複雑・ファジー小説

Re: What A Traitor!【第2章1話更新】 ( No.35 )
日時: 2019/02/09 12:51
名前: 日向 ◆N.Jt44gz7I (ID: on4ShBGJ)
参照: http://www.kakiko.info/upload_bbs/index.php?mode=image&file=6228.jpg



──日本、広島。

 刻は夜半の月が留紺の空に昇りきった頃。
 男一人、渡り廊下の欄干に肘を預けて酒を飲んでいた。
 臙脂色の羽織を着流し、肌蹴た襦袢の肩口からは水流をあしらった化粧彫りの見切りが覗いている。御猪口の中には小さな夜空が収まり、池の錦鯉は尾ひれの赤を靡かせて水と夜のあいだを泳いでいた。山からの風が吹き抜け、丁寧に手入れされた萩の植え込みの輪郭を撫でる。
 流れるような髪は夜の仄灯りを受けて艶めいている。
 そして涼やかながら香る声が一輪。
 夜風に当てられた酒漬けの月は酩酊したように揺らいでいた。

「それなら明後日には迎えをよこそう。空港でええかい?」

 男はくすりと笑って受話器の向こうの相手をたしなめた。

「冗談言いなさんな、真珠の首輪を着けたシャム猫をリムジンバスに詰めるわけにはいかんよ」

 しばらく男は笑みを浮かべて電話口の相手に受け答えしていたが、次第に柳眉を顰めるようになった。
 刃物のきっさきを思わせる切れ長の瞳がさらに細まる。 

「あのねぇ御前様は目立つんじゃ。長い金髪に瞳の青い大男だなんて、厭でも人目についちまう。此処は広島だよ、そこんとこよおく覚えといてくれな」

 一時会話が止んでしまうと、そこで和服の男は母屋の方から何者かが接近する気配を察知した。
 庭の花鳥風月から母屋に繋がる引き戸に視線を滑らせる。
 いまこの会話を誰かに聞かれたら些か困ったことになる。特に【保守派】の人間に捕捉されたのならば厄介だ。
 なるたけ早く会話を切り上げるべく男は息を吐く。
 しかしそれでも電話向こうの相手は引き下がらないらしく、男はにわかに語気を強めた。

「ええかい? 御前様が着き次第、車を寄越すから大人しくそれに乗って屋敷に来てくれ」

 そう言い切ると男は一方的に電話を切った。
 何やら最後まで抗議していたようだが別段構うこともあるまい、と池の鯉に目を遣る。
 そして端末を懐に隠してしまうと月の入った杯に再度口をつけた。心穏やかに香り高い酒精を聞き、闇に咲く花を心で見る。
 男は渡り廊下の軋みで今しがた感じた気配が近付くのを知った。
 そして木製の足音は彼の隣で止んだ。

「ここにおられたんですかい、萩之丞様」

 馴染み深い声に名を呼ばれた和服の男、すなわち萩之丞は顔を上げた。
 夜半の月明かりに相手の輪郭は仄暗く縁取られる。

「うん? なんじゃ用かい、悪かったのう佐輔」
 
 彼の視線の先には見慣れた顔があった。
 佐輔と呼ばれた男は首を横に振って、萩之丞に一歩だけ歩み寄る。

「いえ、どこにもお姿が見られんかったもんで。若様、真冬なンにこがぁなとこにおられるとお風邪を召されますよ」

 その言葉で一挙として自らが立つ瀬を自覚させられる。
 此処は白蛇会直系新屋組本家の屋敷で、彼はこの組を預かる頭首代行だった。
 日本広島を拠点とし西日本を裏で牛耳る新屋組の若頭、新屋萩之丞。彼がその人だった。
 濡れた黒漆のような深い呂色ろいろの瞳を柔く細めて差し向ける。

「ん、今日はまだ暖かいじゃろう?」
「そんなん言うてももう夜でしょうに」

 萩之丞と佐輔は乳母子めのとごの関係にあった。
 母親を早くに亡くした萩之丞を実母に代わって育てたのは佐輔の母親であり、同年に生まれた彼らは肉親よりも強い結びつきを以て共に生きてきた。
 物心が付く前には既に萩之丞の母は他界しており、新屋組の組長を務める実父との関係は希薄で口を利いたことも数えるほどしか無い。
 義理人情と欺瞞の狭間に生きる極道組織の中では佐輔と彼の母だけが萩之丞の家族であり、唯一の味方だった。
 佐輔は心を許せる唯一の友である、筈だったのだ。
 彼は片膝をつくと恭しく萩之丞に尋ねた。

