複雑・ファジー小説

Re: What A Traitor!【第2章4話更新】 ( No.37 )
日時: 2019/03/17 00:23
名前: 日向 ◆N.Jt44gz7I (ID: At2gp0lK)
参照: http://www.kakiko.info/upload_bbs3/index.php?mode=image&file=1107.jpg



 半刻の後、屋代佐輔が新屋組の屋敷から車を飛ばして辿り着いたのは広島市街地にある高級料亭付の旅館。そして目的はその最奥に位置する一室だった。
 最も奥にある【白松の間】、そこに要人はいる。
 佐輔はロビーにいた女将仲居に用件を端的に伝えると、案内の申し出も半ば強引に断り真冬だというのに玉のような汗を散らして走った。
 明日は白蛇会上層部の会合が広島市街地にて開催される。
 新屋組だけではない、枝葉のように分かれた分家それら総括元締めに値する経済共同体である白蛇会の幹部が日本中から集結するのだ。白蛇会は平和大国と謳われし日本という傀儡くぐつを裏側から何本も存在する操り糸のうちの一本を引いている。戦前より連綿と繋がる開闢かいびゃくのルーツから法曹界と財政界に深いパイプを持つフィクサーだった。
 そのような白蛇会の幹部に属する遙か上にあたる身分の者を無理を言って留め置いたのだ、自分が遅れるわけにはいかない。
 得体の知れない白人の送迎がなければもう少し余裕があっただろうものの、そんなことを今嘆いても詮無いことだった。
 件の要人とは白蛇会直系新屋組現頭首でありながら病床に伏す新屋梅雄(シンヤ バイユウ)に代わって、組代表として明日会合に出席する男である。
 襖障子の前に立って佐輔は肩で息をしながら、呼吸を整える。 
 檜で縁取られた丸窓からは目隠しの竹林がざわついていた。

「新屋組若頭補佐世話付、屋代佐輔に御座います」

 声が上擦らないように、震えないように腹に力を入れた。胸の辺りを抑えて酸素を求める。
 そして暫く戸の前で待っていると初老の男の声が室内から応えた。

「入れ」

 僅かに嗄れた声に確かな圧を肺に内臓に感じる。
 佐輔は震える右手を左手で強く叩き、活を入れた。

「失礼します」
 
 片膝を付き襖障子を開き、低い姿勢のまま中に入り静かに閉める。
 部屋の中には男が二人いた。座椅子に座る初老の男と机に向かって忙しげに帳面を付けている白髪混じりの中年の男。
 白蛇会幹部の嵯峨島源造(サガシマ ゲンゾウ)とその控えの者、房山フサヤマである。
 生唾を飲み込む。

「御館様──!」

 佐輔は初老の男、嵯峨島の足下に倒れ込むようにして両手をつくと額を畳に擦り付けた。
 房山は驚いたように肩を強張らせたが嵯峨島は眉一つ動かす事なく佐輔を見下ろす。
 そして佐輔は懇願するように呻いた。

「──考え直して、頂けたでしょうか」

 嵯峨島の横に控える男、房山は舌打ちすると怪訝な顔で土下座する佐輔を一瞥した。

「まだンなアホくせえこと言っとんのかいテメエはよ」

 房山はやおら立ち上がると、膝をついたままの佐輔の前まで進み出た。
 品定めするように高い位置から見下ろす。
 そして口角を吊り上げると体重を掛けて佐輔の後頭部を勢い良く踏みつけた。

「んぐッ……!?」

 額を強打し、畳の粗い目と皮膚が強く擦れる。
 房山は薄笑いを浮かべながら踵で何度も佐輔の頭を上から小突いた。
 足蹴にされる屈辱と額の痛みに吠えることなく歯を食い縛って耐える。今は耐えるしかなかった。
 唇を噛んで怒りとその辱めにひた耐えていると、佐輔を慮ったようでもなければ房山を窘めたわけでもないただ無感情な声が上から降ってきた。

「房山」

 嵯峨島に名前を呼ばれた房山はへらへらと笑いながら佐輔の頭から足を退けた。
 しかし頭から足を離すときにもう一度踏み込んだようで、今度は固い床に鼻っ柱を強打した。最後の一打がくるとは思わずに舌も噛む。
 だが佐輔は拳を握りしめ、未だ顔を上げなかった。

