複雑・ファジー小説

Re: What A Traitor!【第2章5話更新】 ( No.39 )
日時: 2019/05/12 17:47
名前: 日向 ◆N.Jt44gz7I (ID: on4ShBGJ)



──日本、広島。

 酒をまた一献一献と酌み交わすうちに日は沈み、瀬戸内海から臨む満ち潮は黄昏を引き連れてくる。
 日本酒独特の臭みと舌に残るキツさは苦手だったが萩之丞の勧めてくれた醉心すいしんの飲み口は記憶のそれとは違っていた。
 御猪口を水飲み鳥のように傾けること数刻、斜陽が木枠の丸窓から鋭く畳を差す。取り留めの無い話をして久方振りに語り合った。
 しかしぬる燗のような時間もいつかは冷めゆき、不穏を吐き戻す。
 夕暮れ蜜色の中、何かを感じ取った二人はほぼ同時に息を止め外へと繋がる障子戸を一瞥した。
 撓垂しなだれたリチャードの長い髪は畳の表面をさらりと撫でる。

「車の音……」

 微かなエンジンの音とタイヤで砂利を磨る音が破片のように鼓膜へと刺さった。
 酒精を容れても未だ冴えたままの脳がそれを感じ取る。

「俺の乗ってきたシニョーレ・ヤシロのものとはエンジン音が微妙に違うな」

 リチャードは声を潜める。そうして萩之丞を見ると彼は否定も肯定もせずに刃物の鋒のような瞳の険を強めた。
 砂利の音が止む。
 彼の瞳が意図するところの分からぬ人間ではない。その様子概ね招かれざる客、といったところか。
 リチャードは酒器を盆へ置くと声を潜めながら萩之丞に尋ねた。

「隠れていた方がいいか?」

 とは言ったものの独立した書院造りのこの部屋に隠れられそうな場所など無かった。
 リチャードは盃を受ける際に外した黒の革手袋を取って右手に嵌める。夕焼ける空から注ぐ橙の照りが指の稜線をなぞった。
 そして微かに木の軋む音を聞く。何者かが屋敷の渡り廊下をこちらに向かって歩いてくるのだ。
 萩之丞は落ち着き払った様子で最後の滴を干してしまうと、静かに口を開いた。

「この座敷までは一本道の渡り廊下じゃ。むしろ連中と鉢合わせする可能性が高いのう」

 連中。
 やはり萩之丞の敵にも等しい【保守派】の人間であることは間違いないようだった。
 そうして立ち上がろうと浮かせた腰を元に落ち着ける。
 しかしこの間にも足音は大きく成り行くばかりだ。
 萩之丞はリチャードの青い瞳をひたと見据えた。

「リック、おれが何とかするけえ分からん振りをしときんさいな」

 そうして煙たがるように視線を外す。きっとそれはリチャードに向けた感情ではなくこの状況と食い込む一種の足枷の所為だろう。
 リチャードは深く息を吐いて頷いた。

「任せるぞ」

 近付く渡り廊下の軋み、その音は部屋の前で止んだ。
 そして引き戸が敷居を滑り、書院造りの凹凸に夕べによる風が吹き込む。
 開かれた部屋に勾配のきつい斜陽が太く射し込み、空間を橙に塗り潰した。

 「挨拶が抜けてるんじゃないかい──?」

 しかしぶちまけられた蜜色は黒く一箇所人型に切り抜かれた。
 萩之丞は顔を上げることも無く声色に刃を隠し、リチャードは強い西日に目を細める。
 開かれた戸の向こうには一人の男が立っていた。

「梗一郎」

 梗一郎、と呼ばれたその青年は肩を竦めて見せたあと恭しく会釈をした。
 伏せられた顔に濃い影が落ちて、また陽光に潰される。
 光の束に目が慣れようやく視力が戻ってきて、リチャードは男の顔を視認することが出来た。
 新屋梗一郎。
 萩之丞と組長継承の跡目を争っている腹違いの兄弟、リチャードはそう聞かされていた。
 現頭首である新屋梅雄の正妻の子であり、今年成人を迎えて萩之丞の組長継承に待ったを掛けた人物である。
 その鋭利な目付きは萩之丞にどこか似た雰囲気を纏っていた。