「若様、お背中の具合は」
「一週間前に白を入れ直したばかりじゃ。まだちぃと痛むよ、情けないことにのう」

 萩之丞は臙脂染めの羽織を掛け直すと呂色の瞳を伏せた。
 新屋の跡目には自らの名に咲く花と白い大蛇が背中に彫り込まれている。
 しかし白の顔料は皮膚に馴染みやすく発色が損なわれてしまう為に、定期的且つ半永久的に色を入れ直さねばならなかった。
 広範囲にわたる大蛇を己の身に宿すにはそれ相応の負担と苦痛が伴う。白蛇と新屋の家を継ぐ者としての一種の覚悟と矜持がその慣習には現れていた。
 もう一度風が渡り廊下に吹き込むと、萩之丞は伏せた瞳を押し上げて表情の明度を上げた。

「そうじゃ佐輔。明後日友人が来るけえ、駅まで迎えに行っちゃあくれんじゃろうか」

 萩之丞がそう言うと佐輔は目を丸くしておうむ返しに尋ねた。

「──友人、ですかい」

 彼は首肯すると、御猪口を傾けて喉を鳴らした。
 酒に映り込んだ月は彼の唇に触れると波紋を受けて掻き消える。
 左手で唇を拭うと白の袖口からカイナ袖九分の刺青が覗いた。白蛇の鱗と悠然とたゆたう水は胸元から手首に至るまでその身に刻まれている。
 そして萩之丞は遙か遠くにぼんやり浮かぶ半分の月を眺めた。

「海向こうの、青い瞳をした旧友じゃ」

 海向こうの、青い瞳、といったところで佐輔は眉を顰めた。
 古来より連綿と繋がる白蛇会幹部の一族に混血があったという話を聞いてはいないし、組の内部にも中国人や韓国人の流入を認められるようになったものの青い瞳をした組合員はいない。結局のところ萩之丞が言う友人とは白蛇会と新屋組にとっては余所者でしかなかった。
 佐輔はまなじりの険を強める。

「若様、そいつぁ新屋の敷居を跨ぐに足る人間で?」

 そして身じろぎすることなく萩之丞の瞳を見据えた。
 萩之丞は目を逸らすことなく佐輔の険を受け止めていたが、にこりと笑ってみせると次いで可笑しげにくつくつと肩を揺らした。

「ふふっ佐輔、御前様は昔っから血の気が多いのう」

 そして愉快そうに顔の横で手を振ると、そのまま佐輔の肩を叩いた。

「安心せえ、そいつとは十年来の付き合いじゃ、別に怪しい人間じゃあない」

 佐輔は肩に置かれた手を一瞥して、それから息を深く吐いた。
 そして軽く身を引くと萩之丞の手がそっと離れる。
 佐輔は諦めたような口調で言いながら萩之丞から視線を外した。

「若様がそう仰られんなら」

 佐輔が後ろに身を引いて萩之丞の手から離れた。
 臙脂色の羽織と襦袢がずり落ちて、化粧彫りの水流の見切りと白蛇の鱗そしてその上に舞い散る赤紫の萩の花が露わになる。
 
 萩之丞は二人のあいだにある埋まらない距離に彷徨う手を見て呟いた。

「のう佐輔」
「何でしょう」
「昔みたいに……萩と呼んじゃあくれんのかい?」

 肩を並べ野山を遊び回っていた時分とは全く何もかもが変わってしまった。
 幼少、新しい遊び場に萩之丞の手を引いて行った佐輔はいつの間にか彼の半歩後ろを歩くようになった。少々荒っぽいがそれゆえ人を信頼させるような言葉遣いも、いつしか周囲の大人たちのように厭に恭しいものへと変わっていってしまった。
 生じた亀裂は土埃を零して崩れていく。両者の距離は広がっていくばかりだった。
 萩之丞の学生時代すなわち広島を離れている期間、それはより顕著になる。
 現当主の落し胤に過ぎない自分は名に花を押し付けられるがまま、成人すると共に白蛇をその身に宿した。
 大学卒業後広島に帰ると、唯一無二の友であった筈の佐輔は【跪いて】再び自身の前に現れた。

「それは……出来ません。乳兄弟とはいえあなたはこの組を継承する若頭で、わしゃあ若様の下に就く者に過ぎません。昔とは一切合切が変わってしまいました、いんやハナッから変わっちまうもんだったんでしょう」

 感情の一切籠もらない声だった。懐古の念すら何一つ感じられない。
 萩之丞は一瞬ぴたりと動きを止めたあと、宙に遊ぶ手を静かに下ろした。
 羽織と襦袢がぱさりと乾いた音を立てて、刺青を隠す。

「そうかい」

 萩之丞は徳利を手に取り、御猪口に傾けた。 
 とくとくと透明な液が虚を満たし、小さな空間に夜を呼ぶ。
 徳利を持ち上げた重みから冬の星々と半月が浮かぶ月見酒もいよいよたけなわだろう。

