらないだろう。ホセは一人下唇を噛んだ。
わざわざ遠い場所まで足を運ぶのも全ては仲間に見られたくないが為だった。
貧困は惨めだ。12年生き延びてきて未発達な視覚にはあまりに重過ぎるものと数多行き遭ってきた。泣き叫ぶことすらも許されず、死さえも救済と思える程の阿鼻叫喚。故郷は蔓延る麻薬に焼かれている。害虫の湧くエデンにて仲間と褥を共にして、この地獄の中に在っても生き様だけは気高くいたいと思っていた。それこそが人間としての尊厳を剥奪された自分でも此処に存在しても良いのだという依り代だった。一種の祈りにも等しい支柱。
暫く徒歩で裏路地を彷徨っていると行き止まりに突き当たった。しかし同時に飲食店のものと思しきダストボックスを見つけることも出来た。
静かに駆け寄って蓋を開ける。廃棄したてなのか定期的に手入れされているのかは分からないが、匂いは大丈夫そうだ。食べられないほど腐っていない。
自立型のゴミ箱を横倒しにして食べられそうなものを探す。勿論紙ゴミや可食部ではない固い野菜くずが多いが、まれに客の食べ残しやオーダーミスでそのまま廃棄された料理が放り込まれていることがあった。
「あっ」
思わず喜色を含んだ声が漏れてしまう。袋詰めにされた賞味期限一週間前のバゲットを発見したのだ。密封されており普段よく見る緑色のカビは視認出来ない。【消費期限切れというだけ】で廃棄するなどよほどの高級店なのだろうか。しかしそんなことは些末な問題だ、腹を満たすことが先決である。
焦る手で透明な袋を破る。更に水分を失って石のように固くなっていたが、唾液で戻しつつ無我夢中で貪った。
胃に落ちる感覚に至福を覚えた瞬間、密かな足音と同時に煙草の匂いと酒臭さを感じた。
背後に、誰かいる。
強烈な酒気と紫煙がより一層鼻を突く。
「こんなところに猿がいるなぁ」
低い声が渦巻き管に到達した刹那、髪を引き掴まれ汚泥の中へ仰向けにされた。
同時にゴミが散乱した。
「痛——!?」
涙に滲む視界。声の主は光と感情の籠もらない死んだ目をした中年男。朝の露天商の主人でもなかった。
誰。
しかし間髪入れずに男の拳がホセの鼻目掛けて振り下ろされた。
「ッ——!?」
衝撃に発熱し、小鼻がひしゃげて血が噴きだす。歯茎ごとへし折られるかのような巨大質量。半身を起こしていた体は再び泥の中へ打ち付けられる。一拍遅れる激痛と恐怖。
男の拳にホセの鮮血と唾液がべっとりと付着した。
「うわ、汚えな」
ホセのシャツで乱雑に手を拭うと、男は今度は彼を足蹴にした。
底の磨り減ったサンダルが腹にめり込む。
男は咥えていた煙草を手に持ち替えると彼の顔目掛けてそれを落とした。
「ぉえ……ぐッ!?」
熱と血に混じる灰。顔面で燻る火種に半狂乱で首を振った。
男は全体重を愉悦に任せて彼の下腹部に乗せる。退かそうと男の脚を掴むが力の差はどうやってもひっくり返すことが出来ない。仰け反り衝撃を逃がそうとする。苦悶に眼球が何度も反転した。
抗う度に胃と腸が悲鳴を上げる。情けない声と漏れ出る空気の振動、そうして遂に胃の内容物を吐き出した。仰向けのままで口や喉に残留し呼吸もままならない。
「許可無く猿が喋るんじゃねえよ」
シャツの胸ぐらを掴まれ吐瀉物に汚れた顔を晒される。そのまま引き摺られ、突き当たりの壁に押し付けられた。
後頭部を打ち付け、未消化の物が大量の唾液と共に服へ垂れる。
「ぅあ……」
頬を張られた。何度も何度も繰り返される。
一弾指、食い縛った口内に奥歯が触れたらしく血の味が広がる。鼻から合流した鉄錆を力なく口から垂らすしかない。
「お前らみたいな下等生物は黙って人間様の玩具になってればいいんだ」
「ゃめ」
それでも止まない。意識も飛ばない。
男はひとしきり顔面を蹂躙すると痛みを与えるのを止めた。
「悪い悪い、可哀想に血が出ちゃったなあ。消毒してやるよ。感謝しろクソガキ」
半分開かなくなった瞼の隙間から視界を拾うと、男は徐ろにズボンのベルトに手をかけた。
アルコールが徐々に分解されつつあるのか、震える手で金属音を呼ぶ。
目が逸らせなかった。
露わになったのは黒ずみ萎びた男の性器。大人の排泄器官を間近で目の当たりにするのはこれで初めてだった。
顔に粘ついた先端が触れ、そのまま頬に押し付けられる。それは裏路地の地肌と比較しても相違ない不快なぬかるみのようだった。醜悪に息を呑む。引き攣った顔面の筋肉に沿って執拗に撫で付けられる。何度も肉の露出した切り傷に触れ、破けた表皮を捲る。ひたすら痛みと羞恥と倒錯に苛まれた。
どれだけ願っても逃げることは叶わない。
「ひ、ぁ」
滑る頬と酒精に占められる呼気。
嗚呼、眼前の男は消毒だとか言っていたか。
痛みに苛まれノイズが奔る脳味噌でも、次に何をされるのかは容易に察しが付いた。
「やだ。ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、それだけはやめ」
懇願と声の震えに合わせるかのように垢の詰まった尿道が痙攣する。
背後は壁、膂力に髪を引き掴まれ逃げる事は疎か顔を少しも動かせそうにない。髪を掴む拳には更に力が籠り、毛切れを起こす音が大脳に響いた。
とぷんと満ちてくる汚水を視認した瞬間、ホセは目と口を、顔のありとあらゆる孔をぎゅっと閉じた。
狂気、憎悪、殺意、恐怖、震駭、空虚、自棄、怨嗟、無念、絶望、諦観。
そして下卑た水音が降る。
「ッ——!!」
視界をブラックアウトさせた一拍子遅れ、液体を感じた。
濁った黄色が辺りに飛び散る悍ましい音が路地裏に反響し、耳朶をなぞって滲出した。浴びせかけられる一種の欲は髪の一本一本を伝って頭皮に染み入り、脳を犯される。
アルコールのトリガーによって降りかかる嫌悪は止むことなく、更に勢いを増した。
どれだけ力を入れて顔を強張らせても強酸が如く引き結んだ唇の皺、体中の毛穴、60兆個ある細胞の隙間を溶かし内部の体組織を犯そうとする。顔が穢され、首筋を伝ってそれは服を濡らした。どこまでも染み入って繊維が重くなる。
どうして。嫌。何で。
軟口蓋が震え、今しがたものを放り込んだ胃が制御不可能に蠢動し、喉奥から何度も何度も低い音が絞られる。
「口開けろよクソガキ、なあおい聞いてんのか、無視してんじゃねえぞ」
一瞬の衝撃。下腹部に膝が重く入る。肋骨が軋み、腹筋から上の筋肉が全て痙攣する。
そうして反射的に口を開けてしまった。
くぐもった声を押し出し、唾液を散らす舌。遠くなった耳は何処か満足げな男の呼吸音を知覚した。
頭を抑え付けられ一挙注ぎ込まれる。嗅ぎ慣れ馴染み無い味が、ずたずたに切れた口内に染みた。男の体液が傷跡をなぞって体内に滲出する。アルコールの絞り滓が犬歯の隙間を縫って押し寄せる嘔吐欲求。
黄ばんだ不浄が味蕾を犯し、一時的な至福から生理的嫌悪へ書き換える。
熱いのか冷たいのか分からない不透明な液体は舌下から分泌された粘度の高い唾液と混ざってどこまでもしつこく口内に残った。
「がッ……っうぇ、お、あ」
声と涙で唾液と胃液で押し流す。コンクリートの粗い壁面に押し付けられ黄色く濡れた髪共々頭蓋骨を摺り下ろされた。
次に口を閉じれば何をされるか分からない。汚穢を閉じ込めたままでいたくも無かった。
無制限に染み出す唾液が唯一の拒絶。瞼の裏で何度も眼振が起こった。生理的反応に依り涙腺から水分を引き摺り出す。しかし濁流はキャパシティを超えて喉奥に一筋流れ込んで胃に落ちた。
一体どれほどの時間蹂躙されていたのかもう分からない。ノイズに焼き切れた中枢神経、思考を放棄してどれほど経っただろうか。
血痕の残る壁に凭れて焦点の定まらない双眸で男の方向へ虹彩を力なく移動させる。男は此方に背を向けてシャツを整えていた。そして胸ポケットから紙巻き煙草を取り出して、安っぽいオイルライターで火を点ける。路地に引き延ばされる紫煙。麻痺した嗅覚をそのまま殴る紫煙。
数秒後ホセの視線に気付いた男は無言で歩み寄ってきた。太陽の向きが変わるほど時間が経っていたらしく、逆光で男の表情は見えない。
嗚呼、また顔を殴られるだろうか、今度は腹を蹴られるだろうか。今度は何されるんだろう。あれよりひどいことかな。でも痛いのは嫌だな。あんなに痛いくらいだったら、もう。
「ああ良かったなあ、綺麗になって」
濡れそぼった顔にかかるのは酒気帯びの二酸化炭素と副流煙のトップノート。血の付いた拳を開いて自身の体液にまみれた少年の頬に優しく触れる。
男は不気味なほど慈愛に満ちた声と笑みを以てホセの頭を撫でて、それからは一度も振り返ることなく路地裏を後にした。
気が付けば山向こうに還ろうとしている太陽の燃える頭が見えた。充ち満ちる路地裏の瘴気は何処へか、空気は嫌味なほど澄んで黄昏を含んでいた。
イドとエバに言い付けられてからもう何時間経ったのだろうか。
地面に浮くいつもと変わりない虹色の混合油を眺めていたら、いつの間にかその水面は純な鬱金色を写していた。夕暮れの色かそれとも。
ああ帰ろう。帰らなきゃ、みんな待ってるから。
体に纏わり付く煙草の残り香とアルコールの残滓、そして生乾きの尿。それは無慈悲な手で刻み付けられた掠り傷と切り傷に染み入って、もう消えない気がした。痛めつけられた骨身は何をするにも自重と圧力に軋み、筋繊維はぼろぼろに解けていくようで。
痛い。臭い。汚い。穢い。
ホセは時々膝を折りながらもコンクリートの壁を伝い歩き、そして空を仰いだ。美しい夕べには焼けた無窮が広がり、彼と同じ方向に巣のある鴎は先導するように風に乗る。
鴎の白い腹を見て、彼は路地の入り口で吐ければ吐けるだけの胃液を再度口腔へ送った。
ⅩⅣ
- Re: What A Traitor!【第1章ⅩⅤ更新】 ( No.17 )
- 日時: 2018/08/03 21:04
- 名前: 日向 ◆N.Jt44gz7I (ID: 2mVH7ZuJ)
- 参照: http://www.kakiko.info/upload_bbs3/index.php?mode=image&file=975.jpg
ⅩⅤ
「ホセ、お前どうしたんだ? その傷……」
「ちょっと」
「ちょっとって……そんな訳ないだろ」
マンホールに辿り着いたのは、日も疾うに暮れきった濃紺の時間。
ソファに体を預けて微睡んでいたイドだったが、ホセの姿を見るなり飛び起きた。
腫れ上がった顔面と内出血で紫に滲む瞼、痛々しい切り傷から広がる表皮の裂け目、濡れて生乾きのシャツ。
夕方見送った姿とはまるで違う異形。言わずとも彼の身に何かが起こったことは一目瞭然だった。
ホセはイドの前におぼつかない足取りで進み出ると、目を合わさずに言う。色の籠もらない声と陰を落とし込めた瞳には光が射さない。
「イド。オレ臭くないかな」
「え——臭いって」
あの後は近くの公衆トイレで全てが消えるまで全身を擦った。
薄い皮膚を掻き壊してまで上書きしたかったあの忌まわしい記憶に血が滲む。
傍目から見ればシャワーを浴びることの出来ない貧困層の子供がトイレの水道で水浴びをするという何とも同情を誘う光景。街ゆく小綺麗な大人たちに警察を呼ばれなかっただけマシだろう。
水道の前に立って、口をゆすいでも、喉奥まで水を流し吐き出しても、あのおぞましい感触はどうやっても消えてくれなかった。
そして濁流が一滴となり臓腑へ流れ込んだあの瞬間がフラッシュバックする。
ホセは衝動的に蛇口をひねった。これ以上水流の勢いは増さないのは分かっているのにそれでもひねり続ける。もはや水として体を成さないそれは自身を濡らす衝撃波となって跳ね返った。
その衝撃を下から迎え、体重の増加を顕著に感じるほどの生水を胃に流し込む。水流に押し退けられ膨らむ頬、歯間を過ぎる流水、喉を刺すウォーターカッター。
無理矢理不透明な不定形を腹の底へ押しやった。そして事務的に舌を突き出して、軟口蓋を指二本でぐっと押し込む。
吐き方はイドから教わっていた。腐ったものやカビの生えた食物を誤って食べた時にこうしろと言っていた彼の顔が浮かぶ。こんな使い方をするとは夢にも思っていなかった。
生理的反射に依り腹筋が波打ち、消化器官が震えた。内臓は疲弊しきっていたが情けなく絞られた声と共に淀みなく大量の水を吐き出す。
重力に従って水が地面に墜落した。涙腺から引き絞られた靄で煙る視界、過敏になった聴覚。
地面に打ち付けられた水は蝸牛までも犯したあの濁音に似ているような気がして一層の嫌悪を誘う。
ひとしきり洗浄が終わった後は薄い緑色をした油膜の張った水がだらしなく口から糸を引いて垂れるだけで、固形物はもう出てこなかった。
「別に気にならねえけど……」
イドは二重の意味を込めて訝しげにホセを見る。その眼差しにあてられると刻み込まれた傷が熱を持った。
ホセはイドの返答を受け、彼の顔を見ないままに首肯する。
「そっか」
同時に幾分か救われたような気分にもなった。
恐怖と裂創を植え付けられ、頭から歪んだ欲を引っ被った自分だとしても穢れは残っていないのだと錯覚出来る。
イドは二度瞬きをすると、努めて明るく歯を見せた。
「血は止まってるみたいだし。まあ大丈夫か、傷口が腐らないように気を付けろよ」
「うん」
イドはそう言うとソファからやおら立ち上がり、マンホールの奥の方に向かって歩き出した。
劣化したダンボールと喧しい色をした包装紙を踏み分ける音がコンクリートの壁に一定のノイズと共に反響する。
そして剥き出しの汚水配管に跳ね返ってアタックがぼやけた彼の声がホセの耳に届いた。
「何があったかは聞かないけどさ、シケた面してんなよ。ほら【アレ】やってみるか?」
マンホール奥から戻ってきたイドはおどけた仕草で口元に右手を遣り、そして深呼吸する。一瞬にして彼の頬に浮き出る恍惚の色と虚ろに融ける虹彩の輪郭。
ホセは痛む喉を上下させ、生唾を飲み込む。
彼の左手には小振りのアルミ缶と皺の寄ったビニール袋が握られていた。
彼の言う【アレ】とは有機溶剤の吸引である。
最近になってイドも手を出したらしく、髄液を揺らすような刺激臭を纏ったままマンホールに帰ってくることも多かった。流石に10歳に満たない子供達と通気性の悪いマンホールで吸引することはなかったが、最初は勿論ショックを隠しきれなかった。
脳を焼かれ廃人同然になった大人達、そして薬に溺れて大人になりきれなかった仲間達をホセは腐るほど見てきた。
イドも彼らと同じような末路を辿るのだろうか。臭気にあてられぐるぐると中枢神経に酔いが回る。ホセはこれまで泥を噛んで共に生き延びてきた彼の堕落だけはどうしても見たくなかった。
この地獄にあっても導きをもたらしてくれる気高い彼に救いを見出したかったのだ。しかしそれは叶わなかった。
どんな人間だとしても最期はこの路地に殺される。神も伝道者モーゼもこの世界にはどこにもいないし、淀んだ瘴気と薬瓶の亡骸ばかりだ。結局のところ金と暴力が支配者なのだから。
そして羽音の絶えない楽園にシンナーと吸引具があることにもひどく動揺した。自分が知らなかっただけでイドはもうシンナーを手放すことが出来なくなっているのだろうか。
もう何も考えたくなかった。
一過性の麻痺が残る顔面の筋肉を操作し、口角を歪める。
上手く笑えているだろうか。
「あー。ううん、いいや」
ホセは有機溶剤やドラッグの類いには手を出さないことを今よりずっと幼い頃から決めていた。
決して好奇心が無かったわけでもなかったし、薬物を体に入れることが仲間と認められる第一種のライセンスになっていた風潮があったことも否めない。
しかし薬物を拒むことは人間として生きられなかったヒトのなれの果てを見せつけるストリートへ捧げる一種の復讐であるとさえも考えていた。
体液が滞留して重たくなった瞼を押し上げたならば、地面に強く打ち付けられた眼窩が軋んで骨片を零しそうになる。
ホセはここで初めてイドの顔を見た。
「ん、そうか」
幸運なことに彼の顔に怒りや失望の色は張り付いていなかった。
ホセはゆっくりと瞬きをし、鼻から深く息を吐き出す。今イドに拒絶されればそれこそ【生きてはいけない】のだ。
だが安堵したのも束の間、彼は次にズボンのポケットを探った。
「それじゃ煙草はどうだ? ケースごと落ちてた」
自然な動作で差し出されるソフトケースに瞳孔と汗腺が開く。
手を出そうとしないホセにイドは返答を待たずケースとライターをぐいと押し付けた。そうして押し付けられるがまま受け取ってしまう。
刹那、皺の寄ったビニールの感触に全身が強張るのが分かった。
煙草。
あの匂い。
嗅細胞が一斉にどよめいて嗅覚に紐付けられた先刻の惨劇が蘇る。
有害で燻される路地裏、顔の中心に振り下ろされる拳、膂力にひしゃげる鼻梁、迫るアルコールの呼気、そしてアンモニア臭に塗り潰される五感。
脳を占める阿鼻叫喚に耐えるように奥歯を噛み締める。それでもフラッシュバックする羞悪に犬歯がかち合わず硬い音が頭蓋骨にひたすら響いた。
痛い、酷い、惨い、嫌だ。なんでいまこんな、こんな。
「ホセ。ホセ? なあおい、どうした?」
イドの声で一気に現実へと引き戻され、息を呑む
「——ッ! な、なんでもない!」
「でも顔色悪いぞ」
現れた煙たい幻覚をマンホールに満ちる慣れ親しんだ毒気で何とか押し流した。
しかしイドは訝しげにホセを見つめる。ここで彼にバレるわけにはいかなかった。勿論心配かけたくなかったというのもあったが今はただただ口に出すことすら悍ましい、その一点のみだった。
イドの視線を取り繕うように煙草を一本取り出し、ライターを右手に持ち替える。
緑色の透明なオイルライターは三回目の打ち石でようやく火球を吐き出した。そしてホセは眩惑の残り香からくる筋肉の痙攣を何とか誤魔化しながら、火を煙草のフィルターに擦り付ける。
二秒後赤熱する先端部から白煙が立ち上る。それは災厄をもたらした男の後ろ姿からくゆる紫煙と重なった。
いつまでもこうしているわけにはいかない。こうして呆けている間にも煙草の先端部は灰に帰っている。
ホセは意を決して吸い口を犬歯で迎えた。
乾いた紙に前歯が触れ、骨伝導で奇怪な音を聞く。それを振り切るかのように苦虫を噛み潰したような顔で吸い口を噛み潰した。
「——!?」
予想以上に重い衝撃が脳を殴りつける。速攻の頭痛と鼻を抜ける黒い刺激。傷だらけの口内に奔る縦横無尽の裂創を埋め立てるかのように粘るタールが取り付く。
不味い。まさにその一言に限った。
肺胞から延びる血管を通って内臓を黒く染め上げる感触。あんなに苦しい思いをして綺麗にしたのに黒い記憶は再度臓腑に滲みだしてくる。
その拍子に肺一杯に煙を吸い込んでしまい、むせ返った。
異物を排斥する防衛機構。咳き込む勢いで咥えていた煙草も地面に落としてしまった。
もういい。そのまま焼け付いて消えようとしない傷も外に追い出してくれ。
窒息寸前、酸素の足りない頭で願う。
「ごめ、ちょっとオレ、だめかも、ん、いいや、返す」
ホセは俯いたままソフトケースとライターをイドに差し出した。
ゴミ溜めから覗く灰色の床に未だ火種が燻る煙草を靴の裏ですり潰す。
気管の襞に煤が残っているようで苦みが取れない。喉が切れるかというほどに咳き込んでも黒い苦みは解消されなかった。
「大丈夫か? 悪いな」
イドはホセの手から煙草を掴み取ると、くしゃっとズボンの尻ポケットにねじ込んだ。
箱から取り出した当初から比べて約三分の二の長さに縮こまった煙草を見ながらホセは力無く呟いた。
「ううん。ごめん。一本、無駄にして」
イドは俯くホセの背中をさすってやりながら笑った。
「気にすんなよ。ええと、そしたらセルベッサはどうだ?」
イドは室内隅に立っている茶色の酒瓶を親指で指し示した。
セルベッサとはスペイン語でビールのことである。
ホセの前に立ちはだかるのはまたしてもそれらを彷彿とさせるモノだった。本当は一刻も早く奥に引っ込んで眠ってしまいたかったが、リーダーの完全な善意であるため無碍には出来ない。
「まあ嫌なことあったならさ、うん、呑んで忘れろよ」
イドは荒っぽく背中をさすっていた手で彼の肩を軽く叩く。
断る選択肢など元より存在しなかった。シンナーと煙草、二度も断ってしまったから今度こそ受け取らねばならない。
違法薬物でも有害な煙でもない。酒なら何とかなるだろう。路上に生きる者ならば老いも若きも皆美味そうな顔をして飲んでいたことも覚えている。
「そうだね。イドがそう言うなら……飲んでみようかな」
浴びせかけられる歪んだ欲と穢れた酒精が脳裡を掠めたが口角を上げておく。
無理に作った表情のせいで未だ硬化していなかった瘡蓋が切れ、鮮血が薄く滲んだ。
「なんだ。お前飲酒も初めてなのか、えっと12歳だろ?」
酒瓶を取ってきたイドはホセの真正面にあたるゴミ山の上に腰を据えた。
「たぶん」
12歳にして薬物、煙草、酒すらも手を出したことのないホセはアカプルコのストリートにおいて珍しいケースだった。
成長するにつれて皆何かしらのイリーガルに手を出し、自ら破滅の道を辿っていく。しかしストリートだけではない、メキシコ全土において混沌を極める政府の決めた年齢制限などあって無いようなものだった。
元より不健全な嗜好品に対して確固たる拒絶意思は持っていた。体質として喫煙を受け入れられないのはたった今知ったのだが。
だから酒も自分がどこまで飲めるのか知らない。
イドは栓を抜いてホセの前に瓶を置いた。
「ほら飲んでみろよ」
開栓した瞬間からアルコールの匂いがマンホールに薄く立ち籠めた。
空気を意識すると途端に息苦しくなる。煙草ほどでは無いもののアルコールが皮膚や粘膜に纏わり付くことを考えると上手く呼吸が出来なくなった。
茶褐色の瓶だから中身は見えないがきっとアレと同じような色をしているのだろう、とも思ってしまう。その色といい路傍によく転がっている薬瓶がそのまま大きくなったような怪物みたいだ、とも思った。
先刻刻み付けられた醜悪はどこまでもぴったりくっついて離れてくれない。目の前に屹立する瓶はとても大きく重たそうだった。
一つ深呼吸をして両手で瓶を持つ。同世代に比べて体つきがよくない彼は手も小さかった。
「Gracias(ありがとう).」
マンホールの熱気に蒸かされた瓶は濡れていた。
飲み口に唇を固く押し当てて、恐る恐る傾ける。引き結んだ唇に生ぬるい液体が触れるのを認識すると少しずつその縛りを解いていく。
発泡性の液体は唇の皮を溶かすような甘痒い痛みを伴った。
口内に流れ込んだ液体は傷をなぞって、その裂け目を小さなナイフで何度も刺す。気泡が発生しては傷の中で弾けて肉を融かす。
満ちていくじんわりとした痛み、これは煙草の比では無かった。
更に行き場無く舌の上で転がしていても甘くなるどころか苦みばかりが増していき、飲み込むタイミングを完全に見失ってしまう。
救いを求めるように視線を彷徨わせると、相対するイドと目が合った。気付き微笑む彼、いよいよ吐き出すわけにもいかなかった。
熱を持った液体を奥に留めて一気に舌を押し下げる。形容しがたい不快感の後、鬱金色のセルベッサは疲弊しきった喉を焼きながら胃に滑り落ちた。
ホセは緩慢な動作で瓶を地面に置いて、暫く呻いた後に無声音を引き絞った。
「あー……きついよこれ」
ホセが再び苦しげに俯くのと同時に、イドは瓶を片手でさらってしまうとそのまま一気に煽った。
大きく喉を上下させて嚥下音を響かせる。
そしてホセの顔を覗き込んで、額に張り付いて水っぽい前髪を掻き上げてやるとイドはまた笑った。
「あれ、お前顔真っ赤だぞ。まさかセルベッサで酔っちまったのか?」
全く自覚は無かったがいよいよ酒も駄目らしい。
「倒れられたらしょうがないしよ、セルベッサも止めとくか」
そう言われると体が火照ってくるような気がする。埋め込まれた裂創が炎症を起こしているだけかもしれないが。
側頭部で小さく頭痛が芽吹く。多くの刺激に触れ過ぎたせいか吐き気が再度戻ってくる。
ホセは瓶を持って奥に引っ込むイドの背中に向かって今出せる最大限で精一杯の声を出した。
「イド……あの、ごめん、なさ」
出した、つもりだったが一体何に謝っているのか自分でも分からず着陸点を失った言葉は尻すぼみになった。
シンナーを断ったことか、煙草を吐いてしまったことか、それとも酒すらも飲めない不甲斐ない自分に対してか。
消え入りそうな声の謝罪はイドの耳に入らなかったのか返答が無かった。
壁のコンクリートに繰り返し跳ね返り、拡散。絡み合う汚水配管に音波が衝突し、霧散。
嗜好品はストリートチルドレンが持つべき第一種のライセンスだ、と隣の路地で暮らす洟垂れが先日そんなことを言っていたのを思い出した。
マンホールが昏く胎動する。
もしかしてオレはスラムで足掻く悪ガキにすらなれないのか。
このままでは唯の半端者だ。勿論父の顔も母の顔も知らない、その生死も、即ち己の出自も。
このストリートにさえも居場所がなくなったならどうすれば良いのだろうか。己を見失い、仲間からも生きることを許されなくなったら。
ここが地球最後の楽園なのだと嘯いて、同じ傷を抱える者と垂れる膿を舐め合い正気を保つ日々。
ホセにはいつかエデンが崩壊する審判の日がやってくるような気がしてならなかった。
「……エバ」
愛しい人の名が口を継いで出る。しかし彼女の名を呼んだとしても決して彼女に届くことはない。
そうしてホセはそのとき初めてエバの姿がないことに気が付いたのだった。
ⅩⅤ
- Re: What A Traitor!【第1章ⅩⅥ更新】 ( No.18 )
- 日時: 2018/09/03 18:57
- 名前: 日向 ◆N.Jt44gz7I (ID: PZ90N.oj)
- 参照: http://www.kakiko.info/upload_bbs3/index.php?mode=image&file=1000.jpg
ⅩⅥ
翌週の同時刻。
ホセは破れたソファから半身を起こす。負った傷も治りかけ、心身の調子もおおかた回復していた。
今日は蓄えておいた食料があったため盗みに出ることもなく午後から夕方まで眠り込んでしまっていた。一つ伸びをして寝ぼけ眼を擦りながら周りを見回すがイドもエバも彼の近くにはいないようだった。
マンホール内部の熱が籠もった梯子を登って外へ出る。
地下の居住区よりかは幾分マシな外気を肺まで吸い込んで、そのまま大きく吐き出した。ホセたちストリートチルドレンが暮らすアカプルコ山間部は今日も曇りである。
空の淀みを見上げて汗を拭うと異臭を纏う生ぬるい潮風が額を撫でた。白い街を海風はストリートを駆け上り、身体を蝕む瘴気へ変わる。
ホセは肺に溜まった吸気を呼気に変え、イドの隠れ家へ行くことに決めた。マンホールからそう遠くない位置に存在するトタン屋根の小屋が彼の隠れ家である。ホセは以前よりイドから気になることがあればいつでも尋ねて構わないと言われていた。
彼の隠れ家には数ヶ月前に一度だけ案内されたことがあった。少年期を経るとイドは今のグループから離れて暮らすことが多くなったがそれは勿論イドだけではない。グループを巣立つ時期になると徐々に独り立ちの準備も兼ねて別居を構える者も多くなる。そしてその隠れ家とは彼がシンナー吸引を行っている場所でもあった。イドは隠れ家から帰ってくると必ず服に刺激臭を巻き付けている。
数分ほど歩くとすぐ小屋に行き当たった。
排気ガスで汚れたコンクリート塀はひび割れている。ガラスのはまっていない窓を覗いてみるが、ホセの低い身長では背伸びをしても中の様子を窺い知ることは出来ない。
暫くのあいだ所在なく右往左往していると中から物音が聞こえた。
衣擦れのノイズと、混じる微かな吐息。
イドは小屋の中にいる。確証を得たホセは小屋へと歩みを進め、腐りかけた木製の扉を押し開けた。
「ねえいるんでしょイド——」
軋む蝶番。舞い上がる埃と大鋸屑。壁に背を預けた四角い人影。
確かにそこにイドはいた。しかし。
「……なに。ノックぐらいすれば」
鈍く室内を映すシンナーの缶。砂埃で灰に汚れた成人雑誌。膝まで下ろしたズボン。そして剥き出しの鼠径部を這う五指。
処理しきれない情報が一挙ホセの視神経に押し寄せた。
膨張した男性器。自分の知らないイド。小部屋に漂う有機溶剤の微粒子が痛みを与える。先週路地裏にて植え付けられた忌まわしい記憶が五感全てにてフラッシュバックした。
緊迫で口内が粘つき、味蕾がありもしないアンモニアを吐き出す。蘇る嘔吐欲求。肺に頼るな、肩で息を。皮膚の上から気道をなぞってゆっくりと彼から視線を外す。
嗅細胞を責め立てる刺激臭と甘い快楽の残滓が滴る部屋、彼と相対して指一本動かせなくなる。
その方面には無知なホセにも彼が何をしているのかは分かった。心臓が何度も何度も胸骨を内側から殴りつける。冷や汗が止まらなかった。
「あっ、いや」
何とか絞り出した声は情けなく裏返った。吸気に混ざる有機溶剤がひたすら苦しい。
目の当たりにする家族の自慰行為。性交渉や自慰に際してドラッグを使用する者は少なくないと聞いたことがある。イドは【コレ】に【ソレ】使っていたのだろう。頭が割れるように痛い。気道を掠めて肺胞、血液と脳が犯される予感に横隔膜が震えた。
無言の呵責とフラッシュバックによる吐き気に苛まれる。喉が渇いて仕方がない。
上手く二の句を継げずに視線を彷徨わせているとイドは苛立ちを隠そうともせずに吐き捨てた。
「出て行くか早く用件済ませるかどっちかにしてくれるか。これ、辛いんだ。分かるだろ」
分かるだろ、と言われても未だ初心なホセにはそれが分からなかった。精通は疎か性的興奮を自覚したことも未だ無い。
出て行くか、情けないが足が竦んでしまって動けそうにもない。用件、用件。自分は何をしに来たのだろうか、正当な理由も無く彼を暴いてしまった。もしかしたら彼を訪ねるそれなりの理由はあったのかもしれないが、過度の刺激を脳髄に喰らった今それは思い出せそうにもない。彼の満足する理由を、早急に理由を用意しなければ。
内外からの刺激にぐらつく脳味噌からどうにかして言語機能を絞り出す。
「えっと……エ、エバはどこにいるかなって……最近この時間帯にはいないし、イドなら……知ってるかなって思った、んだけど——」
ホセが言い終わらないうちにイドは返答を寄越す。
「さあ、知らないな。そこらへんでチビ達と遊んでるんじゃないか。……これで良いか」
ホセは鼠径部から中心に滑らせたイドの指に力が込もるのを見た。
自身の眉間に皺が寄る。思わず目を逸らしてしまう。
「う、うん。ありがと、じゃあまた後で……」
そしてホセは一度も彼の顔を見ることなくその場を後にした。
******
小屋への道を引き返し、マンホールの方角へと歩き出す。
指先に力を込めて吐き気と動悸を精一杯抑え付けた。
親のように兄のように慕ってきたイド。黒血と薬物に汚染されたストリートにあっても生きる道を示してくれた彼。そんなイドを聖職者か何かだと思い込んできた自分がいたのは確かだった。
だからこそ衝撃が大きかった。
家族の肉欲を目の当たりにしてしまったことか、有機溶剤に溺れていたことか。そのどちらがよりホセの心に痛々しくのし掛かったかは定かではない。
家路を辿る足取りは重たかった。
波と共に押し寄せてくる夜に片足を突っ込んだアカプルコ。厚い雲に覆われていじけた空が景色の上半分を占領している。それ故早くも切れかけのガス灯が壁の落書きを照らしていた。
先程に同じく夕刻の路地裏に気持ちの良い思い出など何処にも無かったが、ホセにはどうしても外に出なければならない理由があった。
最近夕暮れ時にエバの姿が見当たらないのだ。地下の居住区やその辺りも探してはみたものの暗がりの中では彼女の足跡すら見つけることが出来なかった。
もしかすると他グループの男に脅されているのではないか、自分やイドにも言えないような悩みがあるのではないか、と勘ぐってもみたが翌朝目を覚ますとエバは必ずホセの隣にいた。エバは綺麗なままで顔にも身体にも傷一つ無い。そして決まって彼女は寝ぼけ眼のホセに柔く微笑んで、虹色のセロハンに包まれたキャンディを一つ握らせてくれるのだった。
乾いた包装紙の擦れる音が耳に残っている。
エバからもらったキャンディは自分の毛布の下にまとめて隠していた。グループの様子を見るに他に彼女からキャンディをもらった子供はいないようだった。募るのは彼女の想いと七色の甘味。昨今の記憶は栗色の睫毛と揺れる瞳。
もし飴を口に含んでしまったら何かを失ってしまうような気がして、一つたりともその包み紙を開けることが出来なかった。グループの年少者に見つかってしまうのも正直面倒だったから、という理由も勿論あるのだが。
夕闇に消える彼女、微笑み、飴。言いようのない不安が胸をせしめ、それはホセを突き動かすに至った。
生唾を飲み込み、薄闇に塗れた路地に足を踏み入れる。
ホセは一週間ほど前に此方の方角に溶けゆくエバを見た。
よぎる不安を振り払い、縋り付くように足首を掴む夕刻の影を蹴って走る。
影法師が手を掛け闇に引き摺り下ろそうとする感覚。沿岸部でうるさいほどに光を撒き散らす街灯などこのストリートには無い。見慣れた路地裏の筈が今日だけはその崩れ落ちた瓦礫が恐ろしかった。
走っても走っても無機質なコンクリート壁が続くだけで景色は変わらない。道中の痩せこけた野良犬に想い人の行方を尋ねたところで意味は無いだろう。
排気ガスで動く身体と心臓。しかし幾ら探せどエバへ繋がる手掛かりは何処にも見当たらない。そればかりか一歩一歩前へ進む度にアカプルコの空は暗くなるばかりだった。
「どこ、エバ」
生まれつきの聴覚障害で、口を利くことが出来ないエバ。
どういう理由があって単身路地裏に出掛けていくのかは分からない。
走り続けて燃料切れを起こしそうな身体に、酸欠の脳味噌に彼女の柔い掌の感覚を押し付ける。
始まりはこの世の全てから見放された落し胤でしかなかった。しかしこんな地獄に生まれ落ちて、生を認めてからずっと一緒だったエバ。母のように、姉のようにいつも傍に居てくれたエバ。不浄な地獄に射す一筋の光、やがて時間が流れると同時に彼女はホセの生きる意味になった。
一人黙って夕刻姿を消すのも心優しい彼女のことだ。野良猫に餌をやっているのかもしれない。親が居ない子の面倒を見ているのかもしれない。
しかし最後の一つは考えたくも無かった。
もしかすると、自分の知らないところで大切なひとができたのかもしれない。
「エバ」
名前を呼んでみたところで音波として彼女の鼓膜を揺らすことは出来ない。
冷静に考えると必ず彼女は翌朝帰ってくるのだ、自分を置いて行くことはしない。
一度足を止め、深呼吸をする。
気が付けば鈍色の空は錆び付いたような色に移ろっていた。太陽と月の境目に鳴き声を響かせる鴎たちも疾うに巣に帰っている時間である。イドと顔を合わせるのは億劫だったがそろそろマンホールに、自分たちのエデンに帰らなければならない。
ホセが踵を返そうと左足を引いた刹那、路地壁に反響する音が静寂をぴりと裂いた。
音源は路地突き当たりの右、更に細い、入り組んだ通路。
押し殺したようなくぐもった音質。おそらくその正体は何かに遮断され直進しない女性の声。
冷や汗が頬を伝った。
「ッ——!?」
エバの声かどうか、確証などどこにもない。
それでもホセは再び駆け出した。
「そこにいるの!?」
返事は無い。ホセは突き当たりの壁にて砂埃を巻き上げ、停止する。
不透明な声に危機感を覚えた。しかし本当にエバかどうか確認が取れないまま飛び込むのは危険だろう。もしも声の主がエバで危ない目に遭っていれば尚更だ。
感覚を研ぎ澄ませ息を小さく吐いてから、殺す。
ホセは周囲よりも一層闇を湛える見通しの悪い通路へと慎重に歩みを進めた。
「ねえ、エバ。そこにいるの? 帰ろう。帰ろうよ」
通路は狭くなる。腹の底から出し切ることが出来なかった声帯の震わしは何度も壁に跳ね返って内耳に留まった。