「屋代佐輔、やはりそれは新屋梅雄(シンヤ バイユウ)が三妻の子、新屋萩之丞を組長に据えるという話で相違ないか」

 嵯峨島がゆっくりと尋ねると、佐輔は怒りを犬歯で噛み殺した。
 房山は佐輔と年齢もそう変わらない。むしろ最初から屋代家の人間として新屋組に仕えていた身であり、立場的に上だった。
 しかし元新屋組の分家の者に過ぎなかった嵯峨島が故あって白蛇会幹部へと昇進するに従い、従者の房山は肩で風切って組のシマを歩くようになったのだ。
 そして嵯峨島の幹部昇進の由縁には萩之丞が関与しており、だからこそ今日、嵯峨島に会うことに決めていたのである。継承戦争が始まってしまう前に萩之丞の置かれる状況を彼なら何とか打開してくれるかもしれない、と。
 佐輔は喉奥から絞るように返事をした。

「……ありません」
「面を上げろ、屋代」

 嵯峨島の声でようやく顔を上げる。
 微かに燻る瞋怒しんどを瞳に宿して、決して房山を見ないようにして。
 未だ部屋に煮凝にこごる緊張は解けていない。
 佐輔は固唾を呑むと、乾いた声で本題を切り出した。

「御館様、白蛇会のお心変わりは……」

 明日には会合が執り行われる。
 主な議題は白蛇会直系新屋組の次期頭首継承についてである。しかし取り立てる議題など有って無いようなものだ。このままでは異議申し立ての暇も無く萩之丞は次期頭首の座から引き摺り下ろされてしまう。
 佐輔は縋るような心で嵯峨島に問いかけた。
 だが、しかし。

「無い」

 彼の解答は無慈悲にも佐輔の心臓を刺した。

「──あ」

 酷く喉が渇いてしまって突き付けられたものをうまく噛み砕いて嚥下できない。

「儂の一存では決まり申せん。しかし倣わしの通りでは梅雄殿が本妻の子息である新屋梗一郎(シンヤ キョウイチロウ)が組長の座に就くことになるだろう」

 新屋梗一郎、現在次期頭首として押し上げられているのが彼だった。
 梗一郎は今年の冬に成人を迎えた【新屋梅雄の正妻との第一子】である。しかし彼自身新屋組との実務的な繋がりは無いに等しい。
 佐輔は数年前の新屋組の親戚一同が会する場に居合わせ、梗一郎と顔を合わせていた。
 当時高校生に過ぎなかった梗一郎を一目見た印象は、狡猾。
 そして刃物の鋒を思わせる瞳の稜線はどこか萩之丞に似た雰囲気を纏っていた。
 梗一郎自身組長継承には積極的な姿勢を見せているらしく【保守派】と呼ばれる白蛇会及び新屋組関係者は彼を新屋組頭首の座につかせるべく動いている。
 嵯峨島は僅かに声の調子を落として佐輔に言った。

「病床に伏している梅雄殿も最早そう長くはあるまい。そして梗一郎が組を治めるに従って、現若頭である萩之丞は新屋組頭首継承権を失う」

 佐輔は歯を食い縛った。噛みちぎりそうになった舌から血の味が滲みてくるの感じる。
 梅雄は末期の肺ガンを患っていた。
 丁度去年の冬に一年の余命宣告を受け、そして今年の冬即ち今に至る。ガンが肺を圧迫して自発呼吸も出来ず見舞いに行っても痛み止めのモルヒネで眠っていることが多い。
 医者が言うにはもう長くはないらしい。
 彼の命は今日明日とも知れず冬は越せない、早ければ数日中もってあと数週間らしい。

「財閥解体のなされた戦後以降より伝わる白蛇会の取り決めだ。覆ることはない」

 佐輔ははくと息を吐き出してそのまま二の句を継げなかった。
 白蛇会とは戦後財閥解体以降にとある大手重化学工業会社の工作部や荒事専門の幹部らが独立し立ち上げたタカ派の経済共同体である。
 そして現在も残る些か湾曲した頭首継承のルールは組織結成黎明期の騒乱に由来するものだった。
 戦後の日本国復興と相まった波乱の時代であり、中でも武家出身である新屋家の継承戦争は苛烈の真っ只中にあった。
 現組長である梅雄の一つ前、萩之丞の祖父にあたる世代の組長継承戦争では多くの血が流れたという。会の中でも比較的大きな分家であった新屋家の二派閥化によって組織は分断、黎明は混沌を極めていた。
 そこで事態を治めるために白蛇会が定めたのはただ一つの掟、それは【現頭首の正妻の第一子】を次期頭首に据えることだった。
 萩之丞は現代になっても当時の戒律を崇拝している原理主義者らをある種の皮肉を込めて【保守派】と呼んでいた。

