複雑・ファジー小説
- Re: What A Traitor!【第1章Ⅳ更新】 ( No.6 )
- 日時: 2018/03/08 13:50
- 名前: 日向 ◆N.Jt44gz7I (ID: Ueli3f5k)
- 参照: http://www.kakiko.info/upload_bbs3/index.php?mode=image&file=866.jpg
Ⅳ
トーニャスの夜は早い。
日の入りと共にこの町は眠りにつく。羊飼いは子飼いの群れを小屋に押し込め、農夫は農具をそのままに、出稼ぎに出ていた者は一直線に帰路を辿る。
山から吹くおろし風に、足りない袖で手の甲を隠し、前屈みに歩みを進める人々。
都会のように深夜でもブルーライトの染み出る高層ビルが無ければ、けばけばしく輝くネオンサインなどこの村には無い。極めつけに少し郊外に出れば、街灯すら無いような田舎町だ。
あるのは澄み渡る冷気、綺羅燦然たる満天と、山向こうから遠鳴りする獣の声だけである。
しかし、煉瓦造りの奥深くのまた奥深く、この町唯一の酒場は宵っ張りだった。
看板など出ていないし、一見すると穀物庫と見紛うほどの飾り気の無さで、人の気配も感じられない。しかし酩酊をもたらす蜜の香りに、どうしても人は惹かれるもので、景気は上々らしい。その内情はというと、マスターたった一人で店を切り盛りしているようだ。年若い男店主ではあるが、作る酒の美味さや接客に定評がある。
今夜、知る人ぞ知る隠れ家【BAR:F】は二人の男によって貸し切られていた。
「ククク……リッキー、まさかあーンな安い挑発に乗ってくれるとはナァ?」
褐色の無骨な指がショットグラスを揺らした。
ライムを摘まむ力を込めすぎて果汁が滴るのも気にせず、犬歯で果肉を迎える。
案の定、噛み潰した酸味が彼の引き攣った左頬を濡らした。
「お前の口車に乗せられたわけじゃないさ。単に10万ドルを溝に捨てるのは惜しいと思っただけだ。最近はどうもしょっぱい仕事続きでな……この前は経費込み4万ドルで古美術贋作20点の運搬だった。梱包代にすらならないだろ」
語尾に棘を残して、ワイングラスを傾けた。
グラスに注がれているのは【チェラスオーロ・ディ・ビットリア】と呼ばれる、彼の故郷であるシチリア島でしか造られないワインである。
彼はタンニンは控えめだが果実感のあるこの銘柄を好んで嗜み、シチリアビーチを吹き抜けるような華やかな香りを楽しんだ。
間接照明の暖色灯がグラスを通って屈折し、葡萄酒が揺らめく度に、漣が海底に落とすような陰影を描く。
「ナァおい、リッカルド」
「その名前で呼ばないでくれるか」
カウンターテーブルに備え付けられた椅子一つ開けで並んで座った彼らは、互いに目も合わさずに言葉を交わした。
リッカルド——彼は、久々耳に飛び込んできた音に眉を顰めずにはいられなかった。
この男にいつ零してしまっていたのだろうか、と少し鈍った脳内を一通り探ったが全く記憶に無い。何しろいつも先に悪酔いするのは自分ではなく、この連れの男だったからだ。勿論吐かされた記憶も無い。
一つ飛ばし隣に座る連れの男、ディンゴはテキーラのショットグラスを一気に煽った。
「商会のヤツらは知ってンのか——オメーがビル出身てえのをヨ」
暫し静寂が訪れる。
しかし昼の刺すような沈黙では無かった。互いに引き金に指は掛けておらず、白鞘は収めたまま握っていない。
バーカウンター向こう、仕切りで見えないアイスペールが甲高い音を立てた。
「何だ急に。——誰にも言っていない。伝えるべき理由がどこにも無い」
リチャードは肩にかかった金髪を払って、背に流す。
過去に【アダムズ・ビル】の構成員だったこと、それをファミーリャの商会員全員に秘匿していること。それは事実だった。
【トーニャス商会】の中で互いの過去を詮索するのは暗黙の相互理解の元、禁則である。しかしリチャードは雇用に至る過程で、大まかには全員の経歴を把握している。一応の立場上と、禁則から、自らの過去を尋ねられることなどまずあり得ないが、小狡く言わないつもりではいた。否、ビルにいたことぐらいは吐くだろう。しかしそれ以上は。
ディンゴはただ低く鼻を鳴らして、グラスの縁の岩塩を指ですくい取って舐めた。
しばし空のグラスをぼうっと見つめていると、店主が店の奥から戻ってきた。
「ボス、ディンゴ様、申し訳ありません。セラーの手入れをしておりましたら……グラスが空ですね、何かお作り致しましょうか?」
【BAR:F】のマスター、エフスティグネイ=アハトワ。彼は中華系ロシア人である、ファーストネームが少々長いので、常連客には親しみを込めて、エフと呼ばれている。
エフは糸目を更に細めて、蠱惑的に口角を上げた。
薄暗い店内では分からないが、照明に照らされると薄く緑色に染めた髪の毛がよく映えた。黒く塗られたネイルが艶やかに光っている。エフ自身取り立てて美形というわけでも無かったが、中性的な顔立ち、品を感じる所作や、心得たその言葉遣い全てがバーの空気を妖しく彩り、ひたすら気分を酔わせた。
ディンゴは腕まくりした袖から伸びる両腕に視線をよこした。何故なら、エフの浮かべる柔和な表情には、およそ似合わない豪快なトライバルタトゥーが彫り込まれていたからだ。
そして汗ばむ上腕部にもうっすらと蛇のような、稲光のような、漆黒の紋様が浮かび上がっていることに気付いた。
「アンタも堅気の人間じゃねーのカ」