道幅が狭くなるとそれに比例してゴミが多くなり、それと同時に嗅細胞に粘つく異臭も酷くなった。
もはや嗅ぎ慣れたものの一つである屎尿や生ゴミの臭いではない。もっと酷い匂いがする筈の腐敗物や路上に横たわる死臭とは全く異なり、そして慣れない匂い。形容しがたい残穢を言語化すること、ホセにはそれが出来なかった。
しかしそれでもどこか脳の片隅に引っ掛かる記憶の破片。鈍く煌めく欠片を集めて追憶を試みるが、人為的に打ち欠いたような尖った破片には触れることは叶わなかった。
思い出せない、それとも思い出したくないのか。
奥歯を噛み締め、摺り足で音源へ距離を詰めていると突如道幅が広がった事に気が付いた。知っているストリートとは全く別の区域に出たようで、見慣れない看板を吊った飲食店の小窓から漏れ出る光に目が眩んだ。
グラスのかち合う音と、大人の喧噪が耳につく。大人の声は無駄に大きくて、低くて、喧しくて、恐ろしい。
道しるべだった微かな女性の声は粗野な喧噪に呆気なく打ち消されて聞こえなくなってしまった。
ホセは道に面した飲食店のダストボックスに身を隠し、視力の回復を図る。自分たちのねぐらであるストリートに人工灯は無い。
暗い路地を走り続けていたせいか瞳孔は縮こまったままで光に慣れようとしてくれなかった。
路地に漏れ出る酒気は頭痛を呼ぶ。光源を睨み付けていると、毛むくじゃらの腕が乱雑に窓を開けて、同じく毛だらけの無骨な指が煙草を投げ捨てた。
酒と煙の眩惑にホセは犬歯を精一杯噛み合わせて耐え忍んだ。久方振りの嘔吐欲求と不快感が襲い来る。五感を殺しに来る路地裏の宙を己の牙で噛み砕いた。
聴覚と嗅覚は削られてしまったが視覚は回復しつつある。
二度ゆっくりと瞬きをしてから目を見開く。ホセは声がしていた筈の前方を見遣った。
「え」
やはりそこにいたのはエバだった。
「え?」
そして満ちる臭いと記憶が繋がる。
「あ」
先週の路地裏、男、イドの部屋、成人雑誌の印刷臭、鼻が曲がりそうな甘ったるい空気、この異臭。
足下を見た。根元が縛られた細長い紐のようなものを踏んでいた。
「あれ」
足をどかすと、磨り減った靴底に液体が付着する。
「あれ」
前方に視線を移す。
「ぁあ」
そこには啼く女がいた。長い前髪が額に張り付いていて、それは見慣れた栗色をしていて。潤む瞳は栗色の長い睫毛に縁取られていて。
未だ短い一生を捧げて焦がれたひとだ。見間違うはずも無い。
ホセの想い人は赤茶けたマットレスの上で太った男に組み敷かれていた。
吼える女。何度も彼女の中へと男の一部が沈むのを見る。初めて見る彼女のところは白く糸を引いていた。
彼女の紅潮した頬に男の脂汗が滴る。彼女はだらしなく伸ばした舌でただただ男の舌を求めていた。
沈むマットレスの縫い目を目で追う。見たことのない枚数の紙幣が彼女の下着に詰められていた。
幼い頃よく聞いた舌っ足らずの駄々とよく似た涙声。しかし吐息の混じる唸り声は聞いたことが無かった。
そこにいたのはホセの知っているエバではなかった。
はにかみながらホセの手をとって指文字を紡いだ腕は男の首に回されている。
ホセの為に向けられていた眩しい笑顔は雄と雌の体液にまみれている。
肉の殴打音が脳を揺らす度に彼女との記憶が塗り変わっていく。
訳も分からず涙が零れた。
しかし最初に知覚したのは絶望ではなく、下腹部の熱さと痛みだった。
ホセは半狂乱で走り出す。
闇と静寂を裂いて、ゴミ箱を転がしながら、躓きながらも走った。
喚いて叫んで、脳が創り出す勝手な感情を声で掻き消す。
嘔吐きながら走り続けて辿り着いたのは奇しくも胃の内容物を全て捨てた先週の公衆便所だった。
よろめきながら中に入る。空っぽの肉体は本能で動いていた。
奥に一つだけある個室の扉を蹴って、震える手で鍵を鳴らす。閂が嵌まったのは暫くしてからだった。
扉に背を預けて肩で息をする。どうすればいいか、なんてのはよく知っていた。何故か、今日見たばかりだから。
背徳感と興奮で体中から汗が噴き出す。
見様見真似猿真似で。嗚呼、生地に手を掛けて引きずり下ろす。
こんなのまともじゃない許されないかもしれない、と最後の倫理が枷になる。
しかし枷を運ぶシナプスは疾うに断線していた。
恐る恐る触れて、それから握力を伝える。
その後はもう駄目だった。
粘液で滑る手と蕩ける水音。脳から脊髄へ駆け巡る快感が髄液を湧かす。
もはや残った理性すらもそれを止めようとしない。押し殺すように息を長く吐く。奥歯を噛み合わせて呼吸と鼓動に耐える。
そして濡れた摩擦と掛かる圧を押し返すように膨張した
「っ……ぁ゛」
絶世の快楽を然るべき器官から吐き出す。壁に片手をつくと襲い来る未知の感覚を逃がそうと断続的に下肢が痙攣する。
最後の残滓を自ら絞り出すと同時に背徳感と後悔で視界がぼやけた。
体中の毛穴が開く。鼻水が止まらない。軟口蓋と横隔膜が痙攣する。言葉にならない無声音が喉の奥で裏返る。
そして汗に濡れる掌に残る蕩けた廃棄物を初めて見た。
しばらくは、何も考えられなかった。
厚い雲に溶かし込まれた廃液が夜を引き連れる。気が付くと体液が滲みないようにして履き直していたらしく、四肢を放り出して路地壁に背を預けていた。
祈った後の終止符とよく似た響きのソレは既に端が乾いて、歪になっている。ホセは震える手で水っぽい歪みをコンクリートに何度も何度も摺り付けた。硬く粗い壁面に圧を掛け続ける柔肌は皮が裂けて血が滲む。
しかし瘴気と廃油を吸った路地壁は白濁を弾いた。
掌からは滲んだ赤が混ざり、酸素に触れた彼女への感情は赤黒く変色する。
五指に残る色を直視すると暫時眩惑が襲った。
擦り切れたマットレス。響く甘い殴打音。皺の寄った高額紙幣。目を離せなかった肉の境界線。目の当たりにした彼女の恍惚。そして、そして。
「ちくしょう。ちくしょう、ちくしょう。くそ、くそくそくそくそ。おれ、さいあくだ」
*
それからエバとは一言も話すことないまま、彼女はグループからの卒業を迎えた。
彼女がいま何処で何をしているのかは知らない。生きているかも、死んでいるかも。
そして気が付いた時には彼女のくれた飴玉は消えていた。野犬が持って行ったのか子供達に気付かれたのかは分からないが跡形も無くなっていた。
むしろ都合が良かった。
自らを売らねば生きられなかったことも今なら分かる気がする。
しかし一つを認めてしまうと分からなくなる事も増えた。ストリートに反旗を翻すことの意味も、自身の命の価値も分からなくなってしまった。
楽園だと信じ込んでいたのは蟲の湧く不衛生な下水道。
最奥で息づくのは穢れた命。
エバはイヴでは無かったのだ。
ホセが女性に触れられなくなったのはそれからだ。
ⅩⅥ
- Re: What A Traitor!【第1章ⅩⅦ更新】 ( No.19 )
- 日時: 2018/09/05 00:08
- 名前: 日向 ◆N.Jt44gz7I (ID: PZ90N.oj)
- 参照: http://www.kakiko.info/upload_bbs3/index.php?mode=image&file=1005.jpg
ⅩⅦ
イドの薬物摂取量は以前よりも明らかに増えていた。
否、常時体内に入っている状態にも等しいだろう。
彼は有機溶剤では飽き足らず、錠剤、乾燥植物、粉末の炙り、果てには静脈注射にも手を出すようになっていた。
住み処であったマンホールにも殆ど姿を現すことなく、外れにある小屋に引き籠もっている状態が続いている。
薬物を血中に落とし込み、力無く生ゴミを漁る日々。そしてドラッグが尽きると街の方へ彷徨い歩き物乞いや引ったくり行為に及ぶ。
ホセらのグループを導いてくれていた筈のイドは消息を絶ち、路地に生きる子供達は現在混乱の中にあった。
グループの誰もがイドの行方を知らなかったのである、たった一人、ホセを除いて。
イドとホセの年齢差を埋める人間はおらず、生を繋ぎ止めるイドの一番近くにいたホセが引き継ぐしかない。
子供達の生命は僅か齢十二の手に託されることとなった。
「イド。入っても良いかな」
現在ホセは小屋の木製扉の前に立っていた。
嘆くような人面を象った木目を見つめて、軽く拳を握った手の甲を板に打ち付ける。
腐った木材は二度鈍い音を跳ね返した。
「いるの?」
端から答が返ってくることなど期待していない。
今のイドと会話が出来るとも思っていない。
「ねえ、入るよ」
しかし今日ホセがイドを尋ねたのは他でもなかった。
無論【あの日】から小屋に足を踏み入れてはいない。瞼に焼き付いた光景が足が竦ませる。記憶に紐付けられた記憶が今でも嘔吐を誘う。
それでもホセはこの地獄に射す一縷の光明を彼に見出したかった。
12歳の小さな肩にのし掛かる他者の命の重み、連日に渡る精神の消耗。
身も心も衰弱しきったホセに頼れるのはもうイドしかいなかった。どんな彼でもいい、彼の肉を依り代に思い出を重ねるだけで良い。唯、イドに会いたかった。
皆で過ごしたマンホールに帰ってきてくれるかもしれない、貧しくてもそれなりに幸せだと思えていたあの頃に戻ってくれるかもしれない。
神に見放され続けてきたホセにとって跪くべき神はイダルゴ、即ちイド、その人だった。
悪露と泥に濡れた自らを抱き上げ、命と名を給うた神。彼がいなければ産み落とされた日の 夜が明ける前に野良犬の腹に収まっていただろう。
顔も名も知らない娼婦の股ぐらからの落し胤、この命はホセの両親の所有物ではない。
イドに向ける感情。感謝という言葉すら陳腐。今更になって気付いたのは信仰か、宗教か、狂信か。
未だに彼を信じているのだ。過去のものとなった彼の雄姿に縋り付いて、遙か遠くに霞む幻想を夢見て。
それは或る意味自暴自棄な祈りだったと言い換えても良かった。
静かに扉を開くと、大鋸屑が舞って視界を塞ぐ。部屋に射し込む光が塵に乱反射して室内がよく見えない。
「——ん? ホセ?」
その声色に息を呑んだ。
「イド……?」
気圧差によって生じた渦が手狭な小屋に潮風を呼ぶ。
街から駆け上がった真白な風は勢い良く室内に吹き込み、埃の霧を晴らした。
「うん? オレだけど……?」
ホセは精神汚染で濁り始めた目を見開く。
イドは幸せだった時と何一つ変わらない表情をして壁に背を預けていた。
散乱したゴミや薬瓶を除けた中央に腰を落ち着けている。
骨と皮ばかりに痩せた身体、掻き壊しで荒れた表皮、落ち窪んだ瞳、変色した歯茎と歯列、抜け落ちた体毛、鼻につく体臭。
彼は二目と見られないほどの変わり果てた姿になっていた。
しかしいつものように困り笑いを浮かべる彼の表情だけは、ホセが渇望していたそれだけは何一つとして変わっていなかった。
「——お、おいおい。どうしたんだよ」
目を丸くしてはにかむイド。
今では立ち上がるのも困難な様子で、ホセに歩み寄るため膝を立てようと試みては肩をすくめている。
ホセは眼前に存在する光景を信じることが出来ずにただ立ち尽くすばかりだった。
唇が不器用に愛し神の名をなぞる。
「イド」
しかし乾いた舌では彼の名前を呼ぶことすらままならなかった。
イドは柔らかな光満ちる瞳でホセに頷く。
「イドぉ……」
滲む視界に陽光が白飛びした。
感情の過積載は遂にキャパシティオーバーで涙腺から積み荷を放り出す。
ホセは重たかった命の足枷を蹴り飛ばして彼に駆け寄った。
部屋を占めるゴミを掻き分け、躓きながらも彼に手を伸ばす。この彼を逃してはならない。早く、早く届いてくれと指先を逸らす。
そして半ば倒れ込むようにして彼の胸に飛び込んだ。
ぼろ布と化したTシャツを拳が痛くなるほど引き掴む。脂肪も筋肉もなくなってしまった彼の胸に顔を埋めて深く呼吸する。
骨張った、とても薄い身体だった。
「そんなに呼ばなくても分かってるっての」
イドは目を伏せてホセの頭を撫でる。睫毛が抜け落ちたせいで傍目に眼の輪郭は暖まらない。
鱗のようになった皮膚片がホセの柔らかな髪を引っ張った。
ホセは彼の存在を確かめるよう胸骨に耳を寄せた。微かな心音が骨伝導で脳内で不規則に響く。
彼の鼓動はもはや福音のそれに等しかった。
「そんなにくっつくなって。お前だって暑いだろ?」
イドは照れくさそうにすっかり肉の削げた頬を掻く。
ホセは目の端に涙を溜め、何度も何度も彼の心臓に頬を擦り寄せた。
「うん、うん。あったかいねイド。すごくあったかいんだ」
イドの体臭はいつの間にか知らない匂いに変わっていた。
マンホールで寝食を共にしていた時とはまるで違う、刺激臭とも甘ったるい香水とも判別の仕様が無い独特な体臭。
しかし本当はよく知っていた。それは路地裏の更に奥、最奥、もっと暗いところに満ちる瘴気。路地に生きてきた人間がヒトでなくなった時に最後発する匂いだった。
低体温に変わってしまったイドに自らの平熱を分けるようにすりよる。
ぼさぼさの髪と縒れたTシャツの衣擦れ音が隅に積まれたゴミ袋の皺に沿う。
ホセはイドの胸に頭をぐっと押し付け、無声音で呟いた。
「昔はさ、もっと狭い中で、あのマンホールでみんなとこうして眠ってたんだ」
自身が小屋に投げた言葉を口内で反芻する。成長するにつれて鋭利になった犬歯で宙を噛む。
戻らない過去を口に出してしまうと存外心の深いところに突き刺さった。
甘ったるい単語を選ぶ度に首筋に埋まる逆の刃。縋る体温も感じられない。
過ぎ去った時間も失った時間も所詮同等だ。産み落とされてからずっとこの路地裏で生き抜いて、今に至る。
ホセはイドの服を掴んでいた握り拳を緩めた。
「んー、懐かしいなあ。お前寝相悪くて何回脇腹蹴っ飛ばされたか分かんねえけどな」
あっけらかんとして笑うイドに対し、ホセは少々拍子抜けすると共に安堵を覚えた。
もう二度と見られないと思っていた屈託の無い彼の笑顔。彼の笑窪と愛した声に霞がかった記憶を引き摺り出される。
三人で笑い合った日々。飢えと寒さの厳しい夜も身を寄せ合えばここは地上のエデンだと思えた過去。重い蓋をして閂を掛けた筈の【彼女】との記憶も零れてくる。
しかし楽園は崩壊してしまったのだ。
そしてそれを認めてしまうにはあまりに背丈が足りなかった。
正気の彼と言葉を交わす度にまだ楽園は修復可能なのではないかと思わずにはいられない。肋の浮いた御神体といまいち感じられない体温に全てを願掛けしたかった。
乾いた目尻が再び涙腺をこじ開け、再び視界不明瞭を呈する。
「そうだったんだ……」
決して彼には見せないよう、顔中から流れ出る体液をイドの服に押し付ける。
涙腺が再び開いたせいか彼の服に染み込んだ何かに冒されたせいか分からないがひどく角膜が痛んだ。
鼻水と涙に滲む安っぽい化学繊維は予想以上に水分を吸い、低彩度へ移行する。
「ま! 別に気にしてねえけどな!」
イドは朗々として笑い、ホセの頭を二度軽く叩いた。
自らを導いてくれる手。彼の生き方を映した器用な指先。委ねる逞しい腕。ホセはその懐かしい感触を咀嚼するように目を閉じる。
彼の手のぬくもりを一時的なものにしたくはなかった。
ホセは乾ききった舌根を下げて、無い唾液を胃に送る。
「ねえイド」
「んー?」
そして彼の微弱な心音量に合わせて、口内で呟く。
いっそこのまま聞こえなければ聞こえないままで良いとさえ思っていた。
「マンホールに戻るつもりとか、ないの」
遂に、言ってしまった。
否、元よりそのつもりだっただろう。
解いた右手の震えを抑えるために押し付けた左手。
両手は不可解な程に祈りの格好をとった。親指が交差し肉の十字架を成す。
「ああ。そうだなあ」
幸か不幸か、声は届いていたらしい。
イドはホセの頭から手を退けた。
「すぐじゃなくてもいいよ。うん、すぐじゃなくても、いいんだ」
一息で言い切る。
部屋に満ちる埃を吸気に変えたところで、遅れてやってきた喉の痛みを知覚した。
未だ彼に体重を預けたままでいる。強張った身体は動こうとしなかった。
禁忌に触れた。もう退けなかった。
退けられた手に何をされるのか皆目見当が付かない。
「そっか」
無感情では生まれない声色。
ホセはイドの次の呼吸を待った。
「——久しぶりにみんなの顔見てみるのもいいかもな」
イドはゆっくりと、しかし確かに回る呂律で言った。
そして、それはホセの最も欲する答えだった。
告解の果てに見た光明。渇望と救い。
ホセの縮こまった瞳孔に射す光は湿った強膜に半月状に引き延ばされた。
「はは、なんだよ。お前そんなに泣き虫だったか?」
イドの手は再びホセの頭に柔く乗せられた。
絡まった髪に指を絡めてくしゃくしゃと撫でられる。首肯すら出来ない。彼の脇腹にうずめ直した顔は結局上げていない。
ホセは下唇を噛んでしゃくりを上げようとする横隔膜の微細動を抑えるのがやっとだった。
煙に巻かれ続けた期待は今度こそホセを裏切らなかった。
未だ震える手で、今度は彼のTシャツではなく薄くなった彼の身体に腕を回す。
「そうだホセ」
名前を呼ばれた。
眼前の神が給いしこの名前。
痛む目と洟の出た鼻を乱暴に擦り、取り繕う。声が上擦らないように咳払いを一つした。
「ん……なに?」
ホセは半身を起こし、彼の顔を見る。
落ち窪んだ眼窩に溢れんばかりの光を湛えた瞳。
しかしそれは決してホセを捉えてはいなかった。
開けっ放しの木製扉の遙か向こう、鉛色に崩れ始めた空を虹彩に映している。
そして血色を失いひび割れた唇からしわがれた声を穏やかに紡ぐ。
呼気はひどく甘く饐えた匂いで。
「エバはもう帰ってきたか?」
輪郭の蕩けた、焦点の定まらない瞳だった。
******
翌朝迎えに来てほしい、とイドの方から言われた。
昨日、彼の最後の一言に心臓が跳ねた。
何も【彼女】の名前が出たからというだけではない。最悪の想定にホセは道中かぶりを振った。
久し振りに人間と会話して少し混乱していただけなのだろう、きっとそうだ、と何度も何度も自身に言い聞かせた。
やはりアカプルコの山は曇天を留め、
俯きつつも彼の小屋へ続く往路をひた歩く。
路地壁に視線をやると否が応でも分かる、やはりこの路地は特に荒れ具合がひどかった。
爛れた性の匂いとイリーガルな抜け殻が道に散乱している。律儀に積まれたゴミ袋はおそらく市街地から不法投棄されたものだろうことも伺えた。
浮浪者やストリートチルドレンがゴミ山から必要なものだけを持って行ってしまうために、半透明なビニール袋は無遠慮に破かれていた。
壁にはスプレー缶で描かれた巨大な落書きが路地壁を占めていた。
一つや二つではない。口汚いスラングや人名、はたまた聖書の一文が目に痛いネオンカラーを押し付けられてる。
そして、イドの小屋との距離が縮まると周りのものとは一線を画す大きな落書きがホセの目に付いた。
昨日もこれはここにあったかもしれない、ただ単に気付かなかっただけかもしれない。
突如として目に飛び込んだ不健康な色に、ホセは何故か足を止めてしまった。
路地壁を張り付いた塗料に此方を伺う怪物を見る。
不浄な赤黒い路地壁にイエローの蛍光塗料が示すのは【我が神よ】。
目を見開き、生唾を飲む。
毒々しい色合いと馬鹿に大きいアルファベット三文字に目眩がしそうだった。
ホセは両目を擦って、再び小屋の方へ歩く。
数十秒とかからずに小屋はその全貌を現した。
しかし刹那、市街地から駆け上る海風と共に違和感がホセの身体に纏わり付く。
何故か、小屋はひどくみすぼらしい佇まいに変わっていた。
厳密に言うと小屋の外観は変わっていない。しかし過去に彼に連れられてやって来たときはそのようなことは思わなかったのだ。昨日でさえ引っ掛からなかったのに。
心臓が早鐘を打つ。
硬直した足は思いと裏腹に前へ進もうとしなかった。
冷や汗で滑る拳を握りしめ、渾身をもってふくらはぎを殴りつける。
何かが、何かがおかしい。
衝撃に除細動を掛けられた脚を前へ。
足をもつれさせながらも走った。
切れる息。
小屋の前で蹴躓く。
自由のきかない手。
顎を強打した。
生理的反射で瞑る目と飛び出る塩水。
数秒唸った後に目を開けると腐った木製扉があった。
痛みに歯を食い縛って、手を付き、膝を立てる。
ドアノブに手を掛ける。
潮風が吹き込み、埃が舞う。
「イド」
微粒子の幕が晴れた。
「イド」
昨日と同じ位置。
中央にて伏す人影を見た。
「イド」
昨日の甘く饐えた臭いが部屋中に満ちていた。
「迎えに来たよ」
静かに中央に歩み寄る。
「いつまで寝てんの」
足下で薬の包装が割れる音を聞いた。
「ねえ起きてよ、聞いてるの、ね」
そして中央に辿り着く。
おかしな方向に曲がった彼の首。
信じたくなかった。全てが嘘だと。
扉とは逆方向に回り込む。
それではどこまでが真実だったら溜飲は下がったのか。
彼の顔を見た。
血走って飛び出した目と長く垂れた舌。首や腕を掻き毟った痕。
固まった血が床に点々と飛び散っている。
昨日の穏やかな表情の痕跡などもうどこにもなかった。
痛みと恐怖に怯えた瞳の色。心臓に重ねる硬直した手。
露出した角膜と強膜に埃が付着している。
ボロボロになった彼の体はところどころ人間のかたちを成していなかった。
「嘘だよ」
彼の排泄物の中に膝をつく。
半固体と混ざった液体は冷たかった。
ホセはイドの縒れたシャツの裾を握る。
何度彼の身体を揺すっても不透明な涎が垂れてくるだけで答えは無かった。
彼の傍らに転がっていたのは薬瓶と粉末のこびりつく透明なビニール。
それは二種類以上の薬物を同時に摂取するドラッグカクテルだった。
見ただけで分かる。よく知った路地裏の臭い。
転がる肉と薬瓶はホセにあまりに残酷な意味を突き付ける。
薬物中毒者のなれの果て、人間のかたちをした亡者が最期に縋るところだった。
「帰ろうって……みんなんとこ、帰ろうって」
ホセは頭蓋骨に皮を纏っただけの彼の頭を両手で掻き抱く。垂れ流しの体液に滴る体液が混ざった。
イドの頭は取り落としそうなほどに軽くて、そしてまた止めどもなく溢れた。
「いったのに」
亡骸は答えない。
苦悶の最期をホセに見せつけるだけで答えない。
「——。」
そうか。
最初から神様なんかこの世界にいないんだ。
縋った神は禁断の果実でなく安い錠剤とサイケデリックに浮かされた人間。
崩落の音を聞いたのも実は空耳に過ぎなくて、最初から楽園なんて何処にも存在していなかったことを。
そんなことくらい本当は分かっていたのに。
自罪はきっと地獄の最中で望み過ぎたことなのだろう。
白んで滲む世界に吼え、砥いだ牙を剥く。
神がこのクソ野郎、そんなにこの命が憎いか。
「あ——」
暫時、咆哮。
慟哭。
涕涙。
嗚咽。
終止。
再度、崩壊。
ⅩⅦ
- Re: What A Traitor!【第1章ⅩⅧ更新】 ( No.20 )
- 日時: 2018/09/09 12:03
- 名前: 日向 ◆N.Jt44gz7I (ID: PZ90N.oj)
- 参照: http://www.kakiko.info/upload_bbs3/index.php?mode=image&file=1012.jpg
ⅩⅧ
——3年前、ホセ=マルチネス18歳。
「ん、ありがとな」
彼は自分より一回り小さな少年から、白い粉の入った袋を三つ受け取った。
中指と人差し指に嵌められた銀のリングがかち合い、小さな金属音が路地壁に反響する。
「ねえ、誰にも言わない?」
少年は不安げな色を湛えて彼を上目遣いに見た。彼に差し出した手は未だ引っ込めることが出来ないでいる。
彼は少年の瞳を真っ直ぐ見つめて深く頷いた。
彼の虹彩には歪に光が射し込み、その黒い瞳はまるで縞瑪瑙のように鈍い光を放っていた。
「言わねえよ」
彼は一息吐いて、少年の視線の高さに自身を合わせる。
少年は半歩後ずさりして背中で手を組んだ。
「ほんとに?」
「本当に」
純白の街から吹き抜ける潮風が駄目押しに二人の身長差を埋める。恒常的な栄養失調が原因でやはり背丈は彼の思うように伸びてくれなかった。
薄汚れたストリートに到底似つかわないような髪色が少年の目にはとても印象的だった。
柔らかな純白に差す真紅。鮮やかな赤をとどめる黒い髪留めは願いを込めるように十字を描く。
少年は未だ心配そうな声色で、袋を渡した彼に念押しした。
「約束だよ?」
約束。
少年の口にした【約束】は彼に頭痛をもたらした。
茫洋と広がる靄のかかった記憶。しかし遙か遠く置き去りにしてきた筈の情景は瞼の裏に焼き付いたままだった。
もう思い出すことは無いと思っていたのに、言葉一つでそれは容易に呼び水になる。
頭痛を、そして余計な思考を振り払うように彼は目を擦った。
目の下には痣のような隈が広がっていたことに少年は初めて気付く。水彩のように淡く、しかしどこか毒々しい黒血を思わせた。
彼は不器用に縞瑪瑙を細めて、少年に尖った歯を見せる。
「……ああ。約束だ」
そして彼は立ち上がり、空を仰いだ。
変わること無いアカプルコの空。重たい鉛色を背負う山間部と透けるような青が広がる沿岸部のツートンカラーを、生まれてから今日に至るまで飽きるほど見てきた。
彼の隈と同じような水彩を垂らし込んだ雲は今にも泣き出しそうな顔をしている。
もうじき雨が降るのだろう。気付けば空気も一層水分を含んで平生より重い。
彼は少年ともう一度目を合わせて言った。
「見つかんないうちに早く帰れ。お前さ、絶対三日後この路地に来いよ。分け前は渡さねえとな」
彼と相対する少年はゆっくり頷く。
「うん、分かった」
彼は一言だけ告げて少年の後ろ姿を見送った。
「気を付けろよ」
18歳になったホセ=マルチネスが選んだのは麻薬の密売人だった。
先程のように麻薬を必要としない幼い子供たちから薬を引き取り、それを沿岸部のリゾートにて火遊びを好む阿呆な富裕層に相場の倍以上の価格で捌く。
警備の目が厳しいときは路地裏で、浮浪者の足下を見た末端価格で売りつける。
子供たちから回収した麻薬の量で追いつかない時には正規の売人を襲い、その盗品を売り捌くこともあった。
そうするうちに幼き日にマンホールで雑魚寝をしていた時では想像の付かないほどの金が貯まった。今でも自分の抱える財の価値を見失いそうになる。正直使い方が分からない。
まずは路地裏と同じ色をしたブラウンの地毛から、輝くような純白と強さを誇示するような赤に髪を染めた。好きな服を見つけて、それを着る楽しさも高額紙幣を手にして初めて知った。
そして不衛生で光の無い路地裏で育った為か、ホセは装飾品に特に惹かれるようになった。
ライターで炙った針を使って穿孔したことも膿が止まらず腫れが引かなかったことも、目を閉じればありありと痛みが蘇ってくるようで。
それでも酒も煙草も薬もやらないホセにとっては少々手に余るような金額だった。
「……さて、と」
近年、薬物が異常なスピードでストリートチルドレンらの間に蔓延してきている。
ストリートチルドレンに重きを置いて麻薬を配っている者がいることは事実だった。
そしてその者たちの名は【アカプルコ・カルテル】。南米裏社会にて暗躍する巨大麻薬密売組織である。
娯楽の少ない子供たちにとって余りに快楽をもたらす薬物。違法ドラッグに溺れさせ、絞れるところまで絞り上げ収益を出す仕組みなのだろうという事は容易に窺えた。
政治ゲリラ等が絡んだメキシコ情勢の崩壊により古くからアカプルコ一帯を牛耳っていたカルテルは、南米に多数存在する麻薬組織を合併吸収して更に力を付けてきている。
中でも【特殊高火力殲滅部隊「onyx」】と呼ばれ畏れられる不敗神話。彼らを中心として縄張り抗争や麻薬闘争を勝ち上がっていった。それらの戦闘に特化した猛者共の暗躍が無ければ、ここまでのカルテルの膨張は無かったであろうという話も聞いた。
深いところまで足を突っ込まずとも、長年ストリートにいればこれくらいの知識は入ってくる。
しかしホセは更に深いぬかるみへと、足を突っ込んでしまっていた。
何故ならばホセが横流しするのは専ら【アカプルコ・カルテル】産の大麻とコカインだったからだ。
いつ組織に嗅ぎつけられるか分かったものではない。カルテルの息が掛かった売人を襲ったことも品物を盗んだことも罪状には当然上がるだろう。
日々が綱渡りだった。
「三袋9万ペソってとこか」
ストリートチルドレンのグループはかなり前に抜けている。
たった一人遺されたかの時代、即ち十二の時分からずっと前線に立ち、ホセはリーダーとしての役目を担っていた。
しかし背丈も経験も足りない子供がうまくいく筈も無く。
地を這い泥を噛む日々。理不尽な世界と神の名を冠する不条理に対し食い縛り続けてきた牙は昔よりずっと鋭利になった。決して自分は敬虔な信仰者などではなく、自身の立つ瀬が楽園だと盲信する愚者に過ぎないと知ったのは【あれから】もう少し後だ。
無論、全てを忘れてしまいたかった。
深く注がれた愛情も、聖人の名を冠するこの名前も、彼らが掬い上げたこの生命ごと全て。
しかし自害は出来なかった。
かつて愛したひとに取られた手は、心の奥深くに楔を打ってしまって最期の一刃を頸動脈に沈める事を制した。
自らが捌く粉末状の快楽を以て天国を見に行くことも吝か(やぶさか)ではなかった。
だが、かつて愛した兄と過ごした最期が蘇り、舌に触れた瞬間異物を排除する身体に変わっていた。
拾い上げる拳銃も結局は生きるために、他者へ銃口を向けることになった。それでも時折襲い来る自傷衝動は、耳に針を穿つことで満たそうとした。
踏んできた屍の記憶が邪魔をして神のいない現世に別れを告げることは叶わなかった、おそらくそれはこれからも変わらないだろう。
人間として生きることを踏みにじる穢れたストリートに反旗を翻す、オレは絶対に薬はやらないと子供のように喚いていたことを思い出す。
そして最も嫌悪していた筈のドラッグを路地裏に撒き散らす仕事。
それが彼の選び取った生きる道だった。
******
ホセは昨日も沿岸部のリゾートに赴き、相場以上の値段で売りつける事が出来た。
アカプルコの陽光にあてられた金持ちは御しやすく簡単に乗ってくる。そして相手が若ければ若いほど尚更興味を示す事も経験上知っている。
清潔な温室と汚い路地裏。全く正反対の環境で育った人間であっても、ドラッグを手にしたときの目の色は同じだ。どこまでいっても所詮同じ生き物なのだと無感動に思った。
ホセには勿論元締めに送るような上納金は無く、薬物を提供した子供たちに何割か渡すだけで良い。
彼の黒いスキニーパンツの両ポケットからはメキシコペソの高額紙幣が顔を覗かせていた。そして尻ポケットには護身用のフォールディングナイフ、懐には拳銃を忍ばせてある。
生まれ育ったストリートを独り歩いていたホセはゆっくりと息を吐き出した。そして彼を囲んでいるひび割れた路地壁を見回す。空は昨日に引き続き、泣き腫らしたようにその体積を膨らませている。
オレは一生路地裏で生きていくのだろうか、という漠然とした疑問はずっと昔からあった。
娼館の裏で産み落とされた無価値な生命は、同じような掃き溜めで朽ちていくのだろうか。無意味な命は無意味なままで、いつかの【彼ら】のように。
疑問は猜疑に変わる。
金を手にして初めて見る世界も沢山あった。商売の為にアカプルコ市街地に赴いて初めて、この世界はメキシコやアカプルコだけでないことを知ったのだ。
彼が現在着ているゼブラ柄のシャツと厚底のハイカットブーツも、日本という共和国の文化を扱う雑誌で見て惚れ込んだものである。
アカプルコよりもビル群が濫立するネオンの眩しい大都会、砂塵舞うどこまでも広がる乾いた広原、未だ精霊信仰が残る動植物の楽園、そして文化の光満ちる西欧の古都。
本に記載された文言や写真はホセを強く魅了した。狭く苦しい路地裏から抜け出し、いつかこの目で全てを見てみたいと思った。
その猜疑は望みに変わりつつあった。
「——!」
刹那、彼の第六感が何者かの気配を察知する。
ストリートに満ちる瘴気が蠢き、痙攣し始めた。
敵意、そして明らかな殺意。彼が持つ野生の勘が警鐘を鳴らした。皮膚が粟立つ。淀んだ空気が張り詰め、通りの喧噪が無に帰す。
唯ならぬ気配は彼の視線の先から漏れ出ている。
そしてストリートを繋ぐ交差点から三人の男がホセの前に立ちはだかった。
「ホセ=マルチネスだな」
黒いスーツに身を包んだ三人の男。
その気配と風貌、明らかに堅気の人間では無いことは確かだった。
ホセは馴染み深い二種の鉄の匂いを三人の男から嗅ぎ取る。生暖かい流体と冷たく硬い金属の二種混合の危険シグナル。
心当たりは十分過ぎるほどあった。
「誰だてめえら」
低い声で牽制しつつ、手を後ろに回す。
細められたホセの瞳に刃物に浮かぶような波紋が生まれる。
「【アカプルコ・カルテル】の麻薬類の横流しを秘密裏に行っている事、此方にバレていないとでも思っていたか」
やはりカルテルに嗅ぎつけられていたらしい。
特に隠蔽工作を施すこと無く目立って動いていれば当たり前か、と奥歯を噛み締める。
そして立ちはだかる三人の男は今まで相手にしてきた手合いとは纏う雰囲気がまるで違った。表情に出せば一気に呑まれてしまうだろう。おくびにも出せぬ状況だった。
「あん? そんなこたあどうでもいいんだよ。尻尾掴んだのは今更か? 何がカルテルだ。随分とオマヌケな連中ときてんじゃねえか」
ホセは片眉を吊り上げて挑発的な態度を取った。
半歩身を引き、構える。指はナイフの柄に触れた。
「お喋りが過ぎた。全裸に剥いて死ぬまで磔にしろと上からの命令だ」
「怖い怖い。出来るもんならな」
相手は三人、全員の息の根を止めることは出来無くともこの場をやり過ごせれば良い。
今を凌ぎきって残りの金で何処か南米でない遠くに逃げれば、もう追ってこられないだろう。
しかし息つく間もなく銃口を向けられた。
「制裁だ、死ね」
中央の男がホセに躊躇いもなく発砲する。
「ッ——!」
前髪が焦げた。
男が引き金をプルする瞬間、ヘッドスリップで弾を滑らせていたのにも関わらず。
決して威嚇射撃などではない一瞬で生命を喰らい尽くすフルメタルジャケットが彼の額を掠めたのだった。
立ち込める硝煙がストリートの瘴気と混ざり合う。反射で胃の奥まで飲み込んだ吸気がひたすら不味い。
額に手をやると、こめかみの肉を根こそぎ喰い千切られていた。烈火の如し凶弾が掠めた箇所は熱を持っている。
軌道に沿って抉り取られた銃創を指先でなぞると痛みと内なる生肉に出会うことが出来た。
確かな凶弾は頭蓋骨を揺らし、肢体の正常な操作と判断力を奪う。口角は痙攣し、自然と吊り上がった。
「あー……イテぇなぁ、オイ」
纏う雰囲気が違うだの何だの言っておきながら舐め腐っていたのはどうやら此方だったらしい。逃げ果せれば重畳とは甘かった、甘過ぎた。
向こうは殺す気でこのストリートにやって来ているのだから当たり前だろう。餓鬼の喧嘩とは一切合切の勝手が違う、明確な殺意を持って攻撃行動に移さねば死以外ない。
焼き切れた額から滔々と流れ出す生命。思ったより痛みは感じない。むしろ滑る指先と血潮の濃い香りの感覚でハイに酔い、本能のままに中枢から脳内麻薬を垂れ流した。
平生の視界を遮る真紅は断続的な痛みと流血により一層赤く赤く染まっている。味蕾が血液を受け入れ、舌先から伝えられた信号を加速的に脳に運ぶ。
挑発的な手招きと共に獣は唸り、紅き生命を路地に散らした。
「いいぜ、かかってこいよ……てめえらに天国見せてやる」
一発で仕留めきれなかった三人は焦ったように銃を構えホセに向けて一斉射撃した。
対するホセは相手の構えを見るよりも早く重心を下に前へ駆け出す。カタパルトのように姿勢を低く、そして速く。
生まれ育ったストリートだ。地の利は確実に自身が所有している。この弾幕を凌ぎきり路地裏に誘い込めば、多勢に無勢だとしても勝機は確実に生まれるだろう。否、見出してみせる。
銀弾は彼の遙か頭上を往く。
非情な路地で彼が命を懸けて磨き上げた黒曜石は軽業だった。そして敵は人間だけではない。山間部に潜む猛獣や飢えた野犬からも身を守らねばならなかったホセの動体視力は常人のそれを凌駕した。