「──あ、あんまりじゃありませんか御館様。ここまでわしらの組を導いてきたのは若頭で、そげなむごいこと若さ……萩之丞殿への裏切りに他なりません」

 佐輔は再び畳に額を擦った。
 床に打ち付けた鼻がひしゃげて、口内にじゅくりと鉄錆が広がる。額がズル剥けてももう一向に構わなかった。

「御名前に花冠を押し付けられただけでなく、命潰えるまでその血を欲する白蛇をその身に宿されて、失うばっかりだったんです」

 新屋組頭首を継承する者はその名に花を表す字が入っておりそれぞれ現頭首には梅、萩之丞には萩、梗一郎には桔梗の一字を冠している。
 そして生まれ落ちたのちに与えられた萩之丞という名にも運命が紐付けられていた。
 【丞】とは遙か太古の中国唐の時代、大宝律令によって敷かれた各省の第三等官を表す言葉である。そしてそれは第三妻の子である萩之丞の境遇とおのずと重なる。
 決してそれが王の器ではないことは自明、即ち組長になる資格など生まれた瞬間から無かったと突き付けるに等しいのだ。
 しかし白蛇と組を継ぐ者としての覚悟と矜持を示す背中の大蛇は命潰えるまで宿主の肉を欲する、一生続く痛みと血を以て。

「それなンに、そげなくだらん事で若頭が組長の器やないと、そういうてしまうんですか」

 佐輔は握った拳を床に叩き付けた。瞬間、爪が掌に食い込んで皮膚が裂ける。
 不条理に忍ぶ彼の拳は震えていた。
 嵯峨島は目を細めて佐輔の言葉を反芻するように言う。

「下らんこと、か」
「下らんことです。梗一郎様が新屋組で仕事をこなしよったンならまだ、まだ飲めます。しかし梗一郎様はついこの前成人されたばかりで新屋組の内情も組長が何たるかも存知上げちゃあおらんじゃないですか」

 佐輔は臆することなく答えた。
 そして顔を上げる。

「血統がどうとか生まれた場所がなんやって言うんですか、そげなカビの生えた決まりに何の意味があるって言うんですか……」

 萩之丞の母親は現頭首の三妻といえども多婚重婚の認められていない日本の婚姻制度ではただの愛人に過ぎない。
 正妻との間には長年男児に恵まれず二番目の愛人の間には女児三人をもうけるのみで、そのような状況の中に梅雄の跡継ぎとして生まれたのが萩之丞だった。
 しかし現組長と萩之丞の母親の関係は遠距離である為に新屋組の縄張りで生まれ育った佐輔とは異なり、組の管理下の元に出生していない。
 それが【保守派】による梗一郎の組長継承を加速させた一因ともなっていた。

「義理人情を重んじ、仁義を欠くなら命に代えて。それがわしら極道もんの歩く道やないんですか……!」

 鮮血混じりの悲痛な叫びが谺する。
 暫しの沈黙が訪れた。市街地ではあるが川辺に位置する旅館である、今だけは場違い甚だしい川のせせらぎが畳を撫でる。
 佐輔は肩で息をすると口の端から滲み出た血を乱雑に拭った。
 そして静寂を割り、川の潺に飛び込むは衣擦れの音。それに継いだのは粗雑な足音。
 佐輔は房山に胸倉を掴まれた。

「さっきから黙って聞いてりゃあこのダラズがァ──!」

 頭突きをかまされそうなほどの距離に肉薄する。しかし佐輔は身じろぎ一つすることなく房山の目を睨み返し、一言も発さなかった。
 房山は苛立たしげに舌打ちすると佐輔に拳を振り上げた。
 その時。
 
「いい加減にしろ」

 鶴の一声が房山と佐輔の間に割って入る。
 房山は半ば痙攣するようにぴくりと動きを止めた。

「房山、少々のあいだ席を外してもらえるかね」
「し、しかし」

 言い淀む房山に嵯峨島の瞳の険は強くなる。
 嵯峨島の呼称である【館】とは名門武家の棟梁を指す言葉である。
 新屋派閥から成り上がった嵯峨島の風格と威厳は否応なしに滲み出るのだろうか、それを認めた房山は生唾を飲み込んで佐輔の胸倉を乱暴に突き放した。

「分かりましたよ」

 そして房山はスーツスラックスのポケットに手を突っ込んで立ち上がるともう一度佐輔を睨んだ。
 そして反発を一つも隠さない所作で襖障子を引くと一拍の後大きな音を立てる。
 嵯峨島は房山が出て行った襖を一瞥して息を吐き、静かに切り出した。