「兄さん、御機嫌如何ですか」

 言葉の入り抜きとその声質も萩之丞とどこか重なる部分があった。
 梗一郎の鋭い瞳の光と笑みを滲ませた口元も、またやはり。
 しかし萩之丞は梗一郎の方を見ることさえなく冷たく言い放った。

「おれはお前の兄じゃないがね」

 梗一郎は萩之丞の返答に肩を竦めてみせると大きく息を吐いた。  

「またそんなことを仰って」

 そう喉元まで言いかけたあと、彼は萩之丞の真向かいに座る人物へと視線を滑らせた。
 西日で襖障子の濃い影になっていて気付くのが遅れたようで、梗一郎は切れ長の瞳を更に細めた。

「これは、先客がいらしたようですね……」

 梗一郎の瞳とリチャードの青い瞳がかち合う。
 冷たい瞳の奥に燻るのは心鉄しんかねを思わせる野心。
 成る程駄々を捏ねて保守派の大人に擦り寄っただけではなさそうだ、とリチャードはただ一瞬の邂逅でそう感じ取った。
 そして彼は無心を装って梗一郎のぬばたまのような瞳を見詰め返した。

「こちらの方は?」

 梗一郎はリチャードから視線を外すと、猜疑を滲ませた声で萩之丞に問いかけた。
 屋敷に赴いたらばそこに見知らぬ金髪蒼眼の外国人がいたのだ、怪しまぬ方が道理が通らない。
 無心、平常心と言えどもリチャードは萩之丞がどのように切り抜けるのか内心焦らずにはいられなかった。
 自身が新屋組の屋敷に呼ばれた理由は武器の買い付けだ。少しでも怪しまれれば現在ある薄氷の上の緊張状態など一挙として瓦解するだろう。
 リチャードは焦りを仕舞って、萩之丞を盗み見る。
 そして彼は少し考え込むような素振りを見せた後に言い放った。

「ああ……こいつね。まあ、おれの情夫みたいなもんかね」

 その言葉にリチャードは青い目を見開いた。

「……!?」

 情夫。
 日本語を学び続けて、もはやその意味が分からぬ時分ではない。
 一体何を言っているんだこいつは、と口をぽかんと開けずにはいられなかった。
 いつもの風と変わらない大真面目な顔で抜かした彼に、様々な感情を通り越して奇妙な笑みが込み上げてきそうになる。
 どのように切り抜けるのかと思えばそのような見え見えの嘘を、と。
 リチャードは開いた口が塞がらなかった。

「出鱈目なことを」

 しかし梗一郎は二人を見下ろして鼻を鳴らすだけだった。
 彼の一種の嘲りを込めた視線にリチャードはようやく口を閉じる。

「……」

 そして部屋向こう、もう一つ襖障子に隔てられた庭園がある方向を梗一郎はちらと見た。
 また庭園の方へ、とリチャードはそう思った。
 襖障子は薄い和紙を陽光の橙に透かすも、向こうの空間へは隔てられたままである。
 先刻継承戦争をする意味も戦う理由も無いと言った萩之丞も彼方へと視線を差し向けていたのだ。
 萩之丞は息を大きく吐くと吐き捨てるように言った。

「大学時代の古い友人じゃ。といっても半年の留学期間の後すぐ国に帰ってしもうて、難しい日本語は分からんのだがね」

 そうしてリチャードを一瞥する。
 もしかすると、否もしかしなくとも情夫の下りの一切合切不要だったのではないかと思ったがリチャードは表情に小芝居を打った。
 対する梗一郎は怪訝な顔をしながらも噛み砕いたようで端的に返事を寄越す。