銃弾はどう足掻いても直線にしか飛ばない。見極めろ、視野を広げて眼球を動かせ、動線を見誤らねば当たることは無い。
ホセは鉛の土砂降りの中をひた進む。キャッツアンドドッグスにも似た銃撃音が彼の聴覚を遮るが、重心を低く保ち高速で動く物体を捉えるのは困難であることを知っていた。
絶えず動く小さな的に弾丸は当たらない。先読みした動線の先へ未来予知的に引き金を引くが、次の瞬間そこにターゲットの姿は無いのだ。更に三人は焦る。それと同時に手元も狂った。
そして遂に右端の男が弾切れを起こす。止め処ない弾幕にも一瞬の隙が生まれた。
男は予備の弾薬を装填しようとホセから目を離し、ホルダーを探る。
ホセは視界の端に捉えた隙を見逃さず足の親指から小指まで渾身を込め、地を蹴った。更にスピードを上げ、コンマ零点一秒以内で男に肉薄する。
「ばーか」
そして一気に高度を上げ、男の顔面に飛び膝蹴りをお見舞いする。ネックである身体の軽さは距離と速さで補った。
ホセの膝は男の顔面にクリティカルヒットし、鼻の軟骨がひしゃげる感触と他者の体液が滲みる感覚に彼は眉を顰めた。
男は短く呻いた後に崩れ落ちる。そののち男は痛みに任せ叫び散らした。ホセの思わぬ反撃と仲間の咆哮に怯んだのか、残り二人の撃ち方が止む。
唐突な痛みを喰らって動ける者などそうそういない。痛みは身体が告げる警告。それは身を以て学んでいるホセは着地すると同時に、この好機を逃すまいと交差点の方へ駆けた。
後の一人はどうとでも処理出来る。残りは二人だ。
ホセは奴らの目から必死そうに見えるように且つ慢心させ追ってこれるように、ストリートにあるトタン壁やダストボックスを障害物として個数と方向を計算して転がした。
そして交差点を右に入る。ここもよく知った路地だ。死角となる物陰に隠れて息を潜め、呼吸を整える。
ホセは交戦前に触ったナイフではなく、拳銃を手にした。
暫く物陰に留まっていると遠くで障害物を蹴り飛ばし薙ぎ倒しながら右の路地へ入る音が壁に反響し、彼の鼓膜に届く。
大人二人分の荒い呼吸からは焦燥が読み取れた。
まだ動くんじゃねえ、殺れる機会を虎視眈々と窺え。
「あのガキどこへ行った」
「確かにここに、右に来たはずだ」
追っ手の会話を息継ぎの間さえ聞き漏らさない。どうやら二手に分かれるらしい。足音と呼吸音は二手に分散した。
一人はストリートの更に向こうへ、もう一人はホセの隠れる区画で捜索を続ける。
ホセは物陰から男の様子を窺った。
男は明らかに苛立ちを隠せない様子でダストボックスに当たり散らし、足蹴にする。そして完全に彼に背を向け唾を吐く瞬間を見逃さなかった。
もう一人の足音は遠ざかり、一対一の構図。確実に勝てる対局は今しかない。
ホセは短く息を吐いた後、物陰から飛び出し跳躍した。
男と目が合う。研鑽された縞瑪瑙と交錯するその瞳は驚愕の色を湛えていた。
「な——」
振り向きざま男の左眼窩に拳がめり込む。ホセの嵌めている中指と人差し指のリングがナックルダスターの役割を果たし、打撃力を補った。
男が噴き出した唾液と鼻水が糸を引いたがそれに構っている場合ではない。確かな弾力と殴打感に拳を引き、着地する。
バランスを崩し痛みで足下のおぼつかない男へ更に足払いを仕掛けた。スピードの乗ったハイカットの踵を使い、ブーツカット目掛けて刈る。
更に体幹が揺れ、男が地面にもんどりを打って倒れる。ホセの目にはそれがスローモーションのように感じられた。
ホセは仰向けになった男の肩を踏み抜く。片目が潰れ、男の湛える驚愕は恐怖の色に変わった。
懐から拳銃を取り出し、男の額に押し付ける。
「は、相手が悪かったな」
ホセは返り血を乱雑に拭い、もう動かなくなった男に中指を立てた。
「この路地でオレをファック出来るとでも思ってんのかよ、クソッタレ」
ⅩⅧ
- Re: What A Traitor!【第1章ⅩⅨ更新】 ( No.21 )
- 日時: 2018/09/16 12:33
- 名前: 日向 (ID: T0oUPdRb)
- 参照: http://www.kakiko.info/upload_bbs/index.php?mode=image&file=6184.jpg
ⅩⅨ
あれから二日が経とうとしている。
最後の追っ手は精密に処理した。顔面に膝を入れてやった男も処理した。
追っ手三人の死体は人通りの少ないストリートを通り抜け、特に隠すようなこともせずにそのまま山に遺棄した。大人三人分の亡骸は腹を空かせた野犬が好きなように持って行っただろう。肉片はおろか骨も残ってはいないはずだ。
ホセは相変わらずの曇天を見上げて一息吐く。今日は特別気温が高かった。
呆気ないな、とは思った。
不敗神話をも有する【アカプルコ・カルテル】の構成員と戦った実感は今になっても無い。ホセを殺せと命令された彼らが見せた焦燥。正直なところ、あのレベルの追っ手ならばこれから幾らでも撒くことが出来るだろう。
彼は汗で額に張り付き、自身の目にかかる真紅を払った。
このストリートではない何処かに行くのには理由が必要だろうか。深層意識に打った楔が自身をこの路地に留めているのだろうか。考えても考えても見えない解はひたすら自身の首を絞めていくだけで、決して真理には辿り着けない。
ふと首に手をやると二連のネックレスが小さく音を立てた。まさか完全に自分の好みで選んだ筈なのに、とホセは自嘲気味に笑うしかない。黒色の【それ】はまるで二重の首輪のように感ぜられた。
首から手を離し、目を閉じる。せめて今は何も見たくないと視覚情報をブラックアウトさせた。
思い出せない確執と狂信が脳裡を過ぎる。学の無い脳味噌で幾ら哲学したって答えなんか一生出やしないだろうと奥歯を噛み締める。
しかし刹那、硬質な違和感が彼を襲った。
ホセは息を呑み、短い眉を顰める。
彼は焦ること無く瞼で視界を覆ったまま砥いだ聴覚で音のみを捉えるよう試みる。コンクリートの路地壁は彼の聴覚を補助した。長年の路上生活により反響音を聞くことで何処に何があるか、又は物体の迫るスピードや音源の大きさを捉えられるようになっていた。
硬い音が路地壁に打ち返る。薄汚れたストリートには決して耳馴染みの無い音。良く鳴る音だ。恐らく底の減っていない革靴だろう。靴裏が打ち下ろされるスピードは速く、音は長く重い。その正体は成人男性で確定する。
状況把握の為に目を開けると、鬱陶しいほどに流れ出る汗が滲みた。恐ろしく暑い。際限なく溢れる汗でシャツが張り付いて気持ち悪い。空気は湿気って酸素が足りない。
凝らした視線の向こう、燻る陽炎の間を縫って件の人影が全貌を現す。
逆光で顔は分からないがホセよりも二回り高い背丈。こんなにも暑い日だというのに着崩し一つないスーツ姿だった。
アスファルトから立ち上る熱気に揺れる人型は端的に発した。
「ヨォ、チワワ犬」
低い男の声。ほんの数個の単語で構成された文章だが耳につく訛りが確かにある。
未だ正体が掴めない声の主だが、気怠げな間延び以外にもその息遣いには悠々とした余裕を感じられた。
チワワ、メキシコ原産の世界最小の愛玩犬。その名で呼ばれたのかとホセは怒気を抑えようともせず牙を剥いた。
「あ……? んだよてめえ」
熱風に溶ける人影はホセの目の前にて初めて鮮明になった。
褐色人種。漆黒の巻き毛に一切の光を拒む三白眼、整えられた顎髭。そして左頬の袈裟懸け状の瘢痕が印象的だった。
その殺気は巧妙に隠されている。悪意と殺意に囲まれて育ってきたホセでさえ男が眼前に現れるまで一切感じ取れなかった。それを知覚した瞬間に背筋が凍る。
しかし決して隠しきれない刃物を思わせるような鋭利さをを纏っている。それは二日前の男たちとは全く別物、異次元を放っていた。
須臾に肌が粟立つ。
危険予知、カラーはレッドサイン、エマージェンシー、全身の細胞が逃げろと五月蠅く警報を鳴らす。
「一週間経っても下のクソ三人が戻ってこないモンでヨォ。ケツまくって逃げたのかとも思ってたガ」
男はホセの質問に答えようとはせず、気怠げに路地壁に囲まれたストリートを見回すだけだった。
そして肩まである長い巻き毛を弄びながらホセに視線を滑らせる。
底無しの闇を湛えた猛禽の瞳とタイムラグを伴う心臓を鷲掴みにされたような感覚が襲った。
「まさか。組織がマークするような売人がこンなこまっしゃくれたガキだったとはナ」
男は不器用に左頬を吊り上げた。
そして細い目が更に鋭角を強める。心臓を穿つような獣の眼光。
人生史上類い希なる異常警報が脳内で唸りを上げる。しかし何て悲劇か、足が竦んで逃げられない。
「ま、ガキの始末すら出来ねえヤツらの運命なンざ決まってただろうがナァ……? ヤツラにとっちゃあ死に場所が違うだけダ」
男は全てを言い終わる前に汗で張り付いた前髪を掻き上げ、襟首から黒い紐を引っ張りだした。
紐の先端には彼の瞳にも似たどこまでも深い黒を閉じ込めた石が結われている。凝縮された闇の欠片には数本の白い縞が奔っていた。夜を湛えた縞瑪瑙とその波紋がホセの瞳に映り込む。
男はそれを指先で弄ぶようにしてホセに再度視線を滑らせた。
広げられた襟首から鎖骨と逞しくもしなやかな筋肉が覗く。そして男の首元や胸には幾多もの裂創が奔っていた。そのどれもが鋭い刃物で深く刻み込まれたような傷で重なった古傷は隆起した瘢痕に変わり果てている。男に刻み込まれた裂創は潜り抜けた死線の数と数多の歴戦を物語っていた。
男は縞瑪瑙の筋を指先でなぞり、にたりと笑う。
「ククク、別に報復じゃねえヨ」
ホセは生唾を飲み込んだ。
一刻も早くここから逃げなければ。虚仮の闘争本能ではなく生物としての生きとし生けるものとしての逃走本能が叫んだ。
逃げ果せる勝算は存在した。正体不明の男が相手だろうが全てを知り尽くしたこのストリートならば上手く撒けるかもしれない。あの路地を通って、あの板を倒して、右に曲って、直進して、再度右に曲がって、最後の突き当たりを左に行って、そこで体勢を立て直す。
瞬時に脳内で生存確率を高める確実なルートを作り出し、高速でシミュレートする。
これで何とかいけるはずだと息を短く吐き出した。
意を決し、ホセは半歩身を引く。
音も立てず。動作を視認出来ないほどに。それでいて五指全てに力を蓄える。
しかしその瞬間、男の不敵な笑みが消えた。男から目を離さず好機を伺っていたホセの顔からも血の気が引く。
今の予備動作すらも見切られていたのか。馬鹿な。
しかし今更戻れない。ホセは溜めた力を全解放し地を蹴った。早く早く速く早く。トップスビードに、海から吹き上げる風に乗ってくれ。研磨され鋸状になった奥歯を欠けるほど噛み締める。
そして初速を抜け出し最高速に達した瞬間。
肩を掴まれ、異常な膂力に引き戻された。
状況を把握出来ないうちに飛び上がった身体は地面に引き摺り下ろされる。
髪を掴まれ、熱されたアスファルトに顔面を擦り付けられた。そして肩を締め上げられ二度と飛ぶことが出来ないように捕縛される。頬を襲う摩擦熱と落とし込まれた絶望。関節を絞められ情けない悲鳴を上げるしかない。
理解不能なほどの反射速度だった。
「痛ッ——!?」
一層低い声が鼓膜に牙を突き立てた。
「うるせえ。報復じゃねえつってンだろ。無え頭働かせやがれカチート」
どこまでも黒く深淵を湛えた瞳と視線が交錯する。
相見える男の瞳の奥で垣間見えるのは絶望。ホセの縞瑪瑙は怯えでその波紋を曇らせた。
(こ、こいつ……)
唯、速かった。
ストリートで磨いてきた軽業と動体視力、その全てを持ってしても叶うことない圧倒的な力の差をまざまざと見せつけられた。
しかし速いだけではない。トップスピードに乗ったホセの身体を一本の腕のみでその疾風から引き剥がし、地面に墜落させてみせた。
現在も圧倒的な力に抑え付けられ、身動き一つ取れない。報復ではないと言っていたが下手に動こうとすると何をされるか分からない事もまた彼の恐怖を煽った。顕著な体格差と力の差。男にとってはホセの足の骨を折ることも容易いだろう。その気になればきっとホセの細い首など簡単に捻じ折られてしまう。
徐々に締まっていく肩が肉ごと軋んで新たな激痛を生む。逃れられない絶望と精神肉体両方の疲労。気力も体力も尽きかけている。
男はホセが抵抗しない様子を見ると満足げに鼻を鳴らし、彼の耳元で囁いた。
「ブエン=ニーニョ(いい子ダ)。よしよし、可愛い子犬ちゃんにオジサンが噛み砕いて教えてやるヨ。ま、今日来たのは他でも無え。平たく言えば人員補充に回されてるってトコかネェ……。最近はつまンねえ縄張り争いに駆り出されることも多くてナァ、一人死に、二人死にで【onyx】本来のオシゴトが回らねえンだ」
ホセは息を呑んだ。
この男いま【onyx】と言ったか。痛みと困惑の中でもそれだけは聞き漏らさなかった。
ストリートに住まう人々の噂する【アカプルコ・カルテル】の擁する【特殊高火力殲滅部隊「onyx」】。その不敗神話が頭の中で何度も反響する。
それが真実ならばこの先は地獄でしかない。ホセは祈るように男の二の句を待った。
相変わらず巻き毛の男は絶妙に外れたスペイン語で言葉をゆっくりと紡ぐ。その不器用な片言が余計に不気味だった。
「下っ端とはいえオメエはその拳と粗悪銃で大の男三人をファックしたンだ。霞の花束を送ってやっても、賞賛してやってもイイ」
文法のせいか発音のせいか自身の疲労のせいか男のジョークが一切分からない。
訳の分からないうちに、ホセは掠れた無声音で男を遮ってしまった。
正常な判断が下せず疲労した中枢でも思う。もしかしたら選択肢を誤ったかもしれない。しかし宙に投げられた言葉は麻薬とは違ってもう回収のしようがなかった。
「下っ端……てえと、オレが殺ったのはアンタの部下か……?」
暫しの間が二人の間に訪れる。割って入る数秒の静寂。
しかし意外な事に殺されることも余計な痛みが襲うことも無かった。男はただ愉快そうに腹を震わせてホセに応えた。
「アァ? アイツらが【onyx】の訳がねえだろうがヨ。ククク……笑わせンな。あの部隊が出てきてみろ、一瞬も要らねえ。オメエのドタマの風通しは良くなるヨ」
男はホセの汗ばんだ額を指先で軽く叩いた。
筋張って無骨ながらも繊細さを持ち得る指先。今この男が銃を手にしたならば、自分の眼球を抉ろうとしたならば。
ホセは男の指が描くその動線を睨み付けることしか出来なかった。
「要するに、ダ」
不意に拘束が緩む。
今日日の熱を孕んだ潮風が男の巻き毛を揺らした。傷の入った唇が不器用に言葉を紡ぐ。
「ホセ=マルチネス。【オレの部隊】に入レ」
唇の左端、崩れた肉の継ぎ目が喜色を含んで痙攣するのを見る。
ボキャブラリ、グラマーイディオムの何一つ成型されていない文章だがこの時ばかりは明確に捉えることが出来た。否、鷲掴みにされた心臓に直接言葉を擦り付けられたような、半強制を孕んだ知覚だった。
神話と語られし部隊の長。南米をその手中に収めしキリングマシンを【オレの部隊】と豪語するその姿。風格、疾手、膂力と男の全てに合点がいった。
ホセは諦観の色濃い縞瑪瑙で男の三白眼を力無く見上げる。
「ここで犬死にするカ、漆黒の爪になるコトを選ぶカ……。ヤクの横流しも【アカプルコ・カルテル】の構成員をバラしたのも小便みたく水に流してやるって言ってンだヨ。どうだ悪い取引じゃねえだろ……ン?」
男の瞳に宿る小さな深淵が此方を覗いた。しかし伺うばかりではない、迫り、広がり、ホセの柔い顎門を今にも喰い千切らんとする。
左頬の肉ごと抉られたような裂傷に目を奪われる。汗腺まで根刮ぎ奪われたであろう傷口はアスファルトからの照り返しで皮膚との境目を際立たせていた。
しかし一弾指、アスファルトから乱雑に引き起こされ襟首を掴まれる。
ホセの首に巻き付く二連の黒い環が小さく音を立て、螺旋状を成し彼の首に絡み付いた。
「チワワ犬。オマエがこの生ゴミ集積場に何を遺し、何に祈って生きてきたのかなンざ、オレぁ野郎の尻程にも興味は無え」
遺贈と祈念。
地の底から響くような声が呼び水となり、閉じ込めた記憶に波紋が生まれては消えていく。
抑え付けてきた記憶の欠片は透明な泡沫のようで、しかし一度弾けると赤黒く血飛沫を上げた。
「この掃き溜めで腐っていきたいちっとばかしの特殊性癖は否定しねえがナ」
笑みと再度の軽口。
しかし男は掴んでいたシャツの襟を離すと、反動を利用すると共にいとも容易くホセの首根っこを掴んで地面に叩き付けた。
玩具のように弄ばれる身体、そして遅れてやってくる物理的な痛みに奥歯を噛み締める。
「オジサンも暇じゃねーし、優しい方じゃねえからヨォ」
紫煙に焼けたような声色へと変わる。
抗うことすら思考の範疇にはもう無い。
「選べ。残機なンざ無え命の使い方を」
緊迫、鼓動すら止めてしまいそうなほどの。
男の灼けた声はホセの心臓に迫った。
「今からオマエは自由ダ。もう一度【アカプルコ・カルテル】に噛み付くナラ……懐に仕込んだいつ何時暴発するかも分からねえサタデーナイトスペシャルに手をかけナ。オレの手で地獄を見せてやる」
緩い懐に仕込んだ銃すらもとっくに見抜かれていたのか。絞められた頸動脈に爪が食い込むのを意識の深い所で知覚する。
「だが全てを受け入れるナラ——」
男はそう言うとホセの拘束を解いた。
頸動脈の走る首から手を離し、締め上げていた肩関節も解放した。
傷だらけの首元で黒瑪瑙が鈍く光りを放った。
「そのままオレに跪いてろ」
長い巻き毛が熱風を纏い、ホセの視界を遮る。
そして耳朶を噛み千切られそうなそうなほどの至近距離で囁かれた。
「今よりかは、ちったぁマシな地獄を歩かせてやる」
もし何かの間違いで男が丸腰でこの路地に来ていたならば。もし男が完全に油断しきっていて一瞬の隙を見出せたなら。もし銃に弾を込めていなかったなら。
しかしそれは甘い愚問に過ぎなかった。
今日まで幾つもの甘い幻想に縋って生きてきたのだろうか。
そんなものが今更通用しないことなどお前が一番知っているだろうホセ=マルチネス。
悔恨と狂気に汗が止まらない。
ホセは刃毀れしそうなほどに上下の犬歯を衝突させた。最大の圧力が掛かった奥歯が根幹から軋む。噛み裂いた口内で鉄錆の味が広がった。
そして、ホセは両手をアスファルトにつき、両膝を地面に付け、動かなかった。
矜持と誇りを犠牲に穢れた生命を首の皮一枚で繋ぐか、紛れもない死の恐怖に目眩を起こしたか。それとも男の言う依り代の無い【マシな地獄】に目が眩んだか。
しかし頭は上げたまま、ホセは新たに箝げ変わった神に充血しきった目を見開いた。
波紋をぎらつかせた凶刃と形容されるに値する縞瑪瑙と男の深淵がぶつかる。
「——はッ! ……いいねェいいねェ。オメエよォ、なんつー目してやがンだ」
男は肩を震わせながらスーツの胸ポケットから煙草を取り出した。
そして濡れた赤い舌で唇を舐め、ゆっくりと犬歯で吸い口を迎える。
「嫌いじゃねぇヨ」
男はそう言って口角を吊り上げると、急に踵を返し、背中越しに未だ犬のように四つん這いのままのホセに語りかけた。
「オレの名前はディンゴだ。子犬ちゃん、勿論付いてくンだろ? 」
疑問符を前にようやくホセは地に手をついて立ち上がった。路地の泥で汚れた手でシャツの埃を払った為、ゼブラ柄のシャツは薄く煤を被ってしまった。
返答を待たずに歩みを進める男。しかしもう数歩行くと肩越しにホセを振り返った。
野犬にも似た鋭くもとっぷりと夜闇を湛えたその瞳。動かないホセを無感情に射貫いた。
だが彼は立ち止まったままで、先を行く男の三白眼を睨み付けるのみだった。そして生唾を飲み込んでから、細く長く息を吐く。
「ああ、もうオレは逃げも隠れもしねえ……でもな、てめえの言うこんな掃き溜めであと一つやることがある」
「——ン?」
*
「こんなに?」
「ああ。いらねーんだ、もう」
今日は約束の日だった。ホセに麻薬類を託した少年は約束通りこの路地裏にやって来た。
ホセの応に少年は不思議そうな表情を浮かべ、首を傾げる。
見誤ってどん底まで堕ちるか、逆境の中手にした好機で上がるか。金を渡した後に果たしてこの少年がどうするかは最早認知の外だった。
今までの事といい無責任だろうか、否、それはもはや存ぜぬところでしかない。
「それと、オレもうここには来ないから」
「え。ね、それってどういう——」
ホセは少年を遮り、一言だけ送った。
「仲間、大事にしろよ」
そしてホセは少年に背を向け、歩き出す。
もうここには戻らない、と楔を打つ。
不可解な程に何の感慨も情さえも湧かなかった。実感を取り戻そうと軽く拳を握るが、リングのかち合う音が路地壁に反射して鼓膜に届くだけだった。
重い蓋をした記憶に今度こそ錠が掛かってしまったのだろうか。
通りを抜けると髭面の男、ディンゴが腕を組んで壁に凭れていた。
「ククク……酔狂なこったヨ」
「うるせえ」
ホセは縞瑪瑙にも似た瞳でディンゴを一瞥すると、生まれ育ったストリートを背に歩き出した。
ⅩⅨ
- Re: What A Traitor!【第1章20話更新】 ( No.22 )
- 日時: 2018/09/27 19:06
- 名前: 日向 ◆N.Jt44gz7I (ID: 2mVH7ZuJ)
- 参照: http://www.kakiko.info/upload_bbs3/index.php?mode=image&file=1019.jpg
ⅩⅩ
——1年前、ホセ=マルチネス20歳。
「ヨォ、ペペちゃん!今日も尻振る小型犬みたくゴキゲンか? 」
一年間の実戦訓練を終え、ホセはようやく【アカプルコ・カルテル】の擁する【高火力殲滅部隊「onyx」】の一員となりジャングルに配属されるようになった。
アメリカとメキシコの国境付近は政治宗教経済のあらゆる多角的な面で裏社会組織同士の小競り合いは絶えなかったが【onyx】が動く局面には至らなかった。彼らの本領は隠密活動と密林戦である。秘匿性の高い【onyx】の戦い方と手の内を明かすわけにもいかないというカルテルの本音も垣間見えた。
世界有数の兵力を誇り、麻薬カルテルの跋扈するこの南米で不敗神話を誇る部隊。苛烈を極めた革命ゲリラの残党、各国の紛争地区名を渡り歩いた傭兵、今もなお血と争いを求める退役軍人、特殊訓練を積み表の事情にも明るい免職警官など実戦経験の豊富な少数精鋭が揃っていると噂には名高い。そして並居る猛者共を統べ、その頂点に君臨する【野犬】と呼ばれし男の存在。一年前ディンゴとの【邂逅】を果たしたあの時から、さぞ殺伐とした軍隊なのだろうと腹を括っていた。
だがしかし蓋を開けてみれば何ということはなかったのだ。
一個師団にも等しいと畏怖されるキリングマシン、その正体は余りにも穏やかでホセは我が目を疑った。
互いを信頼し合い、己の背中を預ける姿。誰かの冗談に誰かが肩を震わせ、また誰かがその者の肩を叩く。眼前の部隊員の姿勢はホセを驚愕させた。
どうせまた大人の暴力の中に置かれるのだろうと腹を据えていたホセには拍子抜けも良いところだった。彼の育ったストリートの大人はいつも誰かといがみ合っていて自分より弱い者を鬱憤や欲の捌け口にしていたから。
そして老獪な隊の平均年齢は30代半ばと決して若い方ではない。だからこそ、邪険にされるどころか若いホセは正式入隊後すぐさま中年の輪に歓迎された。相変わらずチワワ犬だの白と赤のスイートヘッドだのと酒の入った中年男に撫でくり回されたが些か不快な気分にもなれない自分がいたのも事実だ。
ホセとディンゴは出会いこそ最悪だったものの、ディンゴの方はというとが件の邂逅を全く引き摺る様子がなく実戦訓練でもホセの世話を焼いた。今では立場逆転、とまではいかないが上司部下の境なく軽口を叩き合うような仲になっていた。
しかし敬称や丁寧表現は控えろと言ったのはディンゴ自身だ。名前にセニョールが付くと気持ち悪い、尊敬表現を使われると何を言っているのか分からなくなると笑っていた。ベネズエラ国籍を有していると語っていたが不器用なスペイン語には謎が深まるばかりだった。彼の母国語ではないのだろうか、しかしどこまで考えてもやはり詮無きことだった。
現在は休憩中。ホセは副隊長のロバートと共に大型の軍用テントの中で、彼と椅子を並べ机に向かっている。そしてディンゴはホセが腰を落ち着けていると決まって、笑みを浮かべおちょくりにやって来るのだった。
「あ? 鬱陶しいんだよバーカ」
ホセはディンゴに一瞥もくれず刺々しく言い放つ。むしろそんなホセの様子を見て朗々と笑うようなディンゴに効果は無かった。
ロバートは溜息を吐いて、頭髪は疎か毛根の無い禿頭を掻いた。
「隊長、またホセをからかってるんです? いい加減やめて下さいよ。誰がその鬱憤を受け止めてると思ってるんですか」
禿頭の偉丈夫こと【onyx】副隊長ロバートはヘーゼルカラーの瞳を細めてディンゴを窘(たしな)めた。
キューバ出身の元特殊武装警官である彼はホセの一期前の二年前【onyx】に配属された。
一年前というと南米におけるファミリアの勢力争いが最も激化していた頃である。抗争の最中、ロバートは南米掌握を計画するカルテルへの貢献と警官時代の知識、そしてその表の社会事情に精通していることからディンゴの補佐に相応しいとされ僅か1年にして副隊長に昇進した。
緊迫した組織情勢の中である、新規隊員の彼がナンバー2の座を就いた訳だが当初はロバートを認めようとしない者も当然多かった。しかし彼と過ごすうちにその人柄と白兵戦の実力が認められ、異論を口にする者も徐々に少なくなっていった。しかし警察官だったと語る彼が何故裏社会にて生きる道を選んだか、その謎は尽きない。筋の通った受け答えをする彼だったが、彼自身の口からその経緯を語ろうとはしなかった。
いつもロバートの愛称ボブでディンゴは副隊長を呼ぶ。
「ククク、悪いなぁボブ。あンだヨ、また英語のお勉強か?」
ディンゴは平生より細い目を更に細めて、ホセの持つペンとノートに視線を滑らせた。
視線に気付いたホセは後ろ手に筆記用具を隠し、ディンゴを鋭く睨む。
「てめーが言ったんだろ。副隊長について英語習えって」
ホセが牙を剥きながら応えると、ディンゴは鳩が豆鉄砲を喰らったような顔をした。次いで抉れたような傷跡が残る左頬を掻く。
挙動不審な彼の表情にホセは眉間に皺を寄せてディンゴを伺った。視線が右に滑るのも見逃さない。
「ン、アー……そうだナ。そうだっタそうだっタ」
しかし彼はおどけるように左手をひらひらと振ってみせるだけだった。
いつもと変わらないディンゴの様子にホセは肩をすくめて、視線を下に落としノートを広げ始める。
決して美しいとはいえない筆跡だったが皺の寄った紙と消しゴムの跡には明らかに彼の努力が見てとれた。
「ふん、勉強の邪魔なだけだし。どっか行けよ」
ディンゴはホセの吐く毒を軽く受け流すと、また愉快そうに笑った。
「ククク、オマエなぁ仮にもオレァ隊長だぞ? ま、いいけどナ。勤勉なこったヨ。ホセ、オマエはワルにゃ向いてないかもナァ」
ディンゴは笑みを浮かべたまま、ホセの小さな肩をその硬い掌で小気味良く叩いた。
「んな、な、なに言ってんだよ!」
そこで初めてホセは怒りに顔を紅潮させ力任せに彼の手を振り払った。
肩を怒らせ、短い眉が吊り上がる。子犬の威嚇のようにノコギリ状の歯を震わせる。
二人のやり取りを呆れながらも見守っていたロバートだったがホセの反応に彼も思わず噴き出してしまった。
唸るホセを横目にディンゴはようやく満足したようでロバートに声を掛けた。
「おう、そしたら邪魔者は消えるワ。ボブ、ペペちゃんのこと頼んだゼ」
眉尻を下げたロバートは柔和ながら、しかし芯の通る声で応えた。
「Si senor.(はい、隊長)」
伸びをしながらテントを出るディンゴを二人で見送ると、ホセは唇を尖らせた。
「ちぇっ……あんだよ」
そんなホセにまたロバートは微笑みかける。
彼の瞳は深緑と淡茶の優しさを綯い交ぜにしたヘーゼルに輝く。
「はは、隊長は若い君が可愛くてしょうがないんだよ。あの人もあれで不器用な方だからね、ああやって君の反応を見てるんだろう。いや隊長だけじゃなくて【onyx】の皆がそうだろうな」
ロバートの言葉にホセはむすっと唇を押し上げた。
内心構われるのはそんなに嫌では無かった。ただ自分を足蹴にしない大人に戸惑っているというところが本音だった。
食事には困らないし寝床が保証されている、そして不当な暴力も振るわれない。ジャングルで行われる日々の厳しい訓練も仲間と共にならば決して苦では無かった。
振り上げられた手は彼の頬を張らず、頭に柔く置かれる。掛けられる言葉は彼を穢さず、心を暖めた。
幼い頃に渇望したエデンでは決して無かったが、ここには血と薬物に汚染された路地裏には無いものが沢山あった。
それでも反発してしまうのはただ不定形な【幸せ】というものが徐々に輪郭を帯びてくるような、むず痒さ。そんな妙な感覚からだった。
「さあホセ。今日は文法じゃなくて会話表現をやろうか」
「うん。——あ、副隊長」
ロバートが言い終わる前に彼の隊服の胸ポケットが震えた。
携帯のバイブレーション機能、彼はポケットから端末を取り出すと光る液晶を見た。
隊員間での連絡は主に配給される無線機で行われるから【onyx】外の人間で間違いないだろう。液晶にはシートが張られ真正面以外からは画面が見えないようになっていた。
「おっと。すまない、嫁さんだ。少し席を外すよ」
ロバートは急いだ様子で椅子から立った。きっとキューバに妻を残して来たのだろう。
彼には家族がいるのかとその時初めて知った。ふとした疑問からホセは彼に尋ねる。
「嫁さん、って。副隊長が今カルテルにいるって知ってんの?」
「ん? ああ、いやそうじゃないが」
瞬きを一つ。そして何気なく聞いてしまった。
「嘘ついてんの?」
瞬間ロバートの虹彩が揺れ、明らかな翳りを見せた。一挙として昏色が彼のヘーゼルを塗り替え、光を奪う。
息を呑み、ホセは自身の発言を悔いた。
人には事情というものがあるのだ。それが自らカルテルの門を叩いたロバートなら尚更だろう。今しがたの発言は自身のことを語ろうとしない彼に対して至極無遠慮なものだった。
ホセはもう一度瞬きするとゆっくりと俯いて今にも消え入りそうな声で謝罪した。
「あ、あの。ごめ、ん、なさ」
顔を上げられないホセだったが、頭上から降る彼の声に刺々しさは一切感じられなかった。
「——大丈夫。色々うまいようにやってるさ。心配いらない、すぐ戻ってくるから待っててくれ」
そう言うとロバートはホセの頭を軽く二回ぽんぽんと叩き、足早にテントの外へ出て行ってしまった。
******
翌日払暁、ホセはけたたましい緊急警報で目を覚ました。
軍用テントさえも引き裂いてしまうようなサイレンが鳴るとき【onyx】出動の印だとロバートや他隊員から散々聞かされていた。
ホセは息を細く長く吐いて、寝間着代わりのスポーツインナーから迷彩柄の隊服に着替える。
昨日もあれからというものロバートはすぐに通話を終えてホセの元に戻ってきた。先刻の昏色を何処に押し流したのか、何一つ変わらない表情と優しいヘーゼルカラー。彼は嫌な顔一つせずに英語を教えてくれたが却ってそれがホセには心苦しかった。いつも通りの分かりやすい彼のレクチャーとゆっくりで丁寧な言葉選び。しかしその時ばかりは耳に入らず、ノートの煤けたアルファベットをぼんやり見つめる他なかった。
1年間袖を通してきた隊服はしっかりとホセの身体に馴染むようになった。携帯食料、水、そして弾薬をポケットに詰めて戦闘訓練を行う為に当初は重荷になってしまい彼の戦い方に合わなかったが、今ではそれにも慣れてしまった。長かった栄養失調の影響で筋肉は付きづらかったがトレーニングのお陰でスタミナ増強も叶った。ホセの軽業と疾手には更に磨きがかかり、部隊内でもトップレベルのスピードを誇っている。
本拠地の大型テントに入ると隊員らは既に揃っていた。ホセは目立たぬよう静かにテントの後ろに腰を下ろす。
猛者共の前にはいつも野犬がいた。今もジャングルの区画図と衛星写真を前に貼りだし、マーカーで連絡事項を書き加えていく。最初から会議に参加出来ていなかった為、なんとか付いていこうと複数枚の写真、書き加えられた矢印そしてアルファベットを追う。
張り詰めた空気がテント内を満たしていた。ジャングルの湿気と燃え盛る南米の太陽の下、蒸し暑い筈なのに此処だけは凍て付いている。
ディンゴはボードに貼り出した衛星写真を手の甲で小突くと隊員らに牙を見せた。
「敵は別段デカイ組織じゃねえ。普段通りのオシゴトだ野郎共。何も難しいこたぁ無イ」
普段はお茶落けて掴み所のない中年男もいざ仕事となれば堂々たる風格を現した。
何よりも戦闘意欲と士気を上げる話術の卓越さ、彼の号令が鼓膜を揺さぶる度に押し寄せる武者震い。決して肉弾戦の強さだけではない、ディンゴはそれが上手かった。
幾つもの裂創が刻まれたその背中には組織の誇りと隊員の命がのし掛かっている。陽炎と血漿に揺れる南米の頂点に君臨する覚悟とその矜持。それが彼の隊長たる所以だろうと、ホセは奥歯を噛み締めた。
「大麻草のプランテーションにネズミが入り込もうとしてる、っつー旨の情報が昨晩組織本部から入っタ。敵方規模は50人前後、まあオレらの倍ぐらいはいるわナ」
ディンゴは地図の左上を指し示し、整えられた顎髭に手を遣る。
「抗争がケツ落ち着けた頃にカルテルを出し抜こうとしたらしいガ……お相手さんは悲しいことに見誤っちまったらしいナァ」
顎を這う指を滑らせそのまま左頬をなぞり、漆黒の巻き毛を弄ぶ。
愉快げに喜色を含んだ声は紫煙に灼けゆく。そして獣を思わせる低い唸り声が臓腑と魂を揺さぶった。
「一匹たりとも逃がすンじゃねえぞ。全滅なンざ生温い。殲滅しろ」
深淵を湛えた瞳は冷酷さと莫大な熱量を併せ持つ。
「【アカプルコ・カルテル】に【onyx】有りト、奴らに思い知らせろ」
いつかの心臓を鷲掴みにされる感覚。脳を駆け巡るのは今は遠い彼方の記憶。
「テメエの鉛弾を喰わせてやれ」
野犬の一拍後、勝鬨と見紛うほどの雄叫びが本拠地を激震させた。
どこからちょろまかしたか分からないロシア軍用のオートマチック銃を懐に、そして腰のガンホルダーにイスラエル産の高火力の自動拳銃デザートイーグルを二挺備える。
木々に遮られるため掃射の自由が効かないこともあったが、ホセの武器であるスピードを殺さないようにという理由から小銃を持つことは稀だった。実働のかかった今日も拳銃とナイフが彼の得物である。
ホセは拳銃のグリップを強く握り直した。
ディンゴからいつ暴発するか分からない粗悪銃と言われたストリートの物と比べると現在彼が手中に収めているその威力は桁違いだった。特に重さの面にてそれは顕著に現れた。
入隊して初めて分かったことがある。決して朽ちぬ黒瑪瑙と呼ばれし彼らだが、全戦楽勝というわけでは決して無い。そこには少数精鋭だからこそ成せる緻密な連携も存在した。戦場では替えなど一切効かない、自分が【しくじれば】誰かが死ぬ。一人失えば勝率は大きく下がる。即ち【onyx】の没落、そして隊の壊滅を意味する。それはホセ一人では決して知ることのない【重さ】だった。
現在、相手方の焼き討ちに来る予定の大麻プランテーションに包囲網を作り、新参のホセは最も外側に陣取っている。
しかし襲来予定時刻は10分過ぎていた。
一分一秒が生死の分かれ目となる戦場にて600秒のタイムラグは異常事態とも言えた。張り詰めた空気に一筋の違和感が流れ込むが、誰も呼吸以外に呼気を使おうとしない。
徐々に高くなりゆく陽と煮詰まる焦燥に汗が頬を伝う。目の前を鈍い毒虫が過ぎる。野鳥の甲高い鳴き声に混じり呼吸音が森に溶け込む。
一筋の違和感がいよいよ束になり色濃くなったその時、ホセは戦慄を感じ、背後更なるジャングルの奥深くを振り返った。
(ん……?)
