複雑・ファジー小説

Re: What A Traitor!【第1章Ⅰ更新】 ( No.4 )
日時: 2019/01/26 17:33
名前: 日向 ◆N.Jt44gz7I (ID: on4ShBGJ)
参照: http://www.kakiko.info/upload_bbs3/index.php?mode=image&file=864.jpg



 プロトコルマナーに則った四回のノックの音で、ようやくリチャードは目を覚ました。 

「ボス、お目覚めですか」

 扉の向こうで耳慣れた男の声がした。リチャードは寝ぼけ眼を擦りながらベッドからのそりと起き上がり、重い足取りで木目が粗いドアの方へ向かう。
 彼の自室は事務所の二階部分にあたる広めの一室と屋根裏部屋を改装した場所にあった。裏口から続く階段を上って廊下の突き当たりが彼の部屋だが、会社を作ってから誰も室内に招き入れたことは無い。内装は事務所と同じように白壁を基調とした二部屋の1LDだった。寝室にはキングサイズのベッド以外何も置いていない。
 ダイニングキッチンは陽取りの大きな窓のある、しかしこぢんまりとした造りだった。
 普段は専ら外食で済ませてしまうのだが、冷やして固めるだけのティラミス、言ってしまえばパスタを茹でて簡単に作れるソースを絡めるだけのカルボナーラ等は彼の得意料理らしい料理であるらしく、昼休憩中に従業員に振る舞うこともあった。
 中央にはダイニングテーブルと二客の椅子。しかし向かいにある椅子に座る者はいない。いつもなら眠気覚ましにコーヒーを飲むのでコーヒーメーカーのコンセントは挿しっぱなしだ。
 家具は全てイタリアのインテリアブランドのものを好んで置いた。壁紙が白なので、ベッドからクローゼットに至るまでを黒に統一している。これはイタリアンデザイン界の巨匠が手がけた、シャビーシックを謳ったスタンツァを参考にしたものだった。
 彼の拘りで玄関そばのシャワールームとトイレは別にしてもらった。例の大工は居間の部屋面積が狭くなってしまうぞ、とまた口をへの字にしていたが、一般的なイタリア人男性と比べても大柄なリチャードには伸び伸びとシャワーを浴びられない方が問題だった。イタリアの水道水は殆どが硬水なので浴槽は必要ないし、おそらく他の家庭のバスルームも同じだろうから、そこは留意せずとも良かった。
 ドアの材質は世界的にも銘木と名高いウォルナットだ。勿論リチャードが選んだ材質で、ウォルナットは高価なギター等の楽器のボディに用いられている材木であり、四度のかの打撃音はよく抜け、芸術的に彼の部屋に反響した。しかも木の性質として比重が高く硬い材質であり、亜鉛メッキ鋼板を心鉄としているため並大抵の装備でドアを破られる心配はほぼ無い。
 四十路の男の部屋に果たして強固な扉が必要かどうかは議論の余地があるが。しかし彼の【職業】上どうも恨みを買うことが多く、扉を堅固なものにする必要があったのだ。
 目覚まし時計や携帯のアラームなどを使ってはみたのだが、このノック無しでどうにも上手く起きられた例しがなかった。
 ロックを解除し、チェーンを外し、ドアノブを回して、扉を押すとそこには見慣れた唇を引き結んだ男がいた。

「お早う御座います、ボス。さぞお眠りになられたでしょうね」
「——む。浩文ハオウェン起きてたぞ……」                     

 彼の名前は胡 浩文(フー ハオウェン)といい、リチャードが営む会社の従業員である。
 漢族系中国人である彼は、意志の強さを表す太い眉に、険のある光を湛えた瞳を持っていた。
 34歳とリチャードより少し若いが彼が出張などで事務所を留守にするとき、あるいはリチャード抜きで社員らが外部に出向くときは、専ら浩文がリーダーシップを取り社員らをまとめてくれたものだった。
 そんな彼の性格もあって、リチャードは彼を信頼し、このようについつい甘えてしまうところもあった。ホセとのやり取りでもそうだったが、毅然とした態度で部下と接する事の出来ない自分は人の上に立つ者として向いていないのだろうか、と時々考えることもある。しかしそんな時は決まって浩文が自身のサポートに回ってくれた。朝に弱いリチャードを起こしに来るというサービスは、浩文の業務の中に入っていないのだろうが。

「……信用なりませんね」

 彼の几帳面でいて生真面目さを示すような、フレームレスの眼鏡越しの光はリチャードを射貫くようだった。艶やかな黒髪は短く整えられ、眉にかからない前髪は中央で分けられている。黒のスーツを一切の着崩し無く着込んでおり、まさに真面目勤勉なビジネスマンを体現したような男だった。
 浩文はわざとらしく咳払いをしながら、自らの腕時計の文字盤を見遣る。リチャードは肩をすくめながら、玄関から見える所にあるダイニングの壁掛け時計を振り返ると、10時を過ぎたところだった。
 そして浩文はフレームレスの眼鏡を人差し指で押し上げると、穏やかにリチャードに告げた。

「とりあえずは服を着て下さいませんか。お客様が下でお待ちです」

 就寝時、リチャードは服を着て眠れない。

******

 全ての準備を整えて、階下へ降りると妙な喧噪が耳を衝いた。南米訛りの強い英語、そして時折混ざる口汚いスペイン語のスラング。浩文の言う【お客様】は先日連絡を受けた、件の男であることは想像に難くなかった。
 リチャードは少し事務所のドアを開けると、案の定ソファにふんぞり返る男が目に飛び込んできた。何を言われたのかは分からないが、ホセは眉を吊り上げたまま紅い顔をして、自らの上司であるはずの男の顔を睨んでいる。