「そうですか」

 瀬戸内海の潮風が開け放たれた引き戸から吹き込んだ。
 和室に留め置かれた空間の溜まりがつむじかぜに一掃され、冷ややかな黄昏が舞い込む。
 水面を舐めた海風は梗一郎の前髪をふわりと持ち上げ、強かな光をたたえるその双眸を隠した。
 そして眩いほどの斜陽を受け、萩之丞の瞳が猛禽のように細まる。

「Can you excuse us for a minutes? This is Kyoichiro, he`s my relative.(おれの親戚にあたる梗一郎じゃ。少しの間席を外してもらってもえいかい?)」

 そうして彼はリチャードに微笑んでみせた。
 周到なハリボテ細工の表情筋。猛禽のように瞳孔が尖るあの一瞬、彼の意図するところの分からぬリチャードではない。
 リチャードは柔和な笑みを浮かべて頷くと、片膝をついて立ち上がった。

「Ya,ya,sure.(ああ、分かった)」

 部屋を後にして何処へ向かえばよいかの打ち合わせなどしていなかったが、それは致し方ない。後は萩之丞が上手くやり過ごすのを信ずるのみだ。
 何事も無く梗一郎の傍を通って、何事も無くあの部屋を出る。傍を通過する際、座っていては分からなかったが梗一郎は萩之丞よりも一回り小さかった。
 開戦など。
 梗一郎と相見えるのは少々の計算違いだったのかもしれないが疾うの昔にその火蓋は切られていたのだろう。
 そうして笑ってしまいそうな程の今しがたのやり取りを思い出す。
 あれは最早誤魔化しきれない、もう先延ばしには出来ないことを悟った彼なりの一種の諦観だったのかもしれない。
 それでもしかし情夫扱いには驚いたが。 
 リチャードは溜息を暮れなずむ夕焼けに溶かして、足下の木の軋みを聞く。
 そうして広島に来るといつも自身が通されていた客間に向かって、鉄錆の零れる記憶を頼りに歩き出した。

******

 梗一郎は渡り廊下の曲がり角へと消えるリチャードの背を半ば睨み付けるようにして見送った。
 そして萩之丞の方へ向き直ると口元に申し訳程度の孤を残して、肩を竦めてみせる。

「春の瀬戸内海といえども夕方は冷えますね、そろそろ中に入れてもらえませんか?」

 彼の言葉に萩之丞は目の前にある一客の座布団を顎でしゃくった。
 示されたそこはリチャードがほんの今まで腰を落ち着けていた座布団である。
 梗一郎は訝るような表情で萩之丞へと尋ねた。

「こちらへ?」
「そうだが」

 そうして梗一郎は眉間に皺を寄せ、体重の乗った座布団を見た。
 どこの馬の骨とも分からない得体の知れない外国人が使用した座布団を宛がわれるのは白蛇会の人間として気分が面白くなかったのだろう。
 不満気に萩之丞を一瞥したが、萩之丞は目を伏せたまま梗一郎の視線に応えようとしなかった。
 梗一郎は深く息を吐くと指し示された座布団へと腰を下ろした。
 そして兄弟は相対する。
 眩むような斜陽もいつしか夜のとばりが零した濃い紺と混ざり合って、暮れの匂いを衣のように巻き付けていた。
 しんと静まりかえった黄昏、酒精の匂いは既に揮発している。
 先に口を開いたのは萩之丞だった。

「何用だい?」

 そして伏せた瞳を薄く開く。斜陽の乗った長い睫毛すら先利な刃物のようだった。
 薄墨を垂らしたような虹彩に薄紫の空が映り込む。

「先程正式に決まりましてね、あなたは夏の白蛇会筆頭幹部総会迄に新屋組の組長継承を辞退して頂く運びと相成りました」

 梗一郎の声が柱に鴨居に棚板に跳ね返る。
 そして再び静寂のみが液体のように空間を満たした。
 刻々と二人の間に落ちる陰影が濃くなる。
 しかし萩之丞は眉一つ動かさずに梗一郎の双眸に嵌まるぬばたまを無感情に見詰めた。