ストリートで培った技術を脳髄から無意識に引っ張り出していた。
コンクリート壁とは全く異なる柔らかな木々の幹を反響板に、僅かな音を鼓膜へと引きずり込む。アカプルコの路地とは何もかも勝手が違った。
聴覚に関わる全神経を研ぎ澄ませ、一切の雑音を排除する。呼吸音すらも漏れ出る異質だけ抜き取れ。
燃え盛る炎と枝の軋む音。それを理解した瞬間に戦慄は背筋を這い上がり、ホセの中枢を支配した。
次いで血と瘴気に満ちた路地裏にて生きる術を嗅ぎ取らねばならなかった彼の嗅覚がごく微かな硝煙とごく僅かな炭の臭いを知覚する。
彼の研ぎ澄まされた聴覚と嗅覚の答えが出揃ったその時にはもう決まっていた。
焼き払いは別のプランテーションで行われている事実。情報錯誤。守るべき領域を現在好きなように蹂躙されていること。相手に一本取られたということ。
最も外側に配置されなければ知覚し得なかった情報だった。この大麻草の区画にはコカイン畑が隣接している。
ホセは力の限り叫ぶと同時に、銃の安全装置を解除し音源へと駆け出した。
「Demn!! It`s a fucking trap!!(クソッタレ!! ここじゃない!!)」
背後で鉄と衣擦れの響めきが起こったが形振り構わずトップスピードに乗る。
枯れ枝を踏みしめ朽葉に覆われた地を蹴ると、飆が如き疾風が彼の体側を撫で渦を巻いた。
もっと速くもっと風をと犬歯を力の限り噛み合わせる。木々を避け森を駆ける疾風一陣が切り裂いた。
身体が前へと進めるその毎秒ごとに微かな音は燃え盛る轟音に変わった。不完全燃焼とは全く異なる臭気がジャングルの奥から漏れ出ている。
蔓の隙間から陽光が射し込む場所目掛けてホセは単騎突進した。枝や棘のある葉が彼を阻んだが風に速さに任せてそれらを引き千切る。皮が破れようが血が滲もうが構わない。
鬱蒼とした森が開けると火炎放射器を持っている男8人を確認した。その後ろに控えるのは迷彩にカムフラージュされた歩兵。ハリボテでは欺けない卓越した動体視力が一瞬のうちに場の状況を見極めることを可能にした。
疾風を纏い覚醒状態の五感に真紅の眼光が尾を引く。
ホセは目標を視認すると同時にデザートイーグルの引き金を引いた。
ⅩⅩ
- Re: What A Traitor!【第1章21話更新】 ( No.23 )
- 日時: 2018/09/30 12:18
- 名前: 日向 ◆N.Jt44gz7I (ID: 2mVH7ZuJ)
- 参照: http://www.kakiko.info/upload_bbs3/index.php?mode=image&file=1027.jpg
ⅩⅩⅠ
烈火のフルメタルジャケットは火炎放射器を持つ男の顎門を捉え、そして、頭部全てを喰い千切った。
ホセの使用するデザートイーグルに込められた大口径拳銃弾は当たれば首から上が消し飛ぶとされるほどの高火力を誇る。
確かな銃の反動に負けぬよう、ホセは銃のグリップを再度握りしめた。
炸裂する人間の頭部、司令塔を吹き飛ばされ崩れ落ちる肢体、舞う血飛沫、騒然とするプランテーション。
火炎放射器の轟音が止み、代わりに怒声が入り乱れる。
そして敵方の使用言語は英語且つ純粋な南米の組織では無いらしいことが伺えた。独自の指令言語を用いることもあるが、やはり統率を図るため大勢が理解できる言語が多い。南米にて英語を母語とする国の数は少なく、その分英語で満足に意思疎通が図れる者も少ない傾向にあった。そして外部との交渉が必要となるホワイトカラーならば英語でのやり取りも頷けたが、戦闘部隊においてその話は違ってくる。
【アカプルコ・カルテル】ほど巨大な組織であるならば多国籍な兵で編成された軍隊でもおかしくはないが、今回の敵はストリートやカルテルに身を置く人生を送ってきたホセも聞いたことの無い名の組織だった。ディンゴも出撃前にそれほど大きくない組織だと言っていた。だからこそ、余計に妙だった。
ホセは大きな木の幹に屈んで様子を窺う。肉片の飛び散り方で弾丸の射出方向は割れるだろうがこの混乱の中だ、幾らか時間は稼げるだろう。
未だ途切れぬ混乱。どうやら賢い隊でも無いらしい。敵の英語は荒いがホセにも断片的に聞き取ることが出来た。
「こんなにも早いとは」
「何故だ」
「上層部からの情報ではもう少し——」
プランテーションを襲撃して成り上がろうなどという小さな組織がカルテルに情報操作を行うなどあり得るだろうか、とホセは短い眉を顰める。
しかしそれ以降は騒乱に掻き消され聞き取ることが出来なかった。
代わりに聞こえてきたのは駆けてきた方向から押し寄せる大勢の気配。ざらついた隊服の衣擦れ、そしてゴム製の靴底であるから足音は大きく響かず朽葉に沈む。紛れもない【onyx】のものだった。
樹木の陰に身を隠していたホセは息を大きく吐いて増援を待った。
多対多の戦闘は初めてだった。ここまで生きてきたなかで相手取った丸腰や粗末な武器を持った人間ではない。少しでもタイミングを違えば頭を吹き飛ばされていたのは自分だろう。
生命を奪うことに特化した銃口の煌めきと業火を伴う弾幕。恐怖と緊張が今更になって押し寄せた。
ホセはもう一度息を大きく吐き、硝煙の煙る空気を肺まで吸い込む。
どうせ最初から無かったような落魄れた命だ。命が惜しいわけではない。しかし路地裏にて打たれた2本の楔が御していた筈の生命への執着は徐々にその様相を変えつつあった。
芯から来る震えを誤魔化す為に暢気に構える。
(命があったから良かったけど……怒られるかなあ。まあ怒られるよな)
気配は更に確かなものへと変わり、それは地鳴りをもたらした。
雨林の奥から再び包囲網を敷きつつ部隊が姿を現す。キリングマシンの瞳に感情は籠もらない。そこには愉悦も恐怖も善悪の区別も無く、任務遂行にかける冷徹さのみが宿る。
そして熱帯雨林に紛れる迷彩の群れがホセの横を通り過ぎていった。誰も彼を一瞥することなく座り込んだホセの横を縫うように走り抜ける。
合流しようと試み、地面に手をつき、幹に背中を預け、足をばたつかせるが何故か思うように身体は持ち上がってくれなかった。唯、歯を食い縛り朽葉と腐葉土を見つめるしかなく、拳に力を込めた。
背後ではいよいよ乱戦になっているのであろうと発砲音と爆破音でコカインプランテーションは埋められた。
視界の端から迷彩が去ってしまうと、不意に地面が翳った。水分を吸った地面が更に黒々しく染められる。
影の正体は部隊の殿を努めていた【onyx】隊長のディンゴだった。
「怪我は」
「……無い」
「立てるカ」
端的な言葉と共に差し出される手にさえも大小様々な幾多の裂創が奔っていた。肉の抉れた痕、引き攣った縫合痕、焼け爛れ二度と再生しない皮膚。
この男は【此処】へ辿り着くまでにどれだけの傷を背負ってきたのだろうか。
瞬時の逡巡を経て、ホセはディンゴの手を掴んだ。
「うん、行ける。行けるよ」
応えの代わりに、南米をその掌中に収める手は力強くホセを立たせた。
手を離すと同時に身を翻し戦場に飛び込む。同時に再びデザートイーグルの引き金に指を掛けた。
そして包囲網中心にて自動小銃を構える部隊員の斉射の轟音を聞く。
高熱を帯びる薬莢が排出される中を掻い潜り、包囲網の最も際にトップスピードで至る。
挟撃、それが今回の作戦の要だった。
包囲網の中心にて小銃や軽機関銃を配置し、掃射部隊を結成する。鬱蒼とした密林でも小回りが効くようにと今回は大型機関銃や戦車の類いは用意されていない。
そして外側にいる者が掃射で撃ち漏らした敵をダックハントが如く仕留めるというのが今回の戦法だった。勿論、挟撃部隊には弾道や火線がお互いを喰わぬように配置してある。
裏社会組織の戦闘部隊と名付けられるのも生温い、軍国の小隊にも匹敵するその力。決して力業だけでなく戦を理解したやり方だった。
この作戦を聞いたとき傭兵や退役軍人そして現役の軍人崩れを擁する【onyx】だからこそ成せることなのだろうとホセは驚いた。
プランテーション中心から次々と血煙が上がる。樹海を切り開かれた場に逃げ場など無い。コカインの原料であるコカの木は低木である為、木に身を隠すこともままならない。
全弾撃ち尽くした掃射部隊が控えの者と交代する隙に、地に伏せて掃射をやり過ごしていた敵方の残党は大木の生い茂るプランテーション外へ戻った。
おそらく倒れた人間の身体を盾にして弾幕が途切れるのを待っていたのだろう、コカイン畑に転がる遺体は蜂の巣と形容されるに等しい肉塊に変わり果てていた。
血の池は八つ。ホセの弾丸に面喰らって逃げようと早々に放り出されていたのか、幸いにも火炎放射機には引火していなかった。
間髪入れず野犬の怒号がジャングルに谺する。
「Fuego!!(行け!!)」
号令より早くホセは地を蹴った。
樹木を避け、蜘蛛の巣を壊し、最短距離で敵方に肉薄する。コンクリートジャングルと熱帯雨林の具合はそう変わらなかった。
近い距離で撃ち合いになる可能性を考え反動が大きく重いデザートイーグルをガンホルダーに収めて、ロシア産自動拳銃のグラッチに持ち替える。幾らデザートイーグルに貫通力があるといっても木の幹には歯が立たず、何よりも跳弾が恐ろしい。
一人で戦っているのではない。一人で仕留めようなどと背負わなくとも良い。威力は捨て機動力を確保する、それがホセの選択だった。
一弾指、凶弾が頬を掠める。焦げた空気が鼻腔を刺し嗅細胞に硝煙を焚き付けた。縞瑪瑙の捉える視線の先には二名の歩兵。
ホセは再度木陰に身を隠し、グラッチの安全装置を跳ね上げた。
硝煙に燻され茂る暗がりの中、卓越した動体視力で右方の敵を捉えリアサイトの照準を合わせる。
そしてトリガーを引いた。二回、二発。銃弾は縄張りを荒らす不法者に牙を剥く。
口径の大きなデザートイーグルに威力で劣るグラッチで確実に相手を仕留めるためのダブルタップ。火力を補う為に同じ場所に素早く二回銃弾を叩き込む方法だった。
照準と心臓が重なるとき、数十メートル先銃口を向けられ怯えに曇る敵の瞳孔の収縮までも視えた。
遅れて鼓膜に噛み付く銃声と左胸を抑えて頽れる敵。反動に押し上げられ上に逸れた弾丸は相手の肺を穿ったようで、一つ咳き込むと黒い血の泡を吐いた。
向かって左、もう一人の武装歩兵が焦ったように小銃の銃口をホセに向けた。
ホセはそれを視認するより早く草木の中に伏せ、頭上を過ぎゆく銀の火球を躱す。
弾幕が途切れてしまうと、たなびく真紅の眼光が密林の隙間を縫った。
ぬかるむ朽葉と腐葉土を踏んで戦場に飆を吹き渡らせる。風に揺れる低木層群か、狡猾な狩人が纏うブッシュか。視界不明瞭な中を高速で且つ低く動く物体など常人には到底捉えきれない。
一年前にて初の多対戦闘で見出した彼の武器だった。
跳躍、接近、そして肉薄。
茂みから飛び出したホセに対応しきれずに敵歩兵の重い小銃を構える動作が一拍遅れる。
ホセの獰猛な肉食獣を思わせる鋭利な瞳と血走って湿っぽい目が交錯した。
「天国、見たいか?」
熱を帯びるグラッチの銃口を男の眉間に捻じ込む。死の恐怖に溢れ出た脂汗に滑ることが無いように力で押し付けた。
そして問いに対する思考の暇と答を与えることなく、人生の幕引きとなる銃声を無慈悲に轟かせる。
零距離での接射。煙る硝煙。衝撃波を伴う弾丸は頭蓋骨をこじ開け、柔らかな脳味噌を容易く破壊する。砕け散った頭蓋骨が中枢に刺さり、そしてフルメタルジャケットは神経を焼き切った。
薬莢の排出、そして瞬間空洞が広がり、弾道は永久空洞を創る。
彼の凶弾は男の頭部を食い散らかし、何の抵抗も無く貫通した。
銃弾一つで訪れる余りにも呆気ない死、恐怖の色を湛えていた筈の男の双眸は既に光を失っていた。ホセの方向に倒れ込もうとする身体を銃口で小突いた後、膝蹴りを入れ地面に転がす。天国なんざねえよ、と心の中で悪態吐き大樹の木陰に身を隠した。
再び一斉掃射が始まるだろう。
そして深呼吸を一つして戦況を確認すると、遠くないうちに訪れるであろう終局は火を見るよりも明らかだった。
ほんの一瞬で増えた血溜まり。しかし自身と同じ隊服を着て、血を流し横たわっている者など何処にもいない。
南米の不敗神話【アカプルコ・カルテル】擁する【特殊高火力殲滅部隊「onyx」】の強かさ、その卓越した戦闘能力を身を以て感じていた。
見回す限り現在も戦闘状態にある区画が存在しているが、下手に援護射撃に回って緻密に組まれた火線を乱すわけにはいかなかった。
そして挟撃作戦には真の目的が存在したからである。
ホセが木陰で聴覚を研ぎ澄ませていると戦闘区画から響く乾いた銃声が徐々に小さくなっていくのを知覚した。
次々と、まるで敗走するかのように【onyx】の部隊員らは敵方に背を向け踵を返し始めたのだ。
圧倒的勝利が目前だった筈なのに来た道を引き返し始める部隊員を不審に思ったのか、須臾に殺気でも戦闘意欲でもない異質な空気が流れた。
しかしこの南米にて【アカプルコ・カルテル】を下そうと試みるような組織である、もはや彼らに引き下がることなど到底出来なかった。不退転の彼らにとって【onyx】が背中を見せるというまたと無い好機を逃すわけにはいかなかった。
異質な空気など一瞬のうちに取り払われ、敵兵は迷いの無い確かな足取りで【onyx】の追跡を始めた。
後を追いながらも自動拳銃を構え発砲する。しかし弾丸を弾く大樹の幹へと身を隠し移動するため、一向に捉えることが出来ない。
その上遮蔽物も多く足場の悪い中、走りながらの攻撃だった。銃弾は当たるどころか、一発掠めることもなかった。
何故ならば、ジャングルは彼らの本領であり、密林戦は彼らの真髄だったから。
それを知覚した瞬間猛烈な違和感が鎌首を擡げ、進撃する敵兵の足に纏わり付いた。ジャングルという非日常な環境、味方の戦力を根刮ぎ削ぎ落とされ、そして勝利への執着が濁らせた判断力。
違和感は確信へと変わった。誰かが叫び、足を止めた。しかし時既に遅し。
再び見る開けたコカイン畑、誘い込まれた罠、僅かな勝利の希望を掴んだ筈の彼らを迎えたのは幾多もの銃口。
【onyx】が一度退いたのは、戦闘が激化するにつれてジャングルの奥へと隠れた歩兵共を一網打尽にするためだった。
「Comandante.(殲滅しろ)」
野犬の号令に一糸乱れぬ鉄の音が付随する。
餌場に飛び込んだ哀れな顛末には、鉛玉を。
血煙が晴れた後、今度こそ誰の肉片すら残らなかった。
*
帰りの道中にて拠点に向かってジャングルを下っていたとき、突如として肩に大きな衝撃を感じた。
「ペペちゃん! オメエ凄えナァ!」
「——うおっ!?」
乱雑に肩を組まれ、次いで頭に衝撃が走る。
思わず殴られるかと目を瞑ってしまった、ここにいる誰一人として自身を傷つけることはしないと分かっているのにも関わらず。
しかし置かれた手はいつもと変わらない手つきでホセの頭をわしゃわしゃと撫でるのみだった。幾多の戦闘を経て硬くなった指先が彼の真っ赤な毛先を何度も引っ張る。
訳も分からず声の方向に顔を向けると、そこには無邪気に破顔させるディンゴの姿があった。
こんな顔もするのか、と今まで見たことのなかった彼の表情にホセの縞瑪瑙のような瞳孔が窄まる。
その二人の様子を見ていたロバートは咳払いを一つしてディンゴを一瞥するが。
「た、隊長……。しかし、まあ今はいいでしょう」
ロバートも微笑んだ。
そして彼はホセの前まで歩み寄り、前屈みになって目線を合わせる。部隊の中でも一際小柄なホセと部隊内で一二を争うほどの体格を誇る偉丈夫ロバート。二人の身長差を埋めるものはなくロバートが譲るしかなかった。
刃物のような波紋が浮き出るホセの瞳にヘーゼルカラーの優しい光が映り込む。ロバートはホセの瞳を見つめたまま、ゆっくりと彼に伝えた。
「ホセ、作戦を遂行出来たのは君のお陰だ。俺たちにとってかけがえのない仲間だよ」
「な、なかま……?」
ホセは呆けた顔で彼の言葉を復唱するしかなかった。
仲間、なかま。
久方ぶりに耳にするその言葉は存外素直にホセの心に落とし込まれた。
最後その言葉を耳にしたのはいつだっただろうか。深く考えずともおのずと答えは導かれる。おそらくアカプルコのストリートかの路地裏にて、そして己が名も知らない少年へ無責任に放った使い捨ての言葉だった。
泥を噛み地べたを這いずり回って足掻き続けた幼少、仲間だと信じていた人々から裏切られ続けた顛末、そして今自分は此処で生きている。
腐って膿んだ傷口から血を流す心は一向に治る兆しすら見せなかった。しかし【onyx】の面々、ロバートの言葉、そして自身を認めてくれるディンゴの存在、それらが揃ってようやく気付くことが出来た。
実は少年に向けた言葉は建前で、本当は自身が最も欲していた言葉ではないかと。
最期の最後まで捨てられずに鍵を掛けた記憶。幼少のまま叫び続ける心に見ないふりをして、自身を騙し続けていた。そうしなければ生きていくことなど到底出来なかったから。
ホセの自害を許さなかったのは【彼女】に重ねられた手でも【彼】の死に様ではなく、美しかった面影をに希望を見出し生き続けたかった自身なのではないかと。
【汝の神】が死んで以来、徒党に唾を吐き単孤無頼を貫いてきた筈の己が渇望するのは仲間などという余りにも陳腐で薄っぺらい口約束だった。
ディンゴはホセの頭に手を置いたままロバートに尋ねる。
「アー? 端っからそうじゃねえンか?」
ロバートはディンゴの言葉にそうでしたねと深く首肯し、ホセを囲むようにして立っていた隊員らに目配せした。
ホセが彼の視線に付いていくようにして一人一人の顔を見回すと、隊員らは口々に彼に言葉を掛けた。
「やるじゃねえか」
「お前のおかげだ」
「助かったよ。でも組織にはどやされちまうな」
ホセはぽかんと口を開けたまま笑顔の面々を見つめた。
慈愛に満ちたヘーゼルカラー、うざったい肩の重みと整えた頭髪を乱す無骨な手。
そして俯き、今確かに存在するしあわせを噛み締めるように奥歯を噛み合わせた。
己に徒なす全てを噛み殺すためだけに研いできた牙を以てしても、奥底からとめどなく溢れ出る熱いものを抑え付けることは出来なかった。
「そっか。そうなんだ……」
「オイ、おーい……ン? ペペちゃん?」
「——それやめろっつってんだろばーか」
いつもは眠りの浅く隈の絶えないホセだったが、皆と一緒に拠点に帰ったこの晩だけは深い眠りにつくことが出来た。
*
挟撃作戦の一週間後、ホセは拠点テントにてディンゴから呼び出された。
心当たりなど何処にも無い。テントの中に入ると既にディンゴの姿があった。
豆電球のみの薄暗い照明と長い巻き毛に遮られてその表情は読めない。不意に背筋を登る違和感が走った。
ホセが所在なく入り口付近にいると声を掛けられた。
「ホセ」
紫煙に灼けた低音、それはいつかの邂逅を思わせる声色だった。
「な、なに……」
ディンゴの纏う雰囲気にホセは固唾を呑んだ。いつもと違う何かに内臓が凝り固まる。おずおずと彼の前に進み出るとそこで初めて目が合った。
そして彼の左頬の傷が大きく歪むのを、見た。
「オメエは1年間のイタリア行きが決定しタ。明日の朝にはココを発つ、今日の内に準備しとけ」
深淵を湛えた野犬の瞳はただ冷たく、言葉を噛み砕けないでいるホセを見下ろすだけだった。
******
そして現在、夜の帳が降りたナポリの街にて全てを語り終えたホセはリチャードに柔く微笑んだ。
ⅩⅩⅠ
- Re: What A Traitor!【第1章22話更新】 ( No.24 )
- 日時: 2018/10/08 00:24
- 名前: 日向 ◆N.Jt44gz7I (ID: /0vIyg/E)
- 参照: http://www.kakiko.info/upload_bbs3/index.php?mode=image&file=1028.jpg
ⅩⅩⅡ
小鳥の美しいさえずりと木々の葉が風に揺れる音を聞きながら、黒のカッターシャツに袖を通す。
明朝の現在リチャードはチェックアウトの準備をしている最中だった。
連絡会自体にどれほど時間が掛かるか不透明だったので二名分ホテルを予約していたのだがそれが功を奏したらしい。リチャードは平生着用しているものと同じ青いスーツを手に取った。
思い出すのは、暮れ泥み真っ赤に焼けたナポリの海とただ淡々と己の人生を再構築するホセの唇。語りの最中は表情を歪めることなど無く、とても事務的な口調だった。痛みは路地裏に押し付け、感傷は熱帯雨林に置き去りにされたかのように思える程で。
今まで互いの過去に触れるのは商会のルールとして暗黙の禁忌とされていた。詮索屋はこの業界で長生きしないことになっている。
これまでリチャードに噛み付き反発していた筈の彼が自ら語った過去。ホセの身元を引き受ける際にディンゴからストリートチルドレンだったとは聞かされていたがその背景は何一つ知らなかった。何故アルコールを極端に拒むのか、何故煙草の類いを毛嫌いするのか、何故女性に触れられないのか、何故ストリートで売人をしながらも薬物に溺れることが無かったのか。
リチャードは瞳を伏せ、ジャケットを羽織る。
【アダムズ・ビル】出身と語ったリチャードの過去と引き換えという建前の下、ホセは忠誠の証として重い蓋をしていた己の過去を差し出した。過ぎるのは連絡会の最中、彼の機転。この闇の世界に生きて、作法を擬えることの意味を知らない筈が無い。
そして彼の表情には痛々しい諦観が混じっていた。【onyx】でも【野犬】でもなく新たな飼い主であるリチャードに擦り寄るしかない自分自身への諦めであろう。断腸の思いで自分の心に火を点け、灰に還りゆく葉巻に託した彼の表情は忘れられそうにもない。
リチャードは琥珀色の香水を髪に振り、慣れた手付きでブロンドの長髪を結い上げた。
髪を切らなくなってもう10年近くになる。【ある時】を境に伸びるのも随分と早くなった。肩にかかる金刺繍の束を指で巻き取り、口づけるようにしてパルファムの香りで鼻腔を満たす。この香りをかたちづくるは媚薬と名高い【アンバーグリス】、リチャードが人差し指の力を抜くと彼の美しい髪は刺繍糸の巻き玉が解けるように肩に広がった。
嵐のような連絡会も終わりナポリで成すべき事は成した。ビル傘下にあるジョルジョとドメニコ両名への脅迫材料はリチャードの手の中にある。多少肝は冷えたが首尾は上々、アカプルコにいる浩文たちに無駄な火の粉が降りかかることも無いだろう。
リチャードは右手から黒の革手袋を嵌めた。どれだけ不便であっても人前で手袋を外すようなことはしない。指紋が残るから、と理由のこじつけはそれくらい単純明快な方が具合が良いだろうと長い睫毛を伏せる。
そして何かを確かめるかのようにゆっくりと左手の甲に残る革を巻き下ろした。
ホセとはトーニャスで共に仕事をしてそろそろ1年になる。ボスと呼ばれたのは昨日が初めてだった。
*
「じゃあ帰ろうか」
リチャードはホテルを背にして、ホセに微笑みかけた。チェックアウトを済ませる間に外で待たせておいたのだ。
ナポリの空は今日も清かに晴れ渡っている。雲一つ無い爽やかな蒼穹の下、サンタルチア港から響く潮騒が耳に心地よい。少々寝癖が残るホセの前髪は港から時折吹き上げる潮風に遊ばれていた。
水平線から完全に昇りきった太陽は二人を照らし、穏やかな地中海の波は朝日を此岸まで運んだ。海と空の境から吹き寄せる風は澄んだブルーの水面を舐め、潮騒と白波が立った。
真紅に染まったホセの毛先はセピアに透き通って朝の冷たい空気に溶けゆく。
彼も着替えを持ってきていたらしく馴染み深いゼブラ柄のシャツに身を包んでいた。しかし彼の拘りであった筈の黒を基調としたアクセサリー類は所々欠けたように身に付けられておらず、どうにもちぐはぐな印象をリチャードに与えた。
ホセに別段変わった様子は見受けられない。目の下に濃い隈を作っているのもいつもと変わらなかった。そしてリチャードの声掛けを無視するのもまたいつものことだった。
リチャードは肩をすくめて、ホセに背を向け歩き出す。
「軽く観光すると言ってただろう。悪いな、ホセ。でもあまり店の方を開けるわけにもいかなくてな」
しかしいつもなら躊躇いがちに遅れてついてくる筈の足音が聞こえなかった。反響するさざ波に掻き消されているのか、それとも。
「——ま、待って」
リチャードは背中越しにホセの声を聞いた。
「オレ、行かなきゃ」
その声は掠れて震えていた。
起き抜けの掠れ声でもなく、冷気に震えているわけでもなく、おずおずと静かに何かを主張する声。
空気の震えを受けたリチャードは振り向いて、刃物が如し波紋映り込む彼の瞳を深い寒色を湛えたサファイアで捉えた。
結った長い髪が潮風に靡き、視線の交錯を一瞬遮る。
「何処に行くって言うんだ」
二人の間を潮風が縫った。
リチャードの青い瞳を強く睨み返すようにして、ホセは牙を剥く。しかしその語尾は次第に窄まって潮騒に溶け込んでしまった。
「こ、国境。みんなのとこ……行かなきゃ。行かないといけないって、思ったんだ。昨日、あんたに話して、それからずっと考えて」
「ディンゴからイタリアに残れと言われた事を忘れたのか?」
否、溶けたのはなくリチャードがホセの言葉を遮ったからに他ならなかった。
思い出すのは本拠地で告げられたイタリア左遷、そして先のトーニャス残留宣告。アカプルコからトーニャスに渡ってもうすぐ期限の1年になる。しかし無慈悲にもあの【野犬】の口から突き付けられたのは事実上の戦力外通告に他ならなかった。
どうして、どうして。あの日事務所を飛び出して、現実から目を背け、何度も何度も考えた。ようやく仲間のもとに帰ることが叶うと思っていたのに。一人残されたホセの手元に残ったのは深い絶望だけだった。
金刺繍に縁取られた深い蒼に見つめられたホセは弱々しくリチャードから目を逸らしてしまう。
駄々をこねる子供に過ぎないことなど分かっている。しかし堰を切ってしまった彼の思いはもう止まらなかった。今ここで言わねば、どうしてもこれだけは、と何かがホセを突き動かした。
「でも」
「早く発たないと混むぞ」
「か、帰らねえ」
「ホセ」
「だって行かなきゃ」
「なあホセ」
「だってオレのこと初めて人間として認めてくれたのはあの人たちなんだよ」
弱々しく途切れ途切れだった声は、次第に洟声へと変わっていた。
「大事な【家族】なんだ」
【それ】もまたリチャードが初めて目にするホセの【表情】だった。
生まれ落ちた場所は人間の欲渦巻く坩堝。幼い頃から人としての尊厳を踏みにじられ、小さな手に残された微かな希望さえも奪われた果てに行き着いた場所。それは一組織としてのファミリアでもファミーリャでもない本当の意味での家族だった。
【これ】を認めるまでどれほどの時間が掛かったのだろうか、大切な人間をつくるということは彼にとって重すぎる負荷だということは容易に想像がついた。辿り着くまでにどれだけの覚悟が要っただろうか。
ホセは袖で乱雑に涙を拭い、俯く。
そして時折詰まらせながらも必死で言葉を紡いだ。
「父親なんか顔も知らねえけどさ、きっとあんな感じなんだろうなって」
「こんなオレのこと気にしてくれてさ、兄貴がいたならあんな感じなのかなって」
「でも弟みたいなやつもいるかな、オレより年上なのにさ、変なの」
大きく息を吸い込んで上げた顔はくしゃくしゃになった泣き笑いだった。
「誰もオレのこと殴らないし叩かないし、こんなん初めてでどうしたらいいのかわけ分かんなくて、そんでいっつも一番大事なことだけ言えなくて」
今まで泣きたくても泣けなかったぶんだけ涙は頬を伝う。
いつの間にか泣くことも笑うことも忘れてしまっていた。この世の全てに噛み付いて、心の何処かでは仕方が無いと諦めて、多くの夜を鉄と闇に染め上げた。
どれだけ虐げられ痛みを与えられても決して嘆くことなく現実に牙を剥き続けた青年は涙を流し、子供のように泣きじゃくった。
久しく心を濡らして脳を巡ったのは自身の痛みではなく仲間と過ごした日々や思い出ばかりで。頭を撫でられる感触や自分に向けられる暖かな笑顔を思い出しては何度も何度も視界が滲んで、ナポリの景色と記憶が騙る景色が混ざる。
どうして神は自分にだけ辛く当たるのか、このまま死んでしまえればどんなに楽だろうか と思う夜もあった。しかし走馬灯のように駆け抜けてくるのは何故か暖かなぬくもりだけで、今はそれ以外見つける事が出来なかった。
涙腺が焼けるように痛む、喉が渇いて痛む。胸が激しく痛む。それでもホセは眼前に立ちはだかるリチャードに叩きつけた。
「役立たずでも行きたいんだ。邪魔だって、足手纏いだ、って言われても、オレ、いま行かなきゃ絶対後悔する」
ディンゴが何を思って彼をイタリアに残したのかホセには結局分からず仕舞いだった。
ただ不要になったから、使い物にならないと判断されたから、自分を嫌いになったから。しかし幾夜を費やしどれだけ考えても答え合わせをすることは叶わなかった。
左遷を告げられたあのときも彼に詰め寄ったが頑なに口を閉ざしその理由を明かそうとはしなかった。暗い深淵を閉じ込めたあの瞳を前にすると、足が竦んで久しい戦慄が臓物の奥からせり上がる。
それは大事な兄だった筈の人を失う直前、重くのし掛かる生命への責任、爛れた性と死の香り。今でも恐怖と自己嫌悪で吐き気が押し寄せる。
しかしあと一歩が踏み込めなくて拒絶されるのが恐ろしくて、失ったものの方が断然多かった。取れた筈の二人分の手、いつしか代償行為のように左手に二つと右手に二つ指枷を嵌めるようになった。愛する人のぬくもりを彼方に押しやり、愛する兄を諦め、失った。
もう失いたくない、失ってたまるものか。
「だから」
「だ、から」
震える腹の底から息を吸い込んで。
「全部が終わってオレだけが生きてても意味ないんだよぉッ……!」
ホセは吼えた。
溢れ出る涙も鼻水も拭わずに腹の底にあったものまで垂れ流してリチャードに全てをぶつけた。
痛みと共に刻まれた記憶、覚えた汚い感情、怒り、悲しみ、喜び、人生の全てを吐き出し肩で息をする。
そして残ったのは体液に濡れる汚い笑顔だった。
「あの人たちと生きたいって思ったんだ……」
皺の寄った眉間、拭っても拭っても出てくる鼻水、乾かない涙の跡。
生きたいと願ったんだ、とぐしゃぐしゃの笑顔は表情筋の痙攣で一瞬にして崩れた。
口を継いで出た願いに縞瑪瑙の輪郭がぼやけて溶ける。次から次へと溢れた涙が頬を伝い、顎から滴り落ちた。
しかし濡れそぼった口角が最後の最後まで強がる。
「お前なんか、い、いらないって言われても、でもオレ他のやり方なんか分かんないからさ、みんなと一緒に戦うことぐらいしか出来なくてさ」
滲む世界に小さな牙を突き立てた。尖った犬歯を食い縛り、絞り出すように告げる。
「大事な人に一生会えなくなるなんてもういやなんだよ」
それがホセの本当の本心だった。
幾度となく信じた者から裏切られ、血を流す彼の心。癒えることなく廃液を垂れ流し続ける腐った傷口。
もっと一緒にいたかった、とその一言が言えなかった。イドにも、エバにも、最期の最後まで何も言えなかった。伝えていれば何か変わっていたのかもしれない。しかし決して叶うこと無い望み、それが唯一の心残りとなって彼を苦しめていた。
大切なものを失うことの辛さと痛み。果たされない約束。永遠に続くエデンなんて無いからこそ知った失望と悲壮。
これまではどこまでいっても我が身可愛さに泣き喚く自分自身でしかなかった。しかしそれは時を経て、共に戦い信頼し合える仲間である彼らの為に流す涙へと変わった。
ホセは再度瞼と鼻を擦り、俯いた。そして顔を上げる。
湿る瞳は強い光を宿し、毅然とした口調だった。
「オレの帰る場所はアカプルコだ」
俺はまた勘違いをしていたようだ。
そうして息を吐くとリチャードはボルサリーノを目深に被り直した。
路地裏に、そして帰るべき故郷に何もかも捨てられ自暴自棄に自身や商会に擦り寄ったものだとばかりに思っていた。例の献火も遣る瀬なく流されただけだと、何てことは無い所詮その程度のものだったかと。
彼は決して頭の悪い男でも不器用な人間でも無かった。自身が生きるため【してみせる】ことぐらい容易なことだったのだろうと今は考えられる。
卑しく生きることを選び、強者に媚びへつらうだけの番犬。所詮犬に過ぎないのだと、彼の話を聞いてもただ【そういう風に】思っていた。
しかしそうではなかったのだ。
俺が見たのは地獄の掃き溜めでどれほどまでに痛めつけられても必死に足掻き、希望に縋って一縷の光明に食らい付く人間の姿。心臓にも等しい自身の過去を捧げ、願いを乞う。
良いじゃないか。
飼い主である君主にも羅針盤だった野犬にも噛み付くことを選び取った。英断だ、紛れもない勇断だ。その上そこに行き着くとは全く以て予想外だった。
彼は作法をなぞって忠誠を誓った俺に【帰るべき場所がある】と臆面無く告げた。彼自身の神にも等しい野犬が穿った【待て】の楔を今まさに食い千切ろうとしている。
思わず口角が上がってしまう。良い、それでこそ【相応しい】。
悪いな、野犬。
約束を違えてしまうようだがこれでもこんな彼は一応俺のファミリアなんだ、こっちのルールでもやらせてもらう。
「ボス、オレはアンタの銃だ。でも今阻むって言うんなら躊躇うことなく銃口を向ける」
凶刃の輝きを秘めたその瞳と、敵の顎門を食い千切る為に研磨された牙。
心底、美しいと思った。
そして決して自分には持ち得ない強さだとリチャードの唇は自嘲的に弧を描いた。
「——ふふっ、待てよホセ。お前、飛行機の乗り方知ってるのか?」
笑むリチャードと、瞳孔を縮ませて目を丸くするホセ。
状況と何もかも食い違うリチャードの発言を整理しきれない彼はぱくぱくと口を動かすことしか出来なかった。
「え……それじゃ」
しかし遮るようにしてリチャードはホセの瞳を見つめ返した。そして確かめるように低く、重々しく、それでいて穏やかに問うた。
「大切な家族なんだな」
家族。
引き結んでいた唇はへの字に曲がり、腫れた瞼は再び熱を持つ。嗚咽としゃくりが溢れ出た。
言葉の重みと言葉に呼応して浮かぶ顔、ホセの目からは再び大粒の涙が零れ落ちた。
これほどまでに大事なものが出来るとは思っていなかった。こんなにも失いがたい大切なもの、そんなもの一生無いままくたばっていくだけだと思っていた。
「うんっ——だいじな、かぞく、で……ッ」
「ああ分かってるよ。ほら、これ。お前意外と泣き虫なんだな」
リチャードはホセに白のハンカチを差し出す。
ホセは絹のハンカチを両手で受け取ると真っ赤に晴れた瞼に押し当てて、水っぽく鼻を鳴らした。
そして鼻をすすりながらハンカチの上部分から充血した目だけを覗かせる。理解したリチャードが眉尻を下げて微笑むと、ホセは二度まばたきをして思い切り洟をかんだ。
後で返す、と絹布を丁寧に折り畳んでスキニーのポケットに押し込んだ。一拍遅れて鳴り響くショートブーツの踵。
硬いヒールの音が湾に谺し、それはリチャードに歩み寄る。ホセはそのままリチャードは追い抜いて、そして立ち止まって、ぽつりと言った。
「本当は誕生日もらえて嬉しかったんだよ」
朝日に煌めく波から生まれ、港へ運ばれるナポリの潮風が二人の距離を埋める。
「ああ」
「オレ、ずっと商会の奴らと違う人間だって思ってた。こんなクソみたいな世界どこにも居場所なんて無いんだって、思ってた」
「そうか」
「でもあいつらもオレも同じなんだって分かったから」
「うん。そうだな」
ホセはリチャードを振り向き、過去を語った昨日と同じ場所、しかし全く似て非なる意味を持つ柔い微笑を浮かべた。
そして君主と番犬でなくなった二人は横並びで共に一歩を踏み出す。
ⅩⅩⅡ
- Re: What A Traitor!【第1章23話更新】 ( No.25 )
- 日時: 2018/10/18 23:50
- 名前: 日向 ◆N.Jt44gz7I (ID: /0vIyg/E)
- 参照: http://www.kakiko.info/upload_bbs3/index.php?mode=image&file=1035.jpg
ⅩⅩⅢ
——米墨国境、密林最前線基地にて。
光を通さない分厚い膜の中、彼女は祈るように身体を縮こめていた。
