複雑・ファジー小説
- Re: What A Traitor!【第2章2話更新】 ( No.36 )
- 日時: 2019/03/04 03:43
- 名前: 日向 ◆N.Jt44gz7I (ID: At2gp0lK)
- 参照: http://www.kakiko.info/upload_bbs3/index.php?mode=image&file=1101.jpg
参
市街地から30分ほど車を走らせた場所にて、平屋建ての屋敷は厳かに佇んでいた。
広島市内少し外れた山の麓、竹林に囲まれた日本家屋だった。
リチャードの青い瞳に映るのはトーニャスの煉瓦と似て非なる朱色の瓦葺き。一帯の竹林は寒風を受けて清かに葉同士を擦り合わせて笑っているようだった。
自然を観賞用に加工するのではなく、ただそこに存在する森羅万象を四季折々時の流れるままに愛でる。上から下へと流れる小川から苔むした岩までも。
つくづく刻の移ろいが美しい国だと、そう思った。
車を降りたリチャードは家屋の方へと向かう佐輔の背中を追った。佐輔もリチャードが後ろを付いてきているかを一瞥して確認するのみで談笑もなければ言葉を交わすことすらない。
移動中の車内でも終止エンジン音と砂利を跳ね上げる音だけで、窓の外の景色を見遣るしかなかった。
あまり歓迎されていないことは皆まで言わずとも分かる。
保守的且つ閉鎖的な日本の極道組織、そこにいきなり金髪蒼眼の素性の知れない外国人が割り込んできたものだから無理もないだろう。
付いていくがままに小さな石畳を上がると、外付けの廊下に差し当たった。
佐輔は何かを言おうとリチャードを振り返ったが、靴を脱がねばならない作法くらいは知っている。
日本家屋の奥、障子扉の前で立ち止まると佐輔は静かに言った。
「此方です」
引き戸に手を掛け、そして部屋の主に声を掛ける。
「若様、佐輔です。お客様をお連れしました」
そして手に力を込めるのを見ると、木の擦れる音と共に戸の裏に隠されていた空間が露わになる。
深く艶やかな呂色の髪と瞳、白の襦袢と着流しを覆う臙脂色の羽織。
書院造りの最奥にいた彼は御猪口から唇を離すと、開かれた扉のその先、リチャードを流し見た。
「──久しいのう、リック」
白蛇会直系新屋組組長補佐兼若頭、新屋萩之丞。
リチャードは遂にその人と相対した。
「久しぶりだな、萩」
佐輔は萩之丞とリチャードの両者を交互に見ると一歩引いたあと、低く言った。
「若様、じゃあわしはここらで」
「うん。ありがとう佐輔」
「いえ」
そして彼はリチャードを残して先程の渡り廊下を引き返していった。
リチャードはぼんやりと母屋へと繋がる曲がり角にて消える佐輔を見送る。
萩之丞のいる離れに案内する際は摺り足気味だった彼の足取りも、今はどこか焦燥が尾を引いている。
何か他に用事があったのだろうか。
「なあ萩、彼は──」
萩之丞はリチャードの言葉を遮って、自身と対の方向にある一客の座布団を指し示した。
「まあ座ってくれな」
リチャードは深く息を吐くと襖障子を閉めて、中へと足を踏み入れた。
久方振りの藺草の匂い。仄かに香るは紫煙と日本の香。
ハンガーは見当たらなかったためトレンチコートを脱いで傍らに置くと、リチャードは藍色に染められた座布団へと腰を下ろした。
座布団を隔ててはいるが地べたに直接腰を下ろすのはどうにも落ち着かない。
彼の長い金糸は畳に擦れて、下降する衣擦れの中に一つ涼やかな音を落とした。
「奴は屋代佐輔、おれの乳兄弟じゃ」
彼の名前は空港で聞いたばかりだったが、耳慣れない日本語にはおうむ返しに尋ねるしかない。
「……チキョウダイ?」
萩之丞は首肯すると襟口を掴んで臙脂色のそれを羽織り直した。
「ああ、日本の擬制的親族関係の一つじゃ。おれとあいつは同い年でのう、早々に母親を亡くしたおれを育ててくれたのが佐輔の母親なんよ」
そしてどこか遠い瞳でリチャードの青い瞳を見つめた。
「乳兄弟は実の兄弟姉妹よりも強い絆で結ばれると、そう言われとる」
否。リチャードの蒼玉を透かして尚先を見ているような、そんな瞳だった。
「興味深いな」
リチャードが頷くと萩之丞は微笑んで酒器を傾けた。