「会合は明日じゃろう」

 梗一郎はばつの悪そうな顔で前髪を手で梳く。
 淡く染めた茶髪は夕陽に赤く透けて、どこか軽薄げな雰囲気を纏っていた。

「……まあ、そうですね」
「それぐらいはおれの耳にも入っとる」

 現時点、萩之丞は会合に招集されていなかった。
 日本を裏から糸引く組織の一つである経済共同体の白蛇会、その中核である新屋組の現トップが招集されていない異常事態。
 病床に伏す梅雄に代わって頭首代行を務める萩之丞が幹部総会に呼ばれないこと。相当【保守派】の根回しが進んでいるのだろうか、萩之丞はそのねじれを否応にも感じずにはいられなかった。
 そうして後日新屋組派閥からは組出身の現白蛇会幹部、嵯峨島源造のみが出席するという報せが届いたのだった。

「決まっている事ならなるだけ早い方がいいでしょう」

 対外的な発言力を奪い組長の座から引き摺り下ろそうとしている事は見えていた。
 梗一郎と萩之丞、この与えられた名が敷かれたレールを体現する。一と三位の官を現す丞、この世に生を受けたときから運命は第三者の手によって決まっていたのだろう。
 梅雄の長子は萩之丞であるはずだが今となっては付きまとう身分の所為でそれも実質逆転していた。
 期が熟するまでの番犬として、お飾りに過ぎない置物として、三妻の子として。

「──呑まん、と言ったら?」

 永遠か一瞬の間、確かに橙と紺の交入る宵の初めは切り取られた。
 萩之丞の応えに梗一郎は目を見開いた。
 ちゃぷり、と池の鯉が尾鰭を振る音。湿った夜風が土足で転がり込み畳を撫でる。
 そうして嘲笑するように口角を歪めた。

「はは……ご冗談を」

 梗一郎は乾いた笑みを貼り付けまま微かに表情を歪ませる。

「白蛇会からの令は絶対です。それが分からないあなたではないでしょう」

 しかし半ば焦ったように続ける梗一郎に被せるように萩之丞の声が遮った。

「蛇を宿す覚悟の無い手前が組を継ぐとでも」

 夜と夕の境を震わせる低音。
 先程まで気にも留めていなかった肩口から覗く波と萩の見切りがやけに目に付いた。
 梗一郎の顔から笑みが消える。
 言葉遊びの類いでも何でも無い、文字通り蛇に睨まれた蛙のように身動きどころか呼吸すら苦しい。

「笑わすのう……花冠被っただけで地獄歩けるっちゃあ思い上がりも甚だしかろうが」

 殺気を伴う眼光に竦み上がるような心地だった。
 蜷局を巻いた蛇のように萩之丞は梗一郎の瞳を見据えている。
 紛れも無い宣戦布告、もう後戻りなど出来ない不退がその瞳には青く燃えていた。
 気迫に飲まれるそうになるのを堪えて咳払いを一つすると、梗一郎は絞り出すように言った。

「無駄足だったようですね……あなたがその気なら戦うしかありません」

 そう言い残すと梗一郎は立ち上がった。
 刻一刻とその顔色を変えていく空の端にはもう夜が浸食していた。座布団の凹みには闇と影がとっぷりと溜まっている。
 梗一郎が色濃い影法師を引き摺って部屋から出ようとする瞬間、背後から声を掛けられた。

「その気も何も無い、おれらは元からこういう運命だったんじゃろう」

 殺意を漉した諦観。
 しかし梗一郎は足を止めず、渡り廊下へと歩き出す。
 萩之丞の声だけが夕暮れの匂いと共に襖障子に染み入った。