ファティマは現在一人で基地のテントに籠もっている。
狭い空間に熱気が立ち籠めて気道を塞ぐ、髪と肌を隠す漆黒の布が素肌にじっとりと張り付く。ここは環境こそ違えど故郷の灼熱気候とよく似ていた。
しかし幼い頃の記憶は靄がかかったかのようで明確に思い出すことは出来ない。ただ確かなことはファティマ=ムフタールという名前とアフガニスタン出身という事実のみ。
ファティマは独り瞳を伏せ、翡翠と形容されし虹彩は翳りを見せた。そして長い袖の中で汗ばむ拳を握りしめる。
ロバートから手渡されたのは迷彩柄の隊服だった。屈強な猛者共が集う【onyx】には大柄な隊員が多く、それが彼女の体格に合わせて作られた特注品であることは容易に伺えた。現在テントに残されているのは敬虔なイスラム教徒である自身に配慮してのことだろう。
あの人はいい人、とファティマはそう思った。副隊長であるロバートは多くの戒律と共にあるイスラム文化を理解し受け入れてくれた。隊服を受け取って説明を受けた時も頭の布は被ったままで大丈夫だからと付け足された。
徐々に外では太陽が昇りゆく。ニカブによって口と鼻が外界と遮られているせいで呼吸が苦しい。
酸素を求めて上体を起こすと朽ちたパイプ椅子が音を立てて軋む。彼女の姿はまるで肉の揺り籠の中で外の世界を待ち侘びる胎児のようだった。
ファティマはムスリム女性の着用する漆黒のローブであるアバヤ、そのポケットからカバーの付いた小さなナイフを取り出した。息を大きく吐き、そっとカバーを外す。
眉間に皺が寄り、翡翠を嵌め込んだような瞳は痛みに耐えるが如く苦悶に揺れた。小振りな刀身が彼女の瞳を映して鈍く輝く。
緑色の歪んだ輝きを受けて間髪入れずに手の震えが訪れた。指先で摘まんだ滑らかな生地は波打ち、蠕動する。
そしてファティマは長い袖を捲り上げた。
露わになった彼女の左手首には幾多もの裂創が奔っていた。
完全に塞がって薄い線だけになったもの、深く傷付けられ肉が隆起したもの、負荷を重ねて赤黒く色素沈着したもの、そして治癒途中の生傷。
腕を覆い尽くすまでの傷はもはや肘窩にまで達している。彼女の生きる世界にて不浄とされる左手だけを傷つけた結果、ファティマの左手首は蛇腹のように醜く変わり果てていた。
しかし【彼女】を呼ぶ為に目は背けられなかった。戦場において自身が成せることはこれしかなかった。
ファティマは祈りの言葉と共に、手首へと刃を押し当てる。
「お願いします……」
そして更に力を込め、塞がりかけた傷を薄い刃物でこじ開ける。
柔肌を裂いて。内なる肉を曝いて。神経を辿って。意識の奥深くまで。決して目を逸らすなと涙で滲む世界に声無く吼える。
刹那の痛みなどもう怖くなかった。切り付けるナイフとまた一つ壊れていく手首をファティマは涙ながらに睨み付ける。
押し進めた刃物を自身から離してしまうと、皮膚が捲れて割れた肉の隙間が此方をじっと見ている気がした。ぬめぬめとした液が爛々と光る双眸のようで、嫌な筈なのに不快な筈なのに目が離せない。
そしてファティマは心臓からせり上がる血液の奔流を感じた。中枢神経は握られ、何者かの支配に呑まれゆくのに逆らうことは出来ない。
つぷ、と血液が玉になって傷口から溢れるのを見届けると彼女はそのまま赤と緑が点滅する激しい目眩に身を委ねた。
*
「しっかし女は準備に時間が掛かるねェ」
朽ちた木に腰掛けたディンゴは頬杖を突いて唇を尖らせた。
現在ディンゴ、ロバート、そして浩文の三名は最前線基地から少し離れた場所でファティマが隊服に着替えるのを待っている。浩文は既に普段のスーツから支給された黒いスポーツインナーと迷彩の隊服に着替えを済ませていた。
常に隊列の最後尾にて構える【onyx】司令塔のディンゴは成り行きで、商会員の世話役であるロバートは再度作戦について確認する為基地に残っている。この奇妙な取り合わせは戦闘直前の精神が張り詰めた中にて彼女の同朋である浩文も一緒に居た方が安心するだろうというロバートの判断だった。
本拠地には簡易的な武器庫も併設されており銃火器は勿論各種弾薬の補充も出来るようになっている。
浩文は愚痴を零すディンゴを一瞥して、無感情に言い放った。
「いえ彼女はそういうわけじゃないと思いますよ」
「アァ?」
その時、三人はテント入り口の布が擦れる音を背後で聞いた。どうやらファティマが着替えを終えて出てきたらしい。
テントに背を向ける形で三つ巴になっていた三人はほぼ同時に彼女を振り返った。
ファティマに言葉を掛けようとしたロバートは息を呑み、浩文は視線の先にいる彼女を昏色の瞳で見つめる。
そしてディンゴは低い声で誰に言うでもなく呟いた。
「——成る程ナ……【コレ】か。あの時感じた違和感はヨォ」
初めて【トーニャス商会】を尋ねたときリチャードと商談をする傍らにて事務所に入ってきた。第一印象は育ちの良さそうな、そして何の邪気も感じられない少し鈍臭い女。
最初は経理か情報を請けもつ事務員とばかりに思っていたのだ、商会の戦闘員だと聞いたときには酷く驚いた。何故なら手を血に染め闇に浸し続ける人間特有の漏れ出る殺気と決して隠せない血の臭い、それらを微塵も感じられなかったからである。
疾うの昔に前線から退いたイタリア人からも、見た目には礼儀正しい中国製眼鏡からも、猛獣にはなりきれない小さなチワワ犬からも、それは例外無く漂ってくる。
あのときディンゴを襲ったのは違和感だった。この女が果たして人間を殺すことが出来ようか、と。
そしてその答えはいまディンゴの目の前に顕現した。
「四つ目の兄ちゃん。ありゃあドコのどいつダ? オレらのプリンセス=ムスリムは一体全体【何処】に行きやがったンだ……?」
ディンゴの問いに浩文は声帯を引き絞るようにして言った。
「ファティマさんは……【彼女】で間違いありません。しかし、今立っているのは——」
そして【解答】を寄越す。
「明日をも知れぬ千夜一夜を生き抜いた、領せる地の麗しき姫君。その名を冠する【シャハラザード】です」
彼女はニカブを被っていなかった。
鬱蒼と茂る密林にて滅多には吹き込まない風に彼女の長く豊かな髪が躍る。緑地帯からの照り返しと青々とした葉を透かす木漏れ日によって波打つ髪の所々が瞳と同じ緑色の輝きを持った。
袖の無いノースリーブ型のブラックインナーが翡翠色の光沢を持ち、小麦色の肌が露わになっている。黒いアバヤに秘匿されていた彼女の秘密。
少し歩くだけで彼女の豊かな胸部は揺れた。豊満な肉付きではあるもののそれら全ては決して脂肪分のみで構成されているわけではない、腹筋や二の腕はネコ科の猛獣を思わせるしなやかな筋肉で覆われていた。
彼女は虚空に手を伸ばし、東の空を昇りゆく太陽に目を細めた。
瞳を縁取るキャットラインには平生の彼女と比べて明らかな険がある。しかし一切の曇りが無い翡翠色の虹彩は紛れもなく彼女と同一のものだった。
彼女は三人に気付いていないのか、それとも気に留めてさえもいないのか、場所を覚えるようにテント付近をゆっくりと歩き回っている。
ロバートは【シャハラザード】と呼ばれたファティマを食い入るように見つめた後、禿頭に冷や汗を浮かべ浩文を振り返った。
「シャハラザード、だと? ファティマさんは多重人格……解離性同一性障害なのか」
浩文は横に首を振って静かに応えた。
「詳しいことは分かりません、私と出会った時には既にもう。【onyx】隊長、そして副隊長。部外者である私がお願い申し上げること、それが失礼にあたる事は重々承知していますがここから先をどうか【良く聞いて下さい】」
浩文は遠くの彼女を一瞥する。
ロバートは浩文の言葉に首肯し、ディンゴは黙ったまま彼女の様子を窺うだけだった。
「刃渡りや武器が持つ殺傷能力にどれくらいの制限があるかは不明ですが、彼女は……ファティマさん自身の手で凶器を握ること、自身の血を見ること、そして最後にファティマさんの意思決定によって表面に出てきます」
主人格がファティマであることは間違いないらしい。
いきなり出てきてはいそうですかとまるごと信じることなどロバートには出来なかった。今まで隠されていた顔立ちが明かされた驚きが予想以上に大きいこともあったが、それとはまた異なるベクトル。
やはり纏う雰囲気は別人のものだった。控えめに柔和な笑みを浮かべていた彼女の面影など何処にも感じられない。唯一神への崇拝を捨て、漆黒のアバヤに隠された彼女の闇を一身に背負う【彼女】。
自身を傷つけ顕現を願う。まるで生け贄のようだ、とロバートは眉間に皺を寄せた。
「今のファティマさん……いえ、シャハラザードに複雑な英語は通じません。意思疎通は可能ですが彼女が理解するのはアラビア語と簡単な英単語。そしてそれらを用いた極めて簡略な文構成の英語のみです」
そして浩文は深く息を吸い込んで、小さな声で隊長と副隊長の両者に告げた。
「勿論本名の呼び掛けにも反応しません。特に……彼女の姓である【ムフタール】。これだけは絶対に何があっても口に出さぬようお願いします」
浩文は彼女の姓を口にしたとき最も声量を落とした。
ちらとシャハラザードを見遣るが特に変わった様子はなく、豊かな髪を揺らしながら歩き回っては樹木の幹に触れたり空を見上げたりしている。
彼女の様子に安堵するかのように浩文は息を吐いた。
「何故だ」
「何故かは私にも解りかねます。しかし、以前一度だけ戦闘時に姓で呼んでしまった際には酷く激昂し手が付けられなくなりました」
そして苦虫を噛み潰したような顔で力無く笑う。
「殺されるかと思いました。比喩でもなく、誇張でもなく」
一体何が引き金となるのか分からないが仲間まで殺めようとしたシャハラザードの狂気にロバートは生唾を飲み込んだ。
「彼女は他者の命を奪うことへの躊躇、そして自身が死ぬことに対して何の躊躇いも無いんです。彼女には失うものも行く先を阻むものもない」
再び南風が密林を吹き抜けた。長年生きる幹を震わせ、天に伸びる幾重もの枝を揺らし、老いた枯茶は落葉する。
浩文は咳払いをして、二人に確認した。
「気を付けるべきはこの二点です。シャハラザードには簡単な英語を使うこと、そして姓の件。これらの性質からいって統率を重んじる【onyx】の闘い方と相性が良いとは言い切れませんが」
「臭うわ」
彼女は浩文を遮るように、シャハラザードとして初めて言葉を発した。その手には彼女の為に用意された小銃が二丁握られている。
平生のファティマよりも低く、ざらついた声質。しかし良く通る声だった。
「鉄と火薬の臭い」
「ね、行きましょう」
そして振り返る。翡翠を嵌め込んだような瞳が三人を射貫いた。ぎらつく木漏れ日が彼女の虹彩に射し込み、木陰の合間で爛々と光った。
浩文は言いかけた言葉を紡ぎ出す。
「彼女は強いです。間違いなく。そして何よりも恐ろしく狡猾で勘が働く、作戦遂行の邪魔にはならない筈です」
今まで黙って浩文の話を聞いていたディンゴはそこで初めて口を開いた。
「——ハハハ、たまんねえナ。イイ身体してンねえ」
「な、何を」
あれほど彼女について伝えたのにこの男は、と浩文は呆れかえるしかなかった。
彼はシャハラザードを品定めするように視線を滑らせ漆黒の巻き毛を弄ぶ。
浩文は眼鏡の奥の黒い眼を細めて窘めるようにディンゴを見た。相変わらず舐めるような視線と淫猥に引き攣る左頬、しかし彼が纏う雰囲気は全く違うものへとその色を変える。
「ま、勿論その香り立つような危険な色気もそうだガ……目眩を起こすほどキツイ血と臓物の匂いが、ナ」
光を拒む三白眼の強膜は凶刃が如し波紋を呼び、瞳は深い闇と深淵を湛える。その瞳は南米を手中に収め、神話の頂点に君臨する雄の余裕をも映した。
無彩色と対をなす赤い舌が傷の入った唇をゆっくりとなぞる。さながら猛獣が虎視眈々と獲物を窺うように。
彼らはシャハラザードと向かい合ったままで暫し膠着状態が続いた、しかし。
突如、爆発音が密林に轟いた。
遅れてやって来る爆風の余波が彼女の髪を巻き上げる。
薄い緑色に煌めく髪が重力に従って彼女の肩に落ちると、シャハラザードは首を傾げて微笑んだ。
翡翠を囲む睫毛は刃物のような鋭さを湛え、口元に貼り付けられるのは冷酷な微笑。
「あら。それではお先に」
彼女は爆風がやって来た方向へと駆け、疾風のように密林の奥へと潜り込んでいった。
ロバートは濃い緑に溶けゆくシャハラザードを目で追っていたが、頭を振って二人に言った。
「隊長、浩文さん、今の音はビルの連中です」
「ええ、そのようですね。さっきの爆音から察するに敵方はかなり大がかりな装備で国境を攻略しようとしている。包囲網に合流するなら早いに越したことはありません、私達も行きましょう」
浩文は傍らに置いていた銃火器を手に取ると、ロバートの瞳を見据えて首肯した。
しかしディンゴは朽ちた切り株から立ち上がろうとはせず、首から提げたオニキスの革紐を指に巻き付けながら言った。
「アー、三日前の作戦会議で言ったコト覚えてっか?」
「勿論です」
「ええ」
それは『【onyx】にしか出来ない勝ち方がある』と先日彼が言っていた内容に他ならなかった。
作戦内容も把握している。
また浩文にとってその作戦は目から鱗が出るほど意外なもので、確実に【アダムズ・ビル】の戦力を削り取り国境付近にて長年に渡るビルとカルテル両者の衝突を終結させる可能性を秘めていた。
成る程この作戦ならばビルとカルテルの間に立ちはだかる兵力の差を一気に覆すことも可能だろう、と。しかし問題は【相手がチキンレースに乗ってくるかどうか】であり、作戦遂行の全ては相手次第だった。
今は歴戦の【特殊高火力殲滅部隊「onyx」】を信じるほかない。
ディンゴは低い声で告げた。
「そンなら良い。全部あのまま変わンねェ」
浩文でもなくロバートでもなく真正面をひたと見据えるディンゴの瞳にやはり光は宿らなかった。
ロバートはおずおずと尋ねる。
「隊長はいらっしゃらないので?」
ディンゴは片目を閉じると、左手をひらひらと振って左の口角を不器用に上げてみせた。
「オレぁいっつも最後尾の殿だろ? 行っちまいナ、すぐ追いつくヨ」
「……分かりました。では浩文さん、行きましょう」
浩文は迷い無い瞳でロバートに応を寄越す。
そしてディンゴは二人が包囲網に合流する為に密林に消えたのを見届けると、腫れぼったく厚い一重瞼を閉じた。
ディンゴには国境戦争とは別の、もう一つの戦いが残されていた。
刹那の追憶、これまでの人生が走馬灯のように中枢を駆け巡る。
己の首が落とされようとも地に堕とすことは許されない首の黒瑪瑙。返り血を浴び吼える自身と一面に広がる血液と臓物。そして守れなかったひとりの愛しい人。割られても決して割らなかった口。
左頬に刻まれたのは傷だけではなかった。喜びも怒りも哀しみも、生きる意味も、愛も。
しかし今となってはそんなもの何処にも残っていなかった。当時を思い返す度に彼の左頬は疼痛を起こす。
さあ感傷は終わりだ、と野犬は瞼を開けた。
そして隊服の胸ポケットを探り髪紐を取り出す。
「は、失うモンなンざオレにも無えヨ。どこまで歩いて行ったって棺桶を塒にする死人に過ぎねェ」
乱雑に巻き毛を括ると、裂創の奔る首筋が露わになった。
続いて腰ポケットを探り、煙草のソフトケースと銀色のライターを一緒くたに掴む。
そして歌うように朗々と、しかし牙を突き立てるように低く鋭く。
「生きてぇヤツから殺してやるヨ」
火を点け、煙草の吸い口を犬歯で噛み潰す。
再び爆風が本拠地まで吹き込んできた。これ以上縄張りで好きにされるわけにはいかない。
熱風によって前を開けた隊服が翻り、内に仕込んだ凶刃と弾薬が鈍く輝く。
そして腰のガンホルダーに手を掛けた。
彼がグリップを握るは、光を拒む彼の瞳と同じ色をした漆黒。野犬はトカレフTT-33の安全装置を跳ね上げた。
「さァカチート共、涎垂らしてイイ声で啼いてみナ。案外——おっ勃つかもしンねえぞ?」
遂に戦禍の火蓋は切って落とされた。
ⅩⅩⅢ
- Re: What A Traitor!【第1章23話更新】 ( No.26 )
- 日時: 2018/10/21 20:36
- 名前: 日向 ◆N.Jt44gz7I (ID: /0vIyg/E)
- 参照: http://www.kakiko.info/upload_bbs3/index.php?mode=image&file=1046.jpg
ⅩⅩⅣ
単騎、翡翠色の疾風を纏う。
「なぁにそれ。象でも撃つの?」
突如現れた刺客に【アダムズ・ビル】の歩兵は目を剥いた。
「では御機嫌よう」
シャハラザードは一瞬の躊躇いもなく敵の頸部にダガーナイフを突き立てた。正中線を切り裂き、甲状軟骨まで刃を奔らせる。
柔い首肌と空っぽの気道を割る感覚に愉悦を抱きながらも、力の要る喉仏に突き当たると唇を尖らせて勢い良くダガーを引き抜いた。
敵兵は眼球を白黒させながら口から鮮やかな血の泡を吹く。濁音とノイズは溢れる血液に溶かされ叫ぶことすら許さない。
幾ら喀血を浴びようともシャハラザードは拭う素振り一つ見せず、むしろ恍惚とした表情で血の間欠泉に迫った。眼底から不気味に光る翡翠と彼女の頬に注ぐ鮮血の色彩比に目眩が舞い込む。
そして刃を抜かれて制御を失い彼女側に倒れ込もうとする敵兵の鳩尾を無慈悲に蹴り飛ばした。
「防弾ジャケットも無しによく肉薄できるな……」
ロバートはシャハラザードの戦い方を見て、誰に言うでも無く呟いた。
彼は浩文と共に包囲網の最も外側を形成しており自動小銃を傍らに置いている。
開戦してからある程度敵兵の数が捌けるまではシャハラザードが単騎敵方の懐に飛び込み、撹乱した後に包囲網から射撃を行うといった作戦形式をとっていた。
現在、第一の掃射が終わり小銃掃射部隊の第二隊との入れ替わりと立て直しを図っている最中だった。
しかし【アダムズ・ビル】との兵士数の数は十倍にも及んでおり【onyx】の作る包囲網はどうしても薄くなってしまう。鼠の子一匹通さない彼らの強靱な包囲前線は普段の力を発揮できないでいた。
当然一斉射撃にも隙が生じてしまう。
ジャングルにおける戦闘、即ち密林戦は市街戦とは決定的に異なる要素を持っていた。
硬い幹を持つ樹木が鬱蒼と生い茂り、伸び放題の蔓と蔦が視界を遮る。足下では泥のぬかるみに足をとられ、低木層帯の草木が移動の障害となる。走って移動することもままならない音を立てずに隠密行動に徹するにも適さない土壌だ。
人間が鉛玉と躍るには到底相応しくない舞台だった。
しかし【onyx】の人間は密林にて敵を下すために特化した訓練を積んでいる。【アカプルコ・カルテル】の資金源であり武力の要衝であるドラッグプランテーションの守護神として南米の裏史上にその名を轟かせていた。
カルテルの要を潰そうとする相手方は必ず歩兵だ。国家が抱える軍隊でも無ければ民間の職業軍人でも無い。農薬散布を行うヘリコプターへの対策は考えなくとも良かった。
現在撃ち方は止め。
浩文はロバートに答えた。
「動きにくいんだそうです。防弾繊維で出来た装備を渡した事もあったのですが『重い』とその一言だけ。すぐさま突き返されましたよ」
彼女の戦い方には合わないんでしょう、と浩文は鉄火場に目を向けた。
シャハラザードの猛攻は依然として止まらない。
樹木から樹木へと飛び回り、突然目の前に現れる人型を大型の銃を構えるビルの歩兵たちは捉えきれないでいた。
太い幹を足場に、太い蔓を命綱として上空からも攻撃を行う。自らをカタパルトのように蹴り出す為に滞空時間は短く、隙は少ない。
敵の懐は彼女に支配されているかのように見えた。
しかし今対面しているビルの部隊はほんの僅かな表層に過ぎない。今矢面に立っている兵士たちを倒したところで次から次へと湧いて出てくる。
ビル側にとっては一人二人の死傷や消耗など関係無い、幾らでも戦力補充が出来る人数を抱えていた。
一方【onyx】は個々人の連携の上に成り立っている。三十しかない命、一人の生死が戦況を分けるのだ。替えなど一切効かない。
それがビルとカルテルの間に聳え立つ、どうにも解消出来ない兵力の壁だった。
掃射部隊の第二陣が形成されると、シャハラザードは第六感から自身の背面にある味方の陣を一瞥した。
火薬と金属を詰めた鉄。自身へ銃口を向けている。その指は引き金に掛けられている。いつ発砲されるかとも知れぬ攻撃姿勢。
しかし彼らが撃つのは決して自分ではない、自分と同じ敵、自分が殺さなければならない敵を彼らは殺す。
シャハラザードは赤い唇を蠱惑的に歪めると緑色を映す濡れ羽色の髪を翻し、火線の外側へと撤退した。
ロバートは彼女が弾幕の及ばない所まで退くのを視認すると、大声を張り上げた。
「Fire!(撃て!)」
小機関銃の顎門が火を噴く。
連続する薬莢の排出に鉄の銃砲は噴煙を上げた。呼吸する度に噎せ返りそうな程の量の硝煙が鼻に舌にべったりと付着する。
しかし煙が晴れると、すぐさまにビルから反撃の銃弾が【onyx】の脇を掠め始めた。
四方八方に展開される【onyx】の弾幕は十数人の歩兵を戦闘不能に追いやり、数人の身体の一部を吹き飛ばしていたものの所詮その程度でしかなかった。三百の兵を捌ききるのはとてもではないが威力が足りない。
平生よりも密度の薄い弾幕では決定力に欠けた。
シャハラザードも敵方を上手く撹乱してくれていたがそれだけではいつまで経っても敵方勢力を削ぐことは出来ない。
流石目下急成長中の大組織、【アダムズ・ビル】といったところだろうか。歩兵各々の戦闘能力は決して高くなく烏合の衆であることには変わりないが、それでも確かに一筋縄ではいかない歯応えがあった。
いつもとは違う勝手に対してロバートは歯噛みする他なく、樹木の幹にて銃弾をやり過ごしつつ敵方を睨み付ける。
「埒が開かんな……」
止まぬ銃弾の雨、確実に不敗神話【onyx】は押されつつあった。
【onyx】の強さは単純な戦闘力だけではなく表舞台には決して立たないという隠匿性にもある。
しかしあらゆる角度の情報から研究し尽くされたかのように、高度な戦略性を持つ【onyx】の爪牙が【アダムズ・ビル】には通らなかった。
突如弾幕が途切れ、茂みから血飛沫が上がる。シャハラザードは未だ捌けたまま刃を振るっていないにも関わらずだ。
悲鳴も無く鮮やかな赤が点々と次々に弾けた。柔く熟れた石榴が如く人間の頭部が潰れゆく。
鉄火場に乱入した鉄灰のホローポイントは慈悲無く生命を喰らった。
ホローポイント弾とは弾頭の先端に空洞を有する弾丸であり、円錐型のフルメタルジャケットには無い潰れや切り込みが描かれている。
拳銃の弾丸として広く使用されるフルメタルジャケットは貫通力に優れているが、ホローポイントは着弾時の弾頭の変形により貫通せずに体内に留まる事が多い。
そして対象物に着弾すると弾頭が炸裂膨張し、身体に深刻な損傷を与えるような機構を持っている。
内なる肉に鋼鉄の華が咲いた。
飢えた野犬が身体髪膚を漁るかのようにホローポイントは獲物の肉を食い散らかす。
烈火を噴くは死神TT-33トカレフ、即ちディンゴの得物で間違いなかった。
ロバートは勝鬨の如く雄々しく叫ぶ。
「隊長!!」
硝煙と茂みの奥にて浩文はその時初めて南米の頂点に立つ男、ディンゴの闘いを見た。
ホセがストリートでの戦闘を経て培った疾手と閉所戦闘の技術やシャハラザードの第六感に依る動き、そのどれにも似ているようで、しかし全く異なるものだった。
【野犬】と揶揄され、又畏怖される彼の戦闘技術は違和感などという言葉では生ぬるい、異質そのものだった。
ビルの隊員は肉薄するディンゴに対し、小銃を下ろし拳銃の銃口を向ける。
混戦の中、浩文が目にしたのは独特な構え。前傾姿勢をとる類を見ないその構えは密林の最奥に棲まう猛獣を思わせた。
木々の陰を縫い、発砲、装填、そのヒットアンドアウェイを繰り返す。
多対一の構図をものともしない彼の白兵戦闘。ホローポイントは確実に一人また一人と鋼鉄の華を手向けに葬り去った。
背筋の凍て付きと違和感を超越する異質感の正体は、密林戦における彼と土地の恐ろしいまでの調和だった。
単純なスピードではおそらくホセの方が勝っている、勘ならばシャハラザードの方がきっと働く、単純な射撃精度ならば浩文に軍配が上がるだろう。
しかし密林においては彼の独擅場だった。
フルメタルジャケットの乱痴気な土砂降りでは漆黒の一陣となった彼を止めることが出来ない。常人では仇となるはずの視界不明瞭と遮蔽物をディンゴは全く問題としなかった。
一生を懸けても辿り着けない彼の領域。寧ろ、彼の真骨頂はこの混戦にあった。
「──クソが」
しかしディンゴは苛立たしげに左頬を歪めた。
一人の兵士が拳銃を放り投げ、腰ホルダーに収められた小型の短機関銃に手を掛けたのを見たのである。
肉弾戦において完全なるアンプレディクタブル。白兵戦におけるセオリーの崩壊。
そして拳銃の代わりに構えられた機関銃は超至近距離で発砲された。
幾多もの円錐形の凶器がディンゴに向かって牙を剥く。銃身から蹴り出される桁違いの数の薬莢。射出される凶弾は大地を抉り土煙を呼んだ。
戦場では一度の瞬きですら生死を分ける。機関銃という突発的なイレギュラーに対して、ディンゴは一度思考をクリアにすべくまばたきの時間を挟んでしまっていた。
数々の弾丸の中でも一発の弾丸がスローモーションに移ろい、金属光沢を鈍く放つ。意図せぬ弾丸は彼の心臓を狙った。
ディンゴは瞬間的に下肢に力を込め上体を反らす。しかし一拍が仇となり、完全に躱しきれなかったフルメタルジャケットは彼の左前腕を掠めた。
そして肉ごと皮を削ぎ落とされる。
弾頭がめり込み、表皮組織を分断。触れた部位から根刮ぎ喰らう瞬間空洞、そして弾丸の軌跡である永久空洞が彼の皮膚を容易く引き裂いてみせた。
命に別状が無ければ幾らでも被弾する、だがその分何倍にも返してやれ。という信条が彼の闘い方であった。
幾千もの傷をこの身に受けようとも決して慣れることない痛みに奥歯を噛み締めた。遅れて命の奔流が腕から流れ出した。
しかしそう易々と止まってもいられない。
そろそろ第三波が来る、とディンゴは射程外へと流れる血はそのままに密林の中をひた走った。
そしてロバートの声が谺する。
「第三陣! 撃て!!」
三度目の掃射。
第一陣と変わらぬ熱量と弾幕、しかし硝煙が晴れてもやはり血煙が上がることは無かった。
ディンゴは時間ギリギリで飛び込んだ大樹の木陰に身を潜め、肩で息をする。
「チッ、クソッタレめ。ま……よくもった方ではあるかねェ」
ディンゴは隊服ジャケットから無線機を引っ張りだし、唇を寄せた。
『ボブ、聞こえっカ』
ロバートからすぐに応答が返ってきた。
『はい、聞こえます』
『おう上等ダ。そンならヨ、後退しろ』
後退。これが意味するところが分からない彼では無かった。
『……分かりました』
そして、静かに無線機を切る。
隊長の命を受け、そしてロバートは力の限り叫んだ。
「Go astern!!(後退!!)」
ロバートの号令と時を同じくして【onyx】が動いた。
蜘蛛の子を散らすように国境南側へと一斉に駆ける。脇で控えていたシャハラザードも豊かな髪を翻し彼らに続いた。
戦略的撤退、しかし敵方に背を見せた事は変わらない。
【アダムズ・ビル】も状況確認を経た後に【onyx】隊員らを追う。いつぞやの小組織とは全く異なる、冷酷なるチェイスだった。
本拠地にて分かれて戦場に来てから一度もディンゴを近くで見ていない、とロバートはふと思った。遠目で詳細は分からなかったが確かビルの凶弾に被弾していた筈だとも。
号令を出したロバートは隊員らと共に行動することなく、ブッシュに身を隠してビルの歩兵をやり過ごした。
ビルの軍勢は過ぎ去ってしまうと、彼はディンゴがまだいるであろう国境北側へと走った。
ビル兵士の血の池のすぐ近く、大樹の陰にディンゴの姿を見つけることが出来た。
彼は大樹に凭れて座り込んでいる。
「隊長、左腕から出血が……やはり被弾していたのですね」
ディンゴはぼんやりと前をみながら、ロバートの声に答えた。
「ア? こンなの掠り傷だヨ」
しかし彼の言葉とは裏腹に、抉られた傷口からの出血が止まらなかった。心臓が脈打つ度に赤く生命が流れ出す。
ディンゴの黒いインナーの袖は更にその色を濃くし、どす黒く血に濡れる面積を押し広げていった。
彼は一つ舌打ちをして踵を返し、右手をひらひらと振った。
「唾つけときゃ治ンだろ」
しかしロバートの顔には緊張と焦りの色が浮かんでいる。
どんな状況でも動じる事なく隊を牽引してきた彼だったが、そのヘーゼルカラーは不穏に揺れていた。煤けた頬と身体に跳ねた泥と返り血が今回の密林戦の苛烈さを物語っている。
ロバートは銃声の止まぬ南方向を忌々しげに一瞥すると額の汗を拭った。
「隊長、やはり頭数を減らさないうちにはどうにも」
ディンゴは一度もロバートの顔を見なかった。
隊服の胸ポケットからガーゼを取り出し、口と片手を使って器用に傷口付近を縛った。
そしてロバートの言葉にも返答は寄越さない。
息を大きく吐いて天を仰ぐ。
「──本当はアイツのいねェうちに終わらせるつもりだったンだけどナァ……」
一切脈絡の無い一言。
逼迫した戦場には到底似つかわしくないような間延びした声にロバートは眉を顰めた。
「隊長?」
しかしディンゴは空を仰いだまま、疑問符の乗ったロバートの言葉を無視して続ける。
「悪いコトしたとは思ってンだヨ、コレでも一応」
そして深く息を吸い込んだ。
正午の位置にて最高点を陣取る太陽が彼の虹彩に映り込む。
「アイツにも覚悟があったンだ。自分の家族とその居場所を守る権利も、ナ。……ハァ、ソレを踏みにじって立場で無理やり抑え付けてヨォ」
ディンゴは縮こまった自身の瞳孔を、鋭い陽光から守るように傷だらけの手で目を覆った。
「でもどーせオレにゃヒトの気持ちなんざ分からねェしヨ。もうちょい上手くやれる方法があったンかもしれねえと考えたコトもあったガ……」
「いつの間にかあんなこまっしゃくれたガキに情が移っちまったンだろナ、情けねえ話ダ」
無骨な指の隙間から遮りきれずに漏れ出た陽光が射し込む。
褐色の皮膚に透かされた光は真っ赤になってディンゴの網膜に焼き付いた。
「隊長失格かねェ。難しいモンだナ、全く」
もう片方の手で首から提げたオニキスの首飾りを革紐に沿ってなぞり、先端に結わえられた黒瑪瑙を指先で撫でる。
瞳と同じ黒を湛えた宝石に触れる指先は優しかった。しかし革紐は経年劣化が激しいのか所々が傷んでいるようでひびが目立つ。
そして、左頬が自嘲気味に引き攣った。
「だけどヨ、炙り出すのにも徹底的に洗うのにも思った以上に時間がかかっちまったンだ。1年ダ、1年。天下のカルテルが笑わせやがるゼ、クソッタレ」
爆音を伴う銃弾の音は遠くに、彼の異質な笑い声だけが天高い蒼穹に消えていった。
「アイツんトコならあンの犬っころもちったぁ満足するかと思ってヨォ。アー、オメエに懐いてッだろ。だーからこンなまどろッこしいコトにもなってンだけどナ。どっかしら似てンだろうヨ」
「その上っ面だけには」
「────先程から一体、なんの、話を、しているのですか」
ロバートはディンゴに一歩歩み寄ろうとした。隊長という彼の肩書き、その呼び掛けが喉奥まで出てきてつんのめる。
そして、彼のひび割れた口元から笑みが消えた。
ディンゴは目を覆っていた手を退け、苔むした袋小路に至って初めてロバートを見る。
「オイ」
強膜は充血し、濁った赤に囲まれた漆黒は彼を射殺さんばかりに見開かれていた。
「今すぐその汚え口閉じろヨ……オレぁ銃でテメエを喰いたくねェ」
「ほ、本当にどうされ」
野犬は唸るように低く突き付けた。
「【アダムズ・ビル】戦略部門工作員、ロバート=コスター」
ディンゴに歩み寄るロバートの足が須臾に止まる。両者の間、彼の足下で何かが割れる音がした。
何ということは無い。その正体は唯の朽葉だった。
「忘れたとは言わせねェ」
対するディンゴは木の幹に手をついて立ち上がる。
赤血と漆黒の混淆。ヒトの形をした獣。
「テメエだけはこの手でハラワタ引き摺り出して嬲り殺しにしてやる……必ずダ」
逆光の中、野犬はこの瞬間の為だけに人生を賭して砥ぎ続けてきた爪牙を剥いた。
ⅩⅩⅣ
- Re: What A Traitor!【第1章25話更新】 ( No.27 )
- 日時: 2018/10/29 23:50
- 名前: 日向 ◆N.Jt44gz7I (ID: /0vIyg/E)
- 参照: http://www.kakiko.info/upload_bbs3/index.php?mode=image&file=1051.jpg
ⅩⅩⅤ
立ち上がったディンゴは負傷した腕を庇いながらも、血走った瞳でロバートを睨み付けた。
「整形でもしたカ? いンや無駄だね。テメエの声は削ぎ落とされそうになったこの左耳が覚えてンだヨ」
顔面の左側、広範囲に渡る古傷が焼けるような錯覚に襲われる。
彼の左頬の皮膚全てと【大切なもの】を奪ったのは眼前にいるこのロバート=コスターという男に他ならなかった。
血と闇に佇む深淵なる因縁。
ディンゴの光無い三白眼が見据えるのは、【onyx】副隊長ロバートという男がただ【アダムズ・ビル】のスパイだったという事実だけではない。
手繰り寄せるのは霞むような過去。
しかし今でもありありと浮かぶ当時の記憶に、どこまでも絡み付く螺旋状の因縁が二人の間には存在した。
「……尻尾掴みかけたのは一年前、小物共と戦ったあの日とその同時期ダ」
それはイタリア左遷の一週間前、小規模な南米出身の組織との密林戦。
取るに足らない烏合の衆と約束されていた筈の勝利。
【onyx】が楽勝で下した相手だったが、一年前、先の戦闘の全容が薄い違和感の膜に覆われていたのは事実だった。
『Demn!! It`s a fucking trap!!(クソッタレ!! ここじゃない!!)』
ディンゴの鼓膜に今でも残る小柄な彼の大きな遠吠え。
彼のお陰でプランテーションの損壊は最低限に抑えることが出来たと言っても過言ではない。
この戦乱から出来るだけ遠いところへ押しやる為に、現在は信頼できる人間に預けている。
どれだけ恨まれようとも嫌われようとも構わない。
世界に裏切られ続け、それでも牙を剥き続けてきた彼に後処理をさせるわけにはいかなかった。
「怪しむべきところは情報錯誤。カルテルを出し抜くなンざあンな小物共に出来る芸当じゃねェ」
ディンゴは唸るように続けた。
「あれからカルテルの諜報部が再調査すると、一年前【onyx】と戦ったあの小物共は見事【アダムズ・ビル】に吸収されていタ……。当時も正式な下請けにはなってなかったようダが、傘下に入ってはいたモンらしい」
血の流しすぎかそれとも別の何かからか、負傷したディンゴの前腕は震えている。
「どうせテメェのワイフだのガキだのと理由を付けてビルに知り得た情報を繋いでいたンだろ。逆探知困難な諜報用端末なンざ使いやがって……割れてねェとでも思ったかこのヒリポジャス」
一度や二度では無い。
ディンゴは、ロバートがホセに英語を教える勉強会の最中に家族からの連絡だと彼に断って席を立つ仕草を度々目撃していた。
キューバとメキシコの時差はおよそ一時間である、普通に考えて人間が行動する時間帯は二カ国間でそう変わらない。夜中や人気の無い時間帯の通話では逆に怪しまれる対象となり得るのだ。
本部との連携を取りつつ全容が明らかになった際には、成る程巧妙な手口だと思わずにはいられなかった。
「一年前の情報錯誤、そンでもって今回の国境戦争で研究し尽くされたビルの動き。近接戦で誰が機関銃なンざぶっ放すンだ? 誰かがお漏らししてる他ねェよナァ」
ディンゴは銃弾に肉を食い千切られた腕を一瞥する。
傷口の心臓寄りにて縛られたガーゼは徐々に彼の血を吸い始めていた。
「異様なスピードでの副隊長就任、テメエのことは元々睨んでたンだ。そンで……まさかカルテル内部にもビルのスパイが入ってテメエの諜報活動の補助をしてたなンざな、すっかり平和ボケして腑抜けになったカルテルには見抜けなかったンだろうヨ。どっち向いても胸糞の悪い話だクソッタレ」