「佐輔。その名前に生まれて、後悔したことは?」

 答えは間髪入れずに返ってきた。

「愚問じゃあありませんか若様」

 それは幼い頃の記憶と何一つ相違ない芯のある声だった。

「この屋代佐輔、命尽き果てるまで極楽浄土……いんや冥土の果てまで若様の共を致す所存であります」

 彼の家名である屋代やしろ。それは新屋の字に降りかかる災を一身に受け、代わりにその身を差し出す贄になることすら厭わないというさだめを意味した。
 そして彼の名は佐輔であり、介添えをするという意の佐と人のたすけをするという意を持つ輔で構成されている。
 生まれ落ちたその瞬間から自らの自由意志など無いに等しい。
 佐輔にとってのいち個人を識別する符号など、人生の全てを新屋の為に捧げよという隠喩でしかなかった。
 彼もまた家に縛られていたのだと知ったのは、広島に帰ってきて少し経ったあとだった。
 互いに知りすぎているからこそ歩み寄れない、歩み寄ってはならない。もう後戻りなど出来ないのだから。
 おもてを伏せたままの佐輔に白い御猪口が差し出された。

「どうかね一献」

 佐輔が顔を上げると、萩之丞は何も応えず昔と変わらぬ笑顔を彼に向けた。
 そして杯を顔の横まで持ち上げる。

「一人じゃどうにも虚しゅうてやれんのよ。佐輔、付き合え」

 名前という呪縛による人生の拘束か、彼の自由意志に基づいて萩之丞に仕えることを選んだのか。
 今だけは、今だけは目を瞑っていたいと思った。



──二日後、広島空港にて。

「長かった……直行便が無いというのもなかなかに堪えるな」

 リチャードは予定通り日本広島の地に、厳密に言えば空港のロビーに降り立っていた。
 国際線から降りてきたばかりの外国人は未だ多く目立ちはしないもののロビーからは東洋人の数が一気に増える。
 四方八方から視線を感じながらサングラスを中指で押し上げる。
 物珍しさからくる子どもの無垢なまなざしも、長髪の白人に対する好奇の眼差しも、少々色めきだっているような熱視線からもう慣れたものだ。

(しかし人混みに長時間いるのもあまり良くないな。早く出るか)

 今回も偽造パスポートはセーフ、手荷物検査も種々検問などどれもこれも問題無くパスした。
 商会情報部であるシンなくしてこの仕事などやっていけない。彼から頼まれていたもみじ饅頭だが少し奮発してカスタードクリーム味を沢山買って帰ってやろうか。
 なんて思いながらロビーを出ようとしたとき、前方から誰かが此方に向かってくるのを認めた。
 黒髪短髪、そして黒いスーツに身を包んだ見知らぬ日本人男性だった。

「リチャードさん……でよかったですかいねえ」

 彼は外に出ようとするリチャードの前に立ち塞がる。
 サングラス越しの青い瞳のその裏にある網膜まで突き刺してしまいそうな険のある瞳だった。
 リチャードも彼の黒い虹彩を見つめ返す。
 背丈もそれほどあるわけではなく強者特有の厳かな雰囲気も無いが彼は間違いなく切れ者だ、と彼の第六感が告げていた。

「──あなたは」

 全身黒い男はほんの一瞬、リチャードの口から日本語が飛び出したことに面喰らったような表情を見せた。

「ああ、日本語は、少しだけなら話せます」

 リチャードがそう言うと、男は微弱ながら瞳の険を抑えて口を開いた。
 ただ淡々と己の為すべき事をといったような機械的な口調で。
 人々の大小溢れ返る雑踏に塗れても特異なその響きにリチャードは合点がいった。

「わしゃあ白蛇会直系新屋組若頭補佐世話付の屋代佐輔と申す者でさ。頭首代行の萩之丞様の命であんさんを新屋組の屋敷に連れてくるように、と」 

 リチャードは彼の言葉を聞くと頬を掻いて、そして大きく嘆息した。

「結構だと言ったんだがな……」

 緊張感のないリチャードに佐輔は声を低くして語気を強めた。

「そういうわけにゃあいかんのですよ」
 
 そして踵を返すとリチャードに付いてくるようにと示した。
 確かに人がごった返すロビーの黒服の男と白人が対峙している構図は傍目から怪しすぎる。とりあえず空港から離れるほかなかった。

「裏に車を停めてます、早う乗って下さい」

 リチャードは不承不承佐輔の後に続きながら肩を落とした。
 皆へのお土産はちゃんと買えるだろうか。
 久し振りの日本と広島なのだから観光がてら彼の元へ向かおうと思っていたが。

「若様がお屋敷でお待ちです」

 やはりどうもそういうわけにはいかないらしい。