萩之丞も普段は煙管を吸うか、酒を煽っていることが多かった。
昵懇な仲であるもう一人とは人間性もまるで違うのだが類は友を呼ぶというか何とやらだろうか。
萩之丞は喉を鳴らして、そして唇から白蘭の陶器を離す。
「もはや一般的なことじゃあないがのう。この家はね古臭いことが好きなんよ」
萩之丞はさらさらと畳を撫でると、佐輔が去って行った二時の方向へと視線を滑らせた。
リチャード自身、彼の身の上は理解しているつもりである。
萩之丞との出会いは九年前、日本広島の地。例の【野犬】とメキシコシティにてネオンの夜に出会ったのと少々の時差はあるが、彼と同様に旧知の仲であった。
しかし各地に愛人を作っては根無し草のようにふらふらしているディンゴとは異なり、腰を据えて組を取り纏めなければならない萩之丞となかなか会う機会はない。
萩之丞は深く息を吐くと今度こそ呂色の瞳をリチャードに差し向けた。
「リック、御前様を呼びつけたのは他でもない」
凛と立つ声を潜めて。
「これから武器を大量に要り用になるもんでのう。外から買い付けたいんよ」
リチャードは光に透ける瞳の金刺繍をすっと細めた。
床の間と縁側を繋ぐ座敷飾りの小窓から聞こえる小鳥の歌が空間と沈黙を埋める
萩之丞は長い指で青い畳を小突くと緩やかに口角を上げた。
「最もドンパチのやりにくい国じゃここは。日本国内のルートではそれこそ量も質も限られてしまう」
何かの拍子に小鳥が一斉に飛び去ったらしく、弛んでいた枝葉はしなり木々がざわめいた。
「【保守派】の人間に嗅ぎつけられると、またこれも面倒なことになるしのう」
萩之丞は微笑んだのちに浅く息を吐いた。
そして酒器を煽ると萩の花と白蛇の鱗をあしらった刺青が露わになる。
彼の言葉で十を知ったリチャードは低く言った。
「と、なると……遂に始まるのか」
小鳥の去った竹林に吹き抜ける風などなく、辺りはしんと静まりかえる。
それの代わりに音無の冬が外に内に立ち籠めた。
「継承戦争が」
白蛇会直系新屋組次期党首の座を巡る継承戦争。
現在組の実権を握っているのは萩之丞で相違ないが、彼の組長就任を快く思わない者もいると耳にしたことがある。
萩之丞を中心に利権渦巻く頭首の跡目争い、それは【白蛇継承戦争】と呼ばれていた。
「ああ」
萩之丞は御猪口から唇を離し、それを緩慢な動作で漆塗りの盆に置く。
そしてリチャードが入ってきたのとは別の、屋敷の中心に位置する庭園へ続く襖障子に視線を滑らせた。
「──おれ自身に戦う理由なんてもう無いんだがね」
リチャードが新屋組の屋敷に来たのは決して今回が初めてではない。だが彼の視線の先、庭園に何があるかは失念してしまっていた。
ただ一つだけ確かなことは彼の睫毛に深い憂いの色が乗っていること。
再び静寂の訪れる書院造りにリチャードは口を開いた。
「それはそうと、俺がここにいるのは構わないのか? 目立つから人前に出るのは控えろといったのはお前だろう」
訛り癖のあるバリトンボイスが角柱に跳ね返って土壁に染み入ってゆく。
萩之丞はまばたきを一つして憂いを何処かへ仕舞ってしまうと、青い畳を撫でた。
「御前様が来ることを知っているのは佐輔とごく一部の人間じゃ。車も山道を選ぶように言うたし、保守派の人間は滅多に此処には来んよ」
そして態とらしく色を含んだ声で甘えかかるように蠱惑的に唇をなぞった。濃黒色の瞳は輪郭の艶めいた光を灯す。
「それとも、情夫で通そうか?」
「ふふ、お戯れを若様」
「冗談さ」
ほんの戯れに軽口を叩き合うのも随分と久しい。
萩之丞はくつくつと肩を震わせていたが、リチャードの視線に気が付くと片眉を吊り上げて怪訝そうに尋ねた。
「何じゃ?」
「英語も綺麗なクイーンズイングリッシュだし、俺に日本語を教えてくれたときも標準語だったのにな、と思って。少し驚いたんだ」
数日前イタリアトーニャスで連絡を受けたときも英語での会話だった。
彼が話すのはイギリス英語だ、中でも上流階級が使用する容認発音であった。彼の英語は場末の破落戸が話す米英語よりもよほど洗練された発音だった。
【アメリカに本社がある組織】に身を置いていたのだからそれはよく分かる。