「ディンゴ」
「——ン? アー、リッキー。わざわざ来てやったのに手前のお出迎えが無えとはナァ」

 褐色の肌、無造作な漆黒の巻き毛、服の上からでも判るしなやかな筋肉を持つ肢体、そして左頬にある袈裟懸け状の大きな傷。
 メキシコのアカプルコに拠点を構える巨大麻薬密売組織【アカプルコ・カルテル】の幹部ディンゴ、正にその人であった。
そしてリチャードの経営する会社【トーニャス商会】もまた裏社会に暗躍する犯罪組織の一つである。表向きは地元の猟師向けに弾薬や猟銃を扱う火薬卸売り業者としての顔を持っているが、その実態は金さえ払えばどのような仕事でも代行する闇の代行業者だった。
もともとホセは商会の人間ではなく、カルテルの構成員である。カルテルのとある部署直属の上司であるディンゴによって単身イタリアに飛ばされたのだった。

「よく来てくれたな、メキシコからここまで遠かっただろう」

 リチャードはディンゴの対にあたるソファに深く腰を下ろした。浩文に目配せをして、応接室での商談の際、欠かせないブラックコーヒーを用意してもらう。
 ディンゴは傍らに控えていたホセの首根っこを捉えて、残った方の手でホセの髪をがしがしと乱暴に撫でた。ホセも必死にディンゴの腕から逃れようと応戦するも圧倒的な体格差の前に、喚くしか策が無かった。残念なことにホセにはディンゴとも約30センチの身長差がある。
 暴れるホセを意にも介さず、ディンゴは舌打ちを一つして、リチャードに光の無い三白眼を向けた。

「ペペちゃんから聞いちゃあいたが、本当にド田舎だナァ。ローマの空港から一体どれだけ車を走らせたか分かってンのか? 仕事終わりの娼館は無いしヨ、クソッタレ。オレは羊を犯す趣味は持ち合わせが無えンだ。——っとそんなに邪険にするなヨ、ペペちゃん。これでも一年ぶりに会えて嬉しいんだゼ?」
「ペペちゃん?」
「知らねえのカ、向こうでのホセの愛称だヨ」
「いやそれは分かるが」
「ピンガ!(くそ!) おいディンゴてめえ、その名前で呼ぶんじゃねえ!!」

 ようやくディンゴの情熱的な再会の挨拶から解放されたホセは、彼の腕を振り払うと、乱れたヘアセットを直し始めた。ぶつくさ文句を言いながら、耳の横で鮮やかな赤を留めている黒のアメピンを六本全て外して、差し直す。これをもう片方でもう一度。
 一方のディンゴは悪戯っぽい笑みを浮かべ、満足げに腕を組んだ。いつもはキーボードの押下音しか響かない事務所だったが、彼ら二人が揃うと全く別の空間に変わったようだった。

「ウチのホセはお前ンとこで上手くやってるカ?」
「ああ、よく働いてくれている。こちらでの仕事の覚えも早いしな」
「そりゃ良かっタ。もう少し熟れたらアカプルコに返してくれよナ」
「——チッ、気色悪いな。オレは極東の見世物パンダじゃねえんだぞ、クソ」

 この眼前の男が一体何を依頼しようというのか。あれこれ考えを巡らせているうちに、浩文は恭しい動作で一杯のコーヒーをリチャードの前に置いた。

「ボス、コーヒーです」
「ありがとう、浩文」

 浩文は軽く会釈して立ち上がると、背筋を伸ばしてリチャードの傍に控えた。
 浩文の淹れたコーヒーを一口含むと、挽きたてのキリマンジャロコーヒーの香ばしい香りが鼻腔を通った。このコーヒーはタンザニア出身の女性社員が勧めてくれたものなのだが、彼女は現在有給をとってフランスへ旅行中だった。
 リチャードは陶器のソーサーにカップを置くと、やはり未だホセとじゃれ合っているディンゴに言った。

「娼館は無くとも、美味いテキーラが呑める店は紹介してやるさ。……さてそろそろ商談を進めようか、ディンゴ」
「——ン? アー、そうだナ」

 ディンゴはホセを構う為に斜め後ろに向けていた体を、正面に戻した。そして足下のメキシコから持参した黒のアタッシュケースを、二人を挟むガラステーブルに乱暴に置く。
 ガツン、と派手に甲高い音がしたのでリチャードは机に傷が付いていないか表面を擦って確かめた。幸い傷は付かなかったが、リチャードは金に縁取られた群青の瞳の険を強めてそれを見咎めた。

「気を付けてくれ。テーブルが割れる」
「いちいち細けえヨ、リッキー。ジジくせえ事言うなっテ、オレ達まだ40だゼ?」
「お前は43じゃないか……」

 リチャードへの返事の代わりに、ディンゴは唇を舐め、おもむろにアタッシュケースのロックを解除し始めた。通常二カ所しか施錠箇所の無いケースである筈だが、ディンゴの持参した代物はやけにロック箇所が多かった。
 全てのロックを解除し終えたディンゴは一息つくと、入れ物の蓋を開けた。丁度蓋が邪魔でその中身は見えないが、ディンゴは目視で何かを数えている様子だった。時々唸ったりして頭を掻いたりしていたが、暫くすると、ちゃんと揃ってるなと彼の母語で呟いた。ディンゴはケースを180度回し、リチャードらにその中身が見えるようにする。
 そこには思わず目を疑うような金額の米ドル紙幣が、その価値を収めておくには余りに小さな入れ物の中で鎮座していた。
 
「リッキー、前金10万ドルだ。【アカプルコ・カルテル】のソルジャーになれ。【アダムズ・ビル】に牙を突き立てろ」


 今度は耳を疑った。