「……さて、屋代」

 佐輔は襟と姿勢を正し、奥歯を噛む。

「はい」

 佐輔が返事をすると、嵯峨島はおもむろに座椅子から立ち上がりゆっくりと窓辺に寄った。
 そして旅館自慢だという看板付の苔むした日本庭園に視線を移す。

「彼を組長へと押し上げようとするその心もまたお前の身勝手に過ぎないのではないか?」
「──ッ!」

 佐輔は嵯峨島の言葉に息を呑んだ。

「現若頭の萩之丞は……十年前に妻を亡くしてからというものの何事に対しても無気力であろう」

 そして思わず目を見張った。
 十年経とうが忘れられないほどに大きかった彼女の存在、それは十年前の悔恨と過失に他ならない。
 しかし佐輔は何よりも【萩之丞の妻】という文言が嵯峨島の口から出てきたことに瞠目どうもくしたのだ。

「御館様……」
「それは現若頭の傍に仕えるお前が一番分かっているだろう」

 それは一段と穏やかな口振りだった。
 佐輔は苦虫を噛み潰したような顔で下唇を噛む。
 確かに十年前に妻を亡くしてから萩之丞の心には穴がぽっかりと空いたような様子が見受けられた。
 満たしようのない虚無に、決して言葉にすることはなくとも佐輔は萩之丞の喪失感を痛いほど感じていた。
 嵯峨島は肩越しに佐輔を振り返る。
 その所作は厭に緩慢で嵯峨島と目が合った。

「だがしかし……お前の言う義侠も随分鉄臭いと思わんかね、屋代」

 佐輔は耳を疑った。

「──な、何を」
「お前と現若頭は乳兄弟だったな」

 はっと胸を衝かれる。
 嵯峨島は佐輔に正対すると、彼は口角を緩やかに上げた。 

「生まれながらにして新屋萩之丞という男の影という運命を背負っているとはなんとも難儀なことだのう」
「お前という個人の自由も無く、組と家に縛られる人生だっただろう」
「今日の談判も例外じゃあない。一挙手一投足にお前の自由意志はあるのか、屋代」

 投げかけられる問い。その眼光に見据えられて息が出来ない。
 今まで何度も考えては振り切ってきた猜疑が今更身体にしがみつく。暗い視界に現れては消えていく。
 しかしその解答など疾うの昔に決まっている、彼自身が決めたのだ。
 佐輔は刃毀れしてしまうほどに奥歯を噛み締めた。

「しかし……裏を返せば現若頭がそのまま組長に就任した暁には、その傍に控えるお前の地位も自ずと」

 そして嵯峨島を遮った。
 片膝を付き半身を引く忠義の座位で、啖呵を切るように声を張る。
 しかしその忠義は目の前にいる館の者ではなく肉親よりも近しい我が主に向けたものだった。

「わしは自らの意思で今日ここに参りました。現若頭である新屋萩之丞、他の誰でもないただ若様お一人にわしゃあこの命を捧ぐつもりでおります」

 佐輔は立ち上がった。
 掌に血は滲み、力任せに踏みつけられた後頭部は未だ痛む、不意打ちに打ち付けられた鼻は折れているかもしれない、舌だけでなく口の中はズタズタに切れているだろう。
 しかし今はどうでもよかった。

「血は繋がっておらずとも萩之丞とわしは兄弟です。いくらあなた様であろうとそれを愚弄するのを看過出来るほどわしゃ懐が広うありません」

 そして痛々しく、聞こえるかどうかの閾値の境、吐き捨てた。

「御館様──いえ、叔父貴。菫様を亡くされてから……あなた様も変わってしまったような気がします」

 嵯峨島の顔を見ることだけは出来なかった。
 全ては十年前に瓦解してしまったのだ。霞のかからない記憶の灯火は簡単に流れてはくれない。

『あの、屋代さん。はぎ……い、いえ、あの人は甘いものとか、お好きなのでしょうか……?』

 庭の菫はまだ咲く季節ではない。
 佐輔は深く息を吸って一礼した。

「ご無礼を。これにて失礼します」

 上体を起こして直ぐさま踵を返した。
 その表情には明らかな諦観が滲んでおり、唇は固く引き結ばれている。
 佐輔が襖障子に手を掛けた瞬間、嵯峨島は彼の背中に語り掛けた。
 先刻と変わらない無感情な声色だった。

「──現在、梗一郎が屋敷に向かっておる」

 嵯峨島の言葉を受けて、佐輔は冷や汗を額に浮かべた。

「今なんと……」
 
 しかし問いかけても答えは無く、彼は口元に不敵な笑みを残すのみだった。
 今現在、屋敷にはリチャードがいる。新屋組の屋敷に出入りする怪しい白人と梗一郎と鉢合わせては不味いことになる。
 佐輔は知覚するより早く【白松の間】を飛び出した。