ロバートという男は僅かな期間で類い希なる働きを見せ【onyx】副隊長に収まった訳では無く、【アダムズ・ビル】の工作員と組んでカルテルに侵入していた諜報員だったのだ、と。
ディンゴは左頬を不器用に歪めて笑った。
「テメエと一緒にアカプルコにやって来たトモダチは今頃メキシコ湾の海底だろうナ」
そして一呼吸置いて。
「──明らかになったのはテメエらビルが探ってンのが【コード=エンジェル】。ソイツだってコトも、ナ」
【コード=エンジェル】。
枝葉が遮り遠鳴りする銃撃音の中であっても、彼の言葉は透けるような蒼穹に天高く吸い込まれていった。
次いでディンゴの顔が苦渋に歪む。
「まだ手を引いていなかったとはねェ。眠れる獅子を起こすカ……この掛け値無しの大馬鹿野郎共め」
野犬は静かに牙を剥いた。低く険のある声で。
耳を揃えての証拠を突き付けられたロバートは今まで彼の言葉を黙って聞いていたが、ここに来て初めて端を発した。
「サイケデリックドラッグPCP──通称エンジェルダストと呼ばれる薬物を兵士に服用させ軍事行為を行った南米裏史上に秘匿されたとある作戦……だったな」
冷静に、且つ表情一つ変えずロバート改め、ロバート=コスターは事務報告かのように淡々と言葉を紡いでいく。
「1990年代。否、それ以前からメキシコは世界規模の大きなドラッグマーケットだった。各国のマフィア、ギャングや麻薬カルテルが組織の大きな収入源である薬物を発注し利益を得る、波風が立つことはありながらも薄氷の上には成り立ち得る関係性だった」
「しかしグローバル近代化の波から、政府からのテコ入れが厳しくなり各グループの代表筆頭は次々に逮捕されることとなり……元々地盤の緩かった中南米情勢が一気に不安定になることは火を見るより明らかだろう。そして各地で起こる麻薬戦争は更に激化していった」
ロバートの話は今からおよそ二十年以上前に遡った。
野犬の内に眠る遠く閉ざされた過去の黎明。激震する南米にて目立ち始めた移民問題、雇用率の低下と失業率の増加に街は荒廃してゆき治安は乱れていくばかりだった。
淡々としたロバートの声に自身の内側から手垢を付けられるような錯覚に陥る。
「当時、ただの弱小カルテルに過ぎなかったアカプルコも勿論統合吸収の危機にあった。昔はホンジュラスやベネズエラにだって巨大麻薬組織は幾らでもあったからな。そしていよいよ終わりすら見せない武力抗争に切羽詰まった【アカプルコ・カルテル】は何とか当時の状況を打開するべく、組織が抱える戦闘部隊にとあるコードを発令した」
微かに届く爆風が樹木に付く葉を揺らした。
木漏れ日がモザイク画のように移ろい、ロバートのヘーゼルカラーに鋭利な光が射す。
「如何なる凶刃凶弾にも屈さぬ兵士を作るために【アカプルコ・カルテル】が下した苦肉の策。それが【コード=エンジェル】」
また、左頬の古傷が痛んだ。
皮膚も汗腺も削ぎ落とされた左半分、感覚はもうあまり残っていない筈だ。
ロバートは続けた。
しかしこれまでのような無表情ではなかった。ほんの少しずつ、徐々に、彼の口角は冷酷な侮蔑の色を含ませてゆく。
「【アカプルコ・カルテル】には古来より巨大貿易港として栄えたアカプルコという地の利があった。小規模な組織ではあったが薬物取引の方面には強かったんだろうな」
遂に口調から透けて見える嘲り。
「そこでカルテルが目を付けたのがエンジェルダストという薬物だった。【コード=エンジェル】という名前もこの薬物由来だろう。元より外科手術用麻酔薬として用いられていたドラッグでそいつは人間の感覚を麻痺させ鈍らせる。言わずもがな、痛覚も」
「カルテルは痛みの感じない兵士を作ろうとした」
ロバートの瞳孔が細まる。
ディンゴは奥歯を噛み締める他無かった。それは紛れもない事実であり、そして。
「初期の方こそ例のコードは成功した。ああ、エンジェルダストを静脈注射された兵士たちの活躍には目覚ましいものがあったそうだな。大き過ぎる武力を獲得した【アカプルコ・カルテル】は破竹の勢いで他勢力を下し、自らに統合していった」
ロバートの眉尻は厭らしく下がり、同時に口角を歪ませた。
「そしてこの戦乱の中、急激に力を付けた負け知らずのカルテルの戦闘部隊は【神話】だと……そう持て囃され、南米中に畏怖されるようになったんだ」
南米の不敗神話、それは何処かで聞いたような謳い文句だった。
ロバートの厭に芝居がかった大袈裟な口調は更にドラマティックに移ろう。
「大規模麻薬抗争は【アカプルコ・カルテル】の単独勝利で終結を迎えようとしていた。しかし──」
遠い爆風に揺らされた樹木はロバートの頭上に影を落とした。
鈍く輝くヘーゼルカラーとの陰影がビビッドに現れる。
密林に立ち籠める熱は地面ごと揺らがすような目眩を呼んだ。
「薬物濫用による症状が兵士達に顕著に現れた。まあ……当たり前だろうなドーピングではなく違法ドラッグを使えばそうなるのは必然だ」
流血のせいか、それとも強い日差しと高温のせいか足下が揺らぐような感覚に襲われる。
瞳孔の開ききったディンゴの瞳はロバートの唇の動きを半ば狂気的に追った。
目を離すことなど出来ない。
「戦闘を終えてカルテル本部へと回収される筈だった兵士らは錯乱、幻覚、見当識障害、偏執病の症状を呈した」
一弾指、フラッシュバックする。
共に戦ってきた仲間の豹変、尋常でない奇声、味方への発砲。ディンゴはサイケデリックに浮かされ疑心暗鬼に取り憑かれた人間を見てきたのだ。
抗争終期には勢力争いだけではない、血で血を洗うもう一つの戦争があった。
断片的な記憶。夥しい量の赤と飛び散る肉片。止まぬ銃声と獣に成り下がった人間の叫喚。
記憶の最後にあるのは当時未だ若かったディンゴを庇うように倒れる一人の男と、辺りに散らばる人間を成していた器官と組織だった。
「【コード=エンジェル】に頼り切っていたカルテルだったが傘下組織に残っていた兵力を使い、辛くも優位終結を勝ち取った。だがそのコードは勿論中止。この業界では信用と格好付けが重要だ。【不敗神話】と畏怖される部隊がただのヤク漬けのモルモットだったというなら折角手に入れた南米とその名の失墜も免れまい。部隊を抱えるカルテルにとって汚点となり得るそのコードは永遠に隠蔽されることになった」
ロバートの嘲りを含んだ口角は、下卑た笑みへと明らかにその相を変えた。
「現在の神話たる【特殊高火力殲滅部隊「onyx」】のバックボーンが【ソレのなれの果て】だなんて一体この世の何人が知っているんだろうなぁ……ディンゴ=スアレス」
ディンゴ=スアレス。
久方ぶりに聞くその名前は更なる頭痛を呼んだ。
左耳から、右耳から、背後から地中から、四方八方から幻聴がする。
『お前名前無いのか、それとも言いたくないのか……はぁ困ったな。 よし、じゃあ俺が勝手に付ける! なーんだよ、そんな顔すんなって! うーん、そうだな』
『あっ、俺の出身地にはディンゴというイヌ科の動物がいてな、とにっかく獰猛で……おまえにピッタリだろ? いーや、冗談だって。ひひっ悪かった悪かったっての。ディンゴは強いけど群れで協力して狩りをする仲間思いのヤツでもあるんだ』
『だからお前の名前はディンゴだな! ほら俺の名前とも似てる。 ちなみにスアレスは俺の親戚から拝借したんだ!ふふん、どうだイイ名前だろ!』
【コード=エンジェル】を発端とし、そこから伸びた枝葉はディンゴから全てを奪った。
【彼の声】が何度も何度も飽和して反響する。
野犬は震える奥歯を噛み締めて残響を追い出した。
あの時は何を言われているのか皆目見当が付かなかったが、時の経った今なら分かる。
「資料は完全に抹消されることなく残っていたよ」
ロバートの声でようやく聴覚を取り戻したディンゴは、右手で額の汗を拭った。
「流石、学のない南米人共だ。素晴らしい」
ロバートは人工的な笑顔を作り、無感動な拍手を送った。
芝居がかった口調に不釣り合いなほどのチープな表情が却って不気味だった。
数回手を打ち合わせたところでリタルダントがかかり、硬い掌に衝撃が吸収されゆく。
そして完全に音が止んだところで、再びロバートは口を開いた。
「しかし……コードの発令に異を唱え、エンジェルダストの注射を最後まで拒んだ者がいた。それが当時の隊長ディエゴ=ロア=アルバノス。そしてディンゴ=スアレス、お前だ」
前者の名前を聞くことになろうとは、と刃毀れするほどに犬歯を噛み合わせた。
記憶をいいように蹂躙され、穢れた手垢を付けられる。
野犬の瞳孔は開いたままだった。
「お前は【コード=エンジェル】発令からの唯一の生き残りだった。共にコード発令に反発していたディエゴは銃乱射事件の際に死亡したようだがな」
血だまりに伏す二人の生命。
一つは何発もの散弾を背中側から打ち込まれ息も絶え絶えの死に体、もう一つは絶望に揺れる若き生命。
『あーあディンゴぉ。なーんかさもう無理みたいだわ、俺。わりいなあ、もっとお前にコトバとかさ、メキシコのブンカとかさ、教えたいことあったんだけどなぁ……』
『ん……ほらセンベツ。やるわ。持ってけ、な』
再び襲う極彩色の目眩と先程のフラッシュバック。
風は無い筈なのに首元の革紐に縛られた黒瑪瑙が揺れた気がした。
しかし深層意識に眠る己に牙を突き立て、ディンゴはロバートに中指を突き立てた。
「……闇に葬った失敗策と分かって【コード=エンジェル】の猿真似をするってンか。カハハッ──! 随分とビルの小父様方は暇なンだなァ?」
しかしディンゴの煽りを耳にした途端ロバートは表情を崩した。
そして腹を抱える。
耳障りな笑声が密林を縫った。
巨躯をくの字追って、馬鹿に大きい音量で、逆に相手を煽り返すように。
その異様な姿にディンゴは眉間に皺を寄せるしかなかった。
不気味な笑声そして引き笑いののち、ロバートは上体を起こした。
目の端に涙を溜めて、顔の前で手を振る。
「猿真似! ハッ……お前が言うか! そうかそうか……ああすまない、何とも愉快でな」
ロバートは目を見開いて、ディンゴに突き付ける。
優しげなヘーゼルなど最早何処にも残っていない、攻撃行動に付随する迷彩にも似た緑と黄色のスクランブル。
「ベネズエラブラジル国境付近のアマゾン秘境に棲まう戦闘部族【ヤノマミ】」
捨て去った筈の出自。
何故お前がそれを知っているのか、何故、何処から。
ディンゴの血走った双眸はこれ以上無いほどに見開かれた。
「食人族として人々から恐怖の対象とされたヤノマミ族だったとはな。さしずめお前は文明と初接触した頃の野蛮人だった、というところか?」
森がざわめく。空高く舞う鳥の声が耳に障る。葉の擦れ合う音と枝葉のたわむ音が五月蠅い。
「はは……どうして知っているのか、という顔をしているな。前隊長の手記にお前の話す正体不明の言語が書き留められていてそこから割り出した、と言えば納得するか?」
黙れ。
「お前らヤノマミ族は独立言語族だからな。母語と何の類似性も持たない西語と英語を習得するのはさぞ難儀だったことだろう。その耳障りな訛りも成る程頷ける」
黙れ、黙れ黙れ。いちいちうるせえンだヨ。
「どうせそのディンゴ=スアレスという名前もベネズエラ国籍取得の為に拵えられた偽名でしか無いのだろう」
コイツだけは。
「──ンな昔のコトなンざどうだって構わねェ。テメエだけは、テメエだけは……」
【あの日】の記憶が暫時脳内を駆けた。
追憶に準じて古傷の疼痛が酷くなる。
『そうか口を割らないのなら俺が手伝ってやろう』
『叫ぶと裂けて二度と戻らないぞ』
『血液と唾液と脂汗と涙でグチャグチャだな。いい顔してるぞ、鏡でも持ってきてやろうか』
『ははは、そんな目で見てくれるなよ。ほら、もう一層削ぐから動くな。暴れると刃が目に刺さるぞ』
『痛いか、ならばコードについて全部吐け。楽に殺してやる』
『ああ、強情だな。それなら【こちら】はどうだ──?』
黒いノイズが這い回る記憶に度々迷い込む野犬は、忌まわしい声に首根っこを掴まれ今一度現実に引き戻される。
「そうか、それなら」
そして核心に触れようとするロバートの手。
二十年前、左頬にナイフを宛てがい一枚ずつ皮を剥がしていったのと同じ手だった。
絶対不可侵の領域。
螺旋状に巻き付く悔恨の枢軸。
それは救えなかった人の名前であり、最も聞きたくなかった言葉だった。
「覚えているのは【愛しい人】の声だけか?」
次の瞬間、ロバートの視界からディンゴが消えた。
見知った疾手なのに、相対するとこうも追えないのかとロバートは舌打ちした。
そしてロバートは今まさに側頭部に叩き込まれんとするディンゴの回し蹴りを視認する。そして前腕の橈骨でそれを防いだ。
刹那、ヘーゼルとオニキスの交錯。
背後に涎を垂らす地獄の番犬のビジョン。ロバートは野犬の赤い眼光に戦慄を覚えた。
一瞬のうちに溜めた筋力を瞬間的に解放し、蹴りのエネルギーを持った脚を押し返す。
ディンゴはロバートから飛び退き、首の関節を鳴らした。
「……当然乗ってくンだろボールズヘッド。殺す、殺す、殺す、殺す、テメエだけは絶対殺す」
「はは、馬鹿の一つ覚えみたいにキルを繰り返しても俺は喰えないぞ。人食いの野蛮人」
そしてロバートは下卑た笑みを浮かべ、赤血に染まるディンゴの双眸を見据えた。
「せいぜい【あの時】の二の舞にはならんように、な」
彼が言い終わるより早く狂犬は犬歯を噛み合わせ、地を蹴った。
ⅩⅩⅤ
- Re: What A Traitor!【第1章26話更新】 ( No.28 )
- 日時: 2018/11/11 22:41
- 名前: 日向 ◆N.Jt44gz7I (ID: on4ShBGJ)
- 参照: http://www.kakiko.info/upload_bbs/index.php?mode=image&file=6199.jpg
ⅩⅩⅥ
ディンゴは地を蹴り、ロバートに肉薄した。
刃毀れしそうな程に口内に据わった凶刃を噛み締める。
今も穿たれた銃創からは生命が赤く流れ出している。剥き出しの闘争本能と全身の昂ぶりは不規則な脈拍となって血液を押し出した。
酸素に触れ、黒く結晶化した紅が両者の間隙に飛び散る。
空間を裂くディンゴの右拳がロバートの頬に影を落とした。
眼球を狙う目潰し。人間の強膜は存外強靭で、並大抵の衝撃では破る事など困難である。ディンゴは力を速さに変える拳骨を目標の直前で開き、爪で角膜を抉り取ろうと試みた。
しかし嘲りを含んだ笑声が耳朶に沿って飛び込む。歪む瞳の稜線、爛々と光るヘーゼルは確かに拳の切っ先を捉えた。
「は──手負いの獣にやられる俺では……」
ロバートは再びその橈骨でディンゴの拳を薙ぐ。
「無い!」
そして彼の攻撃はロバートの太い腕に遮られた。
交錯する骨肉は強い震盪を起こし、ディンゴは跳ね返ってくる衝撃に顔を歪める事しか出来ない。左頬の傷は歪んで裂創の繊維を伝っていた脂汗が飛び散った。
硬い橈骨と細い拳の骨同士の衝突では前者に圧倒的な分がある。
ディンゴは余計な衝撃を逃がす為、ロバートに弾かれるがままに右手を宙に遊ばせた。
接地すると同時にバックステップで後退し、相手のリーチでは届かないところにて呼吸を整えようとする。
ヒットアンドアウェイ。二度も見切られてしまった今もうこの戦法はロバートに通じないだろう、とディンゴは歯噛みするしかなかった。
しかしその目は死んではいない、ヘーゼルを射抜く三白眼は静かに黒い炎を燃やす。
「抜かったな。同じ手を食うか、原始人め」
ロバートはこれ見よがしに右手を掲げて指の骨を鳴らしてみせた。
もともとディンゴは筋骨隆々な方ではない。野生の猛獣を思わせるしなやかな筋肉と強靱な撥条が彼の強みではあったがそれでもやはり線は細かった。
それに反してロバートは2m近くの巨躯と体重があり、重厚な筋肉の鎧に覆われている。【onyx】の中でも頭一つ抜きん出て体格の良い彼だったが近接戦闘訓練にもその特異性は現れた。
小技をものともしないパワープレイと大振りの強力な打撃。武器を用いない丸腰で行う近接戦闘訓練において彼の右に出る隊員はいなかった。
ロバートは唯の工作員ではない。共に【アカプルコ・カルテル】の本部に侵入していた仲間からの押し上げ操作はあったものの、彼は確かに【特殊高火力殲滅部隊「onyx」】の副隊長に収まる実力を持っていた。
元より死角を利用し疾手で相手を翻弄する戦法を採るディンゴと、巨大な体躯と膂力で全てをねじ伏せるロバートの戦法には大きな違いがある。
ディンゴの戦い方が死につつある以上、近接の肉弾戦闘に応じるしか無い。
両者の型はそもそもの相性が悪かった。
「銃を抜くか? 俺は一向に構わんぞ」
忌まわしい淡褐色が万華鏡のように中枢神経に射す。
ディンゴはどうしてもトカレフTT-33で、ホローポイントの銃弾で目の前の男を喰うわけにはいかなかった。内なる肉を穿つ鋼鉄の花など【彼女】への手向けにはならない。
野犬は今更殺意を隠そうともせずに唸った。
この両手で曝く筋繊維に、晒す脂肪に、引き摺り出す臓物に意味があると信じて野犬は牙を見せた。
「ア……? テメエの方こそ防戦一方だろ、ボールズヘッド。そのドタマに乗っかった不能マグナムでも抜いてみろヨ。怖くてチビっちまうかもナァ……?」
ディンゴは折節襲い来る銃創の痛みと残っていない退路を誤魔化すように口角を吊り上げる。
そしてトカレフは疾うに弾切れのホールドオープンだった。弾薬は持ち合わせているが入れ替える時間も余裕も無い。この狡猾な男がそれを許すはずも無かった。
旧友を訪ねて商会の門を叩いたのは組織と今回の国境戦争の為ではない。己の私怨を晴らすための布石と場の攪乱。全てはこの時の為だった。
しかしディンゴも組織に身を置き、隊長という肩書きにある以上カルテルを勝利に導かねばならない。そのために商会に依頼し、戦闘員を利用した節も勿論あった。浩文とファティマの両名の力は予想以上のもので、自分が戦線を離脱したとしてもまだ猶予はあるだろう。
そして戦場に立っているのは他でもない南米の不敗神話【特殊高火力殲滅部隊「onyx」】だ。今は共に戦ってきた朋友を信じるしか無い。
だが眼前に立ちはだかるのは圧倒的不利。計算が狂う要因となったイレギュラーは幾つもあった。
小型機関銃に撃たれるという近接戦闘におけるセオリー違反にて負った傷。そして仕舞いに掘り起こされたのは捨て去った己の出自。
ディンゴは紛れもない正真正銘の密林の民だった。
ロバートが突き付けた事実に嘘は一つも無い。
文明の人工光が若かりしディンゴの網膜を焼いたのとほぼ同時期、彼は全てを失った。しかしそれは自ら選び取った道で代わりに初めて手にするものもまた数多くあった。
前隊長ディエゴ=ロア=アルバノス。彼の名を再び耳にすることがあろうとは。
あの忌まわしき【コード=エンジェル】にて彼は禁断症状で半狂乱になった仲間の凶弾からディンゴを庇って戦死した。ディンゴの首から提げられている黒いオニキス石の首飾りも死の間際に彼から受け取ったものである。己の首が落ちようとも地には堕とせぬ【onyx】の名前。彼の死の原因となったコードを探られるのは自身の内臓を暴かれるような感覚だった。
そして出会ったのは。
『私の名前ね、スペイン語で【愛しい人】っていう意味があるんです』
また幻聴がした。追憶は必ず古傷の疼痛を呼ぶ。
「何を言うかと思えば。この手で貴様を再び失望させた果ての死に意味があるんだろうが」
ロバートはディンゴを遙か上から見下ろした。嘲笑うかのようにディンゴの大切なもの全てを目の前で引き裂いてみせた男。
霧散していく疼痛と幻聴の中ではっきり見えたのは絶対的優位に立つ強者の嘲笑。それが分かっているからこそディンゴは爪を出し、牙を剥く。格好も何もない。
負け犬の遠吠え。弱い犬ほど良く吠える。そんなものクソ食らえだった。
「死ぬのはテメエだ」
もう届かない筈の爆風がディンゴの前髪を揺らす。
「出来るものなら」
数分の間もなく両雄は再び激突した。
ロバートは吼え、拳で空を切る。
迷い無い右ストレートがディンゴの頭目掛けて振り下ろされた。ディンゴは風斬りの拳骨を皮一枚のヘッドスリップで躱す。しかしその風圧から厭でも察せられる威力に戦慄した。眼前の空気が消し飛んだのだ。大振りでもテレフォンパンチでも無い凶器、一発でも直撃すれば骨は拉げ肉は潰れ皮は切り裂かれるだろう。
ロバートは躱されたと見るや否や左のフックでディンゴの顎を狙いにかかった。脳震盪など起こせば瞬時に雌雄は決着してしまう。ディンゴは動体視力と脳をフル稼働させ、すんでの所で顎を引く。筋張った固い拳が目の前を過ぎる。命を刈り取る豪速に鼻先と前髪が焦げた。
フックの反動で捻りを加えられたロバートの上半身が一弾指停止する。ディンゴはそれを見逃さず好機としてローキックで体制を崩しに掛かかった。半身を捻ったのち重力に任せて相手の膝の腱へと鋭角に脛を叩き込む。銃創から血液が噴出するのも構わず拳を握り締めて末端に残る力の残滓を足に乗せた。
全てを振り絞った下段蹴りはロバートの腱にクリーンヒットする。
しかし彼の体幹は揺るがされることも、その表情を苦悶のものに変えることも無かった。膝を柔らかくして衝撃を地へと逃がしつつも土台は踏ん張りが効いている。
ディンゴは驚愕を瞳に落とし込んだまま、柔なブローをロバートの左頬目掛けて打ってしまう。
鈍い殴打音とその感触で拳が彼に届いたことを知ったが、ディンゴにはまるで敢えて被弾したかのように見えて仕方が無かった。ディンゴは拳で弾いたロバートの頭部を見る。左側に跳ね飛ばされた顔に嵌め込まれた淡褐色と目が合った。
瞳孔の開ききったオニキスを凝視する爛々としたヘーゼル。
ロバートは肉の寄った左頬を歪めて、笑った。
「やはり、軽いな」
絶望に呑まれそうになった。
一体どうすればこの男をねじ伏せることが出来るのか。
小手先の拳も足も効かない、そして銃はホールドオープンのままでは鉄の塊に過ぎない。
しかし一つだけ手は残っていた。しかしそれが成功する保証も何処にもなく、もしそれが失敗して潰えてしまったならば真の意味での死がディンゴを待っている。
だが最奥にくるのは、二十数年胸に抱き続けてきた殺意をそんな最後に代えても良いのかという自問自答だった。
圧倒し、この手で奴を引き倒し、これまでの怨嗟全てを以て酷く責め抜いて殺してやる筈だろう、と。自身の全てを奪い今更暴いた奴に安寧とした死を与えるつもりか、と。
ロバートが手強い事はディンゴも重々承知だった。二十数年前の邂逅にてもその実力差をまざまざと見せつけられ、敗北した。何一つ守ることの出来ない負け犬で、どうしようもない弱者だったのだ。
自身の命などもはやどうなっても構わない。若かりし頃にエンジェルダストのバッドトリップによる銃乱射事件で、この男に全てを蹂躙し尽くされた時点で、死んだようなものだった。歩く死人に命など惜しいものか。
自分が死んでいれば良かったのに、と後悔は尽きない。こんな自分に命を遺した彼らの弔いに何が出来るだろうか。自分のせむとす事は正解か、不正解か。果たして自分が許せるか。過去の自分が未来の自分が、今の自分を。
しかしディンゴに血迷うほどの血はもう残っていなかった。
失血に震える手で懇願するように左頬に触れ、【愛しい人】を想う。
守れなくて、悪かった。
あの時から何一つ変わらなかった。オレは弱いままだ。
なあ、こんな決着でもオマエは許してくれるか。
瞳を閉じても答えなど当然返ってくる筈も無い。
ディンゴは左頬を歪めて、苦々しく笑った。
そして須臾にバックステップでロバートから距離をとる。もはや軽やかな足取りでは無かった、疲労物質の溜まりきった筋肉を酷使する泥臭さが付き纏う。
卑怯でも、無様でもいい。矜持すら放れ。此処はテメエの領分だろうが、狂犬。
ディンゴは深く息を吸って、浅く吐いた。
ロバートは透明な唾を吐き捨てて不敵な笑みを浮かべる。未だディンゴのカウンターを待つ余裕を見せる。そして野犬はそれに乗った。罠だろうが、どんな顛末が待っていようがそれに乗るしか無かった。
体重を下に移動させ、トップスピードに移行すると共に死角に入る。並大抵の人間ならば捉える事すら困難な獣の構え。しかし立ちはだかる男はいとも容易くそれを破る、そんなこと百も承知の大博打だった。
そして鉄錆に浸食された撥条を使って最後の力と速さを拳に乗せる。風を切るスピードと空間を制圧する膂力。これが正真正銘最後の賭けだった。
しかし伸ばした拳は呆気なく彼の腕に叩き落とされ、容赦無い殺気が籠もったクロスカウンターが被さる。
ロバートは愉悦に顔を歪ませ、圧倒的勝利を確信した。
「何度やっても──」
だがしかし、先に相手を捉えたのはディンゴのブーツ底の仕込みナイフだった。
ロバートの脇腹にディンゴの蹴りが叩き込まれようとする。
急襲は見切られていた筈だった。ロバート自身もディンゴの動きなど見切っていた筈だった。
しかしそれこそが活路。ロバート=コスターという男は自身の力に驕っていた。
自身を絶望の淵に追い詰めていたぶる為に決して銃を手にしないであろう事も。ディンゴは彼の性質を見抜き、そして全てを諦めた。
どうせヒットアンドアウェイの仕舞いには拳が飛んでくるだろうと、そんなもの軽くいなせると。ロバートは密林の野犬を過小評価していたのだ。そして彼の領分である密林の疾手を完全には捉え切れていなかった。
どんな不利な状況にあっても自身の戦法を曲げなかったのは、その布石。
どれだけ牙を剥いても爪を立てても叩きのめされ、正攻法では敵わないと突き付けられた末の断腸の選択だった。
真っ向からねじ伏せて、【彼女】への手向けとしたかった。しかし、全てを出し切って尚、届かなかった。きっと手負いでなくとも彼には最初から敵わなかった。
【愛しい人】の全てを奪った男への復讐として選んだのは自身への裏切り。
努力などという生ぬるい言葉には反吐が出る、そんな言葉で片付けられるような人生も送ってきていない。今日この時に復讐の為に研鑽を重ねた自身を裏切ってまで、殺す事を選び取った。
黒いインナーを裂いて表皮に触れる。その凶刃を視認した大きなヘーゼルは見開かれ、唇は間抜けな音を漏らした。
「お、あ」
ディンゴは踵をロバートの腹により深く沈めた。刃毀れするほど奥歯を噛み合わせて疲弊しきった身体に鞭打つ。筋肉が軋んで裂創から銃創から血を噴くがそれでも全身に力を込めた。ロバートの脇腹に突き立てたナイフを力に任せて横真一文字に奔らせる。
ぐじゅ、と汚らしい水音がしたのち、鮮血が迸った。
ロバートは目を白黒させて、呻きながら膝をつく。ディンゴは刃を引き抜くと血の付着した靴底でロバートを蹴り倒した。
「──が」
ディンゴが男の血の染みた黒いインナーを引き裂くと、自らが創った傷から赤黒い内臓が飛び出ていた。
野犬が無感情に両手で傷口を容赦無く広げる。血反吐が詰まったロバートの気管からは濁った音が漏れ出た。ディンゴはざっくり開いた傷口を見下ろすと感情の籠もっていない目で腹腔に手を突っ込んだ。
「ぅあ゛」
ロバートは感情の残滓を振り絞って自分の体内を掻き回すディンゴの腕に爪を立てるも、野犬は腹から腕を引き抜いていとも容易く力無いロバートの手を振り払う。これまでの力関係は逆転、太陽が落とす二人の影は大いなる自然の弱肉強食に他ならなかった。
ディンゴは掌を天に透かして地面に落ちる手首に踵を落とす。指に繋がる腱を切断する為だった。腱を切ると指先は繊細な制御を失う。顔を苦悶に歪めて手首から命を噴き出すロバートを一瞥して、ディンゴは再び傷口に手を突っ込む。異物を突っ込まれて痙攣する腹腔をぐじゅぐじゅと探ると血が止め処も無く溢れて返り血に汚れた。
そして一等柔らかい肉の管を力任せに引っ張り出す。露わになった小腸を引き摺り出すとロバートは目を反転させ奇声を上げた。
ディンゴは引き掴んだ小腸を叫喚する入り口に押し込む。唾液と血反吐に塗れるのも構わず喉奥まで己の拳と肉管を詰め込むとロバートの身体は魚のようにびくびくと跳ねた。そして彼の傍らに立つと腹から繋がったままの小腸を口に含ませた顎を爪先で勢い良く蹴り上げる。
野犬の選んだ復讐は自身の内臓を生きたまま食い千切らせる事。神話を擬える事も高尚な理由も必要なかった。かち合った歯の隙間からじゅぶと内容物が漏れるのを見る。
この男に左頬を削がれた時の自分とよく似ていた。鼻水と涙と血液と唾液と吐瀉物と脂肪と肉片に汚れた顔面。筋肉の弛緩で漏れ出た排泄物が放つ異臭が鼻を衝いた。
そして身体の孔という孔から体液を垂れ流す宿敵の耳元で囁く
人食いの野蛮人と畏怖されるヤノマミ族。しかし彼自身人肉を食ったことなど無かった。
「テメエの糞袋の味はどうだ。美味いカ? 死ぬ程美味いヨナァ」
やがてロバートは全身を痙攣させた後、白目を剥いて動かなくなった。
不思議なことに血を流し横たわる怨敵の亡骸を目の前にしても新たに湧き出た感情など何処にも見当たらなかった。
自分が受けた以上の痛みを、【彼女】が背負わされた以上の痛みを以てもっと惨たらしく殺してやりたかった筈なのに。野生のままに遺体を損壊しても構わなかった。だがそれはしなかった。ただ感情の振り幅を喪失しているだけだろうか。否、それとも。
ディンゴはよろよろと足を引き摺って、死体から離れるとその場に座り込んでしまった。
「──アー、クソ。疲れタ」
そして仰向けになって草の生い茂る地面へ倒れ込む。
全てを清算しきって返り血と痛みに塗れた身体を休めたかった。疲労困憊の身で眠り落ちて、名も無き密林にて生を終えたとしても一向に構わない。
しかし今となって彼は一匹の野犬ではなかった。彼にはいま現在も己の命を燃やして戦っている仲間がいる。襲う疲弊に目を閉じても彼岸にて微笑む【愛する人】の姿を見つけることなど出来なかった。
走馬灯を見るのはまだ早い、感傷など今は捨て置けば良い。
「ココでくたばってるワケにもいかねェか……!」
ディンゴは笑う己の膝に活を入れて立ち上がる。叩き込まれたダメージと酷使した筋肉が軋んで身体の至る所が悲鳴を上げたが、そんな事になど構っていられなかった。
野犬は足を引き摺りながら国境を南に下り始める。
背景に鏤められていた銃声も今では遙かに南に遠のいてしまって、もはや断続的にしか聞こえない。
しかし聞こえる、戦争は未だ止まない。キリングマシンを形成する一個師団の仲間たちは忠実にその作戦を守り、戦場に生きているのだ。
ディンゴは息を深く吐いて、満足に動かない足を前に進めた。
全ては思惑通りに。
【アダムズ・ビル】一掃の作戦完遂はすぐ近くまで訪れていた。
ⅩⅩⅥ
- Re: What A Traitor!【第1章27話更新】 ( No.29 )
- 日時: 2018/12/10 16:35
- 名前: 日向 ◆N.Jt44gz7I (ID: 7ZQQ1CTj)
- 参照: http://www.kakiko.info/upload_bbs3/index.php?mode=image&file=1059.jpg
ⅩⅩⅦ
メキシコの名も無き寂れた町の中、二人の男が古びた街道を抜けようとする。
そのうちの一人、赤土の匂いが立ち籠める村には場違いなほどの上質なトレンチコートの生地がメキシコの強い日差しを受けて輝く。
粗末な掘っ立て小屋の中で来ない客をひたすら待ち続ける小太りの中年男は昼下がりのこの頃、数日前の新聞を頭に被って眠りこけていた。時おり訪れる物好きな観光客か、近隣住民が都市部へ買い出しに行くときぐらいしか店に客が訪れることが無い。車貸しの店主は本日も業務時間を睡眠時間に変える。
その筈だった。
舗装されたものの疾うにひび割れてしまったコンクリートに耳慣れないヒール音が反響する。そして埃っぽい村には異質過ぎる甘く蠱惑的な香りの訪れ。甲高い靴の踵は車貸しの店の前で止まった。
ただならぬ気配を感じた中年男は寝ぼけ眼を擦って顔を上げると、宙に舞う絹糸が目に飛び込んだ。
否、絹糸などではない。それは太陽光に白飛びするほどの細く淡色をした長い髪だった。
「ここから国境へ行きたいんだが……車を頼めるかな」
その声の主は柔い光を蒼玉が如し瞳に落とし込んだ美しい白人の男だった。
一切の訛りが無い流麗なスペイン語と紅を差したかのような唇に村の中年男は目を丸くする。
しかし女性的な顔立ちとは反して高い位置から降ってくるバリトンボイスに、中年男はでっぷりと肥えた腹を掻きながら片眉を吊り上げた。
「国境だと? 白人のあんちゃんよぉ、馬鹿言っちゃいけねえ。今は麻薬カルテルの抗争が激化してとてもじゃねえが貸せねえな。大事な商売道具が戻ってくる保証なんか何処にも無いね」
麻薬カルテルの抗争、と店主が口に出したところで白人の男は後ろを振り返って誰かに目配せをした。
どうやらこの妙な風貌の男、一人ではないらしい。
気になった店主は男の背後を覗き込むように身体を反らして目を細めると、彼の後ろには奇抜な髪色をした青年が一人、傍に控えているのが分かった。
青年の髪には眩しい白と目に痛いビビッドレッドが毛先に差している。しかしそれとは対照的に殴打痕のような濃い隈と険のある瞳。そして白地に黒雷のような模様が印刷されたシャツ。数多の黒いアクセサリ類は堅牢な鎧のようにも思われた。
戦禍渦巻く国境に行きたいと宣うこの見慣れない男達に、店主はますます不信感を募らせる。
店主が青年の背格好をじろじろと品定めするかのように目を細めていると、視線を上に滑らせた際に彼の瞳とかち合った。
「なに見てんだよ」
異様な光を放つ瞳だった。
刃物の波紋を思わせるぎらついた眼光と独特な縞の奔る血走った目に、店主は思わず息を呑んで目を逸らす。
取り繕うように咳払いをしながら新聞紙を広げていると、白人の男はトレンチコートの懐から何かを取り出した。
「なら1台買い取ろう。これで足りるか」
「なに言っ……え、あ?」
買い取るというふざけた発言の意図も全く分からなかったが、差し出された札束に店主は目の玉を剥いた。
見たこともないような束の紙幣が此方に差し出されているではないか。
男は紙の価値を半ば押し付けるようにしてトレンチコートを翻す。
「ペソは生憎持ち合わせが無くてな、米ドル札だ。贋札ではないと思うが一応確かめてくれ」
白人の男は店主が呆けた顔を晒しているのを一瞥もせずに小屋の壁に掛かっていた鍵を一つ取る。こんなに蒸し暑い日だというのにその美しい男は黒の革手袋をしていた。
「マスター、御用があれば【トーニャス商会】まで。──さあ行こうか、ホセ」
ぽかんと口を開けて二人を見送ることしか出来ない店主は、しばらく後に店の裏に停めてあった車のエンジン音を聞いた。
そして押し付けられた札束と数日前の新聞紙を交互に見る。
広げた新聞紙は逆さまだった。
******
この森を抜ければ目的の地だと、浩文は奥歯を噛み合わせた。
国境付近では影の落ちる鬱蒼とした密林だったが南に後退するにつれて木々もまばらになりゆき、今日の空が青かったことを知る。
しかし感慨を抱く暇すら無い。此処は銃弾が空を裂き、戦禍渦巻く戦場だった。
苔むした蔓の合間で近くの隊員が吼える。
「隊長と副隊長はまだなのか!」
「分かりません!」
浩文はそう答えるだけで精一杯だった。そして幹の影に身を隠して呼吸を整える。
事実、ディンゴからもロバートからも隊に向けての連絡は一切無かった。数時間前にビルに向けて第一陣の迎撃掃射をした後から二人の姿はなく、それから一度も前線に復帰してきていない。
まさかそんなことは、と思いつつ密林のなかで二人の遺体を軽く捜索してみたが当然見つかるはずも無かった。血痕はおろか手掛かりも発見出来ていない。
必ずどこかで生きているのだろうが、戦闘にて深手を負ってしまったのか未だ姿を見せていなかった。
「シャハラザード、もう一度行けますか」
浩文は隣で息を潜めていたシャハラザードに声を掛ける。
「……大丈夫。いけるわ」
シャハラザードは頷いて、腰のガンホルダーに手を掛けた。
だが、奇襲を仕掛け戦況を作る為に誰よりも動く彼女の消耗は激しい。野生動物のように自分の弱っているところなど決して見せようとはしなかったが、胸を上下させて肩で息をしているのは確かだった。