ディンゴの無粋な質問にも、エフは微笑んで答えた。
「ふふ、ご名答です。以前はモスクワのチェルタノヴォにいました。一般のお客様がいらっしゃる時はきちんとカフスボタンまで留めるのですが、作業中どうも暑くなってしまって……お気に障りましたか」
ディンゴはエフが言い終わらないうちにカウンターに突っ伏して、軽く手を振った。
「いンや、珍しくもねーヨ。それよりもテキーラの追加ダ」
リチャードは倒れ込むディンゴを横目に、エフに目配せをした。
「エフ、彼にあれを出してくれ」
「はい、ボス。ディンゴ様少々お時間頂きます」
エフは首肯すると、再び店舗の奥に引っ込んでいってしまった。
アレって何だヨ、とごねるディンゴにリチャードは目もくれず、煌めく数々のボトルを眺めていた。このバーにはキープしたボトルが何本もあるが、来店するそのたびに新しいイタリアンワインが入ったのだと聞くと、どうにも堪えきれずに、試飲と銘打って、気付けば何本も自分のものにしてしまっている。
想像よりも早くカウンターに戻ってきたエフは、白いラベルの貼られたテキーラの透明な瓶を手にしていた。
その瓶を訝しげに見つめていたディンゴだったが、二度ゆっくり瞬きをすると、カウンターに両手をついて勢いよく起き上がった。
「カスカウィンのタテマドテキーラじゃねーカ!? どうしてこんなド田舎にあるンだ……?」
「ふふ、全世界に約850本しか無いと言われている希少なテキーラでしたね。詳しくはお伝えしかねますが様々なツテを辿って入手致しまして……今お開けしますね。ディンゴ様、チェイサーはどうなさいますか?」
「ア? そんなモンいらねーヨ」
伝統製法であるタテマド製法で作られるテキーラを造る蒸留所は、テキーラの本場メキシコでも一件しか存在しない。
その上日々造られ、熟成を経た後に店頭に並ぶテキーラとは異なり、決められた日にしか釜が開かないのもその希少性を高めている大きな要因である。
待ちきれずに語気を荒げるディンゴを、リチャードは嘆息しながら見咎めた。
確かにディンゴの肝臓は鋼鉄で出来ているかのようで、悪酔いはするものの、彼の二日酔いに悩む姿は見たことが無かった。
しかし養生するに越したことは無い。
「もう俺達も若くないんだぞ……エフ、彼にはコロナビールを頼む。——そういえば今日メアリーは来ていないんだな」
「何しろ平日ですので。まだまだお酒の飲めるお年になられたばかりなので、自重して頂きませんと。流石に毎日いらっしゃるようなら、カルアミルクではなくヤギミルクをお出ししなくてはなりませんね」
メアリーとは、よくこの酒場で出会う女性だった。
女性といっても、未だ化粧の仕上がりや顔立ちは幼く、聞くところによると大学生ということだった。
とにかく情熱的な女性で、その容姿といい一度会ったら忘れることが出来ないのだが、平日の今夜はいないようだ。
「アー美味え! この燻製感がアニェホとも違うナ」
ディンゴは一気に空けたショットグラスをカウンターに叩き付けた。
エフは眉一つ動かさず微笑みを湛えたまま、ディンゴが乱暴に置いたグラスをそっと回収し、ライムと塩を縁に添えた新しいグラスを置いた。
「申し訳ありません、まだお伺いしていませんでしたね。ボスは何になさいますか?」
リチャードは暫く考え込むような仕草を見せた。
衝動的にスピリタスのストレートを、とも言いたくなったが、もはや悪乗りをするような歳でもない。
「ん、ああ……それなら『フレンチコネクション』を頂こうかな」
「はい、畏まりました」
「あンだよ、当てつけカ?」
『フレンチコネクション』というドリンクは、1971年制作された映画が元に創作されたカクテルとされている。
果実感のあるまろやかなブランデーと、イタリアを代表するリキュールであるアマレットから主に作られ、リチャードは『フレンチコネクション』の甘いが硬派な口当たりに癖になった。
映画の大まかな内容としては、ニューヨーク市警の刑事がフランスの麻薬密輸犯罪を追うという物語なのだが、そのことは完全に失念していた、成る程ディンゴが噛み付くのも分かる。
「はは、違うさ。お前まさかもう酔ったのか」
エフはミキシンググラスに氷を入れ、それから水を八分目まで入れてかき混ぜた。こうすると氷が溶けにくい球状になり、ミキシンググラス自体も冷え、美味しく作ることが出来るのだとエフは言っていた。
冷却用の水を捨てる際に付属のストレーナーと呼ばれる蓋で氷が出て行かないようにしてから、グラスを傾ける。
そして、あらかじめ氷で冷やしておいたロックグラスの中身を捨て、飲み口を拭き取った。
エフにとっては何気ない一連の動作が、リチャードにはどうしようもなく美しく感ぜられた。
彼との出会いもまた血腥いものだったな、とアマレットの香りに思いを馳せずにはいられない。
「ンな訳ねえだろ。——リッキー、ペペちゃんの事だけどヨ」
彼の言うペペがホセの事だと結びつけるのにはどうも時間がかかった。
「何だ」
ディンゴはコロナビールに少し口を付けて、何かを考えるように三白眼を右上へ泳がせた。
それから頭をがしがしと掻いて、少々灼けた声で唸る。
再びビールに口を付けると、一気に半分まで飲み干した。
「やっぱアイツはメキシコに連れて行けねーワ」
カクテルは疾うに完成していたが、混ざりあった液体は互いの香りを打ち消し合うように、その香りを霧散させていた。
Ⅳ