リチャードの故郷であるシチリアは観光地以外は英語が通じない場合も多く、島内で暮らすぶんにはそこまで必要な言語ではなかった。
学生時代にはかなりの時間を費やして勉強し、英語の話せる知人にも手助けしてもらうことで何とか実用レベルにまで押し上げた。
イタリア語話者である自身があんなに苦労したのだから、日本語を母語とする萩之丞がそれらをマスターするのは決して容易なことではなかっただろうと考えた。
「ああ、広島弁かい?」
萩之丞は少し考え込むような素振りを見せると、顔を上げて笑った。
「こっちで都言葉じゃと舐められるしええことないんよ。このご時世じゃあヤクザ者でもお味噌がいるんじゃと。洟垂れの時分から叩き込まれてね、都会の大学ではオーラルコミュニケーションが専攻じゃ。どうかね、似合わんじゃろう」
「そうなのか……」
萩之丞の言う事は成る程理に適っていた。
情報に第三者が介入してしまったならばそこには必ず不純物が混ざる。単語通りの意味も、またそうではない場合も。
特に交渉の場では受け手による情報の差違や単語選びが誤差の範疇に収まらないこともある。
保守的なジャパニーズマフィアである彼らだとしても英語圏の人間らと取引をしていかなければならない情勢にある以上賢い選択だとも思った。
「御前様がもう日本語に慣れとると思って使っとるんだがのう、戻した方がええかい?」
「ん。いや、大丈夫だ」
そう返答を寄越すとリチャードは大きな身体を縮こめて革手袋を嵌めた両手を擦り合わせた。
この部屋には暖炉も無ければエアコンも無い、一切の暖房器具が無かったのだ。
「しかし日本は寒いな。この前来たときは暑すぎるくらいだったのに」
「日本には鋭い四季があるのさ、刃物のように尖った先端で人間たちを次の時間へと追い立てる。ふふ、北欧系なんに広島の冬はやれんのかね」
リチャードは肩を竦めて息を吐いた。
「俺はスウェーデン血統だがマルタ系シチリア生まれのシチリア育ちのイタリア人だぞ」
萩之丞は口をへの字に曲げたリチャードに生返事をすると、彼の肩を滑り落ちる金糸を掬うように手を伸ばした。
しかし二人の距離とその空間、その手は当然届かない。
着流しが摺り落ちて、繊細緻密且つ雄麗な刺青が再び現れる。
「吹き下ろす冬将軍に白金の御髪が舞い、留紺の瞳は極東の真白な粉雪を映す。やはり御前様は美しい人間だね」
美しいと四十路の男に臆面も無く言い放つとは、これではどちらが軟派なイタリア人か分からないなとリチャードは嘆息した。脈絡も無い。
しかし萩之丞と出会ったときにそのような事を言われたような気がした記憶がある。外の肉と皮が作る美醜ではなく、もっと何か他の。
思い出そうとすれば思い返せそうなものだが何せ彼と出会ったのも九年前だ、そして今はどうにも寒くていけない。
「俺にはその言葉が意味するところはまだよく分からないが……耳馴染みが良い、きっと綺麗な言葉なんだろう。何だ、口説いているつもりか?」
リチャードは金刺繍の縁取りを細める。
同じ世界に立っていても交じ入りそうにもない境界にいる彼と過ごす時間は気楽で良い。ディンゴとはまた違う毛色の時間の流れ方をする。
萩之丞はくすりと笑って睫毛を伏せると顔の前で手を振った。
「いんや……さて、そろそろ冗談はよそうかね。久方ぶりに西洋からやって来た旧友に会えて嬉しいのさ」
そう言うと萩之丞は盆に用意していたもう一つの御猪口に徳利を傾けた。
ワイングラスに注ぐのとはまた違う音が畳に障子に跳ね返って鼓膜に響く。
酒器の八分目まで注ぐとリチャードに勧めた。
冷酒か、熱燗か。それとも生成りのぬくもりか。日本酒は正直得意では無かったが今だけは熱燗が良い。
「醉心じゃ、ワイングラスが似合う日本酒と名高い。きっと御前様の口にも合おうて」
透き通った酒精は白蘭の底を真っ直ぐ映している。
これでは温度が分からないとリチャードは右手の革手袋を外した。一瞬でも口付ければ分かろうものだが外側の器にも触れたいと思った。
そして本当に白蛇がいたならこんな美しい鱗が生えているのだろうかと取り留めの無い事を考えながら、彼の手から小さな酒器を受け取った。
参