しかし腐っても【onyx】というわけか、敵の数は掃射部隊を構えていたときよりも敵の人数は捌けていた。場数の差か、個々の戦闘力の高さか、装備品の差かは分からない。そして皆消耗しているもののカルテル側の死傷者は、隊長副隊長の両名を除いて、浩文が見回してみたところいないようであった。
幾人もの血を吸って鈍になったナイフは今は大人しくシャハラザードの腿のホルダーに収まっている。
「最初の目的は覚えていますか。この作戦の、です」
一呼吸すら置かず木の陰から銃口を差し向け、撃つ。
混戦の中で手応えがあったかは分からない。
しかし浩文は敵方からの凶弾が巨木の幹に弾かれて足下に転がるのを見逃さなかった。
「なあに、ばかにしているのかしら」
シャハラザードは吐息を漏らすように微笑んだ。
しかし浩文は彼女を見ることもせず、ホールドオープンになった銃に弾薬を装填する。
「していませんよ、ただの確認です」
シャハラザードは紅を引いたような赤い唇に人差し指を添えて、考えるような素振りをみせた。そして戦場においての悠長で緩慢な仕草に彼女の狡猾さと脆弱性を垣間見る。いよいよ呼吸も苦しい筈であるが、やはり彼女は外部の人間に決して自身の弱みを見せようとしなかった。
人格の交代が起こってはや半日、これまでこなしてきた仕事を考えても長い方である。
今回彼女に任せた仕事も極度の緊張と負担を強いるものだった。
ファティマとシャハラザードの両名を繋ぐ精神面も相当摩耗しているのだろうことは想像に難くない。
「メキシコ方面への、ええと、何かしら」
しかし瞳に宿る翡翠は砕けない。
「ああ、思い出した──インダクションよ」
緑の貴石を囲んだ漆黒の稜線は歪む。
「これだから英語はいやなの。ええ、いま私たちがメキシコに下っているのはそのため……分かっているわ」
今度はシャハラザードの瞳を見据えて、浩文は首肯した。
双眸の翡翠が妖しく輝く。
「その通りです。ディンゴさんたちが戻ってくるまで持ちこたえましょう」
シャハラザードは浩文の言葉に浅く頷いて、敵陣右方向へ走り去った。浩文も再び銃を構える。
辺りはおよそ密林とは異なる様相を呈してきた。木々の数はもちろん遮蔽物自体が少なくなってきており、【onyx】の麻薬プランテーション守護に関する密林環境特化の戦闘技術も活かせる場面も徐々に少なくなってきている。
兵の物量を削がれた【アダムズ・ビル】陣営と、密林という鎧を砕かれつつある【アカプルコ・カルテル】陣営。しかし今後の戦況次第ではどちらにも転び得るだろう。
しかし決して不確定要素ではない。戦況ならば自ら作るしかない。
浩文は弾薬を補充する隙に一番近くにいた隊員に尋ねた。
「目的地まではあとどれくらい距離がありますか!」
「あァ!? あと1kmもねぇよ!」
隊員の返答を聴いて浩文は唇を引き結んだ。
1km、あと1000m凌ぎきれば此方の勝ちは見えてくる。しかしその僅かな距離こそが遠い。
再びビル部隊の弾幕が張られ、カルテル側の防戦を余儀なくされる。単騎でビル陣営の懐に向かったシャハラザードは無事だろうが、如何せん噴煙で視界が悪いので確認のしようがない。
これ以上後退して向こうに勘ぐられないだろうか、とも考えた。馬鹿の一つ覚えのように見え透いた後退を繰り返しているわけではなかったが、この期に至っては相手がいつ【onyx】の思惑に気付くかが鍵だった。
前線にて指揮を執る隊長のディンゴか副隊長のロバートさえいればこの状況をどうにか引っ繰り返す打開策を見出せていたかもしれないが、戦場においてタラレバは無い。南米の不敗神話【onyx】は断じて烏合の衆などではなかったが、やはり円滑な作戦遂行にはトップ二人の力が大きかった。
そして相手の作る弾幕が途切れた隙に、木々の向こうから短い悲鳴が上がった。
シャハラザードが刺客として、相手陣営の弾薬補充の隙を縫って急襲を掛ける。
しかしこれも複数回にわたって行われている作戦で、そろそろ向こう方にも見切られてしまうだろう。極度の集中を必要とし、シャハラザードの体力を確実に削り取る。この陽動の攪乱ももう二度とは使えない。
今のうちに距離を稼がねばならない。【onyx】本隊は此方側に弾丸を撃ち込まれないうちに移動を始めた。
これが最後の悪足掻きだと、戦略的後退が泥臭い敗走だと、向こう側に思われていれば重畳。
【アダムズ・ビル】の狙いは麻薬プランテーションの焼き払いなどではなく、端から【アカプルコ・カルテル】の抱える【特殊高火力殲滅部隊「onyx」】を真っ向から叩くことであった。
カルテルの大きな資金源である麻薬農園を焼き払いに掛けるのはあくまでもオマケに過ぎない。多くのソルジャーを動員させたのも確実に【かの殲滅部隊】を殲滅するためだった。
カルテルを下せば南米を掌握したも同然である。その出自はともかくとして【アカプルコ・カルテル】を南米の主たらしめたのは組織に忠実なキリングマシンの【onyx】に他ならない。
ラテンアメリカの裏社会を牛耳る【アカプルコ・カルテル】を統合吸収する事こそが【アダムズ・ビル】の目的だった。
敵陣営の中で再度銃声が轟くも枝葉に吸収されてしまって、それはまるで鈍い殴打音のように聞こえる。
シャハラザードがどうなったかは依然として分からない。しかし今は彼女の生存を信じるしかなかった
形振り構わず、森の中をひた走る。不格好でも何でも構わない。ホールドオープンを訴えかける武器ですら疲労しきった身体には重たかった。
木々の切れ目がとうとう見えてくる。今まで暗い森の中を駆けずり回っていたせいか、柔らかな丸い木漏れ日でさえ閃光弾のように感じられた。
遮蔽物を抜け、急接近するのは赤く燃える太陽。そして眼前がホワイトアウトする。
『肉を切らせて骨も断たせろ。結局のところ最後まで血が流していた方が勝者だ』
金刺繍をたなびかせ葉巻の紫煙を燻らす絶対君主の声が浩文の脳内に谺した。
そして【onyx】の背を追う軍勢の響めきが、遮蔽物を失ったことにより一層鮮明に抜ける。
そう、遮蔽物は現在無い。敗走を演じて蜂の巣にされるのは御免だった。もっと早く動け、と疲労物質の溜まりきった両足を叱咤する。
彼らは遂に森を抜け、戦いの舞台を移した。
*
二人は遂にばらつく銃声が降る国境の町に立つ。そこは山林と隣接した小さな町だった。
金髪の男が纏う香水と打ち鳴らすヒールの音を絡める空っ風は薫風に変わり、段々とその色を夕へと微睡ませる空へ溶けていった。
トレンチコートを羽織った男は傍に控える白毛の青年を見下ろす。
青年と視線がかち合うことは無い。
元々この町で暮らしていた住民らは逃げてしまったのか、家々に息を潜めているのか、はたまたそのどちらか分からないがこの町は乾いていた。
「なんとか間に合ったな」
突如銃声が山を抜け、一等大きく鮮明に響く。
「ああ」
密林の第一線を抜ける軍の怒号。
抗争は遂にメキシコ市街戦へと移ったようだ。
全てはあの野犬の計算通り。示し合わせたかのようにこの町で鉢合わせたのも彼の狡猾さのためだった。彼の軍隊は聞いた話と数分も違わずにメキシコへ抜けたのだ。
あの酒場での夜、彼は全てを聞いた。何故自身の部下を遠く離れたイタリアの地へ置き去りにしたのか、どのようにして多勢に無勢であるビルの軍勢を下すのか、その勝算、そして作戦の概要。
要は密林戦ではなく市街戦にあったのだ。
「はは、困ったな。前線を退いてもう長いんだ」
独りごちて、トレンチコートの懐を探る。
口ではそう言ってみたが久方振りに握るベレッタのグリップは存外手に馴染んだ。過去と違うのは引き金と肉の境に黒革一枚を隔てるようになったこと。
彼と共に過ごしたこの1年間で使い古した今更を改めて問う。
「Jose, are you OK?(任せたぞ、ホセ)」
自分より遙かに小さな背中に全てを預ける日が来るとは。
リチャードは背中越しに彼を見遣った。
「Sir,yes,sir. My Boss.(うっせえ。バーカ)」
ホセは反して真っ直ぐ前を見つめたままで。しかし返事はそれで十分だった。
「もう鎖は要らないだろう。好きなように食い散らかせ」
言うより早く、リチャードが立つ方向の街角の物陰から武装した男が一人姿を現す。
【onyx】の隊服ではない、ビル陣営の兵だった。兵は閑散とした町に立つ異様な二人の男に一瞬たじろぐも、前に立ち塞がる者を滅さんと銃を構えた。
「やれやれ。躾もされていないのか」
リチャードが瞳を伏せると、金刺繍が如し長い睫毛が瞬く。
しかし一弾指、兵の首から間欠泉のように鮮血が迸った。
空を裂く弾道の余波がリチャードの長い髪を揺らし、次第に硝煙のきつい香りが漂ってくる。ホセはいち早く敵の気配を察知することで半身を翻して、引き金を引いていた。
抜かれた大口径の銃口は猛る獣のように煙を吐き出している。
兵の顎門はホセが構えるデザートイーグルと業火のフルメタルジャケットに食い千切られていた。
まるで鷲が獲物を攫う急襲のようにその命を矢庭に絶つ。
赤い眼光たなびく縞瑪瑙が如き彼の瞳は自らの主に仇なす者を射貫いていた。
『ボス、オレはアンタの銃だ』
ナポリで交わした最後の契約と彼の覚悟が脳裡を過ぎる。
リチャードは黒革に包まれた指でベレッタの安全装置を押し下げた。轟轟音の中にあっても何物とも混ざらない、かちり、と固い音。
暫く振りに戦場で聴く【それ】はやはり錠前を外す音に似ていた。
ⅩⅩⅦ
- Re: What A Traitor!【第1章28話更新】 ( No.30 )
- 日時: 2018/12/17 20:30
- 名前: 日向 ◆N.Jt44gz7I (ID: on4ShBGJ)
- 参照: http://www.kakiko.info/upload_bbs/index.php?mode=image&file=6207.jpg
ⅩⅩⅧ
「──張り合いねえな」
市街戦の最中、疲弊しきった兵など彼らの前には飆に過ぎなかった。
紅の眼光たなびく疾手の狂犬と、艶麗なる彼の王。
現役で戦闘職を張るホセの背後に構えるリチャードは前線を退いて長いと言っても、その射撃は精密そのもので一寸の狂いも見受けられなかった。
誰が言っていたか覚えてなどいないが、銃の扱いでその者の生き様が分かるという。
泥臭く粗暴な者、血を欲し逸る手、命を手にして狂う照準、跳ねっ返りの反動。しかし眼前にあるのはただ自ずから構えて、引き金を引いて、撃つ、その流麗な動作。
やはり彼は何処を取っても美しかった。
主の背を護るホセはリチャードを振り返る。
「アンタは下がってろ」
ホセは大型拳銃のデザートイーグルを腰のホルダーに収めながら、そう低く唸った。
「ん? ——ああ、年は取りたくないものだなあ」
リチャードが大袈裟に肩を竦めてみせると、ホセは軽く舌打ちをして短い眉を顰めた。
「ちげーよバカ」
そしてホセはリチャードの瞳を少し見る。
刹那、ひび割れたような縞が奔る淡い瞳と深いサファイアがかち合って硬い音を立てたような気がした。
「早々に王様が出てきたとあっちゃあ商会の名折れだろ」
そして更に機動力のあるロシア製拳銃であるグラッチに持ち替える。
橙に溶けゆく陽光が銃身を鈍色になぞって妖しく煌めいた。
手の平で弾薬を手際よく詰め直し、安全装置の錠前を外す。
リチャードが構えるベレッタM9の装填数は一般的には15発である。そろそろ撃ち尽くしのホールドオープンに陥る可能性があった。
彼が持つのは護身銃だ。メキシコに来ることもきっとイレギュラーだったに違いない。予備の銃も代えの弾薬も十分でないことはホセにも容易に伺えた。
リチャードはホセの思惑を感じ取ったのか、軽く微笑んで返事を寄越す。
「……有り難くそうさせてもらおうか」
全てを聞き届けるまでもなく、彼の背を預かるホセは浅く頷いて新たな銃を構えた。
敵兵が此方に気付く前に、キングを引っ込めねばと。
ちらと背中越しに目配せをすると彼の金刺繍に縁取られた蒼玉も再度此方を見ていた。
視線の交錯で推し量る互いの思惑。
そして、弾幕の切れ間にアンバーグリスの薫風が躍る。
「さて、と」
ホセはリチャードがトレンチコートを翻して民家の物陰に入るのを見届けると更に町の奥、銃声の中へと突っ込んでいった。
*
深緑の樹海と灰色の町の境界にて、浩文は三日前の作戦会議にてディンゴが部隊に向けて言い放った言葉を思い出す。
『一つだけ方法がある。オレ達【アカプルコ・カルテル】にしか出来ねェ勝ち方が、ナ──』
その言葉は浩文の疲労に焼き切れそうな脳内の神経をせしめて環状に巡った。
(もうすぐ、日が暮れてしまうな)
浩文が西の空を睨むと、斜陽は顔の輪郭に沿って橙に肌を焦がした。
眼鏡のレンズはいつの間にか土煙に燻されてしまって、南米のいやに近い太陽光はプリズム光線になって視界を七色に塗り広げる。
返り血が付着しなかっただけマシか、と全力疾走して少しズレた眼鏡を元の位置へと正した。
現在は民家の煉瓦の塀に身を潜め、呼吸を整えている。
縦に引き延ばされた昏色の影法師が包むように浩文を隠した。
密林突破時に敵方の銃弾を受けて負傷した【onyx】隊員はおそらく誰も居ないはずだ、シャハラザードも無事だと信じたい。
(このままでは……)
浩文は遮蔽物に背を凭れて小銃に弾薬を詰め直す。
今座り込んだらもう一歩も動けなくなってしまいそうだ、一日中密林を駆けずり回った足は既に限界を超えていた。
敵兵の人数は交戦当初よりも大幅に削ることが出来たが、それでもまだ足りない。
【アダムズ・ビル】側の三百の兵団を半分に減らすのは確定条件、削れるなら削りきれるところまで。
それがディンゴの言う作戦遂行の必要絶対条件だった。
しかし現在の戦況はよくて三分の二で、目測に過ぎないがおよそ半数には遠く及ばない。
今姿の見えない隊長か副隊長が前線に立っていれば少しは違った結果になっていただろうか。
今更考えても詮無きことだ。
浩文は密林の瘴気を含んだ息を洗いざらい深く吐いて、そして咳き込んだ。
その時だった。
「来たか……ッ」
浩文は柳眉を顰めて顔を歪ませた。
微かではあるが聞き慣れた轍を作る音が近付く。
銃声が絶えず響く鉄火場の中では耳を澄ませてもおそらく聞こえないほどだ、しかし浩文はそれを察知した。
日陰に生き、血を啜って闇で腹を満たす者が尽く忌み嫌う例の音。
この剣戦上に渦巻く麻薬抗争終結の真相を聞いた時は大層驚いた。
【そういった話】がある事は知っていたし、南米諸国は特に【それら】との結びつきが強いことも心得ていた。
しかし同時にこれほどまでか、とも。
轟音に紛れて、滅多に車の通らないアスファルトに巻き上げられた小石が当たって土砂降りのような音が遠く響いた気がした。
浩文は疲労に痛む身体に鞭打って立ち上がった。
【特殊高火力殲滅部隊「onyx」】の国境戦争はいよいよ最終フェイズへと移行する。
*
這ってでも動けと、もはや疾手など見る影も無く棒になった足を叱咤する。
血を流しすぎて意識は朦朧とするばかりで、すっかり風通しの良くなった腕から生じる生命の発熱も段々と薄れていくのを感じた。血を吸いきって膠のようになったガーゼは捨てて、噛み破いたインナーで傷口を結索している。
筋肉の疲弊と精神の摩耗。
しかし自分一人だけがくたばっているわけになどいかなかった。
泥臭くも多勢に牙を突き立て心臓を動かす部下たち差し置いてオレだけが腹上死で昇天か、ふざけんな、と。
樹木に手をついて肩で息をする。眼下に広がるのは戦禍、そして朋友と形容するにはあまりにも血塗れ過ぎた彼らの姿。
野犬は遂に最終の舞台となる国境の町へとやって来た。
ロバートとの交戦では一発も食らっていないが、やはりそれでも極度の緊張と興奮を経た身体は臨界を突破していた。
森と町を隔てるのは緩い斜面で、そこには軍靴の跡が深く刻まれている。
斜面を降りようと試みるも疲労物質の溜まりきった足に力は入らず、半ば転げ回るようにして下るしかなかった。
「──チッ」
アスファルトに半身を強く打ち付け、疲弊した喉へと胃液がせり上がる。それを胸に拳を押し付け堪えた。
辛くも勝利した一騎打ちの後、這々の体で最後の戦場にやってきたが一体こんな状態の自分に何が出来るのだろうか。きっと抗う暇も無く撃ち殺されるのが関の山だ。
しかし戦争の全てを見届けること、これは長としてのケジメだった。
未だ兵とは遭遇していない。
きっと健闘しているのだろう。彼らの痕跡を追ってきたが此処に来るまで隊員らの遺体を見ることは無かった。
原点は【コード=エンジェル】の為、エンジェルダストを投与されるモルモットのケージに過ぎなかった【特殊高火力殲滅部隊「onyx」】。
まだ清算しきっていない、戦争は終わっていない。
暮れ泥む家々に落ちる影を見て、そして、ディンゴは傷の入った唇を噛んで低く呟いた。
「予定より早いンじゃねェか──クソッタレめ」
まるで彼の声が合図かのように、国境の町を取り巻く音が変わった。
銃声は喧噪に、号砲は警報に。
数多の四輪が起こす地響きは獣の唸り声のようで、四方八方から迫り来る夕闇は赤と青の警戒灯に霧払いされた。
「……頼むゼ」
ディンゴは唇を噛んで足を引き摺って、更に町の中心へと向かう。
二度と南米に手出し出来ぬよう【アダムズ・ビル】の戦力を根刮ぎ削り取るというのが今作戦の要だった。
そしてその鍵となるのが【アカプルコ・カルテル】とメキシコ連邦警察との癒着。
まさにディンゴの言う通りメキシコ政府上層部とブラックマネーで繋がった【アカプルコ・カルテル】にしか到底為し得ない事だった。
警察組織、そして南米政財界との黒く強固なパイプ。
2000年代前後カルテルは麻薬戦争に勝利し、爆発寸前の火薬庫だったメキシコ全土を裏側から統治する必要悪として公的機関に保護された。そして連邦警察はカルテルが作る麻薬密輸ルートを黙認し、麻薬国外輸出をして得たブラックマネーを上納金の一部として受け取る仕組みもその頃に成立した。
ビル側もまさか警察組織が国境戦争に一枚噛んでいるなどとは思いもしなかっただろう。
腐敗と戦略、善との挟撃。
今回の出動も【アダムズ・ビル】盛衰による両者の利害が一致している故の癒着関係によるもので、清濁併せてビルを下す、それが国境戦争の根底にあるメキシコ側の思惑だった。
資金源に打撃を、という題目の下にドラッグプランテーションへ焼き払いを仕掛けるようとしたのはビル側のダミーであり、その真意は南米の掌握。
密林にて度重なる敗走、そして正面衝突を避けたのはカルテル側のデコイ。
最後に何重にも層を成した思惑の上を取ったのはメキシコ連邦警察だった。
『夕刻になったらポリ公が来る手筈になってる。だから日が沈む前には何が何でも絶対に森を抜けろ、コレは絶対ダ。全てが狂っちまうからヨ』
『ヤ、その後が大事なンだ。全てを捨てても構わねェ。豚箱に突ッ込まれたくなけりゃその場から逃げろ』
『お天道サマが沈む頃にゃパトが町を包囲するように伝えてあっからヨ。サイレンは直前まで鳴らねェ、よぉく耳かっぽじっとくンだナ。来た道帰るカ、そのまンま山に飛び込め』
隊員にはその旨を伝えてある。ビルの軍隊を打ち崩すところが此方側の捕り物になるなんて笑い話にもならない。
入り組んだ町の路地にて、相変わらず仲間と敵の誰一人ともすれ違っていなかった。ルートを変更して各自上手いように逃げているのだろうか。
南米の不敗神話【onyx】の事だ、きっともう任せても構わないだろう。
遠鳴りするサイレンが町の入り口に留まり、暗く溶けゆく足下に赤と青の残光が射し込んだ。
そして代わりに乾いた町にて轟くのは一切合切の怒号。
終日命を燃やした戦争の後に這々の体で辿り着いた町にて為す術などもうなく。苛烈極める麻薬戦争にその身を投じているメキシコ連邦警察の前に兵隊らは次々と取り押さえられ、制圧されていった。
やはり見知った顔は無い。
ディンゴが狭い路地にて息を潜めていると、民家と民家の合間からビルの兵が拘束され連行されていくのが見えた。
別段どうという感情も無く、そして目を閉じる。
このまま此処に留まり続ければ見つかるのも時間の問題だ。しかしもう疲弊しきった足は動かないし、逃げようという気力も無かった。
【onyx】は隠密活動や密林での警護が目的の秘匿された部隊である。ディンゴの顔など一介の警察戦闘員には割れていない。
ボロボロの隊服のまま出会せば拘束と長期の留置は免れないだろう。
そして今回の作戦は警察と【onyx】の邂逅を想定していない、完全なる入れ違いを想定して組まれた作戦だった。
少しでも目立ったことをすればメキシコ連邦警察がカルテル幹部を匿った、と国際問題に発展しかねない。
しかしもう全て、全部、どうでも良いことだった。
腫れぼったく重い瞼を開けると、ディンゴは目の前に一層深い色の影が落ちるのを見た。
ああ残り敵兵か、それとも腐れポリ公か、と顔を上げる。
どこぞの馬の骨かも分からない奴に最期を蹂躙されるのは癪だったが、別段死に様に拘りなどない。復讐は果たし、成すべきことは為した。
肉体的な死でも社会的な死でもどちらでも構わないが、最期にその顔だけは拝んでやろうと思った。
仰ぐことすら億劫な首を持ち上げる。
しかし。
「ディンゴ……?」
聞き覚えのある幼い声に息を呑む。
野犬の目は見開かれ、彼の小さな瞳孔は収縮を繰り返した。
そこに立っていたのは。
「──オマ、エ」
イタリアに置いてきた筈のホセだった。
「なンで、ココに来たんだ……」
サイレンの音が五月蠅い。
先程銃声に割って入った青色灯と赤色灯のスクランブルは、これまで均一的な景色しか映さなかった網膜に色濃く焼き付いた。
サイレンの音が五月蠅い。
紫煙に灼けた声はホセの記憶に残った最後のものよりも、か細かった。
アクセルとブレーキの響めきは乾いた町の岩肌に打ち付けられる。
「なンの為に……」
ホセはかつて見たことが無いほど消耗しきってボロボロになったディンゴと対面した。
返り血か出血かその両方か、鋭角な斜陽と相まって彼の体はどす赤くなっていた。
「あ……」
呆然と隊長の名を呼ぶことも出来ないホセに、野犬は暫く硬直する
何故だ、とそればかりが頭を渦巻く。ホセは小さな口を開けて肩で息をして、わけも分からずにディンゴへと手を伸ばした。
黒のリングが嵌められた指がすっと伸びてくる。
しかし次の瞬間、ディンゴは牙を剥いて怒鳴った。
「今は時間がねェ! 全部終わってカラ説明してやる!!」
ホセは火に触れたようにその手を引っ込めた。
「ッ──っで、でも!」
「走れ! 森に逃げろ!」
「やだよ、だって、いま何が起きてんのかも分かんなくて」
「ゴタゴタ抜かすンじゃねえヨこのヒリポジャス! その小せェ味噌オレがぶち抜いちまぞ!!」
「──ッ!」
鬼気迫る表情で凄まれて足が竦む。
厳しい訓練中だってこんな風に吼えられたことなど無かった。その手は虚空を掻く。ホセは下唇を噛んでその場を動けなかった。
どうしたらよいのか何一つ分からなかった。
無鉄砲にイタリアからメキシコに渡って、国境の町に来て。
仲間に会えると思っていたのに、一緒に戦えると思っていたのに、そこで待っていた結末は。
「ねぇ。これからどうすんの」
自分のことかディンゴに向けた言葉かなど混乱を極めた脳味噌では分からなかった。
「みんな何処行っちゃったの」
返事は無い。
「帰ろうよ、アカプルコに」
ホセはディンゴに向けて、再び小さな手を差し出した。
黒のリングがかち合って、小さな金属音を立てる
差し出した手は震えていた。
「オレ、置いて行かれたこと怒ってないよ」
「だからオレのことも怒らないで」
しかし今度ディンゴは一息吐くと諭すような口調で、そして、笑った。
「ホセ。もうナ、オレぁどのみち無理なンだヨ」
耳に馴染みきった声にはっと胸を衝かれる。
そんな顔なんか見たくなかったのに。そんな言葉が聞きたくて此処に来たわけじゃなかったのに。
その意味を突き付けられて、ひび割れた宝石のような瞳から涙が一筋零れる。勾配のきつい斜陽は水っぽい諦観が伝うホセの頬を焼いた。
野犬は再び犬歯で宙を噛む。嗄れた咆哮は躓いて裏返った。
「──Corre!!(行け!!)」
橙に滲む視界に突き刺さるコマンド。
未だ混乱する脳髄でもそれだけは確かだった。
従うしか無かった。嫌だとどれだけ拒んでも彼の命令と運命には敵わない。
ホセはその小さな両手で頬を二回叩いた。
何も守れなかった手で彼の最後の覚悟を叩き込む。全てに間に合わなかった、何もかも無意味だったのか。何が一緒に戦いたいだ、何が帰る場所だ。
『大事な人に一生会えなくなるなんてもういやなんだよ』
ホセは立てないディンゴに背を向けて走り出した。
町の曲がり角に風の溜まりを作って、駆けた。縺れる手足を動かして、塀に当たって何度も痣を作った。
森に逃げろとディンゴは言っていた。ホセは走る。もしかしたらあれが彼からの最後の言葉になるかもしれない。
ホセは夕闇の中無我夢中で走っていたが、途中で何かにぶつかってしまった。華奢なホセはその衝撃に負け、尻餅を付いてしまう。
呆然と見上げるとそれはメキシコ連邦警察の組織彰を胸に点けた警察戦闘員だった。
ホセに手を伸ばし、手首を掴まれてしまい手を思わず息を呑む。反対の手で銃のグリップを握ろうとしても届かない。
そのまま立たされ、連行されると思いきや、警察官はホセから手を離した。
「走ると危ないぞ。君、家は」
大きな交戦の後ということと、この暗がりで腰のホルダーと銃には気付かれなかったのだろう。
ホセは上擦った声で大丈夫ですすぐそこですと早口に言って、再び駆け出した。
背中越しに呼び止める声を聞いたような気もするが、警察官は追ってこなかった。
隊服を着ていなかった小さくて若いホセはきっと村の人間と勘違いされたのだろう。
警察も目もくれない、そんな自分が半端者のように思えて、情けなくて、再び涙が溢れ出た。
今頃仲間はどうしているのか、ディンゴはどうなってしまったのか。
そして町の外れ、森の入り口に立つとホセはそこで座り込む。虚無感と無力感に苛まれもう一歩も動けなかった。
軍靴は押し寄せて、止んで、そして退いて。
車輪の音は全てを巻き込んで遠く去って行った。
ⅩⅩⅧ
- Re: What A Traitor!【第1章29話更新】 ( No.31 )
- 日時: 2018/12/26 01:28
- 名前: 日向 ◆N.Jt44gz7I (ID: on4ShBGJ)
- 参照: http://www.kakiko.info/upload_bbs3/index.php?mode=image&file=1079.jpg
ⅩⅩⅨ
戦禍の後、灰燼の零れる町に硬いヒールの音が響く。
騒乱をもたらした両軍も戦乱を掠め取っていった警察も既にいない。国境の町は静まりかえった町へとその顔つきを穏やかにしていた。
夜でも外さないそのサングラス越しに天を仰ぐ。黄昏を融かして宇宙を希釈した星空はトーニャスのものと負けず劣らず美しかった。
仄かな星明かりに絹糸のような長い金髪が煌めく。最後に振ってから時間の経過したアンバーグリスの香水も幽かではあるが未だ香っている。
かつんかつんと高く、踵の音が弾丸の撃ち込まれた塀とひび割れたアスファルトに染み入って乾いた町を打った。
かつかつ。かつかつ、つ。
そして遂に踵の音は瓦礫の前で止まる。
「──これはこれは」
男が瓦礫の下を覗き込むと、闇の中でもぞもぞと動くものを見つけた。
サングラスをずらして目を凝らすと、それは取り残された【アダムズ・ビル】の残党だった。
顔には切り傷が多いが中東系だとすぐに判断がつく。残党は崩れた煉瓦塀に下半身を挟まれてしまっているようで力無く呻き、隊服には血液が滲みだして布をどす黒く染め上げていた。
こうして薄暗い中でじっとしていたのならば杜撰なメキシコ連邦警察はきっと見過ごしてしまうだろう。
男は残兵を見下ろして微笑んだ。
「僥倖というべきかな」
男の良く通る低い声を耳にして、残党は怯えたように首を擡げた。
そしてグラス越しの慈愛が如き光を湛える蒼玉とかち合う。そののち男の紅を引いたような赤い唇は緩く弧を描いた。
しかし残党は男の双眸に嵌まったものを見据えたまま、目を大きく見開いて息を呑んだ。
「ひ──!?」
「私がポリツィアかカルテル構成員に見えますか?」
金髪の男はおどけるように肩を竦めてみせたが、残党の表情は強張ったままで。
残党は魚のように口をぱくぱくと動かしていたが、やがて喉奥から掠れた声を引き絞った。
「い、生きていたのか……リチャード=ガルコ」
静まりかえった町に一拍、二人の合間に真の静寂が訪れる。
一瞬だけリチャードはその青い虹彩を収縮させた。
動けない残党はもつれる舌で早口に言った。
「おれ、おれは昔パレルモ支部にいたんだ……随分と変わっているがやはり同じだ、あんたの顔、その背格好と青い瞳に金髪。あ、ああ見間違えるはずがない」
彼の瞳はリチャードを見ているが、その焦点は定まらない。深い青が揺れる彼の両の眼を透かして自身の過去を見ていた。
そしてリチャードに向けて震える手を伸ばす。しかし血液の足りない手は虚空を掻いて、彼には届かなかった。
リチャードは尚も笑顔を崩さずに、しかし兵を見下ろす位置で正対している。
演説するかのような大仰な身振り手振りと芝居がかった口調で、赤い唇をなぞった。
「──ふむ、聞き覚えの無い名前ですね。人違いではありませんか。そんな白人ならそこらに溢れ返っていますよ」
金色の長い睫毛を伏せ、星夜に溶けるような青の視線を滑らせる。
押し潰された足から流れ出す血潮と対照的にリチャードを注視する男の瞳は充血して濁っていく。
残党は空気漏れのような深呼吸をして、切れた唇の端から一筋涎を垂らした。
「だ、だ、だが……そんな、嘘だ、だって、リチャード=ガルコは十年前パレルモで拳銃自殺した筈で」
その言葉を皮切りに残党とリチャードの狭間に立ち籠める空気が一変した。
リチャードは煉瓦の基礎を強く蹴り付けて残党の至近距離まで肉薄する。
結った長い髪がするりと肩を滑り落ち、男の鉄錆に冒された嗅覚に官能的な香りを焚き付けた。
慄然として唇を噛む残党を品定めするように更に零距離に迫る。
高い踵で足蹴にされた塀はほろりと砂煙を零した。
「は、は」
そして犬歯を見せつけるように笑う。
「なるほど成る程」
そう呟いて、リチャードは男に向かって黒い革手袋に包まれた手を緩慢に伸ばした。
殴られるか目玉を抉られるかと思った残党は迫る黒に対して必死の形相で首を引く。
しかしリチャードの手は痛みを与えること無く、男の剥き出しの首筋に沿った。
喉仏を経由して顎へと五指を扇情的な手付きで滑らせる。それから慈しむように頬を撫で、そして擽るように耳朶をなぞった。
男は動揺の色を眼球に映していたが、生理反応から緊張していた首は弛緩してふっと落ちようとする。
だがその瞬間、リチャードの手は男の短い髪を強く掴んだ。
「俺はカルテルの犬じゃあないからお前を天使と会わせてやる義理も無いし、今にも出血死しそうな奴にくれてやる弾丸の持ち合わせも生憎ない」
リチャードは艶っぽく低い声に熱い吐息を絡め男の耳に寄せる。
否、血がこびり付いた髪を引き掴んで残党に無理な体勢を強いていた。
「そのリチャードギアだとかリチャードキールだとかいう男はよく知らないんだが、俺は【アダムズ・ビル】という組織に興味があってな。いい機会だ、色々と伺いたい」
頭髪を引っ張られる痛みに男の顔は引き攣る。
リチャードは彼が呻くのを聞くとそこでぱっと手を離した。
男は自重のままに顎をコンクリートに強く打ち付ける。そしてその表情は更に苦悶で歪んだ。
しかし彼は先程と打って変わって優しい声色で、男に語りかけた。
「質問の答え次第ではお前の仲間が気付くところまで送ってやらんこともないぞ」
リチャードの言葉で男の濁った瞳に一縷の光が射した。
もはや絶望的だと思われた生還への道に、思っても見ない希望が転がり込んできたのだ。
下半身はもう使えないかもしれないだろうがそれでもいい。男は狂ったように頷いた。
「いいか? 【面白い答え】を頼む」
そう言うとリチャードは狭い路地の対面、崩れた塀の平らなところに腰を落ち着けた。
星明かりに照らされた瓦礫は仄かに青く反射光を放つ。彼の座すところの煉瓦はまるで玉座のように残党の目に写った。
南国の夜風が彼の長く結った髪を舞い上げて、夜闇に妖しく広がる。
「……ふふ、面白いじゃあないか。パレルモの屍人が遠く離れたこの町を歩くだなんて」
リチャードは男を高くから見下ろす。
頬杖を付いて、柔和な表情を作っているがまるでモルモットでも観察するような目付きだった。
「一つ目の質問だ」
リチャードは幼子に向けて問うように小首を傾げて尋ねる。
「【アダムズ・ビル】の現会長はレイモンド=アダム=ステイツで間違いないか?」
第一の質問は問というよりも確認をとるような軽い口調だった。
これが知りたいことの筈がないだろう、と男は唾を飲み込んでから答える。
「ま、間違いない」
緊張した面持ちで答えた男に、リチャードは喜色を浮かべ頷いた。
「ふむ、まあそれはそうだな。これが答えられないほど参ってるんじゃお前は用無しだ」
「……え」
ただでさえ血の足りない残党の顔が一瞬にして青ざめる。
ぽかんと口を半開きにする滑稽な表情を見て、リチャードは片眉を上げてくすくすと笑った。
「冗談だ、冗談だよ。そんな顔しないでくれ。それともこんなところにまでブギーマンがやって来ると思うかい?」
そうしてフェミニンに片目を瞑って肩を竦める。
厭に芝居がかった仕草と声色、そして創る空気。彼の醸すその全てに呑まれてしまいそうだった。
場をコントロールして制空権を確立し、男の命を握るのもまた彼で。
「二つ目だ」
残党の肩が強張る。
リチャードの唇は蠱惑的に弧を描いた。
「お前の属する隊の規模、隊長の名前、使用武器を教えてくれ」
え、と男は喉奥から乾いた声を漏らした。基本的に戦闘部の情報は機密事項であり、特例が無い限り決して外部に漏らしてはならない禁忌である。
リチャードの質問はいよいよ核心に触れ始めたのだ。
男が口ごもってしまうと、リチャードは金刺繍の縁取りをすっと細めて冷酷な眼差しを向けた。
それは静かなる豹変だった。
仄暗いグラス越しの深い青の瞳はどこまでも凍て付いた極世界を写し、目の前が粉微塵に割れるビジョンを呈す。
「どうした、言えないってことは無いだろう? お前はただ俺のようなミリタリーギークの知識欲を満たしてくれるだけでいいんだ」
冷たい声がずしりと鼓膜に響く。
こればかりは言えない、と男は玉のような汗をかいて下唇を噛んだ。
ここから何とかアメリカに帰ることが出来ても、機密を漏らした事が組織にバレれば比喩でなく自分の首が飛ぶ事は火を見るより明らかだった。
しかし、事実を伝えず虚偽のデータを伝えれば痛くも痒くも無い。
男は自身の閃きに口を開きかけると、リチャードは組んだ足を組み替えながら言った。
「そうそう……言い忘れたが、少しでも嘘を吐いている様子を見せるようなら先程の話は無かったことにさせてもらう。この話に乗らないと言うなら残念だが──」
お見通しだと言わんばかりに青い瞳は男の魂胆を透かす。
そして座っていた煉瓦から立ち上がると、残党は血相を変えて叫んだ。
「──ま、待ってくれ!」
短い咆哮にリチャードは仄かに微笑む。
「た、隊の規模は六隊編成で総数が300超。隊長……隊長といっても他のところのことは分からない。が、前線に立って戦闘部を取り仕切る人間の名前は……ジェイクだ」
「姓は?」
「しらない……そう名乗っているだけで本名かどうかも」
「こんな社会で本名を名乗る奴の方が珍しいさ。ほう。知らん名前だ、成る程カルテルの野犬と同じようなものか」
再び煉瓦塀に腰を落ち着けると、足を組んだ。
「武器の方は」
「おれたちに配られる銃はだいたいが拳銃も小銃もコルト社のもので、しかし番号や年代はバラバラなんだ……」
ふむ、とリチャードは相槌を打った。
そう言われれば国境の町にホセとやって来たとき此方に銃を向けたビル歩兵の構えていた小銃がコルト社製のものだった気もする、と。
暫く考え込む様子を見せたが、リチャードは結った長い髪を梳きながら男に穏やかな視線を送った。
「これは貴重なデータだ。ありがとう、参考になった」
一体何の参考なんだ、と口に出すのももはや恐ろしかった。
そして質問の間隔は短くなる。
「三つ目、資金繰りは今までのように偽札製造が主か? 十年前と異なる事を、出来るだけ教えてもらおうか」
残党は観念したかのように俯いて呻き声で答えた。
「……ヴァージン諸島を経由してマネーロンダリングをしているとは聞いたことがある……が、それも今は監視警備の目が厳しく主立った裏稼業ではない、と思う。だから今回だってメキシコに……な、なぁおれは一介の戦闘員に過ぎない、詳しくは知らないんだよ」
祈るように掠れた声を絞り出す残党を、リチャードは黙って見下ろしていた。
見ると押し潰された下半身からの出血が酷いらしく顔は土気色に変わって奥歯をがちがちと鳴らしている。
男は今にも死にそうな顔で一向に返事を寄越さないリチャードを見上げた。
リチャードは男と目が合うとそこでようやく眉尻を下げた。
「なるほど、でもそんなに怯えないでくれ。ん、出血が酷いな大丈夫か? 次の質問で最後にしよう」
次の質問で最後、という言葉で僅かに男の顔に血色が戻った。
これで命は助かると、メキシコ連邦警察に拘束されることもなく生きて帰ることが出来ると。
一筋だった希望の兆しは大きな光の束となって男の眼前に射した。
「最後、四つ目だ」
しかしリチャードは質問内容を明かすではなく顎に手を当てて、眉を顰めた。
依然として塞がらない傷からの出血は多く、もはや下半身に覚えていた痛みも霞んできた。手遅れになる前に早く、と残党は逸る気持ちに奥歯を鳴らす。
「でもまあこれは余興みたいなものだからあまり気にしなくても良い」
勿体振るリチャードを穴が空くほど見る目は血走って、瞳孔は収縮を繰り返した。
そして飢えた獣の瞳は、唇が【アダムズ・ビル】首領の名を紡ぐのを捉える。
「レイモンド=アダム=ステイツがニューヨーク本社に赴く前、本部に座する幹部の椅子、そのポストが危ういという話があったらしいな。お前は知っているか?」
最後の質問はこれまでの質問とは明らかに違っていた。
今までのは内部情報を此方に答えさせるような問いだったのに対して今回の質問は単なるイエスノー形式だったからだ。
そして答えはノーである。残党は首を振って精一杯に出せる有声音で答えた。
「し、しらない……ぱ、パレルモでもアメリカでもそんな話聞いたこと、ない」
男が言い終わるとリチャードは特に表情を変えることもなく、煉瓦からすっと立ち上がった。
男は動かない身体を震わせて、リチャードに期待の籠もった視線を向けた。
先程の質問に何の意味があったのか残党には知るよしもなかったが、今となってそれはどうでもよいことだ。
リチャードは後ろを振り返って、メキシコの夜空を見上げた。
「そうか、手間を取らせたな」
長い髪が夜風に揺れる。
燦然と輝く星に照らされた彼の淡色の髪はキャンバスのように数多の色に燃える星を映した。
「うん、気が変わった」
「え」
男は間の抜けた声を出して、リチャードを凝視した。
「良い子にしていたらご褒美がもらえるのはどこの国だって同じだろう? 俺の国ではリコリスというものがあってな、キャンディではあるんだがこれがまた不味いんだ」
わけがわからない、といった風に残党はぽかんと口を開ける。
苦しく呼吸をするとひゅと空気が抜けるような音がした。
「だが、喜んでくれると嬉しい」
そう言って懐から取り出したのは飴でもなんでもなく、鉄臭い例の商売道具で。
リチャードは銃を唇に寄せると、煙を払うように息を吹きかける。
そして残党の眼前に鈍く光る銃口を突き付けた。
「え。や、いや。もう、弾ない、って」
残党は脂汗を額に浮かべて、子供のように涙をぼろぼろ零して口角をぎこちなく吊り上げた。
反するリチャードは微笑を浮かべる。
「そんなこと言ったか?」
そしてトレンチコートの懐を見せつけるかのようにゆっくり捲った。
男は目を剥く。
夜よりも濃い闇を秘めたリチャードの懐には、まるで鞘に収まる刃物のように大量の銃弾が鈍く光っていた。
防火繊維を丁寧に縫い付けた裏地には銃や刃物のホルダーも確認出来る。
そして嘲笑うように口角を歪めた。
「仲間の気付くところ、な。まさかそんなこと本気で思っていたとは、嗚呼悪いことしたな」
残党は鼻水を垂れ流しながら声にならない声で吠えた。
他の隊員は皆連邦警察に連行された。仲間の気の付くところなど最初から無かったではないか。
足は瓦礫に潰され移動も出来ない。朝を待てば確実に失血死する。奇跡的に夜を越したとしても、マフィアの抗争に巻き込まれ住み処を蜂の巣にされた町人が自分をどうにかするなどとも到底思えない。こんな辺鄙な国境の町に病院なども無い。
こうなった以上どのみち野垂れ死ぬ運命しかなかったのだ。
リチャードはコートの裾を元に戻し、黒革に包まれた人差し指を唇に押し付けた。
「でも折角だから一ついいことを教えてやろうか」
そして男の耳へと口づけるかのように、低く囁いた。
「ご名答、確かに俺がリチャード=ガルコだ。そう、一度死んだ後に地獄の底から這いつくばって蘇ったのさ」
やはりそうか、と残党は僅かに残った理性ごと底無しの深淵へと引きずり込まれたかのような錯覚に陥る。
彼が腹に抱えて見え隠れしていた憎悪は質問が回を重ねるごとに増していった。
鈍痛が足を挽き潰して、暗闇が腕を掴んで、離さない。時間が経過しても癒えることはなく、膿んで痛み続けるのだ。
そして遂に残党は聞いた。
「【アダムズ・ビル】の首領、レイモンド=アダム=ステイツを殺すためにな」
リチャードが傍から離れると、効かなくなった筈の男の鼻に再び薫風が舞い込んだ。
闇にそよぐのは眩むような香り、記憶を辿っても当時の彼は纏っていなかった筈で。
残党は顔の孔という孔から体液を垂れ流して懇願するようにリチャードを見た。
しかしリチャードは人差し指で赤い唇をなぞって、男の口元に銃口を突き付けた。
最期網膜に焼き付けたのは美しくも心の無い悪魔の姿。
「──さぁバンビーノ。いい子だから舌を出せ」
そして銃声は再び乾いた町を割った。
*
「ああ。こんなところにいたのか」
「探したぞ、ホセ」
「また泣いてるのか?」
「……泣いてねえよ」
「冗談だ、そんな怖い顔をしないでくれ」
「してねえよ」
「うん。全部終わったのさ、そう、全部な」
「ボス。オレ、どうして」
「ホセ、今は休め。焦らなくても直に全て分かる」
「……どういうこと」
リチャードは何も答えず、ただ黒革に包まれた手を差し出した。
「立てるか?」
ホセは差し出された手へ手を伸ばしかけて虚空に彷徨わせたのちに、彼の手を取った。
「帰ろう。トーニャスに」
リチャードはホセの手を優しく握り返すと、救いあげるように彼を立たせた。
ⅩⅩⅨ
- Re: What A Traitor!【第1章30話更新】 ( No.32 )
- 日時: 2019/01/01 00:55
- 名前: 日向 ◆N.Jt44gz7I (ID: dK6sJ/q3)
ⅩⅩⅩ
──一週間後、イタリア=トーニャスにて。
メキシコの麻薬戦争終結を迎えて【トーニャス商会】の面々は誰一人として欠けることなくイタリアに生還した。
浩文とファティマは無事に町から逃げ果せ作戦を完遂したのちにイタリアに帰国し、リチャードもホセを連れて滞りなくナポリ空港に降り立ちそこからトーニャスに帰ってきた。
しかしお互いに勝利を讃え合うでもなく、帰還と再会を喜び合うこともしない。
珍しく全員揃った商会事務所の中にはただただ異様な雰囲気が流れていた。
「ボス、帰ってきてからずっとあの調子ですよ」
浩文は事務所の隅に視線を送って溜息を零す。
「ホセくん、元気ないですね」
ファティマは心配そうに黒衣の袖を口元に遣る。
「いっつもあれぐらいしおらしい方がアタシは御しやすくていいねぇ」
商会医療部のアマンダは一杯のコーヒーに口をつけて【アカプルコ・カルテル】との契約書面に目を通していた。そして陶器のティーカップをソーサーに置く。
保険も効かず病院にカルテを残すわけにもいかない戦闘員らは作戦終了後、必ず彼女の診察を受ける事になっていた。女性に苦手意識を持つホセは毎回のメディカルチェックを風呂嫌いの子犬のように嫌がっていたが、どうやら今回は大人しかったようである。
「……メキシコで何かあったのかな」
商会情報部のシンはパソコンキーボードの力強い押下音とは裏腹におどおどと尋ねた。
彼はイタリア航空を利用したリチャードとホセの両名のパスポートの偽造に関わっていた。使用したデータの削除と実在しない人物が航空機に搭乗したことへの帳尻合わせをする作業があと少し残っているらしい。目立たない業務ではあるもののシンがいるからこそ【トーニャス商会】は裏社会で活動することが出来る。
リチャードはホセに視線を滑らせたあと、少し笑って商会の面々に応えた。
「まあ、直に分かるさ」
ホセは膝を抱えて自分のオフィスチェアに座っていた。
背を丸めたまま小さくなって、足の間に顔を埋める。業務終了後の一週間ほどの休暇が明けてから一言も口を利いていない。
その休暇中にトーニャスの仮住まいに一通の手紙が届いた。
それはホセの本家である【アカプルコ・カルテル】から彼宛に開示された情報で、その中身というと情報とは名ばかりの非常に簡素なものだった。
アメリカの【アダムズ・ビル】との中南米におけるドラッグ類の利権闘争はカルテルの勝利、現在水面下で交渉中。そして【特殊高火力殲滅部隊「onyx」】副隊長のロバートは戦闘の最中にて殉職。
と、たったのこれだけでホセが本当に知りたかったことなど何処にも書いてなかった。
しかしホセにとって何よりもショックが大きかったのは自分を弟のように実の子供のように可愛がってくれていたロバートの戦死だった。
たった一文で親愛なる者の死を突き付けられたのだ。
ほんの短い文章の手紙は力及ばずイタリア送りになった己が本家からも軽視されているのを示しているようで、悔しくて情けなくて何度も手紙を破こうと試みた。
しかしそれは胸に残ったロバートや仲間達と過ごしたなけなしの思い出さえも破り捨ててしまうようで出来なかった。
隊長であるディンゴも警察の拘留下にあるのだろう。
再度全てを失ったホセは胸に大きなぽっかりと大きな穴が空いてしまったようで、帰国後も休暇を経ても無気力に苛まれていた。
(なんでオレが生きてて副隊長が死んで、オレがここにいてディンゴがメキシコに縛り付けられたままなんだろう)
いまさらメキシコに戻る赦しも理由も、生きている意味も無い。
しかし何人もの命の上に生かされていることを知っているホセだからこそ銃口を自身に向けることも刃物をに突き立てることなども出来なかった。
生き地獄だ。
明日の見えないストリートよりも弾丸飛び交う戦場にいるよりもずっと苦しくて、痛い。
ホセはオフィスチェアの上で更に小さくなって表情を悟られないように顔を深く埋めた。
「浩文、今何時だ?」
ホセの耳にリチャードの良く通る声が届く。
「え? あ、えっともうすぐ正午に差し掛かりますが」
浩文の答えにリチャードはそうかとだけ応えて腕を組んだ。
金色の睫毛を伏せてチェアの背凭れに掛かる長い髪を払う。その姿に商会員は皆首を傾げるようだった。
「【約束】だけは守る男なんだがな」
リチャードはそう呟くと淹れたハーブティを一口啜った。
ホセも胸に引っ掛かるところがあったようで顔を上げる。彼の顔にはいつもより青白い顔色と殴打痕のような濃い隈が目立った。
リチャードは鼻に抜ける茶葉の香りを愉しむとデスクにカップを置く。
ふと、外の風が凪いだ気がした。
商会事務所は完全防音な筈だったが、確かにいま外が動いた気がしたのだ。
ホセはふと木製の扉に目を遣る。いつしか蹴っ飛ばした古めかしい木目の扉。もうあの日の足跡なんて残ってない筈だが、どうしても扉の腹から目が離せなかった。
怒りに任せて外に飛び出したことなんて随分前のことのように思える。
あの日、結局ディンゴが何を思って自分をイタリアに残したのかは分からず仕舞いだった。そして彼の居ない今となってはもうどうしたらいいのかも分からない。
「ああ、良かった」
リチャードがそう零すのと同時に、蝶番が軋むのを見た。
もう商会には全員揃っていて、門を叩く者も扉を開ける者などいないのに。
そして、そこに姿を現したのは。
「よォ! シけたツラしてンなァ、ぺぺちゃん!」
「──な」
ホセは目を見開いた。
「なんで…………?」
漆黒の巻き毛、左頬に残る大きな裂創、癖のある話し方。
ディンゴ、正にその人だった。
「ククク、メキシコのポリ公なンざちぃとばかし札束で頬を張りゃこの通りヨ」
ディンゴはおどけるように両手を挙げると肩を竦めてみせる。
知っていたのかとホセはオフィスを見回すと、商会員は皆呆けた顔をしていた。実際にディンゴと会っていないアマンダとシンはともかくとして、浩文もファティマも皆知らなかったのだ。
しかし、ただ一人を除いては。
ディンゴはジャケットを脱いで肩に掛けると、奥に座るリチャードに目配せをした。
「ナぁ? リッキー」
リチャードは再びカップに口を付けると、端的に応えた。
「そうだな」
ホセは暫くぽかんと口を開けてリチャードとディンゴを交互に見ていたが、椅子から勢いよく立ち上がった。
「──は、ハァ!?」
ホセはショートブーツの踵を鳴らしながらディンゴに詰め寄った。
しかしディンゴとの埋まらない身長差に犬歯を噛み締めて思い切り背伸びをする。そんなホセにディンゴは片眉を吊り上げてにやりと笑った。
「オマエが勝手にヤンチャすっとポリ公との連携が上手くいかねェと思って置いてったンだヨ」
「……へ?」
あれほどまでに切望していた解答は何とも呆気ないものだった。
「な、なんだよそれ、話してくれりゃあオレだって……」
目の端に涙を溜めて言葉に詰まった。今にも溢れそうな涙はホセのひびの入った淡い瞳を満たす。
ディンゴに言いたかったことは何一つ言葉にはならなかった。
ディンゴはばつの悪そうな顔で左頬を掻くと、子犬の頭を撫でるようにわしゃわしゃと髪の間に無骨な指を差し入れた。
「ほらナ? 絶対付いてくるってうるせえだろ、だーかーら無理だったンだっての」
傷の入った指で髪が乱れるのも構わずに、ホセは乱雑に涙を拭った。
あの日はすぐに彼の手を振り払ってヘアピンを差し直したがそれはしない、ただ彼の深い傷跡が自分の髪を引っ張るのに任せていた。
ディンゴは暫くホセの地毛が覗く旋毛を見ていたが、視線を横に滑らせるとリチャードに視線を送った。
「──まさか本当に来るたァ想定外だったがナ」
紫煙に灼けた笑声混じりが静まりかえったオフィスに響く。
しかしその言葉の欠片はどこか鋭利で、微少な猜疑と微かな怒気を含んでいた。
それに気付く者はいただろうか。リチャードは何も言わずにディンゴの光の射さない三白眼をひたと見据えていた。
刹那、深い青を湛える蒼玉と光を拒む黒瑪瑙が火花を散らす。
だがディンゴは次の瞬間にはリチャードから視線を外し、声高に笑った。
「お陰様で今回カルテルは大勝利ッてナ、こいつァジーザスに感謝しねェとダ」
ホセは何も言わなかった。
自分がいなくてもカルテルが勝てたのなら万々歳だ。でも一つだけ、本当に一つだけホセには彼に訊ねなければならない事があった。
拭っても拭っても満たす涙はたった一筋、頬を伝う。
「じゃあ、じゃあさ……どうして副隊長は、どうしてあの人だけなの、死んじゃったの」
見上げる縞瑪瑙と受け止める黒瑪瑙はそっとかち合う。
ディンゴは眉間に皺を寄せ、傷の入った唇を噛んだ。まるで痛みを堪えるような表情で。
それはいつも飄々として何を考えているか一つも分からないディンゴが、ホセに見せた初めての顔だった
「……ホセ、全部終わったンだ。全部、ナ」
「ぜんぶ……?」
突き放すでなく苦々しく端的に。
それ以上先を追及することなど、到底出来なかった。
ディンゴは黙ってもう一度だけホセの頭に手を置くと、近くのソファに我が物が如くどっかりと腰を落ち着けた。
そして大きく息を吐く。
「【約束】の一年が経っただろ? 迎えに来たンだヨ。ま、少し遅れちまったがナ」
「え?」
そして彼の口から聞いたのは思ってもみない一言だった。
「あ……」
そうか、最初からそういう約束だったんだ。
訳も分からず異国の地、それも辺鄙な片田舎に飛ばされて。
一年前の作戦終了後、取って付けたように後から知らされたのは裏社会のルールを学んでこいというお題目。
ディンゴに言われるがまま、彼の旧友が経営しているというイタリアのトーニャスへとやって来たのだ。
「ええと……」
ホセは視線を彷徨わせる。
浩文は瞬きをしてホセをじっと見ていた。ファティマは忙しなくホセとディンゴを交互に見ている。アマンダは表情を変えることなくコーヒーに啜って、シンは打鍵の手を止めてデスクトップの隙間から覗うように見守っていた。
心の準備が出来なかったせいでしばらく何も言えないでいると、オフィスの最奥から良く通るバリトンボイスがホセに声を掛けた。
「君が決めるんだ」
「自分の手で、自分の生き方を」
リチャードの言葉はホセの背中を押すように言葉を導いた。
「っ……え、あ、じゃあ」
ホセはディンゴを見上げ、ぎこちなく口角を上げて答えようとする。
その瞬間様々な光景がフラッシュバックした。
第一波はカルテル・ビル間の戦争が始まる少し前、イタリア残留を宣告された時のことで。
『オレは商会の人間なんかじゃねえ!! 【アカプルコ・カルテル】のファミリアだッ!!』
そうだあれだけメキシコに帰りたかったんだ、何をいまさら言葉に詰まる必要があるのか。
こんな土臭い田舎すぐに荷物をまとめてアカプルコに帰って、それから、それから。
『──ホセ、見えるか? 少し遠くに、うん、あの白い建物だ。あれがナポリの守護聖人サン=ジェンナーロを奉っているナポリ大聖堂。そしてここからじゃ見えないが……』
突如として彼の声が脳内に響いた。
土臭い田舎町のビジョンはナポリの潮風にあっという間に攫われてしまう。
「でもアカプルコも世界有数の保養地だろう? あの陽光射し込む白浜、輝く紺碧の海を一度この目で見てみたいんだ」
ナポリの空を透かすようなアカプルコの海を映すような、彼の青い瞳はいつでも少しの嘲りもなく真っ直ぐホセを見つめていた。
でも邪魔なんだよ。
帰りたいはずなのに。メキシコに帰りたくて堪らなかったはずなのに。
『何も問題無い。ホセ、俺を信じろ』
どうして。
『誕生日おめでとう、ホセ』
どうして今。
『大切な家族なんだな』
走馬灯のように駆けてくるのは商会の一員となってからの思い出ばかりで。
そして最後に現れたのは太陽を迎えて焼ける空気の中、過去を全て話し終えた朝だった。
『オレ、ずっと商会の奴らと違う人間だって思ってた。こんなクソみたいな世界どこにも居場所なんて無いんだって、思ってた』
『でもあいつらもオレも同じなんだって分かったから』
紛れもない自分の言葉に胸を衝かれる。それはどんな弾丸よりも自身の心臓に食い込んだ。
息を呑んで再びオフィスを見回す。
浩文、ファティマ、アマンダ、シン、そして最後にリチャードと目が合う。
彼の深く青い瞳には肯定も否定の色も存在せずに、ただホセを見守るのみだった。
「え、えと、じゃ──」
ホセは何か言いかけたあと、それを飲み込んで俯く。
「──じゃあ、もう少しここに……いよう、かな」
尻すぼみになって消えかけになる言葉の尻尾。
しかしはっきりとホセは自分の言葉で、自分の意思で、イタリアに残ると言った。
がたん、とリチャードが座っていた方から椅子の音がする。
「ホ、ホセ──!」
リチャードは洟をすすりながら、筋肉に覆われた太い腕と厚い胸でホセを抱きすくめようとした。
ホセはリチャードをぽかぽか殴りつけて牙を剥く。
「だああ暑苦しい! 離れろバーカ! このマリコン野郎!!」
そんな二人の様子を見て、ディンゴは頬杖をついた。
そしてからかうように口角を上げる。
「素直じゃないねェ」
「あぁ!?」
「ククク、怖い怖い」
ホセは迫り来るリチャードの逞しい腕を防ぎながらディンゴに唾を飛ばした。
しかしディンゴはそんなホセの様子に小首を傾げて深く息を吐く。
「ま、好きにしナ。いつでも戻ってきてくれて構わねェからヨ」
その姿はまるで安堵しているかのようで、また全て最初から分かっていたような様子だった。
「ホセ、オマエの帰る場所は東西どっち向こうが変わらずそこにあンだから」
ⅩⅩⅩ
- Re: What A Traitor!【第1章完結】 ( No.33 )
- 日時: 2019/01/16 10:05
- 名前: 日向 ◆N.Jt44gz7I (ID: XnbZDj7O)
- 参照: http://www.kakiko.info/upload_bbs3/index.php?mode=image&file=1083.jpg
The finale
──【BAR:F】にて。
セピアの間接照明に暴かれて二人分の影が落ちる。
星の枕元で眠る町には似つかわない宵っ張りな酒場。今日も積もる話のある二人はここを貸し切っていた。
パルタガスの甘い燻香が煌びやかな酒精に寄り添う。しかしそこに混じるは異質なコーヒーフレーバーの紫煙。いつもとは違う匂いがこの酒場から、この町から妖しく香る。
バーマスターのエフことエフスティグネイ=アハトワは微笑を浮かべてブランデーグラスを磨いていた。
二人はカウンターに腰掛けて視線を合わすことなく酒瓶の類いが並ぶ棚を見ている。
「よく一週間で出てこられたものだな。【大変】じゃなかったか?」
最初に切り出したのはリチャードだった。
彼はシチリア原産の葡萄酒に口を付け果実の香りを聴く。グラスを少し傾けると、照明は濃い赤を透かす。彼の故郷を思わせる漣模様が浮かび上がらせ見目にも美しい。そして最後に円やかな喉越しを愉しんだ。
リチャードは此処に来ると毎度のように望郷の銘酒を嗜む。
一連の動作を終えてグラスから口を離すと彼の赤い唇にはクラシックな紅が差していた。
「アー? 結構上には無理言ったけどナ」
ディンゴはそう吐き捨てるとテキーラのショットグラスを一気に傾けて喉を鳴らした。
彼は一週間、アカプルコの拘置所にいた。
連邦警察は本部組織と癒着関係にあるカルテルの幹部の処遇を早々には決めようとはしなかったがそれでもうやはり一悶着あったらしい。
彼はいつも度数のきつい酒をソフトドリンクのように流し込んで、顔色一つ変えない。
透明な滴が上下する首筋を伝うと、割れてしまうのではないかというほど乱雑にグラスを置く。そして傷の入った指でライムを摘まみ上げるとそれに齧りついた。
「そうか」
リチャードは端的に返事をして灰皿に置いていた葉巻のパルタガスを取って咥える。そしてゆっくりと紫煙を吸い込んだ。
蜜色の照明は時間の流れをとろつかせてこのまま夜を留め置くのではないかという錯覚をもたらす。
闇色の帳が落ちて眠りこけた小さな町で、二人だけが目を覚ましていた。
「で、オメエさんはどうだったンだ?」
ディンゴは果肉が潰れたライムを皿に置いて傷跡の残る手で乱雑に拭った。
彼の身体からは先の戦禍の跡が見て取れる。カッターシャツの下では縫われた裂創や埋められた銃創にガーゼが当てられているのだろう。不自然に布が押し上げられていた。
そしてパルタガスを灰皿に置く。リチャードは葉巻の煙を吐き出すと控えめではあるが嬉々とした声色で応えた。
「上々だ。【アダムズ・ビル】構成員と話も出来たしな」
何が【話も出来た】だ、とそう思わずにはいられなかった。
狡猾なこの男の事である。額面通りの言葉だとそのまま受け取ってはならない。
しかしそれ以上に気になること、今此処でリチャードと対峙せねばならない理由がディンゴにはあった。
「……リッキー。一つ、聞こうかねェ」
「うん?」
リチャードは瞳を伏せて応える瞬間、ちらとバーカウンターを伺ったがそこにエフは居なかった。
またもやワインセラーの手入れか、それとも酒の仕入れ状況を確認しにバックヤードへ行ったのか。
それは分からないがロシアンマフィアの狙撃手を担っていた彼もまた勘が良い。とある種の萌芽を感じ取って席を外したのであろうことは想像に難くなかった。
「──うん? じゃねェヨ」
ディンゴはスーツの胸ポケットに押し込めていたソフトケースから煙草を一本取り出した。
「あの晩ココでテメエには全て伝えた筈ダ。作戦の概要もその終結のシナリオまで。まるごとケツまで全部、お釣りが来るほどナ」
そして吸い口を鋭い犬歯で噛み潰す。
「だがテメエはソレを曲げて国境にやって来た」
自棄のように肺いっぱいに吸い込むと先端に赤熱が灯った。そして歯形の付いた吸い口を唇から離して珈琲の煙を吐く。
「オレの言う意味が分かるかいクソッタレ」
ディンゴは紫煙に灼けた声で噛み付いた。
もはや憎悪を隠さない唸り声と光を拒む三白眼。
リチャードはワイングラスを揺らしてみせると、紅蓮に透かされ濃紺に変わった瞳でディンゴの双眸を見つめた。
「……はて、どうだろうか」
ディンゴはバーカウンターを強く叩き、はぐらかすようなリチャードの返答に牙を剥いた。
「テメエはこの世界で築いてきた信頼を根っこから瓦解させるような真似をしたンだっつってンだヨ……リッキー、テメエのヤッた事は契約違反に他ならねェ」
そしてリチャードの胸ぐらを掴んで乱暴に引き寄せた。
髪に振った香水が薫風を生み、漆黒の巻き毛に高く結った白金の絹糸が交じ入る。
威嚇するように眼前で牙を噛み締めたがリチャードは表情一つ変えずにディンゴを見据えた。
「コレでも分からねェか。──テメエの【ソレ】はナ、ただの自慰行為ダって言ってンだヨ」
瞬時、黒瑪瑙と蒼玉が衝突した。
一触即発。
黒い憎悪を宿して迫る三白眼を濃紺が絶対零度を以て射貫く。
ディンゴは今にも噛み付きそうなほどに肉薄して一重瞼を見開いた。
「今回の事が外に漏れたとしたら? オレが外部にヒり出さねェとも限らねェだろ? ソイツはお友達割引のつもりかヨ、全くもって笑えねェナ」
「契約違反? 厭だな、契約は弊商会の戦闘員を米墨国境に送ってカルテル指揮下に置くのを許容するという内容だ」
「ア? 吹くじゃねェカ。オレぁ鼬ゴッコで遊ぶ気はねェぞ」
「ホセをイタリアに留めておくというのはお前との口約束であって書面に記された事項ではない。ああ、今あるぞ。見るかい? これが契約書だ」
リチャードはディンゴの手をはたき落とすようにして払いのけ、鞄の中から契約書らしき紙を取り出そうとした。しかしそれはディンゴに奪い取られてしまう。
そして書面には一切目を通すことなくリチャードの蒼玉を見据えたまま、契約書を両手で引き破いた。
びりびりと物体が意味を失いゆく音がこだまする。
両者を縛る拘束具は白い塵になってひらひらと床に舞い落ちた。リチャードは呆気なく散り散りになってしまった紙片を無感動に目で追った。
「オイオイ抜かすなヨ、色男。一歩間違えてりゃ全てが狂ってたンだ」
そしてディンゴはリチャードの視線の先にあるそれを革靴の踵で磨り潰すかのように足蹴にする。
「大団円で有耶無耶にされるとでも思ったカ? 甘いンだヨ」
野犬は犬歯と敵意を剥き出しにして頭突きをかますような勢いでリチャードに迫った。
「何も知らないホセがポリ公の一斉捕り物に掛からなかったのもナ。正午ホセに言ったコトも何から何まで全部方便じゃねェ。番狂わせの異物混入で連携が取れなかったら、過去にねェ数の敵を相手にして疲弊しきった【onyx】が負ける可能性もあったンだ」
そして低く言い放つ。
「テメエがヤッたのはトレイターの其れだ」
リチャードは彼の言葉を瞳を伏せ黙って聞いていたが、ディンゴがそれを言い放つと同時にゆっくりと瞼を押し上げた。
固く引き結ばれた金刺繍が解けて、薄闇に浮かぶ蒼玉を縁取る。彼は一瞬薄笑いを浮かべたような気がした。
そして疾うにヘッド部分が灰に帰ってしまったパルタガスを取って、咥える。
火種はまだ燻っていた。
「自慰行為、ね。随分な言い草じゃないか」
口内で香煙を転がした後、細く長く吐き出す。
燻ったのちに紫煙は空間に広がった。拡散した甘いパルタガスの香りが四方八方からディンゴに這い寄る。
「親である組織の命運と己の復讐を天秤にかけるだなんてお前も余程狂っている」
葉巻の頭部分に積もっていた灰が崩れて、零れる。
リチャードは長い指で灰皿を引き寄せると、辺りに散らないように灰を落とした。
「ア゛……?」
リチャードは眉間に皺を寄せるディンゴを横目に、少し短くなったパルタガスを吸い上げる。
そして葉巻を灰皿に置くと頬杖をついて艶っぽく笑ってみせた。
「そして天秤が傾いたのは復讐を乗せた皿だ。国境戦争を利用したのはお前だって同じだろう?」
リチャードの黒い革手袋は照明にてらてらと妖しく光った。
顔と声では笑っているがその合間に見え隠れする刃物が如き鋭利さは隠せない。
蛇が蜷局を巻くように手を組んで、光る瞳を差し向ける。
「俺たちだってなにもお互いの全てを知っているわけじゃない。戻らない過去も、これから何を為すべきかも」
手を組んだその姿はまるで敬虔な信徒のようだった。濁った真実ばかりを直視し続けた筈の澄んだ青は真っ直ぐ前だけを見つめている。
高く結った長い髪はヴェールのように広がって彼の横顔を隠した。
しかし次の瞬間金色の薄膜の狭間から、口角が歪められるのが見えた。
「しかし己の復讐がそんなに安い物ではない事だけは知っている」
リチャードは片眉を吊り上げて、左手を差し出した。
そして挑発するような声色で低く告げる。
「上等じゃないか、道徳の時間はハイスクールでお仕舞いさ。俺たちは倫理に背いても血を以てしてでも自らの利潤を追求する、一体それの何処がおかしいっていうんだ」
ディンゴは二の句が継げなかった。
この男は己の野望の為に、南米の支配者【アカプルコ・カルテル】を貶めることすら厭わなかったのだ。自身の為すべき事が最優先で、結局とどのつまりカルテルとビルの勝ち負けさえもどうでも良かったのだ。
それは【トーニャス商会】が取る公正中立などという範疇を越えている。
【特殊高火力殲滅部隊「onyx」】が敗北を喫するということはディンゴの首が飛ぶことさえも意味していた。決して比喩表現ではない、粛正の弾丸に顎門を食い千切られる顛末だって有り得た。
リチャード自身の部下のことを考えたとしてもそれは例外ではない。カルテル陣営が負ければメキシコにて散る可能性だってあった。
この男はそれも考えていたのだろうか。
そんなものジリ貧に陥った超弩級の大馬鹿野郎しか打たない博打ではないか。
「──リッキーよォ、テメエは一体全体何を考えてやがンだ……?」
刃毀れしそうなほどに奥歯を噛み締めて問うと、リチャードは長い睫毛を伏せて静かに笑った。
「至ってシンプルな事さ。時は満ちた、ただそれだけだ」
時は満ちた、その一言でディンゴはこの男と自分の中に決定的な違いを見出した。
リチャード=ガルコという男がイカサマ抜きの勝ち筋の見えない賭けなどするはずが無い。ディンゴの脳内でフラッシュバックするのは九年前の出会いと一週間前の同じこの酒場での夜。
『ククク……リッキー、まさかあーンな安い挑発に乗ってくれるとはナァ?』
乗せられたのはむしろ自分だったとしたら。
がむしゃらな行き当たりばったりの博打でも何でも無い、あくまでも全てが計算尽くだったとしたら。
持ちうる全てのピースを組み上げて作った舞台にて彼がリスクを冒す必要は何処にも無かったのだ。
彼はビルの兵を過小評価することもなく【onyx】を過大評価することもなく打ち出した解答にただ伸るか反るかで勝負に出たに過ぎない。
リチャードがカルテルは勝つと判断し、呼吸をするように自らがとるべき行動を選んだに過ぎないのだ。
全ては彼の緻密な計算のもとにて動く駒、傍若無人なキングなどいない、彼こそが盤上の外のプレイヤーだったとしたら。
「契約違反まで犯してメキシコに渡ったのも」
「商会主戦力になり得るホセがココに留まるような選択に導いたのも」
「不自然なくビルと接触して情報を得たのも」
そして固唾をアルコールで乾いた喉に押し込む。
「端ッから全部全部、全部、ぜぇえンぶ、オレがヤマ持ってきた時カラ筋道立てたテメエの掌の上だったとでも言いてェのカ?」
「────お前は、どう思う?」
やはり返答ははぐらかされるだけだった。
この男と自分は根本的に違う。そして敵わないとも思い知らされた。
しかしどれだけ塊を綺麗に彫刻したとしてもカルテルを敵に回すなどやはり馬鹿げている。が、だからこそ面白い。
何故だか急に阿呆らしくなって笑いが込み上げてきた。リチャードも愉快そうに肩を震わせる。
「……ククク」
「……ふふふ」
「カハハッ!」
張り詰めていた空気に笑声が充ち満ちて、響く。
ディンゴは傷が重なった右手で顔を覆うと、身体をくの字に折ってくつくつと笑った。
そして顔を上げると左手をひらひらと振って見せた。
「アァ、テメエは本当に喰えねェ野郎だナ?」
リチャードは黒革で葡萄酒に染められた唇をなぞると後れ毛を耳に掛けて、ディンゴを流し見た。戯れに艶めいた声で熱い吐息を絡ませる。
「取って食うつもりだったか? 意外と見境無いんだな」
ディンゴは片眉を吊り上げておどけるように肩を竦める。
「ハ、まさか。即刻チェンジで頼むゼ」
左頬を引き攣らせるようにして笑うと、丁度エフが店の奥から戻ってきたようだった。
ただならぬ雰囲気を感じ取り店奥に引っ込んで、笑い声が聞こえてきたから機会を見計らって出てきたといった具合だろう。
エフは何事も無かったかのように潰れたライムと空いたショットグラスを回収すると、流麗な動作で新たなテキーラをディンゴに提供した。
そしてリチャードに微笑む。
「ボス、ビットリアをお出ししましょうか」
リチャードはシチリアの海風を運ぶ葡萄酒【チェラスオーロ・ディ・ビットリア】を好み、今日もそれを嗜んでいた。
エフの言葉でグラスを見る。今しがたの攻防でワイングラスは空になっていたらしい、それには気付かなかった。
ああ頼む、と言いかけて喉奥で言葉を呑む。
もうワインの気分ではなかった。たまには感傷にでも浸ろうか、なんて。
首を横に振ると黒い革手袋に包まれた己の左手を見つめながら静かに言った。
「いや……今日は【アンバードリーム】を頂こうか」
リチャードは左手で肩に掛かる長い髪を梳く。
彼の絹糸が如し金髪は蜜を溶かし込んだような照明に当てられ、琥珀色に艶めいた。
*
空なんて嫌いだった。
記憶にある空はいつ見たって灰色で暗い。
たまに見上げれば雲は泣きだしてその滴は薄汚れた頬を打った。
湿った瘴気に内なる肉を晒す傷はいつまでも膿んで治らない。
「自分の手で」
煉瓦路地の真ん中を一人で歩く。
初めはその赤と橙の並びに度肝を抜かれたが、一年も経てばもう見知った通りだ。
山間にあるこの町も滅多に青空は姿を現さない。分厚い雲は木々に引き留められて山のあいだに長らくその身を置くのだ。
しかし今日は雲一つ無く晴れ渡っている。久方ぶりに見る宇宙を薄めた真っ青はとても綺麗だった。
「自分の生き方を」
自分の生き方を選べるようになるまで随分かかってしまった。
多くの後悔を経て今自分はこの煉瓦道の上に立っている。もう話せない人だってたくさんいる。会いたくても会えない人もいっぱいいる。
しかし亡者の手に雁字搦めに捉えられ歩けなくなりそうだった自分を救ってくれた人がいる事もまた事実だった。
ふと、アカプルコの空が見たい、と思った。
いつだって重たく這い回っていた雲の向こうにだってきっとこんな青と光が広がっていたのだろう。
否、この世は地獄しかないと諦めて見ようとしてこなかったのは自分の方だったのかもしれない。
そして故郷と今立つ路地を繋ぐ空に向かって精一杯手を伸ばす。
「自分の帰る場所を」
ホセは燦々と笑いかける太陽をその手に掴んだ。
第一章麻薬編〜Dopes on sword line〜
(Dopes on sword line=剣線上の愚か者)
Fine.